『フォーリング・ダウン』と祖国と市民

ジョエル・シュマッカー監督映画『フォーリング・ダウン(1993年)』を観た。
映画そのものは大変素晴らしかったのだが、Amazonでの当該作品を扱ったレビューにこんなもの(URL)があった。

このレビュアーは、『フォーリング・ダウン』での韓国系・日系人の描写の違いから、シュマッカー監督の日本礼賛の意図を読み取ったようだ。
まぁ、作品から何を読み取ろうとその人の勝手だ。それがどんなに的外れなものであろうとも。
しかし、この「作品の表層しか読み取っていない」どころか「作品の上澄みの部分だけをすくい取って自分の心地よい気分のために培養しただけの」レビューに吐き気を催したので、ここですべてぶちまけさせてもらいたい。

『フォーリング・ダウン』で描かれているのは、端的に言えば「50-80年代のアメリカ的民主主義の思想遍歴」だと思う。
たとえば冒頭、主人公・Dフェンスが家族に電話をかけようとするが小銭の持ち合わせがなく、売店で両替を頼むシーンがある。ここで両替に応じない韓国系店主が登場するわけだ。Dフェンスは仕方なく、50セントのコカ・コーラを買うことで小銭を作ろうとする。
しかし、コーラは85セントに値上げされていた。Dフェンスは赫怒し、店主の防衛用のベースボール・バットを取り上げて店内を荒し回る。「50年代の値段に戻せ!」「俺は泥棒じゃない、コーラの値段をぼったくったお前が泥棒だ」とまくしたてるDフェンスだが、ここでは彼が「50年代の価値観のまま思考が停止している」人間であることが示される。コーラが値上げされていたのは別に韓国系店主のせいではない。この場面に象徴されているように、Dフェンスは自らの50年代的価値観のために外部との摩擦を生んでゆき、遂には消滅してしまうことになる。

「アメリカがお前たちの国(韓国)にいくらつぎ込んでやったと思ってる!?」というDフェンスの言は、共産主義との代理戦争として韓国に介入した朝鮮戦争でのアメリカの言い分そのものだ。Dフェンスという人間は、後半でもともとは軍需工場で働いていたことが明らかになる。「共産主義を駆逐するために兵器を造っていた」という言い分は彼の母親からも漏れる。しかしその理念が招いたのは移民の増加、そして同様の名目のもとに行ったベトナム戦争での泥沼だった。アカの思想を根絶し、民主主義を「輸出」することで世界を救おうというアメリカの大義名分は、70年代中盤には既に翳りを見せていた。
Dフェンスが口走る苛立ちの言葉にも、上記の情勢が反映されている。この場面で描かれているのは「我が物顔で自分の国に居座るアジア系への怒り」などではなく、「民主主義の正義のために行ったことがすべて裏目に出てしまった」というアメリカ人=Dフェンスのアイデンティティの揺らぎだ。既に書いたように、Dフェンスの頭は50年代で成長が止まってしまっている。90年代の世相との軋轢が、彼を暴走へとかき立てていく。

ファーストフード店にて、時刻が数分過ぎただけでモーニングのメニューを供することを固辞する店員を銃で脅す有名なシーンがあるが、このコミカルなシーンでは「システム通りにしか動かない機械化された労働者」への怒りがあらわれている。Dフェンスは既に軍需工場を解雇されているが、その後釜に据えられたのもそんな労働者だったのかもしれない。そもそも、Dフェンスが機械化されてルーチンをこなすことに疑問を抱かない人間ならば、作中で描かれているような現代社会への糾弾という名の暴走に走らなくてもよかったのだ。
「メニューの見本写真ではふっくらしておいしそうなハンバーガーも、どうして実物はこんな惨めにつぶれているんだ?」というセリフには、そのまま誇大広告への怒りが込められている。ファーストフード、コカコーラ、美容整形……そんな「アメリカ的な」商業主義のオブジェクトも、彼の目には既に虚妄にしか映らなくなっている。この場面では、Dフェンスが「ノーマン・ロックウェル式の」50年代の価値観を喪失しかけていることが示されている。

