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「divine」なる存在 (ロッキー・ホラー・ショー、ピンク・フラミンゴ、デヴィッド・ボウイ、クイーン)

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——You like me and I like it all
——We like dancing and we look divine


 David Bowie の楽曲『Rebel Rebel』 は、破天荒な両性具有者(ジャン・ジュネがモデルと思われる)の美しさを讃えるアンセムである。発表は1974年。これはクイーンのセカンドアルバム『Queen II』のリリース時期と、舞台版『ロッキー・ホラー・ショー』がロサンゼルス公演を成功させた時期とも重なる。

 ボウイもクイーンもロッキーも、欧米において「性別を超越した、ギラギラした新しい芸能の形」を打ち出したことで共通する。これにはもちろん公民権運動による同性愛者への権利意識の高まり、さらに60年代末からのゲイ・プライドの機運が噛んでいる。ピューリタン的な価値観で抑え込まれていたキッチュでキャンプな在り方は全く恥ずべきものではなく、むしろ恍惚として見上げるべき神聖な存在(江戸時代における高級な色子のような)だと解釈された、その美意識が結実したのがボウイやマーク・ボランを筆頭とするグラム・ロックだったと言っていい。ボウイが自らの歌詞で「divine」という単語を使って両性具有の美を讃えているのも象徴的だ。

 ここで、のちにカルト映画となるロッキー・ホラー・ショーの先輩格と言える『ピンク・フラミンゴ (1972年)』の主人公の名前も“ディヴァイン”だったことに思い至る。自分こそが世界で最も下品な人間だと証明するためには犬のウンコを食うことすら辞さない、世間で共有されている価値観を真っ向から覆すトランスセクシャルな存在。それはある意味でボウイやフレディ・マーキュリーのような性を超越した在り方の先達だったとは言えないだろうか。

 70年代から急速に芽吹き始めた「divine」という概念は、音楽や映画という形で残されていて、現在でも決して古びることはない。クイーンのセカンドアルバム『Queen II』のB面(ブラックサイド)は、自分にとって“divine”の定義として最高峰のものとしてある。曲の展開・歌詞・コーラス、何もかもが過剰で、めくるめく空想の世界へと連れ去ってくれる。
 そう、“divine”とは「肉を持った空想」とでも言うべきものだ。単なる徒事や冗句に終わらない、音楽や映画として肉体的に刻印された空想である。そこには卑俗で窮屈な性のありかたを超越した恍惚が満ち満ちており、その姿をただ見上げるしかない観客を前後不覚にさせる。ちょうどロッキー・ホラー・ショーのジャネットとブラッドが、フランク博士の性のエクスタシーで骨抜きにされたように。

 “divine”は日常の価値観を超越した、ただ呆然として見上げるしかない存在だ。
 しかし、そもそも映画や音楽といった芸能そのものが“見上げる”ものではなかったか。


 スピルバーグ映画で「呆然として空を仰ぎ見る表情のアップ」が頻出するのは、何か物凄いもの(映画)を仰ぎ見る観客、という様式を心底信じている(というか監督自身も観客として客席にとらわれている)からだ。その根幹が揺るがない限り、スピルバーグ映画は絶対的な他者として観客の前に立ちはだかり続けてくれる。
 音楽も同様で、ライブで観客は当然ステージ上のバンドを見上げるかたちになる。そこには決して手の届かない、それゆえに神聖な存在として賞揚する様式があったはずだ。しかし(大雑把に言って)90年代以降、ロックバンドというものは観客の疎外感や鬱屈を共有する機構としての、同じ目線にいてくれる(むしろ自分より下で負け犬意識を代替してくれる)存在として矮小化されてしまった。
 それを考えるにおいて、忘れがたい歌詞がある。アメリカのバンドIncubus が2003年にリリースした楽曲『Megalomaniac』の一節だ。
 
——Hey megalomaniac
——You're no Jesus Yeah, you're no fucking Elvis
——Wash your hands clean of yourself baby
——Maniac, step down, step down


 個人的にはIncubus は決して悪いバンドではないと思うが、この一節を聴いたときに「ロックバンドというものは、今ではここまで窮屈な在り方を強要されているのか」と暗澹たる気持ちになったのを覚えている。
「てめえはキリストでもエルヴィスでもねえ誇大妄想者だ、さっさとそこから降りてきやがれ」という歌詞は、なるほど80年代のMTV全盛期から90年代のグランジブームを経たロックバンドが歌う詞としては一考の余地があるだろう。しかし、俗世の凡庸な在り方を超越した(むしろ美・醜や男・女という安易な二項対立すら撥ね付けた)新しい音楽の在り方を提示した過去の“divine”なアーティストと比較すると、貧しいシニシズムとしか言いようがなかった。

 これは、日本におけるアイドルやプロレスに置き換えても通用するだろう。
 ステージの上で躍動するのを見上げる、その断絶があるがゆえに神聖な存在だったアイドルやプロレスラーは、その聖性をメタ的に解釈する視点や、内幕のカミングアウトという、観客と地続きの世界に対象を引き摺り下ろす要素によって一方的に陳腐化されてしまった。アイドルも人間だからウンコもセックスもするし、レスラーはあらかじめ打ち合わせをしたうえで戦っている、そんな大文字の事実が観客に共有されてしまっては、もはや“見上げる”ことができるはずもない。

