スターウォーズ二次創作と『劇場版 魔法少女まどかマギカ [新編] 叛逆の物語』

※『劇場版 魔法少女まどかマギカ [新編] 叛逆の物語』の核心部分のネタバレを含みます











「ジョージ・ルーカス様へ。私たち無能なファンがあなたの傑作に軽蔑を捧げる」

「彼は私の青春を弄びました」

スターウォーズ・シリーズのファンたちを描いたドキュメンタリー映画『ピープル VS ジョージ・ルーカス』は、物語の創造主であるルーカスへの悪罵から始まる。この言葉を発しているのはもちろんアンチ・スターウォーズな人間ではなく、スターウォーズ・シリーズの熱心なファンたちである。
彼らがルーカスへの憤懣を口にして憚らない理由は、大きく分けて二つある。『エピソードⅣ・特別篇』と、『新三部作』の存在だ。

劣化したフィルムを修復した『スターウォーズ エピソードⅣ・特別篇』では、とある重要なシーンに手が加えられていた。ハン・ソロが、借金の取り立てに来たマフィアの手下を突然撃ち殺すというシーンがそれである。この場面は、狡猾なアウトローであるハン・ソロのキャラクター性をファンに印象づけていた。しかし、「ヒーローが不意打ちなんて卑怯なことをするのはよくない」というルーカスの判断から、「マフィアが銃を出した後でハンが撃ち殺す」という状況に変更された。この変更をもってハン・ソロは、敵が銃を取り出すまでぼーっと待っているマヌケな男と化してしまった。机の下に銃を隠し持っていたクールなアウトローの姿は、もうそこにはない。

エピソードⅣ・Ⅴ・Ⅵの前日譚を描く『新三部作』では、「ミディ・クロリアン」という微生物の設定が物議をかもした。作中で神秘的な力として描かれている「フォース」は、ミディ・クロリアンという微小生命体が体内に充溢している人間にのみ発現する力だった、という設定が追加されていたのである。田舎でさえない暮らしをしていたルーク・スカイウォーカーが修行のすえにフォースを体得し、巨大な帝国に立ち向かう姿に自分を重ねて感動していたファンは、フォースが選ばれた器質の人間にしか発現しないものだという後付設定に興醒めし、失望した。

それだけに留まらず、おどけた口調で話すコメディリリーフなジャージャー=ビンクスの存在が、ファンの神経を逆撫でした。旧三部作とは打って変わってシリアスな世界観のエピソードⅠにおいて悪目立ちしているジャージャーはファンから憎悪され、現在でも彼のフィギュアを破壊したり燃やしたりする映像がYouTubeにアップされ続けている。
その他、「20世紀FOXのロゴが出るのが20コマ早い」、「冒頭のロゴが違う」など枝葉末節なディテールの違いまでもが、熱心なファンのルーカスへの不信を掻き立てた。
「まるで聖書の『創世記』が突然書き換えられて、『天地創造』の章が刷新されたみたいだ」という『ピープル』でのファンの発言がそれを象徴している。

上述の経緯のうちに何が起こったかというと、スターウォーズ二次創作作品の隆盛である。
あるファンは、ジョージ・ルーカスの変装をした男性に向かって「グリードは先に撃ってない! オリジナル版で撃ったのはクソッタレのハンだけよ!」と『エピソードⅣ』での改変を詰るムービーを撮影した。
あるファンは、『エピソードⅠ』本編を70分間に独自編集した『エピソード1.11』を制作し、手焼きのDVDで頒布した。今ではファン編集者(Faneditor)と呼ばれる二次創作者は世界中に存在し、本編を無声映画として改変した自家編集版までも存在するほどである。その他手描きアニメ、小説、スピンオフ実写映画など、スターウォーズシリーズの二次創作作品のバリエーションは枚挙に暇がない。

