I've Defected (映画『チョコレートドーナツ (Any Day Now)』)

※映画『チョコレートドーナツ (Any Day Now)』の核心的ネタバレを含みます
 鑑賞後の閲覧を強く推奨します












『チョコレートドーナツ (2012年)』の登場人物(ゲイカップルのルディとポール、そして破綻した家庭で育った少年マルコ)はそれぞれゲイ、ダウン症、というマイノリティの側面を持つ。それゆえに周囲の心ない偏見・差別・阻害にさらされるわけだが、実はこの映画が収束するラストと、主人公たちのマイノリティという要素はあまり関係がない。
 少年マルコが施設に引き取られることになるのは、ダウン症であったからということが理由ではない。ろくでもない男を連れ込んで、シャブをキメてセックス三昧という母親のもとに生まれてしまったことが原因で、マルコの基質的なハンデとは直接関係がない。

 少年マルコは、ドラッグ所持でしょっぴかれた母親の代わりにゲイカップルであるルディとポールのもとに引き取られて暮らすことになるわけだが、後半では出所した母親のもとに引き戻される。ここではポールをゲイだという理由で解雇した弁護士がマルコの母親に袖の下を握らせたことが暗示されている。こうして結局マルコは、クスリ漬けの母親との生活を続けなくてはならないという最終判決を降される。

 ——もう、この世界に自分の居場所はない。ルディとポールは実の親のような愛情を注いでくれたけれど、もう戻ることはできない。自分に残されたのは、冗談みたいに破綻した冗談みたいな家庭だけだ。この家が自分の終着点なのだ。ルディは寝る前にハッピーエンドのおはなしをしてくれたが、それは結局おとぎ話で、自分の世界にはなかった。
 ——もうこの世には、自分の居場所なんてない。それならば、こんな世界からはさっさとおさらばだ。

 自らの地獄を受け入れたマルコは、夜の街へと抜け出し、三日間放浪したのちに衰死する。
 
 『チョコレートドーナツ』のマルコの死は、言わば『大人はわかってくれない (1959年)』『ある日どこかで (1980年)』の合わせ技とでも言うべきものだ。

トリュフォーの『大人はわかってくれない』のラストは、感化院から抜け出した少年が海へとたどり着き、現実と向き合うことを余儀なくされたことを強調する少年の顔のアップのシーンで終わる有名なものだが、『チョコレートドーナツ』のマルコは誰にも知られることなく死を選ぶ。彼にとっての「家族」とは血のつながった母親のことではなく、ルディとポールのことだった。しかし法的に引き裂かれてしまったあとではもう会えない。そこでマルコは、かつてゲイカップルのもとで過ごした「人生最良の記憶」だけを抱えて死ぬことを選んだ。
 この「人生最良の記憶」を胸に現世からおさらばするイズムは『ある日どこかで』のラストを思わせる。時空を隔てて愛を交わした女性と一緒になるために死ぬ、つまり愛する人と死後に結ばれるために浮き世にすっぱりと別れを注げる、という『ある日どこかで』の結末と、『チョコレートドーナツ』でのマルコの最期は「もう見るべきものはすべて見たし、こんな現世に用なんかないからさっさと離脱しよう」という潔さで共通する。

「おとぎ話とちがって、ハッピーエンディングなんて存在しない」ことを受け入れ、自分を苦しめることしかしない現世に背を向ける、という選択はもちろん『バットマン・リターンズ (1992年)』のセリーナ・カイルの地獄とも共通する。「ハッピーエンドのふりなんかよしてちょうだい」とブルース・ウェインが提案する理想の生活と現実の地獄との断絶を明らかにするセリーナと、ルディが話してくれたハッピーエンドの物語と現実の地獄との断絶を受け入れるマルコは、同じ深淵と向き合っている。


 マルコが「家族」を巡る絶望を受け入れ、そして自ら選んだ死は、いわゆる「泣ける映画」としての『チョコレートドーナツ』を印象づけるものだろう。
 しかし、自分はマルコの死が悲劇的なものだとも、感動的なものだとも、悲観的なものだとも思わない。マルコの選択が胸を打つのは、どこまでも誠実な本当のことを言ってくれているからだと思う。
 すなわち、「健常者だろうとマイノリティだろうと、この世に生まれた時点で理不尽の中で生きなくてはいけない。心ある誰かと暖かい思い出をつくることはできるかもしれないが、おとぎ話のようなハッピーエンドは起こりえない。この袋小路から抜け出したいなら、もう潔く“離脱”するしかない」という真実だ。
 これはシニシズムでもペシミズムでもない。地上で当たり前に起こっている地獄に対する誠実な視点だ。事実、マルコのように破綻した家庭に生まれて理不尽な最期を迎える童子のケースはどこにでも溢れていて、もはや新聞の三面記事にしかならない(映画のとおり)。自分が生きているのは冗談みたいにヒドくて冗談みたいに理不尽な冗談みたいな世界だ、やれやれ、なんてこった! というイズムは、ヤコペッティが開拓したモンド映画の視点(長くなるので高橋ヨシキ氏の著書『悪魔が憐れむ歌』を参照のこと)、あるいはアラン・ムーア『The Killing Joke』のジョーカーが目覚めた哲学*とも共通する。
 ここまで本当のことを描き、ここまで潔い最期を受け入れてしまえるマルコを見て、涙を流す気にはなれない。むしろこれほどまでに誠実に世界のクソさを受け入れ、同時にすっぱりと離脱してしまえるマルコのカッコよさ(不適切な表現だと言われるかもしれないが、事実そうなのだから仕方ない)を前にしては茫然自失してしまうしかない。

 そういう意味で、『チョコレートドーナツ』はいわゆる「泣ける映画」では全くない。自分が生きている地獄を受け入れ、そして潔く“離脱”するという選択の尊さ・正しさに打ち震える映画だ。
 マルコの死は、決して悲劇的には終わらない。かつて家族として過ごしたゲイカップルのルディとポールは、これからも世間に蔓延する差別と戦わなくてはならない。自分たちになら助けることができたかもしれなかったマルコの理不尽な死を前にして、ルディとポールの二人も「やれやれ、なんてこった!」の哲学を獲得した。彼らはしばらく現世に踏みとどまり、ハーヴェイ・ミルクに代表されるような70年代に生きるセクシャルマイノリティとして戦いつづけるだろう。その苦い後味は『セブン (1995年)』のラストにおけるモーガン・フリーマンの台詞とも通ずる。

 そういうわけで、『チョコレートドーナツ』は単なるお涙頂戴の映画ではない。いま生きる地獄を自覚し、受け入れたなら、さっさと離脱するべきだという「本当のこと」を描いた映画だ。同時に、ルディとポールのような、生きて理不尽と戦いつづけるという苦い選択も描いている。誰かの死によって地獄のような生にせめてもの意味が与えられる、というテーマは普遍的だ。しかし、やはりマルコの潔い“離脱”の哲学は、ダラダラと現世に生きている自分のような者を魅了せずにはおかない。
 オマー・ロドリゲス・ロペスとセドリック・ビクスラー・ザヴァラも、親友であるフリオ・ヴェネガスの“離脱”に着想を得て『De-Loused in the Comatorium』を完成させたのではなかったか。『Cicatriz ESP』で歌われていたのも、袋小路の現実から跡形もなく“離脱”することへの憧れではなかったか。


  when they drag the lake there's nothing left at all
  I've defected
           The Mars Volta - Cicatriz ESP

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