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「無関心性」の罠を撃ち、生存の「技藝」の沃野をひらく(佐々木中著『戦争と一人の作家:坂口安吾論』)

注:引用元の文の傍点箇所はすべて引用時に太字に置き換えた。
  また、佐々木中氏が「芸術」ではなく「藝術」の文字を使用する理由が述べられるのは『切りとれ、あの祈る手を(2010年)』の時点であり、『夜戦と永遠(2008年)』ではまだ「芸術」の表記が使用されている。また、安吾も「芸術」の表記を使用しているため、本稿では佐々木中の「芸術」と佐々木中の「藝術」と坂口安吾の「芸術」のみっつが混在しているが、引用元の文章を最大限尊重するため敢えて表記を統一することはせず、そのままにした。





 佐々木中氏の理路において、『判断力批判』批判は一貫して行われている。

 藝術は無関心性ではない。藝術は利益(関心、interest)に関わらないものではない。藝術が「美的でしかないもの」として、ある檻の中でのみ生存を許されるようになったのはたかだかこの二百年であり、ごく地理的歴史的に限定された事態にすぎない。美術館や博物館に閉じこめられて美だけに奉仕する、生きること自体に関しては二次的な装飾物であり贅沢品でしかない高踏的なものとしてのみ理解される「藝術」は、当然だがすでに問題ではない。ゆえに、「藝術」を否定することにも意味はなくなるーーそれは使い古された手、もはや何の才気も努力も必要としない自堕落なやり口にすぎない。実際、批判的であるにせよ美を単なる制度に還元する考え方は、美を美に対する特定の態度に帰するカント美学の考え方と同形式であり、実は同根である。

『仝――selected lectures 2009-2014』佐々木中著 河出文庫刊 112-113P


 基本的な確認をする。いわゆる「藝術」が出現したのは、一八世紀半ばである。fine art あるいは beaux-arts 〔正確に言えば、beaux-arts というフランス語は十七世紀くらい迄は狭義の藝術概念以外の意味も含んでいた。〕すなわち「美術」 とも訳され、それと同義とされる藝術は、近代の産物である。これは、有用性や利害関係と切断され、「藝術のための藝術」という言い方で明瞭に示されるような、今のわれわれに親しい藝術概念である。それは、地理的歴史的に限定された事態にすぎず、ごく短い歴史しか持たない。ゆえに、「藝術」を否定することにも、もはや意味はない。繰り返すが、美や藝術を単なる制度性に還元して批判する見方は、美を美に対する特定の態度に還元するカント美学の考え方と同形式であるにすぎない。藝術批判は、もはや意味をなさない。

『仝――selected lectures 2009-2014』佐々木中著 河出文庫刊 250P


 この「思考停止」は、要するに現実に「関心=利害」を持たない、カント的な無関心性を導入する手続きにすぎない。美を美として見るためにはそれへの「現実的」な「利害関係」を括弧に入れなくてはならないという例の操作を、安吾はここで行っているだけだ。近代美学では当然の前提とされている例の操作を。人間はどのような場合でもこのような操作を行い、現実を括弧に入れて美をそこに見出すことができる。まさに「退屈」で「陳腐」な操作だ。

『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中著 河出書房新社刊 198P


 これだけでもほんの一部にすぎない。美=無関心性とするカント美学への峻拒は『道徳の系譜学』第三論文におけるニーチェの徹底的な『判断力批判』批判を汲んでいると見ることもできるが、氏の第一作目にあたる『夜戦と永遠』において、藝術と無関心性はすでに「政治的」問題として提出されていた。一九八八年、サルマン・ラシュディ著『悪魔の詩』の出版にことを発したイスラームの反応(シーア派の最高指導者ホメイニからラシュディに下されたファトワー、および『悪魔の詩』日本語翻訳者の五十嵐一氏の何者かによる殺害、などを含む)への言及である。

