ツバサ・2年目・風雲急(『アイカツスターズ!』第51→第53話)

:前置き:
『アイカツスターズ!』第51話は公式HPで常時無料配信されています。が、このシリーズを全くご覧になったことのない方はBlu-rayボックスを買うバンダイチャンネルに課金するなどして1-50話を通ったうえで第51話を観ることを強くおすすめします。なぜなら1年目を通ったか否かで第51話のもたらす衝撃に天と地の開きが出てくるからです。もちろん単品でも凄まじくよくできたエピソードですが、 "The Best of Both Worlds" を単品で観ただけでスタートレックTNGのすごさが全部伝わるわけではありませんよね。『アイカツスターズ!』もスタートレックTNGと同様に緻密に作られたシリーズ作品なので、ぜひ横着せずに第1話から観てみてください。




【目次】
◎Face it with a grin(第51話:笑みで織り成されるエモ)
◎君の閉塞的な脳味噌に(第53話:乾いた不毛[aridity]とその旅程)
◎Boneborne文房(その「文藝」の射程)
◎「ゴシック」考





◎Face it with a grin(第51話:笑みで織り成されるエモ)

「2シーズン目の最初のエピソード」の始め方にも色々あります。前シーズンには無かった新要素が追加されるのでしょうし、それを前面に押し出すのでも徐々にゆっくり移行するのでもいいのでしょう。前シリーズ『アイカツ!』の第51話がそうしたように「1年飛んだ間に色々ありました」というアクロバットを使ってもいいわけです。
 さて、『アイカツスターズ!』2年目最初のエピソード(第51話)はどのようにして始まったか。何をエンジンに据えて新シーズンを発進させたか。「発情」です。

・発情開始

 始まり方はごくごく平穏なものです。今年度の歌組S4に就任した虹野ゆめ。下級生やファンたちから声援を受け、子どもたちからの羨望の眼差しを受けながら四ツ星学園を案内する序盤パートは、丁寧なチュートリアルとして機能しています。が、第51話の凄まじさは、冒頭で提示した「前年度まで共有されていた前提」を後半で次々と破壊していく、その容赦の無さにあります。

 2年目開始前からその存在が煽られていた客船型アイドル学校『ヴィーナスアーク(以下VA)』。その総大将であるエルザ フォルテが白鳥ひめを引き抜くために接近し、早乙女をミューズに選んだはずのブランド『FuwaFuwa Dream』がいつのまにかVAの花園きららに占領され、四ツ星関係者は急速にVAの脅威に席巻されてゆきます。

 虹野ゆめ、桜庭ローラ、早乙女あこ、香澄真昼の4人がVA船内に侵入するシーンがあるのですが、これがまた強烈です。まず、四ツ星学園内ではあれほどS4として持て囃されていた虹野たちが、VA船内では一般の生徒にさえ見向きもされないのです。S4は四ツ星学園内で毎年ブレイクダウンする階級制にすぎないので、S4であるだけで学外で無条件の敬意が払われるわけではないのは当然なのですが、この落差たるや。

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(上):四ツ星学園内で下級生から羨望の眼差しを受けるS4
(下):VA内で一般生徒から見向きもされないS4

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 そのうえ、血気にはやった早乙女あこはガードマンに取り押さえられてしまい(誇りであるはずのS4制服の襟首を掴まれる姿の滑稽さ……)、VAのスタッフから船内への不法侵入を紳士的に(しかし厳しく)咎められて追放されてしまうという、散々な結果に終わります。とぼとぼ歩いて港を後にする現S4の姿を引きで写す突き放しかたも含めて、この一連のシーンの流れで「彼女たちが1年かけて獲得したS4の座は、獲得すればそれで本領安堵といった類のものではない」こと、今まさに外部に脅威(VA)を抱えていることさが十分に伝わるわけです。


 直後のひめ勧誘シーンから絵面がガラッと変わるのが第51話です。緊張感に満ちた交渉の場面での逆光という『ゴッドファーザー』みたいな絵がきたかと思えば、二者が相対する背後で雷がドーンという三国志の「君と余とだ」*1まんまの絵がきたりもするのです。序盤の丁寧なチュートリアルの絵面と並べると、同じ作品とは到底思えません。24分間で起こる出来事のフェイズが切り替わるたび、多様なキメ絵の数々が入れ替わり立ち替わるのが第51話です。

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すべて第51話の24分間で使用されているカット


 新たな脅威を迎え、文字通り暗雲が立ち込める四ツ星学園。そこにエルザのパフォーマンスを見るために駆けつけた白鳥ひめの姿が。ひめは気圧の影響で雨天時に体調を大きく崩してしまう人です。前年度の四ツ星で頂点の実力者であった彼女が不安げに雨雲を見上げる絵は、まさにこれから事態が風雲急を告げることを無言のうちに語ります。

 さて、第51話最大の見せ場となるのがエルザによる『Forever Dream』のパフォーマンスシーン。このステージは「今まで曲名すら発表されていない、どころかDCDゲームでプレイ可能な状態ですらない楽曲がアニメ本編で先行公開される」という異例の措置によるものです*2。「たぶんED曲の『Bon Bon Voyage!』でくるんだろう」と悠長に構えていたところを奇襲された視聴者は、アニメ本編の観客と同様に呆然とエルザの姿を見つめることしかできなくなります。

 ステージ後の沈黙を破る拍手の音。それは白鳥ひめによるスタンディングオベーションでした。その顔には笑みが。「あなた、さっきまで具合悪そうにしてなかった?」とんでもない。彼女をして立ち上がらせるほどの力がエルザのパフォーマンスにはあったということです。
 直後、次々に四ツ星学生たちのリアクションが始まります。四ツ星の人間からしてみれば「今まで身内でポーカーしてたらいきなり余所者がやってきてロイヤルストレートフラッシュを出した」みたいな状態なわけですから、動揺しないわけがありません。ひめと同様に笑みを浮かべている者(二階堂)、ドレスの完成度に撃たれている者(白銀)、その実力に絶句している者(香澄、桜庭)、様々ですが、皆一様に色めき立っています。「すごいものを見せられてしまった」という衝撃を刻みつけたエルザのパフォーマンスは、事件性としてはセックス・ピストルズのマンチェスターライブ(1976年)に近いものでしょう。その会場に居合わせた42人の観客全員が「発情」した結果マンチェスターの音楽が変わったように、四ツ星でのエルザのパフォーマンスは『アイカツスターズ!』2年目を突き動かす直接の動機として据えられている。つまりエルザは四ツ星学園全体を発情させることに成功したのです。


 ステージ後、虹野と白鳥の対面シーン。背景は夕焼け。先ほどまで天を覆っていたはずの雨雲が消え去っているとともに、明らかに白鳥ひめの様子がおかしくなっているのがわかります。 “今までのアイカツだけではきっと、彼女のステージを超えられない” 。セリフだけ抜き出すとただ重々しいだけですが、白鳥の表情を見てみましょう。両目を爛々と輝かせて口を綻ばせる白鳥ひめ。1年目では一度も見せなかったタイプの笑みをここで剥くのです。

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画像上(第35話):ひとまず虹野の力を御することに成功し、安堵の微笑をうかべる白鳥
画像下(第51話):エルザの実力に発情し、闘争の笑みを剥く白鳥

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 『アイカツスターズ!』では一度使われた楽曲にも多様な意味が加えられて*いましたが、それは人物においても同様です。ここでは前年度で一番揺るぎない人格者だった白鳥ひめの新たな側面を剥いて見せている。こんな笑い方をする人だったとは
 ちょっと考えてみていただきたいのですが、ものすごい敵が外部からやってきたとすれば、「大変じゃあ、わしらはもうおしまいじゃあ」と深刻ぶって演出することも可能だったはずです(というか、新しいスターウォーズの予告編*がそういうのでしたよね)。が、『アイカツスターズ!』はそんな安易には流れません。第51話後半の凄まじさは、深刻ぶった演出などによらない、「笑み」によって多層的な意味を語らせることに成功してしまったことにあります。


 ギンギンになってしまった白鳥が退場した後、エルザが虹野に接触します。 “私といらっしゃい。あなたをパーフェクトにしてあげるわ” 。メフィストばりの誘惑ですが、虹野は “行けません” とエルザに背を向けます。その背中を見やるエルザ。その顔に満面の笑み。

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 なんて良い顔なんだ。最高です。遅かれ早かれ私のものになるのだから今は泳がせておいてやろう、と言わんばかりの笑みではないですか。
 しかしここで、1年目を通して観てきた視聴者はひとつのことに思い至ります。エルザは白鳥の実力を見込み、虹野もろともVAに迎え入れるために勧誘しましたが、エルザは四ツ星学園外の人間であるため、白鳥と虹野が「不思議な力」を払拭すべく経過したあの苦しみを知らないのです。『アイカツスターズ!』において人間同士の関係性は双方向性のカップリング(×)よりもむしろ一方向性のフロウ(→)によって編まれていることは以前書きました*。このシーンは「エルザ→虹野→白鳥」のフロウで成り立っていますが、ここで四ツ星のアイドルたちを一方向的に睨んでいるエルザは、いつか(「不思議な力」をめぐる白鳥と虹野の苦悩を知らないことによって)四ツ星側から睨み返される日が来るのかもしれない、そんな危うさまでもが仕込まれている。ただ一方的に押されるだけでは終わらない四ツ星の未来が演出面に埋伏しているのがこのシーンです。

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 その証拠に、虹野はもはや泣きません。「不思議な力」に頼りっぱなしの泣き虫だった一年前の姿はそこにはありません。エルザの誘惑を振り切って逃げた虹野ですが、遠景のカメラからは彼女がどのような表情を浮かべているのか定かでない。歯を食いしばって苦悩しているように見えないこともありません。

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 そこで、虹野の表情のアップ。第51話の最後のカットがこれです。その顔には満面の笑み。外部からとんでもない実力者が現れ、今までのアイカツがほとんど覆されてしまったにも関わらず、彼女は笑った。もちろんこれは第1話ラストの夕焼けのシーンと対になっています。「不思議な力」に頼った反動で倒れ、わけもわからず保健室で目覚め、目の前に憧れの白鳥ひめが現れたショックで泣いてしまっていた虹野が、その一年後には新たな脅威を前にして笑っている。この状況で笑みを浮かべることができる人間になるために1-50話の1年間が必要だったことを無言のうちに説得されるのがこのラストシーンです。1エピソードも無駄にしない1年目の構成も見事なものでしたが、それを叩き台にして新たな闘争が走り出すエモを演出することができた、これは言うまでもなくシリーズ作品の中でしか成し得ないものです。

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 しかしまあ、白鳥もエルザも虹野もなんと良い顔で笑っているのでしょう。世の中には眉間にしわを寄せてしかめっ面で「重厚なテーマ」とやらを語っていれば頭が良く見えるという可哀想な思い込みに取り憑かれた作り手たちがいますが(クリストファー・ノーランがその代表格です)、『アイカツスターズ!』のように「笑み」ひとつにここまで多層的な意味を持たせることができる作品は稀有としか言いようがありません。それを実現させるために如何に執拗な言葉の仕事(意味付け)が必要とされるかは、書くまでもないことでしょう。



*1 そもそも船が襲ってきて会議や交渉を繰り返して決戦に至る話なので『星のツバサシリーズ』はかなり赤壁みがあるのですが、VA組のキャラクター性はエルザ=孟徳 レイ=荀彧 きらら=賈詡 小春=徐庶にそのまま置き換え可能です。エルザは「有能な人間欲しがりがち」「手段と目的をごっちゃにしがち」「積極的に敵を作りがち」と既にいくつかの点で強い孟徳みを見せてくれているのもたまらなく魅力的です。
 また、前シリーズ『アイカツ!』が日本史的(視える神がいて万世一系がある)だったのに対し、『スターズ!』は明確に中国史的(神は視えなくて非持続と抗争と断絶がある)構造を持っていてそこが強みなのですが、ここでは詳述しません。

*2 この異例の措置を取ることができたことも第51話の偉大さの一つです。というのは、前シリーズ『アイカツ!』はアニメ本編とDCDゲームのどちらが「主」で「従」なのか不鮮明なまま終わってしまいました。以前、どちらかに主従を決めた場合の利点欠点を考えたりしました*2-1が、『アイカツスターズ!』は「今まで曲名すら発表されていない、どころかDCDゲームでプレイ可能な状態ですらない楽曲がアニメ本編で先行公開される」という措置をとることで「アニメ本編が主、DCDゲームが従」であることを宣言したのです。そもそも1-50話の間であれほど重厚なドラマを見せることができた『スターズ!』がゲームとの整合性のために本編を犠牲にするはずがない(そんな短絡をシリーズ構成柿原優子が犯すわけがない)ことはほとんど自明ですが、まさか次弾(星のツバサ2弾:2017年6月稼働予定)で解禁予定の楽曲とドレスを本編のドラマ性拡張のために使ってしまうとは。前シリーズでの「毎弾ごとのキャラの増加とPRのインフレ」「続々追加される楽曲と本編での使われ方との齟齬」などの問題がどれほど周到に避けられていることか。

*2-1 ところで、この記事で「話数のカウントもリセットされて、タイトルも刷新されたリブートの新シリーズが開始された場合、そういう(一つの作品としての完成度を目指す)アイカツ!が始まるのかもしれない」と書いていますが、この通りのことが『アイカツスターズ!』で完璧以上の精度で達成されていることに驚きます。もちろん「きっと制作スタッフはこのブログを読んでいたんだ」とかふざけたことを言うつもりはありません。『スターズ!』のスタッフが如何に前シリーズの問題点の数々に自覚的で、現在具体的に対処できているかのあらわれだと言えるでしょう。





◎君の閉塞的な脳味噌に(第53話:乾いた不毛[aridity]とその旅程)

 さて、エルザの圧倒的なパフォーマンスに文字通り色めき立った四ツ星ですが、白銀リリィも情動を突き動かされた者の一人です。昨年度末のS4選では「S4になってから」という理由で封印していたPRドレス製作を解禁し、自分のブランドに星のツバサを下ろすために行動を起こします。冒頭から『未来世紀ブラジル』まんまの飛翔イメージが入りますが、白銀リリィがドン・キホーテ的人物であることについては1年目で周到に描かれ尽くされたことなので、何も驚くことではありません。

 以前*『アイカツスターズ!』における書物描写の綿密性について書きましたが、第53話でも図書室が重要な役割を果たします。当然ですね。白銀リリィにとっては読み・書(描)くことと自分自身を書き換える(デザインする)こととがイコールになっているのですから。自身のドレスデザインの決定打を決めあぐねていた白銀リリィと、同じく自身のデザインに迷走を重ねていた虹野ゆめとが偶然に出会いを果たすのが図書館です。
 このシーンは、自分がなにを書(描)きたいのかもわからないまま悶々と資料を渉猟した経験のある者にとっては静かにしかし痛切に突き刺さるシーンであるでしょう。虹野と出くわした白銀は “奇遇ですね” と驚いたのち、なんとも柔らかな笑みを浮かべます。第26話の保健室シーン*を思い出せば分かるとおり、虹野は白銀にとって(幼馴染の二階堂ゆず以外で)自分の話を理解してくれる唯一の人物なのですから、「この人になら話せる」と言わんばかりの、覆っていたガードが崩れるかのような微笑みを浮かべてしまうのも無理のないことです。

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“多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない”*1。白銀にとってまさに第53話は「乾いた不毛[aridity]」の時期にあったと言えます。談話室にて、白銀は虹野を前にして滔々と自分の仕事の版図を述べたてます。

“ドレスはいつも流行に左右されます。だから、一時放ったまばゆいまでの光も、いつかは色あせてしまう。私のブランドでは、時を経てもなお、輝き続けるドレスを作りたいと思っていました”
“先日、それを目の当たりにしたのです。エルザ フォルテのスタープレミアムレアコーデ、あの星のツバサは、永遠に輝き続けるものです” 。



