Epic!!!(アイカツスターズ!『MUSIC of DREAM!!!』の編曲を聴きじゃくる)

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『アイカツスターズ!』楽曲で最多のクレジット数(12行)となる『MUSIC of DREAM!!!』。生音の弦楽四重奏(1st Violin, 2nd Violin, Viola, Cello)が入っているだけでも本気ぶりが伝わってきますが、さらに管楽器の三重奏(Trumpet, Sax, Trombone)までもが加わっています。

 おそらく『MUSIC of DREAM!!!』を聴いた多くの人が比較対象として持ち出すであろう『ヒラリ/ヒトリ/キラリ』ですら、編曲においては(バンドサウンド以外の)生音は Strings(大先生室屋ストリングス)のみでした。しかし『MUSIC of DREAM!!!』にはさらに管楽器がみっつも入っている。ということは、クレジットを見比べてみても分かる通り、『ダイヤモンドハッピー』の管楽器と『ヒラリ/ヒトリ/キラリ』の弦楽器が同じ皿に盛られたような豪華な編曲が『MUSIC of DREAM!!!』である、ということになります。
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「でもさあ、そんなトゥーマッチな編曲にしたらボーカルとぶつかって後ろに引っ込んじゃうんじゃないの?」と思いそうなところですが、これね、ご存知ですかね。成瀬裕介という男がおりましてね。『アイカツスターズ!』でいくつもの優れた編曲をこなしてきたこの男が『MUSIC of DREAM!!!』にも加わっているわけです。結果、この曲はバンドサウンドと弦楽器と管楽器、それぞれのセクションを闊達自在に入れ替えることにより、目も眩むような美しい編曲を実現しています。

 まず作曲クレジット。南田健吾蔦谷好位置、『スターズ!』において既にいくつもの驚くべき楽曲たちを手がけてきた2人の共作になっています。『スターズ!』2年目後半の要になるであろう楽曲をこの2名で共作させたことだけでも驚きですが、さらに編曲には成瀬裕介が入っている。南田・成瀬、『アイカツ!』2年目における初打席ホームランコンビ*1 がそれぞれ作編曲に据えられている、この布陣だけでもう尋常でない楽曲になることがわかります。アニメ本編のOP映像で「作曲:南田健吾・蔦谷好位置/編曲:成瀬裕介」のクレジットが表示された瞬間に気絶しそうになった人も多いでしょう(私もそうでした)。そんな本気すぎる布陣で作られた『MUSIC of DREAM!!!』は、歌詞も作曲もいくらでも広げようのある楽曲になっていますが、ここでは編曲のみに集中します。ベース・ドラムスのバンドサウンドを基調として、ふたつの音色のギター(Acoustic, Distotion)、弦(1st Violin, 2nd Violin, Viola, Cello)、管(Trumpet, Sax, Trombone)のレイヤーが加わったこの編曲がいかに見事に成り立っているかを聴きましょう。CD音源をお持ちの方は (OFF VOCAL) 版を再生しながらお聴きください。持ってない人は今すぐ買いに行ってください。


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『MUSIC of DREAM!!!』主要セクション構成表(別窓)


◎Intro (0:00-0:18)
 左チャンネルにギター (Aco) 、右チャンネルにギター (Dist) 、さらにシンセに管に弦と、この編曲における主要キャストが揃った状態で始まります。「今からこの編成で殺[と]りに行きますよ」という宣言だと言ってもいいでしょう。*2

◎1番Aメロ (0:18-0:41) - 1番Bメロ前半 (0:41-0:47)
 きらびやかな音のレイヤーが堪能できるイントロから、1番Aメロでは急に音数がセーブされます。ドラムス・ベースの上でギター (Aco) とピアノがコード感を保つだけの、歌の伴奏に特化した編成です(ここのベースの音がとても良く録れていてたまらない)。このシンプルな編成での演奏は1番Bメロ前半まで続きます。重要なのは、1番Bメロ後半からサビに入るまでの流れです。この一連のセクションが『MUSIC of DREAM!!!』を名曲たらしめていると言って過言ではない。まずそこでどの楽器が引っ込んでどの楽器が前に出てくるかを聴きましょう。

◎1番Bメロ後半 (0:47-0:59) - サビ (0:59-1:25)
「心にしまいきれない想いがある」の歌詞からギター(Dist)と弦が入り、「あこがれに震える」の歌詞でついに管が合流し、「-音-が生まれる」の転調の瞬間にあのキメのフレーズが鳴り響くわけですが、この瞬間のエクスタシーたるや。

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 サビ直前の管楽器キメ
(音符が合ってるかどうかはわかりません。たぶん間違ってると思います。正確に聴き取れる人がいたらコメント欄に書いておいてください。)


 サビ前の転調部分について軽く確認します。ここでは変ホ短調(E♭m)からヘ短調(Fm)への全音上転調になっています*3 。同様の全音上転調は『Take Me Higher』やその元ネタである『Magia (Kalafina)』で聴くことができますが、『MUSIC of DREAM!!!』はサビ直前で「-音-[F]が[G]生[A♭]ま[G]れ[F]る[G]」とFmスケールのメロディが歌われているので、よりスムーズなメロディ主導の転調になっていると言えるでしょう。それにかぶせて管セクションが満を辞してキメのフレーズを吹き鳴らすわけですから、この転調の高揚感を何十倍にも高める編曲になっています。
 サビについてはもうくだくだしく書く必要もないと思います。ギターと弦がコード感を保っている中で管がボーカルの合間を縫ってあらわれる、この隙ひとつない構成に陶酔すべきでしょう。


◎2番Aメロ (1:40-2:03)
 転調から戻り2番Aメロに入りますが、ここの伴奏はギターが (Aco) と (Dist) の両方で鳴っており、さらに最初から弦が全音符を提供しているので、1番Aメロとは違って厚みのある音像です。ボーカルも1番のせなさん(虹野役)からりえさん(桜庭役)に代わっているので、同じパートでもバッキングとメインボーカルによって全く違った印象になっている。歌に寄り添う編曲を身上とする成瀬裕介の本領発揮と言えるでしょう。

◎2番Bメロ(2:03-2:21)
 歌の伴奏に徹していた弦が、この2番Bメロ前半でフレーズらしいフレーズを奏で始めます。1番と違い、2番Bメロは管よりも弦を堪能する構成になっていると言うべきでしょう。その証拠にここではあの管のキメは鳴らず、弦の音に導かれてサビに流れる構成になっています。「またあのキメが来るぞ」と身構えていたリスナーはここで「うおっ」とひとつ翻弄されるわけですが、このおあずけはむしろラストのサビでの高揚感を取っておくための仕儀だと言えるでしょう。

◎落ちサビ序破急 (3:27-3:39)
 間奏・Cメロ後の落ちサビパートは短時間にものすごいモーフィングが繰り広げられるので、詳細に見ていきましょう。
 まずピアノとギター (Aco) の静かな伴奏が4小節続き、弦とギター (Dist) が合流し、ラスサビに入る直前にあの管のキメが吹き鳴らされる、この3段構えの密度たるやということですが、この落ちサビの数秒間で音のレイヤーが増していく流れが『MUSIC of DREAM!!!』全体を構成している編曲の緻密さの縮図だと言えるでしょう。管のキメがこのラスサビ直前までセーブされていたことも、より一層高揚感に拍車をかけます。


 アウトロのコーラスの厚みについてもふれておくべきでしょうか。パシフィコ横浜(3/26)・ラゾーナ川崎(4/16)で収録されたという「一緒に歌ってくれたみんな」がクレジットされていますが、この(どのような環境で収録したかは不明ですが、おそらくそのほとんどが成人年齢未満の女児であろう)女声コーラスによって「これはあくまで未来ある女の子のための作品だから、勘違いしないように」と釘を刺される感覚もたまらないものがあります。「僕はやっぱり星宮いちごちゃんのことを考えていたかった……」「そっとしておいてほしかったなぁ」などと嘯くようになってしまった、自意識過剰な、脂ぎって内向した醜い成人男性たちのためではないという断絶が、より一層この歌を美しくします。「-音-が生まれる」「-歌-がはじまる」ことを歌ったこの詞は、いい歳こいてクチバシが黄色いままのヒヨコどもではなく、ここから新たに歌を始めようとする、すべての「追いかけてくる光を導くひと」たちに捧げられているのでしょう。


 ここではあえて『MUSIC of DREAM!!!』の編曲のみを取り上げましたが、もう歌詞も作曲もメンバーの歌唱も何もかも身悶えするほどの出来になっています。『アイカツスターズ!』2年目はあの驚くべき1年目が霞むような壮絶な展開になっているわけですが、このタイミングで「作曲:南田健吾・蔦谷好位置/編曲:成瀬裕介」の編成で勝負曲をぶつけにくる『アイカツスターズ!』ってもう、何? どんだけ切り札の出し方を心得てるの? もはやこれ以上安っぽい賛辞を並べる必要もないと思います。『MUSIC of DREAM!!!』を収録したCDには、大地を基盤として出発した『スターズ!』に初めて異様な重力圏を出現させた『森のひかりのピルエット』、虹色の歌であると同時に『スターズ!』で最も黒い楽曲(ビート主体の楽曲という意味)である『Message of a Rainbow』まで収録されています。まだ音源を入手していない方は今すぐお金を払って購入しましょう。2017年という時代が教えてくれるのは、「無料で手に入るものばかり掻き集めてSNSで知ったふうなコメントを垂れ流しているとどんどん馬鹿になるぞ」ということです。逆に言えば、これだけの見事な音楽の仕事にお金を払うことができるとは、なんという幸福でしょう。







*1 主に MONACA のクリエイターによって担われていた『アイカツ!』に2年目(DCD 2014年第5弾)から参加したのが南田健吾・成瀬裕介の2名である。初参加の onetrap クリエイターであるにもかかわらずそれぞれ『永遠の灯』・『オトナモード』という2連続ホームランのような痛快な楽曲を提供し*1-1 、「2年目以降の『アイカツ!』に onetrap あり」という印象を刻みつけた。以降、 onetrap は MONACA に代わって『アイカツスターズ!』の劇伴として起用され、南田は『Dreaming bird』『Dancing Days』等の作編曲・『1, 2, Sing for You!』『スタージェット!』等の編曲、成瀬は『アニマルカーニバル』『おねがいメリー』等の編曲に携わることになる。

*1-1 また、当時のデビューに際して書いた記事がこれ* だが、ここで『永遠の灯』の歌詞になぞらえて挙げた Tears for Fears の『Shout』イズム(感情をレットゴーして生まれた叫びが歌に変わる)は『MUSIC of DREAM!!!』の歌詞にも見られる。2番Bメロ:「間違いを知らなければ/本当なんて見えない/弱さを隠す理性は捨ててしまえ/感情に揺らめく/-歌-がはじまる」。『アイカツスターズ!』を読解するにおいて「エモ(00年代に全盛を迎えた音楽ジャンルに語源を持つユースカルチャー全般)」*1-2 は切っても切り離せない語句だが、ここでは詳述しない。ひとつ、『MUSIC of DREAM!!!』サビと同様の全音上転調の構造を持つ楽曲のなかでとくに感動的なものが『Welcome To The Black Parade』ラスサビである、ことにのみ言及しておく。

*1-2 当然ながら、この「エモ(Emo; 名詞)」は通俗的な意味合いで使われる「エモい(形容詞)」とは何も関係がない。筆者はこの「エモい」を好意的な意味では一切使わない。何故なら「エモい」という形容詞はもはやまったくエモくないからである。『アイカツスターズ!』が通俗的な「エモさ」ではなく、「論理と非情緒に裏打ちされなければ生成されない物質=エモ」に特化した作品であることについては、既にこのブログにアップロードしたいくつもの記事の中で述べている * *

*2 一応。このメロディアスなシンセとギター (Dist) が鳴っているイントロのみを聴いて「クサメタルみたいだ!」と喜ぶ向きがあるようだが、なんというか、偏った聴き方ではないかと思う。そういう音が聴きたければそういうバンドを聴けばいい。この楽曲が重要なのは、単一のジャンルに回収されるサウンドではない、弦と管の混成的*2-1 サウンドが展開されていることにある。メロディアスなシンセとギター (Dist) はこの編曲を構成する要素の中でもたかだか半分程度にすぎない。もしギタリスト出身の作曲家*2-2 である南田健吾が編曲も同時に担当していたとしたら、もっとギターが前面に出たサウンドになっていたかもしれない。しかし『アイカツスターズ!(主要作家 onetrap)』は『アイカツ!(主要作家 MONACA)』と違って多くの楽曲の作曲・編曲がそれぞれ別の作家によって分担されており、「作曲家が自分の得意なジャンルの編曲で勝負する(『硝子ドール』の60秒間ソロパートに代表される)」ような作家主義的な方向性は注意深く避けられている。よって『アイカツスターズ!』の楽曲は「編曲家」の仕事を堪能するにうってつけであり、この記事は(おそらく90年代に作曲家兼プロデューサーというカリスマ幻想が持て囃されて以来この国に根深く巣食ってしまった)作家主義的な聴き方ではない、エゴを省いて楽曲のために工夫を凝らす仕事=編曲家にこそスポットを当てるべく書かれている。

*2-1 どこまでも「全一的・純血的」な作品でしかなかった『アイカツ!』に比べて『アイカツスターズ!』は「混成的・混血的」な作品になっており、それはほとんどの主要楽曲において作曲者と編曲者が同じだった『アイカツ!(MONACA)』と作曲と編曲を基本的に分担させる『アイカツスターズ!(onetrap)』との差異にも直接関わっていると思われる。もちろん管楽器と弦楽器がミックスされた『MUSIC of DREAM!!!』の編曲がその真骨頂であることは言うまでもない。

*2-2 アイカツスターズ!『Dreaming bird』讃 Pt.2 南田健吾讃
 南田と同様の「ギタリスト出身の作曲家」として石原理酉(『チュチュ・バレリーナ』*2-3 作曲)がいるが、『チュチュ・バレリーナ』の編曲を担当しているのも成瀬裕介である。ト長調 (G Major) のシンプルなメロディにきらびやかなチェンバロや印象的なシンセ(元ネタは LUNA SEA の『ROSIER』および L'Arc〜en〜Ciel の『Driver’s High』と思われるあのフレーズ)を加えた成瀬の手腕に、「ギタリスト作曲に特化した編曲家」の称号を見出すのも無駄ではないだろう。これはギターの指板上のボイシングとキーボードの鍵盤上のボイシングの違いや調の選び方などにも繋がる「楽器の生理」にまつわる重要事だが、ここでは詳述できない。

*2-3 これ以外にも『チュチュ・バレリーナ』は『アイカツ!』3年半の楽曲の中でも屈指の密度を持つ、いくらでも掘り下げようのある楽曲だった。⑴2人編成(もな・ななせ)3人編成(るか・もな・みき)6人編成(ライブ版:AIKATSU! STARS全員)など多くの編成でパフォーマンスされていること、⑵ライブ版6人編成でのダンスパート(他のメンバーと比べてみきさんだけが明らかに異様な動きをしている)について、⑶『We Will Rock You』と同質のビートを持つこの曲を歌った氷上スミレがのちに『いばらの女王』に到達したこと、など。にもかかわらず『アイカツ!』放送中にこの曲に寄せられた言辞といえば、「ED映像の絵柄がなんか怖い」「じつはあかりジェネレーションはEDであかりちゃんが見ている夢の話なんだよ」などのいかにもオタクらしい、どうしようもない、論拠不明の「深読み」ばかりで、楽曲の構造自体に立脚した賛辞はほとんどと言っていいほど確認できなかった*2-4 。なんともはや。かと言って今更この楽曲について書こうとは思わない。筆者は『アイカツ!』のファンダムにほとほと愛想を尽かしてしまったので。

*2-4 この「理論に裏打ちされた仕事に対して情緒的なリアクションしか返すことのできないオタク」という地獄のような不毛の構図は、『アイカツ!(あかりジェネレーション)』から『アイカツスターズ!』に至るまで変わらず続いている。というか2017年現在、音楽や小説や映画やアニメにいたるまで、この「情緒>理論」のラウドスピークは全世界的に共有されていると思う。そんな他者が創った作品を消化するだけの体力や知性すら持たず情緒的にビービー泣くことしかできない無残な幼児たち(もちろん大多数は成人年齢)の巣窟がTwitterであることは言うまでもない。だから筆者はこうやって『アイカツスターズ!』がシナリオから音楽までいかに非情緒的な理論と鍛錬に裏打ちされているかについて書いているのだし、あなたも書くべきことがあったら書いたらいいのである。もちろん、まずはTwitterアカウントを削除するのは前提としてだが。

*3 変ト長調(G♭ Major)から変イ長調(A♭ Major)では? と思われるかもしれないが、どっちでもいい。平行調なのだし。
 また、変イ長調(A♭ Major)は言わずもがな『スタートライン!』の調であり、『MUSIC of DREAM!!!』のサビがその平行調であるヘ短調(Fm)で歌われていること、つまり『スタートライン!』と『MUSIC of DREAM!!!(サビ)』は両方とも同じ7音のスケール(F G A♭ B♭ C D♭ E♭)で構成されていることについても言及しなければ、この曲について書いたことにはならない。


『アイカツスターズ!』2年目に捧げる暫定5つのリスペクト)

 人間。
 ただ人間。
 ひたすら人間を追究する。
「日を射る者」『小説十八史略』


 以前、Twitter(削除済)で「『アイカツ!』は天動説的、『アイカツスターズ!』は地動説的」と書いた憶えがありますが、もっと適切な表現がありました。「『アイカツ!』は編年体、『アイカツスターズ!』は紀伝体で書かれている」
 本稿は、『アイカツスターズ!』2年目(星のツバサシリーズ)に捧げる暫定5つのリスペクトです。ここで “respect” が “spec(羅:「見ること」に関連した語を作る語根)” に語源を持つ言葉であることを強調しておきます。なぜ『アイカツスターズ!』に捧げられる文章が「考察」や「分析」などではなく「リスペクト」でなくてはならないか、については、おそらく【RESPECT8】あたりで明らかになるでしょう。



:目次:
<孤独編>
◎RESPECT1 孤独をおそれない女の子がいる(『アイカツスターズ!』、この複数形の作品)
◎RESPECT2 世界は広く、道はひとつじゃない(如月ツバサの道々)

<闘争編>
◎RESPECT3 勝負師、依然として(花園きららの俊足・虹野ゆめの返済)
◎RESPECT4 The Patients(虹野七倉:忍耐患者)
◎RESPECT5 言葉の闘士(桜庭 VS 花園)

◎RESPECT6 Don't dream it, be it(「楽しい想像」の「その後」)
◎RESPECT7 Chevalier de Créole(21世紀のトロバイリッツ)
◎RESPECT8 金星的、あまりに金星的(エルザ フォルテの眼球)
◎RESPECT9 大賭博峠
<製造編>
◎RESPECT10 人間ができるまで(「個性」が謂っていたもの)
◎RESPECT11 神域にあろうと(重力のあるところで 2 YEARS AFTER)
◎余談1:突き立たない音(リズムは打音を必要としない)
◎余談2:「ゲイ百合」序曲


【凡例】
・人名は敬称略。作品名は『』で、歌詞、セリフ、文献等からの引用句は “” でくくる。また本稿で一般的なものとは意味をずらして使用している語句は「」でくくって表記する。
・煩雑を避けるため、前シリーズ『アイカツ!』の放送話数は「A!epn」で表記し(例:アイカツ!第128話→A!ep128)、『アイカツスターズ!』の話数は「AS!epn」で表記する(例:アイカツスターズ!第30話から第36話→AS!:ep30-36)
・fc2ブログにはルビ機能がないため、特定の語にルビを振る場合はその語の後に[ ]で表記する(例:強敵[とも]) ・註、関連項(稿)、参照記事などについては適宜リンク先を指定する





◎RESPECT1 孤独をおそれない女の子がいる(『アイカツスターズ!』、この複数形の作品)

“孤独をおそれない女の子がいる” 。『episode Solo』のサビで宣言されるこの言葉ですが、今聴いても驚かされます、新たに始まったシリーズのED曲のサビ冒頭から “孤独” とは。もちろんこれは「『アイカツスターズ!』は友情や愛情とは一切関係のない孤独な作品だ」ということを意味してはいませんでした。S4に代表されるような、互いに敬意を持ちながら切磋琢磨していく関係性は『スターズ!』1年目から一貫して描かれていた。では、如何にして『スターズ!』における友情・愛情なるものが “孤独” と矛盾しないものに成り得たかを見るためには、前作『アイカツ!』における友情・愛情なるものと比較してみるのが最も手っ取り早い方法でしょう。

A!ep43、女優業に専念するためにスターアニスのツアーに参加できなかった神谷しおん。独りで悩んでいた彼女のもとに霧矢あおいが訪れます。ここで神谷は自分が ⑴スターアニスのツアーに参加できなかったこと ⑵ツアー帰りの同級生たちのように「いい笑顔」を持っていないこと を負い目に感じているわけですが、“「私たち相棒でしょ? 何でも話して。話してくれるまで離さないから!」” と霧矢に気遣われ、「いい笑顔」が見出せない神谷のために同級生たち(に加えて、トップアイドルの神崎までも)がオーディションに協力出演し、 “「(私の夢は)女優になることです!」” と神谷の笑顔を引き出し、 “ハッピーエンド” を迎えたのでした。

You just call out my name
And you know wherever I am
I'll come running to see you again
Winter, spring, summer or fall
All you have to do is call
And I'll be there, you've got a friend

You’ve Got a Friend / Carole King


 A!ep43の描写に象徴的ですが、前作『アイカツ!』における友情・愛情なるものは、あらかじめ物理的距離や心の隔たりといったものが解消されていたのでした。困ったり悩んだりしているときに周囲の友人たちが無条件に駆けつけてくれる関係性、これを仮に『You’ve Got a Friend』的関係と呼びましょうか。 “All you have to do is call / And I'll be there” 。A!ep71で霧矢が山籠りした際にも、その夜のうちに星宮が駆けつけていたのでした。心の近さ=距離の近さという等式は、『アイカツ!』において一度も疑われることがなかった。そのためにA!ep50-51では「星宮が留学してから1年が経ちました」というアクロバットを入れてすぐさま主人公を帰国させる必要があったし、『劇場版アイカツ!』では夏樹みくるさえもが(神崎が星宮のライブを観にくるかどうかさえ未確定なのに)帰国していたのでした。

 さて、A!ep43と同様に、『アイカツスターズ!』にも「部屋で独りでいる子のために友人たちが赴く」場面があります。このふたつの場面を比較すれば、前作『アイカツ!』と『スターズ!』の友情・愛情関係の差異は一目瞭然となります。
 AS!ep46。劇組の1年生エースである早乙女あこが現S4の如月ツバサに敗北を喫し、悔し涙を流すシーン。このS4選の結果に至るまでの描写がいかに見事なものであったかは以前* 書いたので省略します。S4選初日が終わり、来年度S4の座は確定したものの勝利することはできなかった早乙女のもとに虹野・桜庭・香澄がお菓子を持って訪れるシーン。しかし3人はドア越しに早乙女のすすり泣きの声を聴いてしまう。 “「今日はそっとしておいたほうがよさそうだね」” 。3人は早乙女の部屋に入ることなく、明日にS4選を控えている香澄は自分自身の闘いに向き合うことにしたのでした。
 ここで明確になるのは、『アイカツスターズ!』における友情・愛情なるものは、物理的距離や心の隔たりに阻害されない質のものであることです。もちろん早乙女あこは独りで泣いてばかりいる人間ではありません。続くAS!ep47の朝食のシーンでは、 “「わたくしが敗けて落ち込んでいるとでも? もしも仮にそうだとしても、それは昨日までですわ」” といつも通りに気丈に振る舞う早乙女の姿があります。これによって『スターズ!』の人間たちが如何に憂鬱[blues]に向き合っているかが明瞭となります。親しい友人にも(親しい友人だからこそ)見せられないものがある、物理的距離や心の隔たりをそのままにして成立する “孤独をおそれない” 関係性。それが『episode Solo』的関係だったということになります。