 気をつけよう、少なくとも八八年のこの時点では、これはイスラーム内部の問題である。たとえばピエール・クロソウスキーの『バフォメット』も、このようなムハンマドを嘲弄するような部分を含む。しかし彼は異教徒であって、イスラームの掟に従う者ではないのだから関係がない。彼らムスリムたちが憤激したのは、同胞であるはずのラシュディが、自らたちを嘲弄してきたヨーロッパ人と同じ語彙、同じ文句を使って自らの社会の枢要をなすフィクションを破壊しようとしたからなのだ。
 これに対して、西欧ジャーナリズムおよび知識人からの反応は、「表現の自由」という理念に準拠するものであった。「表現」は自由でなくてはならず、信仰も自由でなくてはならない。よりにもよってフィクションである小説をその内容によって政治的に、法で裁くなどというのは「法外」なことである。「だって、たかがフィクションではないか」。これが西欧の、そしてわれわれ自身の素朴な観念である。こんなこともわからないイスラームは、だから野蛮なのだ。といわんばかりの論調。それが次々に述べられていくことになる。

『定本 夜戦と永遠』佐々木中著 河出文庫刊 上巻413-414P



 ここでムスリムの精神分析家フェティ・ベンスラマの著書『物騒なフィクション―起源の分有をめぐって』が紹介され、ベンスラマによるウンベルト・エーコおよびミラン・クンデラへの批判*1ーー苛烈にして正当なーーが引用されたのち、氏は続ける。

 なぜ小説が、「フィクション」が「自由」なのか。それが道徳や法や政治と関係がなく、その内容が政治的に問われないのか。このことは自明のことではない。フィクションこそが、そのイメージとダンスと言葉と歌とを総動員して練り上げられる「モンタージュ」こそが、政治的なもの、社会的なもの、なによりも宗教的なもの、そして主体の形成の「装置」そのものだった。世俗化という「策略」、神の死という「フィクション」を戦略的な条件として捏造することによって、ヨーロッパは自らの国家を「戦略兵器」に変え、グローバリゼーションすなわち世界の西洋化、もっと言えば「キリスト教化」を行ってきたということはすでに見た。そこでテクストは刈り込まれ、塞き止められ、去勢された。そこでヨーロッパは、法学と神学の分離に始まる近代的な理念の設立にあたって、<政治的なもの>と<美的なもの>を切り離したのだ。実は国旗や国歌、宣伝やプロパガンダなどという形でそれを「後ろ手で」操っているにもかかわらず、自分はそのようなイメージの権力の野蛮さとは縁がないと思い込んできたのだ。

『定本 夜戦と永遠』佐々木中著 河出文庫刊 上巻 416P



『悪魔の詩』事件はたんに「芸術の問題」なのではない。演劇・小説・詩などのテクストから政治的機能を削除する美学的見地、それは「ごく地理的歴史的に限定された事態にすぎず」、政治的テクストの客観的・合理主義的な還元というヨーロッパのバージョンの管轄下にあるものにすぎない。その美学的見地に立った「知識人」たちはイスラーム(当然ながら彼らはそのような理念など共有する必要がない)と遭遇し、あらかじめ政治性が消去された自らの「表現の自由」を見ることになった。よってエーコやその他有象無象の「表現の自由」擁護は、他ならぬ彼ら自身の盲目がイスラームとの遭遇により明らかにされたということでしかない。

「ヨーロッパのバージョン」と繰り返したが、この盲目は日本語圏で読み書きする我々とも無縁ではない。佐々木中氏がヨーロッパの知識人たちの「表現の自由」への自閉を言い当てる際に「西欧の、そしてわれわれ自身の素朴な観念(強調引用者)」と書いていたことを読み落とすまい。われわれはいつの間にか、<政治的なもの>と<美的なもの>とを切断する思考に慣れきっている。げんに今夏、「音楽に政治を持ち込むな」という噴飯モノの意見に対してどこぞのおぼっちゃんが(よりにもよってドゥルーズ=ガタリの戦争機械概念を持ち出して)「音楽は基本的に反体制」という卒倒モノの反論をするという、茶番と呼ぶも愚かな一幕が演じられたばかりだ。*2 やや脱線するが、音楽から政治性を削除することは不可能である。それは切り離せるものではない。ジョン・ケージの理路によれば、肉体的に存在する限り音楽は死に絶えることがない。ゆえに政治的であることをやめたいのなら生命活動を停止しなければならない。ごく簡略に書いたが、これは筆者が現在準備中の非美学的ダンス論において検討予定の理路であり、ここでは詳述しない。話を戻す。


