2016年映画ベスト10(と感想)

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今年観た映画のやつです

:ベスト10:
 1位が7本あります。

1.LOGAN予告編
1.Xミッション
1.ズートピア
1.ドラえもん 新・のび太の日本誕生
1.シング・ストリート
1.劇場版アイカツスターズ!
1.君の名は。
8.デッドプール
9.X-MEN アポカリプス
10.この世界の片隅に



1.LOGAN予告編


 いきなり変化球であれなんですが、この108秒の映像は今年観たいくつもの優れた映画たちに匹敵するくらいのものがありまして。老いた主人公というより世界そのものが老いていて、それこそ晩年のジョニー・キャッシュの身体のようにいくつもの皺が刻まれた老いの映像になっていて、そんなものをまさかマーベル映画で観ることになろうとは……
「楽曲の力で良く見えてるだけだろ」って言われるかもしれんですがね、逆なんですよ! あんなに完璧なMVをもつジョニー・キャッシュ版Hurtを予告編に使う時点でもう途方もなく高いハードルなんですよ。でもこの予告編はそれをかるく飛び越えてるばかりかあのカバーの文脈(老いたジョニーがジャンルも年代も違うトレントの曲を歌い、それによってトレントのキャリアをも再生させる)と絶妙に合致することによって老ローガンとX-23との関係性のせつなさが浮かび上がる(『アポカリプス』の最後がああ繋がるのかよお……)という、これ、「既存の音楽を使用した映像」史のなかでも事件なのでは。


1.Xミッション


 何度思い出しても「やさしい映画だったなあ……」と。この映画、誰かが誰かを恫喝したり否定したり隷下に置こうとしたりっていう乱暴さがまったく無いんですよ。教官もパパスもボーディたちも迷えるユタの生路(ライン)を見つけるために計らっていて、人間の生き方はひとつではない(The only law that matters is gravity)ことを尋常を外れた人々の生き様を通して教えてくれる、こんなにやさしい映画はみたことがないなあ……

 不当に低い評価が与えられてしまっている映画ではあります。去年は『ファンタスティック・フォー(2015年)』に明らかに不当な低評価が与えられていて(映画を観てさえいない人間が前評判だけで貶していた例まであったのだ。この件に関して私は映画秘宝を絶対に許すつもりはない)、正直なところ「『ファンタスティック・フォー』がいかに優れた映画かを論理的に説明するより、この映画を不当に貶めている人々を全員殺害したほうが早いのではないか」という精神状態にまで追い詰められてしまったのですが(もちろん実行には移しませんでしたよ映画観れなくなるから)、『Xミッション』の不評に関してはそれほど重く考えてはいません。こんなにやさしく側に隣ってくれる映画なのだから、ユタのように路に迷ったとき初めて「そういうことだったのか」と気づくこともあるでしょう。いずれにしろ、尋常の生き方を外れた人々が「See you soon」とやさしく微笑んでくれるこの映画を、私は生涯忘れることができそうにないのです。


1.ズートピア


 “たとえば「差別はいけません」という言葉がダサくカッコわるく見えるのなら、それを新しい美しさで、新しい世界への愛と喜びに満ちて表現できるのかということだよ”。佐々木中さんの言葉の引用ですが、まさにディズニーはそういう新しい表現の技法を磨き抜いているんだな……と格の違いを痛感させられた映画でした。
 ズートピアにおいてまず「マイノリティ」として登場するジュディ、彼女が「差別に満ちた世界を変えていくよ!」という方向なら超イージーなはずなんですが、まず彼女がPC的処遇でとりあえず受け入れられる(ウサギ初の警察官、という門出も市長の点数稼ぎのためでしかない)のがまずエグいし、その後ニックとのバディ関係を経たあとでジュディ自身が会見で思いがけず肉食獣を差別する発言をしてしまう、そのことによって「主人公の行い=正しい」の図式を崩してさらに「マイノリティ」「マジョリティ」の概念さえも問い直しにかかる……もう、一体どんだけ容赦ないのか。
 この映画ではほぼすべてのものが批判されてゆきます。警察、ハスラー、監獄、エスタブリッシュメント、ギャング、都会、田舎、すべてのものが批判にさらされているし、「これひとつあればじゅうぶんだ」というふうには行っていない。ズートピア世界のほぼすべてに(当然ながら主人公とその行いまで)徹底的に批判を加え、言うなれば自分で自分の手を傷つけて、それでも「世界はもっと良くなるはずだ」という希望を最後にひらく(「だが、どうでもいい」という署長のセリフが最初に言われたのと全く違う意味になっている、この上手さ……!!!!)、なんなんだろう。怖いですよもう。モノを考えることのできる大人の仕事って、こういうことなんだ。

 で、これほどの作品を前にして「PCべったりで説教くさい」とか言ってなにか批判した気になっている連中のレベルの低さたるや……実におめでたいですよ、そいつはこの映画の批判の射程が自分自身にまで及んでいることに気づくことさえできないんだから。ズートピアのキャラクターたちの過ちの中に自分自身の立ち居振る舞いを見ることができないんだから。日本版キャッチコピーは「輝け☆ワタシ!」となっていますが、違うでしょ、「変わりな、アンタも」って映画ですよこれは。

「ごちゃごちゃ理屈をこねやがって、映画に政治を持ち込むな」とおっしゃる? 残念ですが、他ならぬウォルト・ディズニー氏こそが最も極端に「映画に政治を持ち込」んでいた人なのですよ。戦争協力者であり、極右の共和党員であり、ゴリッゴリの反共であり、赤狩りの名目で弱いものいじめに励んでいたウォルト・ディズニーの名を冠したスタジオから、このような作品が出てきた。あの人たちは自分の国や会社の歴史に恥辱を感じることができているわけです。差別と暴力と不寛容の季節を経て、アメリカはここまで変わって来た。たとえ来期の大統領がどんなマザーファッカーであろうとも、あの人たちが芸術の迎え火を絶やすことはないのです。