ファンにとって聖典にも等しい存在であるはずの原作を、なぜ改作し続けるのか?
それは、彼らが「ルーカスより俺の方がスターウォーズを良く作れる」「ルーカスより俺の方がスターウォーズを理解している」と信じているからに他ならない。
「創造主より自分の方がもっといいものを作れる」という信念。このファクターこそが、『劇場版まどか・マギカ [新編] 叛逆の物語』を読み解く上で最も重要なものとなる。


TVアニメ『魔法少女まどか・マギカ』の最終話において、希望と絶望の感情の転移をもって魔女化することで地球外生命体にエネルギーを搾取されていた魔法少女を救うため、鹿目まどかは「生まれてきた魔法少女をすべてなかったことにする」という概念そのものになった。まどかによって改変された世界に魔法少女の成れの果てとしての『魔女』は存在せず、その事実を知る唯一の人間である時間遡行能力者・暁美ほむらだけが『魔獣』との戦いを続けていた。

最終話のラストでは、孤独な戦いを続けていたほむらの魂(ソウルジェム)もまどか(=円環の理)によって救われたのか、判然としないままで終わる。『新編』で描かれているのは、本編最終話でグリーフシードを円環の理に回収されることを拒んだ暁美ほむらが、かつてまどかと出会った見滝原を虚構のフィールドで構築した世界の物語である。この世界での魔法少女は全員仲のいい中学生で、『ナイトメア』と呼ばれる人間の負の感情の発露である魔物が暴れだした際には変身し、必殺技らしきもので敵を鎮撫し、浄化するという、大文字での「魔法少女」らしいトーンで描かれている。5人チームでの変身シーケンスもあるし、魔法少女につきもののマスコットキャラクターも存在するし、仲間同士の洒脱な冗談の掛け合いもある。銃器や手榴弾で魔女を爆殺していたTV版での『魔法少女』とは全くの別物となっている。

この世界で生きる暁美ほむらは、上述したような『魔法少女』の有様を「茶番」と看破し、何者によってこの世界を錯覚させるフィールドが構築されたのかを突き止めようとする。しかしそのフィールドは、魔獣と戦い続けて濁ったほむら自身のグリーフシードが、ただ鹿目まどかともう一度会いたいがために生み出したものだった。概念そのものとなったはずの鹿目まどかをもう一度見滝原に顕現させ、無害な世界で触れ合おうというのである。そのフィールドの発現を可能にしていたのがほむらの濁りきったグリーフシードであった。概念となったまどか(=円環の理)による回収を拒む防壁を張ったグリーフシードによって、ほむらだけのために都合の良い世界が構築されていたのである。
クライマックスにて、魔女に等しい存在となったほむらは、魔女を無みする概念であるまどか(=円環の理)の手によって救済されかける。しかしほむらは、『円環の理として聖別された、概念としての鹿目まどか』と『自分が学校で出会った、平凡な少女としての鹿目まどか』を分断し、後者のまどかを囲うためのもう一つの宇宙を構築する。TVシリーズ本編で「神に等しい存在」となったまどかとは裏腹に、ほむらは自らを「悪魔」と仮称する。円環の理の一部となるはずだったほむらが堕天し、悪魔的な存在になるというのは、『失楽園』のルシファー(=サタン)の物語と対応している(「暁美ほむら」という名前に含まれている「暁(の明星)」は金星でルシファーを意味し、「ほむら(炎)」という名も「炎を運ぶ者」というルシファーの二つ名の引用)。

「まどかともう一度会うためなら世界の理を書き換えたっていい」というほむらの選択に、観客は自分自身をほむらに重ねあわせずにはいられなくなる。なぜなら観客は、TVシリーズを鑑賞して感じた興奮を、あわよくばもう一度味わいたいと意図して劇場に足を運んでいるからである。「もう一度まどかを見たい」「悲惨な運命を辿らず、無害な世界で仲良く戦う魔法少女たちを見たい」「なんだったら百合っぽい要素があったらすごくいい」という観客の欲望を叶える世界を構築していたのが、悪魔たる暁美ほむらが抱く鹿目まどかへの盲愛なのだ。しかし、その世界はまがいものでしかない。本編で概念となり魔法少女の絶望を救ったはずのまどかの聖性を剥奪し、ほむらが自分とまどかのみに心地よい世界として書き直した宇宙。それは円環の理となったまどかが定義し直した宇宙の二次創作とでも言うべきものである。

