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アイカツスターズ!『未来トランジット』混血訳

本稿は、3月末に投稿予定の電子書籍『やばいくらい -アイカツスターズ!読解集成-』に収録される予定です。


 Aikatsu Stars! Wiki という、英語圏のデータベースサイトがあります。更新がやたら速い、項目がやたら細かいブラックスターのページまである)などの特徴がありますが、特筆すべきは楽曲それぞれに英訳詞が付けられていることです。訳詞者の名前は明記されていないのでおそらく不特定多数の編集者による訳業だと思いますが、これがなかなか良いのです。「丁寧に訳せている」という意味ではありません。本来の日本語詞とこちらの英訳詞を読み比べることで、思いもしなかった綾が楽曲に添えられる余地があるという意味です。
 ですので、ここでは Aikatsu Stars! Wiki に掲載されている『未来トランジット』の英訳詞をもう一度日本語詞に訳す試みをしてみようと思います。「なんでそんなことするの?」と問われたら勿論「楽しいから」と答えますが、もうひとつ理由があります。『未来トランジット』、母国語でも外国語でもない異形の言葉を話す人への成り行きを描いたこの歌詞* は、英訳詞をさらに日本語詞に訳すこと(=混血訳)によって新たなマジックが生まれてしまう確率が高いからです。いかなるマジックか? それは訳し終えてみなければわかりません。

 以下、只野菜摘によるオリジナルの歌詞を日本語詞と呼び、引用箇所は〔〕でくくります。Aikatsu Stars! Wiki に掲載されている訳を英訳詞と呼び、 “” でくくり、この英訳を手がけた人物を指して英訳者と仮称します。そして今から再び日本語詞に訳し直すこの原稿を混血訳・もしくは本稿と呼び、「」でくくります。ややこしいですが、このややこしさを失ったら混血訳のマジックもすべて失われてしまうでしょう。


Future Transit Full Ver. Lyrics(taken from Aikatsu Stars! Wiki)

fteng.png
(1/15/2018閲覧)


◎1番サビ前半:チャンスと落下
 全訳文は本稿の最後に掲載しますので、まずは英訳詞のサビ部分を先に読んでいくことにします。

As countless opportunities rain down from above
I won't shield myself from a single one
No matter how incredible everyone else is
When I'm in a pinch and my wings are about to break
There is one phrase you have to learn
take off and fly away and go ahead
On the transit to my future



〔これからめぐり逢うチャンスたちに/私は絶対 ひるまないよ/どんなにすごい人たちがいるの〕は “As countless opportunities rain down from above / I won't shield myself from a single one / No matter how incredible everyone else is” と訳されています。注目すべきは、〔これからめぐり逢うチャンスたち〕が “countless opportunities rain down from above” 、天から降り注いでくるものとされていることです。直訳すれば「雨あられと降り注ぐ数え切れないほどのチャンスたち」となるでしょうか。もとの日本語詞〔これからめぐり逢う〕から連想されるのは、たとえば道を歩いている途中でばったり逢う、水平方向の〔チャンス〕の移動ですが、英訳詞では “rain down from above” なので “countless opportunities” は垂直に落下するものになっているわけです。
 ここで「ああ、やっぱり英語はピューリタンランゲージだから垂直方向で、日本語は水平方向なんだなあ」と軽率に図式化するのは避けましょう。なぜなら、〔チャンス〕は語源からして落下と関係がある言葉だからです。chance(英・仏どちらも同じ綴り)の語源は俗ラテン語の cadentia(古典ラテン語の cadere[落ちる]の現在分詞中性複数形が女性単数名詞化した形)で、もともと落下の意味が含まれているのです。よって英訳詞で〔チャンス〕が “rain down from above” なものとして訳されているのは、語源的に正確ということになります。
「いや、でも」と読者は指摘するでしょう。「でも、その〔チャンス〕は “opportunities” って訳されてるじゃん!?」と。そうです。そこです。そこが重要なのです。もともと落下の意味を含んでいる〔チャンス〕が “opportunities” と変換されているのにもかかわらず詞の内容は落下のモチーフを押さえている、このチグハグさ。複数の言語をまたいで織りなされる意味の重層性こそが混血訳の本領と言えるのです。これは単一の言語のみでは絶対に不可能なことです。この重層性が『未来トランジット』の旅路と響き合う瞬間に、我々はこれから何度も立ち会うことになるでしょう。その瞬間をひとつでも多く目撃し、その結果として訳稿を獲得するための試みが本稿です。

 先走りが過ぎました。英訳詞を丁寧に読んでゆきましょう。 “I won't shield myself from a single one” 。“countless opportunities rain down from above” から “shield myself” しないと宣言されていますが、 “shield myself” をどう訳すべきか。直訳すれば「自分を護る」ですが、意訳すれば「傘をさす」とも訳せるでしょう(『Message of a Rainbow』と接続したければこの訳し方もアリかもしれません)。動詞 “shield” は名詞 “shell” を連想させるので「殻にこもる」でもいいのかもしれません。では、いくつか試訳を作ってみましょうか。

[1]雨あられと降り注ぐ数え切れないほどのチャンスたちから/わたしは自分を護ることは(もう)しないよ
 かなり鈍重ですね。前センテンスを直訳のまま使っているのもあるでしょうが、やはり主述的(わたしは・自分を・護る)なのが良くないのかもしれません。ちょっと剪定してみましょう。まず前センテンスを「雨あられと降り注ぐ好機たちの下で」と訳し直します。〔チャンス〕→ “opportunities” →「好機」と訳すことでさらに混血性が増し、「好機たちの下で」とすることで “rain down from above” のニュアンスも含意されるでしょう。(『アイカツスターズ!』におけるA(bove)とB(elow)の特異な関係についてはこちら* を参照ください。)

[1-1]雨あられと降り注ぐ好機たちの下で/護ったままでいるのは(もう)やめにするよ
 刈り込みましたが、まだ鈍重でうまく繋がっていません。「護」が良くないのでしょう。

[2]雨あられと降り注ぐ好機たちの下で/傘をさすのは(もう)やめにするよ
 これにしても主述(わたしが・傘を・さす)のにおいが消えないので不採用です。やはり “shield myself” がくせものです。「殻にこもる」のセンでいきますか。よりスマートに「防ぐ」としたいところですが、ここはひとつ飛躍して「鬱[ふさ]ぐ」としましょう。「防ぐ」と発音が似ていますし、「護る」「防ぐ」などの「〜から」を要求する動詞ではない、詞中の「わたし」の内面で完結した心の機微の描写として有効だと思われるからです。

[3]雨あられと降り注ぐ好機たちの下で/鬱いだままでいるのは(もう)やめにするよ
 良いのではないでしょうか。 “I won’t” に込められた諦観と背中合わせの覚悟も活かせている気がします。続く “No matter how incredible everyone else is” を含めると、

[3-1]雨あられと降り注ぐ好機たちの下で/鬱いだままでいるのは(もう)やめにするよ/どんなに優れた誰かがいようとも
 となるでしょう。とりあえずこの試訳をOKテイクとしましょう。

 ここまで訳して、この「雨あられと降り注ぐ好機たちに撃たれていたけれど・自分よりもっと優れた人が立っているのを知って・鬱ぐのをやめた」人物って七倉小春の存在そのものじゃん、ということになります。『未来トランジット』(および『Summer Tears Diary』)が凄まじいのは、小春・真昼・夜空いずれの人物のテーマソングとしても成立してしまうことにありますが、この混血訳の「わたし」はいかなる人物に成り果ててゆくのでしょうか。続けましょう。


◎1番サビ後半:ひとふしの歌
“When I'm in a pinch and my wings are about to break / There is one phrase you have to learn”
〔翼が折れそうなピンチにさえ/学ぶことはあるはずよ〕の英訳がこれですが、〔あるはず〕のニュアンスが消えていますね。 “There is one phrase you have to learn” 、〔学ぶこと〕= “phrase you have to learn” があるんだと断言されていて、曖昧さが拒絶されています。なんというか、be動詞の強[あなが]ちさの為せる業ですね。
 それよりもまず、〔こと〕が “phrase” と訳されていることに注意しましょう。〔学ぶことはあるはずよ〕の〔こと〕が “thing” でも “matter” でもなく “phrase” 、「句」として訳されているわけなので、ここには明確に「言葉にして言うこと」のニュアンスがあります。さらに次のセンテンス “take off and fly away and go ahead” も踏まえると、ここで “There is one phrase you have to learn” と断言されている “one phrase” が “take off and fly away and go ahead” の一節なのではないか、と解釈できます。詞中の「わたし」が旅の途中で〔翼が折れそうな〕その瞬間に学び取った句なので、この “one phrase” を「ひとふしの歌」とし、 “one phrase you have to learn” まで含めて訳してみましょう。

[1]翼が折れそうなその瞬間に/学ぶべきひとふしの歌がある
 カタいなあ。「べき」がダメなんでしょうね。「べき」は「可き(can be)」でもあるので、これを使ってしまうとbe動詞の強[あなが]ちさが薄まってしまいます。ここは、

[1-1]翼が折れそうなその瞬間に/ひとふしの歌が宿っているから
 としましょう。「宿っている」ならbe動詞の「ある」のニュアンス、受胎のニュアンスが含意できると思います。語尾に「から」をつけたのは直後の “take off and fly away and go ahead” への接続をスムーズにするためです。この “take off and fly away and go ahead” は『未来トランジット』を愛聴する人々にとって聖句のようなものなので、英語詞のまま訳さず残しておきましょう。末尾の “On the transit to my future” は「未来行きのトランジットにて」としましょうか。本来の日本語詞〔未来の途中 トランジット〕は曲名『未来トランジット』と同じ固有名詞としての意味で使われているのは明白ですが、本稿ではあえて「トランジット」を一般名詞化し、さらに「未来行きのトランジットにて」という地理的・日時的情報として、詞中の「わたし」のペンによる遺書(suicide note ではなく、文字通り「書き遺されたもの」の意。空港のロビーに遺されたメモ書き、ホテルの一室に遺された落書き、ゴミ箱の中のレシートの裏に遺された走り書きなども含む、つまり「生の痕跡」全般)としておきます。なぜそう解釈するのかは、2番サビを検討してはじめて明らかになるでしょう。


◎2番サビ:ふたつの運動
 さあ、『未来トランジット』の2番サビ、ただのお気楽な観光客の歌だと思っていたところに突如として「二重の異邦人」の姿が浮かび上がる、CD発売当時にすさまじい当惑と驚愕と雀躍を巻き起こした、現存する作詞家の中で最大の知性である只野菜摘の本領が遺憾なく発揮されたあの恐ろしすぎる一節を、英訳者はどう訳したのか。注意深く見てゆきましょう。

Sometimes I feel like I ma just playing the role of a traveler
However, I'm quite happy to play that role
Some day, love will come your way
My friend and promise and good luck
On the transit to move forward



 真っ先に片付けなきゃならないのは “I ma” って何、ってことですね。仮説を立てるなら、
[1]I might (be) の口語的省略形
[2]I am (I’m) の誤記
 のいずれかでしょう。[1]で訳すとすれば、

[1]時々 わたしは旅人を演じてるだけなのかもしれないと感じる
 ですが、鈍重ですね。[2]のほうがスマートでしょう。しかし、ここで誤記が出てくることを逆手に取りたいと思います。前稿* で詳述しましたが、『未来トランジット』2番で明らかにされるのはもはや母国語でもない外国語でもない言語を話す人への成り行きです。ここで “I ma” という言いまつがいが出てくるのはむしろ望ましいのです。よって、英訳詞の “I ma” に相当する部分を「わあtしは」と訳しましょう。英訳詞でまつがっているわけだから、混血訳でも言いまつがわなければなりません。

[2]時々 わあtしは旅人を演じてるだけだって思う

 次の行 “However, I'm quite happy to play that role” ではさほど日本語詞の意味を外れてはいません。飛ばしましょう。

 注目すべきは次の一行です。 “Some day, love will come your way” 。〔いつかはめぐり逢う恋でさえも/きみには絶対 かくさない〕の二行がたった一行で訳されてしまっているのです。もしかすると “Some day, love will come your way” の前後にもう一行あったのにうっかり消してしまったのでしょうか。それとも訳す途中で疲れてしまったのでしょうか。どちらでもありそうなことですが、まずは英訳詞がこの一行で訳されている事実に向き合いましょう。

“love will come your way” ということは、詞中の「わたし」から「あなた」へ(日本語詞では〔私〕から〔きみ〕へ)と差し向けられたのが「愛」だということになります。おそらく手紙💌でしょう。この英訳詞は、サビそのものが “I” から “you” への一方的な文通の内容として書かれているのかもしれません。
 とすれば、この詞にはまずひとつの運動が見出されます。「わたし」が「あなた」へと「愛」を送る、一方的に恋文が配達される運動(“love will come your way”)です。
 しかし、もうひとつ別の運動があります。詞中の「わたし」が旅を続ける途中で、母国語でもない外国語でもない言語を話す人に成ってゆく運動。「わたし」から「あなた」へと「愛」が送られる “your way” とは別の方向、「わたし」が母国語と外国語の両方を失ってゆく消尽の軌道があるということです。2番サビ冒頭 “I ma(わあtし)” の言いまつがいは、旅人がその生成途中にあることを印象付けます。よって、

[2-1]時々 わあtしは旅人を演じてるだけだって思う/でも 喜んで演じ切るつもりだよ/いつの日か 愛があなたを訪うでしょう/“my friend and promise and good luck”/進み続けるためのトランジットにて

 と訳されます。ここで1番サビ「未来行きのトランジットにて」と2番サビ「進み続けるためのトランジットにて」のふたつの地点が記されることにより、前述の消尽への軌道が線として浮かび上がります。「未来行きのトランジット→進み続けるためのトランジット」へと乗り継いでゆく「わたし→わあtし」は、どんどん自分の言語を見失ってゆく。その通過点で書き残された「愛」の手紙が「あなた」へと一方的に配達される出来事、「わたし→あなた」への軌道と「わたし→わあtし」の消尽の軌道がふたつ存在していて、その両方の運動の結果として浮かび上がるのがこの『未来トランジット』混血訳なのかもしれない、ということです。


lovewillcomeyourway.png



◎落ちサビ:主語の消滅
〔離れていたはずの空白や 距離や地図の壁もこえて/一瞬でわかりあえるような気がした〕の英訳は、 “Travel through thee blank space of the map / and overcome that wall” 。
 全然意味違ってるじゃん、と突っ込むのは野暮です。〔一瞬でわかりあえるような気がした〕の意味が消えてますし、なぜか “thee” が出てきますし、訳してる途中で疲れて眠くなっちゃった感じが伝わってきます。しかし、これさえも混血訳にとっては何ら瑕疵になりません。
 まず “thee” は “the” の誤記と見なすべきでしょう。ミッシェルガンエレファントのあれと同じです。(ただ、この thee を文字通り thou の目的格ととらえてもそれはそれで味わい深い訳文が引き出せるのですが、それは全訳文の註に書いておきます。)英訳詞では改行されていますが “and” で接続されているので二行でひとつのセンテンスと見なすべきでしょう。が、 “travel” “overcome” いずれも動詞が文頭についているので、[1]命令形の二連続として訳すこともできます。

[1]地図の空白を旅せよ、そして壁を超えろ
 超訳ニーチェかよって感じですね。品がないし最低です。こんな安易な人生訓めいた定言命法にしてしまえば全部台無しになってしまうでしょう。(逆に、『スタージェット!』の歌詞は定言命法による強ちさと本編で描かれていることの多層性がぶつかることで奇跡的なマリアージュが奏でられているのですが、それは関係ないので省略します。)
 ここはやはり命令形でなく、[2] “travel” “overcome” いずれも主語 “I” が省略されているものとして読むべきでしょう。“(I) travel through the blank space of the map / and (I) overcome that wall” 。主語の省略は英語のリリックではふつうに使われる、むしろ使われていないリリックを探す方が難しいくらいなので、順当です。
 しかし。我々は2番のサビで、詞中の「わあtし」が今まさに消尽の軌道にあることを確認しました。どんどん自分の言語を見失ってゆく最中にいるのがこの詞の旅人であると。だとすれば、この落ちサビでの主語の省略(消滅)は、もはや旅人が「わあtし」ですらなくなってしまった、自分を呼ぶための言葉すら消し飛ばしてしまったことを意味するのでは。もはや主語を必要としなくなった人の、誰へと投げかけられているのかもわからない囁きのような一文。それを歌として聴いてしまう瞬間が “(I) travel through the blank space of the map / and (I) overcome that wall” だとしたら。ほとんど心霊映画じゃねえかと言いたくなりますが、しかし『未来トランジット』が母国語でも外国語でもない「二重の異邦人」への成り行きを歌っていた以上、このギミックも正当なものだと言えます。よって、

[2]地図の空隙を旅巡り/壁を越えまた過ぎ行く
 と主語を省略して訳すべきでしょう。この詞の旅人はもはや人間ですらないのかもしれません。風や砂、大気……そういったもの。そんな存在が誰に投げかけたわけでもない囁きを聴きとるための唯一の方法、それが歌であり、その翻訳だった、のでしょうか。






