スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【メモ】ニューシネマの死:ニューシネマと死

 はじめに用語の整理を。
「アメリカン・ニューシネマ」とは、『卒業』とか『イージー・ライダー』とか60年代後半らへんから出てきた、若者の反抗とか世間からのドロップアウトとかそういうやつを取り扱った映画群をさす。
 一方、「ニュー・アメリカン・シネマ」とは40~60年代らへんのアンダーグラウンドなエクスペリメンタルフィルムとかをさす。要するに、ジョナス・メカス『映画日記』に記している映画たちのことだ。『ホドロフスキーのDUNE』で「私にとって『デューン』とは彼の語る世界のことだった」とクリス・フォスが語っているが、ニュー・アメリカン・シネマもメカスが記した世界のことだということでいいと思う。


 両者の決定的な違いは、「アメリカン・ニューシネマ」は金になったのに対し、「ニュー・アメリカン・シネマ」は死ぬほど金にならなかったということだ。映画作家たちの経済的困窮はメカスの映画日記の中に克明に書かれているし、映画日記で紹介されている作品も今ではフィルムさえ現存していないものの方が圧倒的に多い。コロムビアから配給されて制作費の四十倍の一千九百万ドルを稼ぎ出した『イージー・ライダー』とは大きな違いである。
 しかし『イージー・ライダー』をいま観なおしてみるとわかるが、これをメジャー配給の劇映画として観るよりはエクスペリメンタルフィルムの一種として観たほうがよっぽどしっくりくる。ジャンプカットやらフラッシュフォワードなど無理のありすぎる編集や音声の粗雑さはむしろ「ニュー・アメリカン・シネマ」の領分に属するものだからだ。というのも、『イージー・ライダー』の「プッシャー」のシーンはケネス・アンガーの『カスタム・カー・コマンドズ』の拝借であり、死へと向かうバイカーたちの疾走というテーマは『スコピオ・ライジング』からのいただきである。『イージー・ライダー』は、「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・アメリカン・シネマ」との奇妙な符号点として存在している。


 では、「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・アメリカン・シネマ」との共通点とは何なのか?
 それはホモっぽさだ。
『イージー・ライダー』では南部のカフェに入ったバイカー軍団に対して「やつら、男同士でキスしてたぜ」「ホモ野郎は専用の豚箱に入れてやろうか」と陰口を叩くレッドネックが登場する。もちろん『イージー・ライダー』の元ネタである映画を作ったケネス・アンガーもホモだし、若い頃にはおとり捜査に引っかかって逮捕されたりしている。あとニューシネマの代表格『真夜中のカーボーイ』に登場する二人の男の関係性にホモっぽさを見出さずにいるのは難しいだろう(ついでに言えば『カーボーイ』の邦題を付けたのは水野晴郎。言わずもがな)。

 ニューシネマのホモっぽさを語るうえでシュレシンジャーは最も重要な存在だ。『真夜中のカーボーイ』以外にも、ケネス・アンガーの著書『ハリウッド・バビロン(1959年)』を連想させる映画界のギスギスを描いた『イナゴの日』がある。主演は『イージー・ライダー』で娼婦役をやっていたカレン・ブラック。『ハリウッド・バビロン』は映画界でインサイダーになれなかったアンガーの妬みや嫉みやスケベ心が詰め込まれた神話体系であり、マレーネ・ディートリッヒやらジュディ・ガーランドやらホモの大好きなアイコンたちのゴシップを取り沙汰した悪夢的な空間である。『イナゴの日』はバビロンに記されているような有象無象の魂たちが搾取されたり搾取したりする無惨な空間が演出されていて、非常にバビロン的なスケベ心が一貫されていた。シュレシンジャー自身がそうなのかどうかは知らないが、映画における同性愛者の取り扱われ方の変遷を追った『セルロイド・クローゼット』にも出演していたのでそういう意識は高いのだろう。