 ここで、虹野が白銀の話をすべて理解し尽くして聞いているわけではないことに注目しましょう。虹野も白銀と同じく創作の迷いの中にいる人ですが、この二人は作風も人格も思考法もまったく違うので、ツーカーで話が通じるわけではない。しかし、誰でも身に覚えがあるのではないでしょうか、自分がなにを産みたいのかも定かでない、自家中毒のような想像妊娠のような時期に偶然に友人と出会い、近くの店に入って自分の迂路について延々と話し、否定も肯定もなしにただ苦笑まじりに話を聞いてもらった、そんな経験があるのではないでしょうか。もう一度引用します、“多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない” 。加えて引用します、 “自分が考えていることを述べるのに脈絡はいらない。自分の時間と身体で考えてきたことは、話す相手にとっては突然の飛躍、文脈の寸断でしかありえない。そういう飛躍を許さない人間に思考はない。突拍子もないことを言い出す友人と、突拍子もないことを聞いてくれる友人はいるか?”* この二つの引用で共通して述べられていることこそが『アイカツスターズ!』第53話の偉大さであり、そのことについては結論部で明らかになると思うので、覚えておいてください。

 さて、対話を経て白銀の “新たな夢、目標” を叶えるための手伝いをしたいと申し出る虹野ですが、ここでもう一人の「友人」が現れます。白銀にとっては幼馴染・親友であり、虹野にとっては昨年度で最も苦しんでいた時期にリハビリを手伝ってくれた恩人である二階堂ゆず。白銀・虹野どちらにとっても「助け」になってくれた人ですね。その二階堂が日課として白銀とのトレーニングに取り組むシーンがあります。ようやく腕立て伏せが二回できるようになったばかりの、「虹野がまだ知らない白銀の姿」を自慢げに見せつけるという、何ともくるおしいシーンです*2。白銀リリィにとって「甘え」の対象たりうる友人と過ごす時間の穏やかさ、が描かれたかと思えば、直後に “ちょっと見ていただけますか” “まだ完成には至っていません” と自分のワークインプログレスを見てもらうシーンに移りもする。日常のなんてことなさと創造する人間の産みの苦しみとが同居して進行するのが第53話です。さて、「乾いた不毛[aridity]」からの脱出をめざすこのエピソードはどこへと向かうのか。

“こんなときは甘い飲み物だぞ” 。外出です。かといって書店とか美術館とか映画館とか、直接にデザインの着想を得られそうな場所に行くわけではありません。いつも友人と過ごすような過ごし方をいつも通りに過ごすだけなのです。まったく劇的ではありません。飽くまで穏やかに時間を過ぎ行かせることなのです。
 もちろん、着想の訪れを渇望する白銀は “ゆず、ありがたいのですが、今はそんな気持ちに……” と躊躇します、が、次の瞬間に彼女は鳥の声を聴く。見上げれば窓に鳥籠。小鳥の声とともに流れる時間の静けさに微笑む白銀ですが、次の瞬間に「ハッ」と表情が変わる。着想が訪った瞬間です。
“ゆず、「書を捨てよ、町へ出よう」! ある劇作家の言葉です、その通りでした! ありがとう、さっそくデザインを……” と上ずった声で訪いの喜びをまくしたてる白銀ですが、 “ほい。慌てない慌てない、シェイクを飲んでからでも遅くないぞ” と穏やかな友人の声がそれを制する。この「乾いた不毛[aridity]」からの脱出の瞬間でさえ、全く劇的でない日常の穏やかさに回収してしまう。逆に言えば「創造する人にとって、飛躍を可能にする着想が訪れる瞬間と日常の穏やかさは矛盾しない」と言い切った、「これはそういうものだ」と言い切ったことで『アイカツスターズ!』第53話の偉大さは明らかなのです。もちろん、創造性の訪いを記録した映画やドキュメンタリー作品は数多くありますし、私もその手の傑作を多く知っています*3。しかし『アイカツスターズ!』第53話は、「毎週放送のシリーズ作品の中の1エピソードとして見せることで、創作する人々の迷いの道の長さを十分に偲ばせることができる」「実録映像ドキュメンタリーではなくフィクション作品であるため、実写ではそうそう収められないような『訪い』の瞬間を記録することができる」などのいくつもの点と噛み合い、たった24分間のエピソードで計り知れないエモを獲得しています……と、こういう賛辞の述べ方さえも適切ではないのかもしれません。繰り返しますが、異様な飛躍の瞬間と日常の穏やかさを矛盾しないものとして、まったく劇的でない、「穏やかじゃない」じゃないものとして描いたのが第53話の偉大さなのですから。

 もしかしたら、「いや、その着想がどういうものだったかがぜんぜん描かれてないじゃん、わかるように全部説明しろ」として当該シーンが不十分であるとする向きもあるのでしょうか。しかしあなたは誰かに代わって夢を見ることはできません。エリオットが『荒地』の1行目を書いた瞬間に頭の中で何が起こっていたか、コルトレーンが『ジャイアント・ステップス』の転調部を次々と書いている最中に脳味噌がどういう状態になっていたか、について何も知ることはできません。誰かの頭の中を覗き込むなど不可能だからです*4。しかし、友人と過ごす穏やかな時間の中に着想を得て、結果として決定打のデザイン(棘と薔薇で飾った鳥籠型のワイヤーパニエ)を書(描)き込んだ白銀が尋常ならざるパフォーマンスを見せる、荒野のように乾いた脳味噌に微量の閃光が差した瞬間にすべて変わる、そんな奇跡を共に待ちわびる穏やかな関係がある、それも日常の中に。特権的な劇的さとはなにも関係がないところに創造性が胚胎していると言い当てたこと、第53話の無比の偉大さはそこにあります。

 白銀リリィのひとつの達成を見届けた虹野は言います、 “わたし、リリィ先輩のドレスづくりのお手伝いをして、ひとつわかったことがあるんです。あれこれ迷うこと、それ自体を楽しまなきゃなって” 。この言を受けた瞬間の白銀の表情と声がまた絶妙です。 “そう……そうですね。本当に” 。自分で思いもしなかったことを友人に言い当てられた、自分自身の盲目をさえも喜ぶように笑うのです。あの「乾いた不毛[aridity]」の時間を一緒に過ごしていたときにはお互いに気づかなかった、そういうものをいつのまにか持ち帰っていた、この歓び。「自分で思いもしなかった」「お互いに気づかなかった」ことが重要なのです。もし創造行為と呼ばれるものが、自分の頭の中にあるものをそのまま外に出すだけの作業だとしたら、それは銀行口座から預金を引き出す作業と同じです。そんなものは創造行為の名に値しません。自分で思いもしなかったことを持ち帰ること、その旅を供にしてくれる友人がいること、その時間が日常の穏やかさと地続きであること、をここまで明晰に描き切った作品を私は他に知りません。「クリエイティヴ」だの「プロフェッショナル」だのと仰々しい気取りとは何の関係もない、理論と鍛錬と自戒の果てに創造性が受胎する、その瞬間を記録することに成功してしまったのが『アイカツスターズ!』第53話なのです。



*1 中井久夫著「創造と癒し序説」ー創作の生理学に向けて『アリアドネの糸』みすず書房刊 297P
 および、それを下敷きにしていると思われる佐々木中さんの講義ノートも参照のこと


*2 この描写をつかまえて、「腕立てを二回しかできないような病弱な人が、チェーンソーを使ったり(第37話)ロケットランチャーを撃ったり(第51話)できるのはおかしいじゃないか」と言ってなにか「設定」の「矛盾」を指摘した気になっている人間を数件ほど確認しました。まあ、優れた作品を前にしてその程度のことしか言えないのかと憐れむしかない人々はどの時代にも一定数存在しますし、本稿ではそういう可哀想な人々の「批判」などは一切無視しています、が、この件に関しては無視するわけにはいきません。

 簡略にいきます。「腕立てを二回しかできないような病弱な人が重い機械を扱えるわけがない」。この手の物言いを平気でしてしまえる者は要するに、「身体的ハンディキャップを負った人間が、重い道具を扱うような、大変なことができるわけがない」と言いたいわけですね。しかし、例えば、足が動かなくなった人が車椅子を使って驚くべきダンスをしてしまえること*は誰でも知っているでしょう。片腕を切断したドラマーが機材の工夫で何の問題もなく演奏できること*、指に障害を負ったギタリストが流麗な演奏をすること*、それどころか両腕が動かなくても両足でギターを演奏してしまえる人さえいること*、などは音楽やダンスを愛する人なら誰でも知っていることではないですか。渡邉尚の言う “特定の物と契約することで、その能力を引き出す” とはまさにそういうことです。「病や欠損を負ったから不完全」なんじゃない、そこから外部の物質と関係を結んで驚くべきことを成し遂げることはいくらでも可能です。それを言うに事欠いて「身体的ハンディキャップを負った人間が、重い道具を扱うような、大変なことができるわけがない」と言い募る「健常者」は、病や欠損を負ったところから創造を始めている人々の行為をすべて無かったことにしたいと言っているのに等しい。自分で言ったことの意味を分かっているのでしょうか。わかっている? よろしい。では、言葉の責任を取っていただきましょう。もしあなたが、本当に自分の言ったことの意味を分かっているなら、人間の身体は生まれついた五体満足の状態が完全であり、それ以外の創造性は宿らないと考えているのと同じことになります。すべての器官には決められた使い方しかないし、一度損なえばもうどうしようもない、と考えているのと同じことになります。では、今すぐ生命活動を停止してください。生まれついた五体満足の身体が完全でそれ以外は何もない、何も変わりようがないし付け加えようがないと言うのなら、どうしてその身体で生き続ける必要があるのですか。生命活動を停止してください。自分の言葉の責任を取るとはそういうことです。生きるのをやめてください。今すぐ。どうぞ。ほら、どうせできっこないんでしょう。ならば今すぐそのナメた言葉の使い方を改めることです。五体満足のくせに頭も手も足も口も耳もろくに使ってないからそのザマなんです。「健常者」で「五体満足」で「マジョリティ」であることがどんなに誇らしいのか知りませんが、病や欠損を負うことと創造不可能性を結びつける思考は根本的に差別的で醜い自惚れに基づいたものであり、また事実と反するものです。自分がどんなに惨めな「肉体」の「思考」にしがみつかれているか、そのちっぽけな脳味噌で一度考えてみたらよろしい。

*3 たとえば三宅唱監督の『THE COCKPIT』という映画があるので是非観てみてください。たった60分弱の映像の中に創造の歓びが織り込まれた素晴らしい映画で、自分にとって「創作ドキュメンタリー作品」のナンバーワンでした。が、『アイカツスターズ!』第53話の途方もない24分間を見せられてしまったあとでは、それも再考の余地が出てきています。

*4 これはもちろん、劇中の登場人物に見えているものと視聴者に見えているものとの間に断絶を置くことで豊かな作劇を生み出している*『アイカツスターズ!』の本質と噛み合うものです。





◎Boneborne文房(その「文藝」の射程)


 前項で「(創作中の)誰かの頭の中を覗き込むなど不可能」と書きましたが、しかし『アイカツスターズ!』は綿密な言葉と意味の連なりで編まれた作品なので、なぜ白銀リリィが「鳥籠からの鳥の声」からあの決定打のデザイン(棘と薔薇で飾った鳥籠型のワイヤーパニエ)を引き出すことができたのか、について理路づけることは可能です。

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 まず、白銀リリィによる『ロゼッタソーンコーデ』のワークインプログレスを確認しましょう。このスケッチの時点でも見事なものですが、デザイン自体は前シリーズブランド『ロリゴシック』の名作『ゴスマジックコーデ』の類型から出ないもの、だとは言えそうです。

 さて、完成形がこれです。ドレス着用モーションの直後、ワイヤーパニエが文字通り目に突き刺さるように飛び込んでくるカットは非常に衝撃的です。

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 この時点でいくつかの「なぜ」を引き出すことができます。

1:なぜ、白銀リリィは「鳥籠からの鳥の声」からワイヤーパニエのデザインを着想したのか
2:なぜそのパニエがワイヤー状の、クリノリンを剥き出しにしたデザインでなくてはならなかったのか



 1:からいきましょう。白銀本人が “青い薔薇のモチーフは、私のお気に入りです。今までも使ってきました” と言っていますが、同様に鳥(籠)のモチーフも彼女に親しいものです。鳥(籠)は『Dreaming bird』の歌詞に何度も登場しますし、そのモチーフ自体は何も真新しいものではなかったはず。ではなぜあの「鳥籠からの鳥の声」が彼女に「新しいアクセント」をもたらしたのか。

 ひとつ回り道をしましょう。「書を捨てよ、町へ出よう」。白銀リリィ本人が引用する寺山修司の言葉ですが、加えて丸屋九兵衛さんの言葉を引用しましょう。 “「書を捨てよ町へ出よう」は、ベリー・ゴーディ社長がスモーキー・ロビンソンに言った「スタジオを出て、ラジオを聴け」の本バージョン……とわたしは思っている。つまり「下地のある人間だからこそ」であって、中身のないヤツが街に出ても単なる通行人なのだ”* 。まったくもってその通りです。読み・書(描)くことの鍛錬を積んで書物に親しんでいた白銀リリィだからこそあの飛躍が可能だったのであって、その鍛錬すら欠いた人間がうろうろしていてもただの通行人で終わりだったでしょう。では、書物に親しんだ人間だからこそ受胎可能だった「鳥籠からの鳥の声」、その着想の飛躍とは何か。

 考古学的事実を確認します。ドイツ南西部シェルクリンゲンで、約3万5000年前の後期旧石器時代に造られたとされるフルートが出土しています*。これまで発掘された楽器の中では世界最古だそうです。その材質はなにか。ハゲワシの翼の骨です。ということは、まだ楽譜すら、文字ですら発明されていない時代に音楽を下支えしていたのは、その楽器の材料は、動物骨だったことになる。

 ここに驚くべきことは何もありません。21世紀の我々は紙に印刷されたり液晶画面に表示されたりする文字を読むことに慣れていますが、当然ながら紙が発明される前の文字記録の媒体は粘土板や動物骨でした。あなたはこの文章をiPadとかSurfaceとかのタブレットで読んでいるかもしれませんが、その “tablet” の由来がそもそも粘土板や石版です。文字は紙以前に多様な媒体に刻印されてきた。我々の直接の先輩である中国文明の「甲骨(文字)」ももちろんその媒体の一つです。しかしシュメールで発掘された粘土板がせいぜい5000年前だそうですから、約3万5000年前のものだという鳥の骨のフルートと比べれば、文字の歴史はとても若い。同じ動物骨に刻まれたものでも、音楽やダンスは文字以上に多様な歴史・様式を孕んでいることになります。

 白銀リリィは、まさにこのことに気づいたのではないでしょうか。誰よりも「書物」に親しみ鍛錬を積み、それでも着想が訪れなかった (“色々資料を繙いたり、素材探しをしてみても、それ[新しいアクセント]が何だかを未だ見出せないのです”)。そんな彼女を導いたのは鳥、生きて歌を唄う鳥、死して骨をとどめてもなお音楽の担い手となる鳥、その声を聴くことで初めて着想が訪った。つまり5000年の文字の歴史から飛躍して約3万5000年前に鳴り響いていた音楽に思いを届かせるにいたった。その飛躍を可能にする最後のひと押しが「鳥籠からの鳥の声」だった、ということになります。

2:
 もうひとつ傍証があります。セリフを引用しましょう、

“ドレスはいつも流行に左右されます。だから、一時放ったまばゆいまでの光も、いつかは色あせてしまう。私のブランドでは、時を経てもなお、輝き続けるドレスを作りたいと思っていました”
“先日、それを目の当たりにしたのです。エルザ フォルテのスタープレミアムレアコーデ、あの星のツバサは、永遠に輝き続けるものです”



『ロゼッタソーンコーデ』を造った直接の動機は、彼女がエルザの中に見た「永遠性」にあったことを見落としてはなりません。『ロゼッタソーンコーデ』を完成させるために必要とされていたのは、この「永遠性」を意味するデザインだったのでしょう。その結果として、クリノリンを剥き出しにしたワイヤーパニエが加えられたと。