 2016年2月に刊行された佐々木中氏の最新刊『戦争と一人の作家:坂口安吾論』では、『堕落論』『続堕落論』における安吾自身の美学的=非政治的態度への自閉が浮き彫りにされてゆく。「天皇制」に「独創的な」「政治的作品(カラクリ)」を認め、「健全な道義」から「堕落」せよと言い、「堕落は制度の母胎」なのだと述べる安吾は、なぜかその結果として政治性を削除してしまう。

 つまり、安吾にとって、安吾の「堕落」以前の「天皇制」「武士道」は「政治」的な「案出」「独創」「カラクリ」であるが、この「堕落」以後の「自分自身の武士道、自分自身の天皇」は「政治」的「独創」であっては困るのだ。旧い「独創」は「制度」であり「政治」だが、新しい「独創」は「制度」であってもいいが「政治」であっては困る。厳密に読めば、どうしてもそういうことになる。

『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中著 河出書房新社刊 160P



 作家:坂口安吾が戦前戦中戦後において奇妙なまでに陥り続けた非政治的=美学的態度への問い糺し。『戦争と一人の作家』の理路はこのひとつに貫かれていると言って過言でない。もちろん晒し上げや痙攣的な批判といった過誤は注意深く避けられているが、特攻という強要された現実を見ずに「美に惑溺」し「殉国の情熱」を見ようとする安吾の態度を「不可能であらうし間違ってゐる」と一刀両断にする冷徹ささえ息づいているのだ(131P)。「安吾的思考」と「安吾的語彙」を徹底することで坂口安吾自身を批判するという、かつてフーコーが「ニヒリズム」のニーチェ的用法を徹底することでニーチェ自身(とハイデガーの拡大解釈)を批判したあの瞬間のような、怖気を感じずにはいられないほど徹底された原典への読みに裏打ちされた論旨が進行する。

 政治を論ずるかに見えて最終的には「政治」を消去する作家、坂口安吾。その果てに彼は「戦争」に「美」を見ることになった。安吾の美学的倒錯は『続戦争と一人の女』において一挙に指摘される。

 安吾は「不具の女」に、その性的享楽の代替物としての戦争を与える。戦争はそこで美しいものとなり、享楽さるべきものとなる。みずからを殺し、いつかは「強姦」するかもしれない戦争を。そこでは虐殺も暴力も特攻隊も肯定される。女自身が「バクダン」なのだから。どころか、女の「食慾をそゝる、可愛いゝ、水々しい小さな身体」自体が「戦争」なのであり、存分に男は「オモチャ」にして「しやぶつて、からみついて」いることも出来る。女は「一時的に亢奮し、感動」し、そしてそれについて知的な理解をもたない。男は女の非合理性に圧倒されつつ、しかし知性は野村にあり、女は無知である。「女は……正体をさとらなかつた」「女だけが知らないだけだ」。だが、言おう。安吾だけが知らないのだ。無知なのは安吾だ。この女の矛盾と暴力性と不具性が、安吾自身のものであることを。安吾が投影しているにすぎないことを。
 戦争を愛し、空襲を愛し、強姦されることを望み、不具であり、無知であり、非合理であり、凶暴であり、肉体そのものであり、ーーそして「白痴」の女がそうだったように白痴であり芋虫であり、「桜の森の満開の下」の女がそうだったように暴虐であり鬼であり、「夜長姫と耳男」の夜長姫がそうだったように残虐であり高貴でもある、こうした矛盾をすべて「女」に投影し拝跪するーーあるいは玩弄する、同じことだーーという所作は、むしろ近代文学では凡庸な手口にすぎない。安吾の倒錯的な「美としての戦争」は、遂にここに帰着する