 ひとまず『You’ve Got a Friend』的関係(『アイカツ!』)と『episode Solo』的関係(『スターズ!』)、ふたつの質的に異なる関係性を提出しましたが、これらの差異をさらに明瞭にしていきましょう。
『You’ve Got a Friend』的関係(『アイカツ!』)は、そもそも個々人の間に対立が無い。より正確に言えば、質的に異なる人間たちの存在はあっても個々人の間には懸隔が存在しない。だからこそ周囲と異なる傾向の仕事(女優業)をしていたはずの神谷も周囲に助けられて「いい笑顔」になることができたし、さらに言えば違う学校であるはずのドリームアカデミーとの間にも対立関係は存在しなかったし*1-1 、もっと言えばあかりジェネレーション以降のスターライトは京都・神戸のアイドルや北海道のおぼこい女の子たちまで受け入れることができる、懸隔を解消し尽くす巨大な装置のようになっていたのでした。スターライト学園という空間で運営される人間どうしの関係性を、そうですね、ここで「モル状関係」と呼びましょう。スターライトで必要とされていたのは “孤独” ではなく、 “All you have to do is call / And I'll be there” を常に可能にすることだった。「個」であることを誘蛾灯にして「全」であることを保持する空間がスターライト学園であり、そこで常態とされる懸隔のない人間どうしの関係が「モル状関係」だったと。

 では『episode Solo』的関係(『スターズ!』)はどうだったか。1年目を通して観ればわかるとおり、ここでは個々人の間の対立が、もっと言えば闘争が存在する。1年ごとにブレイクダウンする「S4」という法人格とその座をめぐる札の切り合い、「S4選」が存在する空間です。それによって1年ごとに切断をおき、質的に異なる四つの学級での訓育を担っているのが四ツ星学園でした。ここにこそ懸隔が、物理的距離や心の隔たりが存在しうる。そして懸隔は友情・愛情と無縁のものではないのです。例を列挙しましょう、物理的に距離を隔てた状態でも心を通いあわせていた二階堂⇔白銀の関係(学園⇔療養所)、学校を離れても心を通いあわせていた虹野⇔七倉の関係(日本⇔イタリア:セリフに頼らず二人の心を交信させたエピソードについては以前* 書きました)、向こうには聴こえないかたちで最愛のパートナーへの想いを語りあった桜庭⇔香澄の関係(AS!ep44)、直接自分に向けられなくても応援の言葉を受け取った早乙女あこ⇔結城すばるの関係(AS!ep45)、さらに言えばもうここには存在しない者と生者の断絶をまたいだ雪乃ホタル⇔諸星ヒカルの関係、アイドルとして絶命するかもしれない病の医[いや]し手として関係しながらも自分自身の痛ましい記憶(雪乃ホタルの死)についてはなかなか口を破[わ]ろうとしなかった諸星ヒカル⇔白鳥ひめの関係。ここには個々人の懸隔をそのままにした、 “孤独をおそれない” 人間たちの関係がある。そうですね、この関係は「分子状関係」と呼ばれるべきでしょう。「個」であることを誘蛾灯にして「全」であることを保持するのではなく、「個」であるものたちをつなぐ線によって常に「全」が寸断されてゆく、その寸断された切片が複数存在すること自体が「全」であるような空間。それが四ツ星学園における人間同士の関係、「分子状関係」です。

 この「モル状関係」「分子状関係」の区分を使ってしまえば、おそらく『ザ・ドラえもんズ』から『アベンジャーズ』から『シン・ゴジラ』まで、あらゆる作品の人間同士の関係性を読解することがある程度可能でしょう。それは本題ではありません。重要なのは、ここで流通しているのは欲望だということです。人間が複数集まることによって、そこで織りなされる関係によってどのような欲望が生産されるのか、何に耽溺できるのか、何を拒絶できるのか。「モル状関係」「分子状関係」の質的違いを見出しただけではまだ十分ではありません。さらに読解を精緻たらしめるため、『スターズ!』という作品の複数性について切り込むべきでしょう。その最良の導き手となるのは、如月ツバサ、四ツ星学園において異なる二人の親を持っていた彼女であろうと思われます。


*1-1 この「質的に違う学校同士の関係」がいつのまにか「隣のクラスの仲のいい子たち」のようになっていたスターライト=ドリームアカデミーの関係を、 “「ヴィーナスアークの制服に着替えなさい。留学生らしくね」” というエルザのセリフに象徴される四ツ星=VAの関係と比較してみるのもいいでしょう。





◎RESPECT2 世界は広く、道はひとつじゃない(如月ツバサの道々)

“「世界は広く、(そして)道はひとつじゃない」” 。このセリフはAS!ep3・AS!ep12の2回において反復されます。この2話は異なる脚本家によって書かれているのにもかかわらず、如月ツバサの口から繰り返されている。あらゆるものごとにおいて「反復」ほど重要なものは無いわけですから、まずこのセリフを足がかりとしましょう。

 AS!ep3において述懐されるのは、歌組のトップを志すも劇組に転向した如月ツバサの経歴です。歌うことにおいて異様なほどの資質に恵まれた白鳥ひめ(もちろんこれはのちに諸星ヒカルによって医[いや]される必要があった病の効果と思われ、そのことに如月が勘付いている描写は複数存在する)によって夢が挫折し、道に迷った如月ツバサ。そこに劇組指導教員の八千草によって “「あなたすっごく良い翼を持ってるのに、全然翔んでない」” の助言が授けられ、歌によらない女優の道がそれとなく示された。結果として如月は3年次で劇組のS4となり、歌組S4の白鳥と肩を並べることができたわけです。

 ここで明確に断言されているのは、「人間が進むことができる道は複数存在しなければならない」ということです。思い出しましょう、まだら牛の綱渡舞踏家[seiltänzer]が道化に跳び越されてしまったときに何が起こったか。足を滑らせ綱から転落し、絶命するしかなかったのでした。これは「人間が進むべき道(=綱)はひとつでなければならない」前提で歩みを進めてしまったから起こってしまったことです。そうではなく、「人間が進むことができる道は複数存在しなければならない」。これは四ツ星学園という複数性空間のクリードでもあり、そこで訓育された如月ツバサのクリードでもあります。 “「世界は広く、(そして)道はひとつじゃない」” 。AS!ep12での如月は、入学当初に抱えていた孤独の象徴(=フクロウのホーちゃん)と再会し、ホーちゃんも現S4である自分と同様にファミリー*2-1 とともに生きていることを知り、 “「どこまでも一緒に羽ばたいていける、かけがえのない友達(=S4)」” の存在をあらためて実感したのでした。
 しかし、S4は「分子状関係」です。学生時代を永遠に引き伸ばしてつるんでいられる質のものではなく、1年ごとに解散(ブレイクダウン)が運命付けられているチームです。これは同S4メンバーの香澄夜空がすでに流謫の歌『未来トランジット』* を担っていたことからして自明のことだったのでしょう。彼女らは四つの複数の道を示す空間でそれぞれの藝能を選び取り、自分が打って出る方向を見定めた。その時点がAS!ep50、『スターズ!』1年目終了の段階だったと言えます。

 そして如月ツバサ、元歌組・劇組S4であった彼女、歌組指導教員の響アンナ・劇組指導教員の八千草桃子の二人の親を持っていた彼女は、『スターズ!』2年目において自分の経歴に決着をつけます。歌組下級生のために具体的にトラブルに対処している桜庭ローラの成長に直面し(AS!ep57)、ブランド『Spice Chord』を桜庭に託すことにした如月。AS!ep62での “「アンナ先生や私の愛した『Spice Chord』、桜庭は自分自身のやり方で発展させていけばいい」” というセリフには、さりげなく「歌組で長じることができなかった自分自身の未遂の道」への幾許かの悔恨とそれを代わりに果たすことができるであろう別の人間(=桜庭)への信頼が偲ばされており、まったく説明的でないセリフに幾層もの感情が折りたたまれた極上のシーンになっています。が、まだこれで終わりではありません。
 直後、無言で恩師・八千草のほうへ歩み寄る如月。 “「これで、思い残すことなく旅立てるわね」” という恩師の言葉を受け、その傍らをも過ぎ去ってゆく。元劇組トップの完全無欠先輩こと如月ツバサでさえ、女優という自分の道を定めるためにこれだけの時間と葛藤と具体的訓育が必要だったことが示されるのがAS!ep62です。歌に特化することを諦めて劇の藝能に取り組んだ、四ツ星という空間で「自分はこのようにして造られた」の経歴に決着をつけ*2-2 、かつて異なる道を伴にした友人たちとも訣別して初めて旅立ちが可能になった如月ツバサの生路は、 “孤独をおそれない” 友情・愛情の関係=「分子状関係」がいかなるものかを雄弁に語っています。彼女が道を見定めるにはあらかじめ複数の道が示されていなければならなかった。そして質的に異なる才能たちとの出会いと別れを経て初めて “これで打って出る この先にしか道はないから”*2-3 と自分の(学校の外に出てはじめて賭けるための)勝負へと向かうことができたのでした。 “確かに道を間違ってはいない。他に道はないからだ。もう他の道を通り過ぎてしまったのでなければ、気づかないうちに、次々他の道を通り過ぎたのでなければ”*2-4 という確信に達するには、 最初からひとつの道しか示されていない状態で綱渡りを始めるのではなく、他にも複数の道が存在することを知った上で自分の進路を見定めなければならなかった。

 様々なことを、ここから引き出すことができるでしょう。「高等部」が存在するのはスターライトも四ツ星も同じだったのにもかかわらず、スターライトの学生たち(星宮ら)はついに学園の外に出ることはなかったこと、どころかAS!ep70において『スターズ!』空間に割り込んでくるまでになってしまったこと(まさに周囲の分子を取り込んで無限増殖する「モル状関係」の本領発揮といったところです)、など。それらすべてを省略し、ひとつのことに絞ります。『SHINING LINE*』に導かれた『アイカツ!』の単数性と、『アイカツスターズ!』の複数性について。


・掟の門

『アイカツ!』という作品は、専ら神崎ー星宮ー大空をつなぐひとつの関係性によって回されていた作品でした(その外に出ている関係性がかろうじてひとつ存在していたことについては以前* 書きました)。A!ep76、大空が星宮に選ばれるきっかけになった回のセリフを引用しましょう。

霧矢「アイドルの道は狭き門。昔から変わらないことだけどね。」
紫吹「でも考えようかもな。この世界に入ったあとに向いてないって気付くほうが、つらいかもしれない。」
霧矢「最後まで責任を持って、しっかり選ばないとね。」


 霧矢が言うところの「門」、人間が自分の生き様を選ぶための入り口はひとつしか存在しなかったと、このセリフを読めばどうしてもそういうことになります。「門」が複数存在するとは考えなかったと*2-5。だからこそ『アイカツ!』の「あこがれ」なるものは神崎ー星宮ー大空という一本の線によって担われなくてはならず、『SHINING LINE*』は絶対に単数形でなくてはならなかった*2-6。これは「個」であることを誘蛾灯にして「全」であることを保持するモル状空間ことスターライト学園の本質とも釣り合っていることです。そこで『SHINING LINE*』の末席に選ばれた大空あかりは、天皇家に生まれた女性が皇女になること以外に選択肢を持たないように、この単数の「苔のむす」ように持続する「万世一系」の線によって「導かれ」なくてはならなかったのでした。『アイカツ!』、この単数形の作品。そこで繰り広げられていた一本の「導き」の線が行き着くところ、結局それは綱渡舞踏家[seiltänzer]の最期(ひとつの綱からの転落)以外にないのでは、とまでは言いますまい。私は『アイカツ!』に対して何ら批判の矢玉を差し向ける気はありません。ここではただひとつ、シリーズ構成担当の加藤陽一の脚本をパトグラフィックに読解することで代わりとします。


・孤独をおそれている成人男性がいる

「全」で「一」のモル状空間ことスターライト学園では、「大勢のキャラクターがひとつの場に集合して大団円」という絵が多く繰り広げられます。先述したA!ep43はもちろんですが、最も象徴的なのは『劇場版アイカツ!』のラストシーンでしょう。神崎ー星宮ー大空のラインが開通したことを祝賀する大勢のキャラクターたち。さらにはA!ep124、有栖川から北大路へスターライトクイーンの座が伝承される回のラストシーン。星宮らの先輩はもちろん下級生の大空たちまでもが駆けつけて、画面内の人口密度はすごいことになっています(その中でも同じユニットで活動していて北大路に近しい人物であるはずの神谷しおんは、霧矢と星宮の二人に挟まれて顔が隠れています)。極めつけは最終話A!ep178、クイーンとなった大空と彼女を導いた星宮のマラソン、その街道に立って応援する無数のキャラクターたちの立ち姿。これら「本来関係が深いわけでもない人までもが駆けつけて祝福」する絵面が何に似ているか、について書く必要はないでしょう。おめでとう、おめでとう、おめでとう。90年代中盤において「個」と「世界」との区別が蒸発していたあの作品に似ているなどと、改めて書くまでもないでしょう。


『アイカツ!』、この作品がここまで強迫的に「大勢のキャラクターがひとつの場に集合して大団円」の絵を反復している理由は、じつは脚本家:加藤陽一のとある性向と不可分のものです。「登場人物をひとつの場所に集合させればきっとハッピーエンドになるだろう」、さらに言えば「登場人物をひとつの場所に集合させなければ観客は納得してくれないかもしれない」というオブセッションによって生産されたものだということです。以下、これが単なる邪推ではない根拠を提出します。

 加藤陽一が脚本を担当した映画『ルドルフとイッパイアッテナ』は、『アイカツ!』で数多く描かれたのと同じように「大勢のキャラクターがひとつの場に集合して大団円」のエンディングになっています。このラストシーンがはっきり不可解だと言えるのは、直前に自分の家に帰ったルドルフが『時計じかけのオレンジ』的な「孤独(あるいは放逐)」を突きつけられるシーンが存在するためです。にもかかわらず、最後には「大勢のキャラクターがひとつの場に集合して大団円」のエンディングにおさまってしまう。もしこの映画が「自分の帰るべき場所を失くし、名前さえも失ったルドルフは、そこから『何者でもない者』に成ってゆく」というエンディングに向かっていたとしたら、私は立ち上がって拍手喝采していたでしょう(言うまでもありませんが、『未来トランジット』の歌詞はそういう『何者でもない者』への成り行きを描いていたからこそ驚愕的な作品です。そもそも『ルドルフとイッパイアッテナ』は「言葉を知ること・命名すること」を主要テーマに据えた作品なので、この別エンディングも採用するに妥当なものです)。が、ルドルフは孤独へ向き合うことなく、イッパイアッテナのホームに迎え入れられてハッピーエンドとなる。これは「登場人物をひとつの場所に集合させなければ観客は納得してくれないかもしれない」オブセッションの臆面もない発露と言えるでしょう。

 再度言いますがこれは単なるパトグラフィもどきであり、何ら批判的な意図を持つものではありません。が、この加藤陽一による脚本の傾向のなかに、私は「奇妙な怯え」とでも呼ぶべき何かを見出します。みんなと一緒にいなければ。無条件に歓迎されるホームがなくては。大勢に祝福されなくては。一見幸福なこれらのハッピーエンドは、なんとしても孤独であることを避けようとする一種の強迫観念に裏打ちされている、と言っても過言ではないでしょう。そんな “孤独をおそれ” ていた『アイカツ!』が最終的に行き着いてしまったものの正体を私たちはもう知っています*。この「奇妙な怯え」は、震災をきっかけに “ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになった” 時点で既に根深く巣食っていたのだろう、などと言っても、もはやどうしようもありません。

 代わりに、私は本稿を書き上げることによってひとつの結論を導き出そうと思います。「もう怯える必要はない」と。これは私から『アイカツ!』への意見というより、『アイカツスターズ!』、この複数形の作品が『アイカツ!』に向けて結果的に差し向けることになったメッセージと言ったほうが正確でしょう。これが単なる恣意的なこじつけではなく、『アイカツスターズ!』が2年間をかけて取り組んできた成果たちの読解の結果として得られる結論であることを、これから本稿で証明します。

 下ごしらえは済んだようです。以降は、闘争編【RESPECT3-9】と製造編【RESPECT10-11】の2編に分けて『アイカツスターズ!』2年間の成果たちを検分するとしましょう。その果てに、 “孤独をおそれない” ことと創造的でいること・人間的でいることが全く矛盾しないこと、それを立証するための見事に磨き上げられた料理道具のような成果たちをこの卓の上に持ち帰ること、を約束します。


*2-1 ここでファミリーの意味が「血縁によって編成される関係」に限定されていないことに注意しましょう。ホーちゃんのファミリーはおそらくペアでの繁殖によるものですが、S4は縁もゆかりもない個人たちが質的に異なった藝能を持ち寄ることで編成される非血縁ファミリーです。詳述しませんが、「血縁によらない別の集団性」のファミリーを追求する姿勢は、『ファンタスティック・フォー(2015)』以降のマーベル映画においても一貫しているテーマです。

*2-2 これはもちろん、自分自身の経歴=誰かのファンであることに仁義を通して勝負に出た後輩・早乙女あこの姿とも直接重なり合います。

*2-3 田我流『坂』

*2-4 (頭はむきだし…)『また終わるために』 サミュエル・ベケット著 高橋康也・宇野邦一訳

*2-5 遡って言えば、「質的に違う人間たちが複数の異なる道を選び取ることができる」という四ツ星の特性は、前作におけるドリームアカデミーに通じるものです。しかしドリームアカデミーの運営にはそもそも『SHINING LINE*』の端緒である神崎美月が関わっており、この複数の道を選ぶことができる場所ですら『SHINING LINE*』の「導き」の圏外に出ることはできなかったのでした。私は、ドリームアカデミーにあれほど魅力的なキャラクターたちが存在していたのにもかかわらず本編内ではびっくりするほど消化不良のまま終わってしまった原因はここにあると考えています。

*2-6 私が前稿で批判した『幸せになる勇気』には「真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿の上を歩いている」「歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは『宗教』と呼びます。哲学とは永遠に歩き続けることなのです」とか書かれていますが、なぜ最初から大地ではなく竿の上を歩かされているのかがまったく理解できません。この「最初から歩む道がひとつ(竿)しかない」という前提ははもちろん綱渡舞踏家[seiltänzer]の最期を恣意的または無意識的に誤読しなければ不可能なことであり、自己啓発的思考がいかに初めから全一的なものであるかを自白しているにすぎない。もちろん『アイカツ!』の『SHINING LINE*』なるものが自己啓発と同型の思考に行き着いてしまったことは既に立証済みなので、『アイカツ!』もこの批判の圏内にあることを免れません。





空は何も言わない ただ流れるばかり
『STARDOM!』



 さて、序章では「『アイカツ!』は編年体、『アイカツスターズ!』は紀伝体で書かれている」と区別することから始めましたが、この意味は既に明らかでしょう。『アイカツ!』が『SHINING LINE*』という単数の「苔のむす」ように持続する「万世一系」の線によって「導かれ」ていたことは前編で確認しましたが、『アイカツスターズ!』、この複数形の作品はそのような単数の線による持続を持たない。簡略に言えば、『アイカツ!』はあまりにも日本史的・『スターズ!』はあまりにも中国史的な特性を持っています。
 一般常識的な確認から始めましょう。中国の歴史は、そもそも「万世一系」のような眼に視える神の血統を持ちません。代わりにあるのは「天」、歴史を動かす人間を召命し・同時に没落させる非人称的な審級を中心に据えた史観になっています。天の心臓の鼓動ごとに、新しい宇宙が湧然と現出するような反復の歴史、作用・反作用の歴史。これを『STARDOM!』の歌詞の一節 “空は何も言わない ただ流れるばかり” と重ね合わせればその意味は明白です。「天(=空)」、目に視える神の姿をとっていないなにものかは、地上に産まれた人間を歴史的に召命しこそすれ、導いたり嘉したりすることはない。ただ一方的に歴史的な舞台の上に揚げ・そして叩き落とす、A(bove)とB(elow)* の区別を流転させる存在です。『スターズ!』1年目の諸星ヒカルはひとまずそれを “「ステージの神様」” と呼ぶしかなかったし、白鳥ひめは “「勝利の女神」” と呼んでいたのでした。

 よって『スターズ!』は、ひとつの線の永遠的持続なしには成立しない『アイカツ!』とは真逆の、非持続と抗争の時空によって成り立っています。1年目ではその闘いの舞台は四ツ星内(S4選)に限られていましたが、2年目では外部からの船・ヴィーナスアークの襲撃を受ける。よって闘争の舞台は陸地のみならず海上、日本列島のみならず全世界に拡大されます。『アイカツスターズ!』、この紀伝体で書かれた作品を読解するには、まずは勝負師たる彼女らの戦歴、その場一度きりの勝負によって書き残された棋譜の数々を丁寧に読み解くことから始めるべきでしょう。


◎RESPECT3 勝負師、依然として(花園きららの俊足・虹野ゆめの返済)
 
【RESPECT3-5】までは、2年目前半(AS!51-75)の四ツ星 VS ヴィーナスアーク(略称VA)の戦歴をみてゆきます。まずは花園きらら、AS!ep51において早乙女あこのブランドであるはずの『FuwaFuwa Dream』を驚くべき迅速さで攫っていった彼女の話から始めましょう。


・羊の俊足

 AS!ep51、花園きららの初登場シーンを思い出しましょう。 “「わたくしにも何が何だか! とにかくどこかのアイドルにいきなりわたくしのブランドを奪われたらしいんですわーっ!」” 狼狽しきった早乙女のセリフがこれですが、その直後に花園のミューズ就任映像が流れる。えげつないのは、早乙女は自分のブランドが奪われた結果を事後的に見せられるしかないということです。「勝負して勝てなかった」のでも「勝ちを盗まれた」のでもなく、「いつのまにか、一方的に勝たれてしまった」結果を見せつけられるしかない、終わった勝負の結果を残余として突きつけられるしかない。自分の領土だと思っていたところがいつのまにか接収されていたわけですから、早乙女がこれだけ狼狽するのもわかろうというものです。逆に言えば、これだけ鮮やかに速やかに勝負をつけて去ってしまう花園きららの俊足たるや。以前私は花園のキャラクター性を賈詡に喩えましたが* 、対象を籠絡させるまでの手順の見事さ・去り際の速やかさなどが通じています(他に、牧畜が盛んな地域の出身〔ニュージーランド・涼州〕という共通点もあります)
 この初登場シーンの流れだけでも、花園きららはその俊足であっというまに勝負をつけて飄々と去ってしまう、韋駄天的人物であることがわかります。こういう韋駄天的人物が強者揃いのチーム(VA)に所属していることの重要性について語りたいところですが、ひとまず註に譲ります*3-1 。ここでは花園・早乙女の戦歴(AS!51-54)を駆け足で確認しましょう。早乙女はAS!ep54でブランドの奪回を試みるも、デザインセンス・企画力・コンセプトアートの提出において花園との実力差をまざまざと見せつけられ、 “「必ずあなたから『FuwaFuwa Dream』を取り戻してみせますわ!」” と言い捨てて*3-2 撤退しました。花園きららは『夜の夢』の絵を提出するだけで居並ぶブランドのスタッフたちを説得したわけなので、彼女はコンセプトアート一発で企画を通してしまう画家* としての強さをも兼ね備えている、と見ることができます。

