2013年映画ベスト10 & 諸々の感想

(この記事では2013年発表の映画ではなく、自分が2013年1月1日から12月31日までの間に国内で鑑賞した映画のみを取り扱っています。)


01.パシフィック・リム
01.ゼロ・グラビティ
03.きっと、うまくいく
04.ライフ・オブ・パイ
04.ジャンゴ 繋がれざる者
04.クラウド・アトラス
04.シュガーマン
08.そして父になる
09.シュガーラッシュ
10.アイアン・フィスト

 2013年の映画には「創作」そのものに取材した(ライフ・オブ・パイ、シュガーマン、風立ちぬ、ヒッチコック)、またはそういうウラ読みができる(クラウド・アトラス、新編まどか)作品が多かったように思います。
 もちろん「何かを作るっていいよね〜」というのんきな描き方ではなく、クローネンバーグが『裸のランチ』で描いたような「何処までも追いかけてくる呪いのような業」としての創作をメインに据えた映画が多く、個人的な趣向もありますが非常にビビッと撃たれた映画も多かったのでした。
 同時に、テーマが同じでも創作そのものに対する姿勢がヌルすぎる残念な映画(地獄でなぜ悪い)や、「古典の翻案までして描きかったことがそれなのか」という創作そのものに対するモラルハザードが起こってしまうどうしようもない作品(マン・オブ・スティール、かぐや姫の物語)もあり、洋・邦画の区別なく明暗別れたなという思いがあります。

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01.パシフィック・リム
 誰も頼んでないのに日本の怪獣・ロボットに最大級のリスペクトを詰め込んだ夢のような映画を作ってくれた、という何億回繰り返されたかわからないテンプレ賛辞はどうでもよくて、もうとにかく単純にこれほど楽しい映画体験を味わえたことが嬉しくてしょうがなかった。
 アバンで例のテーマ曲が流れる度にもう目頭が熱くなるし、香港の空中戦でのブレードのシーンは何度悶絶してもしきれない(個人的には「スローモーションの復権」という点でもこのシーンは印象深く、CMやMV出身のオシャレ気取りの自称映画監督どもによって汚されたスローモーションの純映画的使い方を見せてくれたように思う)。
 恥ずかしながらデル・トロ監督の映画はこの作品が初めてだったけど、フィルモグラフィを追っていくと監督のクトゥルフ的フェチズム(ぬらぬらした皮膚を持つ異形の生命体)がこの作品でも遺憾なく活かされていたのだなぁと納得しきり。
 そこからクトゥルフ的世界観を持つバンドBlue Oyster Cult、その楽曲『Goodzilla』、ああやっぱり海外の視点ではゴジラもラブクラフト作品と同列のホラーとして見られているのだな、などと連想が繋がる楽しさもあり。テーマ曲のギターにトム・モレロを起用したのも、エメリッヒ版ゴジラにRATMが曲を提供していたつながりじゃないかなぁと思う。
 こういう無関係に思えた種々の事象が一つの作品で繋がる楽しさは、やはりすばらしいものです。

01.ゼロ・グラビティ IMAX 3D
 こちらは楽しいというより常に皮膚がヒリヒリするような映画体験だった。
 もう言い尽くされてるように、冒頭の長回しの「イヤな予感がどんどん増していく」感じのイヤさといったら最高で、それらの予感がことごとく現実になって襲ってきてくれる技巧が素晴らしい。とくに3Dによって主体が「主人公」ではなく「自分」として感じられる没入感をもたらしてくれていて105分の間全く緊張感が途切れなかった(105分という公開時間も映画の尺として最高)。
 という映像的な技巧よりもむしろ、疑似父娘モノ、胎内回帰モノとしてのストーリーが自分にとっては重要だった。ちょっとしたセリフにも主人公の「父に承認されなかった」「母になれなかった」ことに対する痛恨の念が漏れていて、その古傷が父親としてのある登場人物によってぶり返されて最終的にはもう一度「生まれ変わる」描写が素晴らしい(それにしても胎児モチーフ描写のしつこさといったら)。父としてのあの人物の描写も、一方的に快癒をもたらしてくれるのではなく彼女の弱さを増長させるメフィスト的側面を備えていたのもよかった。