 対し、「ニュー・アメリカン・シネマ」の映画作家でアンガーに次いで重要な作家としてグレゴリー・マーカプロスがいる。マーカプロスは私にとって最も重要な映画作家であり、きっとあなたにも影響を及ぼすはずの作家なのだが、日本でマーカプロスについて書かれた本は『メカスの映画日記』と『アンダーグラウンド映画』くらいしかないという現実は超ファックだとしか言いようがない。彼の作品も一部のアバンギャルドコンピレーションに収録されている以外にはソフト化されておらず、もし観たければネット上の動画サイトのアップロードに頼るか、アメリカのハーバード・フィルム・アーカイブに行って年会費を払うかでもしなければ観ることができないっぽい。
 マーカプロスは同性愛についての三部作『快楽と死の血統について(1947~1948)』を制作しているらしいが、筆者は未見。ただ、13分のショートフィルム『Christmas USA』はYouTube上で観ることができる。この作品をざっくり要約すると「若者が自らのセクシャリティを受け入れるまでの話」「新編まどかマギカを13分に集約したようなショートフィルム」という感じになるだろうか。マーカプロスの(40年代の)作品に執拗に性のテーマがまとわりついていることが容易に見渡せる、忘れがたい作品だ(ちなみに、筆者はヘヴィメタルバンド「シニック」の曲をバックに流しながら『Christmas USA』を観るという行為をずっと続けていたのだが、昨年シニックのメンバーの二人がゲイをカミングアウトしたのですごくしっくりきた)。




 だいぶ脱線してきたので、「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・アメリカン・シネマ」との共通点のはなしに戻ろう。
 なにが言いたいかというと、「アメリカン・ニューシネマ」も「ニュー・アメリカン・シネマ」も、どちらも「人間の死」を真正面から取り扱ってきたということだ。
 アンガーの『スコピオ・ライジング』は若者とマシーンとセックスと死を取り扱った作品であり、作中ではジム・パワーズというバイカーが本当に事故死する瞬間の映像がおさめられている。『イージー・ライダー』も(アンガーのフェチシズムを抜きにすれば)『スコピオ・ライジング』と同じで、社会からドロップアウトしたアウトサイダーたちが無慈悲に“退治”される死の情景で幕となる。両者で共通しているのはやはりバイクとドラッグとセックスと死だ。

 ニューシネマが切り開いた発明のようなものがあるとすれば、それは「映画内で死を取り扱うことについての審級を設けた」ということだ。もちろん政治的正しさとか自己検閲とかのことではない。「一度世界からドロップアウトしてしまえばそこには無慈悲に退治される死しか待っていない」という現実を突きつける、新たなリアリティラインを説得したという意味である。ニューシネマがもたらした恩恵といえばこれに尽きる。

 
 さて、主に69年から噴出したアメリカン・ニューシネマの革命だが、同時代のカウンターカルチャーの終幕と同じように数年ちょっとでコマーシャリニズムに吸収されていった。その変遷を印象付けているのが71年の『バニシング・ポイント』。お話はまあバイクを車に代えた『イージー・ライダー』みたいな映画なのだが、重要なのはこの映画のエンディングは「ニューシネマが流行ってるからそれっぽいのにしろ」と映画会社に下命されたうえで作られたもの、だということだ。はじめはメインカルチャーへのアンチとしてあったニューシネマ感が、もはや人気取りのために体制側に利用されてしまっていた。『イージー・ライダー』の公開からたった二年で。

 一方で、映画界では新たな「死」のリアリティが台頭し始めていた。ルーカス=スピルバーグの存在である。
 彼らは、最終的に映画における「死のエンターテイメント化」を完遂することとなる。


 スティーヴン・スピルバーグは、『バニシング・ポイント』と同年公開のテレビ映画『激突!』にて、人間の存在を思わせない動物的な暴走トラックとの対決を描いた。主人公たちが動物のように退治される『イージー・ライダー』と、動物のようなモンスターを主人公が退治する『激突!』はわかりやすすぎるほどの対称形を描いている。1971年の時点では、「ニューシネマ的な死のリアリティ」と「スピルバーグ的な死のエンターテイメント化」のふたつの価値観がかろうじて拮抗していた、と言うことができる。

 重要なのは、ルーカスもスピルバーグも『007』シリーズの大ファンだったということだ。言うまでもなく007は「軽率な人殺し」の権化であり、殺しのライセンスを携帯している色男が悪の陰謀を阻止するために行われている人殺しに眉をひそめる者はいなかった。
「無惨だがお客さんすべてに喜ばれる人の死にかたを描く実力に長けていると思う人物はスティーブン・スピルバーグだ」「人の死にざまのエンタテイメント化についてかなり意識的に取り組んでいる、世界最強のヒットメーカーだ」という中原昌也の言葉は正確で、死の巧者たるスピルバーグの手腕は『007』の影響下にあってこそ培われたということができる。

