重力のあるところで(『アイカツ!』あかりジェネレーション178話によせて)

【2017年9月4日に付された前書】
 今となってはこの記事に書かれていることすべて(除余談)に賛同できない。かしこぶって『カンディード』がどうとか言っているが、私が本当の意味で『カンディード』を読み直すことになったのは2016年4月14日21時26分以降である。また、後半で『アイカツ!』のファンダムに対するリスペクトと信頼みたいなものが語られているが、今となってはそんなものは鐚一文持ち合わせていない。





◎翼とプレミアムドレス(51〜101話)


 いま振り返ってみると、アイカツ!2014年シリーズにはある傾向があったことに気付きます。この時期のプレミアムドレスには、すべて翼のアクセサリーがついているのです。

wings.png
(星座ドレスアクセサリー一覧)

 もちろん1〜50話の期間のドレスにも翼のアクセサリーはありました。しかし、2014年シリーズにおける翼アクセサリーへの執着っぷりはちょっと異常です。なにしろ魚やカニやサソリをモチーフにした衣装にも翼が備わっているわけですから。


StrangePlanetFlyingCrab-590x442.png

 (カニや魚が空を飛ぶ一例)


 しかし、この時期の衣装に「星座ドレス」という名称が与えられていたことを思い出せば飲み込めます。星座=天体、地上と隔たって宇宙空間に輝いているものをモチーフに据えているわけですから、翼=重力に逆らう・飛ぶためのデザインが与えられていたのも見やすい道理となります(星座フィーバーを出すためにはまず「飛び上がる」動作が必要だったことを思い出しましょう)。

 ところが、劇場版を挟んで始まった2015年シリーズ(あかりジェネレーション)ではデザインが一転します。あれほどまでに執拗に着けられていた翼のデザインは影を潜め、プレミアムドレスのアクセは背中に光輪のようなものを戴くパターンに変わっています。
 ドリーミークラウンの背中で向かい合っている白鳥のデザインがかろうじて翼のように見えること、あるいは桜色花伝のアクセが羽衣という反重力的なデザインを持っていることを除けば、あかりジェネレーションでの衣装は「重力に逆らうこと・空を飛ぶこと」を志向しなくなったということになります。

 その代わりに着いているのは、ニュートンの万有引力発見のエピソードで知られるリンゴ*であり、野に咲く薔薇*やチューリップ*であり、人魚姫の鱗*であり(天空に海があるはずがありません)、紅茶*やお菓子*などのモチーフでした(無重力状態でティーパーティーができるわけがありません)。このように、あかりジェネレーションでの衣装は「重力があること」を前提にしたデザインとして一貫していると言えます。とうぜん、星座ドレスを通して「重力に逆らうこと・空を飛ぶこと」に執着していた2014年シリーズとは正反対の方向性です。それは登場人物のプロフィールにも同様で、大空あかりは地質学者を父にもっていて、大地のの・白樺リサはじゃがいも(地中に茎を張る植物)農家の出身なのでした。

 なぜこのように鮮やかな転回がおこなわれたのか。それを追うために、1〜101話+劇場版(神崎美月・星宮いちごジェネレーション)から102話〜(あかりジェネレーション)への移行の季節を見ていきましょう。



◎神話時代から人間の物語への移行


 “神”崎美月と“星”宮いちご。この突出した二人の才能がお互いを導きあい、ついに星宮いちごがトップアイドルの位置を襲名するまでの物語。この要約は『劇場版アイカツ!』までを鑑賞した方ならば同意していただけると思います。
 この二人は「トップアイドル」の肩書き通り常人離れしたキャラクターで、美月はものを食べる描写がまったくといっていいほど無く、その名の通り“神”めいた超越的なアイドルでした。お弁当屋さんの娘である星宮いちごは庶民的なキャラクターですが、伝説のアイドルの血を母から引いていたのでした。*1
 “神”的な存在としての神崎美月、そして伝説のアイドルの血を引いている「人-神」としての星宮いちご(本編では「超人」と呼ばれていましたが)。この二人をめぐる物語が決着するのが『劇場版アイカツ!』であり、そのラストシーンでは星宮いちごから大空あかりへのバトンタッチが行われていたのでした。