03.きっと、うまくいく
 お腹いっぱいになりました(小学生並みの感想)。
 映画ってこんなに詰め込んでも破綻しないんだ… という感動、というか純粋な驚きというのがあり。もう主人公たちの工科大学のくだりが終わったところでエンドロールかと思いきや「引き続きお楽しみください」ときたもんで。終わらないフルコースみたいな映画でした。
 個人的には、出産のシーンで序盤で自殺したアイツの発明とかが活かされる展開になっていたら血の涙が出たと思う。
 それを差し引いても、競争社会の中でブレイクスルーを探し求める人間のドラマとして本当に信頼できる、おためごかしでない感動がある映画だった。

04.ライフ・オブ・パイ
 『ゼロ・グラビティ』以前の映画ですが、3D映像の素晴らしさもさることながらアン・リー監督が伝えようとしたこの映画のメッセージというものがとにかく痛切で、自分にとって大事なものとなりました。
 巷間よく言われてるような「えっ、この映画ってそういう話だったの?」というどんでん返し的な見方は個人的には違うと思っていて、そんな小手先の脚本術に矮小化してほしくないと思う。
 パイは本当に動物たちと同じ船で難破し、救命船で虎と共生したのだし、人間の摂理では計り知れない島にも逢着したのだ。しかしそんな人外魔境でのオデュッセウス的艱難辛苦を越えたすえに、パイは図らずもランボーの言う見者(voyant)の視座を手に入れたのであり、だからこそ異物である動物たちの中に当事者として「物語」を見いだすことができるようになったはず。
 しかし「動物と人間にも違いはなくて、わかりあえるんだ」というぬるったいメッセージに堕しておらず、相互を「異質でコミュニケーションが不可なもの」として突き放し、異種な生命体どうしの断絶感を描ききっているのが本当に信頼できる。しかしその異質なものどうしを繋ぐことができるのがパイの見いだした「物語」なのであり、その視座がいつの間にか備わっていた彼の言語化できない動揺を自分のものとして感じることができる、その感動があのクライマックスに繋がっていたはずだ。
 そして映像的モチーフの豊かさも抜群だった。序盤の救命船でシマウマがハイエナに食い殺されるシーン、あそこにはシマウマの白黒の皮膚が血で汚されることで「これから善悪二元的な価値観が通用しなくなる」ことを暗示していたし、映画のタイトルであり主人公名であるパイ(円周率=割り切れないもの)が象徴する不合理な人生というテーマを補強していた。この映画、見終えた後でタイトル(原題)を見返した後の釈然とする感じが最高なんである。
 書けば書くほどよさが出てくるよさのありすぎるよさのある映画でした。

04.ジャンゴ 繋がれざる者
 映画として楽しかったのは当然として、個人的にはタランティーノが『イングロリアス〜』からチクチクと盛り込んでいた「言語の違いによるドラマ性」が花開いた作品だったと思う。
 ジャンゴが最後の逆転劇を実現させるのも、シュルツとの出会いによってまともな言葉を話せるようになったからであり、人物同士が相互に及ぼす影響によるアツい展開というものが実現されていた。一般的には血糊がビチャーというおおっぴらなバイオレンスに特化した監督だと思われがちなタランティーノの、作劇の丁寧さが表出した最高のエンターテイメント映画だった。

04.クラウド・アトラス
 2013年の映画の一傾向であるテーマ「それでも何かを作ることは素晴らしい」を体現する作品。
 伝記・音楽・文学など「人間が生み出したもの」によって時空を超えてリレーされる物語が総懸りでクライマックスに突入する終盤のカタルシスはやはり壮絶なものがありました。とくにベン・ウィショーくん演じる作曲家が一大交響曲を書き上げた翌朝、時計台の澄んだ朝の空気のなかで一服する場面、あそこは本当に最高。アマチュアながらも何かを創作したことのある人間なら「わかるー!」と思うんじゃないだろうか。もちろん「自由な創作万々歳、自己表現は素晴らしい」みたいなぬるったい描かれ方はされていないし、むしろ人間の業としての血みどろの営みとしての創作を描ききっていたのが本当に素晴らしい。
 多数の時系列をザッピング的に描く手法には賛否両論あると思うけど、「他の時間軸で出てきた何気ないセリフがもう一方の時間軸で重要な意味を持つことになる」という興奮が多数鏤められていたので僕は大満足でした。単なるギャグだと思っていた『ソイレント・グリーン』がまさかああいう形で回収されるとは…

