ツバサ・2年目・風雲急(『アイカツスターズ!』第51→第53話)

:前置き:
『アイカツスターズ!』第51話は公式HPで常時無料配信されています。が、このシリーズを全くご覧になったことのない方はBlu-rayボックスを買うバンダイチャンネルに課金するなどして1-50話を通ったうえで第51話を観ることを強くおすすめします。なぜなら1年目を通ったか否かで第51話のもたらす衝撃に天と地の開きが出てくるからです。もちろん単品でも凄まじくよくできたエピソードですが、 "The Best of Both Worlds" を単品で観ただけでスタートレックTNGのすごさが全部伝わるわけではありませんよね。『アイカツスターズ!』もスタートレックTNGと同様に緻密に作られたシリーズ作品なので、ぜひ横着せずに第1話から観てみてください。




【目次】
◎Face it with a grin(第51話:笑みで織り成されるエモ)
◎君の閉塞的な脳味噌に(第53話:乾いた不毛[aridity]とその旅程)
◎Boneborne文房(その「文藝」の射程)
◎「ゴシック」考





◎Face it with a grin(第51話:笑みで織り成されるエモ)

「2シーズン目の最初のエピソード」の始め方にも色々あります。前シーズンには無かった新要素が追加されるのでしょうし、それを前面に押し出すのでも徐々にゆっくり移行するのでもいいのでしょう。前シリーズ『アイカツ!』の第51話がそうしたように「1年飛んだ間に色々ありました」というアクロバットを使ってもいいわけです。
 さて、『アイカツスターズ!』2年目最初のエピソード(第51話)はどのようにして始まったか。何をエンジンに据えて新シーズンを発進させたか。「発情」です。

・発情開始

 始まり方はごくごく平穏なものです。今年度の歌組S4に就任した虹野ゆめ。下級生やファンたちから声援を受け、子どもたちからの羨望の眼差しを受けながら四ツ星学園を案内する序盤パートは、丁寧なチュートリアルとして機能しています。が、第51話の凄まじさは、冒頭で提示した「前年度まで共有されていた前提」を後半で次々と破壊していく、その容赦の無さにあります。

 2年目開始前からその存在が煽られていた客船型アイドル学校『ヴィーナスアーク(以下VA)』。その総大将であるエルザ フォルテが白鳥ひめを引き抜くために接近し、早乙女をミューズに選んだはずのブランド『FuwaFuwa Dream』がいつのまにかVAの花園きららに占領され、四ツ星関係者は急速にVAの脅威に席巻されてゆきます。

 虹野ゆめ、桜庭ローラ、早乙女あこ、香澄真昼の4人がVA船内に侵入するシーンがあるのですが、これがまた強烈です。まず、四ツ星学園内ではあれほどS4として持て囃されていた虹野たちが、VA船内では一般の生徒にさえ見向きもされないのです。S4は四ツ星学園内で毎年ブレイクダウンする階級制にすぎないので、S4であるだけで学外で無条件の敬意が払われるわけではないのは当然なのですが、この落差たるや。

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(上):四ツ星学園内で下級生から羨望の眼差しを受けるS4
(下):VA内で一般生徒から見向きもされないS4

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 そのうえ、血気にはやった早乙女あこはガードマンに取り押さえられてしまい(誇りであるはずのS4制服の襟首を掴まれる姿の滑稽さ……)、VAのスタッフから船内への不法侵入を紳士的に(しかし厳しく)咎められて追放されてしまうという、散々な結果に終わります。とぼとぼ歩いて港を後にする現S4の姿を引きで写す突き放しかたも含めて、この一連のシーンの流れで「彼女たちが1年かけて獲得したS4の座は、獲得すればそれで本領安堵といった類のものではない」こと、今まさに外部に脅威(VA)を抱えていることさが十分に伝わるわけです。


 直後のひめ勧誘シーンから絵面がガラッと変わるのが第51話です。緊張感に満ちた交渉の場面での逆光という『ゴッドファーザー』みたいな絵がきたかと思えば、二者が相対する背後で雷がドーンという三国志の「君と余とだ」*1まんまの絵がきたりもするのです。序盤の丁寧なチュートリアルの絵面と並べると、同じ作品とは到底思えません。24分間で起こる出来事のフェイズが切り替わるたび、多様なキメ絵の数々が入れ替わり立ち替わるのが第51話です。

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すべて第51話の24分間で使用されているカット


 新たな脅威を迎え、文字通り暗雲が立ち込める四ツ星学園。そこにエルザのパフォーマンスを見るために駆けつけた白鳥ひめの姿が。ひめは気圧の影響で雨天時に体調を大きく崩してしまう人です。前年度の四ツ星で頂点の実力者であった彼女が不安げに雨雲を見上げる絵は、まさにこれから事態が風雲急を告げることを無言のうちに語ります。

 さて、第51話最大の見せ場となるのがエルザによる『Forever Dream』のパフォーマンスシーン。このステージは「今まで曲名すら発表されていない、どころかDCDゲームでプレイ可能な状態ですらない楽曲がアニメ本編で先行公開される」という異例の措置によるものです*2。「たぶんED曲の『Bon Bon Voyage!』でくるんだろう」と悠長に構えていたところを奇襲された視聴者は、アニメ本編の観客と同様に呆然とエルザの姿を見つめることしかできなくなります。

 ステージ後の沈黙を破る拍手の音。それは白鳥ひめによるスタンディングオベーションでした。その顔には笑みが。「あなた、さっきまで具合悪そうにしてなかった?」とんでもない。彼女をして立ち上がらせるほどの力がエルザのパフォーマンスにはあったということです。
 直後、次々に四ツ星学生たちのリアクションが始まります。四ツ星の人間からしてみれば「今まで身内でポーカーしてたらいきなり余所者がやってきてロイヤルストレートフラッシュを出した」みたいな状態なわけですから、動揺しないわけがありません。ひめと同様に笑みを浮かべている者(二階堂)、ドレスの完成度に撃たれている者(白銀)、その実力に絶句している者(香澄、桜庭)、様々ですが、皆一様に色めき立っています。「すごいものを見せられてしまった」という衝撃を刻みつけたエルザのパフォーマンスは、事件性としてはセックス・ピストルズのマンチェスターライブ(1976年)に近いものでしょう。その会場に居合わせた42人の観客全員が「発情」した結果マンチェスターの音楽が変わったように、四ツ星でのエルザのパフォーマンスは『アイカツスターズ!』2年目を突き動かす直接の動機として据えられている。つまりエルザは四ツ星学園全体を発情させることに成功したのです。


 ステージ後、虹野と白鳥の対面シーン。背景は夕焼け。先ほどまで天を覆っていたはずの雨雲が消え去っているとともに、明らかに白鳥ひめの様子がおかしくなっているのがわかります。 “今までのアイカツだけではきっと、彼女のステージを超えられない” 。セリフだけ抜き出すとただ重々しいだけですが、白鳥の表情を見てみましょう。両目を爛々と輝かせて口を綻ばせる白鳥ひめ。1年目では一度も見せなかったタイプの笑みをここで剥くのです。