 クリノリン=骨組みです。骨です。骨とはなにか。有機体が死してもなお後世に形をとどめるものです。それに手を加えて人類は楽器を造ったり文字を刻んだりしてきた、のは前述したとおりです。『Dreaming bird』の歌い手が「鳥籠を怖がっていた小鳥」に直接重ね合わされていた、のもご存知の通りです。が、第53話で披露される『荒野の奇跡』の歌い手は、籠の中の鳥を解放して飛び立たせるポジションになっています。もはや「歌う人=小鳥」の絶唱ですらなく、籠の中のものを解放しさえすればあとはどうなってもいいという、自分自身を使い切って消尽しようとする姿だけが歌われている。第53話でのステージでは、白銀リリィが蒼い焔に囲繞されるという、DCD版の映像には無かった演出さえもが付け加えられています。

 となれば、結論はこうなります。「自分が死に、焼かれてもなお後世に形をとどめるもの=骨」こそが白銀リリィの見出した「永遠性」だったと。これはロマン主義的な胡散臭い「永遠性」を意味しません。だって、実際に残っているではないですか。約3万5000年前に誰かが造った楽器が、鳥獣骨のフルートが今も現存していることで、われわれは文字が発明される遥か前の音楽やダンスに想いを馳せることができてしまう。これは単なる考古学的事実であり、情緒が介在する余地はありません。しかし驚くべきは、書物に親しみ鍛錬を積んだ人(=白銀リリィ)がたどり着いた境地が「約3万5000年前の音楽とダンス」だったということです。文字だけではそこには到達不可能だった。もっと古い藝能、歌とダンスの力が必要だったし、白銀リリィはその鍛錬を積むことも欠かさなかった。読み書くことと歌い踊ることを区別しない<文学者>白銀リリィ*。彼女でしか到達し得ない「文藝」があり、その具現こそが『ロゼッタソーンコーデ』だったということになります。

『ロゼッタソーンコーデ』。口に出して言ってみればわかるように、この衣装は「ロゼッタストーン」にひっかけた名前を持っている。ロゼッタストーンとは何だったか。紀元前エジプトのヒエログリフが刻まれた石碑でしたね。発見されたきっかけは18世紀末のナポレオン遠征でした。滅亡後に発見され、読み解かれる「文字」。その名にひっかけた『ロゼッタソーンコーデ』を<文学者>白銀リリィが着て舞い踊る……もうおわかりのとおり、ここでは特定の時空をまたいで働きかける「何か」が展開されています。それはもちろん長大な歴史を持つ歌でありダンスであり、かろうじて約5000年の歴史を持つ文字でもある。それらすべてをひっくるめた「文藝」の営み、その永遠性を祝福するために必要だったのが「クリノリンを剥き出しにしたデザイン=骨」だったということです。

 しかし、忘れてはならないのは、石碑や甲骨と違って白銀リリィは有機体だということです。つまり生命に限界があり、焼かれてしまうものです(紙=書物と同じように)。彼女自身病弱であるために、自分自身が有限であること、有機体にしがみつかれていることを誰よりもよく知っているはず。そんな存在が、物質に手を加え新しい使い道を見出すことで途方もない力を生み出してしまう。ジャグラー渡邉尚が “特定の物と契約することで、その能力を引き出す”* と語っているのはまさにそのことです。物質や道具や機械と新しい契約を結んで力を引き出す、その能力は有機体しか持ち得ない。そこにしか「創造性」と呼ばれうるものはないということです。言うまでもないことですが、白銀リリィの導き出した「文藝」をめぐるこの理路は第53話の内容とも完全に合致しています。

 もちろん『アイカツスターズ!』はわざとらしい説明を断固として拒絶する作品なので、こんなくだくだしい長文で説明はしません。しかし、白銀リリィによるデザイン一つで「文藝」をここまで拡張して見せてしまえる、この周到な意味性は一体どういうことなのでしょうか。こんな作品が毎週、年少の子どもたちをメインターゲットに届けられているのです。理路を尽くした結果に到達する飛躍の数々が、ほとんど無償で分け与えられている。この「火の分け前」の「贈与」は、自らを焼いてもなお歌・ダンス・文字が遺ると信じる白銀リリィの勇気なしには成し得なかったことなのです*1



*1 「世界には文字以前の、多様な『記法』がある」「ヒト属最初の言語は歌だった」というのは円城塔さんが小説『松ノ枝の記』で、「原稿は燃えない」「すべてを焼くことはできない」というのは佐々木中さんが小説『しあわせだったころしたように』でそれぞれ書いていることで、本項の「文藝」の定義も両名の著作に強い示唆を受けています。


 また、クリノリンの意味性に関してはTwitter上で葡萄用図氏、メグリム・ハルヨ氏と直接交わされたわけではないいくつかのおしゃべりから強い示唆を受けており、服飾の知識がほぼ皆無の著者ひとりでは本項の結論に到達することは不可能だったと思われるので、ここに記して感謝します。





◎「ゴシック」考

「ゴシック(Gothic)」。前シリーズ『アイカツ!』の衣装ブランドである『Loli Gothic』と、『アイカツスターズ!』におけるリリィの所有ブランドである『Gothic Victoria』の両方についている語ですが、この語を厳密に考えていくと、藤堂ユリカと白銀リリィ、それぞれが別の意味での「ゴシック」性を持っていることを見ることができます。

 まずは辞書を引かないことには始まりません。

Gothic adj.
1:ゴート人[語]の
2:《建築・美術》ゴシック様式の
3:ゲルマンの


 などの17世紀初出の語意が並びますが、

4:野蛮な、無教養の

 という項目が目を引きます。イングランドの文芸評論家ジョン・ドライデンの著作から用例が示されています。引用しましょう。

“All that has nothing of the Ancient gust, is call'd a barbarous or Gothique manner”



「古の息吹とは関係を持たぬ作品ども、それらは野蛮な、あるいは『ゴシック』様式とでも呼ばれるべきであろう」と訳せるでしょうか。1695年の文献だそうです。この文中では「古の息吹 (Ancient gust)」を持つ作品に劣る概念として『ゴシック(Gothique)』が置かれているようですが、ではこの「古の息吹」とはなんでしょう。ギリシャとローマです。当該用例文をちょっと遡ればローマ帝国がギリシャから引き継いだ美術作品への言及があります。「ギリシャ・ローマの正当な美と比べれば、(ゲルマンの・ゴート人の)趣味など野蛮よ」ということになるでしょうか。わかりやすいですねえ。だって「野蛮(barbarous)」の語源がそもそもギリシャの βάρβαροι で「わけのわからない言葉を話す者・異国民」じゃないですか。それを英国人の立場から「ギリシャ・ローマの影響下にない美術とか全部野蛮だぜ」と書いて気持ちよくなってるんでしょうか。イスラームとユダヤを無視して直接的にヨーロッパ文化のルーツをギリシャに求めている白人ほど悲惨なアホもないと思うのですが、それは置いておきます。

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5:中世期風の

という意味での「ゴシック」は1710-1782年ごろに共有されたようです。白銀リリィも第53話で『中世のファッション:図説』を参照していましたね。この頃に現在服飾や絵画や音楽に対して使われるような「ゴシック」の通俗的な意味が形成されたと言っていいのでしょう。もともとは建築用語だったのに、余計な人が余計な意味をどんどん加えたせいで通俗性を獲得してしまった、というので「ポストモダン」とかと近いのかもしれません。

 さて、ここで「ゴシック」に当てられた「野蛮な、無教養の」意に再度注目しましょう。 βάρβαροι の語源からもわかるように、これはそもそも「言葉」にかかわる名称だということです。ギリシャ語も話せない奴ら、と(たぶんペルシャあたりの)人々に対して憎悪恐怖半々の意味で使われていたのであろう「野蛮人」。まあ、確かに聞いたこともない外国語でいきなり一方的に話しかけられたらびっくりするし怖いですよね。しかし本項では「正当なる母国語・野蛮なる外国語」のような図式にはしません。そんなものには興味がありません。重要なのは、母国語の中においても外国語を話す人がいるということです。どういうことか。

 さあ、今回もドン・キホーテに出てきてもらいましょう。彼の雄弁さについては今まで散々書いたので省略しますが、作中でドン・キホーテの言葉を浴びた人たちのリアクションとして「当惑」があります。この騎士のコスプレしたおっさんめっちゃ雄弁なんだけど何言ってるのか全然わかんない、というタイプの反応です。ドン・キホーテは騎士道物語の読みすぎで発狂してしまい、自分を遍歴の騎士だと思い込んでしまったのですから、話し方が市井の(正気の)人々と異なるのは当然のことです。

 白銀リリィの書物への向き合い方が完全にドン・キホーテであることについては以前書きました*が、彼女の「話し方」はどのようなものだったか。第26話冒頭ではまず寒気のヴァイヴで1年生を圧倒し、初対面の虹野ゆめに宣戦布告する場面があります。台詞を引用しましょう、

“散りゆく花のように、人と人との争いは悲しい。しかし、それが定めならば、背を向けることはしません。降りかかる火の粉はこの手で払うのみです”



 雄弁です。雄弁で強烈ですね。初対面のローラとゆめが “すごい個性的だとは思っていたけど” “想像以上に強烈だね” と圧倒されているのも無理からぬことです。
 また、1年生との間で会話を成立させるために二階堂の「翻訳」が介在していたことも重要です。 “負けないぞー、ってことだよね! リリエンヌもS4になるのが夢だからさ” ときわめて簡潔に翻訳してくれたおかげで、白銀はかろうじて言葉の意味を通じさせる事ができたのでした。二階堂の翻訳がなければ、ドン・キホーテ同様に「何だこの人は」と当惑されるばかりで会話すら成立しなかったかもしれません。

 そんな「根本的に話が通じない人(=ゴシックでバルバロスな人)」が、初めて正気の人(=虹野)との対話を成立させる瞬間が保健室のシーンにおさめられている、ことは以前*書きました。白銀と虹野との間には「想像の力で現実に立ち向かう」共通点があったためです。白銀リリィには芦田有莉・桂ミキなどの友人もいますが、(第53話に明らかなように)自身の創作活動に関する話題を共有できるのは二階堂と虹野の二人のみでした。それはもちろん白銀の創作(読み・書く・描くこと)がとりもなおさず言葉と直結していたためであり、彼女自身のゴシックでバルバロスな言葉を理解してくれる人でなければその悩み・迷い・苦しみを共有することさえも不可能だったからです。

 藤堂ユリカもドン・キホーテ的人物ではあります。愛読していた吸血鬼漫画の影響で吸血鬼アイドルとして立身したのですから。しかし彼女は第20話(初登場の次の回)でもう既に星宮霧矢紫吹有栖川四人からの理解を得ており、自身のスキャンダルを吹き飛ばすための試練をくぐり抜けていたのでした。
 では、藤堂の言葉はどうなっていたか。吸血鬼の末裔という設定を忠実に演じきるプロフェッショナルを見せ、同時に吸血鬼漫画を愛する少女である素の顔を仲間たちに見られ、それによって「プロの顔と素の顔を使い分けるアイドル」としての存在が示されたのでした。白銀リリィが学内に友人を持ちながら、それでも深奥の部分(創作)の話題を共有できる人間は二階堂と虹野(=自分の言葉を理解してくれる人)に限られていたのと比べると、その差異が見えてくると思います。藤堂にとって「吸血鬼アイドルとしての言葉」はファンの前でプロフェッショナルとともに演じきるべき言葉であり、「素の自分の言葉」は学友などファン以外の仲間たちと話すときの言葉でした。つまりアイドル活動を続けながらも、「ファンか・そうでないか」によって外部の人間に対してスイッチのオンオフができたわけです(第108話でのテントのシーン*がとくに印象的ですね)

 が、白銀リリィは事情が違いますね。彼女は話し方を選ぶことなどできない。もちろん外部の人間とコミュニケーションが成立しないという意味ではありません(第33話で温泉宿の人々と楽しげに談笑することができていた姿を思い出しましょう。つまり外部への窓を閉ざすような頑なな人ではないわけです)。しかし「演じるべき姿(吸血鬼)」と「素の自分の姿(少女)」との両方を実線を隔てて併せ持っていた藤堂ユリカと違い、白銀リリィは読書を通して自分と自分のなりたいものとの間を隔てる壁を蒸発させてしまった*。だから「演じ分け」なんてできるわけがありません。アロンソ・キハーノがドン・キホーテになってしまったように “完全に正気を失ってしま” い、βάρβαροι(何を言っているのかわからない人)になってしまった。その結果として強固な知性と雄弁さを獲得しましたが、その言葉を理解してくれる人は限られてしまっている。

 まとめましょう。「野蛮な、無教養な」という意味をも持つ「ゴシック」。それは「わけのわからない言葉 (βάρβαροι)」とも関連するものでした。藤堂ユリカは吸血鬼としての自分の言葉・素の自分の言葉を使い分け、立派な「ゴシック」のプロフェッショナルとして立身することに成功しました。つまりファンと友人との両方に、別のやり方で支持・理解を得ることに成功しました。
 しかし白銀リリィには言葉の「使い分け」など不可能であり、文字通りのゴシック=バルバロスになってしまった。その言葉は雄弁でありながら当惑をも招くものであり、多くの理解者を得られるとは限らない。逆に言えば、第53話で「自分の言葉を理解してくれる少数の友人たちとの憩い」を描く事ができたのは、白銀リリィがあくまで「言葉」の人だったからこそ可能だった、のかもしれません。

 かように、同じ「ゴシック」の語でも両者には質的な意味の違いが存在します。その差異を生じさせたのは「言葉」の使い方、「言葉」への向き合い方だった。どちらが良いとか悪いとかどちらが幸せとか不幸とかいう単純な話ではもちろんありません。しかしこの差異に、『アイカツ!』と『アイカツスターズ!』との間の「言葉」をめぐるなにかの差異、をも見る事ができるでしょう。


・<ゴシック>と「ゴス」

 さて「ゴシック」の語意、および藤堂ユリカ・白銀リリィ両者の差異について見てきましたが、ここで「ゴス(Goth)」についても見ていきましょう。音楽・映画・ファッションのジャンルとして用いられる意味での「ゴス」です。高橋ヨシキ氏の文章を引用します。

 今ある「ゴス」という略称は、1982年か83年に、ザ・カルトのイアン・アストベリーが、セックス・ギャング・チルドレンのアンディ・セックス・ギャングを指して使ったのが最初とされています(※)。それが徐々に知られるようになったのはイギリスの音楽新聞「NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)」が「ゴス」「ゴシック」をたびたび紙面で扱ったからです。そうして段々と、単なる音楽の趣味としてではない、ライフスタイルとしての「ゴシック(ゴス)」は浸透していきました(ポジパンとかニューロマは音楽のジャンル、あるいはそのファンを指す言葉なので、「ゴス」とはちょっと名称の役割が違うわけです)。

(※注:『VAGUE』というジンを作っていたトム・ヴァーグが1983年の10月にサザン・デス・カルト、のちのザ・カルトのファンを指して使ったのが最初という説もあります。どっちにしろザ・カルトがらみで初めて使われた言葉ということになっているのが面白いです)
Crazy Culture Guide Vol.22



 さらに氏は、「ゴス」の語を使うにおいて「1:憧れの対象、あるいはロールモデルとしての〈ゴシック〉」「2:必然としてゴスくなってしまった人たち」のふたつの意味を区別する必要がある、と言います。その「(2:の意味での)ゴス精神の映像化」として氏が挙げるのは、もちろん『バットマン・リターンズ (1992年)』のキャットウーマン誕生シーンです。



 たしかにセリーナ・カイルは「必然としてゴスくなってしまった人」です。彼女にとって他に取るべき手段があったでしょうか。差別的な職場で見くびられながら理不尽に命を奪われ、心の臓まで黒に染まってしまったのだから、レザーの衣装を着て復讐に身を窶すしかなかったのです。
(ちなみに、このキャットウーマンの男性版に相当するのが『クロウ:飛翔伝説 (1994年)』の “Burn” のシーンです。地の底まで落とされた人間のドス黒い情念が迸っていて、その悲しさ無残さカッコよさに何度見ても号泣してしまいます。もちろんキャットウーマンのシーンもそうです)