◎『未来トランジット』混血訳 全文
 以下に全文を掲載します。訳註もあわせてご参照ください。


“take off and fly away and go ahead”
 未来行きのトランジットにて

 あなたの旅路に幸がありますように *1
 チャージのための時間 割いてくれてありがとう *2
 ソファーの上 優しい言葉で 満たしてくれた *3

 今は ひとつの場所に留まりたくないの
 わたしなしの時間が これからも流れ続けるでしょう *4

 わあ この星たち なんて綺麗なの
 見たこともない世界へと 夢を運んでくれそうじゃない? *5

 雨あられと降り注ぐ好機たちの下で
 鬱いだままでいるのは もうやめにするよ *6
 どんなに優れた誰かがいようとも
 翼が折れそうなその瞬間に
 ひとふしの歌が宿っているから *7
“take off and fly away and go ahead”
 未来行きのトランジットにて

 見よう見まねだとしても 自分の田んぼに立つしかないね
 ほんと恥ずかしがりだけど 笑顔で伝えるしか *8

 想像よりも苦いコーヒー 甘い甘味 *9
 いるんだよ この暑い異国の土地に *10

 刺激的な写真 きっとお狂ね
 街々と そこで暮らす人々の *11

 時々 わあtしは旅人を演じてるだけだって思う
 でも 喜んで演じ切るつもりだよ
 いつの日か 愛があなたを訪うでしょう
“my fiend and promiser and good luck” *12
 進み続けるためのトランジットにて

 地図の空隙を旅巡り
 壁を越えまた過ぎ行く *13

 雨あられと降り注ぐ好機たちの下で
 鬱いだままでいるのは もうやめにするよ
 どんなに優れた誰かがいようとも
 翼が折れそうなその瞬間に
 ひとふしの歌が宿っているから
“take off and fly away and go ahead”
 未来行きのトランジットにて
 進み続けるためのトランジットにて




訳註

*1 “I wave my hand in your direction”
 “your direction” を重んじた結果の意訳です。「わたし」はこれから消尽への軌道に乗るわけですが、「あなた」にも自分の行き先があるということです。さしずめ「わたし」は(別の便の)乗客・「あなた」は(別の便の)操縦士でしょうか。この飛行機モチーフは*2 との関連でも重要になります。

*2 “Thank you for taking your time to pay your charge”
 日本語詞は〔チャージのための時間ありがとう〕ですが、ここでは
[1]わたしが(元気を)チャージするための時間を共有してくれてありがとう
[2]あなたが(燃料を)チャージするための時間を犠牲にしてまで一緒にいてくれてありがとう
 の異なる読みが可能となります。英訳者は[2]を採ったようです。この場合、「あなた」が自分自身の行路のための燃料補充を犠牲にして「わたし」に付き合ってくれたことを感謝しているわけです。とはいっても、この[1]と[2]を区別することにさほどの意味はないのでしょう。「あなた」が自分自身の〔チャージ〕ではなく「わたし」への(燃料の)シェアを優先してくれたことへの意識の比重が異なっているだけです。
 だしぬけですが、Creamの『Sunshine of your Love』の歌詞を引用します。 “I'll stay with you till my seas are all dried up”*2-1 、「海が涸れ果てるまできみを愛そう」。*2 はこの一節を念頭に置いて訳しました。つまり「あなた」と「わたし」との間に明確に性愛行為の実践があったということです。『Sunshine of your Love』では “seas” が愛の行為で消費されていますが、『未来トランジット』混血訳では〔チャージ〕“charge” で行き来している何か(燃料、と仮にしておきましょうか。いずれにせよ液体です)が愛の行為にかかわっています。相手が異性でも同性でも、愛の行為には多少なりとも体液の漏出(涙も含む)を伴うので、これによって詞中の「あなた」と「わたし」の性別が固定されることはありません。大事なことを書き忘れていましたが、混血訳の文体は只野菜摘の調子をなんとなくなぞっているだけで、とくに性別の固定は意識していません。詞中の旅人は最終的に人間ですらなくなっていくわけなので、些細な問題です。

*2-1 “seas” ではなく “seeds” だとする説もあります。おそらくはこちらが正しいのでしょう(60年代ですし、ヒステリックな検閲を避けるために文字上で誤魔化したのだと思います)。

*3 直接的な描写を交えずに旅立ち前の「あなた」と「わたし」の関係を示唆しなければならないので難儀しました。目敏い・耳聡い読み手なら「絶対なんかあったよね? この2人」と嗅ぎつけてくれる程度にエロスを薄めた結果です。

*4 “Time keeps flowing without me even after I set off”
 “even after I set off” のニュアンスを省略し、“Time keeps flowing without me” のほうを強調しました。〔飛びたったあと〕にそれぞれ別の軌道に入る「あなた」と「わたし」との関係を強調しておくためです。

*5 “It's as if they'll carry my dreams to a world I've never seen”
 “as if” のニュアンスを重要視しました。日本語詞は〔夢を運んで〕と切っているので “won’t you carry my dreams~” のようにも訳せたと思いますが、 “as if” がついているわけなので、ここでは「運んでくれそう」とあくまで予感のニュアンスにとどめましょう。
 *4 との関連ですが、詞中の旅人にとっての “a world I've never seen” とは “Time keeps flowing without me” の結果によるもので、サボって時間を過ぎ行かせた結果(just like『言の葉の庭』)として縁が切れた世界のことを謂っているのかもしれません。ということは、もはや祖国にさえ居場所が無くなっていて、地に張るための根が腐り果てたという自覚が旅人を流謫へと導いたのかもしれません。『未来トランジット』がまごうことなき異邦人[エイリアン]*5-1 の歌であることが実感されます。

*5-1 『スターズ!』は2年目から異邦人[エイリアン]との交流(just like Star Trek:TNG)に入るわけですが、『未来トランジット』での異邦人[エイリアン]の姿が騎咲* や双葉*5-2 に代表される混血的人物の先触れになっていたことに今更気づきました。いかに『スターズ!』が初期から現在まで一貫しているかが実感されます。

*5-2 本論とは直接関係ないことを書きますが(というか註に関係ないことを書いている時が一番楽しいのですが)、双葉アリアは木星のツバサの持ち主ですね。木星との関連を意味する接頭辞 “zeno-” は、「異人の」を意味する接頭辞 “xeno-” とほぼ同じ発音です。「だから何?」と問われたら「別に」と答えますが、本稿の読者のなかには「双葉アリアが Zenomorph のエイリアン!!???? マジで!!!!!!??!?!!??!!!」*5-3 とガンアガりしている人が2、3人ほど存在しているはずです。

*5-3 本論とはもう完全に関係ないのですが、『エイリアン:コヴェナント』を観て以来ずっとキリンジの『エイリアンズ』がデヴィッド×ウォルターのテーマソングになっていたのですが、AS!ep82の後ではさらに双葉×虹野の脈絡まで加わってしまいました。今こそ『エイリアンズ』の一節を引用した同人誌なんかが盛んに描かれるべきだと思います。

*6「もうやめるよ」に相当する語(no more など)は含まれていませんが、「長いこと雨に撃たれていた人(≒七倉)が・自分の隣に立っていた優れた人(≒虹野)の存在に気づき・鬱いだままでいるのをやめた」というフロウで認識しているので、こう訳しました。「わあ この星たち〜」で天空に視点を移した直後に「雨あられと降る好機たち」が歌われるので、視点のフロウも良くできているなあ。雨(垂直方向)から優れた人(水平方向)へとスムーズにy, x軸の視点が動くのも絶妙だと思います。

*7「ひとふし」は是非ともひらがなで記されるべきでしょう。逆から読むと「しふとひ=しぶとい」となります。「翼が折れそうだけど、絶対に折れてやらねーぞこの野郎」ということですね。これは『スターズ!』1年目の登場人物全員に共通しているクリードです。ああもうなんてかっこいい人間たちなんだ。最高です。

*8 “Even though I want used to it, I summoned up my courage and told you how I feel”
「勇気を出して気持ち伝えた」と訳そうかなと思ったのですが、日本語詞と同じように訳してなんの意味がある? と思い、文脈を完全に無視して「自分の田んぼに立つしかないね」を挿入しました。このパラグラフは「笑顔で伝える」ことに行き着くので、文字上に顔のパーツを鏤めてみようと思ったのです。ふたつの「見」は眼球を意味し、「自分の田んぼに立つ」は 自+田+立つ(廾)=鼻を意味し、「恥ずかしがり」の偏は耳を意味します。しかし口はありません。詞中の旅人はこれからどんどん言語を失っていくわけなので、口がないほうが望ましいのです。
 もちろん「自分の田んぼに立つ」は『カンディード』を念頭にしていますが、ここで唐突に「田んぼ」が出てくることで(日本語詞では南米・中欧あたりだろうと思われた)舞台が東南アジアあたりにも拡大されます。明確に『バンコクナイツ』からの影響が認められますが、それで全然かまわないでしょう。「雨」で「庭」で「骨身に沁みる」詞なのでオアシス『Live Forever』つながりでアイリッシュとも混血できないかなと思ったのですが、あっちは “In the morning rain, as it soaks you to the bone” なので「暑い異国の土地」とは相容れないかもしれません。タイの田園地帯も冬は冷えるでしょうけども。

*9 「甘い甘味」は重複表現なので、整理された訳文を心がけるのなら避けたほうがいいに決まっていますが、英語詞が “sweeter sweets” なのであえてこう訳しました。詞中の「わたし」はこれから「わあtし」に成ってゆくわけなので、ここでたどたどしい言語を話しているのも伏線として成立するでしょう。

*10 “Exist in this hot, foreign country”
 ここでも主語(I)が省略されているので、「いる」のは「わたし」ではなくむしろその周囲にあるもの(「コーヒー」、「甘味」)だというニュアンスが出せればいいと思いました。これは*11 の「写真」に「わたし」が一切写っていない件とも直接噛み合っています。

*11 “Of course ill send you stimulating pictures / of the towns and people here”
 I’ll のアポストロフィが省略されているので ill(病んでる)とも読めます。これはぜひ活かすべきだと思い、「送るね」を「お狂ね」としました。直前のセンテンスが「いる(ill)んだよ」で始まってもいるので、問題なく伝わるでしょう。

*12 もうここまできたらこれくらいやっとくべきじゃないか? と思い、“friend” を「fiend」に、“promise” を「promiser」にしました。直訳すれば「わたしの悪魔にして証人にして幸運」となるでしょうか。詞中の旅人が行くことになるのは明らかに魔物道なので、ここで悪魔と契約させておくのも悪くないでしょう。幸運=chance が語源的に落下の意味を持っていることについては本論で述べました。“The R” を動かして “fiend” を生成する発想は、もちろんラキムリスペクトです。

*13 “thee” を誤記と見なさず “Travel through thee blank space of the map / and overcome that wall” に忠実に訳すとすれば、「汝に地図の空隙を旅し/壁を越えてゆく」となります。もちろん性愛行為の隠喩として訳しています。ここでは “you” ではなく “thee” なので、「あなた」ではない「汝」との愛、消尽のさなかでの「地図の空隙」との交接を意味しているのでしょう。人ではなく土地を対象とした性的関係。騎咲レイがあれほどまでに混血的な存在になった* のも、この性愛行為を経た結果なのでしょう。マイケル・ジャクソンが最終的に行き着いたのが人類ではなく植物への愛(『Earth Song』)だったことも思い出されます。







 あくまで詞の内容に忠実に訳してきましたが、もはや英訳詞とも日本語詞ともまったく異なる歌詞になりました。『未来トランジット』、母国語にも外国語にも安らぐことができない旅人の生成変化を歌ったこの詞は、原文→英訳→混血訳の過程を経てさらなる流謫へと辷[すべ]って行ったようです。訳し終わったあとでは、もはやその背中を想うことしかできません。
 翻訳[translation]が新たな意味への移り変わり[transit]であり同時に原文への裏切り[traitor]でもあるような、意味を見失わないよう専心したのにいつの間にか何かが消えてしまう一方で新しい意味が生まれてしまう、読み間違えることと真摯に読むことが矛盾せず同時進行するような、訳し損なうことがその詞に対する誠心誠意の批評になるような、そんな読み方があるのかもしれません。初期から一貫して「まったく異質な存在との関係」を描き続けている『アイカツスターズ!』だからこそ、この混血訳は可能だったのでしょう。(逆に言えば、前作『アイカツ!』の歌詞で同じことをやっても何の成果も挙げられないでしょう。天皇家に外国人を嫁がせるようなものです。)

 さて、本稿は『未来トランジット』を混血訳する試みでしたが、Aikatsu Stars! Wiki にはもっと多くの英訳詞があるので、いくらでも多くのバリエーションを生み出すことができます。とくに『荒野の奇跡』(“And one day I will meet you, the angel of dreams, now I sing” の訳し方は百人中百人異なったものになるでしょう)『裸足のルネサンス』(ちゃんと thee と thy で訳されてるし、 head held high の頭韻が超カッコいい)は訳しようによってはかなり凄いものが出来るかもしれません。もし「おもしれえなこれ、やってみようかな」と思っていただけたなら、ぜひブログなり何なりに書いてみてください。義務教育修了程度の英語の教養があれば誰でもできます。出来上がった際には、こちらの記事にトラックバックやコメントでお知らせして頂けたら幸いです。


『アイカツスターズ!』闘争編:白銀リリィ伝・騎咲レイ伝

前稿

:目次:
<孤独編>
◎RESPECT1 孤独をおそれない女の子がいる(『アイカツスターズ!』、この複数形の作品)
◎RESPECT2 世界は広く、道はひとつじゃない(如月ツバサの道々)

<闘争編>
◎RESPECT3 勝負師、依然として(花園きららの俊足・虹野ゆめの返済)
◎RESPECT4 The Patients(虹野七倉:忍耐患者)
◎RESPECT5 言葉の闘士(桜庭 VS 花園)

◎RESPECT6 Don't dream it, be it(「楽しい想像」の「その後」)
◎RESPECT7 Chevalier de Créole(21世紀のトロバイリッツ)
◎RESPECT8 金星的、あまりに金星的(エルザ フォルテの眼球)
◎RESPECT9 大賭博峠
<製造編>
◎RESPECT10 人間ができるまで(「個性」が謂っていたもの)
◎RESPECT11 神域にあろうと(重力のあるところで 2 YEARS AFTER)
◎余談1:突き立たない音(リズムは打音を必要としない)
◎余談2:「ゲイ百合」序曲


【凡例】
・人名は敬称略。作品名は『』で、歌詞、セリフ、文献等からの引用句は「」でくくる。
・煩雑を避けるため、前シリーズ『アイカツ!』の放送話数は「A!epn」で表記し(例:アイカツ!第128話→A!ep128)、『アイカツスターズ!』の話数は「AS!epn」で表記する(例:アイカツスターズ!第30話から第36話→AS!:ep30-36)
・fc2ブログにはルビ機能がないため、特定の語にルビを振る場合はその語の後に[ ]で表記する(例:強敵[とも]) ・註、関連項(稿)、参照記事などについては適宜リンク先を指定する




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 さあ、花園・虹野・桜庭それぞれの棋譜のさまざまを読むにつれ、『アイカツスターズ!』の「闘争」如何が諒解されてきたようです。それはスタイルの闘争、筆や鋏や針や画材や匕首やマイクの使い方を心得ている者のみが参加を許される勝負の場なのです。そもそも “style” の語源が “stylus” 、「先の尖ったもの」を意味するラテン語であること、蝋板に記書するための道具を指すこの “stylus” がやがて筆法・語法などの表現様式を指して使われるようになったことは(桜庭ローラと同様に辞書を引く習慣がある人であれば)誰でも知っています。AS!ep53で「野心」と決別することで冥王星のツバサを授かった白銀リリィ、自らの既得ファン層を「斬り捨て」て天王星のツバサを授かった騎咲レイ、この2名の棋譜も読み解かねばなりません。その過程で、我々は筆や鋏や針や画材や匕首やマイク、尖鋭筆鋒=stylusの使い手である彼女らが斬り結ぶ勝負の果てに、いくつもの驚くべき創造性の煌めきを見ることになるでしょう。


◎RESPECT6 Don't dream it, be it(「楽しい想像」の「その後」)

 AS!ep63は『スターズ!』全編でも最も入り組んだギミックが内蔵されている回ですが、まず冒頭で既に「S4」と「S4でない人」との断絶線が可視化されていることを確認しておきましょう。

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 前年度のS4選では「野心」のために桜庭・虹野・そして白鳥に遅れを取る結果になった白銀リリィ、親友である二階堂とともにS4になる夢は叶わなかった彼女ですが、AS!ep53ですでに「S4になること」以外の夢に向かって歩み始めていたことを思い出しましょう。「すべての野心を軽蔑すること(ポー)」。『星のツバサシリーズ』での白銀はその自戒によって四ツ星で初めてアイカツシステム(AKA「天」)に認められたミューズ*6-1 となったのでした。
 しかし、彼女にはまだ乗り越えなければならない試練があります。病弱なために夏季の活動が困難な白銀リリィは、今年度においては昨年度と同じことを繰り返さないために、「ゴシックヴィクトリア ファン感謝イベント」を完遂して自らが丈夫に鍛え直されたことを示さなければなりません。『星のツバサシリーズ』前半が昨年度と同じと見せかけて全く別の軌道に移っている(AS!ep52, 57, 58, 62)ことを踏まえれば、ここで白銀の差異と反復のエピソードが来るのは至当なことです。冒頭で示される「S4」と「S4でない人」との断絶線は、白銀が親友とともに過ごす夏への扉しても見ることができますが、この断絶線はAS!ep63後半の重要なギミックとして再登場することになります。


・Pull Her Under (夏の魔物)