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画像上(第35話):ひとまず虹野の力を御することに成功し、安堵の微笑をうかべる白鳥
画像下(第51話):エルザの実力に発情し、闘争の笑みを剥く白鳥

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 『アイカツスターズ!』では一度使われた楽曲にも多様な意味が加えられて*いましたが、それは人物においても同様です。ここでは前年度で一番揺るぎない人格者だった白鳥ひめの新たな側面を剥いて見せている。こんな笑い方をする人だったとは
 ちょっと考えてみていただきたいのですが、ものすごい敵が外部からやってきたとすれば、「大変じゃあ、わしらはもうおしまいじゃあ」と深刻ぶって演出することも可能だったはずです(というか、新しいスターウォーズの予告編*がそういうのでしたよね)。が、『アイカツスターズ!』はそんな安易には流れません。第51話後半の凄まじさは、深刻ぶった演出などによらない、「笑み」によって多層的な意味を語らせることに成功してしまったことにあります。


 ギンギンになってしまった白鳥が退場した後、エルザが虹野に接触します。 “私といらっしゃい。あなたをパーフェクトにしてあげるわ” 。メフィストばりの誘惑ですが、虹野は “行けません” とエルザに背を向けます。その背中を見やるエルザ。その顔に満面の笑み。

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 なんて良い顔なんだ。最高です。遅かれ早かれ私のものになるのだから今は泳がせておいてやろう、と言わんばかりの笑みではないですか。
 しかしここで、1年目を通して観てきた視聴者はひとつのことに思い至ります。エルザは白鳥の実力を見込み、虹野もろともVAに迎え入れるために勧誘しましたが、エルザは四ツ星学園外の人間であるため、白鳥と虹野が「不思議な力」を払拭すべく経過したあの苦しみを知らないのです。『アイカツスターズ!』において人間同士の関係性は双方向性のカップリング(×)よりもむしろ一方向性のフロウ(→)によって編まれていることは以前書きました*。このシーンは「エルザ→虹野→白鳥」のフロウで成り立っていますが、ここで四ツ星のアイドルたちを一方向的に睨んでいるエルザは、いつか(「不思議な力」をめぐる白鳥と虹野の苦悩を知らないことによって)四ツ星側から睨み返される日が来るのかもしれない、そんな危うさまでもが仕込まれている。ただ一方的に押されるだけでは終わらない四ツ星の未来が演出面に埋伏しているのがこのシーンです。

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 その証拠に、虹野はもはや泣きません。「不思議な力」に頼りっぱなしの泣き虫だった一年前の姿はそこにはありません。エルザの誘惑を振り切って逃げた虹野ですが、遠景のカメラからは彼女がどのような表情を浮かべているのか定かでない。歯を食いしばって苦悩しているように見えないこともありません。

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 そこで、虹野の表情のアップ。第51話の最後のカットがこれです。その顔には満面の笑み。外部からとんでもない実力者が現れ、今までのアイカツがほとんど覆されてしまったにも関わらず、彼女は笑った。もちろんこれは第1話ラストの夕焼けのシーンと対になっています。「不思議な力」に頼った反動で倒れ、わけもわからず保健室で目覚め、目の前に憧れの白鳥ひめが現れたショックで泣いてしまっていた虹野が、その一年後には新たな脅威を前にして笑っている。この状況で笑みを浮かべることができる人間になるために1-50話の1年間が必要だったことを無言のうちに説得されるのがこのラストシーンです。1エピソードも無駄にしない1年目の構成も見事なものでしたが、それを叩き台にして新たな闘争が走り出すエモを演出することができた、これは言うまでもなくシリーズ作品の中でしか成し得ないものです。

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 しかしまあ、白鳥もエルザも虹野もなんと良い顔で笑っているのでしょう。世の中には眉間にしわを寄せてしかめっ面で「重厚なテーマ」とやらを語っていれば頭が良く見えるという可哀想な思い込みに取り憑かれた作り手たちがいますが(クリストファー・ノーランがその代表格です)、『アイカツスターズ!』のように「笑み」ひとつにここまで多層的な意味を持たせることができる作品は稀有としか言いようがありません。それを実現させるために如何に執拗な言葉の仕事(意味付け)が必要とされるかは、書くまでもないことでしょう。



*1 そもそも船が襲ってきて会議や交渉を繰り返して決戦に至る話なので『星のツバサシリーズ』はかなり赤壁みがあるのですが、VA組のキャラクター性はエルザ=孟徳 レイ=荀彧 きらら=賈詡 小春=徐庶にそのまま置き換え可能です。エルザは「有能な人間欲しがりがち」「手段と目的をごっちゃにしがち」「積極的に敵を作りがち」と既にいくつかの点で強い孟徳みを見せてくれているのもたまらなく魅力的です。
 また、前シリーズ『アイカツ!』が日本史的(視える神がいて万世一系がある)だったのに対し、『スターズ!』は明確に中国史的(神は視えなくて非持続と抗争と断絶がある)構造を持っていてそこが強みなのですが、ここでは詳述しません。

*2 この異例の措置を取ることができたことも第51話の偉大さの一つです。というのは、前シリーズ『アイカツ!』はアニメ本編とDCDゲームのどちらが「主」で「従」なのか不鮮明なまま終わってしまいました。以前、どちらかに主従を決めた場合の利点欠点を考えたりしました*2-1が、『アイカツスターズ!』は「今まで曲名すら発表されていない、どころかDCDゲームでプレイ可能な状態ですらない楽曲がアニメ本編で先行公開される」という措置をとることで「アニメ本編が主、DCDゲームが従」であることを宣言したのです。そもそも1-50話の間であれほど重厚なドラマを見せることができた『スターズ!』がゲームとの整合性のために本編を犠牲にするはずがない(そんな短絡をシリーズ構成柿原優子が犯すわけがない)ことはほとんど自明ですが、まさか次弾(星のツバサ2弾:2017年6月稼働予定)で解禁予定の楽曲とドレスを本編のドラマ性拡張のために使ってしまうとは。前シリーズでの「毎弾ごとのキャラの増加とPRのインフレ」「続々追加される楽曲と本編での使われ方との齟齬」などの問題がどれほど周到に避けられていることか。

*2-1 ところで、この記事で「話数のカウントもリセットされて、タイトルも刷新されたリブートの新シリーズが開始された場合、そういう(一つの作品としての完成度を目指す)アイカツ!が始まるのかもしれない」と書いていますが、この通りのことが『アイカツスターズ!』で完璧以上の精度で達成されていることに驚きます。もちろん「きっと制作スタッフはこのブログを読んでいたんだ」とかふざけたことを言うつもりはありません。『スターズ!』のスタッフが如何に前シリーズの問題点の数々に自覚的で、現在具体的に対処できているかのあらわれだと言えるでしょう。





◎君の閉塞的な脳味噌に(第53話:乾いた不毛[aridity]とその旅程)