 しかし本項で重要なのは、ブランドを自分のものにした花園が星のツバサ(水星)を獲得するまでの流れです。星を降ろす(以降、星のツバサを獲得するためのドレス創作行為全般を指してこの表記を採用します)ためにはアイカツシステム(AKA「天」)に認められなければならず、気持ちがレイムなままでドレスを賭けても星を降ろすことは叶わないのが『スターズ!』2年目の世界です。では、花園きららはいかにしてドレスに星を降ろすに至ったのか。

“「すっごくかわいかったからいただいちゃった。ありがとね」” 。花園が賭けた『スイートドリームスコーデ』は、ブランドをめぐるプレゼンバトルで早乙女が提出していた「ふわふわのスカート」デザインを流用したものだった。つまり「敵対者が出してきた札をも自分のものにして勝つ」という戦法を採っていたことになります。この柔よく剛を制す(メーッよくシャーッを制す)戦法は “「だいじょうぶ、きらら細かいこと気にしないから!」” “「もう、なんでそんな難しく考えるかなぁ」” などのセリフにもあらわれていて、さらに “「思ったんだ、あこちゃんと一緒なら『FuwaFuwa Dream』を素敵なブランドにできるって!」” “「いい夢見ようよ、ふたりで一緒に!」” と敵対者であるはずの早乙女をも篭絡しようとしていたのでした(賈詡すぎる)。このように、敵対者が打ち込んできたパンチを去[い]なして自分の力に変えてしまえる勝負師が花園きららなのですから、アイカツシステム(AKA「天」)のお眼鏡にかなってツバサを授かるのも納得尽くです。

 さて、「敵対者が出してきた札をも自分のものにして勝つ」戦法によって星を降ろした花園きららですが、これを四ツ星学園・虹野ゆめの棋譜と比較してみると、『スターズ!』2年目がいかに勝負師の世界として一貫しているかが理解できます。それを焦点化するにはAS!65-66、花園・虹野・桜庭が同じ卓に集った賭場での勝敗を見る必要があるでしょう。


・虹野ゆめの返済

 虹野が自身のブランド『Berry Parfait』に星を降ろすための最初の賭けに出るのがAS!ep59ですが、この回は『スターズ!』における「創造性」を読解するための最重要エピソードの中のひとつです。それについては【→RESPECT3】で詳述します。本項では、なぜ虹野が最初の賭けに敗れた(ブランドに星が降りなかった)のか、その理由を確認するのみとします。

「わたしが一番大切にしたいこと。わたしだけじゃなくて、みんなにももっともっと輝いてもらいたい。みんなをキラキラ輝かせる、それが 『Berry Parfait』」”


AS!ep59の時点では、自分ではなくみんな(具体的には、入院中の七倉を見舞った際にふれあった子供達)を輝かせることが虹野のクリードでした。『Berry Parfait』の最初のプレミアムレアドレスがこのように賭けられた理由は、1年目から辿ってきた彼女の生路と直接噛み合っています。AS!ep32、結城すばるとの会話シーンを引用しましょう。

結城「敗けたのに、けっこう元気じゃん」
虹野「みんなから元気をもらったから。本当はこっちが元気をあげないといけないのにね。」
結城「そういう時もあるさ。」
虹野「あるの?」
結城「アイドルだって落ち込むことくらいあるだろ。たまにはファンから元気をもらったって、いいんじゃないか?」
虹野「いいの……かな。」
結城「多分な。もらったものは、これから返していけばいい。」
虹野「……うん。そうだね!」


 AS!ep32時点での虹野ゆめは、七倉を送別するためのステージで倒れ、二階堂と早乙女にリハビリを手伝ってもらってなんとかステージに復帰した状態です。そこで彼女の背中を押したのは、自分のステージを待ち望んでいるファンが多少は存在するという事実でした。 “「もらったものは、これから返していけばいい」” 。結城の言葉に頷いた虹野は、なんとか白鳥と諸星の協力によって病を医[いや]すことに成功しますが(AS!ep35-36)、注目すべきはその直後のエピソード群。ファンからもらった元気を返すための行為、すなわち返済がここから始まっているということです。この返済という語は、虹野ゆめの生路を読み解くための最重要語句となります。

「お客さんはもちろんですけど、わたし、お店や会社で働いてる人達にも、楽しんでもらいたいんです。わたしの店は洋菓子屋さんで、クリスマスは大忙しだったから。だから、お仕事やいろいろな事情でパーティができない人達にも、クリスマスソングを届けたいんです!」


 AS!ep37で自主的にパーティを催すことに決めた虹野のセリフですが、ここではすでに「自分はこのようにして造られた」という経歴に仁義を通す=四ツ星学園のクリード(同様にAS!ep45で早乙女が、AS!ep62で如月が則っていたもの)が表出しているほか、明確に「自分のためではない、ファンのための行為(=返済)」が始まっていることがわかります。実際、以降の虹野はひとえに返済のために自分の活動を捧げてゆく。特に象徴的なのがAS!ep43で、同級生たちにチョコ造りの技術を贈り、歌番組出演直前に応援チョコを返され、自分に数々のアドバイスを与えてくれた結城すばるに “「今日からライバルだよ!」” のライバルチョコを贈り、“「お前ほんとにいい度胸してんなぁ」” の照れ隠しのデコピンを返される。このエピソードですでに『スターズ!』における贈与と返済のモチーフが明確にあらわれていると言っていいでしょう。それ以外にも、デザイナーとしていくつもの訓戒を授けてくれた白銀への返済(AS!ep39, 42, さらに53)、かつてリハビリを手伝ってくれた早乙女への返済(AS!ep45, さらに54)、自分が訓育されるための空間をかろうじて保ってくれた先輩への返済(AS!ep50, さらに72)……枚挙に暇がありません。AS!ep37以降の虹野は、誰かが自分のためにしてくれたことの返済に全身全霊を捧げてきた。その原因はもちろんAS!ep30で親友を見送ることができなかった「傷」にこそあり、星降ろしのために虹野が賭けに出るエピソードが七倉との再会(AS!ep55)以後に始まっているのも筋が通っています。

 さてAS!ep59、虹野が初めて星降ろしの賭けに出る回ですが、結果は如何なるものだったか。星は降りませんでした。ファンのための返済 “「わたしだけじゃなくて、みんなにももっともっと輝いてもらいたい」” だけでは賭けに勝てなかったと、この回の棋譜を読めばそういうことになります。
 虹野が二度目の賭けに出るのがAS!ep66ですが、ここにおいても(桜庭が火星を降ろしたのに対して)虹野には星が降りなかった。この賭場は「如何にしてシンプルなTシャツを魅力的に着こなすか」が前哨戦になっていますが、ここで虹野はどのような戦法に出ていたか。セリフを引用しましょう。

〔会場の観客に対して〕
「ローラの『Spice Chord』のかっこよさと、きららちゃんの『FuwaFuwa Dream』のかわいらしさを、『Berry Parfait』にトッピングしてみたんだ!」



〔楽屋裏で待機している『Berry Parfait』のオーナーに対して〕
「小春ちゃんに背中を押してもらったんです。わたしが一番大切にしたいこと、みんなをキラキラ輝かせる。それが『Berry Parfait』だって!」


 ここにおいてもまだ、虹野は自分ではない誰かへの返済 “「みんなをキラキラ輝かせる」” に専念していた。と言ってもAS!ep66の賭場では花園・虹野・桜庭のファンたちがいがみあって剣呑な雰囲気になっていたわけですから、それを調停するために花園・桜庭のブランドをトッピングしたデザインを提出したのも頷けることです。

 しかし、ここで重要なことがあります。ここで虹野は “「ローラの『Spice Chord』のかっこよさと、きららちゃんの『FuwaFuwa Dream』のかわいらしさを、『Berry Parfait』にトッピングして」” 勝負に出たわけで、これはAS!ep54で花園が採っていた「敵対者が出してきた札をも自分のものにして勝つ」のと同じ戦法だったはずです。先攻の桜庭・花園に対して、虹野は直前に自分のTシャツデザインを変えることができたわけですから、その戦法によって先攻の二人を抑えて勝利する結末になっていてもおかしくはなかった。しかし結果として虹野は桜庭・花園に次いで第3位となり、星のツバサも授からないままこの賭場を終えることになります。

 ここで明確になるのは、『スターズ!』2年目におけるアイカツシステム(AKA「天」)の勝敗判定が如何に厳格かということです。AS!ep54の花園とAS!ep66の虹野は同様の戦法を採っていたのにもかかわらず、アイカツシステム(AKA「天」)が微笑んだのは前者のみだった。その理由は自ずと明確です。花園は自分のブランドに星を降ろすためにあらゆる手管を総動員していたのに対し、虹野の目的はあくまで自分以外の誰かに対する返済だった。もちろん、ファンのために自分の仕事を捧げる虹野の姿はなにも間違ってはいない。しかし、「誰かのために自分を犠牲にしているようでは勝負師として一流とは言えない」というのがアイカツシステム(AKA「天」)の評点だったのでしょう。もっと言えば、ファンのために自分の仕事を捧げる「プロ」と賭けのために自分の仕事を捧げる「勝負師」は全く別の存在だ、と克明に言っているのが『アイカツスターズ!』2年目だということになります。

 これは、なかなか━━耳の痛い話ではないでしょうか。実際この島国には、「自分は学校を出たりコネがあったりしたおかげで今の職業に就けたけど、もしかしたら何の正当性もない仕事をして不当な金銭を授受しているだけではないか、自分がしている仕事は本当の仕事とは言えないのではないか」と思いながら黙々と日々を過ごしている人々はかなりの数存在するのではないでしょうか。あるいは、最初から剰余享楽的な市場原理の中に立てこもってビジネス書だの自己啓発書だのを読み漁って「自分は凡人とは一味違う『クリエイティブ』な人間なのだ」と幸福な幻想に耽ったまま肥え太っている人々はさらに多く存在するのかもしれません。

 ともあれ、花園と虹野の賭け方を比較するだけでも、『アイカツスターズ!』は「勝負師」と「プロ」の仕事は別であること・「賭場」と「市場原理」は別の仕事場であることを明晰に描ききった作品だということがわかります。あえて人称化しますが、『スターズ!』2年目のアイカツシステム(AKA「天」)とは、AS!ep35-36でなんとか病を医[いや]した虹野に対して “そのあとでおまへのいまのちからがにぶり/きれいな音の正しい調子とその明るさを失って/ふたたび回復できないならば/おれはおまへをもう見ない/なぜならおれは/すこしぐらゐの仕事ができて/そいつに腰をかけてるやうな/そんな多数をいちばんいやにおもふのだ”*3-3 と発破をかけている存在なのでしょう。“お前ならやれる” と、 “お前の代わりならいくらでもいる” と、 “ついて来ないならもう見せない”*3-4 と自分の至らなさを散々突きつけられた後でもなお「仕事」を続ける、そんな存在が『アイカツスターズ!』では「アイドル」と、あるいは「人間」と呼ばれているのでしょう。冒頭の引用句を繰り返すときが来たようです。 “人間。ただ人間。ひたすら人間を追究する” 。我々が読んできたのは人間・虹野ゆめの賭けの途上です。横着せず、その先まで付き添うとしましょう。星降ろしの賭けに二度敗けた彼女はどうするのか。返済が終わり、創造のこだまが鳴り響く地点はどこなのか。言及すべき時がきたようです、『スターズ!』2年目前半最大のハイライトである虹野ゆめと七倉小春の再会、『スターズ!』における創造性と愛と傷と贈与の関係について、忍耐強く、順を追って見てゆきましょう。


*3-1 「ご馳走」は韋駄天が釈尊のために方々を走り回って食物を集めたという俗信に由来していますが、まさにAS!ep54での花園(韋駄天)はエルザ(釈尊)のために俊足を活かしてご馳走(水星のツバサ)を持ってきたわけです。花園のキャラクター性が桜庭との一戦以降にどのように変質してゆくかは別註*5-6に書いています。

*3-2 こういう「覚えてらっしゃい!」式の捨て台詞を吐くタイプはふつう敵チームのキャラクターとして登場しそうなものですが、味方チームに所属している早乙女あこがこういうキャラクター性を持っている、というのは人物設定として絶妙なものがあります。

*3-3 『告別』宮沢賢治著

*3-4 『ILL-BEATNIK』ILL-BOSSTINO





◎RESPECT4 The Patients(虹野七倉:忍耐患者)

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・Is this a test? It has to be, otherwise I can't go on(AS!ep1-49)

『アイカツスターズ!』、そもそもこの作品はどのように始まっていたか。虹野ゆめと七倉小春、S4に憧れる二人の小学生が共に願書を提出し、新入生として四ツ星学園に入学するまでがアバンタイトルになっていたのでした。入学前、「私の夢」を書けという作文に一筆も入れられない七倉に対し、 “S4になること!!” と大書した原稿用紙を笑顔で見せる虹野。入学前の二人の幼馴染は、「私の夢」への積極性に差を持ちながらも、ひとまず同じ方向(四ツ星)へ向けて進むことにした。では、入学後の二人はどうなっていたでしょうか。「人間が進むことができる道は複数存在しなければならない」空間こと四ツ星で、それぞれ異なる組(歌・美)に進んだ虹野と七倉ですが、二人と桜庭ローラを交えた序盤の描写を見てゆきましょう。

“「小春、絵、描けたわよね」” 。AS!ep7、学外オーディションで「個性」を示すために桜庭が七倉に協力を乞うシーン。七倉はスケッチブックに次々と「個性」的なスケッチを描いて桜庭に提案しますが、ここで彼女は「絵を描く」スキルを多少は持ち合わせていることがわかるわけです。原稿用紙に作文を書けと言われても積極性を示すことができなかった七倉ですが、スケッチブックにイメージを提出するスキルは持っている*4-1 。桜庭は音楽一家の出自から歌手としての適性を多少は獲得していた(AS!ep2)わけですが、ここで七倉と桜庭は他人に分け与えるスキルをある程度持っていることが示されている。逆に言えば、まだスキルを何も持っていない状態で上を目指そうとしたからこそ虹野はあの病に依存してしまったとも言えるでしょう。その依存から脱却するための方法が「誰かが自分のためにしてくれたことの返済」だったことは【→RESPECT3】で詳述しました。

 親の仕事の都合で学園を離れることになった七倉、病に依存するあまりに親友を見送ることさえできなかった虹野。AS!ep1から共に歩んできた二人の道に決定的な破局が訪れるのがAS!ep30です。『未来トランジット』の歌詞同様に流謫の身上になった七倉と、学園の中にとどまって病を医[いや]す必要に迫られた虹野。AS!ep31以降の虹野については【→RESPECT3】で詳述したので省略しますが、ここで別れ際に七色のキャンディを贈られていることは重要です。虹野がAS!ep37以降に返済に取り組んでいった理由は、離別した親友から一方的に贈与を受けてしまったという負い目にあったと見ることができます。虹野が思い悩んでいるときにさりげなく “「アメ、食べる?」” とポケットの中身を分け与えるのが七倉小春の常でしたし、思えば、早乙女あこの頑なさのなかに「かわいさ」を見出したのは彼女でしたし(AS!ep6)、香澄真昼が初めて同級生に心を開くきっかけを作ったのも彼女でした(AS!ep8)。虹野・桜庭・早乙女・香澄の四人にそれぞれ別のかたちで何かを分け与えていた、贈与の人・七倉小春。彼女の1年目最後のセリフ、AS!ep49、S4選に打って出る直前の虹野と電話口で交わす言葉を引用しましょう。

「ごめんね。わたし、ゆめちゃんの声聴いちゃうと泣いちゃうんだ。だから、ちゃんと大丈夫になるまで連絡しないでおこうって思ってたの。」

「ずっと見てたよ。あこちゃんや真昼ちゃん、ローラや夜空先輩たち。みんなのステージを見て感動しっぱなし。」

「すごいね、ゆめちゃん。わたしも夢に向かって頑張ろうって、また勇気をもらえたよ。ありがとう、ゆめちゃん。いつも笑顔をくれて、どうもありがとう。それを伝えたかったの。」



“「ちゃんと大丈夫になるまで連絡しないでおこうって思ってたの」” “「いつも笑顔をくれて、どうもありがとう。それを伝えたかったの」”。七倉もまた虹野とは別のかたちで負い目を感じていたということになります。虹野が病を医[いや]した後にひたすら返済に取り組んでいたように、七倉もまた自分が虹野(や四ツ星の学生)から贈られたものを返済するための方法を探していた。その方法とは何か、についてはもう明白ですね。彼女が図像を描くスキルを持っていたことは序盤で示されていました。七倉は新しい場所(VA)でドレスをデザインする技能を磨くことになり、AS!ep49での通話シーンは、四ツ星学園に負い目を感じながら返済の技能を磨いていた七倉の “未来の途中” でした。前註*4-1 では 言葉の人:虹野、図像の人:七倉 と分類しましたが、『スターズ!』2年目では、それぞれ異なる患い方をした二人の患者が、また再び贈りあうことで互いの傷を医[いや]し、共に創造性を獲得するまでの路が明確に描かれています。『スターズ!』における「創造性」を読解するための最重要エピソード、AS!ep59に向かいましょう。


・But I'm still right here. Giving blood, keeping faith.(AS!ep59)

 ヴィーナスアーク、四ツ星とは異なる水準での訓育を受けた七倉は、族長エルザ フォルテのドレスデザインを手伝うことができるまでに成長します(AS!ep56)。七倉がVAでどのように訓育されたかを部分的に示すエピソードも存在しますが(AS!ep60)、それより重要なのは、七倉が孤独に続けてきたスキルの鍛錬そのものを、虹野と離れていた時間の長さ(2016年11月〜2017年5月)そのもので示していることです。前作『アイカツ!』の2年目開始時点では「星宮が留学してから1年が経ちました」というアクロバットが使われていましたが、『スターズ!』2年目では時間軸を早回しする手法を採っていないため、四ツ星学生と視聴者の体感時間が一致することになります。「この半年間、七倉小春は何をしていたか」を回想などではほとんど示さず、親友と離れていた時間のみで彼女の道のりを偲ばせる手法が採られたのは、「孤独」の作品である『スターズ!』の本質からして当然のことだったのでしょう。贈られたものを返すために、その方法を見つけるために黙々と鍛錬に取り組んでいるのが『スターズ!』の勝負師たちなのですから、半年間もダラダラと無為に時間を浪費しているだけの人物なら『スターズ!』の賭場には召命されることすらなかったはずです。独りで仕事に向き合うことなく仲間内での上目遣いの馴れ合いに終始している(Twitterの住人のような)人間は、そもそも「孤独」の作品である『アイカツスターズ!』には登場することすら許されないでしょう。

 AS!ep59の読解に集中しましょう。自分のブランドに星を降ろすためのアイデアが浮かばない虹野。台詞を引用します、 “「まるで、深い海の底、デザインが魚みたいに泳いでて。一生懸命釣り上げようとしてるのに、全然無理って感じ」” 。そこで七倉が気分転換のために魚釣りを提案する。釣った魚を料理して食べたのち、七倉は(飛んだ帽子をキャッチしようとして)海に転落し、足首に怪我を負ってしまいます。結果として虹野は七倉のお見舞いの途中でデザインを着想しますが、ここで虹野が掴んだ “「わたしが一番大切にしたいこと。わたしだけじゃなくて、みんなにももっともっと輝いてもらいたい。みんなをキラキラ輝かせる、それが 『Berry Parfait』」” というクリードは、アイカツシステム(AKA「天」)のお眼鏡に叶うものではなかった。それについては既に書きました【→RESPECT3】。それよりも重要なのは、AS!ep59では「mortality(可傷性・可死性)」が直接に創造性にかかわっていることです。『アイカツスターズ!』は前作とは違って「不死(immortal)」ではなく「死すべきもの(mortal)」の世界であることについては委曲を尽くしました* *。虹野には既に消しようもない外傷(AS!ep30)が存在することも先述したとおりです。AS!ep59でも、虹野と七倉が模索する創造の道に(心身の)外傷がかかわっている。虹野が『Berry Parfait』の名前で世界に捧げるための仕事を用意するために患者[patient]として入院していた親友の傷がかかわっていたこと、これは絶対に読み落とすべきではありません*4-2

 七倉がVAで獲得したスキルを贈る対象は、虹野のみではありません。桜庭ローラ、自身のブランドを持っていないためにエルザから下郎呼ばわりされていた(AS!ep52)彼女も、如月ツバサから『Spice Chord』を継承して以降は創作に取り組むことになります。セリフを引用しましょう。


201710151.pngAS!ep62

桜庭「それより、ここ最近〔私が〕小春とドレスの勉強してるの、ゆめたちには内緒にしといて。」
七倉「どうして?」
桜庭「だって、ほら、なんだか恥ずかしいじゃない。」



AS!ep65
桜庭「ごめんね、小春も忙しいのに、毎日お邪魔しちゃって。」
七倉「全然。ローラの力になれて、嬉しいよ。」


七倉「このドレスで出場するの?」
桜庭「うん。急がなきゃ。」
七倉「あれ、そこってデザイン画と違うんじゃない?」
桜庭「縫っているうちに、アイデアが思いついちゃって!」
七倉「それで変更したの?」
桜庭「自分のベストのドレスで挑みたいから!」
七倉「……何か手伝おうか?」
桜庭「ありがとう。でも、このドレスは自分の手で仕上げたいんだ。『Spice Chord』はツバサ先輩から受け継いだブランドで、私が創ったんじゃない。だから、このプレミアムレアドレスだけは、私の力で創り上げたいんだ。『Spice Chord』のミューズを受け継いだ者として。」



 七倉と勉強を重ねた結果、桜庭は星を降ろすことに成功し【→RESPECT5】、七倉は学友の達成に涙まで流します。『ロックマイハートコーデ』は七倉からドレスの知識や技能を贈られることなしには受胎不可能だった。桜庭自身も七倉から巨[おお]きなものを贈られたことに自覚的だったからこそ、のちに虹野七倉が不和になってしまったときに積極的に仲を取り持っていたのでした(AS!ep73)。贈与と返済。『スターズ!』1年目から執拗に描かれてきたこのモチーフは、2年目においてますます創造性と関連づけられてゆくことになります。
 ここで一旦、『スターズ!』において創造性と関連づけられていたものを整理しましょう。まず傷(AS!ep30, 59)。一方的に贈られてしまったことに対する負い目(AS!ep30)。贈与と返済(AS!ep32以降のほぼ全話)。それらのモチーフがいかに周到に絡み合って創造性の理路を導いているかは縷述した通りですが、この卓の上にはまだひとつ重要な道具が足りていません。「愛」。虹野と七倉、二人の患者が「愛」によって文字通りもう一度手を取り合うまでの読解に向かいましょう。