1.ドラえもん 新・のび太の日本誕生


 忘れずにおきましょう、『ズートピア』の北米公開と1日違いで(2016年3月5日)この国では『新・のび太の日本誕生』が公開されていたことを。

 パンフレットの冒頭に “歴史は、さらに未来へ続きます。これからの人類の歴史を、戦争などのない明るく楽しいものにしたいですね” という藤子・F・不二雄氏の言葉が引用されていることに、端的にこの映画のイズムがあらわれていると思いますね。なんてことない当たり前のセリフ(「日本人の先祖って中国から引っ越してきたんだ!」)でさらっと国家神道の欺瞞を撃ち、日本列島に住まう人々の混血性を肯定し、耕作や建築や料理といった生活の技藝(アート)に平和を見出す、なんたる安吾イズム(後述)に貫かれた映画なのか。そして「歴史修正主義者はかならず裁かれる」ことが宣告される場面がクライマックスにくるという……ほんと、これよく検閲されずに通ったなあ!

 ここまで風通しのいい、一切のおためごかしを許さない映画がテレビ局製作で実現されたことには、いくら驚いても足りないと思います。しかもベテラン監督ならまだしも映画初監督の八鍬新之助さん(1981年生まれとかですよ)がここまでのモノを通せたこと、これを希望と呼ばずして何でしょうか。

 さらに、原典のイマイチな部分(タイムパトロールの件)が、ちょっとした工夫で西部劇の騎兵隊展開的に盛り上がる演出になっていたりして、そこもほんと上手いんですよこの映画。セリフひとつカットひとつに膨大な意味が込められていて、その都度停止して「これがさあ! これがさあ!」と延々話したくなるほどに。映画ってこれだよなあ。こういうことだよなあ。
 正直なところ、私は水田わさびアレルギーのため最近のドラ映画はみていなかったんですが、そんなもんはこの映画の冒頭でもう吹っ飛んでしまいました。次の『南極カチコチ大冒険』もポスターデザインや予告編の抑制されたデザインから既にやばさが伝わってくるのでめちゃ期待しています。ドラ映画すごいなあ。あとはドラえもんズをリブートしてくれたら完璧なんですが。


1.シング・ストリート


 あまりにも素晴らしすぎる音楽映画にしてお兄ちゃん映画、で終わりにしてもいいんですが、『フランク』もそうでしたが決して単純な音楽万歳青春映画に堕してないのが誠実すぎる。そして『桐島、部活やめるってよ』の屋上シーンもそうでしたが、「このどうしようもない学校空間の中でせめてイマジネーションの力は抵抗の手段となりうる……のか?」というところまで真摯にティーンエイジャーの苦闘と創作の営みを突き詰めていて、だから『Drive It Like You Stole It』のシーンはどうあってもボロボロに泣かされてしまいますね……誰だってやったことあるでしょうあれ!? 自分の大好きな曲とか(あるいは自分で作った曲とか)聴きながら架空のミュージックビデオを空想するだけで世界がちょっとだけ救えるようになったとか、身に覚えがあるでしょうが、と胸ぐらを掴んでくるような力がありますよ。

 監督は「自分が学生の頃やりたかったけどできなかったことを映画の中でやった」みたいに言ってましたが、それってホドロフスキー翁が『リアリティのダンス』でやってたことに近いなとも。家族の過去を自分で描きなおすことで救うっていう。最後の脱出の船に「JIM」って名前が入ってますが、それが監督の(既に亡くなった)兄の名前だっていう、もう、どんだけできた話だよ……お兄ちゃん大好きだよ……おれもう絶対フィル・コリンズとか聴かないよ。


1.劇場版アイカツスターズ!


 愛の映画です。他に付け加えるべき言葉があるでしょうか。
 毎秒ごとにこのシーンがやばいこのカットがやばいを延々挙げていくこともできるのですが、もう単純にね、人間どうしがお互いを必要としてる関係がこんなにもまばゆいのかと、一切の衒いなく豪速球でこんな愛のかたまりを叩きつけられたので、もう……
 あの姉妹おばあちゃんの存在も重要ですね。若いころアイドルだった二人が一緒に歳を重ねてゆくこと(=ゆめとローラのこれからの人生)をあのおばあちゃんたちの存在一つで肯定してしまっている。『アイカツ!』128話の偉大さは、サニーとジョニーという大人二人がそれぞれの年月を経過して黒沢凛というアイドルの「親」になることで「人間にとって歳をとることは呪いではない」ことを見せ切ったことにあるのですが、『アイカツスターズ!』はそれと同じことを20話足らずのエピソードと劇場版だけでやってしまった……恐ろしい、柿原優子恐ろしいよ。

 しかしそれだけではない。『スターズ!』では「歳をとること」を肯定するだけでは十分でないのです。なぜなら虹野ゆめは「歌っている時に不思議な力が働いて、そのせいで声を喪ってしまうかもしれない」という別の呪いを抱えているわけですから、果たしてあのおばあちゃんたちの年齢まで生き続けられるかどうかわからない。彼女にとってはまさに今(アイドルにとっては花盛りの時期ということになるであろう年代)を生き抜かなくてはならない。しかもその生存のために賭けられているのが歌だという……『アイカツスターズ!』ってそういう作品です。白銀リリィだってそうです。身体の内側になぜかとんでもないもの(不思議な力だったり病だったり)を抱えてしまった人たちが、それでもそこでしか歌えない歌を残してゆく、ひじょうにフレディ・マーキュリー的なショーマストゴーオン精神に貫かれている。だから私はそういう作品にリアルタイムで出会ってしまったことに対して畏怖と歓び以外の感情を覚えることができないのです。
 そして一番恐ろしいのが、この素晴らしい映画でさえ『スターズ!』にとっては通過点でしかなかったということ(劇場版であれほどまでに美しく見せたゆめ・ローラの関係性を裏返しにかかる第21話の容赦なさ……)。26話以降は毎エピソードが暴力的と言っていいほどの凄まじさで、前シリーズとは違って最初から全体の構造をしっかり作った上で勝負にかかっている『スターズ!』の強度に毎週切り刻まれております。柿原優子……

