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音楽ドキュメンタリー映画をつくるということ (『ザ・ストーン・ローゼズ : メイド・オブ・ストーン』)



 シェーン・メドウズ監督のドキュメンタリー映画『ザ・ストーン・ローゼズ : メイド・オブ・ストーン』を観た。
 音楽ドキュメンタリーとしてあまりにも完成度が高く、なにより端正な作品だったので、そのことを書こうと思う。

 『メイド・オブ・ストーン』は、実在のロックバンドストーン・ローゼズが再結成を経て、収容客数7万5千人のヒートン・パークでのライブを成功させるまでの軌跡がおさめられたものになっている。この作品が音楽ドキュメンタリーとして優れている点は明確にいくつかある。それらを順に追っていきたい。


◆なぜ著名人が一切登場しないのか
 音楽ドキュメンタリー、とくにロックバンドを取り扱った作品においては、「影響を受けた後続のアーティストたちがそのバンドがいかに偉大かを語る」というパッセージが常套的に用いられる。
 たとえば『アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち(2009年)』では、冒頭でメタリカやスラッシュなど錚々たる(商業的に成功した)顔ぶれがアンヴィルというバンドの先進性について語る場面があったし、『Jeff Buckley : Amazing Grace(2009年)』『ラッシュ ビヨンド・ザ・ライテッド・ステージ(2012年)』においても、親交を持つアーティストがコメントをするパッセージが絶えず登場する。それによって観客は音楽界におけるバンドの立ち位置を把握し、作中で語られる物語に入り込みやすくなるわけだ。

 しかし『メイド・オブ・ストーン』においては、そういった「著名人」は一切登場しない(一瞬だけリアム・ギャラガーが登場するが、彼でさえ単に一人のローゼズファンとして扱われている)。80年代後半のマンチェスターを代表するバンドであるストーン・ローゼズのドキュメンタリーとあらば、影響を受けた後続のアーティスト(オアシスやフランツ・フェルディナンドなど)に熱烈な思い入れを語らせることは簡単だったはずだ。では、なぜシェーン・メドウズ監督はあえてその描写を排除したのか?

 それは、ストーン・ローゼズという特異なバンドへの深い理解と、それを音楽ドキュメンタリーとして落とし込むことに対する映画的なリテラシーがあったからに他ならない。
 たとえば、「90年代の主役はオーディエンスなんだよ」という言葉がある。ストーン・ローゼズのメンバーであるジョン・スクワイア(Gt)が言った(とされる)この言葉に、ストーン・ローゼズというバンドの特異性が象徴されている。
 彼らは決して偉大なアーティストとして成り上がりたかったわけではなく、世界中で売れることを目指していたわけでもない。全盛期にはヨーロッパツアーも成功させたが、彼らにとっては地元・マンチェスターでいかに成功するかということが活動の第一義だったわけだ。作中での「マンチェスターで一番になろうとして、他の大都市は無視した」という言葉にもその要素があらわれている。
 
 著名人によるコメントの代わりに『メイド・オブ・ストーン』におさめられているのは、バンドのファンによる生々しい反応だ。再結成を知った無名のファンたちは、チケットを入手するために奔走したり、思い出のマーチャンダイズを抱えてバンドへの想いを語ったりする。直接的なリアクション以外にも、SNSを通した書き込みなど、あらゆるかたちでファンの反応がおさめられている。この点にこそ、前述した「オーディエンスが主役」という言葉に象徴されるバンドの特異性への理解が集約されているのだ。

 映画の中で音楽を取り扱うにおいて、「これはとてもすごい曲だ」「彼らはとても魅力的なバンドで、偉大なんだ」ということを強調しすぎると、観客との乖離を招きかねない。なぜなら音楽は体感的なもので、観客それぞれの好みによって評価も違ってくるからだ。
 とくにストーン・ローゼズのイアン・ブラウン(Vo)の歌唱力はお世辞にも高いとは言えず、観客によってはそれだけで拒否反応を起こし、映画そのものへの関心を失ってしまうかもしれない。シェーン・メドウズはその危険性を十分に理解し省察したうえで、あえて著名人にバンドの偉大さを語らせることは避け、ファンという生活と地続きの人々の反応だけを「ただ映す」という選択をした。これによってバンドの音楽自体に過大な意味を持たせず、観客に評価をゆだねることに成功している。それは同時に、『メイド・オブ・ストーン』がいかに「見られる」「見せる」ことを尊重したドキュメンタリーになっているかということの象徴でもある(後述)。


◆なぜ過去と現在の時間軸が同時進行するのか
 劇中では結成から解散まで(1983-1996年)の過去のできごとと、再結成以降(2011-)の現在のできごとが交互に語られる。なぜ一度解散せずにはいられなかったかという経緯、そして再結成した彼らがもう一度バンドとしてやり直すという過程が同時進行する。たとえばバンド全体のバイオグラフィを追ったオープニングのあとに2011年の再結成記者会見の舞台裏が映し出され、その次には1982年から続くイアンとジョンの関係性が語られる、といった具合だ。