そんな保守的なアメリカ人であるDフェンスだが、彼は極端に右寄りの人間というわけではない。
ミリタリーショップで靴を買う場面では、女性労働者や同性愛者・有色人種への差別を叫び続ける店主を自らの手で殺す。上っ面の優生学的なナチズムに陶酔する店主と、「極端に50年代的な」人間だったDフェンスとの差異がここで示される。
誤解されやすいことだが、ナチズムを「理解すること」とナチズムに「傾倒すること」は違う。レミー・キルミスターや高橋ヨシキ氏がそうであるように、ナチの史料を収集してもその人間が即ちナチであるとは限らない。Dフェンスは一定の教養がある故にナチズムという思想があることを理解しているが、その一側面に傾倒して潔癖な排他主義を奉じるようになった店主は狂人としか映らない。アメリカ人として「一線を越えてしまった」店主を、Dフェンスは自らの手で射殺する。そしてDフェンス自身も「一線を越えてしまった」ために、自らの死を招くことになる。

「道路工事というが、この道路のどこが傷んでるんだ? 来年の予算の請求のためだろ? こんな工事のために納税者が苦しんでるんだ!」
「金持ちが土地を占拠してクソみたいなゴルフ場を作りやがって、子供のために動物園や公園にしたらどうなんだ!」
銃器を片手に都市に溢れる欺瞞を撃ち抜くDフェンスの言は、ある意味「正しい」。既に自らが信じていた価値観を喪失し、黒の衣装を身にまとった彼には、都市にはびこるすべての欺瞞が見えてしまう。50年代的な価値観を捨てて初めて世相の矛盾が見えるようになるとは、あまりにも皮肉な展開だ。
しかし、バズーカで道路を破壊したり、銃でゴルフカートを撃ったりするDフェンスは、既に純粋な「アメリカ市民」ではない。彼は法の支配をはねつけるアウトローであり、自らの理念のために動くビジランテだ。彼は自らの告発のために一線を越えてしまった。たとえその暴走の発端が、愛娘に会いたいという人間的な欲求にあったとしても、市民としての一線を越えてしまった後では無慈悲に『退治』される他ないのだ。そのテーマは『イージーライダー』を初めとするアメリカン・ニューシネマで描かれ続けてきたものではなかったか?

映画は、警察官とのショウダウン(決闘)シーンで終わる。言うまでもなく、ジョン・ウェインに代表されるアメリカの西部劇を模した場面である。「おれもポケットに銃を持ってる」とすごんでみせるDフェンス。銃を取り出した瞬間、彼は警官に銃殺される。しかし撃たれたDフェンスの手に握られていたのは……愛娘が使っていたオモチャの水鉄砲だった。
Dフェンスは、自分が「共産主義を駆逐する」という民主主義の正義を信じて造り続けた銃が、結局オモチャのようなニセモノの正義であったことを受け入れる。そして彼の死体は、高台から海の中へと没落(Falling Down)していく。

この映画で描かれているのは、「ある時期の国家の理念を信じ込んだために、あべこべに自らの祖国における居場所を失ってしまった」人間の有り様である。Dフェンス自体を「悪」「善」と安易に断じることはできない。なぜなら彼はひとえにアメリカのために、祖国のために働いた人間だからだ。そこには白人、アメリカ人といった区別はなく、「祖国と人間」との関わりにおける普遍的なテーマが込められている。「なぜ国のために愚直に働いた人間が、そのためによそ者にならなくてはならないのか?」作中では、この問いに答えは示されず、映画が終わっても地続きのまま観客を問いつめる。