 さて、では「1:憧れの対象、あるいはロールモデル」としての〈ゴシック〉とはどのような人物でしょうか。高橋ヨシキ氏は具体的な例を挙げていないので想像になってしまうのですが、おそらく ALI PROJECT の宝野アリカさんなどがそうではないでしょうか。というのは、高橋ヨシキ氏が「(2:の意味での)ゴスと貧乏との切っても切れない関係」について触れているからです。なぜゴスがあんな黒い服ばかり着るのかといったら、もちろん暗黒を外面的に表現したいというファッショナブルな意味もあるでしょうが、たんに「汚れが目立たないから」「替えの服があんまりないから」という実際的な理由もあるでしょう。他にどうしようもないから黒い服ばかり着るしかない、というのは「必然としてゴスくなってしまった人」の条件に見合うものです。 “Health Goth”* というインターネットミーム発祥の新しいゴスファッションは、「高価な中世風のゴシック服なんて買えないから黒のスポーツウェアでニンジャっぽくしとこう」という志向なのかもしれません(理不尽に命を奪われ復讐鬼として復活するキャットウーマンおよびクロウのバックグラウンドは、そのままフジキド・ケンジのそれと通じます。また、セリーナ・カイルがキャットウーマンになるための衣装づくりがすべてハンドメイドだったことも思い出しましょう。レディメイドにしろオーダーメイドにしろ誰かに作ってもらったものを着飾るような余裕は彼女には無いので、自分のクローゼットにある服を切り裂いて縫い合わせて身に纏うしか手段はなかったわけです)

 もうお気づきとは思いますが、「1:憧れの対象、あるいはロールモデル」としての<ゴシック>になるためには金がかかるのです。ALI PROJECT のジャケット写真やステージ衣装を見ているとたいへん豪華で美しいですが、あれを市井の人間が所有するとなれば経済的・環境的に多くの制限を受けそう(そもそも高温多湿の国であの衣装を管理・維持する事自体が大変そう)です。それらのリスクをすべてクリアするために『Loli Gothic』は古城スタジオを所有していたのでしょう。そのブランドに選ばれた藤堂ユリカは「1:憧れの対象、あるいはロールモデル」の<ゴシック>であると言えそうです。以前書きましたが*、彼女はファンである持田ちまきの問いに対してとても規範的な回答を示し、ゴシックアイドルロールモデルとしての役目を十全に果たせていたのでした(ただし、彼女に吸血鬼への変身願望をもたらしたはずの書物の存在は消え去っていましたが)

 白銀リリィはもちろん「2:必然としてゴスくなってしまった人」です。運命の本を読んでしまった彼女に、他にどういう選択肢があったでしょうか。読んでしまったことを無かったことにはできません。言葉の人である彼女は、ドン・キホーテ同様に本の中の姿に導かれるままに自分自身の姿を書き換えた。そのこともそうですが、「ゴスと貧乏との切っても切れない関係」を加味すると、「白銀リリィが『Gothic Victoria』を立ち上げる直接のきっかけは学園の財政難だった」ことも汲まなければなりません(第39話)。アイカツアイランドの興行で赤字を出してしまった諸星学園長(おお、誤れる父親*よ)が、新しいスポンサーを探す役目を白銀リリィに任せた結果、彼女自身のブランド立ち上げの予算をも勝ち取ることに成功したのでした。ここで『アイカツ!』と『スターズ!』では「ブランド」の定義も変わっていることに気づくでしょう。両シリーズの「デザイナー」の意味性の違いついては以前委曲を尽くしたので省略しますが、『スターズ!』ではミューズ(白銀リリィ:デザイン描画およびその衣装を着てのパフォーマンスを担当)とオーナー(ピロシェンコ氏:主にドレス発表のための運営を担当)のふたつのポジションがあり、その唇歯輔車で「ブランド」が成り立っています。一番近いのはニジンスキーとディアギレフの関係性でしょうか。アーティストとパトロン、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。さらには白銀リリィは自身のブランドを持つ前から書きためていた膨大な衣装のバリエーションがあり、その中から精選したものをブランドの名で出しているわけですから、著者と出版社の関係にも近いかもしれません。重要なのは、「シーズンごとに次々とPR, Rドレスが追加されていた『アイカツ!』に対して、『アイカツスターズ!』のスタープレミアムレアドレスはミューズが苦心惨憺したデザインで打って出なければならない」ことです。2年目からはエルザの登場により『星のツバサ』の獲得がストーリーの核となるので、「ブランド」はその星を降ろすための装置(幕屋)としての役割も担うことになります。そのためには invisible な存在である「アイカツシステム」に選ばれねばならず、そのためにミューズは自身のドレスで賭けなければなりません(前年でS4の座をめぐっていた「賭け」が、今年では星を降ろすための「賭け」に変わっているわけです)。そのために第53話のリリィは「賭け」に向き合ったわけですが、生半可なドレスを出しては「アイカツシステム」は許さないでしょうし、他の誰よりも彼女自身が許さないでしょう。そのために「乾いた不毛[aridity]」の時期を耐え抜き、最良の着想の訪いを待つ必要があったわけです。ということはその間、二階堂からの連絡を受けるまでピロシェンコ氏は白銀リリィに対してスタープレミアムレアドレスのデザインを催促したり、それどころかスタープレミアムレアドレスの製作を白銀リリィに依頼することすらしていなかったことになります(『ロゼッタソーンコーデ』製作の直接的な動機は白銀リリィの個人的な情動=エルザに見た「永遠性」にありましたし、二階堂がピロシェンコ氏に連絡するまでは発表の場すら予定されていなかったことを思い出しましょう)。つまり「作品が受胎するまで仕事を続けてくれたらいい、どれだけ時間がかかっても構わない」、つまり「作品の完成を待ってすらいない」のが「オーナー」のスタンスであり、虹野のブランド『Berry Parfait』の「オーナー」がそうだったように十分な水準に達していないデザインは発表を取り下げるという編集者めいた役割も担っていたのでした。
 ますます著者と出版社の関係性に似てきましたね。もちろん週刊連載の展開に頭を捻る漫画家とか原稿を催促する編集者とかそういう図式のことを言っているのではないですよ。 “「待たれざる状態」とは仕事をするための必要条件にほかならないわけですからね”*1 。『アイカツスターズ!』は読み・書くことについて極限まで誠実に考え抜かれており、言葉と創造とが直接結びついているので、受胎した作品で星のツバサを降ろそうとする「賭け」が一冊の本を江湖に問うまでの「乾いた不毛[aridity]」の時期と重なりあうのも自然なことです。


 さて、「ゴシック」の語意と「言葉の人」白銀リリィを見ていくうちに本稿の論旨も一周した感があります。βάρβαροι(何を言っているのかわからない人)、必然としてゴスくなってしまった人、それは「自分にはそれ以外どうしようもない」という情動に突き動かされて生きている人です。白銀リリィ、ドン・キホーテ。彼女ら彼らの言葉がすべての人々に理解できるわけがありません。市場原理に受け入れられうるものでもないのでしょう。ヘルダーリンもシラーに見捨てられて発狂してしまいましたし、クライストはゲーテにディスられて自殺してしまいました。が、そんな苦しみの中で想像を続けていた人々の姿を無かったことにはできません。“歌やあこがれをめぐる描写から呪いや狂気を検閲しなかった”*『アイカツスターズ!』を前にして「これはいかにもどうかと思う」などと口早な誹謗の言葉を放って踵を返すか、それともその真摯さに導かれるままに付き合うか、どちらの態度をとるかはその人の「言葉」に対するなにかが直接暴露されうるものである、と私は思います。



*1『記号と事件』河出文庫刊 219P



札切る後裔(『アイカツスターズ!』の1年間に捧げる7つのリスペクト)

>>姉妹稿

 始まる前からやばいやばいと騒いでいた『アイカツスターズ!』ですが、1年目の放送を終えて、脚本でもキャラクターでも音楽でもあらゆる面において期待の3億倍くらい凄まじいものを見せられた、という事実に打ちのめされます。絶対にえげつないものになるとは思っていましたが、ここまでとは。
 本稿は、『アイカツスターズ!』の1年間を見せつけられたことに捧げる7つのリスペクトです(「考察」や「分析」などでは断じてありません)。音楽に関しては既にいくつか * * * 書いたので、本稿ではアニメ本編を創ってきた人々の尋常ならざる創意についてふれていくことになるでしょう。本編未見の方にとっては何が何だかな記述も多く含まれますので、まずはBlu-rayボックスを買うバンダイチャンネルに課金するなどして今すぐ全話見てください。たったの50話しかありません。スタートレックTNGの178話とかに比べれば一瞬です。
 各項は独立した内容であるとともに横断的に絡み合っているので、まずは気になった項のRESPECTから先に読んでみてください。


【目次】

◎RESPECT1 匠の手つきで火薬庫を造る(シリーズ構成:柿原優子の手際)
◎RESPECT2 S4選・導火線の走り(タイムリミットの設定とその成果:AS!ep37-50)
◎RESPECT3 特権的視点の優位の排除(博徒と観衆)
◎RESPECT4 いばらのショーマストゴーオン(勝負の成立可能性・札切る後裔)
◎RESPECT5 誤れる父親の姿(諸星ヒカル:勝ち目の見えない盆暗男)
◎RESPECT6 何度でも生まれ変わる楽曲たち(The song NEVER remains the same)
◎(DIS)RESPECT7 More than meets the Ai(絵コンテ・演出の多層性)


【凡例】
・人名は敬称略。作品名は『』で、歌詞、セリフ、文献等からの引用句は “” でくくる
・煩雑を避けるため、前シリーズ『アイカツ!』の放送話数は「A!:epn」で表記し(例:アイカツ!第128話→A!:ep128)、『アイカツスターズ!』の話数は「AS!:epn」で表記する(例:アイカツスターズ!第30話から第36話→AS!:ep30-36)
・fc2ブログにはルビ機能がないため、特定の語にルビを振る場合はその語の後に[ ]で表記する(例:強敵[とも])
・註、関連項(稿)、参照記事などについては適宜リンク先を指定する






◎RESPECT1 匠の手つきで火薬庫を造る(シリーズ構成:柿原優子の手際)

『アイカツスターズ!』のシリーズ構成を担当したのは脚本家:柿原優子。この名を銘記しましょう。前シリーズではあかりジェネレーション(A!:ep102以降)7話ぶんの脚本を担当しておられた方ですが、(個人的には)前シリーズでは手放しで絶賛できる回はありませんでした。特にA!:ep144、『オズの魔法使』ネタのドレスを氷上スミレが手にする回だというのに、『オズ』モチーフおよびデザイナー夢小路魔夜の存在などが等閑にされすぎでは……? と困惑したこともありましたが、

・「アイドルに代わって衣装をデザインする者=デザイナー」という存在の比重の小ささ:またはその代謝【→RESPECT4】
・それによって浮かび上がる博徒としてのアイドルたち:並びに勝負の成立可能性→【→RESPECT3】 , 【→RESPECT5】
・一話完結性ではなく、シリーズを貫通するキャラクターたちの関係性に重点を置いた作劇【本項】

 という、A!:ep144で部分的に明らかだった脚本家:柿原優子の持ち味が全面的に炸裂したのが『アイカツスターズ!』だったと言うことができます。順を追って見ていきましょう。


・『アイカツ!』火気厳禁の世界

 “ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになった” 。前シリーズの構成担当である加藤陽一はそう証言しています。結果、『アイカツ!』はとても素晴らしい作品として記憶されることになりました。その大きな要因は、 “ネガティブな出来事” が起こりそうになるとすぐさま鎮静される、言うなれば「消火装置」が内蔵されているかのような作劇法を取っていたことにあります。みてみましょう。

・消火実績

A!:ep37
 紫吹蘭は美月のユニット「トライスター」の一員として選ばれたが、ステージで十分な力を発揮できない
→美月は蘭の苦悩を見抜き、トライスターを脱退して星宮・霧矢のユニットに合流するよう促す(その日のライブは蘭を除く2名で済ませる)


A!:ep47
 過密スケジュールの無理がたたり、神崎美月の疲労が蓄積する
→美月のあこがれであるマスカレードの復活ステージを見たことで回復し、美月自身も最高のステージを見せる


A!:ep96-97
 大空あかりは特訓を重ねてもスペシャルアピールを習得できず、自分にアイドルの資質はないと諦めかける
→先輩である星宮はかつて霧矢から受け取った手紙を思い出し、助言を授け、結果として大空は初めてのスペシャルアピールを達成する



 これでもほんの一部です。『アイカツ!』において、個人と外界との摩擦によって起こる苦悩や葛藤などは積極的に消火されるのが常でした。2年目以降では「このキャラクターがここまでのことをやれる理由は過去の経験にあった」という(以前「「事後報告」」として書いた)構造も内蔵されていて、それらの装置が『アイカツ!』のキャラクターたちの「成長」の描写を円滑にしていたと言うことができます。

 その「終着点」である劇場版短編『ねらわれた魔法のアイカツ!カード』を見てみると、大勢のキャラクターが出演しているにもかかわらず、それぞれがキメ台詞や得意技を披露しながら楽しく共存している世界が展開されています。星宮いちごによってバトンを授かった大空あかり、によって安全に管理経営された、みんな平等に出番が与えられる、誰も傷つかない、素晴らしいユートピアは、『ねらわれた魔法のアイカツ!カード』において完成を見ました。

 さて、そのようにして前シリーズは「解決」しましたが、『アイカツスターズ!』シリーズ構成たる柿原優子はどのような方途に打って出たか。


・『アイカツスターズ!』ここに火薬庫を普請する(AS!:ep1-36)

「消火装置」を内蔵していた前シリーズになぞらえると、『アイカツスターズ!』の四ツ星学園は「火薬庫」のような世界だということができます。表を見てみましょう。
 歌組の所蔵火薬一覧
 AS!:ep1においてすでに虹野ゆめの謎めいた力(also known as 爆弾)の存在が示され、それとともに「なぜ驚異的なパフォーマンスができたかの謎」の装置(EE)が駆動するわけですが、じつは虹野ゆめの入学以前から四ツ星学園には爆薬が積み込まれていた━━どころか一度爆発事故を起こしていた━━ことが明らかになります。言うまでもなく、学園長である諸星ヒカルの姉に訪れた象徴的な死(アイドル生命の終焉)*1-1のことです。

 確認しましょう。諸星ヒカルの少年時代に、なんらかの力(AKA爆弾)によって姉である雪乃(諸星)ホタルのアイドル生命が断たれてしまう。その力(AKA爆弾)の正体は作中でも具体的な説明が与えられず、ヒカルは憔悴していく姉をただ見ていることしかできなかった(ここでなぜ現在ヒカルが四ツ星の学園長に就任するに至ったか、について色々想像を巡らせることもできますが、やはり作中でも具体的な説明は与えられません。この諸星姉弟をめぐる運命に「具体的な説明が与えられない」ことについては後に触れます)

 さらに2016年度のS4である白鳥ひめが、虹野ゆめと同様の力(AKA爆弾)を抱えていたことが明らかになる(AS!:ep30)。しかし白鳥ひめは諸星ヒカルの指導によりなんとか現在まで生き続けており、ひめ本人も雪乃(諸星)ホタルの真相を知らされたのはAS!:ep33の時点だった。なぜ事ここに至ってヒカルは過去の爆発事故のことを知らせたのか。もちろん、同じ爆弾持ちの虹野ゆめの症状が亢進している(力への依存度が上がっている)からです。かつて姉(ホタル)が在籍していた歌組のなかに、よりにもよって同じ爆弾持ちの生徒が2人もいる。ひめの症状は今のところ鎮静化しているけども、その力(AKA爆弾)に頼りっきりの虹野は、いつホタルのように爆発するかわからない。ただでさえ(夏季まで病者として高原で療養していた)白銀リリィが帰還し、虹野や桜庭とも交流を深め影響を与えあい、年度末のS4選が熾烈を極める予感が強まっているというのに……
 と、AS!:ep1から始まる「なぜ虹野ゆめは驚異的なパフォーマンスができたか」の謎装置は「火薬庫」こと四ツ星学園に次々と爆薬を搬入する役割を果たし、その緊張[テンション]はAS!:ep30-36にかけてピークを迎え、周囲の人物を巻き込みながら、虹野ゆめの生存が賭けられるエピソード群に突入する。いよいよ普請奉行たる柿原優子の手腕が発揮されてゆくわけです。