 さて、エルザの圧倒的なパフォーマンスに文字通り色めき立った四ツ星ですが、白銀リリィも情動を突き動かされた者の一人です。昨年度末のS4選では「S4になってから」という理由で封印していたPRドレス製作を解禁し、自分のブランドに星のツバサを下ろすために行動を起こします。冒頭から『未来世紀ブラジル』まんまの飛翔イメージが入りますが、白銀リリィがドン・キホーテ的人物であることについては1年目で周到に描かれ尽くされたことなので、何も驚くことではありません。

 以前*『アイカツスターズ!』における書物描写の綿密性について書きましたが、第53話でも図書室が重要な役割を果たします。当然ですね。白銀リリィにとっては読み・書(描)くことと自分自身を書き換える(デザインする)こととがイコールになっているのですから。自身のドレスデザインの決定打を決めあぐねていた白銀リリィと、同じく自身のデザインに迷走を重ねていた虹野ゆめとが偶然に出会いを果たすのが図書館です。
 このシーンは、自分がなにを書(描)きたいのかもわからないまま悶々と資料を渉猟した経験のある者にとっては静かにしかし痛切に突き刺さるシーンであるでしょう。虹野と出くわした白銀は “奇遇ですね” と驚いたのち、なんとも柔らかな笑みを浮かべます。第26話の保健室シーン*を思い出せば分かるとおり、虹野は白銀にとって(幼馴染の二階堂ゆず以外で)自分の話を理解してくれる唯一の人物なのですから、「この人になら話せる」と言わんばかりの、覆っていたガードが崩れるかのような微笑みを浮かべてしまうのも無理のないことです。

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“多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない”*1。白銀にとってまさに第53話は「乾いた不毛[aridity]」の時期にあったと言えます。談話室にて、白銀は虹野を前にして滔々と自分の仕事の版図を述べたてます。

“ドレスはいつも流行に左右されます。だから、一時放ったまばゆいまでの光も、いつかは色あせてしまう。私のブランドでは、時を経てもなお、輝き続けるドレスを作りたいと思っていました”
“先日、それを目の当たりにしたのです。エルザ フォルテのスタープレミアムレアコーデ、あの星のツバサは、永遠に輝き続けるものです” 。



 ここで、虹野が白銀の話をすべて理解し尽くして聞いているわけではないことに注目しましょう。虹野も白銀と同じく創作の迷いの中にいる人ですが、この二人は作風も人格も思考法もまったく違うので、ツーカーで話が通じるわけではない。しかし、誰でも身に覚えがあるのではないでしょうか、自分がなにを産みたいのかも定かでない、自家中毒のような想像妊娠のような時期に偶然に友人と出会い、近くの店に入って自分の迂路について延々と話し、否定も肯定もなしにただ苦笑まじりに話を聞いてもらった、そんな経験があるのではないでしょうか。もう一度引用します、“多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない” 。加えて引用します、 “自分が考えていることを述べるのに脈絡はいらない。自分の時間と身体で考えてきたことは、話す相手にとっては突然の飛躍、文脈の寸断でしかありえない。そういう飛躍を許さない人間に思考はない。突拍子もないことを言い出す友人と、突拍子もないことを聞いてくれる友人はいるか?”* この二つの引用で共通して述べられていることこそが『アイカツスターズ!』第53話の偉大さであり、そのことについては結論部で明らかになると思うので、覚えておいてください。

 さて、対話を経て白銀の “新たな夢、目標” を叶えるための手伝いをしたいと申し出る虹野ですが、ここでもう一人の「友人」が現れます。白銀にとっては幼馴染・親友であり、虹野にとっては昨年度で最も苦しんでいた時期にリハビリを手伝ってくれた恩人である二階堂ゆず。白銀・虹野どちらにとっても「助け」になってくれた人ですね。その二階堂が日課として白銀とのトレーニングに取り組むシーンがあります。ようやく腕立て伏せが二回できるようになったばかりの、「虹野がまだ知らない白銀の姿」を自慢げに見せつけるという、何ともくるおしいシーンです*2。白銀リリィにとって「甘え」の対象たりうる友人と過ごす時間の穏やかさ、が描かれたかと思えば、直後に “ちょっと見ていただけますか” “まだ完成には至っていません” と自分のワークインプログレスを見てもらうシーンに移りもする。日常のなんてことなさと創造する人間の産みの苦しみとが同居して進行するのが第53話です。さて、「乾いた不毛[aridity]」からの脱出をめざすこのエピソードはどこへと向かうのか。

“こんなときは甘い飲み物だぞ” 。外出です。かといって書店とか美術館とか映画館とか、直接にデザインの着想を得られそうな場所に行くわけではありません。いつも友人と過ごすような過ごし方をいつも通りに過ごすだけなのです。まったく劇的ではありません。飽くまで穏やかに時間を過ぎ行かせることなのです。
 もちろん、着想の訪れを渇望する白銀は “ゆず、ありがたいのですが、今はそんな気持ちに……” と躊躇します、が、次の瞬間に彼女は鳥の声を聴く。見上げれば窓に鳥籠。小鳥の声とともに流れる時間の静けさに微笑む白銀ですが、次の瞬間に「ハッ」と表情が変わる。着想が訪った瞬間です。
“ゆず、「書を捨てよ、町へ出よう」! ある劇作家の言葉です、その通りでした! ありがとう、さっそくデザインを……” と上ずった声で訪いの喜びをまくしたてる白銀ですが、 “ほい。慌てない慌てない、シェイクを飲んでからでも遅くないぞ” と穏やかな友人の声がそれを制する。この「乾いた不毛[aridity]」からの脱出の瞬間でさえ、全く劇的でない日常の穏やかさに回収してしまう。逆に言えば「創造する人にとって、飛躍を可能にする着想が訪れる瞬間と日常の穏やかさは矛盾しない」と言い切った、「これはそういうものだ」と言い切ったことで『アイカツスターズ!』第53話の偉大さは明らかなのです。もちろん、創造性の訪いを記録した映画やドキュメンタリー作品は数多くありますし、私もその手の傑作を多く知っています*3。しかし『アイカツスターズ!』第53話は、「毎週放送のシリーズ作品の中の1エピソードとして見せることで、創作する人々の迷いの道の長さを十分に偲ばせることができる」「実録映像ドキュメンタリーではなくフィクション作品であるため、実写ではそうそう収められないような『訪い』の瞬間を記録することができる」などのいくつもの点と噛み合い、たった24分間のエピソードで計り知れないエモを獲得しています……と、こういう賛辞の述べ方さえも適切ではないのかもしれません。繰り返しますが、異様な飛躍の瞬間と日常の穏やかさを矛盾しないものとして、まったく劇的でない、「穏やかじゃない」じゃないものとして描いたのが第53話の偉大さなのですから。