 つまり、1〜101話+劇場版は「人-神」から「なにものでもない人間」への世界の継承、神話時代から人間の物語への移行だったと言えます。ちょうど映画版ロード・オブ・ザ・リングが三部作をかけて描いたように、「星座ドレス」の時代は終わり、「ロマンスドレス」を纏ったアイドルたちの時代へ移ったのでした。「ロマンス」、まさに「人間の手によって作られた物語」をモチーフにした衣装です。

 人間は物語を定礎するために神話を必要とします。……と軽率に1行で書きましたが、これはものすごく広大な射程を含むことなので詳しくは割愛します。重要なのは、1〜101話+劇場版という神話(神崎美月のミステリアスヴァルゴコーデが「ローマ神話の女神のよう」だと形容されていたことを思い出しましょう)から定礎された人間の物語(ロマンス)、それこそがあかりジェネレーションだったということです。神的な次元から人間の世界への移行。それが象徴されていたのが翼のモチーフ(重力に逆らうこと・空を飛ぶこと)の消滅だったことはすでに確認しました。



◎「ぼくたちの庭を耕さなければなりません」:リスボン地震、『カンディード』、そして『アイカツ!』

(この項ではアイカツ!以外のことについて多く書きますが、ちゃんと戻ってくるので大丈夫です)


 さて、ここで一つの迂回を置きます。『カンディード』という小説があります。この本は自分にとって「これを読んでいなかったら死んでいた」という本の一つなのですがそれはどうでもいいことです。
『カンディード』が書かれた経緯をごく簡単に書きます。18世紀、ライプニッツとかポープとかが「最善説」というものを唱えていました。簡単に言えば「今あるこの世界は神様が作ってくれたいくつかの世界の中でも一番良いものなので大丈夫」という考えです(SFの多重世界とかのアイデアの先取りとも言えます)。
 しかし、1755年の11月1日、ポルトガルのリスボンにて大地震が起こり、津波を呼び、三万人が死亡しました。諸聖人の日(カトリックの大祝日)にそんな大災害が起こってしまったことで「最善説」を信じる根拠はぶっ壊れてしまいました。
 その震災の4年後にヴォルテール(彼もまた最善説を信じていました)によって書かれたのが『カンディード』です。無邪気に最善説を信じている青年カンディードが各地で理不尽な残酷に直面するという、目も当てられないつらい放浪が続く小説です*2。そんな放浪のすえ、カンディードはついに最善説を手放します。いまだに最善説を信じて神頼み的な世界観を手放さない師に対し、カンディードはこう言い放ちます。この小説の最後の行です。

「お説ごもっともです。しかし、ぼくたちの庭を耕さなければなりません」



 この世界が最高のものであることが信じられなくなった、そんな青年が最後に向き合ったのは「庭」、すなわち大地でした。フワフワした楽観論ではなく、まず庭を耕して穀物を育てて家屋を立てて生活すること。地震によって信仰を砕かれることで始まったこの小説は、このようにして終わります。


 そう、アイカツ!もまた地震から生まれた物語だったのでした。


加藤陽一  大きな転機になったのが、東日本大震災です。コンセプトを固めている最中の2011年3月に、東日本大震災が発生しました。地震が起きた瞬間、僕は東京・浅草のバンダイ本社で『アイカツ!』の会議に出席していたんです。地震で電車が止まったので、車で来ていた僕が3人に声をかけて、皆を送っていくことになりました。TVで原発や津波のニュースを見ながら進むうち、都心で車も動かなくなっちゃって。結局浅草を出て、皆を送って23区内の家に帰るまで12時間位かかりました。そのとき一緒にいたのが、アニメ『アイカツ!』の若鍋竜太プロデューサーと企画スタッフです。車に缶詰状態で、8時間から10時間ぐらい、地震の影響を目の当たりにしながら、皆で『アイカツ!』のことを話しました。まるで合宿みたいな濃い時間でした。「こんなことが起きたら、いままで話したような作品はできないね」という話もその場で出て。それを受けて書き直した企画書の内容が、そのときの僕らの思いを込めたものだったんです。

——どんなふうに変わったのでしょうか?