 同時上映の短編については何も言うことは無いです。
 26話以降の絵コンテ・演出における、木村隆一の見下げ果てた仕事ぶりについても言うことは無いです。いや有りすぎてむしろもう無いです。端的にいなくなってほしいなあと思うだけです。


1.君の名は。


 中心を持たない、蝶番を外れた、発狂した時間を映画で見せたこと。この映画の偉大さはこれに尽きます。『去年マリエンバートで』みたいなつまんねえ映画よりも徹底的に時間を狂わせて、それに伴って性別も狂って、女でも男でもない別の何かに成ってゆくことにまつわる映画でした。つまり恋です。男女両性によらない関係性(“二”葉の死とともに家庭が壊れるところから“三”葉の「別の性」への移りゆきが始まっていたことを思い出しましょう。この映画をみてなんかリア充だからイヤだとか相変わらずのセカイ系だとかつまんないことを言ってる人達がいるんですが、果たして何の映画を観てきたんでしょうか。生まれついた性別を放棄するってとこからスタートしてる映画ですよこれ。)、もはやどちらがどちらかを言うことができなくなる次元への移りゆきを、他でもない「書くこと」「書き残されたことを読むこと」の応酬によって織り上げてゆくという、極めて論理的だけどそのロジックが狂っているという映画。それを正面切ってアニメ映画でやってしまった……「偉大」という言葉しか出てきませんよもう。すごすぎる。

 しかしこんな狂った映画をまさか新海誠のアニメで食らわされることになろうとは。役者さんたちの演技にも惜しみない拍手を(とくに勅使河原役の声優さん巧すぎじゃないですか)。あと『小さな恋のメロディ』なんかもそうですが、「男の子が自分で作った爆弾を爆発させる映画は名作」の法則が証明されたのも嬉しいですね。「田舎はほんとにクソ」というのを真正面から言ってくれたのも嬉しい。新海誠さんの地元がどれだけクソ田舎だったのかは知りませんが、こいつぁ田舎を一方的に理想化することしかできない細田守なんかにはできない芸当だよなあ。

8.デッドプール


「愛の映画」という意味で『劇場版アイカツスターズ!』と同じくらい好きなんですが(あ、そういえばウェイドも突然の病に見舞われてそれでも戦っていた人だ……白銀リリィなのかもしれない)、ウェイド・ウィルソンという男の義賊っぷりというか、アウトローやりつつ女の子たちの問題を解決していくイズムは心の底からかっこいいなあと思う。惚れざるをえない。それでも「ヒーロー」と呼ばれる事を頑なに拒否するのは特殊部隊時代に見せられた地獄のせいなのではとか、それでも正気を保って愛する人を見つけて生き続ける姿がほんとうにいじらしいとか、ああもうなんて奥深いキャラクターなんだろうウェイド・ウィルソン。大好き。

 今年観た映画のなかでも一番吹き替えがよかったです。とくに相方の荒くれ酒場のマスター(名前忘れた)の声優さんが素晴らしくて、字幕版とは全く別の箇所で爆笑が起きていた。あれはマジックだったんじゃないでしょうか。
 アクションもキメ絵がしっかり効いていて最高だし(敵の得物空中キャッチからの投擲からの浴びせ蹴り、の流れカッコよすぎ)、低予算感もしっかりギャグに流せていて良いし、「ワム!」がマジでマジでマジで最高すぎだし(とか書いてたらジョージ・マイケルが亡くなってしまった、彼の魂に祝福あれ)、こういう映画がしっかりと大ヒットを記録してくれるっていうのはほんとに嬉しいなあ。


9.X-MEN アポカリプス


「X」!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 感じてみろ!!!!「X」!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!叫んでみろ!!!!!!!!!「X」!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!すべて脱ぎ捨てろ(all is revealed)!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 あの「X」のシーンはもうねえ……去年の『クリード』のクライマックスと同じくらいの嗚咽を映画館内で漏らしてしまいましたね……

「X」に至るまでの段取りも丁寧なんですよ。OPタイトルでまずソ連やナチスなどのシンボルを「もう信じられない共同性」として提示し(言うまでもなくエリック・レーンシャーの生国であるポーランドはソ連とナチスの両方から消えない傷を刻まれた国である)、エリックの彷徨の果てに「もしかしたら信じられるかもしれない共同性」のシンボルとして「X」が立ち現れるという、しかもその瞬間に三部作におけるプロフェッサーとマグニートーとミスティークの分かたれた道が再び交差するという、もう、どんだけ燃えさせる気なのか!!!!「燃えるラストバトル」というジャンルがあるなら、今までにみたあらゆる映画の中でも最高に燃える展開の連続で泣かされっぱなしでしたね……あの親子の関係性もさあ……あの兄弟もさあ……ほんとうにさあ……でブルーレイの特典映像にあの兄弟たちのシーンがやたら充実してたんだけどなにあれ……全部入れとけよ3時間くらいになっても観るから……