 もしかしたら、「いや、その着想がどういうものだったかがぜんぜん描かれてないじゃん、わかるように全部説明しろ」として当該シーンが不十分であるとする向きもあるのでしょうか。しかしあなたは誰かに代わって夢を見ることはできません。エリオットが『荒地』の1行目を書いた瞬間に頭の中で何が起こっていたか、コルトレーンが『ジャイアント・ステップス』の転調部を次々と書いている最中に脳味噌がどういう状態になっていたか、について何も知ることはできません。誰かの頭の中を覗き込むなど不可能だからです*4。しかし、友人と過ごす穏やかな時間の中に着想を得て、結果として決定打のデザイン(棘と薔薇で飾った鳥籠型のワイヤーパニエ)を書(描)き込んだ白銀が尋常ならざるパフォーマンスを見せる、荒野のように乾いた脳味噌に微量の閃光が差した瞬間にすべて変わる、そんな奇跡を共に待ちわびる穏やかな関係がある、それも日常の中に。特権的な劇的さとはなにも関係がないところに創造性が胚胎していると言い当てたこと、第53話の無比の偉大さはそこにあります。

 白銀リリィのひとつの達成を見届けた虹野は言います、 “わたし、リリィ先輩のドレスづくりのお手伝いをして、ひとつわかったことがあるんです。あれこれ迷うこと、それ自体を楽しまなきゃなって” 。この言を受けた瞬間の白銀の表情と声がまた絶妙です。 “そう……そうですね。本当に” 。自分で思いもしなかったことを友人に言い当てられた、自分自身の盲目をさえも喜ぶように笑うのです。あの「乾いた不毛[aridity]」の時間を一緒に過ごしていたときにはお互いに気づかなかった、そういうものをいつのまにか持ち帰っていた、この歓び。「自分で思いもしなかった」「お互いに気づかなかった」ことが重要なのです。もし創造行為と呼ばれるものが、自分の頭の中にあるものをそのまま外に出すだけの作業だとしたら、それは銀行口座から預金を引き出す作業と同じです。そんなものは創造行為の名に値しません。自分で思いもしなかったことを持ち帰ること、その旅を供にしてくれる友人がいること、その時間が日常の穏やかさと地続きであること、をここまで明晰に描き切った作品を私は他に知りません。「クリエイティヴ」だの「プロフェッショナル」だのと仰々しい気取りとは何の関係もない、理論と鍛錬と自戒の果てに創造性が受胎する、その瞬間を記録することに成功してしまったのが『アイカツスターズ!』第53話なのです。



*1 中井久夫著「創造と癒し序説」ー創作の生理学に向けて『アリアドネの糸』みすず書房刊 297P
 および、それを下敷きにしていると思われる佐々木中さんの講義ノートも参照のこと


*2 この描写をつかまえて、「腕立てを二回しかできないような病弱な人が、チェーンソーを使ったり(第37話)ロケットランチャーを撃ったり(第51話)できるのはおかしいじゃないか」と言ってなにか「設定」の「矛盾」を指摘した気になっている人間を数件ほど確認しました。まあ、優れた作品を前にしてその程度のことしか言えないのかと憐れむしかない人々はどの時代にも一定数存在しますし、本稿ではそういう可哀想な人々の「批判」などは一切無視しています、が、この件に関しては無視するわけにはいきません。

 簡略にいきます。「腕立てを二回しかできないような病弱な人が重い機械を扱えるわけがない」。この手の物言いを平気でしてしまえる者は要するに、「身体的ハンディキャップを負った人間が、重い道具を扱うような、大変なことができるわけがない」と言いたいわけですね。しかし、例えば、足が動かなくなった人が車椅子を使って驚くべきダンスをしてしまえること*は誰でも知っているでしょう。片腕を切断したドラマーが機材の工夫で何の問題もなく演奏できること*、指に障害を負ったギタリストが流麗な演奏をすること*、それどころか両腕が動かなくても両足でギターを演奏してしまえる人さえいること*、などは音楽やダンスを愛する人なら誰でも知っていることではないですか。渡邉尚の言う “特定の物と契約することで、その能力を引き出す” とはまさにそういうことです。「病や欠損を負ったから不完全」なんじゃない、そこから外部の物質と関係を結んで驚くべきことを成し遂げることはいくらでも可能です。それを言うに事欠いて「身体的ハンディキャップを負った人間が、重い道具を扱うような、大変なことができるわけがない」と言い募る「健常者」は、病や欠損を負ったところから創造を始めている人々の行為をすべて無かったことにしたいと言っているのに等しい。自分で言ったことの意味を分かっているのでしょうか。わかっている? よろしい。では、言葉の責任を取っていただきましょう。もしあなたが、本当に自分の言ったことの意味を分かっているなら、人間の身体は生まれついた五体満足の状態が完全であり、それ以外の創造性は宿らないと考えているのと同じことになります。すべての器官には決められた使い方しかないし、一度損なえばもうどうしようもない、と考えているのと同じことになります。では、今すぐ生命活動を停止してください。生まれついた五体満足の身体が完全でそれ以外は何もない、何も変わりようがないし付け加えようがないと言うのなら、どうしてその身体で生き続ける必要があるのですか。生命活動を停止してください。自分の言葉の責任を取るとはそういうことです。生きるのをやめてください。今すぐ。どうぞ。ほら、どうせできっこないんでしょう。ならば今すぐそのナメた言葉の使い方を改めることです。五体満足のくせに頭も手も足も口も耳もろくに使ってないからそのザマなんです。「健常者」で「五体満足」で「マジョリティ」であることがどんなに誇らしいのか知りませんが、病や欠損を負うことと創造不可能性を結びつける思考は根本的に差別的で醜い自惚れに基づいたものであり、また事実と反するものです。自分がどんなに惨めな「肉体」の「思考」にしがみつかれているか、そのちっぽけな脳味噌で一度考えてみたらよろしい。

*3 たとえば三宅唱監督の『THE COCKPIT』という映画があるので是非観てみてください。たった60分弱の映像の中に創造の歓びが織り込まれた素晴らしい映画で、自分にとって「創作ドキュメンタリー作品」のナンバーワンでした。が、『アイカツスターズ!』第53話の途方もない24分間を見せられてしまったあとでは、それも再考の余地が出てきています。

*4 これはもちろん、劇中の登場人物に見えているものと視聴者に見えているものとの間に断絶を置くことで豊かな作劇を生み出している*『アイカツスターズ!』の本質と噛み合うものです。





◎Boneborne文房(その「文藝」の射程)


 前項で「(創作中の)誰かの頭の中を覗き込むなど不可能」と書きましたが、しかし『アイカツスターズ!』は綿密な言葉と意味の連なりで編まれた作品なので、なぜ白銀リリィが「鳥籠からの鳥の声」からあの決定打のデザイン(棘と薔薇で飾った鳥籠型のワイヤーパニエ)を引き出すことができたのか、について理路づけることは可能です。

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 まず、白銀リリィによる『ロゼッタソーンコーデ』のワークインプログレスを確認しましょう。このスケッチの時点でも見事なものですが、デザイン自体は前シリーズブランド『ロリゴシック』の名作『ゴスマジックコーデ』の類型から出ないもの、だとは言えそうです。

 さて、完成形がこれです。ドレス着用モーションの直後、ワイヤーパニエが文字通り目に突き刺さるように飛び込んでくるカットは非常に衝撃的です。

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 この時点でいくつかの「なぜ」を引き出すことができます。

1:なぜ、白銀リリィは「鳥籠からの鳥の声」からワイヤーパニエのデザインを着想したのか
2:なぜそのパニエがワイヤー状の、クリノリンを剥き出しにしたデザインでなくてはならなかったのか