加藤陽一  ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになったんです。「トップアイドルを目指すスポ根サクセスストーリー」の部分はそのままに、「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」と、企画をブラッシュアップしていきました。この段階の企画書に書いてあることは。現在のところほぼすべてが、作品内で実現しています。あの震災が、『アイカツ!』という作品にとっての転機だったと思いますね。

『アイカツ! オフィシャルコンプリートブック(学研パブリッシング)』130-131P




 震災以後、かえって内省的になったり急にシリアスになったりした作品はたくさんありましたが(その是非は問いません)、震災をきっかけに「未来への夢を持てる作品」に舵を切ったアイカツ!の選択、それがいかに偉大なものだったかは放送開始から3年半が経った今だからこそわかることです。

 そのアイカツ!が178話のエピソードと1本の劇場版で描いたこと、それは神話時代から人間の物語を導くという、すっごくあたりまえな、どの土地のどの時代の人々もやってきた手続きの設定でした。しかし、このあたりまえな、なんてことない営みによって一体いくつものドラマが、歌が、ダンスが、衣服が生まれたことでしょうか。あの困難な一季節のなかで、黙々と新しい作品を生み出そうと仕事に取り組んでいた大人たちが存在したことを、一体どうして忘れることができるでしょうか。


 SNSを見ていると、「アイカツ!が終わってしまうから悲しい」という向きを多く見かけます。ただ、自分にはちょっとよくわかりません。「終わってしまう」というのがとくによくわかりません。アイカツ!が執拗に描いてきた、新しい歌や服や料理やダンスを作ること、後継者を育てること、誰かが誰かを産むことなどが、終わったりするんでしょうか。多分、終わらないと思うんですね。終わっちゃったら人類ごと絶滅するしかないんですから。
 カンディードが最後に自分の庭に向き合ったのと同じように、『アイカツ!』は生きるための芸術を描いてきたのでした。歌、詩、ダンス、衣服、料理、家屋、それら全部をひっくるめた芸術をたのしく繋いでいくこと、それをアイカツ!が一度でもなまけたことがあったでしょうか。*3 重力のあるところで生きることのなんてことない毎日に、一度でも「終わり」のような意味不明なあきらめが入り込んだことがあったでしょうか。


 我々は『アイカツ!』に出会ってしまいました。忘れることができたらどんなに楽でしょうね。「これはどうせフィクションだから」と半笑いで素通りすることができたらどんなに楽でしょうね。でもたぶんそれはできないんです。『アイカツ!』で描かれている世界が、あまりにも自分たちの日常のなんてことなさに似すぎているから。自分たちの世界もこうであればいいのにと思うことをやめることができないから。

 だから、178話を見終えた我々がやるべきことといったら、やっぱり自分の庭を耕すことなんです。もちろん、道路に出てコンクリートのうえに鍬を叩きつければいいという意味ではありませんよ。
 たとえば、アイカツ!の同人イベントに行ってみると、あまりにも多くの技芸の才能を持った人々がいることに驚かされます。絵を描いたり、音楽を書いたり、衣装をつくったり、もちろんダンスに取り組んだり、あるいは料理や建築の研究をしている人もいるでしょう。それらはすべて重力のあるところで生きるための技術です。じゃあ、思う存分楽しみながらそれを続けていけばいいんじゃないか、というか、そうするにきまってるんですね。だって楽しいから。アイカツ!の人々がそうしてきたように、笑ったり泣いたりしながら、跳んだり落ちたりしながら、おばあちゃんおじいちゃんになっても相変わらずにね。



*1…… もちろん「星宮いちごが伝説的アイドルの血を引いていること」自体は星宮いちごの努力とは何の関係もありません。1〜50話では、血統そのものをいちごの才能と結び付けるような安易な描写は注意深く避けられています。しかし星宮いちごが神崎美月のあこがれであるマスカレードのミヤの娘であることは揺るぎない事実なので、その意味で立ち位置を「人-神」と位置づけました。