・Gonna wait it out...(AS!ep71)

 留学生としてVAに滞在していた虹野ですが、ついにVAは抜錨して日本を離れてしまう。虹野にとってはやっと再会できた親友との離別を意味することになり、AS!ep30での傷にもう一度向き合わざるを得なくなる。事実、S4になって以降は大抵のことにも動揺しなくなっていた* 虹野が、1年生の頃のような脆い涙色の表情を多く見せるのがAS!ep71です。虹野は四ツ星での discipline を受けることでなんとか長じることができましたが、自身のうちに根深く残っている傷には無防備なままであるという、このあられもない人間性たるや。

 結果として、虹野はふたたび七倉と引き裂かれることはありませんでした。族長エルザ直々の命令で七倉も船を降りていたためです。ふたたび四ツ星の学籍を取得した七倉を歓迎するパーティが催されるわけですが、その歓迎会ステージ直前の虹野の表情を見ましょう。後輩たちの前では絶対に見せないであろう、新たな脅威を前にしても笑って立ち向かえていた人物と同一とは思えない、不安と怯えに満ちた表情です。

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虹野「ローラ、力を貸して。小春ちゃんを見送るステージで、大失敗しちゃった、もう二度とあんなステージ見せたくない。だから今日は……」
桜庭「最高のステージにする、でしょ? もうあのときのゆめとは違う。今のゆめなら大丈夫。それに、私がついてるしね!」



 自分にとって最も痛ましい記憶を告白する虹野と、その克服のための実践を引き受ける桜庭。先述の通り桜庭も七倉からの贈与にあずかった人物なわけですから、ここで快く “「私がついてる」” と同行を引き受ける。そして共にステージを成功させ、ここに虹野・桜庭・七倉という『スターズ!』初期の3人の関係が回復されます。が、もちろん本項の冒頭で述べたような1年生の頃とは事情が違います。彼女らの心身にはいくつもの傷が刻印されている。が、『スターズ!』が mortal の作品であることは散々確認しました。傷を傷のままに引き受けて生き続けるために、そのために藝能を介した贈与と返済が必要だった。本項で追ってきた虹野と七倉の Remedy Lane は、ひとまずAS!ep71で落着すると見ていいでしょう。


・I MUST KEEP REMINDING MYSELF OF THIS I MUST KEEP REMINDING MYSELF OF THIS I MUST KEEP REMINDING MYSELF OF THIS I MUST KEEP REMINDING MYSELF OF THIS(AS!ep72)

 しかしAS!ep72。ここでまたひとつの断絶線が示されます。“「あっ、虹野先輩だ! ベスト買いました! サインお願いします!」” 下級生たちの憧れの対象となっている歌組S4虹野、の姿を傍観するしかない七倉。これはもちろんAS!ep51のVA船内シーン* の逆位相になっています。四ツ星内でのヒエラルキーでしかないS4がVA内では評価の対象になりえなかったように、VAで鍛錬を積んできた七倉は四ツ星内では一般の学生でしかない。その前にも、虹野がアイドルとして有名になったためにカフェで羨望の眼差しを集めてしまうシーンもあります。VAで裏方としてデザイン業に取り組んできた七倉は見向きもされない。虹野と離れていた時間と空間の隔たりが、まさにここで断絶線として可視化されるわけです。二人はこの線を超えてふたたび手を取り合うことができるか。これが虹野七倉に課された最後の試練だと言ってもいいでしょう。

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 AS!ep72では虹野七倉がそれぞれ別の仕事に取り組むことになりますが、ここにおいても虹野はまだ返済に取り組んでいます。先代S4が久しぶりに学園に帰還したことを祝うサプライズパーティを企画していた虹野ですが、新商品「カレーアイス」のコマーシャル収録に起用され、あまりの点数の多さにぐったりしてしまう。ようやく収録が終わりに差し掛かりますが、虹野はふいに “「まだ最高の笑顔を届けられていないかもしれません」” と目を覚まし、自ら「トリプルトンカツエビフライキャベツマシマシカレーアイス」の追加収録を申し出る。なぜならこのメニューは、二階堂ゆずが “「あれを食べると最高の笑顔が飛び出す」” と愛好していたものだったからです。言うまでもなく、虹野にとって二階堂はAS!ep32でリハビリに協力してくれた人でした。その人が “「あれを食べると最高の笑顔が飛び出す」” と言っていたメニューを無視したまま仕事を終えるなど、返済を旨としてきた虹野ゆめには許せないことだった。まだ、まだこの人は返済し続けるつもりです。ぞっとするほど一貫しています。ほとんど畏怖を覚えるしかない愚直ぶりです。

 そのせいで撮影が若干長引き、虹野は自らが企画した先代S4歓迎パーティに遅刻してしまいます。が、七倉が先代S4に虹野の想いを告げていたおかげで、パーティは問題なく挙行される。虹野が先代S4を迎えるつもりが、虹野も先代S4に迎えられる格好になるわけです。ここではもう債務者と債権者との負い目の関係が逆転している。AS!ep32以降、執拗に自らの返済に取り組み続けた虹野に「もう十分だ」と言うための場所がこのパーティだったと言えるかもしれません。先代から『episode Solo』のパフォーマンスを贈られることで、虹野と七倉、贈与と返済に取り組み続けた彼女らはひとつの巨[おお]きな報いに到達しました。さて、AS!ep72のラストシーンを引用しましょう。

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虹野「教えて。あのカフェで、何を言おうとしてたの?」
七倉「あのね、わたしね、わたし……ゆめちゃんが好き。大好き。とっても好き。いっぱい好き。だから、わたしもこの足で一歩を踏み出して、夢を掴むよ。夢に近づくよ。『Berry Parfait』のデザインを、お手伝いしたい! 一緒に歩きたい、ゆめちゃんのブランドを、星たちの空へ羽ばたかせる道!」



 七倉小春、原稿用紙に自分の夢を書くことすらできなかったあの子が自分の想いを滔々と話せるようになるまでに、一体どれほどの時間が、鍛錬が、傷が必要とされたことでしょうか。虹野の返答やいかに。 “「全部わたしの言葉だよ!」” 。原稿用紙に大書した “「S4になること!!」” の夢にあれほど呪われ、言葉に巣食われて病みきっていた時期を経過した虹野が、ついに親友から言葉を受け取る瞬間。虹野ゆめと七倉小春、二人の患者[patient]がそれぞれの空間を隔てた忍耐[patient]の果てに再び手を取り合うまでの、ふたりで “辛くてそしてかゞやく天の仕事”*3-3 をするための関係を結ぶまでのすべての経験がここに結果します。虹野がアイカツシステム(AKA「天」)に認められて星のツバサを授かるまでには、ここまでの遥かな道程が必要だった。『アイカツスターズ!』、この複数形の作品は、ふたりの人間が離別や流謫を経てそれぞれの成果を持ち寄る関係(前稿に事寄せて言えば「出産する二人」*を描くことにまで成功してしまいました。



*4-1 この原稿用紙とスケッチブックの対比だけで、言葉の人:虹野、図像の人:七倉 の質的な違いを見ることもできますし、虹野の病は直接に「言葉の病」としても理解することができますし、言葉の人である虹野が常に妄想に陥りがちだったのを踏まえると「言葉の病」を患うのは当然だったと言えますし、『STARDOM!』の “幻想はやがて 現実になる” の歌詞はそのまま “妄想はやがて 症状になる” に置き換え可能ですし、以前それを筋道立てるための原稿も書いたのですが、想像以上にドープな内容になってしまったので没にしました。ひとつだけ、【→RESPECT4】は 言葉の人:虹野、図像の人:七倉 というそれぞれ異なる患い方をした二人の患者が長い道のりを経て合流するまでの生路を筋道立てている、と書いておけばいくらか読みやすくなると思います。

*4-2 誤解のないように書きますが、これをもって「『スターズ!』は自分の傷を見せびらかすだけの作品なのか」と揶揄するならそれは全くの誤読です。本稿で進行しているのは、死すべきもの(mortal)として産まれたことをそれ自体として(傷とともに)引き受けていくことが結果として創造性につながるまでの理路です。もちろん、自分の傷を見せびらかして注目を集めて精神的荒廃を呼び寄せてしまった不憫な「作家」たちも多数存在します(ご存知なければ「永田カビ」で検索してみてください)。しかし、“著作家で、それも無名ではない著作家で、その作品が、自己の感動の排泄にすぎないような人びとがいる。それらの作品は、感動させることはできる。しかしそれをつくった当の人びとを、つくりかえることはできない。彼らは作品を書きながら、自分の知らなかったものをつくること、自分がそうではなかったものになることを、学びはしない” (ヴァレリー)。『アイカツスターズ!』が “自己の感動の排泄(=情緒)” ではない別の物質(=エモ)を生成することに専心した作品であることは、本稿を読み終わった後で明らかになると思います。また、この註で書いたような「癒しのための創作が必ず幸福な結果をもたらすとは限らない」ことを驚くべき明晰さで示した文章に中井久夫著「創造と癒し序説」ー創作の生理学に向けて」(『アリアドネからの糸』みすず書房刊)があります。





◎RESPECT5 言葉の闘士(桜庭 VS 花園)

 花園きららの俊足、虹野と七倉の蜜月を見てきましたが、ここにはまだあと一人の勝負師が招かれていません。桜庭ローラ、彼女をこの卓に迎えましょう。『スターズ!』2年目前半の勝負の要諦を見るには、「言葉の闘士」である彼女の棋譜を読んでいくことが必要不可欠となります。


・桜庭ローラの時間
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 AS!ep1。入学初日から桜庭ローラが遅刻してくる忘れがたいシーンがありますね。指導教員である響アンナはここで “「それも個性」” “「だが、二度目はない」” と訓戒を与えます。“30!!過ぎたら!!遅刻も!!個性!” というグループ魂の曲の歌詞を思い出すシーンですが、AS!ep16、組別ステージに白鳥ひめと共に出演するはずだった桜庭は、CMの収録が長引いたうえに渋滞にはまってしまい、ステージに参加することができなくなってしまう。入学当初に「時間」の存在を甘く見ていた桜庭ローラが、後頭部から殴りつけられるようにして「時間」に襲撃されてしまうわけです。ステージに出ることを断念した桜庭は虹野に空間を隔てたバトンタッチをし、なんとか組別ステージは歌組の勝利に終わる。が、桜庭にとっては「時間」の認識をあらためるきっかけになった苦い経験と言えるでしょう。

 そして2年目以降の桜庭は、AS!ep57で「ステージに出る予定の後輩たちがトラブルに遭い、開演時間に間に合わなくなるかもしれない」というかつての自分と同じシチュエーションに直面します。現在歌組の幹部生の任を負っている彼女は、まず幹部生に応援を招請し、虹野とともにオープニングアクトを務めることで後輩が到着するまでの時間を稼ぎ、なんとか事なきを得たのでした。その桜庭の対応ぶりに “「芯があって、何事にも動じず、責任感がある人間」” の姿を見た如月ツバサは、桜庭こそがブランド『Spice Chord』を継承すべき人間であることに気づく。これら「時間」を交えた桜庭ローラの描写は実に見事です。が、重要なのはこれだけではありません。AS!ep57は、「時間」の人であるとともに「言葉」の人でもある桜庭ローラの姿が描かれているからです。

 AS!ep53。『Berry Parfait』のデザインに迷走する虹野を桜庭がたしなめるシーンがあります。引用しましょう、

桜庭「ゆめ、今描いてるの何?」
虹野「いちごショート。」
桜庭「じゃあその横は何かな?」
虹野「チョコパフェ!」
桜庭「……もしかして、 berry はストロベリーで、parfait はパフェってこと?」
虹野「さすがローラ、ばっちりわかってくれたね!」
桜庭「……それ、意味違ってる。スイーツから一旦離れようか。」



“parfait” は英語では「パフェ」でも仏語では「完璧なもの」の意味をも持つのであって、ただお菓子のデザインだけを考えてもしょうがないでしょというツッコミですが、ここで示されるのは、桜庭ローラはちゃんと辞書が引ける人間であるということです。「え、そんな地味なことが重要なの?」と言われるかもしれませんが、重要に決まっています。この島国には明らかに間違った言葉の使い方でふんぞりかえっている恥ずかしい大人がいっぱいいるわけですから*5-1 、若年層をメインの客層とするこの作品でちゃんと辞書的な意味を踏まえた上で言葉を使うことができる人物が描かれているのはとても重要です(実際、とても恥ずかしいのですが、私はこの桜庭のセリフがなければ parfait の二重の意味に気付くことすらできませんでした*5-2。「桜庭ローラはちゃんと辞書が引ける人間である」件は、AS!ep57でさらに強調されます。虹野・桜庭のバラエティ番組の収録に花園きららが乱入し、不本意ながら三人一緒に食レポを収録するシーン。完全にオフタイム気分で来ているためにパフェを食い尽くしてしまった花園に、桜庭自ら食レポを実演します。

「濃厚でこってりしたクリームが、ベリーの酸味と絶妙なハーモニー! パフェの語源は perfect って言われてるけど、このパフェはその名の通りパーフェクトな逸品です!」



 AS!ep53-57の一連のシーンでは、「言葉の人」桜庭ローラの強度が示されていると見るべきでしょう。実際AS!ep53では、“「ローラ、いつのまに練習してたの?」” “「そういえば昨日の夜デッキから……」” と桜庭が黙々と言葉の鍛錬を積んでいることが示唆されます。が、さらに重要なことがあります。このエピソードで桜庭が後輩のために尽力する流れは先述しましたが、その利他的な行動に対するカウンターとして花園きららの利己性が対置されているのがAS!ep57だからです。このエピソードは、AS!ep65-66での「桜庭 VS 花園」の前哨戦としても見る事ができます。


・前哨戦(AS!ep57)

“「ふたりのステージ、とってもよかったよ! でもどうして1年生に譲っちゃうの?」” 後輩のためのオープニングアクトを終えた桜庭・虹野に対する花園のコメントがこれですが、ここで花園が嫌味や皮肉を込めて言っているわけではないことに注意しましょう。ヴィーナスアークで訓育を受けた花園きららにとっては、桜庭・虹野の「後輩のチャンスを護るために自分たちは脇役に徹する」という行動は、「せっかく宝くじが当たったのに換金しなかった」・「せっかく真鯛を釣り上げたのにリリースしてしまった」ような、端的にもったいない、理解不能な行動でしかないのですから。花園きららの言い分を聞きましょう。

「エルザ様言ってたもん! アイドルの世界は弱肉強食なんだよ。チャンスを活かさなかった方が悪いんだよ。」



 もちろんここで花園が言う “弱肉強食” は、ダーウィン(が自己の理論を構築するために参考にした学説たち)の言う自然選択(適者生存)を通俗的に解釈したもので、通常「社会的ダーウィニズム」と呼ばれるものです。ここでの花園きららは(“「エルザ様言ってたもん」” と伝聞調で話していることも含めて)「言葉の危うさ」を持った人物であることがわかります。実際、この島国にも「弱肉強食」だの「自然淘汰」だのを通俗的な意味で使う「知識人」ども*5-3 がうじゃうじゃいるわけですから、この「言葉の危うさ」を持った人物と対峙するシチュエーションはまったく人ごとではありません。が、もうひとつ注意すべきなのは、「集合時間を守ることさえできない人間はチャンスを取り上げられても仕方ない」という花園の言い分は、前作『アイカツ!』のA!ep15で言われていたような*5-4 「プロフェッショナル」な意見として一理あるということです。ということは、ここでの花園きららはイントレランスとプロフェッショナルの両方が折りたたまれた言葉を突きつけている存在、ということになります。

 では、これに対して桜庭はどう返答するか。 “「エルザさんのこともヴィーナスアークのやり方もわかんないけど。私は、人のことを思いやったり、手を差し伸べられるアイドルでいたいんだ」” 。「時間」をめぐる苦い経験を通ってきた桜庭ローラだからこそ説得力のある言葉です。さて、これに対して「そっか、わたし間違ってた! 明日からもアイカツ頑張ろう!」と花園が説得されていたとしたら、『スターズ!』は「言葉の危うさ」を一面的な正しさで説き伏せて事足れりとする凡庸な作品になっていたでしょう。しかし桜庭の言に対する花園の反応は、“「……よくわかんない、ヘンなの」” という率直な当惑のみでした。四ツ星と違う環境で訓育された花園きららにとっては、桜庭ローラの言はどこまでも不可解なものにしかなり得ない。『アイカツスターズ!』が『スター・トレック(とくにTNG)』から継承した重要なテーマがここに噴出します。問題とされるべきなのは「個人」ではなく「個人を生み出す水準」なのだと明確に批判の矢玉を定めて撃っているからこそ、このシーンの対話は意味を持つのです。

 さて、桜庭と花園の対話はこれ以上進展することなく、番組の収録を終えたところで撤収します。AS!ep57での「言葉の人」と「言葉の危うさを持った人」との前哨戦は、ひとまず互いの断絶線を強調したところで終わったと言ってよいでしょう。彼女らは(Twitterの住人どもやしょうもないフリースタイル番組のMCどもとは違って)ムダな議論や口論に時間を費やしたりはしません。Style の War、それだけが彼女らの会話法なのですから、再び桜庭と花園が相見える賭場での勝敗こそが重要となります。AS!ep65-66の読解に移りましょう。


・スタイルとスタイルのウォーズ(AS!ep65-66)

 AS!ep65。部分的に確認しましたが、ここでは桜庭・花園・虹野のファンたちが集まって剣呑な雰囲気を醸し出しています。ここでの花園は積極的にファンを煽っていくスタイルで勝負に出ていますが、この「メーッ」が喜・怒どちらの感情表現としても使用可能なこと、場所と客層によっては同じ「メーッ」でも惹起される反応が違ってくることまでもが示されていて、ここが明らかに「言葉の勝負」の場である事が強調されています。

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上:AS!ep54 下:AS!ep66

 さて、この賭場『ヴィーナスウェーブ』は如何に無地のTシャツを自分らしく着こなすかがステージの前哨戦となっていますが、ここで桜庭は『Spice Chord』とともに如何なる勝負に出たのか。

“「辛口になりすぎないように、アイテムをカジュアルとシック、交互にしたことです。これぞ甘辛ミックス。コーディネートのサンドイッチです!」” これに対する司会(騎咲)の反応は、 “「実に興味深いね。でも、『Spice Chord』はクールなイメージだと聞いたよ。甘さを入れるとイメージがぶれないかな?」” というもの。この時点で、桜庭は「如月ツバサから継承したブランドのイメージと、自分の創造性をどのように同居させるか」を言葉で筋道立てなければいけません。彼女はどのようにして切り込むのか。 “「ブレてもいいじゃないですか」” 。この一言で少なからず客席から動揺の声が上がる。騎咲は “「それはブランドのミューズらしからぬ発言だね……ミューズがブレたら、ブランドのイメージもぶれないかい?」” と公平な問いを投げますが、それに対する桜庭のアンサーを全文引用します。

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「変わらないと面白くないから。ずっとアイカツしてきて、思ったんです。いろんなことにチャレンジして、新しいことを発見して、そして少しずつ変わっていく自分が楽しくて。コーデも、こうじゃなきゃいけないって決まりは無いと思うんです。気の向くままチャレンジして、自分だけのコーデを見つければいい。だって、ドレスってすっごく自由だから! 自分を信じて、ゴーイングマイウェイで! これがわたしの『Spice Chord』です!」



【完答】ではないでしょうか。実際に本編の流れで観るとその理路整然ぶりに撃たれますが、こうして文字に起こすだけでも惚れ惚れします。伝統あるブランドを継承すること、その中で自分自身の力で差異を生み出して新しい賭けに打って出ること。抑えるべき要点がシンプルにまとまったこの弁舌は、過去のブランドイメージに執着するファンですら舌を巻かざるを得ないでしょう*5-5
 この弁舌で観客と騎咲を説得した桜庭は、入魂の衣装『ロックマイハートコーデ』で勝負を打ち、ついに火星のツバサを授かるに至ります。『ヴィーナスウェーブ』は四ツ星学生にとってアウェーの賭場にも関わらず、桜庭は花園ほか居並ぶVA学生たちを抑えて第1位に輝く。ここで明確になるのは、「言葉の危うさ」を持った花園きららを迎撃するためには、辞書と弁舌の力、「言葉の闘士」桜庭ローラの力が必要だったということです。ドレスを通して自分自身の返済に取り組んでいた虹野ゆめだけでは、きっと力が足りていなかった。『アイカツスターズ!』、この複数性の作品、個人を生み出す水準が複数あり、質的に異なる主人公がふたり並立しているこの作品だからこそスタイル・ウォーズを展開することが可能だった。そして、この賭場で遅れをとった(セリフを引用すれば “自分にメーッ” することになった)花園きららも、徐々にそのキャラクター性に変質が見られるようになります*5-6。対立と軋轢が存在する世界で闘い、影響を与え、変わっていく、『スターズ!』2年目ではそんな勝負師たちの姿が活写されているわけです。

 これを前作『アイカツ!』のA!ep137-138の勝敗結果と比較してみるのもいいでしょう。この2話はのちに『スターズ!』シリーズ構成を担当する柿原優子によって書かれていましたが、ユニットカップでスキップスが優勝した要因は、 “「ドレスを探しているまっすぐな姿を見て、ファンはスキップスを応援したいと思った」” “「アイドルがファンの心を動かすのは、ステージの完成度だけじゃないってことですね」”。もし『スターズ!』が前作と同質の作品だったとしたら、AS!ep65-66は「すごい! 会場のファンの心をつかんだ虹野ゆめがまさかの逆転優勝だ〜!」などの結果になっていたでしょう。柿原優子が前作のレギュレーションで書くことができた「勝負」はその程度のものでしかなかった。しかし『スターズ!』の勝負判定はファンではなくアイカツシステム(AKA「天」) に担われていることは冒頭で書きました。桜庭・虹野・花園、この3人の勝負師たちの棋譜を読むだけでも『アイカツスターズ!』が如何に勝負師たちの作品として一貫しているかが理解されます。



*5-1 たとえば「アベノミクス三本の矢」という語を例にとりましょう。「レーガノミクス」に由来すると思しいこの語ですが、まず
 ⑴21世紀にもなってレーガンが元ネタというセンスは致命的ではないか
 というツッコミが入り、次いで
 ⑵“Reaganomics” は “Reagan” と “economics” が共通のn子音によって接続された造語であり、仮に “Abe” というe母音で終わる人名を “economics” に接続するのならば “Abeconomics” が妥当ではないか、「アベノ」のn子音はどこから来たのか
 が指摘され、さらに
 ⑶「三本の矢」を「三本柱」等と同じ意味で使用しているようだが、毛利元就の「三本の矢」の逸話はむしろ「三重の綱はたやすく切れない(コーヘレト書)」等と同じ意味であり、矢を一本ずつ分けてしまったら個々に折られて終わりではないか
 という止めが刺されます。たった十文字の語でみっつもペケが入るとはすごいですね。よっぽど馬鹿な大人が作ったんでしょうね。こういう恥ずかしい大人になってはいけないよと言うためにも、「ちゃんと辞書が引ける人間」の存在は重要なのです。