 あと80年代ということもあり、キャラクターたちの「ふつうに消費生活を謳歌してる人たち」感が出ててよかったなあ。ショッピングモールで買い物したり映画観たり音楽聴いたりしてる人たちが世界滅亡を企むやつらをボコるという、その気持ちよさがあった。あとオスカー・アイザックの顔力(かおぢから)が良いですねえ。この映画で初めて気づいたけど目と鼻と歯の感じがホドロフスキー翁に似てる。『エイジ・オブ・ウルトロン』と『フューチャー&パスト』の欠点を挙げるとしたら「敵ボスの顔力が弱い」ってことだったんですが(だってウルトロンとセンチネルだし)、『アポカリプス』はその反省が活かせていたように思えたなあ。『シビルウォー』の良い顔合戦もそうだったし。

「(前二作にあった)マイノリティの闘争という要素が薄い」って意見も見ますがそんなことはない。この映画は大きく言ってキング牧師およびハーヴェイ・ミルク以降の、「過去に活動していた先達がアイコンとなり、若い世代を勇気付ける」流れがしっかり汲まれていて、その意味でミスティークはとても良い位置で活躍できていたと思います。ラストバトルの途中で「まさかここで憧れの人に出会えるなんて❤️」というストームの表情が入るのも最高。


10.この世界の片隅に


『新・日本誕生』と同じく安吾イズムに貫かれた映画。この映画の制作背景への言及などは省略します。もちろん完成と劇場公開にこぎつけたことだけでも偉大な映画です。
 ただやっぱり、惨禍においても生存のための技藝を求め続けることをここまで執拗に描いて見せた、華々しさとは無縁の非・物語の強靭さに打ちのめされました。徹底的な考証に基づいた戦時下の生活、そこで行われていた営みが今の我々とも少しも違わないことを見せに見せ、その営みの執拗な持続の線を2016年現在まで引いてくる、この射程の長さ強さ折れなさ。そして玉音放送を茶番として描いたあとに「こんな茶番のためにあの子の命や私の手は失われたのか」という怒りが爆発する、あの流れの凄まじさたるや。

 そして最も安吾を感じるのは、この映画では生活力(料理、裁縫などの広義の「藝術」)は武力(軍備や国防など)より強いものとして描かれていること。あの「戦時下の食事より進駐軍の残飯のほうがよっぽどうまかった」というコミカルなシーンは凄まじすぎると思う。「残飯の中にさえおいしい文化がある国と戦争なんかして勝てるわけがない」という生活力>武力のイズムが徹底されている上に、さらにそこから「あの人たちも私たちと同じようにおいしい食べ物を愛する文化を持っていたのに、どうして戦争なんかしていたんだろう」という素朴な問いをすら提出するという、この鋭さ。「私たちは生活を続けていかなければならなかったのに、どうして戦争なんか始めたんだ?」この問いが差し向けられてしかるべき人間は、まだ生き残っていると思いますね。生活の豊かさは武力なんかよりも強いんだ、こっちは生き続けなきゃいけないんだから戦争なんかしてるヒマはないんだ、おいしいもの食べて描きたいもの描いて、他所から移ってきた人々も受け入れて面白おかしく暮らしてやるぞ、この野郎。という安吾イズムの映画がこの年のこの国で叩きつけられた事実は、何をどうしたって無かったことにはできないのです。


 以上がベスト10ですが、以下に今年の映画みて思ったいくつかの傾向を書いときます。


1:アニメ映画に息づく安吾イズム(『新・日本誕生』『この世界の片隅に』)

 今年の頭に出版された安吾論『戦争と一人の作家』については別記事で書きましたが*、この安吾論とびっくりするくらい符合するイズムのアニメ映画が二本も発表されたのでほんとに驚きました。
「生活の豊かさは軍備より強い」「この列島に住まう人々の混血性の肯定」を指しておおざっぱに安吾イズムと呼んでいますが、言うまでもなくこの年にそういった作品を発表することは具体的な政治的抵抗たりうる、ということです。
 ……『ズートピア』の項でも書いたように「映画に政治絡めて語ってんじゃねーようさんくせえ」と思われてるかもしれませんが、まず作品からの政治性の消去が可能だとする考えはカメから甲羅を引き剥がす行為と同断であり、そういった思考はまず「作品」への端的な虐待としてあらわれるだろう、とだけ言っておきます。「単に美的な(政治性にかかわらない)ものだから良い」とする美学的な思考は、他ならぬその「作品」の政治性自体によって逆襲されるだろう、とも。


2:ちゃんとビビれ

 今年は日本制作の(とくにアニメ)映画がえらいことになっていたのですが、そういった作品を前にして「なぜこの映画がヒットしたのか」を後出しじゃんけんで「説明」しようとしたりとか、あるいは「いやこれはそんなに大したものじゃないんだセカイ系なんだ感動ポルノなんだ」と自分の背丈にあわせて作品を矮小化したりとか、まあそういうケツの穴の小さい、失礼、臀部の開口部が狭小な方々がたくさんいらっしゃいましたが……まあね、仕方ないところもあります。ただ、『君の名は。』を観て「作中の語りが置かれた時間の存在の位相がよくわからない」と言ってなにか批判した気になっている「批評家」なんかを目にしますと、「ここがわからない」とゴネるだけで名乗れる「批評家」とは大した身分でござんすねえ、と苦笑千回したくもなりますよ。