 1:からいきましょう。白銀本人が “青い薔薇のモチーフは、私のお気に入りです。今までも使ってきました” と言っていますが、同様に鳥(籠)のモチーフも彼女に親しいものです。鳥(籠)は『Dreaming bird』の歌詞に何度も登場しますし、そのモチーフ自体は何も真新しいものではなかったはず。ではなぜあの「鳥籠からの鳥の声」が彼女に「新しいアクセント」をもたらしたのか。

 ひとつ回り道をしましょう。「書を捨てよ、町へ出よう」。白銀リリィ本人が引用する寺山修司の言葉ですが、加えて丸屋九兵衛さんの言葉を引用しましょう。 “「書を捨てよ町へ出よう」は、ベリー・ゴーディ社長がスモーキー・ロビンソンに言った「スタジオを出て、ラジオを聴け」の本バージョン……とわたしは思っている。つまり「下地のある人間だからこそ」であって、中身のないヤツが街に出ても単なる通行人なのだ”* 。まったくもってその通りです。読み・書(描)くことの鍛錬を積んで書物に親しんでいた白銀リリィだからこそあの飛躍が可能だったのであって、その鍛錬すら欠いた人間がうろうろしていてもただの通行人で終わりだったでしょう。では、書物に親しんだ人間だからこそ受胎可能だった「鳥籠からの鳥の声」、その着想の飛躍とは何か。

 考古学的事実を確認します。ドイツ南西部シェルクリンゲンで、約3万5000年前の後期旧石器時代に造られたとされるフルートが出土しています*。これまで発掘された楽器の中では世界最古だそうです。その材質はなにか。ハゲワシの翼の骨です。ということは、まだ楽譜すら、文字ですら発明されていない時代に音楽を下支えしていたのは、その楽器の材料は、動物骨だったことになる。

 ここに驚くべきことは何もありません。21世紀の我々は紙に印刷されたり液晶画面に表示されたりする文字を読むことに慣れていますが、当然ながら紙が発明される前の文字記録の媒体は粘土板や動物骨でした。あなたはこの文章をiPadとかSurfaceとかのタブレットで読んでいるかもしれませんが、その “tablet” の由来がそもそも粘土板や石版です。文字は紙以前に多様な媒体に刻印されてきた。我々の直接の先輩である中国文明の「甲骨(文字)」ももちろんその媒体の一つです。しかしシュメールで発掘された粘土板がせいぜい5000年前だそうですから、約3万5000年前のものだという鳥の骨のフルートと比べれば、文字の歴史はとても若い。同じ動物骨に刻まれたものでも、音楽やダンスは文字以上に多様な歴史・様式を孕んでいることになります。

 白銀リリィは、まさにこのことに気づいたのではないでしょうか。誰よりも「書物」に親しみ鍛錬を積み、それでも着想が訪れなかった (“色々資料を繙いたり、素材探しをしてみても、それ[新しいアクセント]が何だかを未だ見出せないのです”)。そんな彼女を導いたのは鳥、生きて歌を唄う鳥、死して骨をとどめてもなお音楽の担い手となる鳥、その声を聴くことで初めて着想が訪った。つまり5000年の文字の歴史から飛躍して約3万5000年前に鳴り響いていた音楽に思いを届かせるにいたった。その飛躍を可能にする最後のひと押しが「鳥籠からの鳥の声」だった、ということになります。

2:
 もうひとつ傍証があります。セリフを引用しましょう、

“ドレスはいつも流行に左右されます。だから、一時放ったまばゆいまでの光も、いつかは色あせてしまう。私のブランドでは、時を経てもなお、輝き続けるドレスを作りたいと思っていました”
“先日、それを目の当たりにしたのです。エルザ フォルテのスタープレミアムレアコーデ、あの星のツバサは、永遠に輝き続けるものです”



『ロゼッタソーンコーデ』を造った直接の動機は、彼女がエルザの中に見た「永遠性」にあったことを見落としてはなりません。『ロゼッタソーンコーデ』を完成させるために必要とされていたのは、この「永遠性」を意味するデザインだったのでしょう。その結果として、クリノリンを剥き出しにしたワイヤーパニエが加えられたと。

 クリノリン=骨組みです。骨です。骨とはなにか。有機体が死してもなお後世に形をとどめるものです。それに手を加えて人類は楽器を造ったり文字を刻んだりしてきた、のは前述したとおりです。『Dreaming bird』の歌い手が「鳥籠を怖がっていた小鳥」に直接重ね合わされていた、のもご存知の通りです。が、第53話で披露される『荒野の奇跡』の歌い手は、籠の中の鳥を解放して飛び立たせるポジションになっています。もはや「歌う人=小鳥」の絶唱ですらなく、籠の中のものを解放しさえすればあとはどうなってもいいという、自分自身を使い切って消尽しようとする姿だけが歌われている。第53話でのステージでは、白銀リリィが蒼い焔に囲繞されるという、DCD版の映像には無かった演出さえもが付け加えられています。

 となれば、結論はこうなります。「自分が死に、焼かれてもなお後世に形をとどめるもの=骨」こそが白銀リリィの見出した「永遠性」だったと。これはロマン主義的な胡散臭い「永遠性」を意味しません。だって、実際に残っているではないですか。約3万5000年前に誰かが造った楽器が、鳥獣骨のフルートが今も現存していることで、われわれは文字が発明される遥か前の音楽やダンスに想いを馳せることができてしまう。これは単なる考古学的事実であり、情緒が介在する余地はありません。しかし驚くべきは、書物に親しみ鍛錬を積んだ人(=白銀リリィ)がたどり着いた境地が「約3万5000年前の音楽とダンス」だったということです。文字だけではそこには到達不可能だった。もっと古い藝能、歌とダンスの力が必要だったし、白銀リリィはその鍛錬を積むことも欠かさなかった。読み書くことと歌い踊ることを区別しない<文学者>白銀リリィ*。彼女でしか到達し得ない「文藝」があり、その具現こそが『ロゼッタソーンコーデ』だったということになります。

『ロゼッタソーンコーデ』。口に出して言ってみればわかるように、この衣装は「ロゼッタストーン」にひっかけた名前を持っている。ロゼッタストーンとは何だったか。紀元前エジプトのヒエログリフが刻まれた石碑でしたね。発見されたきっかけは18世紀末のナポレオン遠征でした。滅亡後に発見され、読み解かれる「文字」。その名にひっかけた『ロゼッタソーンコーデ』を<文学者>白銀リリィが着て舞い踊る……もうおわかりのとおり、ここでは特定の時空をまたいで働きかける「何か」が展開されています。それはもちろん長大な歴史を持つ歌でありダンスであり、かろうじて約5000年の歴史を持つ文字でもある。それらすべてをひっくるめた「文藝」の営み、その永遠性を祝福するために必要だったのが「クリノリンを剥き出しにしたデザイン=骨」だったということです。