*5-2 虹野のブランドである『Berry Parfait』にはエルザのふたつ名でもある “Perfect=Parfait” が入っていて、エルザの持ち歌である『Forever Dream』にはゆめの名前 “Dream” が入っています。つまり異なる文化圏のリーダー二人が互いに互いの名前を浸入させあっているという、『STARDOM! / Bon Bon Voyage!』のジャッケットが陰陽(またはA(bove)と(Below))の位置にあるようにまったく異なる他者が言葉で交信しあっているという、こういう文字のエロスを入れてくれる『アイカツスターズ!』は本当に稀有な作品です。もちろんAS!ep44での香澄・桜庭の異種交雑のエロス* も忘れるわけにはいきません。

*5-3 要するに、竹内久美子とか為末大みたいな輩です。

*5-4 いちおう書いておきますが、A!ep15は『クスノキの恋』というタイトルの通り「プロフェッショナル」ではなく「ラブ」についてのエピソードであり、この回での虹ヶ原マコトの対応も「理由はどうあれ時間を破ることは許されない」という社会通念を「でもパパの思い出にまつわるペンダントを持ってきてくれたから許しちゃう」という私事によって引っ込める手続きを経ています。よって、A!ep15は “「ラブこそすべて、ラブはパワー! ラブは永遠なのです!」” のセリフの通り “Love Conquers All” な話としては成立していますが、残念ながら「プロフェッショナル」が描かれている話としては成立していません。

*5-5 よって、「『アイカツスターズ!』は『アイカツ!』と違うことをやっている、だからダメだ」という乳児的な「批判」は、すでにこの桜庭ローラの言葉によって撃墜されていると見るべきでしょう。「杜撰な読解による幼稚な批判が、すでにその本の中で無効にされている」のは優れた書物によくあることですが、『アイカツスターズ!』でも同様のことが起きているわけです。

*5-6 AS!ep71、花園は七倉とのショッピング中に時間を短縮するために自分ごと梱包して運送業者に運ばせますが、そのせいでうっかりヴィーナスアークの出航時間に遅れ、乗船しそこなってしまいます。俊足を尊ぶ韋駄天的人物であるところの花園は大ダメージを受け、この失策にものすごく落ち込んでしまうわけですが、さらにAS!ep75では渋滞にはまってしまったせいで仕事の現場に遅刻しています(海外での活動が長くて日本の交通網の渋滞を予測できなかったことが原因と思われる)。肝心の仕事には(当日オフだった香澄がアシストに入ったおかげで)なんとか間に合いましたが、 “「ごめんなさい! もう二度と遅れませんからあ!」” と初めてガチ泣きしています。これはもちろん、AS!ep16で桜庭がステージに遅刻したときと同じ無念を味わっているのであって、ここでAS!ep57の花園きららからの変移、いい意味での slow down が描かれていると言うことができるでしょう。逆に言えば、この slow down の過程がなければ Cool Cat こと早乙女と一緒に組むこともできなかったはずです。敵対するうちに自然な形で敬意と友情が芽生えた早乙女と花園の関係性は、陸抗と羊祜のそれになぞらえることもできるでしょう。「羊」ですし。





 ここで、この原稿を中断する。
「『スターズ!』2年目はまだ半年ほど放送が残っているではないか、なぜ中途の原稿を公開することにしたのか、後半の展開によっては論旨が覆される可能性もあるではないか」という疑問は当然ありうる。が、

⑴星のツバサシリーズのBlu-ray BOX vol.1は今月発売されたばかりで、vol.2の発売までに日にちがあるため
⑵本稿を公開することがその売上に極小なりとも寄与することになれば、これ幸いであるため(ここに通販サイト等のリンクを貼ることはしない。「アフィリエイトで稼ぐつもりだなこいつ」と思われるのが癪だからである。課金さえすればいつでも全話視聴可能なバンダイチャンネルへのリンクは 1年目2年目
⑶相も変わらずTwitterでは140字以上の読み書きができない悲惨なアホどもがくだらないことをくっちゃべっていて、そういう奴輩へのディスリスペクトをも同時に示すため
⑷今夏に発表された RHYMESTER と THA BLUE HERB の新譜とライブがあまりにも素晴らしいものだったため

 などの理由により、準備稿を部分公開するに至った。もっとも、『アイカツスターズ!』が勝負師の作品であることは本稿で強調したとおりであり、もし本稿の経過をアップロードすることがこの作品の本質「賭け」に見合うものならば、という思いも手伝っての仕儀である。要するに、筆者は「観衆」ではなく「博徒」のほうに僅かなりとも近づきたいと思った。『スターズ!』の博徒たちの賭けの手際が、あまりにも美しく見事なものだから。
 よって闘争編後半・製造編・余談を収録した完成稿は、加筆訂正を経て2018年3月末に弊ブログにアップロード予定である。
 同時に、これまで弊ブログにて公開した他の原稿を集成した電子書籍『やばいくらい:アイカツスターズ!読解集成(仮題)』も併せてアップロード予定。


この幼形成熟の世紀に(出産する二人・フランチャイズ・自己啓発・アイカツ!)

[この記事は【準備稿】であり、決定稿は2018年3月末に投稿予定の「『アイカツスターズ!』2年目に捧げるnつのリスペクト(仮題)」に再録される予定です]


◎出産する二人(A!ep128、『アイカツ!』3年半の中で最も偉大な点)
◎手回しオルガンの歌(It ain’t funky.)
◎「癒し」への「中毒」
◎RUN LIKE HELL



 大人になるとはどういうことでしょうか。
「いきなり何? 説教?」と思われたかもしれませんが、そういうわけでもありません。「女児向けアニメの曲なのにこんなにすごい!」とか「女児向けアニメでこんな難しいのやってわかるわけないでしょ」とかいう物言いはそこらじゅうに溢れていますが、そもそもこの2017年において「女児[こども]向け・大人向け」なるジャンル分類は既に融解してしまっているのが実際でしょう。これは『アイカツ!』が公式に深夜クラブイベントを主催していた*とか、スタッフら自ら酒を飲みながら劇場版にコメンタリーをつけるニコ生を主催していた* とか、そういった事象を根拠とするものではありません。「今じゃ通過儀礼も失われてみんな子供じみてきちゃったよね」みたいな加齢臭のきつい放談のネタにしたいわけではさらにありません。これは一旦脇に置いておきましょう。本稿はまず一つの率直な問いから始めることにします。大人になるとはどういうことでしょうか。

 余計な寄り道をするつもりはありませんので、ここでは「大人になること」を一直線に定義することにします。「誰かの所為で誰かになること、を子どもに伝達すること」。それを果たすことができる存在が「大人」とまず定義しましょう。これは私の創意で言っていることではなく、明確な元ネタがあります。このブログで度々取り上げられるタイプの本を読んでいる方は「ああ、あれだ」と予測がついているかもしれませんが、ついていなくても構いません。「誰かの所為で誰かになること」。『アイカツ(非スターズ)!』3年半のエピソード中には、この営為を明晰に描いた回があります。「ああ、みんなが SHINING LINE* と呼んでるやつね」違います。A!ep128『夢のショータイム』。この回こそが「誰かの所為で誰かになること、を子どもに伝達すること」を類稀なる手つきで描いた回であり、『アイカツ!』3年半のエピソードで最も偉大な回です。これについて書かなくては始まらないでしょう。


◎出産する二人(A!ep128、『アイカツ!』3年半の中で最も偉大な点)

 この回の偉大さに触れるためにあらすじを書く必要はありません。「誰かの所為で誰かになること、を子どもに伝達すること」はそもそも「物語」に頼る必要がないからです(むしろ「物語」を要するのは『SHINING LINE*』のほうです)。A!ep128で起こることはただひとつ、「ダンサーのジョニーとデザイナーのサニーの仕事の結果としてアイドル黒沢凛(=ソウルマリオネット)が誕生する」。これだけです。「それの何が偉大なのか、デザイナーとアイドルとの「プロフェッショナル」な関係を描いたエピソードは『アイカツ!』全エピソードに鏤められているじゃないか」。しかしA!ep128にしか含まれていない関係が明確に存在します。ジョニーとサニーの「出産する二人」の関係。これによってアイドル黒沢凛(=ソウルマリオネット)が分娩されるまでの流れは、『アイカツ!』がいつしか自家薬籠中の物にしてしまった『SHINING LINE*』以外の方法で人間の製造を描くことに、結果的に成功してしまいました。

 以前* 確認しましたが、『アイカツ!』のスターライト学園は無謬なる母親(=光石織姫)によって運営されている空間であり、そこで訓育される生徒たちの生存が危うくされる要素はすべて除菌されていました。現に生徒たちの両親の存在も確固たるもので、父母両方のうちどちらか片方だけしか出てこない描写は徹底して避けられていました(氷上スミレ以外は。この重要な差異については後述します)。そもそも『アイカツ!』の空間では保護者たちの「大人になること=誰かの所為で誰かになること、を子どもに伝達すること」は前提として成功していたのであり、だからこそ視聴者は安心してあの世界観に浸りきることができたわけです。アイドルを志す生徒とデザイナーとの「プロフェッショナル」な関係。それは素晴らしい。アイドル・黒沢凛とデザイナー・サニーとの関係もその類例から出ないように思われます。しかしA!ep128劇中で言われているように、サニーとジョニーの二人の道が交わらなければアイドル黒沢凛は生まれなかった事実があります。かつて同じダンスユニットとして活動していた二人がダンサー/デザイナーという別々の道に別れなければアイドル黒沢凛(=ソウルマリオネット)は生まれなかったと。

 ここで明確になるのは、サニーの場合は「アイドルを志す生徒とデザイナー」のペアとは別のペアをもう一つ持っていることです。すなわち「出産する二人」の関係、両方の仕事の結果として一人の人間を分娩する関係。『アイカツ!』の世界において前提として成功していたこの(父母の)関係がサニーとジョニーの間で反復されているということです。結果としてA!ep128は「出産する二人」の意味を拡張することに成功してしまいます。

⑴一人の人間を出産するための関係は男女両性でなくてもいいこと。
⑵それは母胎による出産のみでなく藝能の仕事(ダンス・デザイン)によっても成されること。


 つまり「大人になること=誰かの所為で誰かになること」を伝達するための ⑴前提としての父母両性 をまず無効にし、その出産の方法を ⑵藝能の仕事(ダンス・デザイン) に直結してみせたこと。A!ep128は『アイカツ!』の世界で前提とされていた「出産する二人」の意味を問い直しかつ拡張したうえで、サニー・ジョニー両人の仕事の結果として一人のアイドルが誕生するまでの流れを描くことに成功してしまった。「出産する二人」の成立条件に非血縁性と非ヘテロ性を添加したうえで、出産の方法=藝能の仕事でも為されうると言い切ってしまった。『アイカツ!』3年半の全エピソード中で最も偉大な瞬間はここにこそあります。逆に言えば、ここ以外にはありません。


・Fatherless children Wandering nowhere Feels like there's miles to go(ダンシング・ディーヴァの旅程)

 思えば、黒沢凛はあかりジェネレーションのスターライト学生で唯一血縁の顔が示されていない子でした*1 。相方の天羽まどかも父母の存在は直接示されていませんが、彼女の場合は祖母である天羽あすかの存在があります(祖母があり孫娘があるということはその父母があるということです)。しかし黒沢凛の場合はサニー・ジョニーの関係のほか、さらにもう一人「先輩」と呼ばれる存在が示されていたのでした。「先輩」のおかげでダンスの楽しみに目覚めたと(A!ep127)。ダンサーでありアイドルである今の自分を分娩してくれた、そのことに関わった人々がなぜか血縁以外に偏っている*2 唯一の存在。それが黒沢凛です。A!ep127-128 は親元を離れた prodigal sis の pilgrimage としても見ることができるでしょう。

 そして氷上スミレ。のちに黒沢凛とユニットを組むことになる彼女は、あかりジェネレーションで唯一片方の親しか示されていない存在です。それについては以前* 書いたので省略しますが、父母両方セットで示されるのが不文律のようになっていた『アイカツ!』において彼女だけ父親の存在が欠落している。では父無し子である彼女は如何にして、誰の所為で自分自身になることができたのか。ここでは一言「鏡」とだけ言っておきます。以前書いた記事ではA!ep117でひとまず完結する「鏡」の三態をドラマチックに見ていきましたが、私はあの記事で「鏡」の機能を楽天的に書きすぎたことを若干反省しています。これは冒頭で書いた「誰かの所為で誰かになること、を子どもに伝達すること」の元ネタと関係があることですが、詳述するとしゃらくさくなるのでしません。ひとつだけ、『アイカツスターズ!』のAS!ep23でも、「合わせ鏡」の前に立った子たちが自分の言葉で「何者かになりたい」と叫ぶ場面が登場することにふれておきます(氷上スミレの道程の危うさは『スターズ!』における人間の製造の危うさに直接継承されている、ことについては次の段落で述べられます)。

 まとめます。ダンシング・ディーヴァの二人:黒沢凛と氷上スミレは、『アイカツ!』の世界で前提として成功していた「大人」の仕事(誰かの所為で誰かになること、を子どもに伝達すること)をそれぞれ別の形で問い直し、それを藝能(黒沢の場合はダンスとデザイン、氷上の場合は歌)に直接結びつける理路を開いている。もっと言えば、この二人の存在によって『アイカツ!』で不問に付されていた人間の製造の危うさが明るみに出され、同時にその人間の製造の手段として初めて藝能が提起されうるということです。以前私は『スターズ!』の四ツ星学園について “どれだけ危うくとも生徒たちの生存を多少なりとも可能にするため、人間の製造に賭けること。そのことを花鳥風月=歌劇舞美4クラスの「藝能」を通して描いてみせた。ここにこそ、無謬ではない「誤れる父親」を長に持つ学校での、途方もなく誠実な「人間の製造の賭け=藝能」の関係がある”* と書きましたが、要するにA!ep128のサニー・ジョニー・凛の3人の関係で一瞬明るみに出された「誰かの所為で誰かになること」の伝達を継承したのが四ツ星学園長=諸星ヒカルなのです*3 。私が諸星ヒカルを「無謬なる母親」こと光石織姫に対置して「誤れる父親」と呼んだのはこのことに理由があります。『スターズ!』の子たちを『アイカツ!』終盤のスターライトクイーンカップにおいて大博打を切って没落した氷上スミレの「後裔」と呼んだのも、このことに理由があります。さらに言えば、AS!ep128の「出産する二人」の意味の拡張を見ることができなかったり、AS!ep176の氷上スミレの没落を単に陰惨なものとして受け取ってしまった人*4 にとっては『アイカツスターズ!』はまったく理解不能なものになってしまうだろう、ということでもあります。


 重要なのは、A!ep128におけるサニー・ジョニー・凛の三者の関係は、所謂『SHINING LINE*』の外に出ているということです。今となってはまったく正確な意味付けなしに濫用されるようになってしまったこの『SHINING LINE*』ですが、復習しておきましょう。これは『アイカツ!』A!ep1-101(含劇場版)において引かれた神崎-星宮-大空をめぐる関係であり、私は以前* これを「目に視える神の死を必要とし、人-神から受け継がれた統治を人間が行う」という王権神授的な「物語」と要約しました。「いや、神崎美月も普通の女の子で神とかそういうのじゃないでしょ」と言いたくなる気持ちもわかりますし、私もそう考えることができたらどんなに良かったかと思うのですが、残念ながら “いちごにとっての最高の憧れだから「神」”* と加藤陽一が明言してしまっています。他の子たちと比べて神崎が「ものを食べる(=有機体・死すべき者[mortal]・人間である)」描写を極端に欠いていることもその裏付けとなります* *。私は神崎美月という(神の位置から格下げされることにより人間の統治が始まるという「物語」の端緒を担わされることになってしまった)存在について何ら誹謗を投げかけるつもりはありません。ただひとつ、『アイカツ(非スターズ)!』が自身の世界を定礎するために「目に視える神[one visible god]」とその没落を必要とした、非常にキリスト的な世界の説明を採用したことにはいくつか言いたいことがある、とだけ書いておきます*5


 よって、私はこの『SHINING LINE*』なる概念を軽々に振り回す人々に対して強い警戒心を持っています。それは「私はスペイン王の末裔フェルジナンド八世だ」「私には私の天皇制があるのだ」と言ってしまうこととほぼ同義になるからです*6。自分にも誰かから受け取ったバトンがある、そういうあこがれの継承が描かれているから『アイカツ!』は尊いんだ、そう力説したい気持ちは痛いほどわかりますが、『SHINING LINE*』は厳密に読めば「目に視える神[one visible god]」とその没落を必要とする「物語」になるしかないことは先ほど確認したばかりです。「王権神授」や「万世一系」がふたつもみっつもあっては困るのです。このへんを混同したまま『SHINING LINE*』なる概念を褒めそやすと、パラノイアとまでは言わずとも、最終的に招きうるのは権力欲とべったり癒着した精神状態のみでしょう。現に放送終了後に「『アイカツ!』からバトンを受け取った」と主張する作り手たちが既に……という話の前に、まずは『アイカツ!』が全178話の体系を閉じたあとの話をしなければならないでしょう。そして2017年時点で全世界的に共有されている、フランチャイズの病についても。





◎手回しオルガンの歌(It ain’t funky.)

 2016年の冬コミで頒布された『MIW』という本があります。二次元アイドル作品の作曲・編曲・作詞家の仕事が一冊にまとめられたデータベース本で、とても実用的で優れた一冊なのですが、この本にはデータ以外にも数多の作品について寄稿されたコラム集があります。主催のシノハラユウキさんのお誘いで、私はレペゼン『アイカツ!』として「『アイカツ!』とファンク(『LOVEマシーン』から『カレンダーガール』へ、世紀末から2012年へ)」と題された原稿を寄せました。

 実は、この原稿は『アイカツ!』とファンクについて書くこと以外に別のテーマがありました。(本文中にはそのような文言は一切出てきませんが)「和声」を弁証法として/「ファンク」をその内側から食い破るものとして書いてみよう、具体的には「和声」をヘーゲル/「ファンク」をヘルダーリン・ニーチェ・ベケットらとして思考してみようという試みがこの原稿だったのです。「和声」が弁証法=ドミナントモーション、「ファンク」が中間休止[casur]=非円環的音楽として対置されているとバラしてしまえば、原稿を読まなくてもおおよその見当がつくと思います。
 そして、この原稿の試みは完全な失敗に終わりました。『アイカツ!』が “終わりを知らない、終わる必要がない” “円環的=和声的時間とは全く別の時間性を持っている” と結論されるこの原稿は、今となっては完全な誤りだったと言わなければなりません。今ここで自分で自分の論旨の誤りを書き連ねることはできますが*7 、そんなのを読まされてもなんのこっちゃでしょう。なのでそれら全てを省略し、ここで「フランチャイズ」の話に移らなければなりません。要点だけ先に書きますが、あの原稿の失敗は「終わりがない」のと「終わりが永遠に引き伸ばされる」のは別であること、後者の「終わらなさ」を永遠に引き延ばすための罠が「フランチャイズ」にあることを見通せなかったことに原因があったのです。


・フランチャイズの病

 マーベル・シネマティック・ユニバース(略称MCU:2008年公開『アイアンマン』〜現在)の興行的・質的成功から、わずか10年足らずで映画界ではフランチャイズ(順次公開される作品たちどうしを連結し、作品群でひとつのユニバースを形成すること)が常態化しました。これについてはいろんな人がいろんな所で賛辞や苦言を呈しているので*8 、付け加えません。ただこれは単に映画界のみの現象でないことは確かです。巷間「映画のテレビドラマ化」と揶揄されるように、ここには永遠に次回作を製作可能にする構造(≒クリフハンガー)があり、それによって獲得されたファンは「次はまだか次はまだか」と欲望を持続させることができるわけです。

 強調しますが、こういった構造が悪いなどとは一言も言いません。ありふれたフランチャイズ批判は、単に商業的だ・一つの作品として完結しないなんてダメだという感情的な意見に駆り立てられてたものが多い。しかしMCUが優れていたのは ⑴少なくとも単体の映画として楽しめる質になっていること ⑵さほど有名でない映画人でもフックアップして潤沢な予算とスタッフを与える方針が一貫されていること にあり、単純なクリフハンガー商法では数年足らずで自壊していたはずです。それを踏まえることなしに軽々にフランチャイズ商売を始めてしまった会社たち(どことは言いません)が目も当てられないクオリティの代物を量産しているのを見れば、フランチャイズが必ずしも興行的・質的成功をもたらさないことは明白です。単純な話ですが、フランチャイズかそうでないかは問題でない。

 が、もはやそうそう楽天的でもいられなくなってきました。『アイカツ!』の話に戻しましょう。一曲聴いていただきましょう。シリーズ5周年記念*9 企画の一環として発表された『アイカツメロディ!』です。



 一聴しておわかりの通り、『アイドル活動!』ですね。作曲者が同じなのだから当然です。こうして『アイカツ!』の実質的テーマ曲である『アイドル活動!』の発展版のようなものが5周年記念企画として発表されるのも、間違ってはいないのでしょう。しかし私は、このタイミングで「『アイドル活動!』よもう一度」とばかりに『アイカツメロディ!』が発表されたことに顔面蒼白になりました。「何を今更?『Let's アイカツ!』だってそういう曲だったじゃん」と言いたくなるのはわかりますが、『Let's アイカツ!』は主人公が星宮から大空に移った時期(あかりジェネレーション)の線引きとして要請された曲なので意味合いが違います。『アイカツ!』が放送終了して新シリーズ『アイカツスターズ!』が始まった今『アイドル活動!』よもう一度とばかりに『アイカツメロディ!』が来ることの意味は、先述の原稿の論旨で言えば「和声」的解決を意味することになり、『アイカツ!』も円環的時間の気持ちよさによって欲望を生産する作品だったという結論にならざるをえなくなる。それを証し立てるきっかけになったのが「シリーズ5周年記念企画」の楽曲だったという事実は、フランチャイズの圏内にある作品がファンク的時間を持つことの不可能性をも証明してしまったのではないか。このことに私はほとんど嘔吐せんばかりになってしまったわけです*10

「なんで和声的ならダメなの? 気持ちよければ良いじゃん」という問いに答えるには、それだけで一つのまとまった原稿が必要になるのでここでは書きません。フランチャイズに話を絞りましょう。ここ数年で最も忘れがたいフランチャイズ批判、高橋ヨシキさんが『ローグ・ワン』を前にして発表した「幼年期の終わり ~さようなら『スター・ウォーズ』~」を部分的に引用します。

 観客が耽溺し続けること自体を難ずる権利はぼくにはありません。〔中略〕それでも、観客を「耽溺させることを目的に」商品を作り、供給することは邪悪なことではないかとぼくは思うのです。



 なぜなら、それは観客を消費者へと変え、幼児化させ、駄々っ子のように振る舞うことを是とするものであり、その駄々っ子の口に好物を際限なく突っ込み続けることで、彼らを判断能力を失った中毒患者へと変える行為だからです。


 「前へ!」というのは、ルーカスだけでなく、どのようなクリエイターにとってもいちばん重要な姿勢だとぼくは信じています。その先に何があるか分からなくても、あるいはそれがどういう評価を下されるにせよ、とにかく 「前へ!」。これはクリエイターに課せられた祝福でもあり呪いでもあるのですが、「前へ!」という大前提は旧三部作でも、またプリクエルでも(プリクエルは実は後退していたわけではないとぼくは思っています。何度も言いますがコンセプトに対してエクセキューションが貧しかったのがまずかった)、そして部分的ではあれど『フォースの覚醒』にも共通していました。 前へ!