 要するに「ちゃんとビビれ」ってことです。「これは結局こういうものに過ぎないから」と矮小化したうえでなにか言った気になるのはもうやめとけ、ということです。作品に取り組んでる人々はそんな惨めな言葉の使い方はしていない。とんでもない事件としか思えない作品を目撃したなら、徹底的にビビってビビり尽くして、それでも偉大な精神を讃えるために自分の言葉を使うしかなくなる。そういう瞬間まで付き合う気がなくて「批評」とか言ってんじゃねえよ、アホか、讃歌(hosanna)が足りてねえんだお前らの言葉には、と嘲笑し尽くしたくなる事例をたっくさん見てしまったのでとても怒っています(友よ、怒りとともに笑いうることを学びたまえ、植野直花がそうしたように)。なぜこうまでトサカにくるかというと、作品を産むこととそれを受け取ること自体をナメてる奴らがあまりにも多すぎるからなんですけども。
 さっき書いた「作品と政治性は切り離せない」件とも通じますが、まずそんな狭っ苦しい見方で稀なる作品を矮小化して一言二言投じて終わりって、それ、つまんなくないの? 自分が惨めにならないの? 1,800円も払って何やってんの? と思いますね。必要なのはちゃんとビビる用意だけです。尊敬(respect)は見ること(spec)に語源を持つんですから、作品に向き合うことと尊敬の念を示すことは同じことです(不徹底への disrespect を示すことでさえも。友よ、真のディスとはリスペクトと同様に徹底した読みが要求されることをご存知だろう)。目が見えるのに見えてない人間、字が読めるのに読めてない人間があまりにも多すぎますよ。ちゃんとやりましょう。


3:ベトナム帰還兵モノ

 というジャンルがあると思うんです。『ロッキー』一作目のこと? と思われたかもしれませんが、むしろ『ローリング・サンダー』や『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』のほうです。

 特徴をまとめると、

◎過去のできごとによって消えない傷を残された人々が出てくる
◎精神的・肉体的に、壊れてしまった・壊してしまったこと、自分がしてしまった・されてしまったことをめぐる
◎捏造されがちな過去とその語り直しによって進行する
◎贖罪(不)可能性と救済が賭けられている作品


 ということになるんですが。こうして特徴を書き出してみると、『聲の形』は王道のベトナム帰還兵モノだったなあと。あの学校空間はちょっとした差異をあげつらって人間を虐待し、それによって生まれる「虐待した者」の差異によって今度は虐待される側に立たされるという、非人間的なダメージを生産し続ける場所でした。小・中学校でしてしまったことされてしまったことが直接回帰して傷だらけになるのが『聲の形』でしたが、この「小・中学校」を「ベトナム」に、「高校」を「療養所」に置き換えるとそのまま『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』になることがおわかりいただけると思います。そこには「捏造された過去」のサイコドラマと贖いが賭けられていたことも。
 ベトナム帰還兵モノの特徴として、「誰も正しい方途を知っているわけではない」というのがあるんですが(『トゥインクル〜』収容者たちの狂気に対する適切な治療法を誰も知っていなかったように)、『聲の形』の学校空間も、生徒たちはもちろん親権者や教師たちでさえ学校という非人間的空間での正しい振舞い方を知っているわけではなかった。だからこそ川井は都合よく捏造された過去に縋ったりするし、植野はその欺瞞を冷徹に切り捨てたりするわけです。過去の行いとその贖いに向き合うたびに増えてゆく傷、傷、傷、傷。『トゥインクル〜』の終盤以降の展開を思い出していただければわかるように、「贖えなさ」は傷として刻印されてゆきます。
(そういえば『Xミッション』もベトナム帰還兵モノです。というか、あの映画は『トゥインクル〜』のリメイクかと思うくらい筋書きが似ています。ユタは過去の行いのせいで親友の死という消えない傷を負っていますし、ボーディの最期が単なる別離ではなくユタの救済という意味が加えられている点も『ハート・ブルー』にはなかった要素です。『シビルウォー』ももちろんベトナム帰還兵モノで、「自分がしてしまった・されてしまった」過去をめぐる贖いの話でした。じつは『アイカツスターズ!』の本編もベトナム帰還兵モノとしてひじょうに精度が高いのです。「声を喪ってしまうかもしれない」という謎の呪いへの正しい対処法を誰も知っていない、だからこそ諸星も白鳥も虹野も生存のために賭けるしかない、そしてその賭けには過去に姉を救えなかった諸星自身の贖罪が賭けられている……ちなみに私は以前ベトナム帰還兵モノのマナーに則って如月ツバサ×芦田有莉の二次創作を書いてみたことが、云々)

 ここまで書いておわかり頂けたと思うんですが、私はベトナム帰還兵モノに出てくる人々の「正しくなさ」を尊びます。なぜならその人たちは誰も正しい方途を知っているわけではないから。それでも自分の過去を贖わなければならないのだとしたら、それは不可能性をめぐる賭け、あるいは自らを犠牲に捧げることに(『トゥインクル〜』のラストシーンがまさにそうだったように)ならざるを得ない。そういう正しくない人々の贖罪の賭け、の容態を見せられると、人間だよな、人間ってこうだよな、という思いにさせられる。「ベトナム帰還兵モノ」という歴史的事実を冠したネーミングなので逆説的ですが、これってフィクションのなかでしか試みられないことだと思うんですね。『トゥインクル〜』の収容者たちが自身の狂気に向き合うためにサイコドラマが必要とされたように、演じ演じられるものとしてのフィクション、それを見ることによるショック療法、です。

 だから『聲の形』(や『シビルウォー』)の特定のキャラクターの行動を正しくない間違ってるとムキになって指弾してる人を見るとね、ちょっと、何様のつもりなんだろうと思ってしまうんですね。ここでは「自分がしてしまった・されてしまった」ことをそれでも贖おうとする不可能性が賭けられているんだ、それはフィクションでしかできないことなんだ、それを見せられてムキになってるお前はあれか自分ならあの状況で絶対に正しい振舞いができたとでも言うつもりか、とかね、思ってしまうんですね。
「正しくなさ」「向き合えなさ」「贖えなさ」にそれでもケリをつけようとする人間たちの容態、それが『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』であり『聲の形』であり『シビルウォー』であり『アイカツスターズ!』本編だと思うのです。そういう作品たちは痛みとともに生存を続ける(あるいは自分の行いによって誰かを辛うじて救う)しかない、ということを見せてくれる。だから私は「ベトナム帰還兵モノ」ジャンルの粗描をここに残しておこうと思ったのです。近頃は何にでも正しい正しくないを押し付けてくる holier-than-thou な人間ばかりなので、こういう正しくなさの痛みを教えてくれるフィクションに向き合うことは常に何ものかでありえます。