・保菌者[carrier]たちの闘い

「爆弾持ち」という書き方をしましたが、これを保菌者[carrier]と置き換えてもいいでしょう。「力」に取り憑かれた者(ホタル・ひめ・ゆめ)は一様に病に憑かれたかのように憔悴しています。 “同じ運命に選ばれた” とひめはゆめに言っていますが、この言葉尻をつかまえて「結局『スターズ!』は選ばれた人間(にしか与えられない才能)の話なのか!」と憤慨するのはさすがに無理があります。むしろ、『スターズ!』において「選ばれた」ことは「呪われた」ことをしか意味しない。 “わたしを選んでくれたの ありがとう” どころの話ではなく、何の説明も与えられない、謎の爆弾めいたものをなぜか握らされてしまった、そこから始まる生存のための struggle が『アイカツスターズ!』です。『アイカツ!』では “受け取ったバトン次は わたしから渡せるように” でしたが、「そのバトンがダイナマイトだったとしたら?」なのが『アイカツスターズ!』です。「そんな、いかにも一面的な」と眉をひそめたでしょうか。しかし『スターズ!』(AS!:ep1-36)は歌と生存とが賭けられている作品として首尾一貫しています。歌うことに憧れ、憑かれた人々は、往々にして半ば狂気に見える(昨年公開の『ブルーに生まれついて』がまさに、自分の体内にいつのまにか巣食った毒を抱えながら歌い続ける作品だったように)。歌やあこがれをめぐる描写から呪いや狂気を検閲しなかった、まずここにこそ前シリーズとの決定的な差異があります(が、「破滅」は注意深く切り捨てられています。歌手やミュージシャンの破滅的な人生とかとかいうものはごく凡庸で退屈なモチーフにすぎない。『スターズ!』は死や破滅に抗して生存を続けることにフォーカスを絞ることでその短絡を注意深く避けており、むしろ「破滅」とは別のブレイクダウンの過程を設定したところにシリーズ構成:柿原優子の手腕があります【→RESPECT2】また、音楽と暴力を抱き合わせて「刺激」を描くような━━たとえば三流教師の虐待のもとに血を流しながらドラムを叩くことでなにか「刺激的」な「音楽への執着」みたいなものを観客に叩きつけた気になっている粗雑で幼稚な音楽映画のような━━手法も注意深く切り捨てられています。「学校での訓育」と「虐待」は絶対に同じものではない、というイズムさえ一貫しているのが『スターズ!』です【→RESPECT5】)。むしろ、前シリーズで SHINING LINE* の名で呼ばれていた「あこがれ」のプロセスは、その過程で何かの信管を抜くための措置だったのではないか、という問いも有効ではあるでしょう*1-2


・生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける

 さて、ここに来て『アイカツ!』『アイカツスターズ!』両作品の差異が明確になってきたと思います。一息で言えば、「『アイカツスターズ!』は人が死ぬ世界の作品である」。もっと言えば、「人は mortal だが神は immortal で invisible な世界の作品である」
 順を追っていきましょう。

 諸星ヒカルは言います。白鳥ひめに憑いた力(AKA爆弾)は “ステージの神様に与えられた試練” だと(AS!:ep35)。しかしこの「神」は姿を現しません。つまり目に視えません。である以上、なぜこんな力を与えられたか、具体的な説明が与えられない。神なるものは無限であるがために認識できず、有限である人間は、なぜ自分の身に苦しみが降りかかるのかも理解できない。ヨブ記です。 “あなたの両の目は肉〔の目〕なのか、 / 人が見るように見るだけなのか”*1-3と神なるものに陳情しても、その謎を与り知ることができない。だから理不尽に肉体を呪われたところから始めるしかない、当事者たちの闘い*1-4。それはおそらく80年代にレーガン政権下で続いていたパラダイス・ガラージの闘いでもあり、そこでも歌が賭けられていた*1-5。以前『劇場版アイカツスターズ!』に関して “身体の内側になぜかとんでもないものを抱えてしまった人たちが、それでもそこでしか歌えない歌を残してゆく、ひじょうにフレディ・マーキュリー的なショーマストゴーオン精神に貫かれている”* と書きましたが、もちろん80年代のAIDS禍を意識してのものです。そこには歌があった。自分の肉体を蝕むモノの正体もわからないまま、それでも生存を続けようとする者たちの歌が(保菌者を意味する carrier が「続ける」をも意味する carry の名詞系だったことを思い出しましょう、あの絶唱の結句が “I have to find the will to carry on” だったことも)

 もう一度言いましょう、「『アイカツスターズ!』は人が死ぬ世界の作品である」。それはAS!:ep1のラストで既に示されていました。保健室の壁に「インフルエンザ対策」のポスター。ご存知の通り、『アイカツ!』においてはアイドルに病的な・身体的な危機が迫る描写は注意深く切り捨てられていました。
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(長い括弧なので段落を切ります: 氷上スミレの喉のダメージが強調されるA!:ep117が例外的ではありますが、その不調もエピソードの最後には完治していました。A!:ep130で黒沢凛が足を負傷するのもさほど重要ではありません。あの回の要諦は『チュチュ・バレリーナ』の “さぁ脚を休めて” という歌詞をそのままスミレと凛の関係に適用することにあり━━「鉄の女サッチャー」と聞いてモビルスーツを連想するがごとき「慣用的表現を文字通りに描写する」傾向は、A!:ep8で「地下アイドル」を「実際に地下のスタジオで活動しているアイドル」として見せたことからもわかるように、『アイカツ!』に特有のチャーミングさでもあります。だからこそ「壁を乗り越える」ことを描写するために「素手で崖を登る(A!:ep9)」ような飛躍が可能だったわけです━━、やはり凛の負傷もエピソードの最後には問題でなくなっていたのでした。もちろん瀬名翼が体調を崩すA!:ep167は勘定に入りません。瀬名翼はアイドルと同じくらいかっこよくてチャーミングな男性で私も大好きですが、彼は衣装を着てステージに立つわけではありません。A!:ep13の星宮いちごの肥満はクローネンバーグっぽい危機描写━━精神的危機が身体に直接反映される描写。『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』の矢吹可奈も同様━━だとは言えますが、あれも神崎美月のアドバイスで最終的には解決されていました。あの回が神崎美月の食事シーンを含む唯一の回であることは特筆に値しますがここでは関係ないので註に譲ります*1-6。『アイカツ!』1年目はまだ気持ちがレイムだった頃の星宮が業界での振る舞い方を覚えてゆくエピソードで固められているので、この時期のエピソードを「プロフェッショナル論」「仕事論」として見ることは容易になっています。しかし『アイカツ!』初期において星宮のレイムぶりが矯正されてゆく流れは、星宮をモノホンプレイヤーに育て上げるためというよりはむしろ、星宮がレイムなままでは神崎がいつまで経ってもトップアイドルの座から追放されないから、もっと言えば目に視える神[神崎美月]の死を人-神[星宮いちご]が執行するという「物語」が成立しないから。ここに『アイカツ!』の構造そのものに要請される倒錯があった、と言うことはできるでしょう。『アイカツ!』のスターライトクイーンと『アイカツスターズ!』のS4が全く別の意味合いを持っていることなどについては【→RESPECT4】

『アイカツ!』のアイドルたちは「消火装置」によって身体的・精神的な危機から遠ざけられていました。しかし『スターズ!』では病が人間を苛む世界=人が死ぬ世界であることがAS!:ep1で宣言される。保健室のシーンで一緒にいる白鳥ひめ・虹野ゆめの2名がすでに「保菌者」であること、四ツ星学園ではすでに雪乃(諸星)ホタルがアイドルとして象徴的に死亡していたこと等、AS!:ep36にいたるまでの主要素がAS!:ep1ラストの時点ですでに出揃っている。人は mortal だが神は immortal で invisible な世界で、理不尽な呪いの中でどんな手段に訴えたらいいのかも知らない、それでも生存を続けようとする人々の賭場=四ツ星学園を周到に設計したこと。柿原優子が打って出た勝負はここにあります。

 なぜ『アイカツスターズ!』では素手で崖を登らないのでしょうか。落ちたら死ぬからです。人が死ぬ世界である以上、前シリーズのように素手で崖を登るなどの “超人”(A!:ep102で霧矢が星宮を指して言うセリフ)めいた行動は許されない。代わりに必要とされたのは discipline, 生存のための規律と訓育だった。そこからしか始められない人間の製造【→RESPECT5】を描いた作品として、『アイカツスターズ!』は驚くべき一貫性を持っています。


*1-1「象徴的な死」の意味補足
 もちろん諸星ホタルは肉体的に死亡したわけではありません。彼女は現在(学生時代からおよそ20年後?)市井の人間としてかわらず生き続けており、AS!:ep36では悩めるゆめのために朗らかにアドバイスする姿もあります。が、前述のとおりアイドルとしての生命はすでに喪われており(いつも飲んでいるはずのローズティーさえ冷まさずには飲めないほどの猫舌=舌を焼かれた人である というえげつない暗喩をさりげなく入れてくるのも『スターズ!』の恐ろしいところです)、かつての歌組S4たる雪乃ホタルの姿はもうありません。
 これは加齢とかではなく、あの力が爆発した時点でアイドルたる雪乃ホタルは死亡し、現在では市井の人間たる諸星ホタルが生きている、この断絶を強調するための描写だと考えるべきでしょう。雪乃ホタルはもういない、彼女がかつて生存していたことを目に視せてくれるのは、ただ写真におさめられた姿のみである。しかし一体彼女に何が起こり、どのようにして死んでしまったのだろうか……という想い(プンクトゥムがどうとか言うつもりはありません)は、そのまま虹野自身の「このまま力に頼り続けたら、一体どうなってしまうのだろうか」という先行き不明な未来ともかかわるものです。

 今はもういないアイドルの姿、それは前シリーズにおいてはレジェンドアイドル:マスカレード(現スターライト学園長の光石織姫[ヒメ]・後に星宮いちごの母親となる星宮りんご[ミヤ])に相当するでしょう。その描写と比べると、両作品を分かつ差異はさらに明瞭となります。
 雪乃ホタル(アイドル)と諸星ホタル(市井の人)と━━死者と生者、と言ってもいいですが━━を分かつ分断線は不可逆なものですが、マスカレードの2人は現在でもマスクを着けさえすればアイドルユニットとして復活できた(A!:ep47)し、その歌声は過労で倒れた神崎美月を全快させるほどの力を持っていたのでした。渡されたバトンが救いをもたらす、(シーズン2で名付けられるところの)輝きの SHINING LINE* 。それは素晴らしい。しかし『スターズ!』ではもはや「あこがれ」は救いを意味しない、なぜかダイナマイトを握らされてしまった状態から始まる生存のための闘いが賭けられていることは本項で書きました。どちらが良いとか悪いとかいう話ではありません。ここにこそ「人間は immortal・神は mortal で visible 」な『アイカツ!』と、「人間は mortal・神は immortal で invisible」な『スターズ!』との本質的な差異を見ることができるでしょう。


*1-2
 このことについて、以前「デザイナーなるものの存在の有無」から前シリーズと『スターズ!』との質的な違いを検討したことがあります。

*1-3
 ヨブ記10:4(旧約聖書翻訳委員会訳)

*1-4 当事者性についての註
『アイカツスターズ!』で繰り広げられていることを見るにおいて「当事者性」はとても重要です。以前私は、『アイカツスターズ!』の学校観についての記事で

“「いや、そこまで考えて作られているでしょうか」「そんな入り組んだことを描いて、こどもたちが理解できるでしょうか」と言うのは端的に誤りです。なぜなら、『アイカツスターズ!』のメインターゲット層である彼女ら彼らは、このノートで書いてきたすべてのものごとの当事者なのですから。今まさに学校のなかにいて、読み方を、書き方を、数え方を、走り方を、座り方を、「仕込まれ」て「調教され」ている最中なのですから”


 と書きました。逆に言えば、私たち(就学年齢を終えて成人した人間)はもう当事者ではない、学校空間での訓育を経て彫り出されたあとの人間であるということで、これはのちの特権的視点=視聴者【→RESPECT3】
とも関わってきます。また、(それを受けるまでの経路は様々であれ)いま自分が読み書き演算ができるのは何らかの訓育の結果であるということ(自分がどのように製造されたか、ということ)を見ることができない態度が何を意味するか、については別註でもふれています* し、「自分がどのように製造されたか」を誠実に見据えた結果が早乙女あこの賭けだったことも付け加えておきます【→RESPECT2】
 また、『スターズ!』の呪い(爆弾)がヨブ記やAIDSに結びつけられたことに眉をひそめたでしょうか。そこにこそ「(非・)当事者性」がまつわっています。ヨブの友人たちが好き勝手なことを言い散らすことができたのはあの呪いの非・当事者であったからからで、何の因果でこんな目に遭わなければならないのか苦悶しているヨブとはそもそも対話が成り立たない。もし(今のところ)非・当事者である私たちが『アイカツスターズ!』のヨブたち(ホタル、ヒカル、ひめ、ゆめ)の苦悩に寄り添うことができるとしたら、「お前はああいうことをしたからこうなったのだ、そうに決まっている」式の因果応報思考を捨て、「どうしてこうなったのか」のわからなさに向き合うことでしか為され得ないでしょう。さながら80年代初頭のAIDS禍でこの症状の「わからなさ」に向き合っていた人々のように(さすがに未だにAIDSをゲイやニードルワーカーに特有の病気と思っている者はいないと信じています。ちなみに、AS!:ep30でひめがゆめに「力」の話をする場面は、『ストレイト・アウタ・コンプトン』でEazy-EがHIV陽性の検査結果を告げられる場面のカットに酷似しています。この回の絵コンテを描いた木村隆一が『ストレイト〜』をみていたかどうかはどうでもいいことです。多分みていないと思います)。

*1-5
 これをへんに情緒的なこととして解釈しないでください。彼らが互助組織(GMHC)運営資金を調達するためにヒット曲が必要とされていた、という実際的な事情のことを言っています(『パラダイス・ガラージの時代』下巻に詳しい)。

*1-6
 以前*、神崎美月について “彼女が食事を摂っている場面は全く描かれない” と書きましたがこれは間違いです。A!:ep13では肥満した星宮に助言する流れで焼き芋を口にする描写があります。これを差し引いても神崎にまつわる食事描写の少なさは際立ったものですが、トップアイドルの座を追われる以前の彼女を踏まえると、A!:ep122の劇中劇で「食べ物を食わされる」ことによって神崎が退治されていたのは色々な意味で象徴的だったと言えるでしょう。「あなたはもう one visible god ではない、他のアイドルたちと同じ one of them なのだから、地上の糧を食べ、超越的な存在でいることをあきらめなくてはならない。あなたは星宮によってトップアイドルの座を追われたし、その「バトン」は既に大空に渡されたのだから」。

“Learning that we're only immortal -- For a limited time”
Dreamline / Rush


という、「あらかじめ目に視える神(神崎)として設定された者がいて、人のような神のような存在(星宮)がその座を襲名し、そこから選ばれた人間(大空)が統治が引き継ぐ」プロジェクトによって『アイカツ!』は回されていました。別項【→RESPECT4】
で私が「王権神授的」と書いているのはこのことですが、さらに「新約聖書的」と加えることもできるでしょう。偶像崇拝が禁じられていたのにもかかわらず、偶像と図像の深い隣接関係から豊富な図像を生み出すことになった「キリスト=新約聖書的」と*1-6-1。書くまでもないことですが、本稿では「人は mortal だが神は immortal で invisible な」『アイカツスターズ!』の世界を「ユダヤ=旧約聖書的」なものとして見なしており、この両作品の世界観には明確な断絶線があります。(……と書いていたら、『アイカツスターズ!』2年目でほんとに箱舟*が出てきたのでぶったまげました。)