 ところが『ローグ・ワン』は「もはや前に進む必要などない」という、ルーカスフィルム/ディズニーの宣言のように、ぼくには見えました。なぜ前に進む必要がないのか? なぜならそれを誰も望んでいないからです。誰も、 というのは『スター・ウォーズ』世界に耽溺することに慣れきった観客のことです(ぼくも含みます)”


 興行的に、『スター・ウォーズ』が「前へ」進む必要がないことを『ローグ・ワン』は証明してしまったのです。

Crazy Culture Guide Vol.30-30.5



 SWシリーズにまったく思い入れを抱いていないうえに『ローグ・ワン』も(ドニー・イェンがドン・キホーテ役をやっている映画なのだし)楽しく観ることができてしまった私は、当時「はあ、そういうものなのかなあ」程度にしか読めなかったのですが、少なからず前のめりに接してきた『アイカツ!』5周年企画に際して、これらの文章は「あっ、この状況を言ってたのか!」という今更の得心とともに蘇ってきました。「前へ」進む必要がないこと、それは「和声」的時間に閉じること、フランチャイズの体系に閉じること、円環的時間=手回しオルガンの歌に耽溺しきることを意味してはいないか*11 。ベケットらを念頭に置いて「終わる必要がない」作品だと言うとき、それは「終わりが永遠に引き伸ばされる」作品の偽装された姿を言っていはしないか。それこそがフランチャイズの罠であり病ではないのか。という疑惧と危惧が一斉に襲ってきたわけです。
 これは単に「前に書いた文章と矛盾しちゃった」から狼狽えているのではありません。「あれっ、自分は《これ前にも聴いたことあるわ、良いわ〜、知ってるわ〜、延々と続けられる正当な伝統、良いわ〜》みたいなことに気持ちよくなりたくてこの作品を支持してたのか? そもそもこれってそういう気持ちよさを是とする作品だったか?」という、本質的な足場が揺るがされたことに原因があります。それも公式の「5周年記念企画」によって。


 本当に意外だったのは、『アイカツ!』のファンダムを見る限り、5周年記念企画を楽しめている人のほうが圧倒的多数のように見えたことです。記念企画は『アイカツメロディ!』のみにとどまらず、星のツバサシリーズが進行中の『アイカツスターズ!』において前シリーズ『アイカツ!』とのコラボレーション回が2話に渡って放送されました。
 脚本・楽曲・シリーズ構成などあらゆる意味で驚異的な完成度を獲得している最中の『スターズ!』を2話も空費してまであのクオリティのものが断行された事実はほとんど理解不能なように思えますが、私はおそらく、電通あたりの社員がコカインでハイになっているときのノリで企画されたのがあのコラボ回なのではないかと思っています。これは冗談や皮肉で言っているのではなく、最も妥当性の高い可能性を考えた結果です。根拠は、中間休止[Caesur]*12 なしのゲットハイによる記憶のフラッシュバック(=前シリーズのキャラクターたちの唐突な再来)は薬物による効果と相似であろうこと、および『アイカツスターズ!』の論理と鍛錬による平穏な緊張の持続(AS!ep1-68)を唐突なトリップ(コラボ回)で自堕落にぶった切ってしまいたいという欲望は、いかにも広告代理店に勤めていそうな人間の心性として理解するのが容易であること、等です。


 率直な心境としては、私は「今すぐ『スターズ!』の放送が終了してほしい」と思っています。もちろん『スターズ!』が2年目で終わってほしいという意味ではありません。2016年4月に始まったこのシリーズは、3年間=中学の就学年間できれいにまとめることが可能です。1年目の時点でいくつもの驚くべき達成を残した『スターズ!』なのですから、3年構成での完結を前提にするのがベストなのは間違いない。これは言わば生前の司馬遷に対して「おい、今すぐ史記を書き上げてくれよ!!!」とせっつく行為に等しく、読み手としての品性にはやや欠けるのでしょう。しかしそれは同時に「もうフランチャイズなんてうんざりなんだ!」という呻きと表裏一体のことでもあります。「3巻にまとめられた全集を購入し、そこに書き記された成果たちに驚きたい」という思いと、「見たことあるものをもう一度見たい、延々と続く絵巻物が欲しい」という思いは全くの別モノなのですから。『アイカツスターズ!』は図らずも、2017年において全世界的に共有されつつあるフランチャイズの病を裏返しにして見せてくれたように思います。同時に、ここまで一つの作品としての(前シリーズとの癒着ではない)成果が追求されている『アイカツスターズ!』がなければこの病に気づかされることなくフランチャイズに耽溺したままだったかもしれないと思うと、背筋が凍るようです。



 コラボ回(AS!ep69-70)をなんの躊躇もなく楽しめてしまった方々に対しては何も言おうとは思いません。『スターズ!』で前シリーズのキャラクターが前シリーズの楽曲をパフォーマンスしている姿に「やっぱりすごい、ソレイユ尊い」と反応できた人々のことを、私はなんの皮肉もなく「エリート」と呼びたい気持ちがあります。すごいと思います。よっぽど解離が上手でなければこのコ(ラボ)カインでトリップすることは不可能だろうと思うからです。「こんな脈絡なしに『ダイヤモンドハッピー』やられても、あの木村隆一の “『ダイヤモンドハッピー』はかえでに歌わせるつもりだったんですよお” のヘラヘラ笑いがフラッシュバックしてバッドトリップに入る人もいるだろうなあ、とくにかえで周りに遺恨を持ってる人たちは。危ないことするなあ……」と思っていたのですが、実際はそうでもなかったようです。ということは、「ああかえゆりがいっしょにかえでずししてるすごいとおとい」と瞬時にマスキングして全部オッケーになれる方々が『アイカツ(非スターズ)!』ファンダムの多数派を占めているのでしょうか。繰り返しになりますが、「エリート」と呼びたい気持ちがあります。すごいと思います。普通、人間はそんな綺麗に解離できるものではないと思うからです。そして私は、電通謹製のコ(ラボ)カインで気持ちよくトリップできるほど洗練された人間にはなれなかったことを、どちらかといえば喜ばしく思っています。*13


 フランチャイズの病に文量が取られすぎたようです。さて、この原稿はA!128で描かれた(そして『スターズ!』全話で描かれている)人間の製造と『SHINING LINE*』は全くの別物だと指摘するところから始まったのでした。『アイカツ!』3年半の放送終了後、「『アイカツ!』尊い」とか「自分もバトンを受け取った」とか「あの作品も『アイカツ!』の『SHINING LINE*』で生まれたんだ」とか言い出す人々が随分増えましたね。私は『アイカツ!』からバトンを受け取れたとは思いませんし、『SHINING LINE*』に導かれたとも思いませんし、そのことをどちらかというと喜ばしく思っています(どれくらいかというと「天皇家に生まれなくてよかった」のと同じくらい喜ばしく思っています)。
 本稿で最後に書いておきたいのは、なぜ「『アイカツ!』からバトンを受け取った」と主張する人々が一斉に「癒し」とか「幸せ」とか「救い」とか言い始めたのか、についてです。次項は『アイカツ!』と自己啓発的思考との相性の良さ、「癒し」への「中毒」、そして『アイカツ!』と震災との関係。これらを一斉に検討し、問い直すことになるでしょう。これについて書くのは骨が折れますが、この作品の最も偉大な点(A!ep128)について書いた以上、最も愚劣な点についても書かざるを得ないでしょう。





◎「癒し」への「中毒」

 広く読まれたインタビューですのでいちいちURLは貼りませんが、某作品(深夜放送のちに早朝枠で再放送)のスタッフインタビューにおいて『アイカツ!』からの影響が述べられている箇所がありましたね。引用しましょう。

『アイカツ!』は子供向けなので4クールとか長い期間放送します。物語が進んでも、誰かが急に殺されたりしない。ひどいことも起こらない。ずーっと平和な世界が続いてるんです。視聴者は娘を見守っているかのような、ほんわかした感じになれる作品です。



 もちろん優れたシリーズ作品(スタートレックTNGとかゲーム・オブ・スローンズとか)でも “誰かが急に殺され” たりするので “ひどいことも起こらない” のは優れた作品の必要条件ではないのですが、それはどうでもいい。続けて引用します。

「大空あかりちゃん」や「ドリームアカデミー」が出てきたタイミングで、大人の事情があるのは理解しているのですが、僕はやっぱり「星宮いちごちゃん」のことを考えていたかった……(註7)。いろんなキャラクターを出さなきゃいけないこともわかってはいますが、本心は「そっとしておいてほしかったなぁ」と思いました。

(註7:セカンドシーズンで、「星宮いちご」から「大空あかり」に主人公が世代交代し、多くのファンが改めて「いちごちゃんたち」への想いを募らせた。)



“僕はやっぱり「星宮いちごちゃん」のことを考えていたかった” =ずっとA!ep1-50のノリでいてほしかった、というのはすごいですね。私は楽曲においてもお話においても『アイカツ!』が多くの成果を実らせたのはあかりジェネレーション以降だと思っているので、本当に “多くのファンが改めて「いちごちゃんたち」への想いを募らせ” ていたのだとしたら、あれらの成果たちも無かったわけですが(そもそも “多くのファン” って誰?)。

 このへんでよろしいでしょう。このインタビューに蔓延している、ひとつの、ある、つましい思いを一言で要約しましょう。「癒されたい」ということですね。 “「星宮いちごちゃん」のことを考えていたかった” 、“ずーっと平和な世界が続いて” “娘を見守っているかのような、ほんわかした感じ” でいたかった。先程引用した高橋ヨシキさんの文章に寄せれば、こういう欲望が “観客を消費者へと変え、幼児化させ、駄々っ子のように振る舞うことを是とするものであり、その駄々っ子の口に好物を際限なく突っ込み続けることで、彼らを判断能力を失った中毒患者へと変える” のでは、 “「前へ!」” という “どのようなクリエイターにとってもいちばん重要な姿勢” を手放した人間の言い分がこれなのでは、とまでは言いますまい。つましい思いです。現に、この作品名+アイカツ!で Google 検索すると、示し合わせたかのように「癒し」の語を含む記事がヒットします。『アイカツ!』から「バトン」を受け取ったこの作品、『SHINING LINE*』に導かれたこの作品に多くの人々が「癒」されたわけです。事実、ファンダムにおいてはこの作品と『アイカツ!』のファン層はかなりの部分で重なりあっている。これは私にとって心底意外なことでしたが、今となっては理解できます。『アイカツ!』はそもそも企画の段階で「癒し」に癒着しかねない質の作品だったのですから。加藤陽一の言を引用しましょう。


加藤陽一 大きな転機になったのが、東日本大震災です。コンセプトを固めている最中の2011年3月に、東日本大震災が発生しました。地震が起きた瞬間、僕は東京・浅草のバンダイ本社で『アイカツ!』の会議に出席していたんです。地震で電車が止まったので、車で来ていた僕が3人に声をかけて、皆を送っていくことになりました。TVで原発や津波のニュースを見ながら進むうち、都心で車も動かなくなっちゃって。結局浅草を出て、皆を送って23区内の家に帰るまで12時間位かかりました。そのとき一緒にいたのが、アニメ『アイカツ!』の若鍋竜太プロデューサーと企画スタッフです。車に缶詰状態で、8時間から10時間ぐらい、地震の影響を目の当たりにしながら、皆で『アイカツ!』のことを話しました。まるで合宿みたいな濃い時間でした。「こんなことが起きたら、いままで話したような作品はできないね」という話もその場で出て。それを受けて書き直した企画書の内容が、そのときの僕らの思いを込めたものだったんです。

━━どんなふうに変わったのでしょうか?

加藤陽一 ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになったんです。「トップアイドルを目指すスポ根サクセスストーリー」の部分はそのままに、「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」と、企画をブラッシュアップしていきました。この段階の企画書に書いてあることは。現在のところほぼすべてが、作品内で実現しています。あの震災が、『アイカツ!』という作品にとっての転機だったと思いますね。

『アイカツ! オフィシャルコンプリートブック(学研パブリッシング)』130-131P



 “ネガティブな出来事” は “消えてなくなり” 、 “温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう” 。この方針が先のインタビューで縷述されていた「癒し」への渇望とは別のものであることに注意しましょう。ここにあるのは “「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろう” という、それそのものとして十分リスペクトに値する信念なのですから。 “東日本大震災” をきっかけに “大きな転機” を迎えたこの作品は、おそらくは心身ともに震災の後遺症に苦しんでいる人々を癒した(なぜここだけカギカッコを外したかを考えてください)はずです。きっと2011年以降の息苦しい空気をやりすごすために、多くの疲れた人々の役に立ったのでしょう。役に立ったに決まっています。

 が、私はもはやこの加藤陽一の言に対して賛意のみを呈することはできません。 “ネガティブ” “前向き” という言葉が一体何を意味しているのか、私にはもうわかりません*14 。一直線にいきましょう。『アイカツ!』と自己啓発的思考との相性の良さについて


(前置:弊ブログでは他人の━━企業の運営によらない、投稿の過程で稿料が発生していないのが明白な、個人の━━ブログ記事を取り上げることは固く禁じてきました。単に「晒し上げ」に近い行為になるからです。しかし後述の記事は弊ブログ記事への直接的なレファレンスを含むので、例外的に取り扱います)


 以前私は、性差別へのカウンターの文脈で『アイカツ!』を援用した記事を書きました*。「人と違っていることが問題とされない世界=『アイカツ!』は素晴らしい」という大意の記事です。読者数なんかまるで考えていない・書くべきことが出てきたら書くしかないイズムでやっているのがこのブログなので、誰に届くかなんてまるで考えていませんでしたが、それなりの反応がありました。が、ぎょっとしたことがあります。そもそもの記事執筆の目的である「性差別へのカウンター」という政治的文脈がまるっと読み落とされていたこと、だけではありません。『アイカツ!』的なるものがどうやら、直接に自己啓発的文脈に接続されてしまっているらしいという事実です。

アイカツ! と 嫌われる勇気 より

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 説明するまでもなく、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』はアドラーの自己啓発ブルシットをさらに俗流にした本です。それを直接『アイカツ!』に接続して語りたい気持ちはわからないでもありません(そもそもリルケやジュディやフレディ・マーキュリーを叩き台にして『アイカツ(スターズ)!』を読んできた私にそれを難詰する権利はありません)。しかし驚いたことがあります。『アイカツ!』とアドラー心理学を同列に語っている人々は上記のブログのみならず複数存在するのです(特定のアカウントに誘導したくはないので、各々 Google や Twitter で検索してみてください)。「『アイカツ!』ってアドラーなんだよ」とひとりで騒いでいるだけなら「ああ、この人はそう読んでるんだな」で終わりですが、ここまで集団的に『アイカツ!』からアドラーへの想起があったことは、 “ネガティブ” でなく “前向き” であることを選択した『アイカツ!』と自己啓発的思考の癒着のし易さを立証するのに十分なものです。

 一言で言いますが、自己啓発の「癒し」や「幸せ」はあなたの望むものを全くもたらさないどころか精神的荒廃を呼び寄せます。いまだに「アイカツは癒し」「アイカツは宗教」「アイカツとアドラーって言ってること同じだ」とヘラヘラ笑いながら嘯いている人間は後を絶ちませんが、自分が軽々に口にしているその言葉が一体何を意味していて何に行き着きかねないものか、今からでも遅くないのでよく考えてください(『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』にどっぷり行ってしまったアイカツファンの人が、次第にブログに私生活の消耗や呪詛のみを書き連ねるようになってしまった例をひとつ知っています)。もちろんアイカツイコール自己啓発だとは一言も言いません。しかしファンダムにおいてその両方は容易に癒着してしまえるし、現に多くの人が癒着させているということです。


・無惨な救い

 加藤陽一の言に立ち返りましょう。『アイカツ!』は震災とともに転向した企画であり、その結果として多くの人を「癒」し、ついにはアドラー心理学と同列の思考に癒着するに至りました。これら一連の意識は何を意味するのでしょうか。もう言い切りますが、「自分の傷を見たくない」という意識です。ここで「傷」という言葉が出てきたことに驚くフリをしたって無駄です。我々が辿ってきたのは震災という、心身ともに大量の外傷を生んだ事件に端緒を持っています。この外傷は直接の被災者のみを対象としません。「テレヴァイズド・ウォー」であるベトナム戦争が “ある意味では米国民全員が戦争神経症者となり、米国のエートスの1970年代の大変化にはPTSDを考慮に入れる必要があるかもしれない”*15 事態を招いたように、我々もテレビやニュースサイトやSNSを介して見せられた災厄のイメージによって少なからず外傷を負ったと考えたほうがいい。だからこそ逆に言います。直接の被災者=当事者でもない我々が、「癒し」だの「前向き」だのを嘯きながらこの外傷をなかったことにしたいという欲望、これが最悪の意味での非政治的=美学的な内向であり、その逃げ道として自己啓発的な思考に陥ることを許してしまったのではないか。

 実際のところ、あれだけの外傷を生んだはずの震災後にアドラー本がバカ売れする一方でフロイトが見向きもされないのは、ここに理由があるのです。アドラーが戦争神経症に対してどう向き合ったかご存知ですか。戦争神経症は “もともと精神に問題を抱えている人に起こる”*16 というのがアドラーの診断です。 “ためらいがちな人、社会的な義務に直面して臆病さを見せる人が、神経症になるのである” 。“すべての神経症の背後には、弱者の存在がある。弱者は、大多数の人の考えに自分を適応させることができず、神経症の形を取った攻撃的な態度を取ることになる” 。こういった、外傷を負わせた政治的要因(=大戦)*17 を見ることなく個人の「パーソナリティ」や「ライフスタイル」に原因を求める思考が『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』の源流です。対して、フロイトが戦争神経症を前にして自己の理論をどのように改めたかは誰でも知っていることなので省略します。が、このアドラー=自己啓発的思考、性的・政治的要因による外傷を見ることなく「パーソナリティ」や「ライフスタイル」を問題とする思考、それを釣り針にして「癒し」や「幸せ」や「救い」を売りさばく思考が、とくに震災以降に自己啓発セミナーの姿をとって打ち続いているのだろうという素人診断を下すのに、私はいささかのためらいもありません。



 君はしあわせになりたいか。それは空しい願いだと、何故判らないのか。むしろきみは、自分の幸不幸に無頓着にならなくてはならない━━自分が仕合わせだろうが不仕合せだろうが、どうでもよい。他人にとってどうでもよいばかりではなくて、自分にとってもどうでもよい、でなくてはならない。自分の幸不幸も、そして幸福をも、冷然と見下せなくては。



 外国語を読めるようになるには、外国語を読むしかない。自転車に乗れるようになるには、自転車に乗るしかない。それと同じように、拒絶され、無視され、侮蔑され、中傷されても平気でいられるようになるには、拒絶され無視され侮蔑され中傷されても平気でいるしかない。現にそうであるほかない。その外部に手段を求めようとすれば、君は無惨な救いに縋ることになる。

『しあわせだったころしたように』



 私は、『アイカツ!』からバトンを受け取ったと自称する人々が「癒し」や「幸せ」や「救い」をしゃべくり散らすようになってしまったこと、それが自己啓発的思考以外の何物でもないこと、を理由として『アイカツ!』が愚かな作品だったと結論するつもりはさらさらありません。この作品の最も偉大な点、藝能と人間の製造の賭け(A!ep128)については詳らかにしました。それを継承した『アイカツスターズ!』が見せ続けている驚くべき成果の数々は、『SHINING LINE*』などではない別の方法での人間の製造を明らかにしてくれるはずですし、これから毎週届けられる一頁一頁を注意深く読ませていただくつもりです。
 が、私は、もはや加藤陽一の言う “「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」” の素晴らしさを信じることはできません。一方で、 “「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」” という理想が失敗したとは思いません。『アイカツ!』は確かにひとつのことに成功したと言えます。『アイカツ!』の「温かくて前向きな気持ちになれる作品を作ろう」という理想は、「自分の傷を見たくない」という非政治的=美学的に内向した精神を持った人間を大量に生産することに成功したと。






◎RUN LIKE HELL
 


 さて、図らずもこの原稿には多くの中毒が並べられる結果となりました。

・エンターテイメントにおけるフランチャイズへの中毒。
・「前へ!」進むことを不可能にする手回しオルガンの歌への中毒。
・「癒し」「幸せ」「救い」を求める自己啓発への中毒。

 大人と子どもの区別が融解した、この幼形成熟の世紀に、我々は臆面もなく中毒に耽りすぎているようです。かといって「自分は愚かな中毒とは無縁なのだ、清いのだ」と思い込むことも別の中毒です(「デトックス」がまた別の中毒にふけるための準備体操でしかないのは誰でも知ってますよね)。それでも私は、少なくとも「もっとかわいい中毒を持ちたい」と思い、ダサい中毒をやめることにしました。まず Twitter アカウントを削除しました。皆さんも今すぐやめるべきだと思います。「いきなりエス=ン=エス批判を?」「ブログは良くてツイターッはダメなので?」と困惑のあまり戸田奈津子口調になってしまった人もいると思いますが、やっぱりいくらなんでもあれは良くない。とくに言っておきたいのは、「自分は他の軽率な奴らとは違って SNS で見せたい部分と見せない部分を弁えてるから大丈夫だよ」と思い込んでいる人間ほど既に芯までどっぷりやられているぞ、ということです。表現全般に取り組んでいる人々から順に Twitter をやめましょう。「でもTwitter のフォロワーがいなくなったら、自分が創ったものを誰も見てくれなくなるかもしれない」? “でもあなたのお友達は、書評家よりも遙かに真面目で鋭い批評を、あなたの草稿に浴びせてくれるでしょうに”*18
 この島国に住まう人々が今すぐ止めたほうがいいことは、⑴ Twitter アカウントの所持・⑵原子力の使用・⑶東京オリンピックの開催 です。3つとも「狭いムラの中だけが世界だと思い込んで集団で衰弱していく」、「個々人が陰湿性を発揮しあって軽微な傷をつけあって治療困難に陥っていく」、「自分は価値のある維持可能なことに携わっていると言い聞かせながら取り返しのつかない事態へ進行していく」などの点が共通しています。そんなのはいくらなんでも御免でしょう。


 ですので、私はちょっと走ってこようと思います。優れた作品に耽溺するあまりフランチャイズや自己啓発の罠に絡め取られかねない、いろんな罠が仕掛けられているこの世紀ですが、確実なのは逃げ足を鍛えておいたほうがいい。逃げるために、闘うために、踊るため歌うため描くため書くため織るため縫うため耕すため植えるため笑うため暮らすため愛するため産むために、創るためには足が速くなきゃいけない。それは在野の人間ならもちろん、「プロフェッショナル」な現場での仕事を志す人にとっても同様です。実際、この幼形成熟の世紀においては、「良い作品」と「悪い作品」があるのではなく、「闘える作品」と「闘えない作品」があるだけなのです。私は司馬遷が史記を書き終える頃には(=星のツバサシリーズの放送が終わる頃には)またここに戻ってくると思いますが、それまでは河豚を料理するための包丁を研ぐ作業と、逃げ足を鍛えるための作業に戻ります。もう『アイカツ!』のことを懐かしむこともないでしょう。 “それでもやっぱり、この本が終わり、次のお話の幕が上がるとき。そいつが前作の登場人物たちを、文脈を、根こそぎ排除にかかるとき、あなたにほんの少しでいいから力を貸して貰えるならば、それ以上の僥倖はない”*19 。それでは。You’d better run!!!!!!!!!!!