04.シュガーマン 奇跡に愛された男
 ロドリゲスという男の足跡が掴めた瞬間からの「突然物語が動き出す」感じがたまらない。
 とくに復活コンサートで『I Wonder』を歌いだす瞬間をハンドカメラでとらえた、あの粗い映像の力強さといったらもう。「一対何度騙されたら気が済むんだ」という冷笑的な歌詞だった楽曲が「ロドリゲスが死んだなんて噂に騙されてたみたいだが、俺は生きてるぜ」という意味合いに反転するあの瞬間は何度見たって涙を禁じえない。そのカタルシスへ導くための序盤からの意味付けの丁寧さも最高だった。
 個人的にはロドリゲスが筆を折ったあとのランボーに見えて仕方ない。彼の生活そのものに対する敬意というか、栄達とはかけ離れたところで生きることに対するあこがれみたいなものが止まない。

08.そして父になる
 別の記事で詳しく書きましたが、セリフ・衣装・ちょっとした仕草が意味付けるモチーフの豊かさが最高でした。
 あの親子の分たれた道が文字通りに繋がるシーン、あれはドラマや小説じゃできない純映画的感動だった。

09.シュガーラッシュ
 「壊すことしかできない」ラルフの呪いのような役割が「壊すことができる」という風に反転していく物語が好きです。『ヒックとドラゴン』といい、海外アニメのエンターテイメント作品の丁寧さと言ったら本当にすごい。何より「子供向け」と「子供だまし」を混同していないのが素晴らしい。
 そんなくどくどしいことはどうでもよくて、この映画は「諸星すみれさんマジ天才」枠でこの順位です。最初の「おじさぁーん!」からペネロペというキャラクターへの観客の没入感を煽りまくる抜群の演技だったし、もうとにかくかわいすぎた。
 中盤の重要なシーンでの「これ最高… これ最高だよ!」というセリフの抑揚の付け方といったら今思い出すだけでも嗚咽するほどで、ラルフとペネロペという余計者たちの魂が初めてブレイクスルーを見つけた瞬間の喜びといったものを総身で感じることができた。
 本当にこの方のお声は世界の宝だと思うし、これからも海外アニメの吹き替えで主演級に起用して頂きたいものです。

10.アイアン・フィスト
 ウータン・クランのRZA監督・タランティーノ制作によるカンフー映画。
 RZAはパシフィック・リムのエンディングテーマにも参加していましたが、本当にこういう文化が好きなんだなぁ。
 一般的にミュージシャンが映画を作ると俺様万歳なオナニー映画に堕してしまいがちですが、この作品では自分自身をいかさない一回の鍛冶屋として描いていて、その謙譲が後半で鉄拳(物理)として生まれ変わる瞬間のカタルシスを高めていた。
 タランティーノが盛ったと思しき「強すぎる女」の要素もよかったが、何より素晴らしかったのはラッセル・クロウ演じる放埒な英国軍人。彼のキャラクター性もかっこよすぎるんだけどあの武器が最高ですよ。ナイフと銃が一緒になったやつ! あんなの男の子なら誰だってカッコイイと思うだろう! ずるい!
 『ジャンゴ』を観てシュルツのアクション的活躍の少なさに物足りなさを感じた人はこの映画を見るといいかも。


 ベスト10以外は特筆すべきことがあったら書いてます。

11.クロニクル
12.悪の法則
 「見えるグロ」と「見えないグロ」の使い分けが最高だった。終盤になるにつれ後者のグロがどんどん伸びてくるイジワルさが本当においしかった。

13.エリジウム
14.ルーパー
15.ハングオーバー!!!
 シリーズを締めくくるものとしてものすごく真面目な作品だった。
 NINのあの曲の使い方が秀逸過ぎて聴く度に思い出して笑ってしまう