 しかし、忘れてはならないのは、石碑や甲骨と違って白銀リリィは有機体だということです。つまり生命に限界があり、焼かれてしまうものです(紙=書物と同じように)。彼女自身病弱であるために、自分自身が有限であること、有機体にしがみつかれていることを誰よりもよく知っているはず。そんな存在が、物質に手を加え新しい使い道を見出すことで途方もない力を生み出してしまう。ジャグラー渡邉尚が “特定の物と契約することで、その能力を引き出す”* と語っているのはまさにそのことです。物質や道具や機械と新しい契約を結んで力を引き出す、その能力は有機体しか持ち得ない。そこにしか「創造性」と呼ばれうるものはないということです。言うまでもないことですが、白銀リリィの導き出した「文藝」をめぐるこの理路は第53話の内容とも完全に合致しています。

 もちろん『アイカツスターズ!』はわざとらしい説明を断固として拒絶する作品なので、こんなくだくだしい長文で説明はしません。しかし、白銀リリィによるデザイン一つで「文藝」をここまで拡張して見せてしまえる、この周到な意味性は一体どういうことなのでしょうか。こんな作品が毎週、年少の子どもたちをメインターゲットに届けられているのです。理路を尽くした結果に到達する飛躍の数々が、ほとんど無償で分け与えられている。この「火の分け前」の「贈与」は、自らを焼いてもなお歌・ダンス・文字が遺ると信じる白銀リリィの勇気なしには成し得なかったことなのです*1



*1 「世界には文字以前の、多様な『記法』がある」「ヒト属最初の言語は歌だった」というのは円城塔さんが小説『松ノ枝の記』で、「原稿は燃えない」「すべてを焼くことはできない」というのは佐々木中さんが小説『しあわせだったころしたように』でそれぞれ書いていることで、本項の「文藝」の定義も両名の著作に強い示唆を受けています。


 また、クリノリンの意味性に関してはTwitter上で葡萄用図氏、メグリム・ハルヨ氏と直接交わされたわけではないいくつかのおしゃべりから強い示唆を受けており、服飾の知識がほぼ皆無の著者ひとりでは本項の結論に到達することは不可能だったと思われるので、ここに記して感謝します。





◎「ゴシック」考

「ゴシック(Gothic)」。前シリーズ『アイカツ!』の衣装ブランドである『Loli Gothic』と、『アイカツスターズ!』におけるリリィの所有ブランドである『Gothic Victoria』の両方についている語ですが、この語を厳密に考えていくと、藤堂ユリカと白銀リリィ、それぞれが別の意味での「ゴシック」性を持っていることを見ることができます。

 まずは辞書を引かないことには始まりません。

Gothic adj.
1:ゴート人[語]の
2:《建築・美術》ゴシック様式の
3:ゲルマンの


 などの17世紀初出の語意が並びますが、

4:野蛮な、無教養の

 という項目が目を引きます。イングランドの文芸評論家ジョン・ドライデンの著作から用例が示されています。引用しましょう。

“All that has nothing of the Ancient gust, is call'd a barbarous or Gothique manner”



「古の息吹とは関係を持たぬ作品ども、それらは野蛮な、あるいは『ゴシック』様式とでも呼ばれるべきであろう」と訳せるでしょうか。1695年の文献だそうです。この文中では「古の息吹 (Ancient gust)」を持つ作品に劣る概念として『ゴシック(Gothique)』が置かれているようですが、ではこの「古の息吹」とはなんでしょう。ギリシャとローマです。当該用例文をちょっと遡ればローマ帝国がギリシャから引き継いだ美術作品への言及があります。「ギリシャ・ローマの正当な美と比べれば、(ゲルマンの・ゴート人の)趣味など野蛮よ」ということになるでしょうか。わかりやすいですねえ。だって「野蛮(barbarous)」の語源がそもそもギリシャの βάρβαροι で「わけのわからない言葉を話す者・異国民」じゃないですか。それを英国人の立場から「ギリシャ・ローマの影響下にない美術とか全部野蛮だぜ」と書いて気持ちよくなってるんでしょうか。イスラームとユダヤを無視して直接的にヨーロッパ文化のルーツをギリシャに求めている白人ほど悲惨なアホもないと思うのですが、それは置いておきます。

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5:中世期風の

という意味での「ゴシック」は1710-1782年ごろに共有されたようです。白銀リリィも第53話で『中世のファッション:図説』を参照していましたね。この頃に現在服飾や絵画や音楽に対して使われるような「ゴシック」の通俗的な意味が形成されたと言っていいのでしょう。もともとは建築用語だったのに、余計な人が余計な意味をどんどん加えたせいで通俗性を獲得してしまった、というので「ポストモダン」とかと近いのかもしれません。

 さて、ここで「ゴシック」に当てられた「野蛮な、無教養の」意に再度注目しましょう。 βάρβαροι の語源からもわかるように、これはそもそも「言葉」にかかわる名称だということです。ギリシャ語も話せない奴ら、と(たぶんペルシャあたりの)人々に対して憎悪恐怖半々の意味で使われていたのであろう「野蛮人」。まあ、確かに聞いたこともない外国語でいきなり一方的に話しかけられたらびっくりするし怖いですよね。しかし本項では「正当なる母国語・野蛮なる外国語」のような図式にはしません。そんなものには興味がありません。重要なのは、母国語の中においても外国語を話す人がいるということです。どういうことか。

 さあ、今回もドン・キホーテに出てきてもらいましょう。彼の雄弁さについては今まで散々書いたので省略しますが、作中でドン・キホーテの言葉を浴びた人たちのリアクションとして「当惑」があります。この騎士のコスプレしたおっさんめっちゃ雄弁なんだけど何言ってるのか全然わかんない、というタイプの反応です。ドン・キホーテは騎士道物語の読みすぎで発狂してしまい、自分を遍歴の騎士だと思い込んでしまったのですから、話し方が市井の(正気の)人々と異なるのは当然のことです。

 白銀リリィの書物への向き合い方が完全にドン・キホーテであることについては以前書きました*が、彼女の「話し方」はどのようなものだったか。第26話冒頭ではまず寒気のヴァイヴで1年生を圧倒し、初対面の虹野ゆめに宣戦布告する場面があります。台詞を引用しましょう、

“散りゆく花のように、人と人との争いは悲しい。しかし、それが定めならば、背を向けることはしません。降りかかる火の粉はこの手で払うのみです”



 雄弁です。雄弁で強烈ですね。初対面のローラとゆめが “すごい個性的だとは思っていたけど” “想像以上に強烈だね” と圧倒されているのも無理からぬことです。
 また、1年生との間で会話を成立させるために二階堂の「翻訳」が介在していたことも重要です。 “負けないぞー、ってことだよね! リリエンヌもS4になるのが夢だからさ” ときわめて簡潔に翻訳してくれたおかげで、白銀はかろうじて言葉の意味を通じさせる事ができたのでした。二階堂の翻訳がなければ、ドン・キホーテ同様に「何だこの人は」と当惑されるばかりで会話すら成立しなかったかもしれません。