[この記事は【準備稿】であり、決定稿は2018年3月末に投稿予定の「『アイカツスターズ!』2年目に捧げるnつのリスペクト(仮題)」に再録される予定、だったのですが、この記事だけでも23,000字を超えてしまったので、未だリリースされていないアルバムからのシングルカットのごとくこのまま単独で残されることになる可能性が濃厚です]






*1 主要キャラクター=劇中でPRドレスが最低一着用意されていたキャラクター、の範囲で述べています。ので、服部ユウや長谷川まつりは含まれていません。

*2 天羽は言うまでもなく、地質学者の父から生真面目さを受け継いだ(渡米中の星宮の英字記事を辞書片手に読むなど)大空、雑誌関係の仕事をしていた両親の影響を強く受けた新条、同じく女優の母と料理人の父の影響を受けた紅林、じゃがいも農家の家族で昵懇だった大地・白樺、というふうにあかりジェネレーションのスターライト学生は自分自身の活動のルーツに少なからず親族が関わっています。その例に漏れるのがダンシング・ディーヴァの2名であることに関する理路が進行中です。

*3 と言っても、ジョニーとサニーはそれぞれの道が交わる日を待ちわびながら孜々として自分の仕事を続けていたので、この伝達は「ともあれ成功する」質のものでした。しかし諸星学園長の場合は、姉のようにアイドルとして絶命するかもしれない教え子をなんとかして生かしめなければならない(しかしその有効な手段すらわからない)わけなので、この伝達は「ともすれば失敗する」質のものです。「誤れる父親」とはそのことです。

*4 このように解釈している人が多くいるのはとても意外なことでした。むしろAS!ep176における氷上スミレの没落がなければ、あかりジェネレーションは単に息苦しく閉塞したシリーズとして終わってしまっていたでしょう。

*5 次々段落で使用される語を先取りして書きますが、「目に視える神[one visible god]」とその没落(死)を必要とする世界の定礎の仕方こそが完全に「和声」的・弁証法的・西洋的な「物語」なのです。ここで一面的に西洋的・キリスト教的なるものを批判しているとは思わないでください。この「物語」という名の巨大な河豚は、いくつかの精巧な包丁(最低でも、次々段落で「ファンク」的なる人物として名前が出ている三者)を揃えなければさばくことができない難物で、私も今それを工夫している最中なのです。

*6 本論「『アイカツスターズ!』2年目に捧げるnつのリスペクト」の並走なしに書かれているため、かなりギョッとする脈絡になっていると思いますが、この「『SHINING LINE*』=万世一系」についてはおそらく「RESPECTn:金星的、あまりに金星的(エルザ フォルテの眼球)(仮題)」において述べられると思います。なぜ『SHINING LINE*』が単数形で『アイカツスターズ!』が複数形なのか、についてはおそらく「RESPECTn:世界は広く、道は一つじゃない(如月ツバサの道々)(仮題)」において述べられると思います。

*7 要するに、「弁証法」と「弁証法でないもの」を対置して後者に軍配を上げるという思考自体が完全に弁証法的である、という矛盾に気づかないまま進んでしまったことに原因があったのです。

*8 これなど。
 蛇足ですが、FOXのほうのマーベル映画である『デッドプール(2016)』の “That sounds like a fucking franchise” というセリフは「(デッドプールって名前)ダサいフランチャイズ作品みたいだな」「流行らないチェーン店みたいだな」の両方の意味として通るようになっています。あと悪役の名前 “Francis” は “franchise” のもじりなんじゃないかなと思っています。

*9 これは完全に私の理解の埒外にあることなのでどなたか教えてほしいのですが、そもそもなぜ「5周年」が記念に値するのでしょうか? 10進法で位が繰り上がる値の1/2だから、ということはわかります。しかし5という数字の美しくなさといったらどうでしょう。3の倍数が美しいことは私にもなんとかわかります。 “21というのは近隣の20や22と比べると格段にかっこいい(JAZZ DOMMUNISTERS『秘数 2+1』N/Kヴァース)” 。確かに21は3の倍数なので20や22よりかっこいい。とあればなおさら、この5とかいうぶさいくな素数をなぜ尊重しなければならないのか、なぜ記念に値するのかがわからなくなります。5拍子の曲はかっこいいし5連符で取るフレーズもかっこいいし5と8のポリリズムは黄金比なので最高に美しい。であるからこそ、この5という数字の単体での輝かなさが浮き彫りとなります。 なぜ「5周年」が記念に値するのかをご存知の方は、この記事のコメント欄に書いていただけると助かります。こればかりはどれだけ考えてもほんとうにわからないのです。「5周年」……?

*10 こればかりは絶対に誤解されたくありませんので書きますが、本項で作編曲家としての田中秀和さんの仕事が低く評価されているわけでは全くありません。CDに収録された『アイカツメロディ!』の[3:08]からの展開は、『ドリームバルーン(作編曲:広川恵一)』1番サビ終わりのインストゥルメンタルパートに匹敵するほどの素晴らしさだと思います。が、これ以前に田中秀和さんが発表していたのが『ドラマチックガール』(アウトロで終わったと思わせてまたリフが始まる=終わる必要がない構造を持ち、「『アイカツ!』とファンク」で私が『アイカツ!』=ファンク的時間性を持つ論拠の一つとして援用した楽曲)であることを踏まえれば、このダメージがいかに甚大なものであるかがおわかりいただけると思います。「『アイカツ!』は終わる必要がない(ファンク的)」→「『アイカツ!』は『アイカツスターズ!』をも体系の一部として止揚してしまう(和声的)」の意味に転化されてしまうのも加えれば、なおさら。
 このように、「個々のスタッフはとても優れた仕事をしているのに、それを内包するユニバース全体が導きかねない方向を考えると忸怩たる思いにならざるを得ない」のはフランチャイズの持つ病の中でも特徴的なものだと思いますし、私もMCU作品の一部でその思いを共有しています。

*11 笑えるのは、「『アイカツ!』とファンク」において私が「和声」的な例として挙げているのが『スター・ウォーズep4 新たなる希望』の脚本(の三幕構成)であるという事実です。

*12 この「中間休止[Caesur]」はシュルツ=ヘンケが言う健康的な夢の流れ(「ジャンプ」「お話かわって」)のことで、ヘルダーリンが『オイディプスへの註解』で言っている「中間休止[casur]」とは別のものです。中間休止[Caesur]なしの夢は突然にショッキングな映像を見せられるに等しいので、強襲する外傷性記憶[フラッシュバック]と同質のものとなります。要するに『セッション』とかいう映画に出てくる交通事故シーンのような、ああいうやつです。ああいう映画を無闇に賞賛してしまう輩にも言いたいことは山ほどありますが、言いません。

*13 もしかすると、エンターテイメントにおける「粗悪ドラッグによるトリップ感覚」は想像以上に共有されているのでしょうか。『スコピオ・ライジング』や『白昼の幻想』や『エンター・ザ・ヴォイド』のようなオールドスクールドラッグ描写のことではありません。例を挙げますが、今年日本公開の映画『ラ・ラ・ランド』は、ラストシーンで唐突に「主人公とヒロインがくっついて万事うまくいった幸せな世界線(世界線という言葉が何を意味しているのか知らないしダッサいなこの漢字三文字と思いますが他に適当な語が思い当たらないので使います)」のミュージカル映像が展開され、その直後に現実(主人公がヒロインとくっつけなかった世界線)に戻って終わるのです。おそらく「今あるこの現在じゃなくて、別の可能性の中であの人と一緒になれていたら……そんな思い、わかるでしょう!???⭐︎、」と叙情的に終わりたかったのだと思いますが、あまりにもこのドラッグ=情緒的ミュージカルシーンの投与が唐突で脈絡を欠いていたので、私は主観的に垣間見た幻覚をこちらとも共有できる前提で話しかけてくるジャンキーの酔態を見る心地がしました。もっと恐ろしかったのは、「わかる、やばい、人生殴られたし涙止まんない」というふうに共感してしまえた観客が大量にいたらしいことなのですが。
「別の世界線」みたいなことを軽率にやりたがる作品(小説なら『リプレイ』とか、映画なら『バタフライ・エフェクト』とか)を見るたびに思うのですが、自分の人生が一直線でやり直しがきかないということがそんなに耐えがたいのでしょうか? 印象で言い切ってしまいますが、私はこういう一直線な時間に生きることを屈辱に思う精神が「弁証法=和声的時間」を要請したのだと思っています。

*14 映画『ディクテーター』では、独裁者によって「ポジティブ・ネガティブ」の両方がひとつの語に統制されてしまったためにHIV検査の結果がわからなくなる、という三重くらいの意味で笑えないギャグが出てきます。それはそれとして、ひとつだけ。『アイカツスターズ!』虹野ゆめの口癖として「ノーモアネガティブ!」がありますが、これは「ネガティブはやめてポジティブに考えよう」という意味ではなく、明白に「見通しのきかない苦難に直面してしまった、どう打開すればいいんだろう」という当惑の意味として使われています。その極点がAS!ep35で、虹野だけでは治療困難な問題を解決するために諸星と白鳥という二人の医[いや]し手が協力する必要があったのでした。なのでこう結論することができます、『アイカツスターズ!』は外傷を「なかったこと」にはしていないと。AS!ep30-71の流れは、虹野が自分にとって最も傷ましい記憶(七倉をちゃんと見送りできなかったこと)を治すための Remedy Lane でもあったと言うことができるでしょう。

*15 中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』みすず書房刊 89P

*16 『アドラーの生涯』エドワード・ホフマン著 岸見一郎訳 金子書房刊  136P
『〜勇気』シリーズを書いた人間が訳している伝記で、フロイトとその弟子どもが親の仇ばりに書かれていて面白いのですが(実際フロイトの自称弟子どもはだいたいしょうもないのですが、というか「それ自体では瞠目すべき概念を多数輩出したのにもかかわらず、その自称弟子どもがしょうもない」という点でも『アイカツ!』と精神分析は相似形にあるのですが)、ここに書かれているフロイト自身の “〔アドラーの「反性的傾向は」〕最終的には精神分析に大きな害悪をもたらすだろう” 、 “〔アドラーのアプローチは〕リビドー、性の心理学ではなく、全般的な心理学を提供している。それゆえ、あらゆる精神分析の中に潜在的に存在する抵抗を利用し、その影響力を思い知らせるであろう” という警鐘が現今の自己啓発・マネジメント原理主義の猖獗ぶりを的確に言い当ているのがなんとも。 この “あらゆる精神分析の中に潜在的に存在する抵抗” が本稿で述べた「性的・政治的要因による外傷を見ることなく「パーソナリティ」や「ライフスタイル」を問題とする思考、それを釣り針にして「癒し」や「幸せ」や「救い」を売りさばく思考」にあたることは言うまでもありません。

*17「大戦が『政治的』要因? 『社会的』じゃないの?」と思われたかもしれませんが、精神医学を「存在の政治学」と呼ぶ中井久夫さんのスタンスをリスペクトした結果です。『性的・政治的』の対義として『美学的』を使っている理由については長くなるので省略します。

*18 『若き詩人への手紙』ヴァージニア・ウルフ著 大沢実訳 南雲堂刊 24P

*19 円城塔「14:Coming Soon」『Self-Reference ENGINE』早川書房刊



あらゆる天使は恐ろしい(アイカツスターズ!『荒野の奇跡』を読む)


 かならず『アイカツスターズ!』2ndシーズン挿入歌ミニアルバム『Fantastic Ocean』を購入してから本稿をお読みください。ここにリンクを貼ることはしません。「こいつアフィリエイトで稼ぐつもりだな」と思われたらイヤだからです。



『荒野の奇跡』
作詞:tzk 作曲・編曲:南田健吾 (onetrap)
歌:ななせ from AIKATSU☆STARS!

【目次】

◎前提:『荒野の奇跡』は白銀リリィではない
◎『荒野の奇跡』構成表[チャプター]
◎4つのモチーフ「天使」・「讃歌」・「下降」・「生命の有限性[mortality]」
◎「天使」如何
◎「天使」「有機体[mortal]」そして「物」
◎破線になる話者(1番Aメロ・Bメロ・サビ)
◎下降、飛翔のためでなく




◎前提:『荒野の奇跡』は白銀リリィではない

『Poppin’ Bubbles』『Summer Tears Diary』の作曲者であるミトさんが、とある対談でとても重要な指摘をしています。「『アイカツ(スターズ)!』の楽曲はキャラクターを演じる声優が歌わない」「声優と歌唱担当とがそれぞれ別個に存在している」ことについての言及です。それを引き取って対談相手(さやわか)は以下のように続けています。

 自作自演で曲を作ったその人が心情の載った曲を歌うという、シンガーソングライター的なものを尊ぶ価値観からするとありえないことなんですよね。アニメと歌っている人が切り離されているのであれば、それは声優とも切り離されている。それをやった結果、いまミトさんがおっしゃったように二層の、それぞれ分裂した場所にファン層ができて構わないということになったわけですよね。
「キャラクターの歌声と音楽の場所」ユリイカ2016 9月臨時増刊号 105P


 ここで言及されている通り、『アイカツ(スターズ)!』の楽曲はいわゆる「キャラソン」とは別の意味合いを帯びています。まず劇中のキャラクターがパフォーマンスするための楽曲である、が、それを歌う声は本編でキャラクターを演じている声優とは別の人である。さらに作詞者はそれぞれの楽曲で異なり統一されていないので、たとえば「演技も歌唱も声優が担当」「すべて1人の作詞者(畑亜貴)で統一」という方針の『ラブライブ!』シリーズとは真逆の特性です。
 であるからこそ、『アイカツ(スターズ)!』シリーズの楽曲は奇妙に多層な声を持つことになります。もっと言えば、「この曲はこの人のものだ」とひとつの人称に固定しようとすると必ずそこから遁れてゆくような非人称性を結果として持っている、と言えるでしょう。この特性については以前『Dreaming bird』について行ったセッションの中でも少し触れましたが、ここでも結果的に白銀リリィという単一の人称ではなく『彼女』という誰でもない者のほうへ導かれていったことを思い出せば、『アイカツ(スターズ)!』の楽曲(の詞)を単一の人称に回収しようとするのが如何に不毛なことか実感されます。

 そもそも歌うこと・詞を書くことは自分自身の心情を吐き出すこととイコールではありません。「内面」の「叫び」とかいうものが良い歌になることはありません(それだと単なる「自分語り」になってしまいます)。『アイカツ(スターズ)!』の楽曲はそのような人称的なものから遁れてゆく特性を持っていることは先に述べました。よって、『荒野の奇跡』を読むにおいて「命を削って歌っている白銀リリィ」とかいうわかりやすく感動的な姿にすがるのも避けるべきでしょう*1。むしろ「歌手」とはもはや自分自身とは言えない別の精神を引き受ける仕事を続けている人のことなので、それを無視して「これは白銀リリィによる白銀リリィのための歌なんだ」と思い込んでしまうことは、かえって彼女自身への礼を失することになります。

 なので、「『荒野の奇跡』を読む」と題されたこの原稿は、『荒野の奇跡』を担っている白銀リリィ・作編曲者である南田健吾・作詞者であるtzk・その歌唱担当である松岡ななせ・たちの創意の結果として生まれた作品を読む私・という数えられない数の誰かたちが持ってきた札をひとつの卓の上に集めていく、そういう作業の記録になると思います。それ以外の方法でこの楽曲を読むことは不可能だと思われるからです。
 前置きが長くなっています。早速始めましょう。


【凡例】
・『荒野の奇跡』の歌詞はどこで改行するか、どこにスペースを入れるかひとつで意味が大幅に変わる特性を持っているため、文中での引用も歌詞カードの表記に準拠する。歌詞カード中の改行箇所は全角スラッシュ「/」で表記する。
・特定の作品名は『』、歌詞カード・文献からの引用は “” 、また本稿で一般的なものとは意味をずらして使用している語句は「」でくくって表記する。
・fc2ブログにはルビ機能がないため、語句にルビを付す場合はその直後に [] で表記する。




◎『荒野の奇跡』構成表[チャプター]

(ここからはお手元に『Fantastic Ocean』の歌詞カードを用意した上でお読みください。CDをまだ買ってない? 買ってください。)

[0:00]イントロ(コロス1)
[0:16]1番Aメロ
[0:33]コロス2
[0:42]1番Bメロ
[0:56]1番サビ
[1:41]コロス3
[1:50]2番Aメロ
[2:07]コロス4
[2:15]2番Bメロ
[2:31]2番サビ
[3:00]Cメロ
[3:47]最後サビ
[4:31]アウトロ(コロス1)


 Aメロ・Bメロ・サビという構成はオーソドックスですが、たびたび挿入される5拍子の朗唱パートが耳を引きます。ここでは当該パートを仮に「コロス」と呼称します。『エレクトラ』とかのギリシア悲劇に出てくる、主要登場人物にかわって背景を解説したり囃し立たりする声の連なりのことです*2
『荒野の奇跡』が収録されているCD『Fantasitic Ocean』のクレジット欄には「Chorus: 松原さらり(onetrap), 國土佳音(onetrap)」という2名の女性コーラスがクレジットされているので、おそらくこの2名がコロス部の朗唱を担当しているのでしょう。メインボーカルは白銀リリィの歌唱担当たる松岡ななせですが、それとはまた別の声が入っているわけです。よって、Aメロ・Bメロ・サビ(メインボーカル)とその間に挿入されているコロス(コーラス2名)は、歌詞のうえではそれぞれ別の話者による詞だと考える必要があるかもしれない、ということです。


◎4つのモチーフ「天使」・「讃歌」・「下降」・「生命の有限性[mortality]」

 さて、歌詞全文を読んでみましょう。一読すると、全編を通していくつか共通のモチーフが歌われていることに気づきます。

⑴「天使」
“その昔 勇気を胸に 荒野へ舞い降りた天使は/白い羽根を大地に蒔いて 花に変えた”(1番Aメロ)
 まず「天使」ですね。冒頭から登場します。この「天使」がどの意味でのどういう「天使」をさすのか、については後々言及します。

⑵「讃歌」
“いつか花ひらく生命のため ただ希望を 歌ってみたい”(1番サビ)
 この曲自体が何かへの讃歌のようでもありますが、この詞中の話者がいったい何者で何者に対して讃歌を捧げているのか、については後々言及します。

⑶「下降」
“花たちに生命吹き込むように雨よ降れ”(2番Bメロ)
 じつはこれが一番重要なモチーフです。2番に登場する「雨」をめぐる描写もそうですが、サビ冒頭の “抗えぬ力に寄り添いながら” の一節も重要です。

⑷「生命の有限性[mortality]」
“誰もがいつの日か土へと還る”(2番サビ)
 これは本当ならひとつの単語で書きたかったのですが、「無常」と書くと意味が正しく伝わらないおそれがあるので敢えて「生命の有限性[mortality]」と表記しました。これについて注釈しておきましょう。
「無常」「諸行無常」の語には、本来「ああ、人はみんな死んでしまう、人生は儚いなあ」などの詠嘆が入り込む余地はありません。「この世の現象すべてには終わりがある」と端的な事実だけを述べているのであって、「儚いなあ」と詠嘆するタイプの日本的な無常観というのは、はっきり言ってろくでもないものです。先ほど私が “「命を削って歌っている白銀リリィ」とかいうわかりやすく感動的な姿にすがるのも避けるべき” と書いた理由の一端もここにあります。この「無常[mortality]」はそもそも情緒的なものではない。
 では mortality とは何か。簡単です。もやし。スーパーで30円とかで売ってるもやしのパックを、冷蔵庫に入れずに台所に数日間放置したら、痛んでべちょべちょになって料理には使えなくなりますよね。それのことです。有機体の定義としての「死すべきもの[mortal]」ということです。この定義は『荒野の奇跡』の詞では「人間」のみならず「鳥」「花」にも適用されていて、それら有機体は「死すべきもの[mortal]」と定義されるものとして平等に扱われていると読むことができます(後述)。


◎「天使」如何

 さて、これらのモチーフの中でまず ⑴天使 に注目しましょう。「天使」といっても一般名詞的なものからアブラハム宗教的なものまで色々あります。この辺をごっちゃにしたまま読むと混乱をきたすので、まず『荒野の奇跡』での「天使」がなにものか、について考えておきます。

 あれはたしかTwitterだったと思いますが、「『荒野の奇跡』の天使とは楽園を追われた存在のことである」という大意の読みを見たのですが、私は「そうかなあ」と思います。たぶん創世記のことを言っているのだと思いますが、そこでは天使(ケルビム)はむしろ追放されるのではなく追放する側ですよね(“こうして、神ヤハウェは人を追放し、生命の木にいたる道を守るため、エデンの園の東にケルビムと揺れ動く剣の炎を置いた” *3。 あるいはルシファーの堕天のことを言ってるのかもしれませんが、白銀リリィが担っている星は冥王星なので、ルシファー=金星と重ねて見るのは無理がある気がします(エルザ フォルテとその曲『Forever Dream』が金星的、という話ならとてもしっくりきます。エルザは智慧と傲慢と誘惑の人なので、ひじょうにルシファー=金星的人物と言えます)
 詞を読むと、『荒野の奇跡』の天使は 1:荒野へ舞い降り、白い羽根を大地に蒔いて花に変えた 2:嵐を呼び、雨を降らせる などいくつかの営為を担っていることがわかりますが、これらを行う天使の姿はもちろん先述の創世記の記述と異なります。よって、アブラハム宗教的な天使を『荒野の奇跡』の「天使」と同一視するのは有効な読みではないと思われます。

 では、どうするべきか。ここではリルケの連作詩『ドゥイノ・エレギー』を参照します。どうして急にリルケが出てくるのか、恣意的な参照ではないかと思われるかもしれませんが、この詩を持ってきたのには明確な理由があります。先述した4つのモチーフ「天使」・「讃歌」・「下降」・「生命の有限性[mortality]」は、『ドゥイノ・エレギー』にも共通して登場するからです。まずはこの詩と『荒野の奇跡』の両方とを読み比べながら、われわれの読解における「天使」「有機体[mortal]」そして「物」の関係を見ていきましょう。


◎「天使」「有機体[mortal]」そして「物」

 誰が、私が叫んだとしてもその声を、天使たちの諸天から聞くだろうか。かりに天使の一人が私をその胸にいきなり抱き取ったとしたら、私はその超えた存在の力を受けて息絶えることになるだろう。美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称讃するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。
『ドゥイノ・エレギー』第1歌 古井由吉訳



“あらゆる天使は恐ろしい”。『ドゥイノ・エレギー』で最も有名と思われるこの一節ですが、この詩の「天使」は絵画作品にあるような美しいだけのものでは、あるいはチョコボールのクチバシについているような可愛らしいものではないとされている。なぜ “恐ろしい” のか。それは有機体[mortal]たる人間が天使に抱かれたとしたら息絶えてしまうような、格の違う美を持っているから。第1歌によれば、この世に現れ出ている “美しきもの” を有機体[mortal]が称讃できるのは、天使(の美)がまだ有機体[mortal]を “滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみ” ない限りにおいてのことだ、と歌われています。