16.劇場版まどかマギカ・新編 叛逆の物語
 詳しくはこの記事で書いてます

17.クロユリ団地
18.風立ちぬ
19.映画ドキドキ!プリキュア マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス
 今年観た映画の中で最も恐ろしいホラー描写があったんですよ。
 中盤のオモイデの国で、幼少の菱川六花と四葉ありすがそれぞれの両親の幻想と出会うシーン。
 ピアノ演奏会を終えたあと、父に「何でも好きなものを食べさせてやるぞ」と言われた六花は「オムライスが食べたい」と言う。父は「じゃあ一番高級な店に連れていってあげよう」と返す、このシーン。
 六花はなにも高級レストランでオムライスを食べたかったのではなく、ただ単に家庭的な料理が食べたくてそう言ったのではなかったのか。それはつまり幼少からピアノの演奏会というハイソな場に身を置くことを両親によって強制されている彼女による異議申し立てであったはずだった(監督がインタビューで答えている通り、実際六花は中学に上がるまでにピアノをやめてしまっており、彼女のピアノは序盤で過去の記憶の残余物として機能している)。しかし父はその意図を理解せず、再び「高級な〜」と彼女の身の丈に合わない場所に連れていってしまう。この親子間のディスコミュニケーションが本当に恐ろしかった。
 四葉ありすにしても、幼少から社交界のデビューのためにぬいぐるみを置いていくことを強制される。ありすも六花も両親によって童女のままであることを許されなかった娘であり、その親子間の意思疎通の脆さがこの場面では痛々しいほどに描かれていた。
 この場面はいわゆる敵によって仕掛けられた幻想空間での出来事であり、現実ではない。しかし、六花とありすをしてこの空間を幻視せしめた原体験は彼女らの幼少の頃に間違いなくあるのであり、その体験そのものは敵が仕掛けた魔術でも何でもないのだ。自分はドキドキプリキュアが始まったとき「どうしてこんなにハイソな娘ばかりなんだろう?」と思ったが、その「歳のわりには大人びた」少女の根底にある拭いがたい両親とのディスコミュニケーション、もっといえばピュグマリオンコンプレックスのようなものが克明に描かれていた。冒頭でありすが言う「5歳から60歳までの男性に求婚されていますが、皆様と一緒にいたいからすべてお断りしましたわ」という何気ないセリフも、オモイデの国での彼女のシーンを観た後だと背筋が寒くなるような切実さを伴なってくる。ドキドキプリキュアという作品でその描写を持ってくる必然性も含めて、本当に度肝抜かれました。
 監督さんはもともと自主制作で映画を撮っていらした方で、純映画的な演出(おばあちゃんの「モチのロンさ」というセリフが使われる度に意味が違ってくるなど)が本当に豊かな作品でした。「死者と生者の間では流れている時間が違う」というテーマは今年の『クロユリ団地』でも描かれていたし、もっと遡れば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』でも中心を貫くテーマとなっていた普遍性がある。多くの童女にとってはこの劇場版プリキュアが劇場で観る最初の映画になるはずで、その辺の配慮と妥協のなさに本当にもう感服しました。

20.ヒッチコック
21.武器人間
22.キャビン
23.コズモポリス
24.愛 アムール
25.スター・トレック イン・トゥ・ダークネス
26.イノセント・ガーデン
27.ジャーニー
28.オブリビオン
29.ライジング・ドラゴン
30.アイアンマン3
31.キャプテン・フィリップス
 脂の乗った男の裸体が徹頭徹尾描かれていてステキだった。
 『聖セバスチャンの殉教』を思わせるカットもあったし、もしかしてこの映画はハリウッドのゲイたちによる同好の士のための映画なのではないだろうか? みたいなことさえ思ってしまうほどだった。

32.世界一美しい本を作る男
33.セデック・パレ
 第一部だけなら物凄く好きな映画だったはず。
 この映画、日本軍に対して反旗を翻したその瞬間でもう物語は終わってるので、第一部のラストの蜂起シーンをクライマックスにして見せ場を簡潔に割り振った戦闘シーン(いっても10〜20分くらい)を置いて終わった方がよかった。
 第二部はとにかく中だるみの連続で、ゲリラ戦を得意とするセデック族が日本軍を圧倒するのはいいとしてもその描き方が間延びしすぎ。終盤でも「第一部で命を捨てることを決意したはずの人間が何をダラダラ踊ってるのか」という苛立ちめいた感情しか起こらなかった。そのうえ史実に忠実に作られているので、主要人物を劇的に散らせることはできないわけで、残ったのは「〜〜はしぶとく抵抗するも捕虜となった…」というヌルっとした着地感だけ。