 しかし、そんな皮肉なメタ視点から俯瞰して「これってウソなんでしょ」と呼ばわることに、何の意味があるのだろう?
 ステージ上の存在が“divine”であるか、なにかを超越した芸能として在るかどうかを考えるにおいて、そんな小賢しいメタ視点は何も関係ないではないか? むしろ、虚実の皮膜を一枚越したうえで自分の役割を演じるその姿に、日常と非日常を超越した“divine”の美があったのではなかったか。



 個人的な話になるが、私は(アニメでも映画でも音楽でも)安易に共有されたジャーゴンを貼り付けて、なにか自分の意見を言えた気になっているような人間が大嫌いだ。同様に、「もっと気楽に楽しめばいいのに」と一方的に見下げ果てた価値観を押し付けてくる“善良な観客”も大嫌いだ(“気楽に観れば楽しめる”という物言いそのものに、作品そのものへの軽視・蔑視が表出している。こっちだってそりゃ最初は気楽に楽しんで観ているのだ。しかし愚劣な作品を観てしまったら、なぜ自分がこの作品を楽しめなかったのか、何がこの作品をそれほどまでに貶めているのか、というロジックを構築して判断しなければならない。それをサボることは、すなわちフィクション全般そのものへの冒涜を意味するからだ)。

 作品に対して皮肉やメタ視点でしか向き合えない人間は、最も貧しい意味での神の不在に生きている。恍惚として見上げる存在としてのフィクションではなく、自分と同じ目線で語って共感してくれるフィクションしか受け入れられないというのはあまりに貧しすぎる(こういう人間に限って、批評や分析に対して“上から目線”という言葉を使いたがる。私は基本的に「見上げたかったのに、いつの間にか足下に落ちてきてしまった」という失望をもたらした作品しか批判しない。足下に転がってきた作品と同じ目線で語るとすれば、自分も這いつくばらなくてはならない。そんなバカなことをしたくなるはずもないからだ)。そこには超越的な恍惚をもたらしてくれる“divine”という概念の美しさなど一顧だにされていない。“divine”で在り続けようとする存在をこきおろすようなジャーゴンは既に有り余るほど共有されてしまった。

 しかし、“divine”的な存在に衝撃を受けることのないまま凝り固まった価値観は危険だ。
 なぜならば、彼らは劇的で神聖な存在を知らないぶん、現実そのものを劇的なものとしてとらえようとするからだ。その証拠に、巷では地位も学歴もあるような人間が平気で陰謀論を振りかざしているではないか。「ユダヤの資本が世界を牛耳っていて〜〜」「朝鮮人や中国人が日本を毒して〜〜」「不正選挙が〜〜」などというB級スパイアクションの脚本にもならないような現実観をでっちあげて、一方的に人種や団体を差別し迫害する、そんな吐き気を催す場面を何度も見てきた。
 現在のロシアにおける“非伝統的な性的関係”への弾圧(だいたい“伝統的な性的関係”ってなんだよ。『青い脂』の大地交合みたいなやつかよ)、及び日本における他のアジア人へのヘイトスピーチ、なにもかもが本当に青臭いと心から思う。そもそも差別や迫害というのは、「あっちは悪い、こっちは良い」式の幼児的二項対立を受け入れなければできないことだ。そんなことを自分に許せるのは、反知性的で発達が遅れた人間だとしか言いようがない。

 劇的なるものを現実に求めてはならない。なぜなら、その時点で「現実 VS 非現実」という二項対立になってしまうからだ。現実はいくつもの層で構成されていて、一面的なモノの見方で認識できるものではない、というのを実感するために“divine”な芸術がある。恍惚し、没我し、一通りでない人間の多様性を全身で学ぶにはそれしかない。超越的な芸能の美しさにボコボコに殴られた後で、はじめて開ける知見もあるに違いない。
 ガルシア・マルケスが現実の事件や独裁者を題材に小説を書いたのも、レイナルド・アレナスが迫害された自分のセクシャリティを作品として外部化してみせたのも、「現実に劇的すぎる事件が起こってしまったとき、人々がそれを事実として認識できるように」という志があったからだ。フィクション全般を「事実は小説より奇なり」という言葉で一蹴するのは簡単だが、フィクション作品でしか現実に対して及ぼせない効果というものが絶対にあるし、それは近代において連綿と行われてきた。映画でも、小説でも、音楽でも。そこには呆然として見上げることでしか味わえない恍惚があったはずだ。


 やはり、“見上げる”存在でなくなった芸術というのは貧しい。フィクションであるのなら、こちらの想像の範囲を超えたものを叩き付けてほしい。
 幸いにして、今年もたくさんの“divine”な映画を観ることができた。自分より上位の層にいて、その断絶を讃えたくなる作品がたくさんあった。そんな作品があってくれる限り、人類はフィクションを求め続けることをやめないだろう。
 最後に、Joy Division のとある曲の歌詞を引用して終わろうと思う。「こちらからは見ることしかできない、どんなに思い焦がれても、向こうからすればこっちを気にかけてさえしない」という作品と観客との断絶を言い当てているように思われて、自分にとってとても大事な一節だ。

——A change of speed, a change of style.
——A change of scene, with no regrets,
——A chance to watch, admire the distance,
——Still occupied, though you forget.
 New Dawn Fades(Joy Division)


(なぜ唐突にこんな記事を書こうと思ったかのかと言うと、福岡爆音映画祭でのロッキーホラーショー上映が本当に楽しかったからだ。ステージの上で仮装して演技するファンクラブの皆さんの姿は最っ高にdivineだった!)
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