以下、特記事項のあるやつだけ書いていきます。


11.クリーピー
 長らく「90年代末-00年代初頭の負の遺産」「こんな人間を有り難がらなければならないほど日本映画は貧しいのだろうか」という存在としてしか黒沢清を認識してこなかったんですが、これは大傑作ですよ!!!『CURE』で催眠術やメスメリズムをなんか意味あるものとして提示するというキッツいセンスをお持ちだった黒沢清が、「犯罪心理学なんかクソの役にも立たねえ」「俗っぽい欲望だけで人を殺す類の人間は存在するしそれもお前の近所にいる」ていう『悪魔のいけにえ』イズム(テキサス性=恐怖をもたらす隣人性、と言ってもいい)に貫かれた映画を作るとは、やればできるやんか!!!
「警察は正義の味方なんかじゃないし、むしろ他人の惨劇の蜜を吸うハイエナ」っていう方向に振り切れていたのも最高だし、一見キレてる香川照之よりも西島秀俊のほうが明らかに狂ってるのが浮き彫りになるシーンの数々も(「部屋で大人しくしといてください」のシーンとか本当……)素晴らしい。黒沢清はずっと『クリーピー』シリーズだけ撮っててほしいなあ。

12.溺れるナイフ
「おう、殺せって言うとるわ」みたいなセリフをちゃんと演じられる役者がいま日本にどれだけいるのかって話よ……菅田将暉さんは『ここのみにて光輝く』『何者』でもほんとに素晴らしかったんですがこの映画で完全にやられました。かっこいい……

13.ブレイク・ビーターズ
 ダンスと政治性をめぐる描き方が完璧。路上で好き放題やってたダンサーをお上の意向で飼いならそうとしても結局ダメで、お上に背いて踊り続けること自体が政治的抵抗になるっていう。そしてどんなにお上が芸術を利用しようとしたって避けようもなくそこには抵抗する人々の姿が映りこんでしまうのである、という映画でもあったので『RACE(栄光のランナー)』とも通じる映画だったなあと。
 たぶん今年のベストエンディング賞を選ぶとすればこの映画でしょう。何より好きなのは、かつてストリートで踊っていたであろう(そしてこれからも踊り続けているであろう)無名のダンサーたちにリスペクトを捧げて終わること。最近20世紀の偉大なミュージシャンたちのドキュメンタリーや伝記映画が増えてきましたが、この映画は名誉や栄達とは無縁の人々の姿をせめてフィクションの中でとらえようという謙譲の姿勢があって、そこがもう大好きです。こんなに良い映画がごく限られた公開の仕方しかされなかったっておかしいよ。ぜひソフト借りてでも観てください。

14.キャプテンアメリカ シビル・ウォー
『ウィンターソルジャー』は言うほど好きじゃないんですが(あれを政治劇として評価しようとする一部の声がうるさすぎて「けっ、アメコミ映画にロバート・レッドフォードが出てくれたことがそんなに嬉しいかよ」と思ってしまったため)、今回はルッソ兄弟のRPG脳が遺憾なく発揮されていて(「ふふふ流石だなキャプテン、ところで冥土の土産に教えてやろう」的な序盤の流れ最高)、それがMCU内のこの作品の役割とも合致していて素晴らしかった。
 なんといっても飛行場でのバトルですよね。映画の中でスマブラを見たいという欲望をここまで叶えてくれたことに拍手喝采でしょう。『LEGOムービー』もそうでしたけど、スマブラ的表現をここまでの高精度でやられてしまってることに日本のゲーム映画関連の人たちはもっと焦ったほうがいいんじゃないでしょうか。『るろうに剣心 伝説の最期編』のクライマックスとかはかなり上質なスマブラでしたけど、ああいうのをもっとやったほうがいい。
 そして陛下。陛下すき❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎もーーースーツのムッチリ感とか爪撃とか回転蹴りとかもう何もかも最高、さらにスピンオフの監督は『クリード』のライアン・クーグラー……もうどうしよう。まぢむり。
「いい加減MCUも行き詰まってきたよね」とか言ってなにか限界を指摘した気になってる人たちもいますが、『ドクター・ストレンジ』の予告編だけでマーベル映画に携わる人たちがマンガ映画のエンベロープを押し広げるためにどれほど頭を使ってるか、ということを思い知らされますね。きっと我々があらかじめ予期してるみみっちい限界なんかとは程遠いところまで行ってくれるんだと思います。良いものを作るために頭と身体を使っている人々に特大の敬意を。

15.ゴーストバスターズ
 もーーーー大好き。「大好き」以外の言葉が見当たらないんですが、大好きなシーンがあまりにも多すぎて大好きしか言いようがない。大好き。
 とくにあの、クライマックスで危機が去ったあとにクリヘムが売店で買ったパンを食ってるっていうのが最高に好き。日常と超常現象が分断されることなく自然に存在してるあのノリがあまりにも好き……幸せすぎる。
 あと今年のベストエンドロール賞はこの映画ですね。あいつも悪いやつなりに楽しくやりたかったんだよなあ、そうだよなあ、という優しさがたまらんし、さらに3D映画のギミックも最後の最後まで活かせていてそこもよかった(ずっと思ってたんですけど、3Dを前提に作っておきながらエンドロールが真っ暗な映画ってなんなんですかね?)。楽しいものを楽しく作れる人たちって素晴らしいよなあ、こういう映画を一年に一本見られるだけでもう幸せだよなあ、そんな映画でした。