 何より残念だったのは、日本の軍人に「私はセデック族に失われたサムライの魂を見たのかもしれない…」とセリフで言わせたこと。もう劇場で「ああ、やっちゃった…」と言いそうになりました。セデック族の文明にまつろわぬ野蛮の魂っていうのはさあ、そんな安易に敵側の倫理に回収されていいモノなの? 文明化された日本側にとっては「なぜ彼らが勝ち目のない反乱を起こしたのかわからない」というような、突然の台風に撃たれたような茫然自失を味わわせるべきだったでしょう。その倫理の断絶感が根底にあったからこその反乱だというのに、あんな雑に英雄譚風の共感に矮小化してしまうとは…
 最後の「虹の橋」にしたってね、何も映画だからって本当に虹色の橋を大挙して渡っていく様を描かなくてはいけないという法はないですよ。この映画「見せるところ」「言わせるところ」の線引きがすごく曖昧だったと思う。その辺の無頓着さが、他の「人がガンガン死ぬけど見せ場が割り振られていて映画的に面白い」先達の映画たち(スピルバーグ、バーホーベン、ティム・バートン、三池崇史)と比べて目立ってしまっていた。
 しかし第一部までは本当にのめり込んで観ましたし、「価値観の違う二つの集団が線を跨いで殺し合わなければならなくなる」というテーマの作品は個人的に大好き(マーズ・アタック!とか)なだけに本当に残念な映画でした。

34.L.A.ギャングストーリー
35.47 RONIN
36.コレクター
37.偽りなき者
38.ガッチャマン
 ダメすぎる映画だけど、思い出す度に「あそこヘタだったなぁ〜」と笑顔になれるキュートなダメさが満載の映画なので、後に引きずるような不快感は皆無の作品です。
 以下の三本は思い出す度に苛立ちや不快感や吐き気が蘇ってくる愚作。

39.地獄でなぜ悪い
 詳しくはこっちで書きましたが、なし崩し的に自分の中の園監督の評価が崩れていくだけの映画でした。『冷たい熱帯魚』はテーマもその描かれ方も大好きな作品だったので本当に残念。
 とくに醜悪だったのは、ブルース・リー役の仲間のバイト先に押し込み、店内で乱闘をした後「店長、今はこれだけのバイト代しかないけど出世払いで勘弁してくんな!」的なことを言ったのに対して「シェイシェーイ!」って店長が嬉々として返すところ。もう、この場面だけで園子温という人間の創作・映画・自分そのものを相対視する視点のなさに頭痛がしてしまった。ここは店長に「何が映画だ、お前が俳優を目指してたなんて聞いたこともないわ! お前みたいなのが出た映画なんてどうしようもないに決まっとるわ!」という世間からの「理解されなさ」を代弁させるべきだったでしょう。それを聞いたブルース・リーは心中で「(もっともだ…)」と思うも、ついには店を飛び出して最期の撮影に向かう、そういうシーンにすべきだったんじゃないの? なにが「シェイシェーイ」だボケが。
 この映画、とにかく徹頭徹尾映画撮影クルーを甘やかして描きすぎなんですよ。映画好きな人間・あるいは撮影クルーを「神に選ばれた人々」として選民視するばかりに、下俗の「おれの創作に理解を示してくれない人々」の言い分を全く描いていない。こんなの見せられて「映画愛が〜〜」「今の日本映画をダメにしている連中より〜〜(このセリフも本っ当に醜悪)」などと言われても、園子温というのは結局自主制作映画の身内で甘やかされてきただけの人なんだなぁ、としか思えなかった。
 『愛のむきだし』『冷たい熱帯魚』のようにハッタリでも最高峰のハッタリをやり遂げる力は間違いなくあったはずの人なのに、この映画で突然馬脚をあらわしてしまった。もう薄ら寒い「映画愛」など大上段でひけらかさず、観客をボコボコにするだけの最高なハッタリの世界をもう一度突き詰めてほしい。

40.かぐや姫の物語
 「古典を翻案して描きたかったのが結局それ?」という失望だけしかありません。
 「かぐや姫を現代女性の視点から描き直したのがすごい」みたいなのをよく聞きますが、全然描けてないですよ。監督の案出した「父権社会において居場所のないかぐや姫(現代視点)」と「原型としてのかぐや姫」の二つの要素が最悪の形でケンカしてますよ。それが象徴されているのが、求婚者の一人が不慮の事故で死んだことにショックを受けて「そんなつもりはなかった! 私のせいで死なせてしまった! 私がニセモノだったせいで!」と言うシーン。「ニセモノ」というのは山で自然に囲まれて暮らしていた自分が都で姫としてあること、あるいは地上に落とされた月人としての無意識下の不如意というアウトサイダーとしての彼女を象徴した言葉だとは思う。『反撥』のカトリーヌ・ドヌーヴばりに己の女性性(とそれに引き寄せられる男性たち)を拒絶し嫌悪するかぐや姫、その観点はいいですよ。しかしそのアウトサイダーとしての姫がかかずらうのは「結局貴公子たちも賞品としての私の価値を証明することさえできなかった、私は一体何なのだ」という実存的不安ではなく、「結婚するのイヤで無理言ったら一人が事故死しちゃった、私のせいで」という『常識的』倫理観だけ。地上(都)においてアウトサイダーで所在のなさを感じていたはずのかぐや姫が、単なる公共良俗にかかずらうナイーブなだけの人間として矮小化されてしまっている。現代的な解釈とやらによる『かぐや姫の物語』が馬脚をあらわした瞬間である。