 スピルバーグは1975年の『ジョーズ』でさらに殺人のエンターテイメント化を進め、ルーカスは1977年に『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』を公開。みな同じ姿をしていて人間性を感じさせない敵キャラ『ストーム・トルーパー』は、ジェダイの正義のもとに行われる殺人の罪悪感を無化するために一役買った。

 そして、1981年のルーカス=スピルバーグ『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』の大ヒットにより、ついにニューシネマ的な死のリアリティにとどめが刺された。『レイダース』が重要なのは、『007』シリーズの直接の子孫として製作されたシリーズということもあるが、ナチスという「絶対的な悪役」「殺しても文句を言われないどころか歓迎される敵」を設定したことだ(ハリウッドがドイツからのユダヤ系監督の亡命を多く受け入れたこと、スピルバーグがユダヤ系であることなどは今更書くまでもない)。「映画における人殺しの罪悪感の無化」はここに完成を見、ニューシネマ的な死のリアリティはルーカス=スピルバーグ映画の満員札止めの盛況の前に立ち消えた。


 誤解のないように書くが、筆者はスピルバーグの「死のエンターテイメント化」を軽薄なものとして批判するつもりなどまったくない。それどころか、「死のエンターテイメント化」は映画史に残る発明だと思うし、それが為されなければ生まれえなかった表現もたくさんあるだろう。ともあれ、我々はルーカス=スピルバーグ以降の価値観に生きている。映画の中で人が死んでも眉をしかめることのない、安全に治水された死のリアリティの上映に同意することができている。


 では、「死のリアリティ」を審問するニューシネマの魂は、完全に死に絶えてしまったのだろうか?
 そんなことはない。80年代以降にあっても、「人間の死」をどこまでも執拗に問い詰める作品は定期的に生まれている。

 ベトナム戦争の殺戮者が自らの殺戮と狂気を「ショック治療」によって清算せんとする『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン(1980年)』。先行きの見えない渋滞からドロップアウトして世間の欺瞞を打ち抜くアウトサイダーとなる『フォーリング・ダウン(1993年)』。そして、ねじれきった南部の殺人ファミリーの魂の映画『デビルズ・リジェクト(2005年)』。これらの映画は、アウトサイダーと暴力と死というニューシネマの魂を思い出させてくれる。世間から外れること、そこには「死」しか待っていないこと、それに立ち向かうことを全力で叩きつけてくれる。筆者は、これらの映画のタイトルを眺めているだけで涙が出そうになる。べつに繊細アピールとかをしたいわけではなく、単純に今この時代にもこういう作品が存在してくれていることが「有り難い」からだ。


 ところで、私は『キック・アス』という映画が毛虫とかカメムシとかと同じくらいに嫌いだ。理由は、「人殺しを軽率に扱った作品の中にもその範疇の中での節度やリアリティラインなどが設けられているのであり、それらすべてをぶっちぎっただけで何か新しいものを生み出したような顔をされても困る」というものだ。

 しかし、『キック・アス』の監督マシュー・ヴォーンの最新作『キングスマン』は、「映画内で死を扱うこと」に対する凄まじいまでの誠実さが貫かれている素晴らしい作品になっていた。ネタバレになるので書かないが、中盤で「口頭で伝えられるフェイクな死」と「画面で突き付けられる、劇的でない、乾いた死」との落差がすさまじく、それによって映画全体に「死」の仁義が通されていた。拙劣きわまる『キック・アス』に対する反省があったかどうかは分からないが、『キングスマン』も映画内での死のリアリティを問いただす名作群の一つとして数えられるべきだろう。


 そして、『TEX:HEX』もそのような作品にする予定である。
 人を殺すこと殺されること、世界からドロップアウトすること。死に向き合うこと、それをウィットネスすること。ニューシネマが付きつけるそのような問いに真摯に応えてゆくつもりだ。「死をウィットネスすること」というテーマは『痛みのほうへ』でも書いたが、私からすればメカスやアンガーの著書は「誰かの死を死なしめる」ための装置だと言うことができる。この本がなければ知ることすらできなかった過去の存在を、知られぬままに埋没することをかろうじて避けさせること。「書く」という行為に意味目的があるとすればそれだろう。それをするのだろう。
スポンサーサイト

- 0 Comments

Post a comment

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。