 トラブル続きの「ゴシックヴィクトリア ファン感謝イベント」を学友の助力とともに乗り越えてゆく白銀ですが、まずここでの白銀はファンにとっての「司牧(群れの一人一人が不幸なことにならないように警戒し用心する人)」の役割を担っていることを踏まえておきましょう。『アイカツスターズ!』が極めてユダヤ的な作品であることは以前書きましたが* 、1年目での「司牧」の役割は四ツ星教員、とくに諸星ヒカルによって担われていました。しかし2年目では教員でさえ手に負えない状況を学生たちが解決してゆくエピソード(AS!ep52, 57)に転調しているので、ここで歌組最年長である白銀が「司牧」の役割を担って試練を乗り越えてゆくのも至当と言えるでしょう。AS!ep63前半の白銀リリィは、ただファンのために自らを捧げるプロである、だけのようにも見えます。

 白銀率いるゴシックヴィクトリアは、イベント会場行きの列車が停まり、二階堂が提供したヘリコプターに乗り換えるも暗雲に飲み込まれ、さらに危うい瀬を渡ることになります。そこに入る天気予報。「1日お天気キャスターの虹野ゆめが、涼風高原上空のお天気をお伝えします。今現在、たいへん激しい嵐が吹き荒れていますが、しばらくすると、天気はウソのように回復するでしょう」。
 もちろんこの予報は前作の「大空お天気」とは全く意味が異なります。虹野が白銀と同じく想像の力を武器にして現実に対抗していたことはAS!ep26で示されていた* わけですから、ここでの予報は「夢」の力を信じる虹野から白銀に渡された賭けのカードでしかありません。それを裏付けるように、即座にヘリコプターのパイロットから現実的な退却案が提示されます。「この嵐が簡単に晴れるわけがありません、引き返しましょう」。「夢」に賭けるか/現実を見て断念するかの2枚のカードを配られた白銀ですが、AS!ep26を踏まえれば彼女がどちらの札に賭けるかは明らかです。「ゆめさんを信じます」。ヘリコプターで突っ切ることに決めた白銀は暗雲を突破しますが、ようやくたどり着いた会場は大規模な停電に見舞われていました。
「万事休す」。おそらく、彼女は賭けに敗けたのでしょう。であるとすれば、半ばに倒れた白銀リリィの道は、想像の力を武器にして戦う人間としての彼女の死をも意味しているのでしょうか。おそらくはそうでしょう。半分の意味では
 

・Black Clouds & Silver Linings(夢の劇場・「その後」に残ったもの)

 さて、白銀が道半ばに倒れた瞬間、AS!ep63最大のギミックが起動します。オロスコピオサウルス、涼風高原で化石が出土した恐竜が復活し、S4が少女戦隊に変身してこれに対抗する展開。「このオロスコピオサウルスのせいだったんです。ファンのかたの遅刻も、駅弁の積み忘れも、列車やステージの電気が停まったのも全部。でも安心してください! わたしたちの本当のチャレンジは、正義の戦隊ヒロインですから!」

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 しかし、これを見せられて「魔法少女だ! やった! かわいい!」と歓迎してしまうのは、たとえば『新編 叛逆の物語』冒頭の展開を見て「魔法少女だ! やった! かわいい!」と歓迎してしまうのと同じくらいの短絡です。これは紛れもなく夢、涼風高原のイベントのために備えていた白銀の記憶が捏造した想像の世界でしかないのですから。
 ということは、ここでの白銀リリィは「オロスコピオサウルスという諸悪の根源が・自分ではなくS4の力によって撃ち倒されて・ぜんぶ解決する」、「自分にとって都合のいい夢」の世界に逃避してしまっていることになります。まさか、論理と鍛錬と自戒の人であるはずの白銀リリィが。しかし、夢が無意識の産物であることを踏まえるとこのシーンの意味は明瞭です。想像の力に託した賭けに敗れ、万事休した果てに行き着いた先が「自分にとって都合のいい夢」だったということなのですから。夢、この無意識の劇場の残酷さ

 さらに途轍もなく残酷なのは、AS!ep26で「ひめさんのようなS4になりたい」と無邪気に夢見ていた頃の虹野に向けて白銀が言った「楽しい想像ですね。でも、想像するだけでは何も変わりません」という言葉が反転して自分自身に向けられる形になることです。「言葉」に恐るべき誠実さで向き合ってきた『アイカツスターズ!』が、まさかここにきて自分の言葉に逆襲されること(抑圧したものの外からの回帰)*6-2 をも取り入れたとは。しかもその襲撃の対象が他ならぬ言葉の鍛錬に取り組んできた白銀リリィだとは。しかし、真に驚くべきはここではありません。

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 怪獣と魔法少女の茶番*6-3 が終わり、夢から覚めた白銀リリィ。「自分にとって都合のいい夢」に救済などなかったことを受け入れるも、彼女は停電しているはずの会場になぜか光が灯っていることに気づきます。わざとらしい饒舌を断固として避ける『アイカツスターズ!』はここでも最小限の説明しか与えません。「ラジオで呼びかけたら、S4やローラや、リリィ先輩のファンの皆さんが集まってくださったんです」。
 白銀リリィのもとに帰ってきたのは、抑圧された「楽しい想像」だけではなかった。「想像するだけでは何も変わりません」という言葉が反転して帰ってきたのと同じに、彼女がこの世界に捧げ続けてきた仕事たち(歌・衣装・ダンス)までもが反転し、彼女の前に成果として帰ってきた。白銀リリィの航路を目的地へと導いたのは「楽しい想像」ではなく、具体的な仕事たちだった。停電した会場に光を持ち寄ったファンたちの存在が、一人一人の顔は見えないながらも、白銀リリィの仕事への具体的な報いとして立ち現れています。

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 これはまるで、著者と読者の関係、仕事を届ける側と届けられる側の関係そのものではないでしょうか。白銀マナーに倣ってひとつ引用してみます。「仕事━━それは、著者と読者の側での幾分の労苦と引き換えに、言わば、もう一つ別の形の真理へと至るという幾分の楽しみによって、突如報いられるもののことである」*6-4 。そう、自分の仕事を捧げる人は、ひとつの個人名よりも無数の人間のもやもや* を相手にしなければならなかったのでした。ファンのためでもなく、「野心」のためでもなく、ただ「行うべきことを行なっ」てきた(AS!ep62)白銀リリィの仕事が突如報いられる瞬間。その瞬間を迎えるためには、他人の力だけでも自分自身の力だけでも、ましてや想像の力だけでも不十分だった。必要だったのはただ仕事、今日の絵空事で明日を変えるための具体的な実践だった。これは「きれいな物だけ 見るんじゃなくて 全部抱きしめて」きたこの作品、「夢」が持つダークサイドもブライトサイドも余さず描き尽くしてきたこの作品の精髄でもあり、あまりにも真摯な結論です。
『ロッキー・ホラー・ショー』の “Don’t dream it, be it” というテーマをここまで誠実に継承した作品を、筆者は他に知りません。そう、白銀は前年度のS4選で「夢は見るものじゃない 叶えるものだよ」と唄って歌組の強者全員を退けた白鳥ひめの姿に誰よりも撃たれていたのでした。「夢は見るものじゃない、叶えるもの。ひめ先輩のメッセージが、歌を通して胸に刺さるのです(AS!ep49)」と。白銀は自らの野心を戒めることで冥王星を降ろしましたが(AS!ep53)、「想像するだけでは何も変わ」らないこと、夢見てないで夢になることの意味を真に理解した瞬間がAS!ep63だったのでしょう。このとき初めて白銀は白鳥に比肩しうるほどの巨星になったのかもしれません*6-5 。しかもその達成の瞬間が、親友とともに過ごす夏への扉を開けることをも意味しているという。

 このAS!ep19-63にわたる白銀エピソード群の構成は、理路整然とした抑制と奇策縦横な飛躍の応酬で編み上げられた、離れ業としか言いようがない代物です。確かに彼女は「野心」によってS4の夢からは退けられた。「だが 真の実りの時期は 涼風が吹き出す『その後』なのさ/キツい日差しもどしゃぶりの雨も すべてムダどころか糧だったのさ」*6-6 。循環する季節の過ぎ行きと人間たちの上昇と下降を描き続けたこの作品は、ひとときの勝負や果たせなかった目標が必ずしも悲嘆や鬱屈を意味しないことを雄弁に語っています。だとすれば、こう結ぶことが許されるでしょう。『アイカツスターズ!』は野心でも権力欲でも市場原理に囲われた卑小な「プロフェッショナル」や「クリエイティビティ」でもない、ひたすら自分自身の仕事を世界に捧げ続ける、「いつか花ひらく生命のため ただ希望を」歌う人々を祝福していると。「歌ってくれる? リリエンヌ」「もちろんです。私にできるお返しは、それしかありませんから」。




*6-1 誰が書いたことなのか特定してもしょうがありませんし、そもそも(Twitterアカウントを所持していた頃に)複数のアカウントによって書かれていたのを見ただけなので特定しようもありません。しかしこの註に書いておきます。
『アイカツスターズ!』における「ミューズ」という語の用法に関して、「(A!ep23では)『ミューズ』はデザイナーの専属モデルや創作意欲を掻き立てる女性ということになっていたじゃないか、自分でドレスを創る人が『ミューズ』と呼ばれるのはおかしいじゃないか」という、苦笑や失笑を通り越して真顔になるしかないような「指摘」があるようですが、まず「ミューズ」の語源である “Μοῦσα” は ⑴学藝を司る女神(通例9柱とされる)、さらに ⑵(普通名詞として)音楽、歌、藝術、学藝 を意味します。他ならぬ藝能を磨いてアイカツシステム(AKA「天」)に認められた彼女らに「ミューズ」の称号が与えられるのは極めて自然なことですし、太陽のドレスのために必要とされるブランド数が9つであることも踏まえれば数秘的センスとしても筋が通っています。 *6-1-1

 ここまでは、ろくに辞書も引けず狭い業界の用法のみでしか語を理解できない人間の無知を指摘しているにすぎません。次が問題となります。「ミューズという語は(自ら創作するのではなく)創作意欲を掻き立てる女性の意味でのみ用いられるべきだ」と指摘するとき、その人間は「女は描けもしない、書けもしない[Women can’t paint, can’t write]」とヴァージニア・ウルフ『灯台へ』のタンズリーような*6-1-2 根本的に性差別的な態度を表明している(うえに自分ではそのことに気づいてさえいない)ことになります。他ならぬ「創造する女性」の作品である『アイカツスターズ!』を前にしてそんなことしか言えないのですか。呆れ果てて二の句も継げません。そして、筆者は本稿の読者の中にはこのような無恥で惰弱で小賢しい男性は一人も含まれていないことを信じています。*6-1-3

*6-1-1 こういう、一部の業界で共有されているに過ぎない意味のみに狭窄して語本来の多様性・複層性を度外視した「指摘」が出てくること自体が『アイカツ!』は音楽やダンスや言語や服飾の力があらかじめ市場原理の範囲内に限定された美学的な作品であるに過ぎなかったことを裏付けている、などど今更そんな当たり前の「指摘」をしてもどうしようもありません。逆に音楽やダンスや言語や服飾の力が直接人間の製造と統治【→RESPECT10】に関わるものとして提示している『アイカツスターズ!』が現在続いていることだけで十分です。

*6-1-2 また、ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』は、
主要登場人物の名が “Lily”
第1部で引用されているシェイクスピアのソネット98は同様に『スターズ!』AS!ep23でも白銀の口から引用されている
外傷(大戦)とともに創作(絵)を続ける女性をテーマに据えている
『アイカツスターズ!』シリーズ構成柿原優子は文学部を卒業している
 などの根拠から、『スターズ!』のテーマ性および白銀リリィの人物設定にヴァージニア・ウルフ『灯台へ』からの参照があったことはまず間違いないと思われます。

 たとえばヴァージニアの小説に対して「感動ができない」「作者のお上品さを感じてあきれてしまう」などと言って平気な人間も未だにいるようですが、どうもこの島国には、自分より知性的で創造的な女性が存在することに耐えられない男性が数多く存在するようですね。このような腑抜けた態度を筆者は一切理解しません。ただふたつのこと、
かわいくて性的魅力がある女性を『けもの』のように弄んで恥じないような極めて童貞臭い作品が溢れているこの時代に「創造する女性」の「性的関係」を描き続けている『アイカツスターズ!』が存在することは美学的にも政治的にも極めて重要であること
その作品を前にして何を言いうるかでその人間の女性に対する「何か」が根底から暴露されうること
 を指摘しておくにとどめます。

*6-1-3 ここまで読んで「ああ始まったよ、フェミのお説教が」と斜に構えてそれで何か言った気になるような馬鹿が出てくるのは予想済みなので、先回りして仕留めておきます。
 あらゆる女性差別に対抗しなければならない理由は、あらゆる修正主義は「自分がいかにして産まれたか・造られたか」を直視できない態度、つまり「自分が誰か(女性=母親)によって造られたことを修正してしまいたい」という欲望に由来しているからです。修正主義とは、自分の身体・自分の属している文化が他の誰かによって造られたという知的劣等感を直視したくない・消してしまいたいという欲望の最終段階であり、女性差別はその初期段階です。この島国にはそういう劣等感に取り憑かれた人間がそこらじゅうに溢れているわけですから、どの都知事がどの作家がどの学者がと例を列挙するまでもないでしょう。だからこそ、「女性の創造性に対する蔑視」は美学的にではなく政治的にこそ許すべからざるものになります。これは『アイカツスターズ!』の本質とも関係があることです。筆者が「自分修正主義」を拒絶した早乙女あこ* に繰り返し賛辞を呈し続けている理由も、これで明瞭になったと思います。繰り返しますが、筆者は本稿の読者がこの註に書かれたことをまったく理解できずに去ってしまうほど愚かでないことを確信しています。*6-1-4

*6-1-4 以上の記述から引き出されうる教訓が「Twitterは人を無限に愚かにするし不快な気持ちにしかさせないんだから今すぐアカウントを削除すべきだ」なのは言うまでもありません。

*6-2 もうお気づきかとは思いますが、AS!ep63は「司牧」の姿があらわれている・「夢」の持つダークサイドとブライトサイドを容赦なく突きつけている・それが「言葉」にまつわるものであるという意味で『アイカツスターズ!』のユダヤ性が今まで以上に凝縮された内容になっています。以前書きましたが * 、「『アイカツ!』はアドラーで『スターズ!』はフロイト」という図式は両作品の差異を簡略にする見方としてある程度有効です。筆者がどちらの理路を有効としどちらを無価値とする立場か、は表明する必要もないと思います。

*6-3 「茶番を茶番として描くこと」は、アニメーションという表現媒体が持っている力能の中でも特に得難いものではないかと筆者は考えています。近々の作品では、玉音放送を茶番として描ききった『この世界の片隅に』が思い出されます。

 また、筆者は、(名目上)女の子向け作品ということになっていた『アイカツ!』の作り手たちがロボット・怪獣・特撮といった男の子趣味に淫して燥ぐことを恥じないような連中ばかりだった(A!ep159, 劇場版短編)ことをディスる用意があったのですが、もはやその必要を感じません。怪獣や特撮の形態を「都合のいい夢」「茶番」として用いたAS!ep63のシーンは、前作『アイカツ!』で燥いでいた恥知らずな男どもの態度に対する冷徹なアンサーとして成立しているように思えるからです。女の子向け作品のはずなのになぜか『アイカツ!』は監督もシリーズ構成も多くの脚本家までもが男性で占められていた(一ノ瀬かえで━━木村隆一がたびたび「お気に入りのキャラクター」として挙げていたのにも関わらず本編での扱いが信じられないほど蕪雑だった彼女━━のために敢えてステージ無しの変則的な脚本を書いた綾奈ゆにこは、なぜかその後一度も起用されないまま放送終了を迎えた)こと、一転して『スターズ!』は(1年目の山口宏・2年目から加わった野村祐一以外は)女性の脚本家によって書かれていること、など思い出すまでもないことです。さらに、「怪獣」ほど大衆の意識が反映されるものはありません* 。男の官僚どもが悲壮感たっぷりに怪獣に立ち向かう映画に熱狂していたこの島国の2016年が、いかに病みきっていたかが痛感されます。その比較の意味でも、AS!ep63は(前作からの脚本家である野村祐一を起用してあの内容をやったという意味でも)極めて冷徹に怪獣モノの様式を活かした作品として貴重なのです。

*6-4『仕事のさまざま』ミシェル・フーコー思考集成Ⅸ 206P

*6-5 遡って言えば、1年目時点での虹野は歌組の呪いからなんとか切り離されることで「S4になりたい!!」の呑気な夢から切り離され、桜庭は虹野に勝てないことに向き合い続けて家柄からも切り離されて自分の戦い方を選んだ(AS!ep33)経験によって既に「夢見てないで夢になること」を感得していたのかもしれません。ここでもやはり勝負の女神(AKA「天」)の勝敗判定は厳格だったことになります。四ツ星学園が担っている「誰かのようでありたいという欲望からの切断(=分娩)」については【→RESPECT10】で詳述します。

*6-6 RHYMESTER『カミング・スーン』宇多丸ヴァース





◎RESPECT7 Chevalier de Créole(21世紀のトロバイリッツ)

