もう王子様なんていらない(『マレフィセント』、『アナと雪の女王』、『オーロラプリンセス』)

(7月5日公開の映画『マレフィセント』について書いています)
(ネタバレは書いていませんが、前情報一切無しで観たいという方はアレしてください)







 ウォルト・ディズニー社は、二作続けて『アナと雪の女王』『マレフィセント』という、社会から疎外された孤独な魂のあり方を描く作品を送り出してきた。
 『アナと雪の女王』は、デンマークの童話をもとにしたアニメ映画。触れたものを凍らせてしまう異能の王女・エルサが一時的に世間に背を向けて孤立することを選ぶも、最後には妹の愛に救われ、王女としての職責に戻るという物語だった。氷という自分のハンディキャップも、国をよりよくするために使えるという明るい展望を見せていた。人と違うということはマイナス要素ではなく、人と違うからこそ出来ることがあるのであり、社会はそんなマイノリティを受け入れるよう変革してゆくべきだ、というメッセージがあった。

 グリム童話をもとにしたアニメ映画『眠れる森の美女 (1959年)』の前日譚・およびリメイク作品である『マレフィセント』でも同じ「社会から疎外された孤独な魂」が描かれている。しかし、『アナと雪の女王』とは全く異なる展望が示されている。
 両作品は対称的であるとすら言える。『アナ〜』がキング牧師なら、『マレフィセント』はマルコムXと言える。『アナ〜』がプロフェッサーXなら、『マレフィセント』はマグニートーと言える。
 ネタバレになるので核心的な内容には触れないが、『アナ〜』が「マイノリティな人間と共存できるように社会も変わっていきましょう」という作品なら、『マレフィセント』は「マイノリティなどと言うが、人間は誰でもどこかしら変わっていて、歪んだ面を抱えているのだから、誰もがその暗部と向き合うべきだ」という作品だと言える。

 ここで留意してほしいのは、『アナ〜』で扱われている社会(=国)は現実のそれと地続きだが、『マレフィセント』での社会(=人間と妖精の国)は現実とは異なり、極言すると世界そのものが人間の内面世界として機能しているということ。欲望にとりつかれた人間・魔法の力を持つ妖精というふたつの種族はそのまま人間が抱える二面性として機能しているし、最後にはその両要素があわさることによりクライマックスを迎える。構造としては『ライフ・オブ・パイ』と似通っている作品かもしれない。

 『アナ〜』の世界には社会という確固たる基盤があって、そこで自分の特性を活かして共存できるように努力しましょう、という向きになっていた。
 対して『マレフィセント』のメッセージ性は異なる。人間が他者と違っていたりねじれていたりするのは当然のことで、完全なマジョリティなど存在しない。己の暗部と向き合い、それを受け入れることが出来た者だけが王として君臨すべきだ、というものだ。もちろん、これは現実の君主論として言われているわけではない。『マレフィセント』では国=人間の精神なのであり、通過するべき内面的な葛藤について言及されている。『アナ〜』が「世界の中の個」のありかたについて描いた作品だとしたら、『マレフィセント』は「個の中の世界」を描いた作品だ。


 個人的なことを言えば、自分は『アナと雪の女王』のメッセージを全く信用することができなかった。
 他人と違う存在も認めて、活かして、尊重していきましょう。そのメッセージはなるほど感動的だし、実際正しいのだろう。しかし、そんな都合のいい、善性で満たされた世界など存在するはずがあるだろうか? 現実の世界は、特にこの国は、他者と異なる性癖を持った人間を嘲笑い、弾劾し、規制しようとする人間ばかりではないか? 自分がマジョリティであることを盲信し、人種的なマイノリティに対して差別的な暴言を口にして憚らない人間ばかりではないか? 他者を受け入れるどころか、他者を貶めるような軽薄なまとめブログをシェアするのに精を出している人間ばかりではないか?
 『アナ〜』が唱える社会のあり方は、結局地下生活者*の言う水晶宮のようなものであり、現実と乖離したユートピアとしか思えなかった。
 たしかに特殊な能力を活かして共存できる社会、という物語は感動的だ。しかしそれを言うなら、たとえばエドワード・シザーハンズは、ハサミという特殊な能力を活かして人間社会に受け入れられたが、結局は異形ゆえに迫害されて孤立を選んだのではなかったか? 『アナ〜』によって喚起される感動めいたものは結局作り手の塩梅で、観客に自戒や省察といったものとは真逆の、反省とは程遠いカタルシスをもたらしているだけではないのか? というのが率直な感想だった。

 対して、『マレフィセント』は異能者と共存する理想的な「社会のあり方」を提示する作品ではない。むしろ人間が他者と違っているのは当たり前で、自らが抱えているねじれた暗部と向き合うべきだというメッセージ性をもつ作品だ。『マレフィセント』のオーロラ姫は、最初から闇に魅入られた人間として描かれているのがわかる。食事を用意することすらできない無能な三妖精のかわりに、魔女マレフィセントが使い魔を通して揺りかごの中のオーロラ姫に果実(というか花?)を与える場面があるが、この描写がのちにオーロラ姫の「いつもあなた(=魔女マレフィセント)の影を感じていました」というセリフに繋がるようになっている。
 書く必要もないと思うが、この揺りかごの場面は、ギリシャ神話のハデスからザクロの実を与えられて冥府の女王となったペルセポネーの物語に対応している。マレフィセントから与えられた果実によって、オーロラ姫は幼時から自らの魔なるものと共存することを学んでいたわけだ。人間界の王ステファンから育児を嘱託された三妖精ではなく、オーロラ姫に呪いを授けた張本人であるマレフィセントが姫にとって太母的な存在(作中で言うところのゴッドマザー)になるという筋書きは、原作の『眠れる森の美女』と比較しても大胆な翻案だと言える。