『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中著 河出書房新社刊 185-186P



 そして、戦争を「気楽なそして壮観な見世物」として享楽する安吾の「思考停止」こそが、現実に関心=利害を持たない、カント的な無関心性を導入する手続きにすぎない(198P)と指摘され、「常に傍観者、又、弥次馬の一生であった」と述べる安吾の態度こそが彼をして(小説において)ファルスを書くことを失敗させていたと論は進む。
「傍観者」で「弥次馬」である安吾の態度こそが「美学的無関心」を、「優越」を保証するのだから、安吾はつねに誰が誰を突き放すかが曖昧なままだった。「ファルスは、定義上、その作者をも、いやその作者をこそまず「突き放し」「笑う」ものではなくてはならない。だから、彼の作品には「坂口安吾」が登場しなくてはならない(201-202P)」と一息に安吾の不徹底が宣告される箇所などは、そのあまりの容赦のなさに眩暈を覚えるほどだ。

 では、安吾はついにファルスを書き得なかったのか。そうではない、安吾のファルスの最高傑作は別にあると氏は言う。そしてそれは小説ではない。死の二年数ヶ月前、一九五二年十月に発表されたエッセイ『もう軍備はいらない』である。

もう軍備はいらない - 坂口安吾(青空文庫)

 自分が国防のない国へ攻めこんだあげくに負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかに攻めこんでくる兇悪犯人が居るような云い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。ブタ箱から出てきた足でさッそくドスをのむ奴の云いぐさだ。


 しかるにそこの貧乏オヤジは泥棒きたるべしとダンビラを買いこみ朝な夕なネタバをあわせ、そのために十八人の子供のオマンマは益半減し、豊富なのは天井のクモの巣だけ、そのクモの巣をすかして屋根の諸方の孔から東西南北の空が見えるという小屋の中でダンビラだけ光ってやがる。


 高い工業技術とか優秀な製品というものは、その技能を身につけた人間を盗まぬ限りは盗むわけにはゆかない。そしてそれが特定の少数の人に属するものではなく国民全部に行きたわっている場合には盗みようがない。
 美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう。すくなくとも、その国が自ら戦争さえしなければ、それがこわされる筈はあるまい。
 このような生活自体の高さや豊かさというものは、それを守るために戦争することも必要ではなくなる性質のものだ。有りあまる金だの土地だのは持たないし、むしろ有りあまる物を持たずにモウケをそッくり生活を豊かにするためにつぎこんでいる国からは、国民の生活以外に盗むものがない。そしてその国民が自ら戦争さえしなければ、その生活は盗まれることがなかろう。
 けれどもこんな国へもガムシャラに盗みを働きにくるキ印がいないとは限らないが、キ印を相手に戦争してよけいなケガを求めるのはバカバカしいから、さっさと手をあげて降参して相手にならずにいれば、それでも手当り次第ぶっこわすようなことはさすがにキ印でもできないし、さて腕力でおどしつけて家来にしたつもりでいたものの、生活万般にわたって家来の方がはるかに高くて豊かなことが分ってくるにしたがってさすがのキ印もだんだん気が弱くなり、結構ダンビラふりかざしてあばれこんできたキ印の方が居候のような手下のようなヒケメを持つようになってしまう。昔からキ印やバカは腕ッ節が強くてイノチ知らずだからケンカや戦争には勝つ率が多くて文化の発達した国の方が降参する例が少くなかったけれども、結局ダンビラふりまわして睨めまわしているうちにキ印やバカの方がだんだん居候になり、手下になって、やがて腑ぬけになってダンビラを忘れた頃を見すまされて逆に追ンだされたり完全な家来にしてもらって隅の方に居ついたりしてしまう。
 もっともキ印がダンビラふりまわして威勢よく乗りこんできた当座はいくら利巧者が相手にならなくとも、相当の被害はまぬがれない。女の子が暴行されたり、男の子が頭のハチを割られ片腕をヘシ折られキンタマを蹴りつぶされるようなことが相当ヒンピンと起ることはキ印相手のことでどうにも仕方がないが、それにしてもキ印相手にまともに戦争して殺されぶッこわされるのに比べれば被害は何万億分の一の軽さだか知れやしない。その国の文化水準や豊かな生活がシッカリした土台や支柱で支えられていさえすれば、結局キ印が居候になり家来になって隅ッこへひッこむことに相場がきまっているのである。
 腕力と文明を混同するのがマチガイのもとである。原子バクダンだって鬼がふりまわすカナ棒の程度のもので、本当の文明文化はそれとはまるで違う。めいめいの豊かな生活だけが本当の文明文化というものである。
 国防のためには原子バクダンだって本当はいらない筈のものだ。攻めこんでくるキ印がみんな自然に居候になって隅ッこへひっこむような文明文化の生活を確立するに限るのである。五反百姓の子沢山という日本がこのままマトモに働いて金持になれないというのは妄想である。有り余るお金や耕しきれない広大な土地は財産じゃない、それを羨む必要はないのである。そして国民全体が優秀な技術家になることや、国そのものが優秀な工場になることは不可能ではなかろう。