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 さて、白銀リリィと同じくドン・キホーテ的人物である騎咲レイ。彼女ほど一筋縄ではいかない人物もそうそういません。前途洋々なスーパーモデルことシューティングスターから没落して騎咲レイを名乗るようになった彼女は、以前書いた「鵺」こと双葉アリア* とは全く別の意味での混血的存在です。『スターズ!』の全ての登場人物は(前作『アイカツ!』で平然と行われていたような「キメゼリフを言わせておけば個性を描いたことになるからオケオケオッケー」式の)安易で一面的な描写が徹底して避けられていますが、とくに騎咲レイの場合はひとつの視点から見定めた気になってしまうと必ず何かを見誤ることになります。よって、ここからは彼女を構成する要素をひとつずつ検分してみましょう。


⑴南仏のトロバイリッツ

 さて、ドン・キホーテについては本ブログでもたびたび取り上げてきましたが* 、そもそも彼が身を焦がすようになった「恋」とは一体なんでしょう。この「恋」は12-13世紀の南仏、ラングドックやプロヴァンスにて花開いたトゥルバドゥール(女性形:トロバイリッツ)という形象に起源を持ちます。女性を高貴な存在として崇め、熱烈なロマンティックな愛を捧げるトゥルバドゥール。彼らが歌い上げた叙事詩が現在「宮廷愛」として認識されているものの源流です。*7-1

 重要なことがふたつあります。まず、この「恋」のかたちはギリシアにもキリスト教世界にも見られなかった、女性に対するロマンティックな愛を主題にしていたことです。なぜ南仏において新しい「恋」のかたちが現れたのか。これがふたつめに重要なことで、「宮廷愛」はアラビア世界からの影響を強く受けて生まれた文化だということです。そもそもトゥルバドゥールの語源であるオック語 “trobar” は アラビア語 “ṭariba” 、「喜びや悲しみによって心が動かされること」の動詞に由来するといいます。とすれば、12世紀に発明された「恋」の概念はヨーロピアンが独力で発明したものではなく、アラビア世界の影響下で練り上げられた混血文化ということになります。そして、その12世紀に生まれた「宮廷愛」の文化、女性を高貴な存在として崇め、熱烈な愛を捧げるトゥルバドゥールの生き方を21世紀において引き受けたのが騎咲レイなのです。よりによって9世紀も前の文化を、肉体的に女性であるはずの彼女が。なんたる無謀か。しかし、その無謀を祝福すべきでしょう。騎咲レイがスーパーモデルのシューティングスターであることをやめた最大の理由は何だったか。「退屈なステージね。志も無い、情熱も無い。あなた、モデルとして最低よ(AS!ep60)」と初対面のエルザ フォルテによってプライドを跡形もなく打ち砕かれたことにあったのでした。これによって、彼女は「周囲に勧められるままモデルとなり、用意されたステージで、楽しくもないのに偽りの笑みを作っていた。情熱も無く、志も無く、安易な道をさまよっていた(AS!ep80)」頃の自分と決別したのでした。エリート白人*7-2 である彼女がアラビアの影響を受けた文化である「宮廷愛」に惹かれたことは比較的容易に理解できますが、しかし彼女を構成する要素はこれだけではありません。


⑵Alexandre Dumas’ Latin America (featuring Miguel de Cervantes)

「ひとりはみんなのためにある/みんなはひとりのために」。騎咲レイに担われた歌『裸足のルネサンス』サビ冒頭の歌詞ですが、これはご存知の通りアレクサンドル・デュマの小説『三銃士』によって有名になったクリードです。大デュマはもちろんフランスの人間ですが、黒人奴隷の血を引いている混血[Créole]です。『モンテ・クリスト伯』『三銃士』などヨーロッパ文学に燦然と輝く作品を残した大デュマは純血の白人ではなかった。よって丸屋九兵衛氏も書いている通り、「デュマは黒人」*7-3 なのです。
 よって、トロバイリッツでもある騎咲レイが『三銃士(とダルタニャン)』のクリード「ひとりはみんなのためにある/みんなはひとりのために」を唄うことは、さらに混血的要素を色濃くします。彼女はアラビア由来の文化のみならず混血作家のクリードをも継承した。さらに加えて、


⑶pAsF (PAN ASIAN SAMURAI FORCES)

 彼女は剣士でもあります。「侍や禅に通じる、自己の精神の探求という道について、剣道以上に素晴らしい武道は世界のどこにもない(AS!ep56)*7-4 。トロバイリッツに、『三銃士』に、さらに東アジア発祥の武道をも自分の中に取り込んだ騎咲レイ。「二重の異邦人」* どころではない「三重の混血児」、それが彼女なのです。

 騎咲レイの混血性。これが所謂マジョリティによるマイノリティ文化の搾取(=オリエンタリズム)ではありえないのは、一度エリート白人としてのプライドを完膚なきまでに打ち砕かれていることに理由があります。再度確認しますが、シューティングスターと名乗っていた頃の彼女はエルザの舌鋒によって「恵まれたUSAシチズン」としての自己を蹂躙され尽くしている。それによって死に瀕したシューティングスターを埋葬し、そこから騎咲レイとして再生するためには外部の文化からの輸血が必要だったのです。彼女の中には、もはやエリート白人だった頃の純血性は微塵も残っていない。マイノリティ文化を面白がるようなマジョリティの視座に立つことがそもそも許されていない。自身をもう一度産み直すため、そのために自分のものではない血と交わることを厭わなかった。女性への愛を吟唱するトロバイリッツでもあり、混血作家の共感者でもあり、微々たる感情の揺らぎをも許さない剣士でもある。かつての自分を徹底的に殺すことから始めた虎口の人*7-5 。その人を再び駆動させた心臓こそが混血性・複数性なのです。
 ここで『裸足のルネサンス』の歌詞を引用してみましょうか。「忘却の方へ さらおうとするもの/封印されるのは 許さない」。そうですね、彼女は「忘却の方へ さらおうとするもの」に抗ってまで9世紀も前の生き方を選び取ったのですから、自らの混血的なありかたを「封印されるのは 許さない」。筋が通っています。*7-6

 かくして誕生した騎咲レイは、学園内で1年の訓育を終えた四ツ星の学生たちとは異質の存在です。VAの族長であるエルザのために働き、再びアイドルとして返り咲く機会を待ちながら、しかし深く自戒してドレスを製作し続ける彼女は、誰かのための贈与と返済に取り組み続ける四ツ星学生たちとは別の情動によって動いています。AS!ep80では四ツ星でお茶の席を囲んでいますが、その席を設けた動機は「お礼だよ。君たちは星のツバサを手に入れてくれた。おかげで、エルザの夢が叶いそうだ」という、四ツ星学生がエルザの計画の駒として動いてくれたことへの事務的な礼でしかありませんでした。もし『スターズ!』が前作『アイカツ!』と同質の作品だったとしたら、「真昼の言葉や、君たちの輝く姿に勇気づけられて……私も自分自身のために輝くことに決めたんだ!」「そうなんだ!」「レイさん、すごい!」「わたしたちもアイカツ頑張ろう!」などのセリフが交わされていたでしょう。しかし『スターズ!』、この複数形の作品、四ツ星とVAという異なるトライブを持っている世界がそんな安易な『SHINING LINE*』に流されるわけがありません。四ツ星は「合わない靴を 履いたままじゃ 歩き疲れちゃうね/だって夢は そんなに 小さくない」の歌詞に象徴されるような靴職人のトライブ、一時的に締め付けるかもしれないがそれは大きくなってからも無事に歩き続けるための処置だから、という大人の施術を行うための場でしたが、(AS!ep55で描かれている通り)VAの訓育は四ツ星の水準とは大きく異なります。そこで飛躍の時を待ち続ける騎咲レイが打って出たのは『裸足のルネサンス』、安全のための靴などおかまいなしに出血をおそれず走り出すことだった*7-7 。異なるトライブ間での不穏な鳴動を響かせ続けた『スターズ!』は、ついにAS!ep80で「こちらの倫理や常識になびかない、全く異なる存在」の姿を立ち現わせることに成功してしまいました。

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 AS!ep80で騎咲がぶちかます大演説は、すべて文字起こししてその一言一句一呼吸を味わい尽くしたい誘惑に駆られるほどのものですが、本稿の内容が過度に情緒的になってしまうことをおそれ、割愛します。読者がAS!ep80を再見する際の楽しみにとっておきましょう。AS!ep65では桜庭の聞き手にまわっていた騎咲ですが、おそらくそれによって触発されたのでしょう、「公の場での弁舌」がアイドルの必須スキルとして設定されている『スターズ!』でも最長の大演説になっています(AS!ep65で桜庭の演説からステージに入るまでの時間が90秒だったのに対し、こちらは235秒)。恋に駆り立てられた有無を言わさぬ雄弁、しかしその雄弁の内容が狂っているという、『スターズ!』で最も高いドン・キホーテ値が記録された瞬間です。そんな虎口の勝負に打って出た騎咲レイの覚悟をアイカツシステム(AKA「天」)が見損なうわけがありません。彼女は天王星のツバサを授かり、太陽をめぐる9騎のミューズの最後の1人として参集したのでした。

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 しかしこの騎咲レイ、生まれ持った既得権をすべて斬り捨てて裸足で大地に降り立った「三重の混血児」の凄まじさ、勇ましさ、爽やかさたるや。2年目にしてますます混血性を強めてきた『スターズ!』の面目躍如たる彼女の存在は、単一性や純血性へのこだわりがいかに不毛であるかを語っているかのようです。世界中の誰しもが白人的(マジョリティ)であることを誇りとして恥じないような時代に*7-8 、このような狂い立ちが見られるとは。騎咲レイの熱[ほとほ]る血の立ち姿は、まさにエルザ フォルテに並び立つ者として相応しく、そしてこれから到来する太陽の灼熱をも予告しています。



「光り輝くものは全て黄金だと/そう信じている貴婦人がいる/そして彼女は」太陽への階段を買おうとしている*7-9 。ここまで筆を進めてきた我々は、いよいよ、彼女がいなければそもそもこの賭場自体がありえなかったであろう過剰[hubris]の人、金星的人物、光を運ぶ者[lūx ferō]ことエルザ フォルテを相手にしなければなりません。智慧と傲慢と誘惑の人である彼女を前にして、果たしてまともに筆が立つかどうか、全くおぼつきません。しかし他に致しようもないので、彼女自身の明視と盲目の方へ、一直線に向かうとしましょう。




*7-1 筆者はこのことについて何ら専門性を有しないので、より剴切な記述については伊東俊太郎著『十二世紀ルネサンス (講談社学術文庫)』を参照してください。
 また、ここではあえて「恋」と「愛」をごっちゃにしたまま使っていますが、「恋」と「愛」の二語の差異が明らかにされている文献として『恋のはじまり。』(佐々木中著『この熾烈なる無力をーアナレクタ4』河出書房新社)を紹介しておきます。

〔特定の思考への傾斜を予防するための接種〕
 さて、ここまで書いて、━━筆者は読者の一部に━━ある傾向を持った一団がざわついているのを察知しています。そう、「騎士」「宮廷愛」と聞いたとたん「到達不能」な<貴婦人>とやらを持ち出して解釈したがるような、LやŽの理論を振り回してなんでもかんでも切り刻んで事足れりとする、あのお粗末な一団が。

 本稿を進める上で、筆者が自らに課している戒めをひとつ明らかにしておきます。それは、現代思想だの精神分析だの社会科学だのの「応用」として作品を弄ぶような、あの醜悪な━━「ああ、この学生ちゃんは数日前にゼミで仕込んでもらった用語を見せびらかしたくてしょうがないんだな」と見透かせる、思わせぶりでこれ見よがしの、こんな生煮え理論の「応用」を読まされる身にもなってみろと言いたくなるような、しかし何故か今では批評と呼ばれる分野で一定の説得力を持つものとして有効と見做されているらしいあの━━身振りを徹底的に排除することです。賢明な読者であれば、筆者がひとつの批評理論とやらの「応用」に淫するのではなく、複数の歌や詩やライムを集めることに専念していること・出典を明記せざるを得ない場合以外は元ネタの名前を伏せ続けていることに既にお気づきでしょう。逆に軽薄な読者であれば、「あっ、おれ、それ知ってるよ。誰々の理論によれば云々ってことでしょ。それで全部説明できるもんね」といかにも学生ちゃんらしい短絡を呼び招く結果となります。そんな、他者の作品よりも自意識のほうが大きいんだとでも言いたげな態度で読解ができるわけがありませんし、そもそも『アイカツスターズ!』はひとつの批評理論とやらで分解してしまえるような容易い作品ではありません。この未曾有の歌が渦巻く作品に寄せられる賛辞は、考察でも評論でも分析でもなく、歌でなくてはならないのです。ろくに唄えもしない人間が『アイカツスターズ!』について一体何を語れましょう。

 それでも「宮廷愛が出てきた以上、LやŽで読むのは有効だろ」と駄々をこねるのなら、敢えてこういう言い方をしましょう。騎咲の欲望はLやŽではなくCsOのほうにあると。その「到達不能」な<貴婦人>とはつまり「天」のことであり、まさに騎咲はその中国史的=非人称的な「天」により課せられる試練こそを相手にしているのです。これによって、騎士=騎咲・<貴婦人>=エルザという見立てで「快楽」を解釈する身振りはご破算となります。直裁に言えば、血肉を持った現実的な貴婦人=エルザよりも一方的に試練を課してくる非人称的な<貴婦人>=「天」に焦がれている意味で騎咲レイは完全にドン・キホーテだと言えるのです。そして彼女が「私は審判を受けにきた(AS!ep80)」と叫ぶとき、それは裁かれて滅びるためではなく、血肉を持った現実的な貴婦人=エルザとともに闘うため、神の裁きと訣別するためなのです。

 
*7-2 現時点ではシューティングスター→騎咲レイの詳細な経歴は明らかにされていませんが、本稿では「裕福なアングロサクソンの家庭に生まれたが、エルザと出会い、剣道への傾倒と日系人であるエルザの母への行き過ぎた移入から日本人名を名乗るようになった」として解釈しています。
 仮に騎咲が血統的にアジア人種だったとしても、彼女はUSA国籍の裕福な家庭に育ちながら(本稿で述べたような)混血に踏み切ったわけなので、彼女の非白人性が強調される結果にしかなりません。

*7-3

『三銃士』とブラックミュージックの関連についても書いておきます。Pファンクファンを指す呼称として “Funkateer” がありますが、これは「銃士(musketeer)」のもじりで、ブーツィ・コリンズが「マウスケティア(Mouceketeer : 『ミッキーマウス・クラブ』に出演している子供たちのこと)」の語をヒントとして創作した語なのです。デュマは黒人、と繰り返す必要もないでしょう。

*7-4 これに憤慨した香澄真昼が騎咲レイとの異種格闘技戦を繰り広げるのですが、この勝敗の結果をどう判定するのかまったく不明なバトルから徐々に2人の感情が交通していくまでの流れも実に巧みです。AS!ep56での香澄真昼は暗闇に潜り込んだ猫(早乙女)を仕留めるために鏡面体を使って光を反射するわけですが、ここで鏡と光がかかわってくるのが光学の作品* たる『アイカツスターズ!』の本質とも響き合っているように思われます。騎咲が「閃光(ray)」とも読める名前を持っていることも踏まえると、実に意味深です。

 本論とは関係ないことですが、ここで勝敗判定が全く不明な異種格闘技戦に興じていた騎咲がAS!ep79のハロウィンバトルで「驚きすぎというのは、どう測るのですか?」と分別顔で反問しているのを見て、筆者は腸がねじくれて笑い死にするかと思いました。

*7-5 「孤高」の誤記ではありません。「虎口」なる概念についてはこちらのエッセイを参照してください。
 私見ですが、著者はこの「虎口」は(K-POPグループのファンが思いつきで言ったものを作詞家が敷衍して生まれた経緯も含めて)現代的な宮廷愛のかたちとして最も美しい概念だと思っています。

*7-6『裸足のルネサンス』には、騎咲レイの異質性を読み取るための歌詞がもうひとつ含まれています。「強くあるため守ったのは/感情の動きを消すことだった」。これに対置されるのはもちろん『MUSIC of DREAM!!!』の「弱さを隠す理性は捨ててしまえ/感情に揺らめく/-歌-がはじまる」。前者での「感情」が強くあるために消すべきものとされているのに対し、後者は(弱さを隠す理性ではない)強くあるためのものとされている。ここにもVAと四ツ星との差異を見ることができますし、あえて簡略にすれば「エモである曲=『MUSIC of DREAM!!!』」・「エモでない曲=『裸足のルネサンス』」の対立項を見出すこともできます(もちろんこれは語の発祥を調べることすらしない馬鹿なオタクが濫用し始めた「エモい」の用法とは何も関係がありません。簡略に書いてしまいますが、「ユースカルチャーのディケイド論」以外の文脈で使われる「エモ(い)」にはなんの意味もありません)。

 そして以下の記述は本論とは何も関係ないことですが、只野菜摘の作詞による『未来トランジット』『裸足のルネサンス』は、ルネ・アリオの1991年のフィルモグラフィ『トランジット(Transit)』『反忘却(Contre l'oubli)』のタイトルとぴったり照応関係にあります。もちろん只野菜摘が意識的にこのイースターエッグを隠したのだとする根拠は何もありません。ただなんとなく気づいたので、ここでウインクを返しておくことにします。