 食事描写以外にも、神崎美月がシーズン1(A!:ep1-50)で唯一「親族」の描写が無いアイドルであることにもふれておきましょう。もちろん神崎以外の全アイドルに親の描写があるわけではありません。有栖川おとめはA!:ep13で海外旅行に行っていたことから間接的に親の存在が示され(両親が幼稚園を経営していることが示されるのはA!:ep83)、一ノ瀬かえでは直接姿は描かれないながらも父親[パパ]の存在に度々言及しています。が、神崎美月だけは「親族」の存在が一切示されない。これはそもそも美月と光石織姫が擬似親子的な関係性であったこともありますが、自分を出産した者たちがいない=この地上に係累を持たない存在[one visible god]としての彼女の立ち位置に一定の根拠を与えるものでしょう。

*1-6-1ここでは「アイドル」なるものをなんか「宗教一般」的なものと見なしているわけではないことに注意してください。やれ “前田敦子はキリストを超えた” だの “僕にとって観音様もアイカツも同様にありがたい” だのと軽率な人たちが軽率なことを言っているのを聞いて皆さんもうんざりしていると思いますし、私もうんざりしています。「偶像=アイドル」という単一路から(とくにアブラハム宗教の)「教祖(こんな言葉は何をも意味してはいないし書くだけで胸糞が悪くなるのですが)」と現代のアイドルとを接続しようとする論法が有効なわけありませんし、「宗教一般」なるものが存在してその「教祖」たちも自分のしていることが「宗教的」な活動だと思っていたなどという考えはすべて誤りですし、ついでに言っておけば「人類の物語には普遍的な原型がある」のを前提として作品をその類型にあてはめて良いとか悪いとか言ってしまうのもすべて罠です(作る側にしても見る側にしても)。神話だの神と悪魔との戦いだの大上段なモチーフを軽率に取り入れて大爆死した『マン・オブ・スティール』『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』の脚本を反面教師にすべきでしょう。あと、なぜ本稿で『アイカツ!』の「物語」について書かれるときその語が鉤括弧に入れられているのか、についても考えていただけると助かります。





◎RESPECT2 S4選・導火線の走り(タイムリミットの設定とその成果:AS!ep37-50)

 さて、AS!:ep30をピークにここまで大量の爆薬を搬入した『アイカツスターズ!』ですが、虹野ゆめの力(AKA爆弾)の件はAS!:ep36でとりあえず落着します。もし『続・猿の惑星』のようにほんとに全部爆発させて終わっていたとしたら別の賛辞が与えられていたと思いますが、AS!:ep37以降の『スターズ!』は来年度へ向かうフェイズに切り替わります。AS!:ep35で今までのゆめとローラの戦歴にリセットがかけられていたことからもわかるように、力(AKA爆弾)には頼らない別の卓での戦い、すなわちS4選が始まるわけです。

 ここで注目すべきは、AS!:ep37以降は別の爆弾、それも爆発が運命付けられた爆弾の工夫によって成り立っていること。つまり「時限」です。S4のメンバーは年度ごとに入れ替わらなければならないので、それを頂点に戴いている四ツ星学園も否応なく変化の時を迎える。この「1年毎の新陳代謝」の効果は大きく、彼女たちの闘いを「(学園の中での)階級闘争」に限定することを避け、むしろS4は3年制の学校空間のなかで機能するにすぎないものである(卒業生には卒業後の未来がある)として相対化することに成功しています(A!:ep46,47におけるツバサ、夜空のセリフに明確)。もちろん学園に在籍している時間をフルに活用した作劇が必要とされるわけですが、そこを疎かにする柿原優子ではありません。AS!:ep37以降のS4選までのエピソードには、「もう残された時間が少ない」ことを強調するセリフが執拗に入れられています。

“S4選まで、まだ時間はあるわ。それまでに、自分に何ができるか、あらためて考えてみて” (AS!:ep38)
“まずは学園のトップ、S4になる。そしてその暁には、プレミアムレアドレスを着る。それが私の新たな夢なのです” (AS!:ep39)
“卒業に向けて、S4の先輩方も本気を出してきたって感じだね” (AS!:ep40)
“冬フェスが終わったら、いよいよS4選ね” (AS!:ep41)
“先輩たちもみんな、S4選に向けて全力でアイカツ中” (AS!:ep42)



 実は「S4選」は前作の「スターライトクイーンカップ」とは全く別の意味合いを持っているのですが【→RESPECT4】。ここではS4とは一年ごとに解体を運命付けられている法人格のようなものだと理解していただければ十分です。「いうまでもなく、すべての生とは一つの崩壊の過程である」と白銀リリィなら引用するでしょう。AS!:ep50の「色々あったけど最高のチームだったし、もう一緒に仕事できないのは寂しいなあ」感に『イミテーション・ゲーム』のラストシーンを重ねてみるのもいいでしょう。
 同時に、現S4たちの有終の舞台でもあり、同時に来年度S4(つまり今年の2年生以下の学生たち)が選抜される場でもあるのが「S4選」です。ここではAS!:ep37以降の1年生、とくに早乙女あこの導火線の走りを追ってゆきましょう。


・誰かのファンであること(早乙女あこの捨て札)

 早乙女あこ。劇組の1年生として登場し(AS!:ep6)、他の1年生と大差をつけてオーディションに優勝できるほどの実力者である彼女ですが(AS!:ep29)、本編ではおもに(男子部の結城すばるへの片想いから)コミカルな描写が多くなされていました。AS!:ep32では虹野ゆめのリハビリをサポートするなど利他的なポジションにも立てていた彼女ですが、S4選絡みのエピソードでは1年生のなかでも最も劇的な展開を迎えます。

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(AS!:ep29 大差をつけて勝利する早乙女。わざとらしい強者描写が控えられているので見逃されがちですが、実力者としての布石もしっかり敷かれています)

「特別なグリッター」。S4選での勝負ドレスを作るための素材です。入手条件は「大きなステージを成功させること」。たとえば虹野ゆめがここぞというタイミングでの歌番組出演を成功させたことで、また真昼・ローラが学校内のイベントを成功させたことで入手できていることから、必ずしも巨大ドームとかの大規模公演が要求されるわけではないようです。メインキャクター以外の学生たちもグリッターを入手できたと談笑していることから、各クラスで飛び抜けた実力者だけが入手できるというわけでもないようです。

 AS!:ep44時点ではまだ「特別なグリッター」を入手していない早乙女あこですが、視聴者は当然あこも入手に成功したうえでS4選に臨むと予想するでしょう。なぜならあこには公式のカードゲームで特別なグリッターによる「カラフルキャットコーデ」が用意されているのですから。しかし、


・Either/Or (Go on and lose the gamble)

 結果として彼女は「特別なグリッター」を手にすることはありませんでした。「大きなステージ」に向かうことはありませんでした。その代わりに彼女が選んだのは、映画の出演で獲得した新たなファン(キッズ)の熱意に応え、デパート屋上の小規模なステージでパフォーマンスすることでした。

 なぜその選択をしたか、理由は明確です。AS!:ep45で「学校でのステージを成功させ、S4選での勝ちを磐石にするか」・「S4選での有利を捨ててでも、ファンの熱意に直接応えるか」の二択を突きつけられたあこですが、彼女は後者を選んだ。なぜなら彼女は劇組の実力者である以前に、結城すばるのファンだったから。台詞を引用しましょう、

“そう、わたくしがこの学園に入学したのは、すべてはすばるきゅん、あなたに逢いたかったから” (AS!:ep17)


「誰かのファンである自分」。劇組の実力者として割り当てられた立ち位置よりも優先されるべき自分の姿があったということです。「自分はこのようにして(誰かのファンとして)造られた」という事実。早乙女あこにとって、その事実から逃げることはS4選での不利以上に許すべからざるものだったのです。自分自身のファン━━デパートでのライブを楽しみにしてくれる━━の姿を前にしてはじめて、早乙女あこは「誰かのファンである自分」に仁義を通す決意をした。なぜなら再三確認したように、早乙女あこは結城すばるの、誰かのファンとして造られた人間だったからです。
(『アイカツスターズ!』は前シリーズとは別の水準での「人間の製造」に真正面から向き合っている作品です。S4選をめぐるあこの描写は、「自分自身がいかにして造られたか」を見据えることから逃げない、もっと言えば自分修正主義に与しない態度として一貫しています。)

 その結果として、あこはグリッターを手にすることはありませんでした。 “わたくしは何が何でも夢を叶えてみせますわ” と出演映画の台詞を繰り返し口にするシーンがありますが、尋常の作品ならここでピロロン♪とかいって、「規定の条件は満たしていないけど、よくがんばりました」とばかりにグリッターが与えられていたでしょう(再度確認しますが、公式のカードゲームではあこの勝負ドレスが用意されているのですから)。しかしその思いは報いられません。なぜなら、もう確認しましたね。諸星ヒカルの言う「ステージの神」なるものは知覚不可能で、 mortal な人間が陳情してそれで報いてもらえるような存在ではないからです。 “わたくしは何が何でも夢を叶えてみせますわ” の言葉が(グリッターとして)報いられなくても、自分の手札から有利なカードを捨ててでも、それでも早乙女あこは「誰かのファンである自分」の来歴に仁義を通した。それを修正してしまうことは、彼女にとって何よりも耐え難いことだったからです。

 ……本稿では可能な限り非情緒に徹しようと努めていますが、私はこの早乙女あこの姿に撃たれずにはいられません。なんという真摯さ、なんという気高さでしょうか。そしてなんと堂々たる賭けっぷりでしょうか。一番有利な手札を捨ててまで、「自分はこのようにして造られた」の役にベットするとは。それでも彼女は後悔しているふうはありません。なぜなら結城すばる(「誰かのファン」である自分を造ってくれた張本人)から「アイドルとして合格」という言葉を受け取ったから(この言葉が直接あこに伝えられたわけではないことも重要です。すばるは吉良かなたが話題に出した「とあるチャンスを蹴ったアイドル」が早乙女あこであることを知らず、ラジオ番組の中で誰ともなく賞賛の言葉を贈ったにすぎないのです。長くなるので割愛しますが、前シリーズと違って『スターズ!』で「直接目掛けられたわけではない言葉」━━届かなさ、聞こえなさを含む━━が多く放たれているのは重要なことです)。

 結果として、早乙女あこは現S4たる如月ツバサに敗北します。それでも順位がツバサに次ぐ第2位だったので来年度S4の座は確定されたわけですが、彼女は勝負のあとにこらえきれず落涙する。ツバサに敗北したから悲しいのか? それとも有利な札を捨てたことを後悔したのか? もちろんどちらでもありません。「誰かのファンである自分」に仁義を通したことに後悔はない。しかしそれだけでは勝てなかった、という端的な事実に向き合えたからこその涙でしょう。来年度からの彼女は、1年生の頃よりいっそう(学校の高位ヒエラルキーとしての、劇組S4としての)自分を確かにすることが課題となるのかもしれません。しかしいま涙を流すことができる彼女と、あの場で「自分がいかにして造られたか」に向き合うことなく学校のヒエラルキーに諾々と迎合しながらS4になった場合の彼女とでは、強さ(真摯さ、気高さ)に天地の離れがあったはずです。早乙女あこがS4選の宅に並べた札たちには、そこまで多層的なエモが織り込まれている。勝ち・負けの判定が冷厳と下される一方で、その札を切った人間(博徒)の指先の慄えまでもが響[どよ]もしてくるかのような闘いの場。それが「S4選」であることを、早乙女あこの導火線の燃え尽きが印象付けるのです。*2-1


*2-1
 よって、『アイカツスターズ!』が「学校内での出世や成り上がりに偏っている」とか、「最初から実力者が勝つのが目に見えている」とかいう雑な批判はすべて無効となります。勝てた・うれしい、負けた・かなしいといった二分法自体が機能しない、ひとりの人間がいま賭けの卓につくまでの来歴(つまり「自分がいかにして造られたか」)を直視することでしか描けないことがあるということです。それは前述した早乙女あこの姿からも瞭然です。S4選という場が来年度のトップの選抜のみならず「(現S4に敗北することで)自分は現状この程度」であることを認識させる場としても機能していること、並びにその勝負模様が前シリーズの「スターライトクイーンカップ」とどのように違うか、について書くのは贅言となるでしょう。

(香澄真昼の導火線の燃え尽きについては【→RESPECT6】





◎RESPECT3 特権的視点の優位の排除(博徒と観衆)

“俺にはわかる。アイドルとしての夢が破れても、いい裏方になれるよ”

 虹野ゆめがTV局スタッフ(山口さん)から言われたセリフなのですが、おそらく多くの人が「ちょっとそれどうなの」と思ったでしょう(私もそうでした)。しかしこの「ちょっとそれどうなの」を感じるに至った線を遡っていくと、『アイカツスターズ!』全体の進行とその視聴者とをめぐる特異な構造が、思いがけず浮かび上がります。

 まず、このセリフが言われた時点がAS!:ep4であることを確認しましょう。この時点での虹野ゆめは、入学すぐのステージでなぜか驚異的なパフォーマンスを見せ(AS!:ep1)、先の驚異的なパフォーマンスと比べて実力が追いついていないことを見抜かれながらも光るものがあることをローラに認められ(AS!:ep2)、組分けオーディションで歌組に合格するに至った(AS!:ep3)のでした。なぜ驚異的なパフォーマンスができたかの謎(EE)は解明されないながらも、アイドルとして少しずつ歩を進めている虹野ゆめに(視聴者が)移入し始める段階、それがAS!:ep4時点だと言っていいでしょう。そこで “アイドルとしての夢が破れても、いい裏方になれるよ” と(よりによって彼女を裏方スタッフとして使役していたTV局側の人間に)言われてしまうことで「(この子はアイドルとして頑張ってるのに)ちょっとそれどうなの」と感じるに至ったと。

 しかし、ここで一歩退いてみましょう。「退くって、誰が何から?」もちろん視聴者である我々が『アイカツスターズ!』に移入している視点から、です。
“アイドルとしての夢が破れても、いい裏方になれるよ” と言った側(TV局の山口さん)は、入学してすぐの虹野ゆめが驚異的なパフォーマンスを見せたことなど知るべくもない、学園の外にいる(=虹野ゆめの「謎」の文脈を共有しているはずがない)側の人間である。以前書いた記事に寄せれば「謎装置の中に囲われていない人」と言うことができるでしょう。なのだから当然、裏方として労働力を提供している他の人々(TV局スタッフはもちろん、四ツ星の生徒たちも含む)と同程度のリスペクトしか払われないのは当然ということになります。AS!:ep4の時点において、市井の人(山口さん)から虹野ゆめに対するアイドルとしてのジャッジは、端的にフェアなものになっている。

 ここで明らかになるのは、『アイカツスターズ!』においては「この子たちはこれだけ頑張っているのだ、だから周囲の人々から報われてしかるべきではないか」という特権的視点の優位が排除されていることです。特権的視点、とはもちろん視聴者のことです。前シリーズ『アイカツ!』においては、むしろ特権的視点=視聴者とのランデブー*3-1を積極的に図ることで「成長」を描写してきました。以前*書いたとおり、そこには「これだけ努力をした→それをデザイナーさんが認めてくれた→そのおかげでプレミアムドレスを着られた→だから良いステージができた」という定式が成立しえたからです。この「特権的視点=観客に見てもらうものをキャラクターの成長と結びつける」定式は、『アイカツ!』において最後まで円滑に用いられていました。*3-2

