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ジャパノセントリズム(『けものフレンズ2』短評)




 エスノセントリズム(ethnocentrism)、という語があります。「自文化中心主義」と訳されますが、「自分の生まれ育った文化を起点に置き、その他の文化を周縁に置く」類の思考は少なからずエスノセントリズムだと言っていいでしょう。
 エスノセントリックな態度は世界各地の文化圏で見られますが(もちろん中国にも日本にもあります)、とりわけ(世界史的に17-20世紀を優勢とした)西欧の価値観を押し付ける偏向をエスノセントリズムと呼ぶのが一般的です。たとえばマリリン・モンロー的な、「スリム」で「美白」で「スタイル抜群」な人物造形を美の理想として疑わないモデルがある。これは否定しようもない事実でしょう(ちなみにマリリン・マンソンが1997年のアワードで行った「もう美のファシズムには屈しない」* という有名なスピーチがありますが、つまり彼はこういう偏向を攻撃していたわけです)
 しかし21世紀前半において、エスノセントリック(≒西欧文化中心主義)な偏向は少しずつ崩されてきています。主要キャストをアフリカ系英語圏人またはアフリカ人から起用した『ブラック・パンサー (2018年)』の批評的・興行的成功、同様に主要キャストをアジア系英語圏人またはアジア人から起用した『Crazy Rich Asians (2018年)』の世界的大ヒットなどは、象徴的な出来事として記憶されるべきです。さらにモデル業界では、「スマート」な痩身を理想とするのではなく「肥満体」の新しい美のイメージを提示するプラスサイズモデルがあらわれています。日本との関連では、渡辺直美さんが台湾観光親善大使に就任したりVOGUEの動画シリーズに出演したり* していますが、言うまでもなくプラスサイズモデル的な美意識の転換が評価されてのことです。
 ここまで縷述したように、現在ではエスノセントリック(≒西欧文化中心主義)な偏向は退潮にあり、エンターテイメントの分野においてさえ(いや、エンターテイメントの分野だからこそ)文化的な多様性を高く評価する潮流になりつつあります。これはもちろん、たかだか17-20世紀のあいだ優勢であるにすぎなかった西欧的価値観の断末魔(ヴァレリーを引けば『精神の危機』)を象徴するものでしかなく、これから21世紀においてアフリカ、アジアの文化圏が息を吹き返す兆候でもあるでしょう。

 ……さて、前置きが長くなりましたが、今年1-4月にわたって全12話構成で放映された『けものフレンズ2(監督:木村隆一/シリーズ構成・脚本:ますもとたくや)*1』は、徹頭徹尾エスノセントリズムに貫かれた作品です。むしろ「自文化中心主義」よりも「人間中心主義」と言ったほうがいいでしょう。前作の時点では「動物をモチーフとした人型のキャラクター(=フレンズ)」として登場していたものたちの言行が、今作では徹底的に人間の調教の結果として描かれていた(とりわけグロテスクな描写は第3話のバンドウイルカ&カリフォルニアアシカと第9話のイエイヌ)のはもちろんのこと、終局的にこの作品が収斂されるのは「ヒト(今作では他のフレンズとは別格の存在として描写されている)の出自を持つ主人公:キュルルの情緒的な満足(「みんなのことが好きで好きで……大好きなんだー!」・「思ってたのとは違ったけど、ちゃんと見つけられた。僕はここがいい!」)」でしかないからです。しかも主人公が旅の結果として見つけ出した「おうち」が、他の生命種(=フレンズ)の生活圏への介入・および具体的な破壊の結果でしかないことを踏まえると、これは『アギーレ/神の怒り (1972年)』も真っ青なエスノセントリズムと言わざるを得ません(実際、『けものフレンズ2』御一行の旅程は、15-17世紀のコンキスタドールを戯画化したものとして見るとたいへんに筋が通っています。道中で横暴・残虐な行いをするのに本人たちは楽しそうであまつさえ使命感に燃えてもいる、という病理まで同じです)

 最終話の放送から1週間ほど経過した現在では、すでにこの作品に対する悪評(理知的なものから痙攣的なものまで)が出揃っているようですが、その中に「『2』のスタッフは前作に対して明らかな悪意を持っている。前作で積み上げたものを徹底的に破壊したかったんだろう」と激怒しているタイプが多く見られます。が、しかし公平に言って、それは情緒過多なファンの思い入れが投影された結果のヒステリーであろうと思われます。「悪意」云々の存在が問題なのではない。重要なのは、『2』の監督・脚本家は本当に「良いもの」としてこの内容を作ったという事実のほうです。他者の文化・生活を破壊・搾取してまで自分(=ヒト)の情緒的満足を確保する、そのことを顧みないどころかむしろ自足する。というエスノセントリックとしか言いようのない醜悪さは、実は監督:木村隆一の代表作である『アイカツ!(2012年10月-2016年3月)』の時点ですでに表出していたものです。『アイカツ!』の3年半にわたる旅程は、結局ただひとりの人間(大空あかり)の情緒的満足を「良いもの」として終わるのです。その満足のために徹底的に「周縁」として描かれる「地方(京都、神戸、大阪、北海道、沖縄)」の存在、および最終的な帰結のために犠牲に供されるイエイヌ的存在(氷上スミレ)までもが既に描かれていたことも補足しておきましょう*2 。『アイカツ!』は今年4月からTOKYO MX1にて再放送されるようですので、この機会に観直してみることをお勧めします。あんな代物を「あこがれのSHINING LINE*」だとか「ありがとうの生まれる光」だとか呼んで耽溺していた精神がどれだけ病的だったかは、現在になってようやく理解される質のものでしょう。