 第1歌では他にも「鳥」「春」「音信」など重要なモチーフが登場していますが、われわれは「天使」の読解に集中しましょう。第2歌ではいよいよ「讃歌」のモチーフが登場します。
“あらゆる天使は恐ろしい。それであるのにわたしは、哀しいかな、御身たちを、人の命を奪いかねぬ霊鳥たちよ、その恐ろしさを知りながら、誉め歌った” 。この “わたし” も有機体[mortal]には違いありません。一体どうすれば、生命に限りのある人間が天使たちを褒め称えることができるのか。一気に飛んで第9歌、そこでは「称讃」の手段として「物」が歌われています。長いですが一挙に引用します。一文字も読み落さないでください。

 天使に向かってこの世界を称讃しろ。言葉によっては語れぬ世界をではない。壮大なものを感じ取ったとしても、天使にたいしては誇れるものではない。万有にあっては、より繊細に感受する天使に較べれば、お前は新参者でしかない。単純なものを天使に示せ。世代から世代へわたって形造られ、われわれの所産として、手もとに眼の内に生きるものを。物のことを天使に語れ。天使はむしろ驚嘆して立ち停ることだろう。お前がいつかローマの縄綯[なわな]いのもとに、ナイルの壺造りのもとに足を停めたように。天使に示せ、ひとつの物がいかに幸いになりうるか、汚濁をのがれてわれわれのものになりうるかを。悲嘆してやまぬ苦悩すらいかに澄んで形態[かたち]に服することに意を決し、物として仕える、あるいは物の内へ歿することか。その時、彼方から伴う楽の音も陶然として引いて行く。この亡びることからして生きる物たちのことをつぶさに知り、これを称[たた]えることだ。無常の者として物たちは救いをわれわれに憑[たの]むのだ、無常も無常のわれわれに。目には見えぬ心の内で物たちを完全に変化させようではないか。これはわれわれの務め、われわれの内で、ああ、はてしのない務めだ。われわれが結局、何者であろうと。
『ドゥイノ・エレギー』第9歌 古井由吉訳



「天使」は有機体[mortal]には堪えきれないほどの美を持っているはずの存在でした。その「天使」を立ち停らせるためには「物」のことを語らなければならないという。どういうことなのでしょうか。「天使」と比べて有限な存在である有機体[mortal]がつくりだした「物」(“ローマの縄”・“ナイルの壺”)に「天使」が “驚嘆して立ち停る” とは。

 整理しましょう。 mortal は美において「天使」に劣っている。その mortal のつくりだした「物」も同様に劣っているのかもしれない。しかしここにこそ転倒があるのではないでしょうか。有機体[mortal]がそもそも「天(使)」の創造[create]した被造物[creature]にすぎなくて*4、ただ劣っているだけの存在だとしたら、一体どうして「天(使)」と同じ創造[create]する力を持つことができたのでしょうか。有機体[mortal]が作り出した「物」が同様に有限な亡びやすいものだとしても、そうして生まれた「物」を示すことは「天(使)」が有機体[mortal]を創造[create]したのと同じ力を他でもない被造物[creature]が持っていた、そのことを証明する結果になります。となれば「天使」は “驚嘆して立ち停る” ことしかできなくなるでしょう。脈絡はついています。そして他ならぬ白銀リリィは、虹野ゆめは、いや『アイカツスターズ!』に登場するすべてのアイドルたちは創造行為に取り組んでいたのでした。自分でデザインしたドレスに「星のツバサ」を降ろすために。*
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『ドゥイノ・エレギー』第9歌における「天使」「有機体[mortal]」「物」の関係性


◎破線になる話者(1番Aメロ・Bメロ・サビ)

 このあたりでよろしいでしょう。『荒野の奇跡』1番の歌詞を読みます。
 1番Aメロは “その昔” という歌い出しで始まります。口伝の決まり文句ですね。ここでの話者を仮に「語り部」と呼ぶことにしましょう。 “勇気を胸に 荒野へ舞い降りた天使は” と三人称で話していることから、すくなくとも「語り部」は「天使」ではないことがわかります。『ドゥイノ・エレギー』と同じ、有限であるがゆえに「天使」のことを褒め歌う人間、でしょうか。

 Bメロを飛ばしてサビの歌詞を読みます。ここでの話者は “傷ついた翼をふるわせながら/それでも羽ばたいてわたしは生きる” と歌っていることから「天使」であることがわかります(そもそも翼がついていない人間が “ふるわせ” たり “羽ばたい” たりできるわけがありません)。Aメロの話者は「語り部」でサビは「天使」。そこまでは明確になっているでしょう。

 しかし、Bメロ。ここが問題となります。なぜならこの箇所は主語を欠いた文で書かれているからです。 “寂しくて涙ポロリ こぼれ落ちた瞬間[とき]/月も花もその羽根さえも青く染まった” 。この描写の主語は何者でしょうか。最も混乱させるのが “その羽根” という文言です。「わたしの羽根 (my wings)」なら「天使」、「彼女の羽根 (her wings)」なら「語り部」が話者だと確定できるのですが、 “その羽根 (its wings)” という中性の所有格で書かれている(“寂しくて涙ポロリ” というオノマトペを交えた主観的な描写が入った後に “その羽根” という突き放した描写が入ることでよりいっそう主格を撹乱する)ので、Bメロの詞は
 甲:荒野に舞い降りた「天使」が独白している
 乙:「天使」のことを伝え聞いている「語り部」が語っている

 のどちらでも解釈可能なものとして書かれています。Aメロ「語り部」・サビ「天使」と明確な話者に挟まれたBメロでは、なぜか主語が確定しがたいものになっている。
 まとめます。『荒野の奇跡』の詞は、1番Aメロ・Bメロ・サビの時点ですでに話者を確定不能にする構造を持っている。「語り部」が語っている・「天使」が独白している という実線としての人称を破線に変えてしまう部分(Bメロ)を構造的に含んでいる、と言うことができます。

(括弧:この「人称の融解」についてはさらに入り組んだ読みが可能であるどころか、誰かへと呼びかける「詩(詞)」についての重要な問題系を含んでいるように思われます。が、ここで詳述すると本筋を外れるので註*5に譲ります。)

 ここまでこの詞を読んで、「パートごとに話者がバラバラだし、誰が何を語っているのかもあやふやだ」「だからこの歌詞はよく書かれていない」と判断してしまうのは、読むにしても書くにしても言葉の鍛錬を一切積まないまま生きてきた馬鹿な国語教師くらいのものでしょう。『荒野の奇跡』はそのように書かれた歌です。そのようにして書かれた歌なので、そのようにして読むしかありません。われわれはわれわれ自身の読解に集中しましょう。


◎下降、飛翔のためでなく

 コロス3を挟んで2番Aメロに入ると、『荒野の奇跡』の人称はますます破線になってゆきます。とくに2番サビ、 “誰もがいつの日か土へと還る/ならば今ここで奇跡を起こそう” と歌われる箇所では、有機体[mortal]であるはずの存在が “奇跡” を起こすのだと宣言されていて、もはや「語り部」と「天使」の区別さえ存在するのかどうか。しかしこの “奇跡” が「物」を示すこと=創造行為[create]を示しているのだとしたら脈絡はついています。『ドゥイノ・エレギー』において有機体[mortal]が「天(使)」を驚嘆させるための唯一の手段が創造行為[create]だったことは先ほど確認しました。

 しかし、詞の中では「天使」の領分にしか属さない営為があると歌われています。「雨」。コロス4では “やがて来る雲たちが 太陽を隠すとき 青いその羽根は散り/雨粒になるという” と、Cメロでは “どうしてでしょう 天使が何度雨を降らせても/大地はまた 渇いてく 鳥も花も君も” と歌われています。天に属する「天使」が地を這いつくばる有機体[mortal]に向けて雨を降らせる……という構図で考えたくなりますが、しかしわれわれは既にこの詞が「語り部」と「天使」との区別を破線にするように書かれていることを確認しました。だとすればその構図もおそらく有効ではない。別の見立てが必要となるでしょう。


・物-語(As above so below)*6

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 だしぬけですが、『Fantastic Ocean』のCD盤面デザインを見てみましょう。陰陽のようにも見えますが、もちろん空と海をモチーフにしたデザインです。
 ここで仮に、空を「A(bove)」・海を「B(elow)」と見立ててみましょう。地上に海が存在するのはもちろん重力があるからです。そうして溜まった水=海のはるか上には空がひらけている。太陽光で海から蒸発した水分が空に雨雲をつくり、空から地上へ雨を降らせる……と考えても、やはりここでは「A(bove)」と「B(elow)」との間で双方向性の営みがあることが示されている。上だったものが下になり、下だったものが上になり……延々と繰り返す営み。『荒野の奇跡』Cメロ後半の詞を引用します、 “天と地は知っている 太陽と月然り 愛しさは愛[かな]しさよ/終わらない物語” 。

 結論に近づいています。一挙に言いましょう、『荒野の奇跡』では「天使」と有機体[mortal]の区別が、 「A(bove)」と「B(elow)」の区別が結果として不可能になる、そういう営みが歌われていると。「天使」から有機体[mortal]へ向けて与えられるもの、それが「雨」です。降らせるためにはとうぜん重力が必要です。しかし何度「雨」を降らせても “大地はまた 渇いてく 鳥も花も君も” 。ここで “鳥も花も君も” と歌われているからには、「天使」にとっては人間も鳥も花も被造物[creature]=有機体[mortal]として平等に扱われていることになります。ではその “亡びることからして生きる物たち(ドゥイノ・エレギー第9歌)” が「天(使)」に対して「雨」の返済を行うには、「天使」を称讃する歌をうたうしかなくなる。 “誰もがいつの日か土へと還る/ならば今ここで奇跡を起こそう深く 緑が燃え/鳥は舞い踊り花は謳う 伝説のそう天使を讃え”。 『荒野の奇跡』の “奇跡” とは、「天(使)」に属さない地上の被造物[creature]=有機体[mortal]が歌によって返済を行うこと。その「天(使)」と被造物[creature]=有機体[mortal]との関係の端緒として贈り与えられたものが「(“抗えぬ力” =重力による)雨」だった、ということになります。

 よって、『荒野の奇跡』の詞の “物語” とは、辞書的な意味とは別のものとして理解しなければなりません。通俗的な意味での「ストーリー」「神話」「物語原型」などではなく、物の-語り、創造する被造物=有機体[mortal]の語り。 “物のことを天使に語れ” 。「天使」→有機体[mortal]→物 という一方向の関係が結果として逆転する返済の営み、その手段が「讃歌」だったということになります。


・幸福なものは下降する

 さて、われわれはリルケの視た「天使」の姿をたよりにここまで読解してきました。では、『ドゥイノ・エレギー』最終歌の最終部を引用しましょう。

 しかし彼らは、無限の境に入った死者たちはわれわれに、ただひとつの事の比喩を呼び覚まして往った。見るがよい、死者たちはおそらく、指差して見せたのだ、榛[はしばみ]の枯枝から垂れ下がる花穂を。あるいは雨のことを言っていたのだ、早春の黒い土壌に降る雨のことを。

 そしてわれわれは、上昇する幸福を思うわれわれは、おそらく心を揺り動かされ、そのあまり戸惑うばかりになるだろう━━幸福なものは下降する、と悟った時には。
『ドゥイノ・エレギー』第10歌 古井由吉訳



 幸福なものは下降する*7。ご存知の通り、『アイカツスターズ!』は飛翔ではなく下降を重んじたシリーズ作品です。第20話、如月ツバサは自らが一流の女優であることを証明するために崖からマットの上へ飛び降りました。それは落ちぶれた共演俳優を救済し、同時にかつての自分の憧れを返済するためでもありました。第62話、桜庭ローラは自らが如月ツバサのブランドを継ぐに値する人間であることを証明するためにバンジージャンプに踏み切りました。『アイカツスターズ!』では、もはや重力に抗うこと(=飛翔)は目指されていない。『アイカツ!』のように素手で崖を登ったり、星宮いちごのように「エンジェリー」な「超人」的な存在を必要とする作品ではないということです。『アイカツ!』は immortal ・『アイカツスターズ!』は mortal な世界であり、『アイカツスターズ!』は死に抗して生存を続けるための「賭け」を続けている作品として一貫している、ことについては以前書きました。だからこそ「飛翔」ではなく「下降」が重んじられるようになったわけです。それは第26話での白銀リリィ・二階堂ゆずのシーンを見ても明白です。体調不良で倒れる白銀リリィ、よりも先に倒れて下敷きになった二階堂ゆず。「倒れないようにするため」ではなく「より安全に倒れるようにするため」。ただ落下しないように、落下したとしても絶命だけはしないように。四ツ星学園はそういう mortal な存在がそこでしか歌えない歌を残してゆく、生存のための訓育の場所でした。そして白銀リリィに担われた『荒野の奇跡』に導かれて、われわれはここまで読解を進めてきました。“上昇する幸福を思うわれわれは” 、“抗えぬ力に寄り添いながら” 、 “下降” することの “幸福” を歌っている詩・詞を前にして戸惑うばかりです。しかし “いつの日か土へと還る” “亡びることからして生きる物たち” =有機体[mortal]でしかなし得ない、「A(bove)」と「B(elow)」の区別自体を無効とするダンスのほうへ少しでも近づけたのだとしたら、この比類ない名曲に礼を失することなく付き添うことができた、のかもしれません。







*1
 私はこの「命を削って〜」とかいう物言いをまったく好みません。それはそもそも歌っている人間に命が削れていない者はいないということもそうですが、『荒野の奇跡』および『アイカツスターズ!』はそういう劇的な姿にだらしなく感動して終わりにできるような安易な作品ではないからです。そうではなく、白銀リリィのようにステージの上で怪物的な存在が、ひとたびステージを降りればわれわれと同じように(さっきまで歌っていたその口で)ものを飲んだり食べたりしているという、その事実に驚くべきなのです。それに関してはこちら*で詳述しました。

*2
 コロスの構造がポピュラーミュージックに登場するのはさほど珍しいことではありません。 クイーンの『Good Old-Fashioned Lover Boy』は “Ooh love ooh loverboy” “Hey boy where do you get it from? Hey boy where did you go?” という冷やかしの声が入ります。あるいは『Bring The Noise』でチャックDを煽りまくるフレイヴァー・フレイヴは理想の音楽的コロスと言えるのではないでしょうか。「コロス」と「合いの手」がどう同じでどう違うのか、ということに関しては用語を厳密にすべきとは思いますが、しかし私はコロスの構造を最も上手く音楽的に生かしているのはブラックミュージック、とくにヒップホップではないかと思います。ここから複声によるコロス型楽曲とスリック・リックやエミネムのようないわゆる単声ストーリーテリング型との違いを考えることもできると思いますが割愛します。さらに言えば『Dreaming bird』はコード譜を読むと明らかにブラックミュージック(とくにブルース)の要素が色濃く残されており、『荒野の奇跡』にはコロスも採用されているということで、じつは白銀リリィが担う楽曲はとてもアジア・アフリカ・ギリシア的=非白人的要素を持っている、ブラックアテナミュージックの先鞭ではないかという件もあります。註で大風呂敷を広げすぎている気がしますが、これらは本稿で述べたことと直接関係があることです。

*3
 創世記 3:24

*4
 ここで唐突に有機体[mortal]が「天(使)」が創造したものとして定義されたことが訝しまれるかもしれませんが、これは『荒野の奇跡』の天使の営為(「雨」)を先取りしているためです。単純に、水分がなければ有機体[mortal]は絶命するしかありません。われわれは有機体=死すべき者[mortal]について話をしています。よって、ここで本稿内での「創造」は「生を定礎する」ことの意味を帯びてきているのでしょう。『ドゥイノ・エレギー』第9歌で “目には見えぬ心の内で物たちを完全に変化させ” ることが “われわれの務め” と歌われていたことを思い出しましょう。ここで「天使→有機体[mortal]→物」をめぐる一連の「生を定礎する」流れを見いだすことは可能です。「天使」は雨を降らせることで有機体[mortal]の生を定礎する。有機体[mortal]は “世代から世代へわたって形造られ、われわれの所産として、手もとに眼の内に生きるもの” をつくることで「物」の生を定礎する。しかし有機体[mortal] が「天使」を驚嘆させるためにはそもそも被造物[creature]である有機体[mortal]がつくった被造物[creature]である「物」を示すことが必要であり……という、単に一方向ではない、或る双方向性の営みがあると言い当てるための理路がここで進行しています。これについては「・物-語(As above so below)」の項で詳述されます。

*5 話者の融解に関する註
*1番Bメロ以外にも、話者が融解している箇所は存在します。最後サビの一節を読んでみましょう。
“いつかめぐり会うあなたを夢見る天使 わたしは歌う”
 この箇所は、どこで文意を区切るかによって話者が「天使」・「語り部」のどちらにも変わってしまいます。

⑴「いつかめぐり会うあなたを夢見る天使 /  わたしは歌う」
 と区切れば、「いつかめぐり会うあなた(わたし以外の誰か:二人称)を夢見る天使(三人称)、わたし(一人称)は歌う」、一文の中に人称がみっつ存在していることになります。もし「天使」の後に(よ)がついていたとしたら、「いつかめぐり会う『あなた』を夢見ている天使よ、わたしは歌う」となります。「天使よ、わたしがその『あなた』なのだ」とばかりに声を上げているわけです。しかし、詞では単に「天使」と体言止めになっているので、同時に他の解釈も可能になっている。

⑵「いつかめぐり会うあなたを夢見る / 天使 /  わたしは歌う」
 さらに区切ることもできます。「いつかめぐり会うあなたを夢見る」の直前の詞は「それでも羽ばたいてわたしは生きる」なので、「わたしは生きる」・「あなたを夢見る」で対句になっていると解釈するのも自然です。とすると、「(わたしは)いつかめぐり会うあなた(=天使)を夢見る、天使よ、わたしは歌う」となり、やはり「わたし」から「天使」への呼びかけだと解することができます。しかし、

⑶「いつかめぐり会うあなたを夢見る天使  わたしは歌う」
 一切区切らないとしてもこの詞は読めてしまうのです。つまり「いつかめぐり会うあなたを夢見る天使=わたしは歌う」。「わたし」から「天使」への呼びかけではなく、「(いつかめぐり会うあなたを夢見るあまりに)天使であるこのわたしが歌う」。先述した通り、直前に “傷ついた翼をふるわせながら/それでも羽ばたいてわたしは生きる” と「話者=天使」らしき描写が入っているので、このように解釈することも成り立ってしまう。

 このように、「わたし(一人称)」「あなた(二人称)」「天使(三人称)」それぞれの人称がまったく確定性を持っていない、もっと言えばそれぞれの人称が交換可能なものとして書かれているのが『荒野の奇跡』なのです。「あなた」は「わたし」なのかもしれないし、「あなた」は「天使」なのかもしれないし、「わたし」は「あなたを夢見る天使」なのかもしれない。
 気をつけてください、「自分と他者の区別がついていない」状態は精神病の症状に極めて近いということに(極めて近いと言ったのであって全く同じだと言ったのではありません)。おそらく『荒野の奇跡』の話者が陥っているのはそういう精神状態なのでしょうし、それを読むわれわれもその影響から無縁ではいられません。しかしそのように書かれている詞である以上、そのように読むしかありません。

 また、この註で述べたような「私(Ich)」から「君(Du)」へ投げかけられる詩と精神病・暴力との関連性を論じた小説作品に『晰子の君の諸問題(著:佐々木中)』があります。

*6
“As above so below” は Tool の名曲『Lateralus』に引用されていたりホラー映画のタイトルになっていたりしますが、出典はなんかヘルメスどうたらとかいう錬金術モノのやつらしいです(原文に当たってないので知りません)。日本語訳らしきものをここで読むことができますが、正直に言うとこの文書には「奇跡(奇蹟)」「太陽」「月」「大地」「風」など『荒野の奇跡』の主要モチーフが多く登場するので、作詞家 tzk が参照したのであろう文献としては『ドゥイノ・エレギー』より先にこっちを提示するべきなのかもしれません。しかしそうしませんでした。なぜなら私は “太陽がその父であり 月がその母である” とかいう安易なシンボリズムが大嫌いだからです。

 また、『アイカツスターズ!』第59話には、この「A(bove)」・「B(elow)」の関係そのもののような場面が登場します。
 自分のブランドに星のツバサを降ろすためのアイデアが浮かばない虹野ゆめ。台詞を引用します、 “まるで、深い海の底、デザインが魚みたいに泳いでて。一生懸命釣り上げようとしてるのに、全然無理って感じ” 。そこで親友である七倉小春が気分転換のために魚釣りを提案する。釣った魚を料理して食べたのち、七倉は(飛んだ帽子をキャッチしようとして)海に転落し、足首に怪我を負ってしまいます。結果として虹野は七倉のお見舞いの途中でデザインを着想する。 “海の底” にあるものが釣り上げられないと言っていた虹野が、実際に海へと転落してしまった親友のおかげで結果的に創造へと引き揚げられる。この一連のシーンで「下降」と「上昇」(海へと転落するシーンの対比として、虹野・七倉が病院の屋上で会話するシーンがある)、そして「mortality(可傷性・可死性)」などの要素が出揃っていること、これら全ての要素が直接「創造」へとつながっていることは絶対に見逃すべきではないと思います。が、これらの描写について理路づけるためにはすくなくとも『スターズ!』2年目の放送が終わるまで待たなければ拙速になると思うので、ここでは詳述しません。

 また、『アイカツスターズ!』1年目は「贈与」と「返済」の営みを執拗に描いた作品でした。しかもその方法が「歌」と「食べ物」なのです。これについて詳述するには稿を改めなければならないので、ここでは以前書いた拙稿を引用しておくにとどめます*



*7
 本稿で引用した『ドゥイノ・エレギー』の翻訳者である古井由吉さん本人が「下降」および「上昇」について言及している文があります。引用しましょう。

 人間を個人の観点から見ると、たしかに年を取るということは下降です。であるけれど、個人がひとりでものを書いているわけではないんですよ。無数の人間のもやもやを相手にしているわけだから。この無数のもやもやは、年を取らないんですよ。

 下降と上昇はどこか似ているところがある。ある下降のポイントがきわめて上昇に似ている。大病をしたことがあるんですが、だんだん症状が進んでいくでしょう。全身に衰えが出ます。でもその時の感情はたとえば思春期の感情によく似ているんです。上昇と下降というのはひとりの人間のなかに絶えず同時にあるんじゃないかな。僕の小説の舞台はその交差点ですね。*7-1


 加えて、その古井由吉さんの翻訳による『ドゥイノ・エレギー』第9歌から引用します。

 このとおり、わたしは生きている。何処から来る命か。幼年期も未来も細くはならない。数知れぬ人生が心の内に湧き出る。


 この “幼年期も未来も細くはならない” “心のうちに涌き出る” “数知れぬ人生” が古井氏の言う “年を取らない” “無数の人間のもやもや” と同じものなのか、および “ひとりの人間のなかに絶えず同時にある” “上昇と下降” が本稿で述べた「A(bove)」と「B(elow)」のダンスと同じものであるかどうかは、読者の皆さんの判断に委ねます。

*7-1「四〇年の試行と思考」『この熾烈なる無力を』河出書房新社刊 219P