*2…… そういえば、ヤコペッティが『カンディード』を映像化しようとした(そして失敗した)『大残酷』のDVDが4月からTSUTAYAの発掘良品に入るそうです。ぜひ。

*3…… これをなにか芸術主義的だとかナイーブだとか言っちゃうような人間は、もう、いいです。そんな人たちとは「芸術」の意味するところが最初から違うので。







余談1:『X-ミッション(Point Break)』:重力と愛と法


 重力について書いたのでもうひとつ。『X-ミッション(Point Break)』、この映画は(気が早いかもしれませんが)自分が今年にみた映画でもぶっちぎりでベストです。

point-break-poster-2015.jpg


 とくにクライマックス、ベネズエラの崖で交わされる会話が素晴らしい。
 ざっくりとあらすじを。主人公ユタは過去の事件から、自分を律する規則を求めてFBI候補生となります。大学で法科を学んだというプロフィールから、ユタは「既存の法」の側に立つ人間であることが示されます。対して、ユタが潜入調査する犯罪組織の長であるボーディは、極端にエコロジカルな思想という、ユタの法とは全く別の法(価値判断)によって動いている人間です。この2名は、エクストリームスポーツめいた修練を通して親愛にも似た関係性を得てゆきます。
 そしてユタがFBIとしてボーディを追い詰める、そのシーンにおいて交わされる会話がこれです。予告編にも入っています。

  ユタ「一体何人を犠牲にした、一体どれだけの法を破れば気がすむんだ!?」
ボーディ「ここでものを言うのは重力だけさ」



「The only law that matters is gravity」。このセリフとともにボーディは滝壺に降下し、それを追ってユタも落ちてゆきます。
 前述しましたが、ユタとボーディはそれぞれ全く異なる法(価値判断)で生きています。そのためにユタにはボーディの行動が理解できないし、ボーディもユタの従う法律には背を向けているわけです。しかしこの崖っぷちのシーンでは、「重力」こそが法であることが示される。そして二人は同じ方向に落ちていくわけです。まったく異なる法で生きているはずの二人を、理解しえない断絶を挟んでいたはずの二人を、同じ方向に振り向けた唯一の法が「重力」だった。そういうシーンですこれは。
 これは同時に、「この世界にただ絶対唯一の法(価値判断)だけがあるわけではない」「思いもよらない法に従って生きている人間もいる」ことをユタに説得する、そういう愛に満ちたシーンになっているし、実際この映画はそういうエンディングを迎えるわけです。ぜひ実際に見ていただきたいのですが、過去の事件から道を見失っていたユタに「この世界には多様な価値判断がある」ということを、断絶を挟んだままに、しかし二人が立つ崖っぷちでの法=重力によって教える、こんなやさしさに満ちたシーンがあるでしょうか。

 ……ただ、この「The only law that matters is gravity」という素晴らしいセリフ、なぜか劇場公開版には入ってないんですよ!
 ポスターにも予告編にも使われてるのに、本編の崖のシーンでは別のセリフに変更されてしまってるんですよ、これはすごく残念です。ソフトの削除シーンのほうに入ってればいいんですが……ともかく、「重力は愛の法」だとして見せる『X-ミッション』はそれだけで傑出した映画です。




余談2:『シアワセ方程式』:サタニック・マジェスティーズ・パーティ



 この流れで、どうしても『シアワセ方程式(作曲編曲:帆足圭吾・作詞:辻純更)』の歌詞について書いておきたいのです。

「ずっとずっと このまま時よ止まれ」
神様にお願いするのはちょっと待って(oh, it’s all right)
そう かけがえのない今日みたいな日はまた来るよ 必ず
期待しちゃおう! 未来に



 このCメロでの歌詞はひじょうに、本当の意味でサタニック(悪魔的)だと言えると思います。なにがサタニックなのか? その要は「反-無時間性・反-懐古主義」にあります。
 たとえば、「あの時代はすごかったなあ」「おれが若い頃のような黄金時代はもう来ないんだろうなあ」というようなどうしようもない懐古主義を垂れ流しているおっさんはそこらじゅうにいますが、まあ誰だって「この幸せな時間が永遠に続けばいいのになあ」くらいのことは思うことがあるでしょう。しかし『シアワセ方程式』のCメロは、そのような「時間が止まってあること」へのあこがれを真っ向から笑い飛ばすものになっています。