〔完成稿で消す予定の留保〕
 ただ、ひとつ気がかりなことがあります。
「ひとり密かに彷徨いながら/今<私>に戻った」という『裸足のルネサンス』の一節は、初期ドイツ・ロマン主義のビルドゥングスロマンの類型に沿うものではないか、という件です。まず無垢な自分がいて、旅立ちの時を迎え、他者に出会い、試練に遭って、経験を積み、ついに真の自分に邂逅する。このビルドゥングスロマンの論理を世界史の終焉の哲学に精錬させたのがヘーゲルだった以上、「三重の混血児」こと騎咲も結局は正・反・合の弁証法にぴったりと添ってしまうのではないか、あの非ヨーロピアン性も白人的円環に回収されてしまうのではないか、という危惧があります(「努力おしまない/素顔の時も油断しない」という一節もかなりビルドゥングスロマン的です。1年目を観ればわかるとおり、『スターズ!』で重んじられているのは「努力」ではありません。では何かといえば、【→RESPECT4】で書いたようにまず贈与と返済ですが、さらに入り組んだ構造が孕まれています。それについては【→RESPECT10】で詳述します)。あの恐るべき聡明さの只野菜摘が、作詞に際してこのことを意識していなかったとは考えられません。 私 が<>に入れられていることがその根拠となります。

 しかし、ここではこう考えましょう。ビルドゥングスロマンの類型として読める『裸足のルネサンス』=騎咲レイ・さらに歌詞どころか楽曲そのものが太陽の円軌道(「展開」ではなく「転回」)の構造を持っている『The only sun light』=エルザ フォルテが、虹夢ゆめ・桜庭ローラと対峙する展開が『星のツバサシリーズ』の最後にくるのだとしたら、それはエモである人々(虹野・桜庭)がエモでない人々(エルザ・騎咲)の弁証法の円環を切り裂いて一本の線として開放する、その闘いこそが描かれるのではないか、と。
 もしそうだとすれば、『星のツバサシリーズ』は疲弊に疲弊を重ねた資本制の延長線上で喘いでいる我々に多くの道具を分け与えてくれる、この上ない反ヘーゲル的藝術作品になるかもしれません。このブログでたびたび批判に晒されている「フランチャイズ(とくにスターウォーズ)」が資本の体制における最も貧しい「物語」の形態であることには、もはや疑いの余地がありません。『アイカツスターズ!』もフランチャイズの延長線上にあることは確かですが、その内部において円環を破るための闘争を企てているのがこの作品だとすれば。


*7-7『ヤコペッティの世界残酷物語』では、自分の身体を石で打擲して流血しながら道を走ってキリストの受難を追体験する奇習が映されていますが、このラテンバイブスも騎咲と<貴婦人>との関係に近いものがあります。エルザ曰く「この世はすべてパッション(AS!ep58)」。 “passion” には「情熱」と「(キリストの)受難」両方の意味があるなどと、確認する必要もないでしょう。

*7-8 書くまでもありませんが、自分は他の有色人種とは別格の存在だと信じて疑わない、白人よりも白人的な有色人種国家がこの島国であることは、既に世界中に知れ渡っていることです。 * *

*7-9 『天国への階段』の歌詞には五月祭の描写が出てきますが、騎咲レイの誕生日は5月1日です。説明の要はないと思います。









 またしても、ここでこの原稿を中断する。
『アイカツスターズ!』CD『Endless Sky』および Blu-ray BOX Vol.2 が発売されたので、闘争編途中までの更新となる。完成稿は3月末にアップロードされる。

 ところで、おひまな読者よ。最新のスマートフォンを持ち、ソーシャルゲームに課金し、通販サイトでコスパよく買い物し、ネットオークションで欲しいものをゲットし、SNSを活用し自分と同じようなことしか考えていない同じようなことしか言わない同じような文体しか使わない人々とのネットワークを後生大事に保っている君たちよ。西暦2018年になったが、ご機嫌はいかがか。率直に言うがおれは君たちのことが厭で厭でしょうがない。人が創った作品のことを「コンテンツ」とか呼びくさり、消費者という名のクレーマーであることがデフォルトのようになり、半笑いであることが賢さの証であるかのように振舞い、そのくせ自分が学校やらサークルやらで仕込まれたものを絶対的な物差しであるかのように振りかざして疑わない、そんな君たちが厭だ。しかしさぞかし生き易いに違いない、今ではすべての「コンテンツ」は永生を保証されている。さあ二期だ、さあリブートだ、さあ再アニメ化だ、尊いしんどい感謝しかない。ハッシュタグをつけようファンイベントに行こう合同誌を描こう、永遠に続いてくれる「コンテンツ」に感謝しながら。そうして君たちはどんどん窶れていく。ここにはもう生者しかいない。もう誰も死ねないのかもしれない。作品ですら。「英霊」や「文豪」ですら、君たちにおもねってくれる時代なのだから。
 
 君たちはほんとうに、既に終わってしまったものたちへの敬意すら投げ棄ててしまったのか。どうして終わったままにしてやらないのか。どうして死者の声を聞けないのか。スマホを砕け。Wi-Fiを引きちぎれ。そうすれば聞こえるだろう。そうだ。そうだ。その歌だ。今でも同じあの歌が好きだというのは恥ずべきことではない。気付いたか、君たちは最新鋭のものを追っかけるふりをして、実はずっと近過去に生きていることに。1年前か2年前がいちばん良かった、そうしてちょっと前の出来事ばかりが黄金時代になってゆく。たかが20年だか30年だかしか生きてないくせして。君たちは本当にそんなことの片棒を担ぎたかったのか? そんなことに携わりたかったのか? いつからそんなことを自分の仕事だと思うようになった?

 その人が既に死んでいることと、その人のショーがゴーオンしていることは何も矛盾しない。歌は続いているのだ。そして歌声は重なる。思いもしない人たちと、思いもしないときに、思いもしないかたちで。君たちはどうして歌をやめてしまったのか。逃げられるとでも思ったか。声たちは君たちを逃がしはしない。全身の骨がマイクロフォンとなって君に命ずる。ここで唄えと。ここで踊れと。

 おれはいつ『アイカツスターズ!』が終わってくれてもいいと思っている。むしろ1、2年以内に終わってくれなきゃ困るとさえ思っている。あんなものを毎週毎週見せられてしまったら、脳内出血の確率がいや増すばかりだからだ。『アイカツスターズ!』が最終話を迎えたとき、おれは「イヤだ」でも「寂しい」でも「もっと続いてほしい」でもなく、ただ「助かった」と思うだろう。「手加減してもらった」「命だけは別状なかった」と。そういう意味で、『アイカツスターズ!』は弾道ミサイルより恐ろしい。核弾頭はどこに落ちるかわからないし着弾すればまず即死だろうので安心だが、『アイカツスターズ!』は毎週確実にこちらを襲撃するし、撃ちのめされ尽くしたところで死ぬことすらできないからだ。 “What ever doesn't kill you is gonna leave a scar” 、 “That which does not kill me can only make me stronger” 。そうして創[きず]は残留し、それとともに生きてゆく。そう、この言語圏では「創[きず]」と「創[つくる]」は同じ字だ。君は創で創られている。君の母親から切り離された、あの最初の創からずっと、創とともに歩んできたのではなかったのか。創とともに創ってきたのでは。君は一体いつから、その最初の創ごと無かったことにしてしまったのか。君が創つくことを承知で言おう。だから君は何も創れないのだ。だから何も産めないのだ。悔しいか。悔しいなら自分を切って開け、その筆で鋏で針で画材で匕首でマイクで。おれはそこまで面倒見切れない。今夜も踊りに行くからだ、あの墓石たちと愉快に踊るのだ。疲れもせず悲しくもならなかったなんて、一度も踊らなかったやつらの言い草だ。この戦争のようなダンス、墓石に踵で書く文学が一体何に似ているか、改めて言うまでもないだろう。地には頽れた城塞、天には星々。おれは一人の宦官だ。


2017年の映画10本

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◎トリプルX:再起動


 多人種チームが団結し、銃やマーシャルアーツのみならずパーティーのアゲ感をも武器にして闘ってゆく、倒すべき敵は “Patriot” という名の “Tyrant” ……2017年というファッキンイントレラントゼノフォビックイヤーに公開されるべくして公開された、一大混血祝祭映画。
 この映画を最初に観たときの歓喜は忘れられない。映画人ヴィン・ディーゼルの偉大さについては丸屋九兵衛さんが語りつくしているので省略するが、ここまで非白人キャストをかき集めた映画の制作会社の名前が “One Race Film” 、ドニー・イェンとのダブル主演に加えて「失敗した二作目」の烙印を押されていたあの人まで呼んでくる、さらには『ワイルドバンチ』の “I woldn’t have it any other way” をああいうシーンで引用してくる……! なぜ、なぜ彼はかくもカッコいいのか?




 エンドロールで流れる『In My Foreign』の歌詞についてもふれておくべきか。「“my country” ならわかるけど “my foreign” ってどういうことよ?」と思うかもしれないが、この曲がアフロアメリカンたちによって作られた楽曲であることを踏まえればその意味は明確だ。彼らはアフリカから引き剥がされた人々の裔であり、USAは「祖国」ではない。であるからこそUSAは「俺の外国」となり、そこでの生存と創作を続けることは必然的に政治的闘争の文脈を帯びる。音楽にしても映画にしても。そんな「俺の外国で遊ばないかい?」と飄々と歌ってみせる楽曲が『トリプルX:再起動』のテーマソングとして使用される、この移民魂の折れなさ・力強さたるや。もうだめだ。かっこよすぎる。

 もしこの映画が存在していなかったとしたら、私は2017年上半期にして虚無の暗黒に呑まれていたに違いない。この年はそれほどまでに呪詛に満ち溢れた年だった。どの国のどの人間もがふざけすぎていた。しかし『トリプルX:再起動』が、あの “I woldn’t have it any other way” が私のケツを蹴り上げ、背筋を伸ばしてこの地上に立つことを可能にした。ヴィン・ディーゼルに、ドニー・イェンに、「ダイヤル9」に、この映画に携わった全てのキャストに満腔の感謝とリスペクトを捧げる。 “Try to look dope while you're doing it” 。私もそうする。





◎ムーンライト



「まだn回しか観てないんですけど〜」みたいな物言いがファンダム内での忠誠度のバロメーターとして流通するようになったのはいつからなのだろうか? 『ロッキー・ホラー・ショー』が重要な分岐路として存在することは間違いないが、現在の所謂「おうえん上映」や「発声可能上映(何度見ても物凄い文字列だ。公の場で声を出すことにすら誰かの認可を必要とする人間の到来である)」の形態で持て囃されている諸作品およびそのファンダムに、私は「疲弊」の二文字を見ずにはいられない。自分が軽鬱でないことを表明するために軽躁に振り切るような情緒の経済に慣れ親しんでしまった人々だ。
『ムーンライト』はそんなハイボルテージ感の対極にいる。いや対極にすらいない。この映画の静けさは、SNS的な連帯感が供給する寒々しい躁状態など最初から相手にしていないのだから。ただ黙って、座って、観るだけでいいのだ。それだけで何万回の鑑賞にも堪えうる。耳に心地いいサウンドトラックだの白人がヘラヘラ踊るダンスシーンだの脚本のどんでん返しだのといった小手先の技巧には一切頼らず、生活と地続きにある音楽と談話と料理と情交の長閑[のど]けさを、その饒[ゆとり]を、情緒に偏ることなく躊躇いがちな微笑とともに配膳してくれるこの映画は、いかに我々が普段から「スリリング」な享楽に毒されているかを逆照射するように教える。

 日本語訳字幕の内容、とくに『Hello Stranger』の訳し方に関してはものすごく言いたいことがあるが、この映画の素晴らしさに比すれば些細なことだ。英語字幕を表示して、饒舌なスラングの中に織り込まれた詩情を読み取るだけでいい。観終えた後にSNSに感想を書く必要もレビューを投稿する必要もない。『ムーンライト』は、食べ飲み学び忘れ笑い泣き別れ交わる、その過ぎ行きの中にこそ在ってくれるのだから。





◎Hidden Figures


「誰かの感想に対する感想」は、読む側にも書く側にも単なる苛立ちのタネしか供給しないのでやめたほうがいいに決まっているが、あえてそこから始めることにする。
『Hidden Figures』に対して「これは理数の才能がある黒人女性の映画だから、結局才能がなければ何も変えられないってことなんだよね」という大意のことを述べる者がいる。公平に言って、このような思考は犯罪的だと思う。『Hidden Figures』で執拗に描かれているのは「才能」などではなく、もはや猶予ならない物事に直面したときに声を上げる、言葉によって現実を少しずつ変えてゆくアフロアメリカンの本領たる営みの、その持続である。差別と不寛容の中に在って抵抗を続ける人間の折れなさである。アフロアメリカンと同様に有色人種であるはずの人間が、知性とともに抵抗を編んでゆく彼女らの姿を見て言うことがよりによってそれなのか? いかにも「名誉白人」と名指された国民の末裔らしいことである。そうやって自分たちは差別とも不寛容とも無関係だしそれに抵抗する必要もないというふりをしたまま生き続けるといい。その惨禍にある当事者たちは、恣意的に分断を選び取った人間たちの厚顔を決して忘れはしないだろうから。

 すべてのシーンに穏やかな激しさが息づいている映画なので、挙げ始めるときりがないが、とあるシーンでジャネル・モネイが言う “I have no choice, but to be the first” というセリフは、私の最も深い部分に刻印されたまま消え去る気配がない。いつかタトゥーにして入れようと思う。





◎バンコクナイツ


 紛れもない「男であることの恥ずかしさ」の映画。まずはセックスワーカーに対する向き合い方の誠実さについて書いておきたい。「意に添わぬ性産業に従事させられている、救助すべき犠牲者」として対象化するのでもなく、「汚れた街で輝く天使」のような退屈な聖性に回収するのでもなく、かといってドキュメンタリータッチで踏み込むふりをしながらそれを傍観する自分たちの視座は無批判のまま撤収してしまうような呑気さは微塵もない、この撮り扱いの確かさにまず驚かねばならない。
 間違いないのは、「物語」を捏ねるのでなく先ず現地の生活に入り込むことから始める「作戦(ドキュメント本『バンコクナイツ:潜行一千里』に詳しい)」なくしては成され得なかった映画ということ。本編・ドキュメント本どちらもシンちゃんの快男児ぶりが素晴らしいのだが、本編のとあるシーンで口にされるセリフが脚本で加えられたのではなくシンちゃんの日常会話から採用されたものだという事実に気づき、その「人物」の強さに打ちのめされる。それを映画の中に映し出すことに成功した空族の手腕の見事さににも。

 タイを植民地として搾取するのでもなく、異人酋長として「革命」を叫ぶのでもなく、ただタニヤの売春街の一員として生きることを選んだオザワの、そこで偶然に再会したある人物との談笑で終わるシーンは、なんの解答も救済も与えない。ただ「男であることの恥ずかしさ」を引き受けられるかどうか、あの醜い日本人の薄ら笑いを前にして「射殺」の構えをとったオザワの恥辱を自分のこととして持ち帰ることができるかどうか、が問われている。敵は存在する。





◎タレンタイム


 ラストの『I Go』、「こういう瞬間が在ってほしいと思って生きているのでしょう? お前は」とスクリーン越しに言われ、「はい、そうです、そのとおりです」と応えるしかなかった。この映画の公開は2009年、ヤスミン・アフマド監督はすでに亡くなっている。
(『バンコクナイツ』と同様に)この映画を観た後では、自分が虐殺と差別と疫病と貧困をもたらす帝国の裔として生まれたことを再認識せずにはいられない。タイもマレーシアも、父祖たちが先の戦争で害毒を振りまいてきた土地だ。その戦禍に蹂躙されたはずの土地では、今では混血的な文化が花開いている。そのアンビバレンスが、「単一民族国家」の幻想に悪酔いしながら醜態を晒し続けるこの島国とのコントラストが、鉛のような羞恥を腹の底に転がしてゆく。『タレンタイム』は永遠に消えない負債のような映画だ。贖わなければならない。恥は存在する。





◎お嬢さん


 この映画と同格のものを日本製で作ることができなかったという事実だけで、「クールジャパン」は100%の無残な敗北を喫したと言いうる。脚本も美術も出演者も演技もユーモアもセックスも、何もかも別格すぎる。全人類が観て驚愕し爆笑し喝采すべき映画なのは間違いない。ラストシーン近く、ハ・ジョンウ演じる男が一矢報いた後のセリフ字幕が表示された瞬間、はらわたが捻れるような笑いが起こったのは忘れがたい。近くの席に座っていた中年の女性も全く同じタイミングで数十秒間大笑いしていた。
 こんな途方もない大傑作を作ってしまえる人々が我々の隣人なのだ。英国のミステリー小説を原料にしてこのようなものを。その混血の技巧を見習わなくてはならない(K-POPのアルバムを買ってクレジット欄を読んでみれば、単独の作家に仕事を投げて出来たものを使って満足している島国の純血性がいかに不毛かわかろうというものだ)。他にも、自国の興収だけでは立ち行かなくなった国が撃っている海外展開のガチさ(またK-POPの話になるが、YouTubeにアップされている所謂ファンリアクション動画を巡ってみるとその語圏・人種的多様さに驚かされる)、精神的なリスペクトのみならず金銭的なリスペクトもしっかり回収することなど、隣人から学ぶべきことは無限にある。





◎ベイビー・ドライバー


 眼を閉じることはできても耳を閉じることはできないこと、たとえ先天的に耳が聞こえなかったとしても鼓膜を破ったとしても「音」からは逃れられないこと、から出発してここまでの直球娯楽映画に昇華しきったエドガー・ライトに栄えあれ。
 同時に、『アントマン(現行劇場公開版でも十分面白い映画だったけども)』を降板してオリジナル企画による『ベイビー・ドライバー』で勝負に出たエドガー・ライトは、フランチャイズが支配する映画界において理想的な不偏不党ぶりを示している。そういえば、彼は『ワールズ・エンド』の時点で「宇宙規模のフランチャイズ化」に対して正面からファックを叫んでいたのだった。21世紀前半の作家かくあるべし。我々はベイビーと同様に、重々しい自滅の場から逃げるための俊足と、少数の人を愛するための廉直を磨くべきだ。





◎LOGAN(GOTG Vol.2・Thor : Ragnarok)


 日本のシネコンで同時期に公開されていたマーベル映画(LOGAN・GOTG Vol.2)がどちらも「葬礼」で終わる映画だったことは忘れがたい。
 そして『Thor : Ragnarok』。「どうせ次のアベンジャーズまでの賑やかし的なツナギでしかないだろう」と見くびっていたところ、想像以上の傑作でございました。まさか「北欧神話」から出発して「祖国の喪失」「移民の船」の話で終わるとは……! タイカ・ワイティティ監督、マオリ族(言うまでもなく白人的帝国主義の害を被った)をルーツに持つ監督にこのテーマを任せたとは。駄フランチャイズのうんざり感が蔓延するこの年においても、やはりマーベルは別格だと判断せざるを得ない。





◎LEGO®バットマン ザ・ムービー


 あの『LEGO®ムービー』を超える傑作では。(ノーラン坊やがやらかした一連の駄作以降の)バットマン映画で間違いなくナンバーワンと断言できる出来栄え。ヴィランが全員投降する・バットマンの敵がいなくなるという奇想から出発し、そこからブルース・ウェインがずっと避けてきた「所帯を持つこと」をメインのストーリーに導き、バットマンそのものが分かち難く持っている鏡像的なテーマに収斂されてゆく、信じがたいほどの明晰さと爽快なユーモアが同居した映画。冒頭で単なるギャグとして出てくる『Man In The Mirror』の引用がラスト近くで作品そのものの重要なギミックとして再登場する流れは、「うーわー!!!!!!!!!マジかー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」と叫ばずにはいられなかった。





◎ナイスガイズ!