 国防の手段を外交ではなく「生活」の豊かさに求め、「美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう」と述べる安吾。ここで安吾は美学的態度を脱している。なぜなら、この「生活の芸術」は、徹頭徹尾戦争という現実への対抗として、戦争によっては決して破壊できないものとして構想されているのだから。


 おそらく、『戦争と一人の作家:坂口安吾論』は、戦前戦中戦後において美学的領野に自閉することで特権的に無関心であろうとした、一人の男の不可能の記録である。「常に傍観者、又、弥次馬の一生で」あろうとした坂口安吾は、自らの小説にその態度を持つことの不可能性を露わにし続けた。無理がある話だったのだ。戦前戦中戦後どの時にかかわらず、ただひとり「傍観者」「弥次馬」で在れる者などいるはずがない。安吾が保持せんとした「美学的無関心」の「優越」は、彼自身の小説の執筆によって破産を露わにした。

 あまりにも多くのことを、この論旨から引き出すことができるだろう。冒頭に述べた「表現の自由」という「西欧の、そしてわれわれ自身の素朴な観念」は安吾の言う「生活の芸術」から政治性を削除された姿ではないのか、<政治的なもの>と<美的なもの>との切断を前提として「藝術」を無力化しているのは我々の自作自演ではないのか、いつまで「ヨーロッパのバージョン」の猿真似に付き合わなくてはならないのか、等。


 いずれにせよ、我々は「美学的無関心」の「優越」の保持が不可能であることに逢着した作家の姿に立ち会った。安吾自身の蹉跌に、他ならぬ我々自身の姿を重ねて見るべきだろう。来たるべき民主制を求める人々を嘲笑し、デモや抗議活動を「やりすぎだ」と冷笑し、選挙活動で大敗した側を「結局無駄だったじゃないか」と罵倒する我々の姿が、安吾の言う「傍観者」「弥次馬」の姿に似ていはしないか、何度でも自問してみるべきだろう。そのような「傍観者」の「弥次馬」の、後出しの「優越」などありはしなかったと、あの坂口安吾自身の蹉跌が教えているというのに。弁証法によって「歴史の終わり」に立ったヘーゲルでさえ発狂の危機に見舞われ、「(ヘーゲルは)自分がどれほどまでに正しいのかわからなかった」とする冷徹な言葉がバタイユによって投げられているというのに。事の終わりに際して勝ち馬に乗ろうとする我々自身の怯えきった挙措に「自分がどれほどまでに正しいのかわからなかった」という言葉が差し向けられてはいないか、そう自問し続けることは常に何ものかでありうる。ことにヘーゲルを批判的に継承したマルクス主義がスターリニズムとマオイズムによって失敗し、ヘーゲルに代わる別の政治哲学の案出が求められているこの世紀においては。


 冒頭の引用に戻ろう。「藝術は無関心性ではない。藝術は利益(関心、interest)に関わらないものではない。藝術が「美的でしかないもの」として、ある檻の中でのみ生存を許されるようになったのはたかだかこの二百年であり、ごく地理的歴史的に限定された事態にすぎない」。ここで「げいじゅつなんていかにもナイーブな」と相変わらず美学的領野に自閉するなら、それは「藝術」の語源を辞書で引くことすらしない盲目を自白すること以外の何かではない。引用しよう、「藝術(art, Kunst)は、ラテン語ではアルス(ars)といい、これはそもそもギリシャ語のテクネー(τεχνη)の翻訳語である。煎じ詰めて言えば、これは自然(nature, Natur, Natura, φύση)の内部で、時にはそれに抗して生き延びることを可能にする、「技藝」、あるいはより踏み込めば「工夫」とも訳すべき語である」。生存のための技藝、それこそが今問われている、賭けられているものである。当然ながらそれは政治的制度の新たな案出も含まれる(制度の創造から政治性を削除しようとして不可能に直面し、ついに「生活自体の高さや豊かさ」に国防の手段を見出すことになった安吾の姿をすでに見たではないか)。
 藝術作品をたんに「美的でしかないもの」として考える思考はすでに問題になっていない。作品と政治性を分断可能であるとする思考もすでに問題になっていない。「変革可能な生の様式」としての技藝を説き、二〇一三年に『はだしのゲン』を「生き延びるための藝術を信じている」作品として賛辞を尽くし、そして現在京都精華大学にて教鞭を取っている、佐々木中の去就は完全に一貫している。