 なぜ結成から解散、そして再結成という過去→現在の時制で構成しなかったのか? その点にこそシェーン・メドウズの真骨頂がある。監督は「バンドの物語を映画として落とし込む」ためにあえてモンタージュ技法を用いたのだ。

 映画の冒頭では、全盛期の彼らが低迷し始めたのはドラマーのレニの脱退がきっかけだった、ということがダイジェストによって示されている。
 映画の後半では、再結成後のヨーロッパツアーのアムステルダム公演にて、レニがイヤーモニター(曲のテンポを取るためのクリックが流れる)の不調に機嫌を損ね、アンコール前に観客を残して失踪してしまうという一幕がある。再結成以降順風満帆の活動を続けていたバンドは、ここで初めて危機に瀕することになる。

 ここで秀逸なのは、過去と現在という両方の時制において、「レニを失うこと=バンドの崩壊」であることが鮮烈に印象づけられていることだ。過去(1995年)のレニの脱退と、現在(2012年)のレニの不調和とが同時に語られることで、観客は順風満帆に見えたバンドの再結成が、再びレニの脱退によって無惨に崩壊してしまうのではないか、という緊張感を抱かざるを得ない。
 ここにシェーン・メドウズという監督の真骨頂がある。映画はカットの連続によって構成されるもので、前後に映されるシーンの文脈によって観客の感情をあやつることができる。ヒートン・パーク公演の直前に不穏のパッセージを持ってくることで、バンドの軌跡を映画的なクライマックスとして昇華することに成功しているのだ。

 思い出してほしいのだが、現在(2011年-)のバンドに起こったトラブルと言えば「イヤモニの調子が悪くてドラマーがゴネた」という些細なことしかない。メンバーどうしの軋轢やドラッグ問題などという、ロックバンドにありがちなフォトジェニックな騒動はここでは一切起こっていないのだ。にもかかわらず『メイド・オブ・ストーン』の後半が緊張感に満ちているのは、過去と現在の時制が巧みに織り込まれた映画的な文脈が構築されているからに他ならない。
 

◆なぜ『Resurrection』ではなく『Fool's Gold』なのか
 映画は、巨大なヒートン・パークのステージでの演奏をもってクライマックスとなる。ここでは『Fool's Gold』という楽曲の演奏がフルで映し出される。
 しかしバンドのファンならば、この選曲にいささかの違和感を覚えるはずだ。『Fool's Gold』は確かにバンドの代名詞的な曲ではあるが、「ストーン・ローゼズ」で「クライマックスを飾る曲」といえば、どうしても『I am The Resurrection』の印象が強い。『I am〜』はバンドの1stアルバムの最後に収録されている曲(Fool's Goldはボーナストラック扱い)であり、ライブでも必ずアンコールで演奏される曲だ。「復活」という歌詞が高らかに歌われるこの曲こそ、ストーン・ローゼズの再結成のストーリーを締めくくるにふさわしいはず、と誰もが思うだろう。しかし、シェーン・メドウズはあえて『Fool's Gold』を選んだ。

 この選曲は、いくつかの意味で映画のクライマックスを盛り上げるために大いに奏功している。

 まず、再結成版の『Fool's Gold』は即興演奏が曲の大半を占め、ボーカルパートが目立たない曲だということが挙げられる。繰り返しになるが、イアン・ブラウン(Vo)のボーカリストとしての技術は決して高くない。とくに『I am The Resurrection』のような、サビで音程が急に高くなる曲ではその拙さが目立ってしまいがちなのだ。対して『Fool's Gold』のメロディは比較的平坦で、声量もさほど必要とされない。ポエトリーリーディングのようでもあるこの曲は、イアンの技巧的な拙さが目立ちにくい曲と言える。

 第二に、『Fool's Gold』という曲が持つトランス的な特性がある。アルバム版ではジェームズ・ブラウンのドラムスがサンプリングされ、ハシエンダを始めとするマンチェスターのクラブ文化ではクラシックとなった『Fool's Gold』だが、再結成後のライブではジョン(Gt)、マニ(Ba)、レニ(Dr)による即興演奏が曲の大半を占める構成となっている。イアンもパーカッションとして曲に参加する。
 明らかにLed ZeppelinのWhole Lotta Loveに影響を受けた即興演奏は、テルミンのようなエフェクトがかかったジョンのギター、自由自在にグルーヴを叩き出すレニのドラムによって文字通り狂騒的なものとなる。実際にフジロックのステージでは、『Fool's Gold』のときだけは明らかに観客の反応が別様の激しさを見せていた。それはリアルタイムでバンドを応援していたファンですら初めて目にする、新しく生まれ変わったバンドの演奏であったからに他ならない。『Fool's Gold』のライブ現在の機材・編成・演奏力で聴くことは当時のファンには不可能だった。新たに再出発したバンドの姿を印象づけるためにもこの選曲は全く正しい。