 さて結びに向かいますが、『けものフレンズ2』の内容がとりわけグロテスクなのは、(少なくとも多様な存在を良しとしていたように見える前作と比べて)単一の価値判断のみしか尊ばれていない、しかもそのことが一切の批判に晒されないこと、これに尽きます。冒頭で「自分の生まれ育った文化を起点に置き、その他の文化を周縁に置くこと」をエスノセントリズムの定義としましたが、この鉤括弧を『けものフレンズ2』の内容要約として読んだとしても何の違和感もないでしょう。
 さらに追及すると、アニメという表現媒体が持つ一種の純血性についても言及しなければなりません。大抵のアニメでは出演者ほぼ全員が日本人で統一されていること(最近では外国出身の声優さんも増えてきてはいますが、先述したアジア、アフリカを含む世界的なエンターテイメントの多様性と比べてアニメは純血的としか言いようがありません)、およびキャラクターの髪や肌の色はとてもカラフルなのに出身地・人種・宗教などの具体的描写・設定については「そ、そんな面倒な話したくないよう。だってボク、そういうことよく知らないし、ヘタなことしたらその、お、おこられる気がするもうん」とばかりに省略されるのが当たり前であること。これらアニメ特有の純血性がエスノセントリズムと最悪の結託を果たしてしまった作品が『けものフレンズ2』だということを認識しなければ、この喩えようもなく醜悪な作品から何かを学んだことにはなりません。少なくとも2019年現在(多くの摩擦を伴いつつ)多様性を祝福する傾向にあるエンターテイメント表現において、ここまで反動的*3 で幼児的な代物が出てきてしまった、それが白人至上主義者でも(それに対抗する他人種の)急進的民族主義者でもなく「普通の日本人」によって作られてしまったこと。この事実を見据えることができなければ、『けものフレンズ2』が孕んでいるあの「厭さ」の正体を掴んだことにはなりません。「ジャパリパーク」という名の楽園(paradeisos は 「動物園」を意味する pairidaēza に由来する )をここまでグロテスクなものに仕立て上げた、「日本のエスノセントリズム」とでも呼ぶべきものが刻印された記念碑としてのみ、『けものフレンズ2』は存在意義を持っていると言えます。



*1 後の『アイカツ!』関連の文脈のためにも、テレ東プロデューサーである細谷伸之の名も出しておくべきでしょうか。木村隆一と細谷伸之は『アイカツ!』の頃から座組みを同じくしており、過去には(子ども向けアニメであるはずにも拘らず)泥酔しながら『アイカツ!』の劇場版にコメンタリーをつける趣旨のニコ生を主催する(それも制作会社や映画館の企画ではなく、木村や細谷が自発的に開催した)という信じがたい行為に及んでもいます。……ですので、『アイカツ!』を通して木村や細谷がどの程度の人間かを見せられている側からすると、『けものフレンズ2』をきっかけに木村や細谷に憎悪を向けている人々を見ると、懐かしさというか、若干の苦笑感さえ覚えます。

*2 『アイカツ!』が逢着した狭隘な世界観と引き比べると、その次作である『アイカツスターズ!(監督:佐藤照雄/シリーズ構成:柿原優子)』2年目でのエルザ フォルテがモナコ王妃(西欧の内部に在りながら「帝国」たるフランスに抗して独立を守った国)の裔という出自を持ち、彼女が率いる学校には世界中のアイドルが集められており、その中には日本人に姿形が似たハンガリー出身(言うまでもなくハンガリーは東欧で最も混血的な土地。マジャル人はモンゴロイドの遺伝子も継いでいる)のキャラクターまで存在していたという事実は、『アイカツスターズ!』が(日本人の手によって作られたアニメとは思えないほど)異様に緻密な世界史的思考に貫かれていたことを印象付けるものです。もちろん『アイカツ!』の3年半ではそのような多様性を利用した設定・描写の妙などは(風沢そら━━第61話でモロッコにて幼少期を過ごしていた描写があるが、その設定は本編で一切活かされなかった━━と紅林珠璃━━父親がスペイン人であり、第141話ではスペイン料理とメキシコ料理との違いを紅林とその相方である新条との違いに結びつけた作劇が成されており、2年目までとは違う人物描写ができていたもののそれ以上特筆すべきことは起こらなかった━━の2名を除けば)一切見つけることができません。