 そんな「根本的に話が通じない人(=ゴシックでバルバロスな人)」が、初めて正気の人(=虹野)との対話を成立させる瞬間が保健室のシーンにおさめられている、ことは以前*書きました。白銀と虹野との間には「想像の力で現実に立ち向かう」共通点があったためです。白銀リリィには芦田有莉・桂ミキなどの友人もいますが、(第53話に明らかなように)自身の創作活動に関する話題を共有できるのは二階堂と虹野の二人のみでした。それはもちろん白銀の創作(読み・書く・描くこと)がとりもなおさず言葉と直結していたためであり、彼女自身のゴシックでバルバロスな言葉を理解してくれる人でなければその悩み・迷い・苦しみを共有することさえも不可能だったからです。

 藤堂ユリカもドン・キホーテ的人物ではあります。愛読していた吸血鬼漫画の影響で吸血鬼アイドルとして立身したのですから。しかし彼女は第20話(初登場の次の回)でもう既に星宮霧矢紫吹有栖川四人からの理解を得ており、自身のスキャンダルを吹き飛ばすための試練をくぐり抜けていたのでした。
 では、藤堂の言葉はどうなっていたか。吸血鬼の末裔という設定を忠実に演じきるプロフェッショナルを見せ、同時に吸血鬼漫画を愛する少女である素の顔を仲間たちに見られ、それによって「プロの顔と素の顔を使い分けるアイドル」としての存在が示されたのでした。白銀リリィが学内に友人を持ちながら、それでも深奥の部分(創作)の話題を共有できる人間は二階堂と虹野(=自分の言葉を理解してくれる人)に限られていたのと比べると、その差異が見えてくると思います。藤堂にとって「吸血鬼アイドルとしての言葉」はファンの前でプロフェッショナルとともに演じきるべき言葉であり、「素の自分の言葉」は学友などファン以外の仲間たちと話すときの言葉でした。つまりアイドル活動を続けながらも、「ファンか・そうでないか」によって外部の人間に対してスイッチのオンオフができたわけです(第108話でのテントのシーン*がとくに印象的ですね)

 が、白銀リリィは事情が違いますね。彼女は話し方を選ぶことなどできない。もちろん外部の人間とコミュニケーションが成立しないという意味ではありません(第33話で温泉宿の人々と楽しげに談笑することができていた姿を思い出しましょう。つまり外部への窓を閉ざすような頑なな人ではないわけです)。しかし「演じるべき姿(吸血鬼)」と「素の自分の姿(少女)」との両方を実線を隔てて併せ持っていた藤堂ユリカと違い、白銀リリィは読書を通して自分と自分のなりたいものとの間を隔てる壁を蒸発させてしまった*。だから「演じ分け」なんてできるわけがありません。アロンソ・キハーノがドン・キホーテになってしまったように “完全に正気を失ってしま” い、βάρβαροι(何を言っているのかわからない人)になってしまった。その結果として強固な知性と雄弁さを獲得しましたが、その言葉を理解してくれる人は限られてしまっている。

 まとめましょう。「野蛮な、無教養な」という意味をも持つ「ゴシック」。それは「わけのわからない言葉 (βάρβαροι)」とも関連するものでした。藤堂ユリカは吸血鬼としての自分の言葉・素の自分の言葉を使い分け、立派な「ゴシック」のプロフェッショナルとして立身することに成功しました。つまりファンと友人との両方に、別のやり方で支持・理解を得ることに成功しました。
 しかし白銀リリィには言葉の「使い分け」など不可能であり、文字通りのゴシック=バルバロスになってしまった。その言葉は雄弁でありながら当惑をも招くものであり、多くの理解者を得られるとは限らない。逆に言えば、第53話で「自分の言葉を理解してくれる少数の友人たちとの憩い」を描く事ができたのは、白銀リリィがあくまで「言葉」の人だったからこそ可能だった、のかもしれません。

 かように、同じ「ゴシック」の語でも両者には質的な意味の違いが存在します。その差異を生じさせたのは「言葉」の使い方、「言葉」への向き合い方だった。どちらが良いとか悪いとかどちらが幸せとか不幸とかいう単純な話ではもちろんありません。しかしこの差異に、『アイカツ!』と『アイカツスターズ!』との間の「言葉」をめぐるなにかの差異、をも見る事ができるでしょう。


・<ゴシック>と「ゴス」

 さて「ゴシック」の語意、および藤堂ユリカ・白銀リリィ両者の差異について見てきましたが、ここで「ゴス(Goth)」についても見ていきましょう。音楽・映画・ファッションのジャンルとして用いられる意味での「ゴス」です。高橋ヨシキ氏の文章を引用します。

 今ある「ゴス」という略称は、1982年か83年に、ザ・カルトのイアン・アストベリーが、セックス・ギャング・チルドレンのアンディ・セックス・ギャングを指して使ったのが最初とされています(※)。それが徐々に知られるようになったのはイギリスの音楽新聞「NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)」が「ゴス」「ゴシック」をたびたび紙面で扱ったからです。そうして段々と、単なる音楽の趣味としてではない、ライフスタイルとしての「ゴシック(ゴス)」は浸透していきました(ポジパンとかニューロマは音楽のジャンル、あるいはそのファンを指す言葉なので、「ゴス」とはちょっと名称の役割が違うわけです)。

(※注:『VAGUE』というジンを作っていたトム・ヴァーグが1983年の10月にサザン・デス・カルト、のちのザ・カルトのファンを指して使ったのが最初という説もあります。どっちにしろザ・カルトがらみで初めて使われた言葉ということになっているのが面白いです)
Crazy Culture Guide Vol.22



 さらに氏は、「ゴス」の語を使うにおいて「1:憧れの対象、あるいはロールモデルとしての〈ゴシック〉」「2:必然としてゴスくなってしまった人たち」のふたつの意味を区別する必要がある、と言います。その「(2:の意味での)ゴス精神の映像化」として氏が挙げるのは、もちろん『バットマン・リターンズ (1992年)』のキャットウーマン誕生シーンです。



 たしかにセリーナ・カイルは「必然としてゴスくなってしまった人」です。彼女にとって他に取るべき手段があったでしょうか。差別的な職場で見くびられながら理不尽に命を奪われ、心の臓まで黒に染まってしまったのだから、レザーの衣装を着て復讐に身を窶すしかなかったのです。
(ちなみに、このキャットウーマンの男性版に相当するのが『クロウ:飛翔伝説 (1994年)』の “Burn” のシーンです。地の底まで落とされた人間のドス黒い情念が迸っていて、その悲しさ無残さカッコよさに何度見ても号泣してしまいます。もちろんキャットウーマンのシーンもそうです)