 拙著『CHECK! CHECK! CHECK!』では一神教とダンスとのねじれた関わり(無時間性とダンスとの関係)について少しふれましたが、要するに「時間が存在しない・時間が止まっている」ことは神の領域であり、そうでない死にゆく肉体(時間性)をもって生まれたというのは一神教の世界観からは「劣っている」ということになります。だから黙示録の「もはや時なかるべし」とか『ファウスト』みたいな無時間性へのあこがれみたいなのが出てくるわけですが、『シアワセ方程式』は「「ずっとずっと このまま時よ止まれ」 神様にお願いするのはちょっと待って」と無時間性への誘惑を軽々と振り切ってしまいます。
「かけがえのない今日みたいな日はまた来るよ 必ず 期待しちゃおう! 未来に」と続く歌詞は、徹底した未来主義・反-無時間性に貫かれています。「たとえ今が最高だと思えてもこれから素晴らしい瞬間は何度も来る」という正しすぎる、しかし安易に見失いがちなイズムをこんなにも軽やかに、しかも女の子たちのパーティを舞台に描けている、これは一体どういう天才の技なのか。

 神的な領域=無時間性を嘲笑している時点でもう十分サタニックなのですが、その前に「神様にお願い」することを否定していることの「邪悪さ」は感動的なほどです。「神頼みとかしませんけど?」「こちとら人間だけでやっていけますけど?」と笑ってみせる『シアワセ方程式』の歌詞は、(同じ帆足圭吾楽曲の)『硝子ドール』と比べると何億倍もサタニックなものです。『硝子ドール』では自分の時間だけに閉じたモラトリアムが歌われていたわけですが、この対比からアイカツ!初期と後期の「神話時代から人間の物語の移行」の描かれ方を考えてみてもいいでしょう。もちろん、「今の世界が最高であることへの否定」「未来に作り出されるものへの期待」は『カンディード』のイズムとも通じた、正しい意味で悪魔的、そして人間主義的なものになっています。

(……と書いていたら、フォトカツで『硝子ドール』の悪魔進化版とも言うべき『お願いビーナス!!』が発表され、歌詞が「自分でかなえるの 神頼みはしない」というズバリなものになっていたので笑い死にしそうになったのですが、やっぱりアイカツ!楽曲は恐ろしいですね。先の予想が全くつきません。)




余談3:S4がやばい




『アイカツスターズ!』に関しては今のところ期待しかありません。
 とくにトップアイドルユニット「S4」がやばい。何がやばいのか。それは『アイカツ!』で神崎美月が単体で担っていた頂点のアイドルを4人のキャラクターに分けたことでしょう。「トップに立つのはすごいことだけど孤独でもある」ことはすでに『アイカツ!』の劇場版までの流れで描き切ったので、それと同じことをやっても仕方ない。だからS4、いわば「4分冊された神崎美月」のようなキャラクターが出てきたのも完全に正しいと思います。

 それよりね、これだけは書いておきたいんですが、S4はチーム関係性モノとしての強度が設定の段階でビンビンに伝わってくるんですよ。とくに「二階堂ゆずはS4唯一の二年生」という設定、これ考えたの誰? 天才的です。チーム関係性モノでものすごく重要な「年齢やバックグラウンドの違い」これをもう設定の段階で盛り込んでる。

 ちょっと考えてみましょうよ。「すごい人たちが集まったチームの中で一人だけ年少者がいる」、こういう設定にするとき、ふつうは計算高かったり世渡りがうまかったりそういう知性的なキャラクターを置くのが常道なんじゃないか。でも二階堂ゆずさんは違いますね。ポップ属性でダンサーでニコニコ笑ってて、そういうカラッとしたキャラクターになっている。そういう人物がすごいチームの中で唯一の年少者だという、この引っかかりたるや。他のメンバーは二階堂ゆずさんのことをどう呼んでいるのか(キャラクターどうしの呼び名、これもチーム関係性モノでめちゃ重要なことです)、二階堂ゆずさんはどういう経歴でS4に加入したのか、もうこれだけのことを色々妄想できるわけです、設定ひとつで。