*3 「反動的」ついでに指摘しましょう。どうやら、Twitter上で木村隆一のアカウントが散発的に「反安倍政権的」・「反トランプ政権的」ツイートをRTするせいで「木村隆一は反日で左翼だ」と柳眉を釣り上げているアニオタの方々がいるようですが(私が今どれだけの笑いを堪えながらキーボードを打っているか想像してほしいのですが)、当然ながらこれは不正確です。少なくとも『けものフレンズ2』の内容のみで判断した場合、木村隆一は世界の主潮流である多様性に全くの配慮をしておらず、エスノセントリックな思考にすら流れていることは本文で指摘しました。である以上、木村隆一および『けものフレンズ2』の思想的スタンスは「左翼的」どころか「反動的」が正確であり、その監督および作品を前にしたアニオタの方々(往々にして狭隘な民族主義と知的劣等感に裏打ちされたゼノフォビアを併発しているパターンが多い)が激烈な憤激を覚えるという事態は、やや精神分析めいた言い方になりますが、それは「鏡に映った自分と同質のものを憎悪している」以外の何物でもないことになります。ええ、私はいま大笑いしながらこの註を書いていますよ。願わくは、SNSや動画サイト上でどれだけ声を荒げようと遂には内に秘めた臆病さを隠せないアニオタの方々も、この事態を笑い飛ばせるくらいに肝が太くなってくれたらいいのですが。






 
 久しぶりに短評めいたことをしてみたが、書きやすいことこの上なかった。私はNetflixで『けものフレンズ2』および前作を一通り視聴したにすぎず、思い入れなどは一切持っていないからである。短評とは、包丁で魚をおろすように、あるいはドライバーで機械を分解するようにして、どの機構がどのように作用しどのような結果を及ぼしたか、を明らかにするものでなくてはならない。「私は〜〜のような感想を持った」「私にはこの〜〜は受け入れられなかった」「私にとって〜〜はこういうものだったのに」などの一人称的な思い入れの記述は無用なのだ。読むにおいても書くにおいても、一人称的な思い入れに耽溺して自分の傷を撫でまわすことしかできていない、つまり「エモく」あることしかできない人間の機制を見抜く技術は今や非常に重要である(「エモさ」は個人の情緒に基づく近過去への憧憬または追認を許すための燃料でしかなく、つまり「政治的情動」の対義語である)

 返す刀で指摘するが、『けものフレンズ2』に関する情緒的な憤激(というか、泣き言)をネット上に撒き散らしている者たちに言いたい。君たちはSNSや動画サイトという「表現の自由(ひええ)」によって悪辣な制作者たちへのレジスタンスを行なっているつもりなのかもしれないが、実際には、この幼形成熟の世紀における典型的な症例のサンプルを提供しているだけである。後の世の精神科医たちは、SNSや動画サイト(『けものフレンズ2』の批評──という名の泣き言──が展開されている主要プラットフォームがニコニコ動画というのも、今更ながら暗澹たる気持ちにさせられる。君たちは文字を読み書きする際に、もうページをめくることすら、画面をスクロールすることすら億劫になってしまったのだ)にアップされたオタクくんたちのエクリチュールを、21世紀前半という奇怪な時代に起きた戦争の原因を分析するための格好の材料として俎上に乗せるだろう。急に「戦争」という語が出てきたことに驚くつもりかね? さすが、自分の発言に責任を持たない君たちはしらばっくれに関しても一流らしい。通史的に見れば、欲求不満の馬鹿どもが、大声で、それも集団になって騒ぎ始めたときに必ず戦争が起こっている。次の戦争は君たちが率先して煽り立て、正当化し、そして死にに往くものになるだろう。それは「アニメじゃない アニメじゃない/現実なのさ」「アニメじゃない アニメじゃない/本当のことさ」。

 その悲惨を避けたくば、君らオタクくんたちは21世紀的な「新しさ」から離脱し、20世紀以前の教養に手をつけるべきだろう。人間の精神とは、アドラーが言うように個人的なものでも、ユングが言うように集合的なものでもない。人間ひとりの情緒のエネルギーには限界がある。自分のエネルギーをどこにどのように傾けた結果どのような反復を強いられているかについて、具体的に考えてみることだ。「効率」だの「時短」だの「コスパ」だのを尊ぶ君たちが、実際には情緒のエネルギーを搾取され次なる戦争の頭数として動員されつつあることにすら気付けないとは、悲惨を通り越して滑稽でしかない。まずはSNSなんか全部やめちまえ。そうすれば君たちは、如何に自分が情緒のエネルギーを陰湿性に転化する奇怪なビジネスに搾取されていたかを理解するだろう。それはある意味で、一次大戦以降にフロイトが直面した戦争神経症の反復でもある。2019年、一次大戦終了から100年目の年において、如何に前の時代とは別の戦争を闘うことが、すなわち如何にファンキーであることができたか。我々は必ず、次に来る世代にそのことを問われることになる。逃げられると、思うなよ。

 
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2019/05/09 (Thu) 10:25 | REPLY |   

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2019/06/27 (Thu) 03:32 | REPLY |   

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