 しかし、『マレフィセント』が『眠れる森の美女』と比較して最も異なっている点は、「王子様」という存在の希薄さだと言える。これは一度観て頂ければ明白なことだが、『眠れる森の美女』で「真実の愛のキスで姫を救う」という役割を担っていた王子様は、『マレフィセント』ではひたすらに無力で滑稽な存在となっている。ネタバレとなるのでこれ以上は書かないが、この改変は非常に重要なことだ。

 思い入れのある方には申し訳ないが、自分は『眠れる森の美女』は現代における存在意義を完全に喪失した作品だと思っている。「力強い王子様によって救われる無力なお姫様」などという物語はあまりにも陳腐なものとして消費され尽くしてしまったし、男性に救われて家庭に入るのが女性にとっての幸福だと断じているこの物語は、とても現代のジェンダー観で歓迎される類のものではない。極めつけに、『眠れる森の美女』には40・50年代ディズニー作品(『ファンタジア』や『ダンボ』など)に特有のトリップ描写が全く出てこないので、目を楽しませてくれる要素もない。あらゆる面から見ても、『眠れる森の美女』は2014年において単なるノスタルジー以外の意味を持ちえない作品だと言える。

 そこで『マレフィセント』では、王子様という存在をほぼすべて捨象し、マレフィセントをオーロラ姫の“影”として描くことで、どの時代においても普遍的な内面世界の葛藤として昇華した。これは『眠れる森の美女』という過去の遺物を再生させること・そして旧弊な価値観に基づく物語をケジメするということの両面で大成功している。

 愛のキスでお姫様を救ってくれる王子様、などという腐臭が漂う物語の偽善性と向き合い、そして新たな物語として再生させるというイズムは、そのまま『マレフィセント』のメッセージ性と繋がっている。
 「王子様」という概念の脱構築、という要素は『アナと雪の女王』にもあった。エルサの孤独を救うのはハンス王子でもなく、朴訥な青年クリストフでもなく、妹・アナの愛情だった。ディズニーが近年において形骸化したストーリーテリングを捨て去ろうとしている、そんな志をこの二作から感じ取ることができる。


 いや、ディズニー作品だけではない。「王子様」などという旧態依然とした概念を再解釈するという試みは、たとえば『アイカツ!』の楽曲『オーロラプリンセス』の歌詞にもあらわれている。この曲の中では、王子様はお姫様を救う存在ではなく、囚われていて、あべこべにお姫様から救われる存在となっている。単にディズニーだけの傾向というわけではなく、「王子様」という旧弊なハッピーエンドの象徴を断罪し、再解釈するという意識は、全世界的に、年代を問わず共有され始めているのではないだろうか。
 思えば、以前記事を書いた『チョコレートドーナツ』*も、現実に夢物語のようなハッピーエンドなど存在しない、という事実と誠実に向き合った作品だった。もっと遡れば、「己の暗黒を受け入れる」「おとぎ話のようなハッピーエンドをはねつける」というイズムは『バットマンリターンズ (1992年)』のキャットウーマンの魂のあり方とも通じる(このブログ、何でもかんでもキャットウーマンを持ち出しすぎだと自分でも思うが、今回のマレフィセントのキャラ造形にキャットウーマンの影響を見るなと言うほうが無理な話なのだから仕方ない)。一度ディズニーを離れたティム・バートンが生み出した作品のメッセージ性が20年後の作品にも受け継がれている、という点でも感慨深い。
 
 ここまで大胆な翻案を『ディズニー創立90周年記念作品』として打ち出せるディズニーの大胆さ、そして過去を精算して新たな作品を造り出そうとする志の高さに対しては、どれだけ敬意を表しても足りないほどだ。
 思えばアメリカという国は、時代ごとに自国が抱える差別や欺瞞、セクシャリティとの葛藤、といった暗部と向き合ってきた国だった。40年代から50年代にかけてはアルフレッド・キンゼイが抑圧された性に対する報告を発表したし、クリスティーン・ジョーゲンセンが世界初の性別適合手術を成功させた。50年代から60年代にかけては黒人公民権運動があったし、ケネス・アンガーが華やかな映画界の醜悪な裏側を暴いた『ハリウッド・バビロン』を出版したのもこの時期だった。60年代から70年代にかけてはフラワームーブメントやニューシネマといったカウンターカルチャーが生まれたし、ストーンウォール暴動やハーヴェイ・ミルクのように性差別と戦う人々も生まれた。ウォルト・ディズニー社もそんなアメリカの時代変遷の只中で息づいてきた。今回『マレフィセント』という脱・ディズニーとも言うべき作品が生まれたのも、「自らの暗部と向き合う」ということを続けてきたアメリカの精神の産物なのだと思う。

 もう、王子様などというハッピーエンドの象徴などいらない。必要なのは夢物語に耽溺することではなく、自分の内側にある暗部と向き合い、受け入れ、それを物語ることだ。その体験を経なければ国(=内面世界)は永遠に分裂したままだ。そんな誠実なメッセージを凄まじい映像美とともに叩き付ける『マレフィセント』は、ディズニー史・映画史ともに重要な「事件」として記憶されることになるだろうと思う。

 クソ真面目ぶったことを長々と書きましたが、アンジェリーナ・ジョリーが白い歯を剥いて笑う表情のヤバさを見るためだけでも1800円払う価値のある映画です。あと序盤の戦闘シーンが超カッコいい。ぜひ劇場で観ましょう。ちんこちんこ。

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