16.聲の形
『ゆきゆきて神軍』meets ベトナム帰還兵モノ、という映画でした。とにかく植野直花ですよ。『ゆきゆきて神軍』奥崎氏並の、欺瞞を許さぬ捨て鉢っぷりにやられました。「石田、ダサくなったわあ」と嗤う語尾のすべてに怒りが込められている、自分の贖えなさ(共犯性)を重く受け止めているからこそ軽々に小学生時代の罪を贖おうとする石田が許せない、しかし彼女が最も石田に対してフェアに接しているし思いやってもいる、この「正しくなさ」でしか担えない人間の有り様にやられましたよ。
 正しくない人間たちがそれでも自分の立場でしか言えないことを少しずつ出し合っていく、もちろん痛みも伴うけどそれと一緒に生きていかなきゃいけないっていう、実に真っ当なことを言っている映画です。とくに川井ですね。彼女が最後まで欺瞞的存在として一貫していたのが良かった。自殺するよりは欺瞞と一緒に生きていくほうがよっぽどマシだよ、ほんとそうなんだよ。

「学校」というものを、人間をして人間に虐待を加えさせる非人間的な空間として描いたのも誠実だった(『言の葉の庭』もそうでしたが)。とくに小学生時代の石田たちはそこでの生存が賭けられていたわけです。(身体的ハンディキャップという目立ちやすい差異を持っているために)真っ先に虐待される側だった硝子は誰よりそのことに敏感だった。しかしハンディキャップの苦悩がこの映画の主要素かというとそうではなく、インコンプリートであることを受け入れること、むしろ自分はコンプリートな(周囲と差異のない、誤らない)人間だという意識こそが差異を積極的にあげつらわせて虐待を生産するんだ、というところまで言えていたのが本当にすごいと思う。学校という非人間的空間を撃つための矢玉が明確。
 だから贖えなさに向き合って自殺未遂にまで至った石田と硝子はインコンプリートとして身を寄せ合っていくしかなくなるし(「生きるのを手伝ってほしい」のセリフの明晰さよ。もしこの映画が「健常者も身体障害者と助け合っていきましょう」というPC映画だったら「手伝わせてほしい」になるはず。もはやここではハンディキャップがあるかどうかは問題でなく、自分がインコンプリートであることを受け入れられるかどうかが賭けられている)、最終的にはあの子たち全員がそれぞれ痛みを負うことによって「正しくない」存在として生き続けるしかない、ところで終わっていた。誠実だし、安易な「癒し」に逃げない映画です(真柴くんだけ傷が浅いように見えますが、彼は漫画版のエピソードが省略されているので一応)。

 この映画が不快だの感動ポルノだの吠えている人たちがいましたが、まあ、そういう人たちがこれから積極的に虐待に加担しないことを願いますよ。自分が清廉潔白だと疑わない、常に正しい判断ができるのだというコンプリートな意識こそが虐待を生産するのだと、他でもないこの映画が言っているのですから。

17.太陽
18.アイアムアヒーロー
19.何者

20.カラテ・キル
 真面目な映画を真面目に作ることの大切さを思い知らされました。21世紀にマンソンファミリーが存在するならスナッフフィルム業者だろうという切り口が新鮮だし、対銃弾の特訓シーンはいとおしくて最高だし、あのサムライとの決闘シーンは燃えるなあ……このプロダクション「マメゾウピクチャーズ」の作品はこれからもチェックしていこうと思います。

21.オデッセイ
 生き延びるには何かを作らなければならない、そしてその創造はウンコから始まるのかもしれない、ってことを描いてくれた映画なので、もう素晴らしすぎる。最後の「リドスコからきみたちへのメッセージ」みたいなくだりも最高。そしてボウイ。ディスコ。“I Will Survive”。カンディード精神。

22.ハドソン川の奇跡
23.サウルの息子

24.キングオブプリズム
 こんなサイケデリックゲイムービー(広義)が21世紀の日本で出てきてくれたことがうれしすぎますよ! 『ロッキー・ホラー・ショー』の末裔ということで「おうえん上映」にも参加したかったのですが、実は最初に通常上映で観たあとあまりにも理性をやられすぎて発狂寸前にまで追い詰められてしまい(どれくらいかというと九九ができなくなったくらい*)、こんなものを何回も観てしまったらおれは狂死してしまうという防衛本能が先に立って1回しか観ることができませんでした申し訳ない。でもこんなに出てくる男の子みんなとエッチしたいって気持ちにさせてくれる映画ってすごいですよ。

25.RACE(栄光のランナー)
「これ史実なのかよ!(喜)」と「これ史実なのかよお……(惨)」が交互に襲ってくるような映画で。あの状態でもロングのように抵抗し続けた人がいただけでも救いと言えるのかどうか、しかしリーフェンシュタールの存在が示しているように「惨禍の当事者であっても表現は抵抗の手段たり得るのか」という問いを提出してくる映画でしたね……あとコーチの存在ひとつでめっちゃブロマンス要素が供給されてたのは、陰惨さだけでない風通しを感じさせてよかった。

26.ペレ
『ストレイト・アウタ・コンプトン』もそうでしたが、アフリカ系の家庭では母親がいちばん強いんだっていうのを自然に見せられると、それだけでぐっときてしまいますね。本編はまるでカンフー映画のようでよかったです。

27.ローグ・ワン
 ドニー・イェンとジャン・ウェンが完全にドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係だったので、それだけでもうたまらんですね。ドン・キホーテ的キャラクターでは「発狂している」「戦うと強い」「弁が立つ」の三要素がまず必要とされるんだけど、今回のドニーさんは「弁が立つ」の要素もちゃんと備わっているのが良かったです(ここをおろそかにしているキャラが多い……)そしてドニー・イェンの最後の見せ場、ただ「歩く」だけのアクションがあそこまで劇的に見えてしまう手際もほんとに見事だと思いました。
 ローグ・ワンおよび同盟軍の戦法が完全にベトナムで、アメリカとしての帝国軍が彼らに一杯(どころか何杯も)食わされる展開も感慨深かった。そういう意味で「非白人映画」になれていたと思うし、そういう映画がディズニーに配給されて観ることができるのも嬉しいなあ。