「この映画作ってる時すっごい幸せだったろうなあ」「ずっと映画館で観ていたい」「というかこの映画に延々と浸りきって映画館の外に出たら数年経過しててもそんなに後悔ない」くらいの、幸福な。
 が、タイトルの通りに「善き人」の振る舞いってなんなのかを気取りなしに描き続ける映画でもあるので、見せびらかしの暴力描写に享楽しているだけの映画にはない品性がある。ラッセル・クロウのバディ作品としてRZAの『アイアン・フィスト』と二本立てで観ると最高だろう。ハレルヤ!







MOTHERSHIP CONNECTION TO THE UNFUNKY NATION DEPENDS ON OUR CREATION & CONCEPTION


・『最後のジェダイ』が明らかにしたのは、もはやフランチャイズに「新進の才能をフックアップできるし、旧来のシリーズとは別の試みをすることもできる」式の肯定的判断を下すのは無効だ(最初から無効だった)ということ。より正確に言えば、(権利上の手続きによってその作品が原作者の手から離れてしまっているにも関わらず)シリーズという一本の幹が存続していると敬虔に信じ込ませることによって初めてフランチャイズは成立する、ということでもある。「永遠に続けられるもの」がその特色と思われてきたが、2017年末に至ってはむしろ「始まる前から終わっているもの」がフランチャイズの定義として相応しいように思われる。

・あらゆる媒体でのフランチャイズおよびそれらの作品群をめぐる賛否如何は、SNS上での言説をめぐる情緒の経済と似ている、どころかまったく同型ですらある。試しに、「今までのシリーズに保守的だから良い・悪い」「今までのシリーズにないことをやってるから良い・悪い」式のフランチャイズ作品群をめぐる賛否を、SNS上で特定の話題が炎上した際の言説の繁茂ぶりと照らし合わせてみるといい。共通の「囲い」が存在する。フランチャイズの場合は権利ホールディングによって、SNSの場合は何故だかいつの間にかアカウントを所持させられてしまったという出来事によって、個々人は易々と「囲い」の中の効果となる。そこで並べられる賛否如何なる言説にしろ、喜怒哀楽如何なる情緒にしろ、「囲い」の存続自体はまったく脅かしはしないどころか、むしろ「囲い」の運営を円滑に保ち、「囲い」のために労働する側(クリエイター)のみに攻撃性を向かわせることができる。実に見事に治水された構造だが、逆に言えば、これらの「囲い」はフランチャイズやSNSの体制内でのみ生存を許されているにすぎない、という当然の事実もまた同様に存在する。

・ここで、菊地成孔氏の言葉* を銘記しよう。

 現在生け贄になっているのは前述の通り、クリエーター/プロデューサーであって、体制に向けられるべき怒りの何割かを、不当に割り当てられていると感じています。 <中略> 怒りには、簡単に言ってオトナっぽい怒りとコドモっぽい怒りがあり、コドモっぽい方は、還元するに甘えによる攻撃性であって、対象を親に、自分をコドモに設定し/看做し、いくらでもダダを捏ねられるという既得権益を予め持っている様なかたちの怒りですが、このままだとユーザー=クレーマーという図式が、傾向ではなく完成形に至ってしまうと懸念しています。

 これはインターネットによる退行という、一種の罠です。インターネットによってコドモになってしまったユーザーは、あらゆる物や事にケチをつけ、乳幼児がオムツが濡れたミルクが欲しい暗闇が怖いといっては泣くように、イライラすると指先が動き出して(幼児が泣く&それが託児所全体に広がるのを止められない様に)自分でも止められない訳ですが、ライフラインであるネット/SNSを司る企業にはケチをつけられません。オレをこんな「いいね」というミルクが欲しいだけの飢えた赤ん坊にしてしまったフェイスブックを爆破してやる。というテロリストは絶対に出ません。ジャンキーと同じです。生殺与奪の権を握っている、要するに「おっかない方の親」の存在は埒外においてしまい「おっかなくない方の親」にはやりたい放題することが自分でも止められなく成る、というアンバランスがDVやイジメやファシズムのイーシャンテンであることは、誰もが知る事ですが、そういった事は主にSNSで語られるので(笑)、お釈迦様の手のひらの上です。

 恐ろしいのは、生産者やアーティストもひとたび立場を変えればユーザーであって、彼等も幼児性と、コスパを追求するという、紛いのオトナ性(コスパを考える事は、情報収集と計算という知的作業を経由するので、一見オトナに見えますが、見えるだけであって結局、嫌だと言って泣くのだから、オトナの擬態です)の二極によって駆動されてしまう、つまりマーケットとユーザーの撞着です。


 フランチャイズの病は、如何にクリエイターが頭を働かせようと、その「囲い」の中にいるユーザーは権利ホルダー(おっかない方の親)を揺るがすことなく、クリエイター(おっかなくない方の親)のみを情緒的な反応の的として疑わせない、その治水ぶりに尽きる。それを明らかにしたという意味で、(ギャレス・エドワーズと)ライアン・ジョンソンの仕事は十分意味があった。しかしあれほどの情緒的反応を(ディズニーでもルーカスフィルムでもなく)監督である自身に負ってしまったのだから、彼らの今後の仕事にも暗い影を落とす結果になるかもしれない(スターウォーズフランチャイズへの参加が彼らの経歴上の傷になるだろうという意味ではない。理不尽な追加撮影やキャストとの不和を抱えたままの制作作業に従事させられた体験がある種の傷として彼らの後の作品に反映される可能性があるかもしれない、という意味)。スターウォーズフランチャイズに従事させられた作家で最も賢明なのは、ミラー&ロードの二人で間違いないだろう。彼らは最良のタイミングで脱出した。

・長期の精神的荒廃を招くと知りながら軽躁の麻酔を打ち続けるような「囲い」から逃れるには、もちろん逃げ足を鍛えるしかない。シェーン・ブラック、エドガー・ライト、一時的にマーベルフランチャイズに関わったこの二名が抜群の俊足で自分自身の映画を作り上げたこと、その質に見合った評価のみならず一方ならぬ支持までもが寄せられていることは、単に「アメコミ大作に疲れた観客が一本できっちり終わる作品を歓迎するようになった」以上のことを意味している。

・たとえば『ベイビー・ドライバー』が『ブルース・ブラザーズ』のスピンオフ作品だったとして、「これは今までのシリーズらしくない」とケチをつける観客が出てきたと思えるだろうか(「今までのシリーズに保守的すぎる」とケチをつける観客も同様に)? まずありえないだろう。「シリーズの見せ場であるカーチェイスを新たな手法で拡大し……」とか「ブルースの演奏ではなくDJ感覚の選曲によることで現代的な再解釈が……」とかいう物言いで絶賛されていたはずだ。既存の作品群から素材を採取して再編集しながらもフランチャイズに連結されることだけは注意深く避けるこの手際は、どのレコード屋でディグっているか・どの盤からサンプリングしたかに関しては口を割らない凄腕トラックメイカーの美学に近いものがあるかもしれない。

・ならばこれからは、創るにしても読むにしても、作品の機構・作用をひとつでも多く仕込む/見出すためのヒップホップ的な眼力が問われるのかもしれない。しかし、これを現代思想の用語を使ってヒップホップを切り刻んで何かいっぱしのことを言った気になっているような雑魚(たとえば吉田雅史)のやり口と一緒にしてはならない。手前の道具の「応用」として弄ぶのではなく、誰にも見せびらかさない夜の道具箱を自分の仕事場に拵えることが出来るか、ということだ。

制作はもちろん聴くにおいても音楽はある種の文化的資本を必要とする、という当たり前といえば当たり前のことを最もフレッシュなかたちで再定義した、それがヒップホップの革新性だったことは疑いない。もちろんそのフレッシュさとは「文化的資本」を「地球上の録音物全部」にまで拡大したことにあった。ならば思考の検閲を解いて、「文化的資本」を「地球上の造物全部」にまで拡大するヒップホップ的思考を鍛えることは常に可能だろう。それはもちろん此岸の視点のみを特権とし外部をオリエントとして弄ぶような白人的傲慢を駆逐するためにこそある。“respect” 、見る(spec)を語源とするこの言葉が求められている以上、この思考は眼の技巧でしかありえない。物理的な眼球が備わっているか視力があるかを問題としない眼の技巧。

・コドモだらけの世紀において最もハードコアな行為とは何か? それは子どもを産むことだ。産ませるのではなく。もちろん肉体による出産のみではない。生きうる空間を創ること、を可能にするための何らかの文物を用意すること、それらの営みを含めた「出産」がありうるということであり、それは肉体的に子どもを出産することができない性の人間によってこそ担われなくてはならない。『タレンタイム』『バンコクナイツ』は、まさにこのことを明晰に描ききった。血縁によらない「ファミリー」を形成するのだからそれは混血でしかありえず、そうして産まれたものがどのように結果するかはわからないのだから、その試みは「賭け」でしかありえない。

・我々が立ち会っているのは、USAの大統領がTwitterで汚言を垂れ流し、北朝鮮の高官がネットゲームに興じ、そしてこの日本ではゲンロン界とかいう猿山の大将がネット上で「積極的棄権」をわめき散らすような、コドモの時代である。とすれば、誰しもが悲惨な「囲い」の中から出たがらず嬉々として憔悴しているだけの世紀が今なのだとすれば、その<外>に線を引くための作品を創ること自体が政治的な闘争たりうるのかもしれない。「実際の戦争が起こるかどうか・その戦争がどのようなものになるか」が「より良い作品を持ちえたかどうか・それをどのように受け取ったか」の効果でしかなくなるような、愉快な時代が来ているのかもしれないということだ。バカなコドモを叱るのは大人の仕事だ。かの無残に退行したコドモたちが今まで生きながらえてきたことを恥じたくなるような素晴らしい子どもを産むことができなくてはならない。


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 というわけで、SAYSING_BYOUINGのファーストアルバムは2018年発表を目指して鋭意製作中だそうである。
 慄えて待て。


鵺の舞い(アイカツスターズ!『森のひかりのピルエット』アナリーゼ)

 本稿は、2日に分けて行われた『森のひかりのピルエット』の楽曲構造分析(アナリーゼ)、その2日目の内容を文字起こししたものである。文字起こし・註釈はすべて甘の筆によるものであり、本稿の音楽理論的内容に誤りがあった場合、その責はすべて甘に帰する。

人員:
 :甘の飲み友達。音楽で収入を得ている。本稿では楽曲の耳コピと記譜を担当。
 :本ブログの主。工場労働で収入を得ている。本稿では「ここがどうなってるかわからん」の質問を担当。





『森のひかりのピルエット』コード譜 *1
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 譜面を適宜参照しながら進めますので、上の画像2枚を別窓で表示しながら読むのをおすすめします。



◎イントロ・Aメロ

 BメロまでEメジャーキーでできてるこの曲だけど、イントロではそんなに変わったことやってないよね。ただ最後にBaug(オーギュメント)が出てくる。コーラスで重なってる音がBの増5度(G)なんでわかりやすいけど、そもそもオーギュメントってどういうコードなの。ふわって浮遊する感じの?
 というか、ここではドミナントの代理。B7と同じ機能だけど、Aメロの入りではE△7じゃなくF♯m7に行ってるから、トニック(E)に解決したいなあっていうのを敢えてハズしてるとも言える。
 この作曲者(高橋邦幸)が所属してる会社(MONACA)はオーギュメント使いが多いんですよ。田中秀和って作曲家がいるんだけど、その人のオーギュメントの使い方だけでいくつも記事が書かれてるくらい* 。だからその影響もあるんじゃないかな。あと言い忘れてたけど、作曲者と編曲者が同じっていうのも大きいね。この作品(『アイカツスターズ!』)は作曲者と編曲者が基本的に分かれてる会社(onetrap)がメインで参加してるんだけど、そっちは作曲担当に対して編曲担当がどういう工夫を凝らしたかって楽しみ方ができる。対して作編曲を同じ人がやってるこっち(MONACA)は、曲を聴いてコード譜を書いて分析するってアプローチが通用しやすい。




◎Bメロ・サビ

 Bメロの頭はツーファイブ(Ⅱm - V7 - Ⅰ)の進行だけど……
 サビの転調の直前「D - B」が出てくるけど[小節番号39-40]、このDは同主調からの拝借と考えていい?
 うん、Eマイナーキーからのね。BはEメジャーのダイアトニックに入ってるから。
 Bメロの終わりで転調先(C♯メジャーキー)のV7(G♯7)に行くことで転調するけど、ここでDが出てきて調性が危うくなるとこで転調が予告されてるのね。ただ転調してから大変ですよ。このF-E-D♯でベースが半音ずつ下がったあと[小節番号44-45]なんだけど。

【中断と前置】
 そもそも甘が椎と共同での楽曲アナリーゼを持ちかけた動機は、この[小節番号45]で鳴っているピアノのフレーズの意味を理解したいがためだった。そもそも何のスケールなのか? どんなコード進行の上で鳴ってるのか? その効果は何なのか? を理解するには甘の楽理語彙では到底及ばなかったため、椎に耳コピを担当してもらった。
 すると、椎が初見の『森のひかりのピルエット』を採譜していく中で、執着するように繰り返し聴いていたのがこの[小節番号45]だった。これによって「『森のひかりのピルエット』で最重要なのはこの小節だ」という甘の予感は確信に変わった。
 耳コピの結果、椎による[小節番号45]の読解は、

⑴ 鳴っているピアノのフレーズはFオルタードスケール(別紙1参照)。ただ、この作曲者(高橋邦幸)はそのスケール名を意識して弾いていないと思う。
⑵ なぜなら、進行しているコードは「D♯m7 - F♯m7」で、それぞれのコードの成分は「D♯ F♯ A♯ C♯ - F♯ A C♯ E」。Fオルタードスケールの音は「F F♯ G♯ A B C♯ D♯」。ピアノが小節の頭でF♯から弾き始めているため、「F♯ G♯ A - B C♯ D♯」に上がるフレーズは2つのコードトーンを踏まえているだけで、「ここでFオルタードいきます」というメロディありきのアイデアで弾かれたものとは思い難い(D♯m7の時点で鳴っているAはコードトーンを半音外しているが、直後のF♯m7のコードトーンの先取りと考えれば十分許容できる)。
⑶ コードより先にピアノのフレーズに耳を取られてしまったために、「なんでFオルタードなんだろう?」と考え込んでしまった。ただ、バッキングのコードを取ればすぐに理解できる話だった。「D♯m7 - F♯m7」の進行については、C♯メジャーのⅡm7(ドリアン)に同主調C♯マイナーのⅣm7(ドリアン)からの拝借が組み込まれている、言わば「同主異調のドリアン2発(別紙2参照)」と解釈できる。

 というものだった。しかし甘はいまいち納得できず、同様に(アナリーゼ2日目での)椎の読解も変容していくことになる。この[小節番号45]、コードから考えるかメロディから考えるかで解釈が違ってしまう1小節こそ『森のひかりのピルエット』の最大の聴きどころだと言えよう。結論めいたことを先に書いてしまった。しかし「コードから考えるかメロディから考えるかで解釈が違ってしまう」件は以降にも繰り返し顔を出すので、記憶しておいてほしい。