『アイカツ!』はたしかに一人一人のキャラクターをすごく魅力的に見せることには成功していた。しかし、そのキャラどうしの摩擦というかアンサンブルのさせかたがちょっと弱いなと思うこともあったのです。とくにトライスター内での一ノ瀬かえでというキャラクター。彼女も神崎美月より一歳年下でチームの一員ではあったわけです。そういうおいしい位置にはあったのに、それをチーム関係性という切り口で剥いてみせることはできていなかった、本当に残念なことに。
 だから、二階堂ゆずさんは『アイカツ!』でかえでちゃんが見せられなかった側面を代わりにしっかり拾っていく後継のキャラになるんじゃないかと期待しています(“一”ノ瀬から“二”階堂だし……)


 と色々書きましたが、S4のやばさはこの一枚絵で伝わるはず。「アイカツスターズ!プロジェクト発表会」のキャラクター紹介での立ち絵。これです。

p1.png

 それぞれの髪や脚の線による画面の分割の強度がマジやばいとか、ツバサさんとゆずさんの身長差がたまらんとかそれを補うゆずさんのポージングが半端ないとか色々言えるのですが、チーム関係性モノがお好きなかたからすればこれを見た瞬間に「あっ、あれだ」と気づくのではないでしょうか。
 そうです、『ワイルドバンチ』のポスターアートなんです。

p2.png
p1.png
 同じ
(あるいは、このポスターをもとにした『エクスペンダブルズ3』の四人の立ち姿を思い出してもいいでしょう)


『ワイルドバンチ』といえばチーム関係性モノの大傑作であり、この映画史上に残る素晴らしいポスターアートでも有名なわけですが、S4の立ち絵シルエットも(光源と向いてる方向が逆というくらいの違いはあるけども)これと同じものになっている。もうね、どれだけよく分かった人間が作ってるんだと!
 この立ち絵があまりにも美しすぎるので、発表会があってから一週間くらい毎晩この絵を見て泣きながら飲むというのが続いたんですが、それくらいS4という存在はチームとして強い。設定の段階でこんなに悶絶させられてしまうんだから本編が始まったらどうなってしまうんだという話です。


 それ以外にも、桜庭ローラさんと虹野ゆめさんという若武者たちのキャラクター性が項羽と劉邦みたいでやばいとか、ゆめさん役の富田美憂さんのラ行の発音が殺人的にかわいいとか、OP曲の歌い出しの「夢は見るものじゃない 叶えるものだよ」という歌詞がロッキーホラーショー精神*すぎて泣いちゃうとか、キャラクター紹介動画でどのキャラも喜怒哀楽のうち「怒」や「哀」の表情もしっかりと描かれている(言うまでもなく『アイカツ!』ではこの二つの面は避けられがちでした)とか色々ありすぎる、それくらい『アイカツスターズ!』には期待するところが多すぎるのです。

『アイカツ!』は例えればたくさんの瓶に別々の飲料を詰めていく感じの棚でしたが、『アイカツスターズ!』はまず巨大なプールがあって、その中にドボドボといろんな飲料を混ぜて混ぜてそれでわけのわからん味がたくさん生まれるような、そういう場所になるんじゃないかと思っています。さっき書いたように摩擦係数強めの、一人一人のキャラクターを説明するというより他のキャラクターとの衝突の中で見せていくというふうになるんじゃないでしょうか。なので、

・百合的な絡みよりBL的な絡みが好きな人たちを中心に人気を獲得するんじゃないか
・『アイカツ!』では避けられていた「ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線」も復活するんじゃないか
・二次創作ではイラスト集や単体のキャラクターテーマの本というより複数のキャラクターどうしの関係性を描いたものが多く出回るんじゃないか

 と思っております。当たったら嬉しいです。外れたらもっと嬉しいです。

スポンサーサイト

0 Comments

Post a comment