 しかし、『アイカツスターズ!』ではその定式が原理的に成立しない状態での戦いが展開されている。であるからには、虹野ゆめをはじめとするアイドルたちは、自分に対する評価が白紙のままである市井の人々を相手に支持を集めながら、自分の闘い方を確かにしていくしかなくなる。それは桜庭ローラの行路(AS!:ep7,21,29,33)においても一貫しています。迷える彼女にせめてもの路を示すきっかけになっていたのは、(そもそも『スターズ!』の世界には存在していない)プレミアムレアカードを与えるデザイナーではなく、市井の人々や指導教員たちでした。虹野ゆめも地道な活動を続けつつ、AS!:ep10で初めて単独のステージを成功させたのでした(たった10回ぶんのエピソードしか貯金がないにもかかわらず、ゆめが一緒に仕事をしたりファンになってくれたりした人々をブレーメン式に巻き込んでステージの成功に結実させる流れの、まるで針を通すような丁寧さと確かさは特筆に値します)。ゆめのステージを観に来た人々のなかには例のセリフを言い放った山口さんの姿もあります。AS!:ep4の時点では無名の「デカリボン」としてしか認識されていなかった虹野ゆめが、AS!:ep10でようやくアイドルとして認められるに至る……わけなのですが、


・Just trying to get inside (I stand on the outside, looking in…)


 ここでさらにひとつツイストを加えているのが『アイカツスターズ!』の恐ろしいところです。AS!:ep10でのゆめのパフォーマンスではサビの直前にカットイン(彼女に取り憑いている謎の力が発現する描写)が入ります。AS!:ep10のステージを目にした人々は喝采をおくるわけですが、この時点ではゆめ本人もその観客も、謎の力(AKA爆弾)の存在は知るべくもない。AS!:ep10までの虹野ゆめの頑張り自体は確かなものである一方、良いパフォーマンスができた一因には謎の力(AKA爆弾)も介在している。つまりAS!:ep10での虹野ゆめの「成功」は二層化されていることになります。謎の力(AKA爆弾)の存在が劇中の人物に察知されるのはAS!:ep18になってから(それも結城すばるだけが虹野ゆめの驚異的なパフォーマンスに違和感を覚えている、といった程度)で、AS!:ep21-29でのゆめは力に頼ることでローラとの戦いに暴虐的な勝利を収め、そしてついにAS!:ep30で自分自身をも破壊しかねない謎の力の脅威(AKA爆弾)に直面したのでした。
 繰り返しますが、上記の経緯を観察できるのは特権的視点の保持者(=視聴者)にのみ可能なことです。「なぜ虹野ゆめは驚異的なパフォーマンスができるのだろうか」「おや、同じように違和感を覚えているキャラクターもいるようだ……」と鳥瞰的にみはるかすことはできますが、その視点の特権性を共有しているキャラクターは『アイカツスターズ!』において存在しない。謎の力(AKA爆弾)について最も危機感を抱いている諸星学園長ですら、実姉を象徴的に殺したあの脅威をどのようにして退ければいいかわかっていない。つまり、誰も勝ち方を知らない。ステージで札を切るアイドルたちも、それを見届ける教員たちも、誰も正しく有効なひとつの道を知っているわけではない。特権的視点の優位を保っている者などどこにもいない。だから『アイカツスターズ!』における人々の生き様は「賭場」としてたとえられるしかないのです。

 よって、『アイカツスターズ!』の視聴者は、特権的視点を許されている自分自身と、博徒たる彼女ら彼らとの断絶をまたぐことになります。アイドルの成長を自分の代わりに(プレミアムドレスを与えることで)担保してくれるデザイナーも存在せず、こちらとランデブーを図ってくれる成長の定式さえ存在しないのだから、視聴者は特権的視点を一方的に許されたまま、彼女ら彼らの賭けの結果を見届けるしかなくなる。ここにこそ前シリーズと『アイカツスターズ!』との最大の差異があります。この断絶に耐えられるかどうかは、『アイカツスターズ!』を支持できるかどうかの質的な問題とも関わるものでしょう。


*3-1「ランデブー」に関する註
「製作者と視聴者との視点が癒着する(相互の結託により欲望を生産する点)」として敢えてこの語を採用しています。「あらかじめ近接関係にある両者が相互の欲望とともに落ち合う地点」の意味を含んだ語を選ぶ必要があったからです。他の候補としては(スタートレックにおいて「別種の宇宙船がその機体を接続する」の意で「ランデブー」と並んで使われる)「ドッキング」の語がありましたが、1:実体的なボディの結合の意だけが誇張されがち 2:「ドッキング」の語感だと否応なく「ドギースタイル」が連想され、両者の視線が向き合わない体位での結合までもが含意されがち(「ランデブー」が重要なのは相互の視点が向き合った時点での通い合いが成立するニュアンスだったので、こちらは適切とは言い難い)などの理由から却下されました。

*3-2「感情移入」に関する註
 良きにつけ悪しきにつけ、「感情移入」が可能であるか否かをまるで絶対的条件のように評価する人々は一定数存在します。とくに映画の感想とかで。この「感情移入」の四文字を無批判に使うことでいったいどれほどのことが無視されどれほどのことが美化されうるのか、についてはここでは書きません。しかし確認しておかねばならないのは、この「感情移入」の評価は、劇中の登場人物と自分自身(視聴者)との視点を、同一・または同質の次元に置かなければ成立し得ないものであるということ。視聴者の「支持できる」「支持できない」の価値判断と劇中の登場人物たちの振る舞いとの癒着点━━これこそが本稿で「特権的視点の優位」として呼び成してきた現象です。なぜ視聴者の視点が「特権的」か? それは劇中の「物語」を試飲[tasting]し検査[testing]する席に視聴者が座(らされちま)っているから━━もっと言えばその席に杯を供する側の者(製作者)こそが積極的にランデブーを取り持とうとする状況があるから。「感情移入できる物語」の評価と「特権的視点」との癒着は、このランデブー にこそ始まります。確定不可能な要素はどこにもない、「物語」の過去現在未来すべてが鳥瞰可能になる、くまなく光に照らされた、歴史小説的な視点。それはすべての人物のすべての帰結を説明付ける光の体制だと言うことができるでしょう。

『アイカツスターズ!』はその(tasterでありtesterである)特権的視点を視聴者に許す一方で、劇中人物たちの(誰も正しい勝ち方を知らない)「賭け」の有様を見せることで、「感情移入できる物語」の評価と「特権的視点」との癒着を拒絶した。その特性が一挙に噴出したのが白銀リリィの帰還の瞬間にあったことは以前書きました*。諸星ヒカルの盆暮闇については【→RESPECT5】
歴史の闇に埋もれていることもできた存在があえて光の体制に身を晒すことから始まる闘い、それを見せることによって逆説的に光の体制に晒されていない部分を偲ばせる、鳥瞰視点を脱臼させるための、この戦略。
 それはおそらく、なんでも見える・聞こえる・届けられる・予測できることを自明として、自分自身が「物語」へと「感情移入」できて然るべき「特権的」な主体であると(極端な言い方をすればフィクションの中で全能な主体だと、つまり想像的に神であると)思っている人々にとっては耐え難いものでしょう。しかし『アイカツスターズ!』は読めなさ・見えなさ・届けられなさを(描き続けている、と書くとそれは目に見えているではないかという撞着を招くので━━むしろこの撞着、読めるはず見えるはず聞こえるはずがないのにそれが知覚可能なものとして目の前に届けられてしまっている、この出来事にこそ非・特権性のすべてがある、と書きたいのですがそれはここ*で書いたことなので繰り返しません━━、ここはやくざだとしても)やりつづけている(というのが適当でしょう)。確定不可能性、すなわち博打。本論でも書いたことですが、この「おぼつかなさ(勝てなさ、聞こえなさ、届かなさ)」を選んで札を切っている人々の姿と、特権的視点を許されている自分自身との断絶をまたぐことに耐えられるか。もっと言えば、「特権的視点」に拠る「感情移入」を絶対の評価軸として立てることを拒絶できるか。『アイカツスターズ!』を支持できるかどうかは、その質的問題にかかっていると私は思います。





◎RESPECT4 いばらのショーマストゴーオン(勝負の成立可能性・札切る後裔)

『アイカツ!』においても勝負なるものは成立していた、ように思えます。しかしどうでしょう、私は『アイカツ!』において(2人以上のアイドルによる)勝負が一応成立していたのは、A!:ep10までだったと考えます。有栖川おとめの初登場回であり いちご VS おとめの対決オーディションが行われる回ですが、勝たなかった側であるおとめには即座に敗者復活席というケアが与えられ、さらに “おとめちゃんのファンになっちゃった” と星宮が言うことで「勝てない」側のストレスは解消されていました。この時期から既に「消火装置」の運用は順調だったというわけです。
 しかし、『アイカツ!』内での勝負の不成立性を云々しても仕方ありません。先述した通り、『アイカツ!』における「勝負」なるものは、目に視える神[神崎美月]の死を人-神[星宮いちご]が執行するという「物語」を成立させるために要請されていたのですから、それ以外のキャラクターどうしの「勝負」をどうこう言うことには意味がない。だからA!:ep152ユニットライブの結果を見て「どうしてトライスターが下級生ユニットのルミナスより下位なんだ!」と目くじらを立てることほど不毛なことはなかったというわけです。

 それよりも、『アイカツスターズ!』がなぜ前作とは違う「勝負」に打って出ることが可能だったかを追うために、両作品のスタート時期を確認しましょう。
 まず、『アイカツ!』の放送開始は2012年10月8日、『アイカツスターズ!』の放送開始は2016年4月7日。季節上の違いがあります。A!:ep1で星宮と霧矢が受けたのは編入試験で、そこから半年後のA!:ep26ではもう中学2年生になっていた。対して、AS!:ep1は学校年度の頭なので、ゆめやローラの入学時のタイムラインから話を進めることができた。という、単純に放送開始時期しばりの違いが両作品にはあります(『スターズ!』の楽曲を収録した四枚のCDが四季のタイトルを持っているのもそういうことです)。
 よって、『スターズ!』が学校年度終了ごとにメンバーが解散し、ふたたび2年生以下の学生によって再編成される法人格=S4を頂点に戴く構造を採っていたのも、わかりやすくなるでしょう。
 対して、前シリーズ『アイカツ!』でのスターライトクイーンカップは(50話で1シーズン=1年間という構成上)秋季(2013年9月26日放送のA!:ep50)に行われねばならず、あかりジェネレーションで北大路さくらがその座を襲名するA!:ep124では「今年からクイーンカップは春に行われることになった」というアクロバットを加える必要があったのでした(北大路がクイーンになり、大空が来年のクイーンの座を目指し、星宮たちはひとまずメインキャラクターの座を降りるのがA!:ep125時点。オフタイム回を挟んだA!:ep127からは冒頭のタイトルカットから星宮の姿が無くなり、大空単独のものに変わります。シーズン区分の都合上、公式ではA!:ep102以降が「あかりジェネレーション」と呼称されていますが、大空から星宮の補助輪が外れたA!:ep127以降を「あかりジェネレーション」と呼ぶのも有効でしょう。事実、A!:ep127-178で放送終了するまでの期間はちょうど学校年度1年ぶんであり、その翌週からスムーズに『アイカツスターズ!』へと引き継がれたのでした)

 前シリーズでは神崎美月[one visible god]の没落を実現させるためにいちはやく星宮をモノホンプレイヤーにする必要があり(A!:ep1 “早く私のところまで登ってきて” )、それは『劇場版アイカツ!』(2014年12月13日公開)にて2年以上をかけて達成され、人間[大空あかり]の世界が定礎されたわけですが、私はこの一連の「物語」を「王権神授的」と形容したいと思います。ロック云々するつもりはありませんが、『アイカツ!』は人間以前に神の系譜があり、そこから授かった統治を人間が執り行っていくというロジック*4-1で進められており、その中継区間が『劇場版アイカツ!』からA!:ep125までの一連のエピソードだった。そして人-神(=星宮いちご)から「バトン」を受け取った人間(=大空あかり)は、その「物語」の必然的帰結としてスターライトクイーンの座を襲名する運命にあった。これは「『アイカツ!』における勝負の成立不可能性」とも釣り合っています。 “ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり” 、勝ち負けの判定によるストレスも消失した。では「スターライトクイーンカップ」とは、原則的に勝ちも負けも生じ得ない状況を設えたうえで大空あかりの戴冠をスムーズに実現させるための場、以外の何かを意味していただろうか? と問うこともできます。そのように誂えられた「勝負」の場で競われる「クイーン」の座は、(神崎→星宮→からなる「物語」を担がされた大空以外に)目指す意味のあるものだったのだろうか? とも。その問いに答えを出すには、氷上スミレの━━「勝つことも負けることさえもできない」状況で大博打『いばらの女王』の札を切り、神崎とは全く別の意味で「没落」してみせた彼女の━━姿を思い出すだけで十分でしょう。『アイカツスターズ!』には、スターライトクイーンカップにおける氷上スミレ━━博徒として札を切る者━━の後裔たちの戦いが引き継がれたのです。

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図1(上):アピール成功時[A!:ep166]の『いばらの女王』冒頭カット
図2(下):アピール失敗時[A!:ep176]の『いばらの女王』冒頭カット
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 結果から遡れば、『いばらの女王』のステージは冒頭のカットで既に勝ち負けが決定していたことになる。画面全体を地図に見立てれば、図1ではスミレ→女神像の位置関係は真北にあり、アピールは成功する。図2ではスミレ→女神像の位置関係は真南にあり、アピールは失敗する(“go south” は米俗語で「低下、落下する・消失する」などを意味する)。“逆位置の意味ならば挫折になるとしても” “ここへきて 地図をたしかめ ドレスに着がえ出かけましょう” の歌詞どおり、札を切った(ステージに立った)瞬間に勝ち負けの判定を余儀なく突きつけられる大博打、『いばらの女王』とはそれである。

“We go out in the world and take our chances
Fate is just the weight of circumstances
That's the way that lady luck dances
Roll the bones”

“If there's some immortal power to control the dice?”
ーRoll The Bones / Rush



 柿原優子は、前シリーズと違って入学時からエピソードを進められるという特性を見逃さなかった。前シリーズのように運命付けられた「物語」を成立させる手続きを導入するのではなく、1年ごとにブレイクダウンする「S4」という法人格(それはあらかじめ没落が運命づけられている one visible god では金輪際ない)を設定し、その座をめぐる札の切り合いを「S4選」として持ってきた。必ず勝てる札を選んでしまう虹野ゆめは生存のために「力」と手を切り、その宿敵たる桜庭ローラは勝てなさに向き合いながら何度でも賭場に戻り、病者たるリリィ・キハーノは一冊の本との出会いにより穏やかに発狂し自分の札を揃えるに至ったのでした。ここでは勝つこともできる、負けることもできる。S4しかプレミアムドレスを所持することが許されない世界で、彼女らは自分の札を選んで作っていかなければならない。そして「デザイナー」は存在しないから、その札を切った勝敗の結果もすべて自分の一つ身で引き受けなければならない(S4選での勝利ではなく「誰かのファン」である自分に仁義を通すことを選び、その選択による負けをも引き受けていった早乙女あこの姿も忘れるわけにはいきません)。それら一度一度の卓の上に並べられた札たちによって織り成される、この勝負の成立可能性(=賭けの結果予測不可能性)。かつて氷上スミレの堂々たる没落以外には前シリーズには光らなかった閃きこそが、『アイカツスターズ!』では賭けられていた(し、これからも賭けられ続ける)のでしょう。


*4-1
 とくにA!:ep146に象徴的でしょう。『アイカツ!』の放送が終わり劇場短編『ねらわれた魔法のアイカツ!カード』が公開された今だからこそ言えることですが、A!:ep146は治水者としての星宮いちごを強烈に印象づけるものです。『アイカツ!』がA!:ep146から劇場版短編にかけて逢着したものの正体や、神崎星宮大空に担わされた王権神授的統治の「物語」について筆者が思うことについては、ここでは書きません。ただ、世界を治水し封建化するオジマンディアス的物語を担わされた者たち(神崎星宮大空)ではなく、ロールシャッハたち(スターライトクイーンカップにおける氷上スミレ、劇場版短編における堂島ニーナ)の抵抗の姿に導かれてこの項は書かれた、と書いておけば十分でしょう。