 【再開】

 ここ[小節番号45]さ、前回の解釈だと「ピアノが弾いてるのはFオルタードだけど、作曲者はそのスケールだと意識して弾いてない。バッキングのコードトーンをなぞったら結果的にそうなっただけ」って話だったじゃん。
 うん……でも今だったら別の解釈にするな、俺。
 おお。
 これさ、解決先がC♯/G♯じゃん。5度ベース。でもC♯のトライアドの成分だからC♯だよ実質。で、C♯はA♯mの平行でしょう。[小節番号46]のC♯/G♯をA♯mに置き換えて考えると、[小節番号45]で鳴ってるFオルタードはそこに解決するためだったのかも。A♯mにドミナントモーションするためのV7がここ[小節番号45]だったとしたら……
 あ、そこでFオルタードが弾けるってこと?
 そう。さっきオーギュメントがドミナントの代理として使えるって話したでしょ。オーギュメントのときホールトーンスケール弾けるんだけど、オルタードスケールの後半(M3 - ♯11th - ♭13th - 7)も全音インターバルだから、
 機能は同じってこと? C♯(A♯m)に解決するための?
 [小節番号46]がトニックだから、そこに行くために入れたフレーズだと考えても何もおかしくない。前回はコードトーンで解釈したけど、解決先がトニックだから結果的にそういう解釈も成り立つ。弾き終わりのFが[小節番号46]のC♯/G♯の長3度だし。だとしたらFオルタードだと意識して弾いてるなこれ……
 えっじゃあそれ、新説じゃん。前は[小節番号45]耳コピしながら「すげえ翻弄される、どっちにも取れる」とか言ってたでしょう。
 うん、鳴ってるピアノのフレーズは同じでも、解釈によって全然別の意味にもなる……
 ああ!!! そこ、そこですよ。この曲の分析やろうと思ったきっかけは。前回では(D♯m7 - F♯m7の進行は)同主異調のドリアン2発って話だったでしょう。違う調のドリアンが2個入ってるっていう。その感じがすごい……キメラっぽいと思ったのよ。違うものが合成されてる。だから見方が変わると解釈も変わる。ここ[小節番号45]ね、鵺ですよ。
 ん?
 物の怪で言えば鵺ですよ。継ぎ接ぎされてて、解釈も人によって異なるわけで。阿良々木くんがなんかの怪異に「月の模様みたいだな」って言ってたでしょう。あんた『化物語』好きだったでしょう。
 うん……そのセリフ覚えてないけど。
 ちょっと話飛ぶけど、この曲(『森のひかりのピルエット』)を歌ってる人(双葉アリア)がそういう存在なのよ。フィンランド出身なんだけど「双葉」って漢字の姓を持ってて、日本人の友人(白鳥ひめ)の影響で歌を始めたんだけど、現在はラテン系と日系の混血と思しい人(エルザ フォルテ)が率いる学校に所属してるっていう、すごい色々混ざってる、変な経歴。その色々混ざってる感じ、混血的な要素*2 が[小節番号45]にも……
 ああ、色々混ざってて色々解釈ができるってことね。それならわかる。
 でしょう。[小節番号45]のFオルタードのピアノフレーズをきっかけに話したわけだけど、ここだけの解釈でこんなに色々出てくるっていうのがさ。言わばこのピアノのフレーズは鵺の鳴き声ですよ。




◎サビのクリシェ部

 話戻そう。[小節番号44-45]でベースがF-E-D♯と下がってるわけだけど、同じように下がる箇所が[小節番号46-48]にもある。でもここ[小節番号47]Eディミニッシュで1小節使ってるんだよね。Fm7とD♯m7の間のパッシングディミニッシュだってのはわかるけど、パッシングで1小節使うのはすごくない?
 いや、結構あるよ。『Someday My Prince Will Come』とか『Wave』とか。ボサノヴァはとくに。
 そうなの? [小節番号47]は歌メロでまんまEディミニッシュスケール「な[C♯]が[A♯]ら[G]こ[A♯]」を歌ってるけど、これさ、コードを先に付けてメロディが後だと思う? それともメロディを先に付けてコードが後だと思う?
 コードが先でしょう。というか、この歌から先に考えたとしたら凄すぎるよ(笑)
 メロがコードに則ってるのか、コードがメロに則ってるのかどっちなんだろうって思う箇所が多いのよ。[小節番号50-51]もそう。ここ、初めて聴いたとき『Desperado (The Eagles)』っぽいって言ってたよね。
 うん。あと『Don’t Know Why (Norah Jones)』。Ⅰ△7の7度が半音で下がるパターン。
 基本的な話だけど、ベースじゃなくて声部が半音で下がるときも「クリシェ」って言うの?
 言うよ。
 そうなんだ。ベースだけかと思ってた。[小節番号50-54]では「C(C♯△7の長7度)- B(C♯7の短7度)- A♯(CΦの短7度)- A(F7の長3度)- G♯(A♯mの短7度)- G(GΦのルート)」で、それぞれのコードトーン内で半音で下がり続けてるわけだね。綺麗だねえここも!
 ここ[小節番号54]の「GΦ」すごい良いよなあ。
 良いなあって何が?
 いや、単に好みだなっていう(笑)。コードの選び方というか、材料の選び方がうまい。
 あっ、それ……(溜息)。それねえ、敢えて見せなかったんだけど、この曲には映像がついてるのよ。(PCに『アイカツスターズ!』アニメ本編ED映像を表示)これ。『Life On Mars』じゃなくて月面の生活なんだけど、見てこれ。にんじんとか収穫して、集めて、つくって、みんなで遊んでっていう。
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 ああ、収穫祭なんだ。
 そう。月面で地上の糧の話をやってるんだよね*3。だからこの映像の話を全然知らないはずの人が「材料の選び方がうまい」って言ったんで、すごいびっくりした今。




◎『マジカルタイム』との比較


 これ作った人(高橋邦幸)の2年前くらいの曲なんだけどさ。どっちだと思う? 重力がある方は。
 何が?
 調性を……ダイアトニックとドミナントモーションを重力と仮定して、(『森のひかりのピルエット』と『マジカルタイム』では)どっちのほうが重力が強いって感じる?
 (『マジカルタイム』をサビまで聴きながら)どう聴いてもフワーッとしてるのはこっちのほうでしょ。というか「フワーッ」て言いよるやんけ。
 いや歌詞だけじゃなくて、サウンドも。
 サウンドもそうよ。ずーっと浮遊してる感じがする。そういう曲にしたいんだなあって。
 ああ、やっぱりそうなんだ。いやね、こっち(『森のひかりのピルエット』)は重力がなきゃダメなわけですよ。さっき言った通り、収穫の歌だから。大地が、調性とダイアトニックが足下にないと成立しないから。
 そこまで考えて(演出)やってるとしたら、ほんと大したもんやけどなあ。
 この曲(『森のひかりのピルエット』)には浮遊感とか感じる?
 浮遊感というか……さっき言ったようにツーファイブと見せかけてとか、代理コードの選び方がめちゃ巧みよね。
 転調もするけど、ダイアトニックから大きく逸れるようなことはしない曲ってことだね。無重力(無調)みたいなとこには行かなくて、生命圏・重力圏の中で活動してるけどその構成がものすごくキメラで混血で……って曲。だから、やっぱり鵺だよ。





◎今回の収穫まとめ
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 [小節番号45]でFオルタードスケールが鳴っている理由についていくつも仮説を立てることはできるが、メロディに着目するかコードに着目するかでその解釈は多面的に異なってくる。
(正解を求めるのではなく「実はこう機能しているのではないか」の構造を抽出する愉しみは、楽曲構造分析(アナリーゼ)の本質的な愉しみにも直接結びついている。)

 [小節番号45]の「色々な調の要素が継ぎ接ぎされている」「メロディの機能が1つに確定できない」特性は極めてキメラ的・混血的・鵺的と言うことができ、このたった1小節の工夫が双葉アリアの「既存のキャラクターたちから多面的に影響を受けている」「おおまかなプロフィールは判っているが依然として得体が知れない」人物像と共鳴し、怪異的なマリアージュを奏でている。

 同じ作曲者による『マジカルタイム』を『森のひかりのピルエット』と比較すると、前者は重力感(調性感)が極端に希薄で、後者は(転調や代理コードなどの工夫は凝らされているものの)明確に存在している。これは神的存在(神崎美月)や天使的存在(星宮いちご)を必要とし登場人物が傷ついたり加齢したり死亡したりする心配がなかった無重力世界=『アイカツ!』と、神的存在も天使的存在もおらずただ人間が存在するだけの地上で創造と闘争と訓育と収穫と上昇と下降を描き続けている重力世界=『アイカツスターズ!』との本質的な差異にも直接関わっている。
(イントロ・Aメロ・Bメロ・サビそれぞれが別の調で成り立っているかのような『Signalize!』と、メロディ・コードともに一貫して帰着感・着地感が強い『スタートライン!』との差異を聴くべし。)

 最初から大地(調性)を逸脱している無重力(無調)と、「ふわっ」と飛んだあとに着地が運命付けられている重力との違い。これは単に音楽理論のみの話ではなく、ダンスや絵画や映画や文学にいたるまで、まだまだ十分な沃野が開かれないまま残されている。
(クライストは『マリオネット劇場』という随想で、重力の法則に従うしかない舞踏家に人形の無重力[antigrav]を対比している。地上に縛られた人間に対する神的無重力の優越、だろうか? そうとは思えない。古井由吉氏はこの随想をさらにリルケの『ドゥイノ・エレギー』と並べて論じている。「踊り手の微笑」が、「幸福なものの下降」* がうたわれているあの詩と。)







*1 記法に関する註
 もしD♭(C♯)を根音とする長調の曲を記譜する場合、通常は変ニ長調(D♭メジャーキー)で記譜しなければならない。こちらは♭が5つで済むし、もし嬰ハ長調(C♯メジャーキー)で記譜した場合♯が7つもついてしまう上に「E♯」とか「B♯」とかいうトンチキな書き方までする必要に迫られるからである。だが『森のひかりのピルエット』はまずホ長調(Eメジャーキー=♯4つ)の調として始まるので、転調するからといってコード譜の途中で記法を♭のキーに変えてしまうとそっちのほうがしんどくなってしまう。ので、本稿ではサビでの転調先の記法として嬰ハ長調(C♯メジャーキー)を採用する。
 ある意味では、「音の正体を記録しようとした結果その方法が複数あるという事実に直面しトンチキな感じになってしまう」という『森のひかりのピルエット』記譜上の特性は、この楽曲が持つ「鵺性」の一角であるとも言える。それについては本文中で触れる。

*2 双葉アリアの混血性
「妖精」のふたつ名を持つ双葉アリアだが、これを前作『アイカツ!』の Aurora Fantasy (北大路さくら・姫里マリア)と同じ意味の「妖精」と見なして片付けることはできない。双葉アリアを構成しているのは「フィンランド出身・なのに姓が漢字・白鳥ひめと親しい・かと思えば四ツ星と対立関係にあるはずのヴィーナスアークに在籍」などの、統一性を欠いた混血的な要素たちである。これを「歌舞伎役者の家系に生まれた」「感情が高ぶると時代がかった口調になる」などの「純日本人」的 *2-1 な北大路さくらの人物像と比較すると、その差は歴然である。

 双葉アリアの混血性はプロフィールのみにとどまらない。四ツ星学園の巨星であった白鳥ひめに影響を受け・現在はヴィーナスアークに在籍してエルザ フォルテのもとで訓育を受けている、つまり白鳥・エルザ2人のメンターを持つ彼女は、前作『アイカツ!』になぞらえれば(2年目時点での)夏樹みくると大空あかりの混血でもあると見なすことができる。
「神崎美月に見出された持てる者」として登場した夏樹みくると「星宮いちごに見出された持たざる者」として登場した大空あかり、対称的な経歴を持っていたこの2人は、『アイカツ!』本編内では一切関わりを持つことなく終わった。筆者は『劇場版アイカツ!』が公開された際、Twitter(削除済)に「対称的な経歴を持っている夏樹と大空がいるのだから、大空が最終的に神崎を説得する流れに夏樹の助力があってもいいくらいだった。この2人の接触が本編の役割を担いうる機会を逃してしまったのはあまりにも惜しい」という大意の感想を書いた*2-2 。それを踏まえると、『アイカツスターズ!』は双葉アリアの存在ひとつで(『アイカツ!』2年目時点での)夏樹みくると大空あかりの対称性が持っていた可能性を復活させたと見ることができる。白鳥・エルザ2人のメンターを持つ双葉アリアは、前作で言う「星宮いちごに見出された持たざる者」「神崎美月に見出された持てる者」の両翼を備えているのみならず、片方の勢力(ヴィーナスアーク)に所属しているために四ツ星(=白鳥)の色のみには染まらず、さらに白鳥の後継者である虹野ゆめとは(『星のツバサ』をめぐるストーリーがトーナメント戦をクライマックスに持っている以上)必然的に戦闘を運命付けられている、加えて双葉アリアと虹野ゆめは互いに花々を贈りあう良き戦友でもあり、極めつけには(特定の人物ではなく非人称的な「アイカツ」をめぐる)恋敵*2-3 でもあるという、目も眩むような多面的な人物像の綾を獲得している。

 よって、本稿で『森のひかりのピルエット』のアナリーゼを交えていくつか言及したように、双葉アリアは「単一的」で「純血的」な作品でしかなかった『アイカツ!』では到達不可能だった混血性・キメラ性を端的に体現している人物だと言える。「妖精」のふたつ名を持つ彼女だが、無重力世界でヒラヒラ飛び回るのではなく重力世界でピルエット(爪先立ちの旋回)の技巧を磨き続けている彼女、かわいらしくてふわふわして無害なイメージとは程遠い禍々しさを備えた彼女には、「妖精」とは別の「妖」、すなわち鵺のイメージが相応しかろう。

*2-1 便宜的にこの表現を使ったが、筆者はこの言い回しをまったく好まない。理由はもちろん「純日本人など存在しないから」。

*2-2 「でも、ここで大空が神崎をどのように説得したかの流れは今後の重要な伏線として活かされるのだろうし、それでいいだろう」と悠長に構えていた筆者は、劇場版で明かされなかった神崎・大空の対話が本編内で全く活用されないまま放送終了したという事実を前にし、呆然とした。

*2-3 この「恋のような気持ち」という語が『劇場版アイカツ!』でどのような意味で使われていたかはご存知の通りである。周囲の人物の存在が例外なく神崎ー星宮ー大空という単一の線に回収されることによって運営されていた『アイカツ!』とは異なり、「気持ちが通じる」ことを目的としない、非人称的な感情の交通を中心に据えた『アイカツスターズ!』の徹底ぶりには恐るべきものがある。これは『スターズ!』1年目が特定の個人名ではなく「勝利の女神」「ステージの神様」「あの力」を相手にした闘いだったこと、および早乙女あこの恋路が特定の誰か(結城すばる)を射止めるのではなく複数の人々(虹野ゆめ・吉良かなた・2年目からは加えて花園きらら)を含めた感情の交通によって成立していたこと、などによっても諾いうる。

*3 『アイカツスターズ!』重力概観
 月面を舞台にしているにもかかわらず「重力」「地上の糧」をモチーフに据えた『森のひかりのピルエット』ED映像(内古閑智之×石川佳代子)は、すべてのものが放物線を描いて下降する。そもそもED映像は本編内容と直接関係があるわけではないので、『アイカツスターズ!』の根幹とも言える重力をある程度無視した内容でもよかったはずだ(ちょうど前作における『Precious 』のED映像が、宇宙空間みたいなとこで女神みたいなキャラクターたちがふわふわしてる内容だったように)。が、ここ(月面)においても重力が存在する世界であることが明示されており、地球と同様に地上の糧が収穫されており、高くジャンプした後には当然に下降が待っている。この重力に対する、大地に対する敬虔さたるや!