 とにかく「地上に落とされた月の人間」と「地上人」という絶対的な人種の(もっと言えば生命種としての)違いの描写の甘さは目に余る。最終的には羽衣によって自我を抹消されてしまうという運命が待っている故のかぐや姫の絶望(キャッチコピーが言うところの「罪と罰」)であったはずなのに、かぐや姫が悔悛するのは「地上に落とされた罪人である自分が地上に帰属するにはどうすべきだったか」ではなく「最初から自然に囲まれてありのままに生きればよかった」ということ。つまり最初から視点が「名誉地上人」なんですよ。
 この辺りの「全く異種なものどうしの断然感を描くことができない」というのは非常にジブリ的(日本的)な病理だと思います。それでも宮崎駿監督が『風立ちぬ』で飛行機設計以外は何も考えることができない狂人としての二郎を描き、それを作品のテーマに昇華させることができたのは、他ならぬ宮崎監督自身が重度の戦争オタクで兵器キチガイという「異物」であったから。
 対してこの映画の高なんとか監督は、よりによって日本人なら誰もが知る古典を引っ張り出し、捨丸とかいう「家柄も生活にも恵まれていないけど都会にはないきれいな心を持った人」などという安易に象徴化されたオリキャラまで登場させて「現代風に解釈しました」と言いつのる始末。そこに「どうしてもこれがやりたかったんだ」という創作者の業はない。そこにあるのはただ「時代に即した」「政治的に正しい」「よさげなセリフがよさげな音楽とともに言われる」というだけのThe Goodな要素の集積である。
 要するに、この『映画』を作ってしまった高なんとか監督は、最初から「異物」でも「アウトサイダー」でもないし、自分の血肉を絞ってまで描きたいという創作者の業なんてものは持ち合わせてないんだろう。あるのは「あの古典を現代の視点で描いてあげました(この映画、とにかく『日本の皆さんのために(とくに女性のために)』『描いてあげました』という悪臭が凄まじい)」という作家的自我だけ。宮崎駿が堀辰雄と堀越二郎という無関係の二つの人生を歪めてくっつけてまで描きたかった自身のドロドロした業というものは小指の爪の先ほども見当たらない。

 僕はこんなサプリメントの寄せ集めみたいな代物を間違っても『映画』などと呼びたくないし、もっと言えば『作品』と見なすことさえしたくない。こんなにも漂白化され、安易な二項対立に終始するだけ(都の貴族と山の村民、清濁併せ持つ地上の世界と無としての月の世界、など)の物語を『日本アニメの集大成』『芸術作品』と呼び成さなくてはならないのなら、僕はそんな『芸術』の恩恵なんて一生涯享受したいとは思わない。
 他にも「後半で説明セリフ増えすぎ」「貴公子五人の描き方が間延びしすぎ」「二時間三十分の映画でこのテンポの描き方はいくらなんでも観客をナメすぎ」など言いたいことは山ほどあるが、書けば書くだけイヤな気持ちにしかならないのでやめる。
 この映画で得たものと言えば、長いこと自分の中にあった「楽曲の歌詞やタイトルや作品のキャッチコピーに『罪と罰』というフレーズを軽々に使ってしまう人間にはろくなのがいない」という説を裏付けてくれた、その一点だけです。
 
41.マン・オブ・スティール
 言いたいことはたくさんあったはずなんですが、もう忘れました。
 「実はシリーズのファンからしたらニヤッとする工夫がある」とか「ノーランだけが悪いんじゃなくてザックも悪いとこある」みたいなこともどうでもよく、最初から最後までものすごくお金のかかった二次創作みたいでした。もちろんここで言う「二次創作」の意味合いはまどかマギカで使った意味合いとは雲泥の違いがあります。
 とにかく、「もう全部ノーランが悪い」ということで忘れたいと思います。

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