 ストーン・ローゼズは基本的にはThe Byrdsのようなポップスを演奏するので、曲の構成も比較的カッチリしている。『I am The Resurrection』にもジャムセッションのようなパートはあるが、弾くべきフレーズは殆ど決まっていて、自由に弾き散らすアグレッションには少し欠ける。楽器隊が自由に即興演奏を繰り広げる再結成版の『Fool's Gold』こそが、バンドも観客も文字通りに「音楽に没頭する」ためにうってつけの曲なのだ。

 最後に、『Fool's Gold』によって「オーディエンスこそが主役」というバンドのマニフェストが映画的に完遂される、ということが挙げられる。

 クライマックスの演奏の直前に、イアン(Vo)がオーディエンスの持っていたスマートフォンを取り上げ、観客を写し、そしてレンズを自分自身に向けるというシーンがある。そこに重なるのは、ウィリアム・バロウズによる「カメラは君たちの姿を巨大なスクリーンに映し出す。さあ、レンズを自分に向けて カメラ スタート、スクリーンの真ん中に映し出せ」という詩の朗読だ。

 演奏前にこのシーンがあることにより、バンドと観客がレンズという一本の線でつながる。「スクリーンの真ん中に映し出」されたバンドの演奏を見るのはもちろん映画館の観客だが、同時にバンドの四人も映画の登場人物として「不調和をきたしたバンドが再生する」姿を見届けることになる。なぜならヒートン・パークの演奏に到るまでには、前述のとおり過去・現在を絡めた映画的な文脈があるからだ。あまりにも豊かな主客の転倒がここにはある。狂騒的な『Fool's Gold』の演奏によって、観客もバンドも映画という坩堝の中で一緒くたに鋳潰されることになる。シェーン・メドウズがモンタージュで構築した文脈がストーン・ローゼズという特異なバンドのマニフェストと合致する瞬間が、『Fool's Gold』に到る一連のパッセージに集約されているのである。これはもう驚異的としか言いようがない。

 たとえば、もっと安易にカタルシスを持ってくる方法だってあったはずだ。バンドの楽曲の力だけに頼って最後に『I am The Resurrection』を持ってくれば、「ローゼズ映画」としては完璧なものになっただろう。
 しかしシェーン・メドウズが目指したのは、単にバンドを賛美しファンを心地よくさせるものではなく、映画の特性とバンドの特異性をひとつの文脈に集約させ、観客に提供することだった。自分は音楽ドキュメンタリーとしてここまで慎ましく、端正で、なにより多くの観客へ向けて開かれているものは見たことがない。
 『メイド・オブ・ストーン』はもちろんバンドのファンが見ても十二分に楽しめる映画だが、ストーン・ローゼズを全く知らない観客にこそ観てほしい映画だ。前述した過去・現在の時制を利用したモンタージュ技法の巧みさ・豊かさはバンドのファンであるか否かなど関係なく、暴虐的な映画的文脈の興奮をもって迫ってくる。バンドが不穏な雰囲気をたたえたまま、バロウズの朗読が入り、そして『Fool's Gold』の演奏に入る一連の意味付けのカッコよさはほとんど恐ろしいほどだ。

 
 出世作である『This Is England(2006年)』にも強く打ち出されていたように、シェーン・メドウズは「仲良く付き合っていたはずのコミュニティが、徐々に機能不全な姿をさらしてゆく」という痛々しさを描くことにかけて超一流だ。その持ち味が、一度解散したストーン・ローゼズというバンドの特性と合致したのも当然と言える。
 しかし『This Is England』がひたすらに痛々しくペシミスティックであったのに対し、『メイド・オブ・ストーン』では「同じ営み(ここでは音楽)を共にすることで、かろうじて人間どうしは仲良くなれるのではないか」という展望を見せている。それはシェーン・メドウズ単体ではなし得なかったことだし、当然ストーン・ローゼズの再結成という事件の力のみによるものではない。『メイド・オブ・ストーン』の緊張と興奮が実現したのは、前述の通り、映画というメディアそのものが持つ文脈に対する深い理解と、映画で音楽を扱うことに対する省察があったからだ。

 小難しげなことを長々と書いたが、やっぱり『メイド・オブ・ストーン』は映画として本当にカッコいい。こどものようにキャッキャとはしゃぐ四人のおじさんが、ひとたびステージに上がると鬼のような演奏をやってのける、その絵面だけでもう最高なのだ。ストーン・ローゼズとシェーン・メドウズという二つの要素が映画を通してそれ以上のものを生み出したということ自体をとってもカッコよすぎるストーリーだが、やはり『Fool's Gold』に到る文脈のカッコよさは口語を絶する。
「映画は文脈ひとつだけでこんなにカッコよくなれるのか……」という新鮮な驚きをもたらしてくれるという意味でも、『メイド・オブ・ストーン』がドキュメンタリー映画として出色したものであることは間違いないだろう。

 
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