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 ここで前作『アイカツ!』あかりジェネレーション楽曲『チュチュ・バレリーナ』についても言及しなければならない。「つま先で立って星に手を伸ば」すバレリーナを詞のモチーフに据えたこの曲は、本ブログ内でも折に触れて言及したように、ト長調による帰着感の強い楽曲である。ピエール・ルジャンドルによれば、そもそもヨーロッパにおいてバレエが発達したきっかけは、とある教皇が発した「人間はダンスをしてはならない。なぜなら神は人間が空を飛ぶようにお造りにならなかったからだ」というトンチンカンな勅令にあるという。ダンスと飛ぶことが似ていると思ったことすらなかった人々も、その勅令の「禁止」によって「侵犯」の機制が生まれ、飛ぶための技巧=跳躍が磨かれ、バレエという偉大な藝術に結晶したのだと。大地と重力と跳躍。無重力世界から出発して重力のある世界に回帰せんとしたあかりジェネレーションのテーマ性が一挙に集約された楽曲が『チュチュ・バレリーナ』だと見なすこともできる(付け加えれば、この楽曲をパフォーマンスするためのステージは教会堂である。「キリスト教世界の建築物である教会堂の中でダンサーを従えたシンガーがバレリーナの歌を唄う」ことの意味は、先述の「禁止」と「侵犯」とバレエとの関連を踏まえると、ほとんど破壊的と言っていいほどの大胆さを獲得することになる)。
 よって、『アイカツ!』あかりジェネレーションは無重力世界(第1話〜劇場版)との明確な断絶線をまたいでいる。さらに言えば、あかりジェネレーションの中でも傑出したエピソードである第108話の絵コンテ・演出を担当していた佐藤照雄・あかりジェネレーションから参加した脚本家こと柿原優子(初参加は第129話)がそれぞれ監督・シリーズ構成を務めている『アイカツスターズ!』は、『アイカツ!』あかりジェネレーションにおいて(氷上スミレの没落を除いては)失敗した重力世界への回帰、その執拗な再試行の作品として観なければならない。

 以上を踏まえると、もともと混血的なトライブであったヴィーナスアークに双葉アリア(鵺)が参陣し、ツバサを授かった虹野ゆめがついに『MUSIC of DREAM!!!』のパフォーマンスで「飛翔」のアクションを解禁し、そしてエルザ フォルテは陽光の欠乏による鬱[ふさ]ぎの時期にあるという2017年12月時点の『アイカツスターズ!』は、規則正しく配列されたピアノ線のような緊張感を孕んでいる。『アイカツスターズ!』において重力への「侵犯」はどのようにして行われるのか、またどのようにして成功・失敗するのか(『星のツバサシリーズ』が「太陽」をモチーフにしている以上、直接的に連想されるのはイカロスの神話である。フォルテ母娘をダイダロス・イカロスとして見立てた場合、それが予告する帰結は「下降」と「絶命」以外に無い)。この異様に平穏な緊張の持続、それが帰結する『星のツバサシリーズ』のフィナーレにこそ目を凝らさなくてはならない。未だに「『アイカツスターズ!』なんてやだ『アイカツ!』がよかった」とブーたれているような、すっかり無重力世界の甘い夢に骨抜きにされてしまった老齢幼児たちの存在は、もはや問題ですらない。


SAYSING_BYOUING_STRIKES_BACK(『ILLISH Ⅱ』リリース記念インタビュー)



『ILLISH Ⅱ』特設ページ
SOUNDCLOUD / AUDIOMACK



Interview & Text by 甘粕試金 THE HAKATA HARPにて


━━ 『ILLISH』のリリースから半年が経とうとしていますが、何か身辺に変化はありましたか。

 歯医者に通うようになった。銀歯が何本か入ったんで、前作と比べて硬質なライムになってるかもしれん。

━━銀歯のせいかどうかはわかりませんが、『ILLISH Ⅱ』は前作と比べて明確に脚韻の比率が増えましたよね。なにか心境の変化があったのでしょうか。

 RHYMESTERの『ダンサブル』の存在がやっぱり大きいだろうな。変な話だが、あのアルバムを聴いて「やっぱ踏むのはカッコいいな」と思い知らされたんだよ。いま『ILLISH』を聴き返すと、俺のライムは他のリリシストたちのものと比べて……もちろん俺は俺の詞に絶対の自信があるが、ただ詩や散文をのっけてるだけのような、ヒップホップをダシに使ってるだけのように感じられたんだ。だからここで一度 THIS IS DA HIPHOP なものを作っておかないと成長はないと思った。そうして脚韻を意識しながら書いたのが『破瓜参り』のファーストヴァース。『急病死』のトラックもあらかた出来てたんで、『手前どもの手先』のネタが決まってからは一直線だったな。




◎手前どもの手先 (Versus Verses)

━━早速曲ごとに伺いましょうか。劈頭の『手前どもの手先』ですが、これは自作のトラックではなく、既成の曲に乗せる方法で書かれたリリックですね?

 ああ。その前に、ちょっといいか?

━━はい。

 俺、ちょっと前まで「トースティング」を間違った意味で使ってたんだよ。「トースト」、ジャムとかチーズとか乗せるパンの「トースト」が語源だと思ってたんだ。名詞を無理矢理動名詞にして成立したスラングなのかと。でもあれ、実際は……

━━“toast” 、「乾杯する」「祝杯をあげる」の動詞ですね。

 そう。既存の曲に乗っかって音頭をとるって意味だよな。だが、俺の頭の中では「トースト」イング、こんがり焼けたパンに自分のトッピングを盛っていくイメージだったんだよ。

━━あながち間違ってもいないような……

 これは一応訂正しとくべきだと思った。『手前どもの手先』は厳密な意味でのトースティングとはちょっと違うかもしれんが、既存の曲に乗っけて自分のライムをやるって意味では「トースト」イングなんだ。言い換えれば、RHYMESTERがライブでよくやってる「一枚づかい」だな。まずはそのフォームに則ることで THIS IS DA HIPHOP 感を出そうと思った。

━━リリックについて伺います。まずこの曲は所謂「仁義を切る」方式で語り始められていますが……

 実は、最初にあったアイデアは別のものだった。もっと騎士道物語風というか、人称をひとつに固定してガンガンいくリリックを考えてたんだよ。俺はヒップホップに忠誠を誓う騎士で、不逞の輩どもをバッタバッタ斬り殺していく感じの。だが書き進めていくうちにいつのまにか2人目が出てきて、そいつとの向かい合いになった。そこで “Versus Verses” って副題を思いついたんだが、もうこの時点でいただきだと思ったよ。『手前どもの手先 (Versus Verses)』ってタイトルのみで、曲の内容は4分間の無音でもいいと思ったくらいだ。

━━『ILLISH』の時点ではまだリリック中にあなたの名前が出てきてはいませんでしたが、ここでのあなたは積極的に自分のMCネームを出していくなど、記名性の強いものになっていますね。

 1枚目のアルバムを出すまではセルフボーストは控えようと思っていたんだが、ペンに導かれた以上は抗えない。本当はこういう記名性の強いリリックは2枚目のアルバムで全面展開するつもりだったんだ。そっちではアルバムのジャケもセルフポートレイトにするつもりなんだ。元ネタも既に決まってるんだよ。キートンの……

━━え、あの、ちょっと待ってください。これからリリースするアルバムについてはインタビューの最後で伺おうと思っていたのですが。

 ん、わかった。忘れるなよ。

━━『手前どもの手先』であなたは再び “ILLISH” として言葉を撃っているわけですが、前回の『巴塔耶』からさらにモーフィングが進行していますね。ピルトダウン原人の末裔だったり、14世紀のペストの仕掛け人だったり、眼や手足がなかったり……

 今回は病原菌プッシャー、言葉の癌、ファンキー・ファンキー・ウィルス媒介者としてリリックを吐き出すことに専念した。 “Pandemic Plague Prankster” というのが俺のAKAのひとつなんだが、まさに言葉によって人々を蝕み踊らせる魔笛の奏者というイメージだ。

━━眼も手足もなくて、ただ言葉を吐き出し続けるだけの存在、という元ネタはもちろんベケットの……

 ベーコンのでもある。「一身都是膽也」ならぬ「一身都是口也」、口唇化された肉体、沈黙という小節線を絶えず言葉で食い破るシンコペイテッド口唇、オタマジャクシ、嘔吐魔邪口。それが『手前どもの手先』の “ILLISH” であり、自分との絶え間ないバトルが繰り広げられる。この頃身にしみて実感しているのは、他人を能くディスることができない人間は自分自身を能くディスることもできなくなってしまう、だから無限にだらしなくなってしまえるということだ。「テメーがテメーであることに驕る/そうゆう輩はスグ消える/テメーがテメーを戒める/それが出来るヤツは最後に残す」。「手前」という日本語が面白いのは、 “you guys” と他人を詰る意味でも、 “The I of” の一人称でも使えることだ。そして「お手前」では純粋に “technique” , “how I’m killing you” とかの「殺しかた」全般の意味にもなる。だから『手前どもの手先』の曲名が決まった時点でリリックの方向性は確定していたと言えるな。





◎破瓜参り(Tinseltown Graveyard)


━━続く『破瓜参り』ですが、トラックはシニード・オコナーですね。 “I am stretched on your grave” 、詩を『Funky Drummer』のビートに乗せて蘇らせたシニードの曲に乗せてあなたはライムしているわけですが、ここで蘇らせようとしているのは『ハリウッド・バビロン』の無残なスターたちなのでしょうか。

 そうだし、そうじゃない。正確に言えばここでは「死者」を正確に定義してはいない。もうここにいない人間の仕事を担うことをリリックのテーマに置いていたのは確かだ。が、それを『ハリウッド・バビロン』的な無残な死の看取りのみに限定することはできなくて、いつのまにか「自分の仕事が看取られずに死んでいった人間たち」に拡大されていった。要するに『巨匠とマルガリータ』の……

━━「原稿は燃えない」ですか。そもそも『手前どもの手先』の時代を超えて病原菌をばらまくトリックスター的存在がすでに『巨匠とマルガリータ』の悪魔的、とも読めるわけですが。

 原稿は燃えてしまったけど原稿は燃えない、書かれたけど読まれなかったそれを聴き取ることはできるはずだ、耳を澄ましさえすれば。耳を澄ますこと、聴き取ること、未遂に終わった仕事たちをどうにかして無駄には終わらせないこと、の実践をライムでやっている、と言えばキレイにまとまりすぎだろうか。しかし考えていたのはまさにそのことだ。丁度いとうせいこうが『想像ラジオ』でやっていたような……

━━ラテンアメリカっぽいアイデアとも言えますよね。いとう氏も『想像ラジオ』のインタビューでラテンアメリカ文学とヒップホップとの関連について言及していましたが。

 そうとも言えるが、『リアリティのダンス』みたいに死者の人生に入り込んで語り直すというよりは、そこまで到達できない、土の下にいる骨たちのマイクリレーに参加できない生者としてのケジメというか、その「聴き取れなさ」に向き合うことでなにか収穫できたらと思った。「生まれた時からそうさ俺ら皆/土の方へ向かうと書いて土方」のラインに全てが集約されていると言っていいだろう。まだ埋葬されてはいないのだから土の下には行けない、だから地上で生きている限りは「土方」として死者たちの声と未遂の仕事たちを引き受けなければならない。ってことを、軽快なダンスとしてライムしたかった。まあ、韻はちょっとカタめだが。

━━「しかしどうやら死者と生者とでは/拍の数えかたが違うらしい」というラインはしゃれていますね。BPMを変えずに拍の取り方を変えることで少しだけ死者たちのダンスに近づいて終わる、ということですか。

 そうまとめるとカッコいいが、単にその時期に採取してたサンプリングネタを繋いでるうちにそうなったんだよ。『急病死』では一定の拍数をどう分割して遊ぶかに専念したが、『破瓜参り』でもBPMは一定のまま、偶数で取るか奇数で取るかのスイッチの切り替えで遊ぶことに専念したと言えるかもしれん。前者はファストラップでの偶数的痙攣を、後者はポリリズミックに吃りながらの遊戯と言ったところか。いずれにしても、俺は作る前に執拗に計画を立てる人間じゃない。ただサイコロを振った結果そうなっただけだ。俺はそれに合わせてフロウするまでだ。





◎急病死 (Sick-Stee 9)

━━『急病死』は前回のインタビューで予告されていたツェッペリン『The Crunge』ネタですが、メインのネタで使われてるトラックは?

 paraoka というコンポーザーの『バベリズム』というアルバムに収録されてる『埃雪』って曲だ。これはぜひ紹介しておきたい。2010年に発表された同人音楽のアルバムなんだが、ひじょうに硬質で残酷で、決して情緒に傾くことのない、徹底したカタストロフィの描写に専念されている音楽作品だよ。もちろん「カタストロフィ」の語源は「下に・ひっくり返す」。 “verse” “versus” の語源である “vertere” とほぼ同じだということがわかるだろう。「回す」って意味だからな。「下に・ひっくり返す=カタストロフィ」という語が『バベリズム』という崩落・大混乱を思わせるタイトルにどれほどぴったりくるか強調するまでもないだろう。ちなみにアルバムのジャケットは塔から降下する花束の絵だ。そういう降下や崩落のさま、地上に叩きつけられるモノの音、そこで展開されるのがカタストロフィ、ちゃぶ台返し、テーブル回し、つまり賭けだということがわかるだろう。『手前どもの手先』『破瓜参り』から続く「土の臭いのする・重力圏での仕事」のテーマは、この『バベリズム』からのトラックによって一瞬でヒップホップ的に接続される。

━━リリックは前半は数え歌のような遊び心で占められていますが、最後のヴァースではシニカルさを抑えて「21世紀前半の軽症患者たち」を鼓舞するような内容になっていきますね。

 そう、単に皮肉を言って見下して終わるだけならツイッター中毒者でもできる、というか連中が四六時中精を出してることと同じだからな。それをラップでやってもしょうがない。前半は「21世紀前半の軽症患者たち」を嘲笑し尽くすが、最後には自分でばらまいた皮肉にさえ風穴を開けて突き抜けるべきだと思った。言葉を使えばこんな軽やかな舞さえ、病さえ可能なんだってことを示すためにな。
 話が飛ぶようだが、俺は「ロック」というジャンルはもうとっくに腐乱した自意識に蝕まれたゾンビどもの巷と化してしまったと思ってる。刺激的な皮肉や嘲笑を撃っているつもりでも実は心底怯えながらの右顧左眄に終始している、そんな踊れもしなければ笑えもしない、前髪の長い黄口児どもの憩いの場が今では「ロック」と呼ばれている。カナブーンやらキュウソネコカミやらを聴けば分かることさ。もっとも最近では、ヒップホップと呼ばれるジャンルでさえ卑屈なジャーゴンで何かを諷した気になっている勘違いくんたちが流れ込んできてるけどな。もちろんクリーピーナッツのことだが。

━━「21世紀前半の軽症患者たち」というのは、そういう「言葉が軽いのに足は重い・踊れない人間たち」のことですか。

 的確な要約だ。思うのは、「どうしてこの世紀はこんなに軽症なんだろう?」ってことだ。どいつもこいつも、まあ、言葉が軽いよ。言葉を軽やかに使うことと、言葉が軽いまま自堕落なサエズリを繰り返すことの区別さえつかなくなってる。合衆国の大統領がツイッターで汚言を垂れ流してる世紀なんて、いくらなんでも軽症すぎて失笑すらできない。だから俺のような “ILLISH” が必要なのさ。本当に病んだ言葉ってのはこういうことだと、言葉の鍛錬を積んだ人間はこんなにも能く笑いうるんだということを端的に示せばいい。俺は世界に蔓延しているフリック入力の風邪を千々に引き裂き、より重篤な病原菌を投下し、三千小節の彼方に走り去る。 Sick Road, I’m in it.

━━私も、「如何にして人々をSNSの阿片窟から脱出させるか?」について考えることが多くなったのですが、こうして音楽の細菌兵器をSNS世界に投下することで人口削減を図るのは有効かもしれませんね。

 実際、SNSは良いと思った音楽や映像のシェアの場としてはある程度利用価値があると思う。だがそれにしても副作用が強すぎる。だからこうして能く練られた言葉の病原菌をSNS世界に蔓延させることは、実際的な政治的闘争にもなりうるってことさ。


◎SPREADING DA DISEASE


━━さて、『ILLISH』『ILLISH Ⅱ』を経て6曲出揃ったわけですが、今後の予定は?

 1枚アルバムを仕上げる。今出揃ってる6曲に4曲加えて10曲構成の予定だが、『息づかいの礼拝式』は入れるかどうかわからないんで5+5で10曲になるかもしれん。アルバムタイトルは『癲』。完成はまあ、早くて2018年末、遅くて2019年以内といったところか。

━━ついに、という感じですね。完成の暁には、広報担当として方々にバラ撒く用意があります。

 現時点での6曲でも十分遊べるからな、今のうちに耳の聡いヘッズを陽性にしておきたい。それについては……

━━用意してあります。『ILLISH』『ILLISH Ⅱ』のダウンロードQRコードと、各曲のパンチラインが入った “Poisoned Punchlines” カード。

 おっ。

“Poisoned Punchlines”
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━━SAYSING_BYOUINGの流感に協力したいと思ってくれたヘッズは、これを印刷して公園に貼るなり電柱に貼るなりクラブに持っていくなりレコード屋に置くなりすれば、それだけで蔓延に参与できます。

 フォントが素晴らしいな。しんにょうの点がふたつついてるやつだ。

━━A4サイズですが、縮めるのも拡大するのもお好きにどうぞ。

 もちろん、『ILLISH』『ILLISH Ⅱ』の楽曲をCD-Rに焼いてバラ撒くのも有効だ。その場合、曲順を並べ替えたりミックスしたりしても一向に構わない。というか曲を削ってもいいし、全然関係ない曲を足してもいいし、なんだったら無音でもいい。CD-Rと一緒に万札とかを入れて駅とかに放置するのもいい。もちろん散布用に “Poisoned Punchlines” カードを何枚か同封してもいいし、吉野家の割引券とかを入れてもいい。一方的に贈り届けられる謎めいた音楽。そのフォーマットを採ったものは、SAYSING_BYOUINGという名のムーブメントで呼び名されるだろう。

━━あなたがSAYSING_BYOUINGに感応したなら、ぜひ自由闊達にこの病原菌を広めてください。もちろん、ダウンロードページに埋め込まれたツイートボタンを押すのも有効です。それは軽症患者たちの萎えきった風邪を一掃する、もっと厄介な病を放流することを意味します。

 俺たちは無料という、この世で最も高価な価格でお前たちに病を押し売る。翔ぶことばかり、はるか上方から勝ち馬を品定めすることばかり夢見ているお前たちを、重力に敬虔な言葉どもが打ち拉ぐ。鳴くことすらできない森の小鳥のままでいることなんか諦めて、さっさと路上の人になりな。お前の憂鬱と俺の官能とがひとつの労働歌として唱和するその瞬間のために、俺たちは仕事を続ける。摺れた踵のささくれと、もつれた舌の粘つきが、実は同じものなのだと知るとき、俺とお前の対立[Versus]は詩句[Verse]に変わるだろう。 





『ILLISH Ⅱ』特設ページ
SOUNDCLOUD / AUDIOMACK


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