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【メモ】食器が落ちる

 飲食店の中にいるとする。
 料理が運ばれてくる。水を飲む。冷たくて心地よい。ランチもいつも通りにおいしい。なにも不自由のない、穏やかなひとときだ。

 しかし、店員が手を滑らせたのか、食器が落ちる。
 そして「がちゃん」と音が鳴る。

 自分を含む客は、反射的に「がちゃん」の音のほうへ視線を向ける。
 そして申し訳なさそうに店員が言う、「失礼しました」。
 目を向けた自分は、その言葉に促されるように食事に戻る。


「がちゃん」の音からはじまる一幕なのだ。
 なぜ店員は「がちゃん」の音を立てたことに対して「失礼しました」と言わなくてはならないのか。
 なぜ客は「がちゃん」の音におどろき、視線を向け、そして幾分か心臓が高鳴ったままの自分の肉体をみとめながら食事に意識を戻さなければならないのか。

 それは「がちゃん」が号令だからだ。
 思い出す必要があるだろうか。あの“集団行動”において身体を振りつける、強権的な命令調の、雄勁ぶったあの声を思い出す必要があるだろうか。
 ジョニ・ミッチェルが「その太鼓の音が怖くてたまらない」と歌っていたことを思い出す必要があるだろうか。
 あの『セッション』という愚劣な煽動装置、それ自体としてドラムスやジャズを単純化したあの映画について、「心拍数がすごいことになる」「スゴイものを見た」と無邪気に感想をこぼしていた人々について思い出す必要があるだろうか。

 号令としての音について、“振付けられる”ことについて、音の搾取についてはすでに『セッション』に関する記事で書いた。
 音は、号令として搾取されすぎた。狩りに駆り立てる号令として、軍人や囚人を振付ける号令として、家父長がわが子を脅したてる号令として搾取されすぎた。そして1935年のニュルンベルクを実現させた。素晴らしい音楽による高揚感と一体感が、他者の絶滅と国家の自殺のために意味づけられたあの蝟集を。


 音の搾取はいつまで続くのか。
 私は絶対に振付けられたくない。笛の音にあわせて一糸乱れぬ動きをする細胞になりたくない。太鼓の音にあわせて行動を条件づけされる囚人になりたくない。雄々しい音楽の高揚感にのって他者を絶滅させようとする差別主義者にはなりたくない。
 音の搾取から逃れるにはどうすればいいのか。
 ジョン・ケージはハーバードの無響室でふたつの音を聴き、それが自分の肉体が立てている音だと知り、こう言ったのだった。「沈黙は存在しない」と。
 沈黙が存在しないということは、音楽は永遠に滅びないということだ。同時に、音の搾取も永遠になくならないということだ。
 私は「どうにかならないんですかね?」とケージおじさんに伺ったのだった。「どうにもならないねぇ」とケージおじさんは言ったのだった。

 しかし、ケージは著書『サイレンス』のなかでこう書いてもいる。“無の安全な所有”について。

「無が安全に所有されていれば、どんな何かでも自由に受け入れられる。いくつあるか? 足元まで押し寄せるほどだ。そこにはいくつドアと窓があるだろう? 何かの数には際限がなく、そのすべてが(例外なく)受け入れられる。
 誰かが突然傲慢になり、あれこれの理由で「これは受け入れられない」と言うなら、他のどれでも受け入れられるという完全な自由は消え失せる。だが、無の安全な所有(精神の貧困と呼ばれてきたもの)を維持するのなら、自由に楽しめるものに限度はない。
 この自由な楽しみではものは所有されない。楽しみだけがある。所有されているのは無だ。これが無連続と言われるものの意味である。
 無音。無和声。無旋律。無対位法。無リズム。つまり何かのうちの一つとして受け入れられないものはないということだ。」




“無の安全な所有”、これはあまりにも長大な射程を含む。人種についても、セクシュアリティについても。ケージとマース・カニンガムの交際を今さら思い出す必要があるだろうか。
 ほんとうに無を安全に所有できるとしたら、差別はおそらく消え失せる。差別の本質は「あっちとこっち」の世界観だ。あっちは醜悪で不潔で怠惰で人間以下だから、美しい人間であるこっちの都合で滅ぼしてもいい。あっちは同性同士で乳繰り合ってるキモいやつらだから、正当たる家庭の細胞であるこちらにとっては癌同然だ。しかし無を安全に所有できたら、「足元まで押し寄せる」ほどのありさまを受け入れることができる。
 ここでは「多様性」などは一切問題になっていない。
「多様性」は“正当”ありきの概念だからだ。ヘテロセクシャルを正当として屈辱のまなざしで認識するかぎり、ホモセクシャルそれ自体の一個性は永遠に束縛されたままだ。L、G、B、Tなどと、「正当たるヘテロセクシャルにまつろわぬ我ら」の数をかぞえあげても仕方がない。そうではなくて、無の安全な所有のもとに、楽しみだけを所有すればいいのだ。なぜ、一個の人間には一個のセクシャリティしか所有できないと思うのだろうか? そもそも、セクシャリティとは本当に存在するものなのか? それは所有できるものなのか? 所有していたのは、楽しみだったのではなくて?