悪魔となったほむらによって定義された宇宙では、再び穏やかな学生生活が展開される。彼女は今や自分の意思によって世界の『設定』を自由に書き換えることができる。今回の鹿目まどかは帰国子女の転校生という設定である。転校初日のまどかの手を引き、校舎を案内したいと持ちかけるほむら。かつて(ほむらの時間遡行能力によって)神に等しい能力を手にしてしまったまどかの姿はそこにはなく、おずおずとほむらの一歩後を歩くまどかは無害な少女そのものである。
しかし、かつて全能の概念として宇宙を定義していたはずのまどかは、単なる平凡な女子としての役割を演じさせられている自分の境遇に実存的不安を抱き、「私はもっと大きな力の一部だった気がする(大意)」と、ほむらの前で述懐するのである。

暁美ほむらと自分自身を同一視してしまった観客にとって、この場面はとてつもなく残酷なものとして映る。繰り返しになるが、ほむらの構築した世界はどこまで行っても「二次創作」なのだ。かつて神に等しい存在となったまどかの姿はそこになく、ほむらにとって都合のいい少女としてのまどかだけが存在している。それはかつての宇宙でまどかが願った世界のあり方ではない。それを承知の上で、ほむらは円環の理に叛逆した。「自分の方が(円環の理が定義した世界より)もっと良い世界を作れる」という意思は、スターウォーズファンの「自分の方が(ルーカスが定義した世界より)もっと良い世界を作れる」という二次創作理念と合致する。それはどこまで行っても二次創作であって、絶対に公式(一次創作・原典)にはなりえない。しかしそれでも、自分の中の妄想の世界で生き生きとしているキャラクターの姿に恋着する狂信者(暁美ほむら)は、非公式(二次創作)の世界を夢見ずにはいられないのである。それが原典でのキャラクターの本然を撓めることであっても、恋してしまったキャラクターのためなら世界観すらも改変してのける狂気を行うのがファン(fanatic)というものなのである。もし『まどか・マギカ』の同人誌を作ったり、SSなどを執筆したりしたことがある人間がこの場面を見たなら、自分の妄想のためにまどかの本然を損ねてしまったことに気付くほむらの姿と自分自身が感応し、胸をかきむしられるような感覚に襲われていたことだろう。

「あなた(まどか)は、やがて私の敵となるでしょうね(大意)」というほむらのセリフには、自らの独善的とも言える改変行為を相対化する視点と、それでもなお自分の幻想としての偶像(まどか)に殉ずる視点を感じさせる。それはスターウォーズファンが抱く原典およびジョージ・ルーカスへの愛憎入り交じる信仰の有り様とも重なる。この作品に出会わなければもっと幸せだったかもしれないと思いつつも、一度夢のような世界に魅せられてしまった上では、彼らは自分が涵養する幻想の世界に没入せずにはいられないのだ。

要約すると、『劇場版 魔法少女まどかマギカ [新編] 叛逆の物語』は、「呪いのような夢に駆り立てられて創作を続けるオタクの物語」として見ることができる。同様の主旨を持つ作品に同年公開の『風立ちぬ(宮崎駿監督)』があるが、『風立ちぬ』の二郎が駆り立てられている飛行機製造が一次創作であるのに対して、『新編』のほむらが創作する世界は何処まで行っても二次創作でしかない。2013年という同じ年に、異なる視点での「創作・幻想への殉教」をモチーフとするアニメ映画作品が発表されたということは、記憶しておくべきことかもしれない。

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