 我々は今年、『ズートピア』があらゆる形式でアメリカに潜在する差別意識を痛撃し、『新・のび太の日本誕生』がこの列島に住まう人々の混血性を肯定し、そして『この世界の片隅に』が惨禍においても生存の藝術を求め続けるのを見た。これらの作品を前にして相変わらず「作品に政治性を持ち込むな」と喚き続けるのなら、もういい。そのような「高踏的なものとしてのみ理解される「藝術」は、当然だがすでに問題ではない」とする引用から本稿は始められているのだから。しかし、「作品」からの政治性の削除を可能だと思い込み、「コンテンツ」論だの「フィクション」論だのをこねくりまわして内輪のおしゃべりに終始することが「知識人」の振る舞いだと信じて疑わない挙措は、他ならぬその「作品」自体によって逆襲されるだろう、とだけ言っておく。本稿は生き延びるための技藝を求め続ける、ピエール・ルジャンドルの冷厳な言葉を引用して終わることにしよう。

「いま、思考というよりも管理経営として現れている<科学>」、この「<全体的科学>の幻想に抗して、われわれは<芸術>の向かい火を絶やすことはない」

『定本 夜戦と永遠』佐々木中著 河出文庫刊 上巻463P








*1……  ベンスラマの批判まで全文引用すると稿が煩雑になるので省略したが、これについてはpdfで閲覧可能な『イメージ・テクスト・エンブレム』に詳しい。

*2……  ほかならぬドゥルーズ=ガタリ自身が「いわゆる全面戦争とは国家による企てというよりも、むしろ国家を手中に収め、絶対戦争の流れを国家に貫通させる戦争機械が企てるもの」*2-1として「もはや戦争以外に目的をもたない戦争機械(=ナチス)」を規定し、「イタリアのファシズムがヴェルディを利用したとしても、それはナチズムがワーグナーを利用したのに比べるとはるかにつつましやかなものだ」「この問題はまさに音楽の問題なのであり、技術的な意味で音楽の問題なのである。音楽の問題だからこそ、なおさら政治がかかわってくるのだ」*2-2と述べている。ここで今更ナチスほどに藝術(音楽、ダンス、映画、服飾……)の政治利用に長けていた国家はなかった、などと確認するまでもあるまい。彼ら自身が書いているように、藝術の技術的・政治的利用こそが戦争以外に目的をもたない戦争機械の惨禍を招いたのだから、これらの問題系はドゥルーズ=ガタリはもちろんジョン・ケージ、そしてピエール・ルジャンドルのダンス論『La Passion d'être un autre』の理路から何度でも考え直されなくてはならない。それを言うに事欠いて「音楽は基本に反体制」「知的・芸術的であることは反体制」「それ知らないと20世紀大衆文化もわかりません」と一面的に「反体制」に矮小化されたなにかを言い募るばかりか、先述の問題系を一切顧みることもなしにTwitter上で「教えねばならんなあ」などと脂下がるとは、夜郎自大な不勉強のなせる技としか言いようがない。より直裁に言えば、藝術や音楽の力を安く見積もって知ったかぶりをしたいのならドゥルーズ=ガタリなど読む必要はない。

*2-1 『千のプラトー』ドゥルーズ=ガタリ著 宇野邦一ほか訳 河出文庫刊 中巻 143P
*2-2 『千のプラトー』ドゥルーズ=ガタリ著 宇野邦一ほか訳 河出文庫刊 中巻 381P



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