 ケージの後の世界に生きる我々は、すでにはしゃぎきった口吻でこう唱和するに吝かではないではないか。「音楽は素晴らしい」と。「No music, No life」と。それはそうなのだろう。楽しみは所有されているのだろう。我々はたのしく振付けられていて、それは他者の絶滅へと駆り立てる号令とは違う搾取のされかたをされた音なのだ。 
 しかし、ここでもナチスがつきまとう。かれらはPA装置や磁気テープを生み出した。偉大な音響的発明だ。これなしに20世紀のポピュラーミュージックの隆盛はない。我々の「たのしく振付けられた音楽」は、音響の政治利用にどの国家よりも明敏だったナチスの恩恵のもとにある。

 しかし、だからといって捨て去ることができるだろうか。「音楽はナチだ、穢れている」と。それはケージの言う傲慢なのではないのか。それは音に対する最も愚劣な処女信仰ではないのか。「純粋言語」や「純粋民族」にも相当する、あの潔癖きわまる椅子取りゲームではないのか。

 未だにこう言う者がいる。「ワーグナーは反ユダヤだ、ナチだ」と。言いたければいつまでもそう言っていればいい。
 しかし、それは「或物の一側面をもって、それ自体の全てとして単純化する」ことに他ならない。『セッション』の記事でも書いたように、それは稚気なのだ。もう一度あのたとえを使おう。たとえば、傘は雨をしのぐためのものだが、その尖端で人間の眼球を潰すこともできる。だからといって、「傘は目を潰すためのものだ」として定義するのは間違いでしかない。

 愚劣に搾取されるかもしれないからといって。振付けられるかもしれないからといって。人を殺すかもしれないからといって。処女でないからといって。だからといって「これはもうダメだからこれなしでやろうぜ」などと言えるだろうか。既にケージによって確認したではないか、「沈黙は存在しない」と。
 無を安全に所有するとは、搾取され血にまみれた音のありさまも含めて受け入れるということだ。そのありさまをそれ自体として単純化せず。「そういうこともある」と認める一方で、「そういうこと」を顕現させるに至った搾取を絶対に歓迎することなく。
 収容所において、ハンガリー帝国軍の元軍曹シュタインラウフが言ったとされる、あの“同意を拒否する能力”をかたく持ち続けながら。

「ラーゲルとは人間を動物に変える巨大な機械だ。だからこそ、我々は動物になってはいけない。ここでも生きのびることはできる、だから意志を持たねばならない。証拠を持ち帰り、語るためだ。そして生きのびるには、少なくとも文明の形式、枠組、残骸だけでも残すことが大切だ。
 我々は奴隷で、いかなる権利も奪われ、意のままに危害を受け、確実に死にさらされている。だがそれでも一つだけ能力が残っている。だから全力を尽くしてそれを守らねばならない。なぜなら最後のものだからだ。それはつまり同意を拒否する能力のことだ」


 

 だから、こう言おう。「たのしく踊るしかない」と。たのしく振付けられるしかないと。だって沈黙は存在してくれないのだから。
 沈黙は存在しない世界で、今日も食器は落ち続けるだろう。意図せざる「がちゃん」の音に振付けられ、怯え、申し訳なさそうに目を伏せ、「失礼しました」を言わせざるを得ない状況が何度でも顕現するだろう。
「がちゃん」の音は搾取されていない。誰によっても意図されたものではない。もし「がちゃん」の音に発音者がいるとしたらそれは重力だろう。だから、人間によらないまっさらな音なのかもしれない。しかし、それは「振付ける」。誰にも意図されていない音でさえ。誰にも意図されていない音だからこそ。
 だから、きれいで血に塗れていない音などを求めても無駄なことなのだ。たのしく踊るしかない。
 食器を落とさないように、食器を砕かないように、怯えることなく、脅かすことなく。

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