28.インサイダーズ/内部者たち
29.ルーム
30.マジカル・ガール
31.ブリッジ・オブ・スパイ
32.ブルーに生まれついて

33.バットマンVSスーパーマン
「DCでようやく映画と呼べそうなものが出てきた!!!」って感じですよ! ザックやるじゃんか! 鉄マンの擁護不能なクソっぷりから比べると奇跡のような進歩ですよ。あのクリプトナイトを携えての宣戦布告シーンとか、力技でジャイアントスイングに持って行く流れとか、「いいぞ!」と前のめりにならざるを得ない場面がいくつかあった、これだけでもうすげえ。他のシーンは全部忘れたけど、バートンシュマッカーバットマン以降は完全に虚無のような作品ばかりが続いてきたのを思うとこれはシルバーライニングでしょう。
『スーサイド・スクワッド』は観てません。観るつもりもありません。俺のボヘミアン・ラプソディが汚されたら困るので。というか、あの予告編の段階で「うわ、これ絶対マズいでしょ」と思ったのですが、あの予告編が好評で本編の編集までやり直したらしいじゃないですか。正気? 「既存の音楽を使用した映像」についてずいぶん皆軽々しく考えてるんだなあと、痛感させられた事件ではありました。

34.ドープ

35.ヒッティング・ジ・エイペックス
 いちばん好きなピンク・フロイドの曲のいちばん好きな歌詞がものすごい文脈で引用されてきたので、その瞬間に滂沱の涙が出てしまいましたね……

36.ミスター・ダイナマイト
37.LOVE
38.オアシス:スーパーソニック
39.スティーブ・ジョブズ
40.クリムゾン・ピーク
41.イット・フォローズ
42.ルドルフとイッパイアッテナ

43.ボーダーライン
 終わり方とかすげえよかったんですけど、ドゥニ・ヴィルヌーヴは「カナディアンとしての安全圏から一方的にアメリカの闇を暴く」スタイルをいいかげんやめたほうがいいんじゃないでしょうか。お前の国に対してなんか言うことないの? と思っちゃうんですよね。ドランは『Mommy』でそこんとこ乗り越えたんだぜ。柿の種とブレードランナーがどうなってるかは知らないけど、ちょっと自分の勝てるジャンケンしかしてない感じが鼻に付くのでね。

44.スター・トレックBEYOND

45.ダゲレオタイプの女
 大丈夫、大丈夫。忘れるから。『クリーピー』はよかったから。日仏合作って時点で色々と無理があったんだから、大丈夫。気にしないから。『クリーピー2』作ってくれさえすればいいから。『悪魔のいけにえ2』と同じように名作になるから。
 ……しかし、タハール・ラヒムの顔が『CURE』や『カリスマ』の頃の役所広司と全く同じタイプのダメな顔にされていたので、ほんとに顔を良く撮れない監督なんだと思いましたね……どれだけホラー映画論をこねくり回したって、役者の顔を良く写せていない映画は無価値です。

46.ヒメアノ〜ル
「貧」の映画。搾取しあう人間どうしの貧さだし、こういう映画をなにか意味あるものとして提示してしまえる作り手自身の貧しさでもある。
 しかしまあ、理由のない災害のような暴力が面白いものなんだろうか。無軌道な殺人に詩情や悲哀を抱き合わせる手口はどこまでも安易で、きわめて幼稚。『悪魔のいけにえ』千回みなおして出直せ。彼らには流儀があるし、通行人への暴力の安売りなんかしない。自分のかけがえのない土地に踏み込まれたところで初めて牙を剥くし、そこには詩情だの悲哀だのなんかに接続される余地はない(和解も)。彼らは「他者」だからだ。他者性や流儀なき暴力の安売りが映画になり得ると思ったら大間違いだ。

47.ヘイトフル・エイト
 今まで少なからず持っていたタランティーノへの好意がゼロになるどころか一気にマイナスに振れてしまった。『インターステラー』のような愚かさ、とでも言うべきか。一見開かれたことをやってるフリして救いがたい自閉を抱えているうえに、不注意に観ればそれなりのジャンル映画として見えてしまいそうなところも悪質。言いたかないけど、西部劇ジャンルをなぞりつつさらに新しい要素を実験して奏功している例で言えば『新・日本誕生』のほうがよっぽど西部劇してたよ。

48.ちはやふる 上の句

49.SHARING
「醜い」としか言いようがない。「預言者」でありたいという欲望、スピやオカルトをダシに震災を扱おうという周回遅れのセンス、徹底的に非政治的なものとしか芸術や宗教のモチーフを使うことのできない無様、なにもかもがくだらない。映画にも震災にもそういうふうにしか向き合えないのならもう全部やめちまえ。

50.シン・ゴジラ

 いろんな人がこの映画についていろんなことをくっちゃべっていて、本当に恥ずかしいことに自分もいろいろ余計なことをくっちゃべってしまったのですが、この映画に対して向けられるべき言葉として有効と思われるものは上記の一行だけでした。ただこれだけのことを言うことができずにいろいろ余計なことをくっちゃべってしまったことを十字架にして背負っていこうと思います。



 という感じです。毎年言ってますがまさかこんなにいい映画ばかり観ることができるとは。来年ももっとすごくなるでしょう。
 全世界的に色々と最悪の方向に向かっているとは思いますが、知ったことじゃありません。投ずるべきもの投じて、捨てるべきもの捨てて、この地上にはまだゲラゲラ笑いながら暮らせる場所があることを証明していきましょう。良いお年を。
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