「国家を信じたゆえのアイデンティティの崩壊」という同様のテーマを描いた作品には、『ミュンヘン(2005年)』『This Is England(2006年)』『イースタン・プロミス(2007年)』『グラン・トリノ(2008年)』がある。上記のテーマは21世紀に入って一層切実な問いとして迫ってくる。「国家のためを思って働いたのに、その結果がこれなのか?」「自分の祖国とは一体何処にあるのか?」「そもそも国家とは、地上に存立可能なものなのか?」いずれの作品も、その疑問を観客に投げかけたところで終わる。その答えは観客が各々の人生で見つけなくてはならないからだ。『フォーリング・ダウン』も白人の優位を無批判に描いた作品ではないし、有色人種を差別的に描いたものでもないし、ましてや作中での韓国と日本の描かれ方の違いだけを取り上げて優越感に浸るための作品でも決してない。むしろ、作中での「彼は韓国系なんです。でも僕は日系人ですから。カムサハムニダ~」と軽口を叩く日系警察官の描写には、『名誉白人』としての地位にあぐらをかいた日本人への痛烈な皮肉が込められている。

高橋ヨシキ氏がいみじくも著書『悪魔が憐れむ歌』で書かれたように、「自分以外の有色人種を蔑視することにかけては白人にひけをとらない」のが日本人だ。冒頭で書いたように、『フォーリング・ダウン』を観ても韓国系への優越感をむきだしにして安逸を偸むだけの人間がいるのもうなずける。
はっきり言って、僕は「無批判に国家そのものをアイデンティティにして、自分が大きくなったように見せかける」タイプの人間(twitterやFacebookを見ればそこらじゅうに溢れているではないか)をDフェンスのようにバットで撲殺してやりたいし、銃で撃ち殺してやりたいと思う。しかしジョエル・シュマッカーが映画の中でその愚を描いてしまった以上、観客である僕はその轍を踏むことを許されない。フィクションが現実に対してせめてもの対抗をなすのは、その力にあるのではなかったか? 「社会の一線を越えてしまったら、もう命のやり取りしかない」というあまりにも現実的なメッセージは、地続きのまま観客に自戒と省察をうながす。「じゃあ、自分はいったいどうすればいいんだろう?」その答えのでない問いを突き付けられるために、フィクションというものは存在するのではなかったか?
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6 Comments

アホウドリ  

アホらしい
このブログの主も、ようするにアマゾンで韓国系と日系がどうのいって優越感を感じてる人間と対して変わらないなという印象しかわかなかったwww

そんなに気分が悪いのなら、わざわざ、こんなとこでグジクジと毒はいてるくらいなら、書いた本人に抗議するなりアマゾンにでも抗議してけしてもらえばいいだろうに


アホらしい

2015/08/18 (Tue) 12:30 | EDIT | REPLY |   

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映画を見たあとに読みましたが、とても勉強になりました

2016/04/03 (Sun) 16:12 | REPLY |   

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承認待ちコメント

このコメントは管理者の承認待ちです

2016/05/24 (Tue) 15:39 | REPLY |   

在日帰れ  

単純に自分は在日韓国人で韓国系が侮辱されて許せないニダーって言えば良いのに。
こんな所で火病る事しかできないとか哀れだね。

2016/08/16 (Tue) 16:56 | REPLY |   

ダイアポロン  

いやぁ酷いコメントばかりで悲しくなるなぁ

2016/09/15 (Thu) 23:46 | REPLY |   

通りすがり  

検索から辿り着きました
水鉄砲=アイデンティティの崩壊を結びつける論評は他にあまりなく、私がこの作品を通じて感じていた部分を一番的確に言語化してくれました

ここでもですが、最近は物事や論評をひどく表面的な部分でしか捉えることが出来ない方が増えてきたように思います
物事や事柄あるいは記事の一部分だけを見て、傾倒し、狭い視野のなかで自分が信じたいものだけを半ば偏執的に信じている姿が、どうにもD-FENSの生き方と重なって見えるのは私だけでしょうか

2017/08/01 (Tue) 23:52 | EDIT | REPLY |   

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