 さて、では「1:憧れの対象、あるいはロールモデル」としての〈ゴシック〉とはどのような人物でしょうか。高橋ヨシキ氏は具体的な例を挙げていないので想像になってしまうのですが、おそらく ALI PROJECT の宝野アリカさんなどがそうではないでしょうか。というのは、高橋ヨシキ氏が「(2:の意味での)ゴスと貧乏との切っても切れない関係」について触れているからです。なぜゴスがあんな黒い服ばかり着るのかといったら、もちろん暗黒を外面的に表現したいというファッショナブルな意味もあるでしょうが、たんに「汚れが目立たないから」「替えの服があんまりないから」という実際的な理由もあるでしょう。他にどうしようもないから黒い服ばかり着るしかない、というのは「必然としてゴスくなってしまった人」の条件に見合うものです。 “Health Goth”* というインターネットミーム発祥の新しいゴスファッションは、「高価な中世風のゴシック服なんて買えないから黒のスポーツウェアでニンジャっぽくしとこう」という志向なのかもしれません(理不尽に命を奪われ復讐鬼として復活するキャットウーマンおよびクロウのバックグラウンドは、そのままフジキド・ケンジのそれと通じます。また、セリーナ・カイルがキャットウーマンになるための衣装づくりがすべてハンドメイドだったことも思い出しましょう。レディメイドにしろオーダーメイドにしろ誰かに作ってもらったものを着飾るような余裕は彼女には無いので、自分のクローゼットにある服を切り裂いて縫い合わせて身に纏うしか手段はなかったわけです)

 もうお気づきとは思いますが、「1:憧れの対象、あるいはロールモデル」としての<ゴシック>になるためには金がかかるのです。ALI PROJECT のジャケット写真やステージ衣装を見ているとたいへん豪華で美しいですが、あれを市井の人間が所有するとなれば経済的・環境的に多くの制限を受けそう(そもそも高温多湿の国であの衣装を管理・維持する事自体が大変そう)です。それらのリスクをすべてクリアするために『Loli Gothic』は古城スタジオを所有していたのでしょう。そのブランドに選ばれた藤堂ユリカは「1:憧れの対象、あるいはロールモデル」の<ゴシック>であると言えそうです。以前書きましたが*、彼女はファンである持田ちまきの問いに対してとても規範的な回答を示し、ゴシックアイドルロールモデルとしての役目を十全に果たせていたのでした(ただし、彼女に吸血鬼への変身願望をもたらしたはずの書物の存在は消え去っていましたが)

 白銀リリィはもちろん「2:必然としてゴスくなってしまった人」です。運命の本を読んでしまった彼女に、他にどういう選択肢があったでしょうか。読んでしまったことを無かったことにはできません。言葉の人である彼女は、ドン・キホーテ同様に本の中の姿に導かれるままに自分自身の姿を書き換えた。そのこともそうですが、「ゴスと貧乏との切っても切れない関係」を加味すると、「白銀リリィが『Gothic Victoria』を立ち上げる直接のきっかけは学園の財政難だった」ことも汲まなければなりません(第39話)。アイカツアイランドの興行で赤字を出してしまった諸星学園長(おお、誤れる父親*よ)が、新しいスポンサーを探す役目を白銀リリィに任せた結果、彼女自身のブランド立ち上げの予算をも勝ち取ることに成功したのでした。ここで『アイカツ!』と『スターズ!』では「ブランド」の定義も変わっていることに気づくでしょう。両シリーズの「デザイナー」の意味性の違いついては以前委曲を尽くしたので省略しますが、『スターズ!』ではミューズ(白銀リリィ:デザイン描画およびその衣装を着てのパフォーマンスを担当)とオーナー(ピロシェンコ氏:主にドレス発表のための運営を担当)のふたつのポジションがあり、その唇歯輔車で「ブランド」が成り立っています。一番近いのはニジンスキーとディアギレフの関係性でしょうか。アーティストとパトロン、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。さらには白銀リリィは自身のブランドを持つ前から書きためていた膨大な衣装のバリエーションがあり、その中から精選したものをブランドの名で出しているわけですから、著者と出版社の関係にも近いかもしれません。重要なのは、「シーズンごとに次々とPR, Rドレスが追加されていた『アイカツ!』に対して、『アイカツスターズ!』のスタープレミアムレアドレスはミューズが苦心惨憺したデザインで打って出なければならない」ことです。2年目からはエルザの登場により『星のツバサ』の獲得がストーリーの核となるので、「ブランド」はその星を降ろすための装置(幕屋)としての役割も担うことになります。そのためには invisible な存在である「アイカツシステム」に選ばれねばならず、そのためにミューズは自身のドレスで賭けなければなりません(前年でS4の座をめぐっていた「賭け」が、今年では星を降ろすための「賭け」に変わっているわけです)。そのために第53話のリリィは「賭け」に向き合ったわけですが、生半可なドレスを出しては「アイカツシステム」は許さないでしょうし、他の誰よりも彼女自身が許さないでしょう。そのために「乾いた不毛[aridity]」の時期を耐え抜き、最良の着想の訪いを待つ必要があったわけです。ということはその間、二階堂からの連絡を受けるまでピロシェンコ氏は白銀リリィに対してスタープレミアムレアドレスのデザインを催促したり、それどころかスタープレミアムレアドレスの製作を白銀リリィに依頼することすらしていなかったことになります(『ロゼッタソーンコーデ』製作の直接的な動機は白銀リリィの個人的な情動=エルザに見た「永遠性」にありましたし、二階堂がピロシェンコ氏に連絡するまでは発表の場すら予定されていなかったことを思い出しましょう)。つまり「作品が受胎するまで仕事を続けてくれたらいい、どれだけ時間がかかっても構わない」、つまり「作品の完成を待ってすらいない」のが「オーナー」のスタンスであり、虹野のブランド『Berry Parfait』の「オーナー」がそうだったように十分な水準に達していないデザインは発表を取り下げるという編集者めいた役割も担っていたのでした。
 ますます著者と出版社の関係性に似てきましたね。もちろん週刊連載の展開に頭を捻る漫画家とか原稿を催促する編集者とかそういう図式のことを言っているのではないですよ。 “「待たれざる状態」とは仕事をするための必要条件にほかならないわけですからね”*1 。『アイカツスターズ!』は読み・書くことについて極限まで誠実に考え抜かれており、言葉と創造とが直接結びついているので、受胎した作品で星のツバサを降ろそうとする「賭け」が一冊の本を江湖に問うまでの「乾いた不毛[aridity]」の時期と重なりあうのも自然なことです。


 さて、「ゴシック」の語意と「言葉の人」白銀リリィを見ていくうちに本稿の論旨も一周した感があります。βάρβαροι(何を言っているのかわからない人)、必然としてゴスくなってしまった人、それは「自分にはそれ以外どうしようもない」という情動に突き動かされて生きている人です。白銀リリィ、ドン・キホーテ。彼女ら彼らの言葉がすべての人々に理解できるわけがありません。市場原理に受け入れられうるものでもないのでしょう。ヘルダーリンもシラーに見捨てられて発狂してしまいましたし、クライストはゲーテにディスられて自殺してしまいました。が、そんな苦しみの中で想像を続けていた人々の姿を無かったことにはできません。“歌やあこがれをめぐる描写から呪いや狂気を検閲しなかった”*『アイカツスターズ!』を前にして「これはいかにもどうかと思う」などと口早な誹謗の言葉を放って踵を返すか、それともその真摯さに導かれるままに付き合うか、どちらの態度をとるかはその人の「言葉」に対するなにかが直接暴露されうるものである、と私は思います。



*1『記号と事件』河出文庫刊 219P



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