◎RESPECT5 誤れる父親の姿(諸星ヒカル:勝ち目の見えない盆暗男)


「賭け」を続けていたのは生徒たちだけではありません。四ツ星学園の長たる諸星ヒカルも、正しい勝ち方を知らない「賭け」に向き合っていたことを思い出しましょう。

 前シリーズでの「学園長」光石織姫は、以前*少し書きましたが「無謬なる母親」とも呼ぶべき存在でした。全エピソードを通して彼女の判断に譴責すべき誤りなどはひとつもなく、ミスターSとかいう生徒に害を及ぼす存在はいつの間にかハエのように追い払われていたのでした(ああいう端役に置鮎龍太郎さんをキャスティングしてしまえるのが『アイカツ!』の豪華というか、贅沢なところです)
「無謬なる母親」は光石織姫のみならず、ドリームアカデミーのティアラ学園長も同様です。織姫に憧れた彼女がコンサートの現場で働きつつ創った学園はスターライトと同格の興盛を見せ、さらにはシーズン2クライマックスでは超巨大ステージ建設のために単独で出資してもいたのでした(A!:ep93)。にもかかわらず財政的に破綻したなどの描写は無い。これを諸星ヒカルがイベント運営の赤字に頭を抱えていた(AS!:ep39)のと比較すると、その差は歴然でしょう。

 そう、諸星ヒカルは「誤れる父親」です。
 彼は姉の象徴的死によって、「アイドル」なるものが mortal であることを突きつけられてしまった。であるからには、諸星ホタルの没地であり現在諸星ヒカルが学園長を務めている四ツ星学園は、とうぜん「生存のための discipline (規律、訓育)」をおこなう場所ということになる。この方針において四ツ星学園および諸星ヒカルは首尾一貫しています。 “わが四ツ星学園にふさわしくないと判断すれば、いつでも虹野ゆめを辞めさせる” (AS!:ep2) 。なぜなら、かつての姉のような死に至るくらいなら、力が萌芽する前にゆるやかに脱落させたほうが危険が少ないからです。 “わが四ツ星学園にふさわしくない” とはもちろん discipline を経ることなく力(AKA爆弾)に頼ってしまった場合のことです(その discipline を経過して生き延びた張本人である白鳥ひめが同室しているわけですが、しかし彼女自身はまだホタルの死の真相さえ知らされていない……ヒカル・ひめ・ゆめの3者は、この時点ではまだあまりにも多くのことを明るみに出さず隠したままの状態にあります。後述)

 さらに、AS!:ep10のラストの台詞を確認しましょう。 “あの力を超えることができなければ、君(虹野ゆめ)のアイドル生命は……” この三点リーダの部分に入るのは「終わる」で間違いないと思いますが、この時点での「終わる」がいかなる事由によって「終わ」りうるのかは二路に分かれています。 A:諸星学園長の判断で学園を追放されて「終わる」のか、それとも B:それ以外の原因によって生命を奪われて「終わる」のか。AS!:ep2から強調されてきた「虹野ゆめのアイドル生命の終わり」の原因は、ここではどちらにも解釈可能な状態で残されている。もちろんこの時点での視聴者は「生徒からアイドルの夢を奪おうとしている男」として諸星ヒカルを認識しているわけですから、Aとして解釈することもあるでしょう(私はそうでした)。この A:虹野のアイドル生命を(学園長たる自分の判断で退学させることで)奪うのか、 B:虹野のアイドル生命を(このまま力に没入していくのを見過ごすことで)奪うのか、の岐路に立たされた状態。それがAS!:ep10時点での諸星ヒカルです。もちろん彼はどちらの路も選びません。学園長たる彼はまず、『劇場版アイカツスターズ!』で(discipline が十分でないうちからS4の座に近づけば近づくほど爆弾に頼りやすくなるに決まっているので)架空の企画書をでっちあげてまで(ゆめ・ローラの優勝による)S4との共演のチャンスを回避せんとしますが、結果として目論見はうまくいかず、白鳥ひめからは “ゆめちゃんの夢を潰すのだけはやめてください” と静かにディスられる始末でした(再三確認しますが、この時点での白鳥ひめはホタルの死について何も知らされていないし、ヒカルが虹野の生存のため━━台詞を引用すれば “S4との共演より、虹野にはもっとやることがある” ため━━に discipline に取り組まねばならない事情など知るべくもない)。さらにはアイカツアイランドの興行のために赤字まで出してしまうという……この誤りぶりたるや。


・ミスターミステイク(そしてまた LIFE GOES ON)

 虹野の症状が “これ以上はもう、見過ごせん” ところまで亢進してしまうのがAS!:ep21です。逆に言えば、過去の白鳥ひめの爆弾はこの “見過ごせん” 状態になるまえに鎮静に成功したケースだと考えることができるでしょう(白鳥は「ひめトレ」と呼ばれるエクストリーム空気椅子に笑顔で耐えることができますが、もちろんギチギチの discipline を経たからこそ可能な事です)。ということは、症状が “見過ごせん” フェイズに突入してしまって以降は、ヒカルはどう手を尽くせばいいのか知らない(かつて姉が衰弱するのを見ていることしかできなかったように)

 実際、AS!:ep21-30の諸星ヒカルは、具体的な手は何も講じていない。虹野が他の生徒たちと学園祭の設営に取り組んでいる横で、自分はといえば来場客に対して陽気に振舞うくらいしか(AS!:ep25)、あるいは着ぐるみ姿で座っているくらいしかできない(AS!:ep28)、より直裁に言えば生きていることしかできない。虹野も自分と同じように生きていける世界であることを、束の間でも証し立てるために生活し続けるしかない、この父親の危うさ、滑稽さ(切なさ、と加えることは不可能でしょう。この「父親」の位置が抱える「わからなさ、できなさ、先行き不透明さ」は情緒が介在できるタイプのものではありません)。誤れる父親、喪の弟、秋の族長、勝ち目の見えない盆暗男(「盆暗」はサイコロを転がす盆が暗くて賽の目がよく見えない=賭けに勝てないに由来する)。それが諸星ヒカルです。
(長い括弧なので段落を切ります: むしろ、ヒカルは実際的な指導は歌組教員である響アンナ先生に任せっきりだった、と書いたほうが適切でしょう。アンナ先生の指導も徹底して四ツ星流の discipline で、AS!:ep21では重荷を使ったハードトレーニングこそ課すものの、星宮━━ “超人” ━━的な飛躍を許したことは一度もありませんでした。当該エピソードで「崖を登る」絵がイメージ映像としてしか用いられない点は、『スターズ!』と前シリーズとの差異を示すものとして象徴的です。ちなみに諸星ヒカルは、AS!:ep18のアイカツアイランドに虹野が出演するかどうかの得票オーディションには介入していない・AS!:ep21のCDデビューオーディションの結果はあくまでプロデューサーの指田氏のジャッジに一任しているなど、「虹野の頑張りに関するジャッジは自分以外の者に委ねる」イズムで一貫しています)。

 そして(AS!:ep30以降の)諸星ヒカルは、白鳥・虹野と違って爆弾を抱えていない生徒たちによるステージに安堵し(AS!:ep31)、リハビリ中の虹野が二階堂ゆず・早乙女あこに助けられてのステージを見届け(AS!:ep32)、ここにきて初めて白鳥ひめに実姉の真相を知らせるに至り(AS!:ep33)、ついにAS!:ep35で(ひめと共同で)虹野の爆弾を鎮めるための賭けに踏み切ったのでした。

 AS!:ep35の暗がりの通路での会話シーンは、『アイカツスターズ!』1年目の全エピソード中でも屈指の名シーンです。控室でヒカルは “どうやって乗り超えればいいのかは、虹野が見つけるしかない” と自分の無力を追認するかのような台詞を吐きますが、それでも「学園長」としての自分の威厳は崩せずにいる。その直後、白鳥と2人きりの会話シーンに移ります。

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“急なことで、すまない”
“ステージに立つ者どうし、わかりあえることもあるだろう。私には手の届かない世界にも、君なら一緒に行ける。虹野のことはよろしく頼む”



 と虹野がいないところで初めて「学園長」ではない「誤れる父親」の姿をあらわにする。その隣には白鳥ひめ━━実姉のような死にまでは至らなかった保菌者━━の姿がある。「誤れる父親」でしかない自分はアイドルである虹野を(「学園長」としての disguise なしには)導くことができず、虹野と同じアイドルであり保菌者である白鳥ひめに鎮静の荒療治を託すしかない。まさに「賭け」です。かつての姉のように、虹野にとって決定的な終末が(ステージ上で)訪れないとは限らない。おそらく軽率すぎる。決して褒められたことじゃない。しかし『アイカツスターズ!』は「誰も正しく有効なひとつの道を知っているわけではない、特権的視点の優位を保っている者などどこにもいない」作品であることは別項で書きました【→RESPECT3】。ここにこそ反転があります。特権的視点を持っている視聴者は劇中で起こっていることすべてを鳥瞰することはできますが、諸星ヒカルの危うい賭けの全容を識ることはできない。なぜならヒカルの━━実姉の象徴的死から始まる歌と呪いの━━因縁の全容は暗闇の中に隠されていて、虹野の症状につれて徐々に明るみに出されざるを得なかったものでしかないからです。虹野のような爆弾持ちが現れない限りは、ヒカルは実姉の真相を(白鳥ひめにさえ黙っていたように)誰にも明らかにすることなく暮らすこともできた。しかし事ここに及んでは、自らの過去を部分的に光に晒してでも(白鳥とともに)賭けに打って出るしかなかった。AS!:ep35で歌われる楽曲『So Beautiful Story』が「光学装置」たる図書館をモチーフにしていることは以前書きました*。しかしこの「誤れる父親」の過去とは。なぜヒカルが学園長として就任するに至ったか、そもそも「力」の正体とはいかなるものなのか(有限者たるヒカル=ヨブは目に見えないそれを「ステージの神様」と呼ぶしかない)、具体的な説明は一切加えられないままです。特権的視点を持つ視聴者は、この盆暗闇の中にある、与り知ることのできない黒塗りの部分を「誤れる父親」の存在によってはじめて知る。「すべてを知る、すべてを見る」ことができると思っていた視点の特権性が脱臼される地点は、諸星ヒカルが「賭け」に打って出る地点だった*5-1。別項【→RESPECT3】で「視聴者は特権的視点を一方的に許されたまま、彼女ら彼らの賭けの結果を見届けるしかなくなる。ここにこそ前シリーズと『アイカツスターズ!』との最大の差異があ」ると書いたのはこのことです。AS!:ep1-35にわたる……いやそれどころではない、幼少の諸星ヒカルが mortal な姉を救うことができなかった時点から現在までの、すべてのヨブたち(ホタル、ヒカル、ひめ、ゆめ)が生存のために拵えた札たちがひとつの盆暗闇に結集する、その瞬間をとらえているからこそAS!:ep35は凄まじいのです。

 まとめましょう、「誤れる父親」を長とする四ツ星学園は、生存のための discipline を行う場所です。もちろんその過程に痛みが伴わないとは限らない。しかし学校での「規律・訓育」と「虐待」は絶対に同じではありません。このイズムは『スターズ!』で素晴らしく一貫しています。AS!:ep43のヒカルのセリフを引用しましょう、 “私はこの学園の生徒たちの成長を願いこそすれ、貶めようなどと思ったことは一度もない”*5-2 。このセリフに尽きると思います。アイドルなる存在が mortal であることを誰よりもよく識っている盆暗男が、どれだけ危うくとも生徒たちの生存を多少なりとも可能にするため、人間の製造に賭けること。そのことを花鳥風月=歌劇舞美4クラスの「藝能」を通して描いてみせた。ここにこそ、無謬ではない「誤れる父親」を長に持つ学校での、途方もなく誠実な「人間の製造の賭け=藝能」の関係があると、私は思います*5-3。そして、


・Mothership Connection (TREKking of the STARs)

『スターズ!』2年目からは豪華客船型学校「ヴィーナスアーク」が登場します。その長たるエルザ(半角スペース)フォルテのデザインが本当に素晴らしいのですが、その髪のフォルムだけを見ると神崎美月を連想しがちかもしれません。しかし私はむしろエルザ フォルテに「無謬なる母親」の姿━━前シリーズの学園長たち━━を重ねたいように思います*5-4。なんせ「パーフェクトアイドル」ですし、 “エルザ フォルテ率いるヴィーナスアーク” と書かれているからにはとうぜん彼女が学園の長(船長? 艦長?)なのでしょうし、そんな人が虹野ゆめの身柄を求めてコンタクトを図ってきたとあっては、四ツ星の「誤れる父親」も事を構えざるを得ないでしょう。かたやパーフェクトアイドルかたや盆暗男。この族長ふたりの歴然たる差を前にして、ヒカルは生徒を護りきることができるのでしょうか。そもそもヴィーナスアークはエンタープライズのように外交的な船なのでしょうか、それともボーグのように問答無用で同化吸収を迫ってくる非人間的共同体なのでしょうか。四ツ星とヴィーナスアークとの接近遭遇によってどのような修羅場が演じられるのか、『アイカツスターズ!』2年目からも目が離せません。


*5-1 脱臼
『スターズ!』(のすくなくとも1年目)は、この「(彼女ら彼らには)視聴者には与り知ることのできない時間が流れていた」ことを思わせるイズムで一貫しています。諸星姉弟以外のエピソードでは、AS!:ep48で芦田・白銀・二階堂の3人が学校内での階級差を捨て「同級生」として気の置けない会話を始めるシーンを挙げておけば十分でしょう。当然ながら視聴者(=特権的視点)は1年前の彼女たちがどういう関係を取り持ったのか、についてなにも知ることができません。「特権性が脱臼される」とはそういう意味です。ここで回想シーンを入れて芦田・白銀・二階堂の3人の関係性を説明してしまうことは簡単だったでしょう。しかし前シリーズとは異なる光学を備えた『スターズ!』はその手には出なかった。
 逆に、前シリーズでは「試練や葛藤めいたものは既に通過していて、その経験があるおかげで現在のアイドルがいる」のを回想シーンで示す手法が多く使われていました(以前「事後報告」として呼び名したもの)。これによって視聴者は「ああ、現在の彼女たちはこういう経緯があってこんなに立派なのだなあ」と安心することが可能だったわけです。両作品の差異のなかでもとくに際立っているのがこの点です。どっちが良いとか悪いとかいう話ではありません。しかし「事後報告」、あるいは*3-1で「ランデブー」と呼んだもの、*3-2で「光の体制」と呼んだものが特権的視点の優位との癒着を招いてしまった事実は、否みがたいものだと思います。


*5-2 The Cream, The Chosen & The Condense (AS!:ep43の凝集性に関する註)
 ちなみにAS!:ep43は、今まで力(AKA爆弾)のようなものに一方的に「選ばれ」てしまっていた虹野が、チョコをもらいたいアイドルランキングNo.1に「選ばれ」て “みんなが私を選んでくれたんだもん、サイコーだよ!” と喜ぶシーンから始まります。そこには「実家が洋菓子屋だから」という彼女のバックグラウンドに基づく理由付けがあるわけですが、ここで初めて「学校で獲得してきたこと(discipline)」と「学校に入る以前の自分のルーツ(洋菓子屋)」との両方が彼女に味方する。そうして「選ばれ」たステージで『スタージェット!』(『アイカツ(スターズ)!』の全曲を含めても最も締め上げられた振り付けの曲)を歌い踊り、その結果として特別なグリッター(S4選のための切り札を作る材料)を獲得する……この、今までの生活の中で摘み上げてきたものたちがひとつの練り上げられたもの(=チョコレート)として結果する流れは、「食べ物」や「料理」を「人間の製造」と結びつけたタイプの作劇のなかでも最高峰のものだと私は思います。その最大の理由は、他のクラスメイトたちが(洋菓子屋の娘である虹野とは違ってお菓子づくりに慣れていないために)チョコづくりを失敗する、という描写を挟むことで「練り上げられたもの(人間、お菓子)の製造の過程では、失敗することがありうる」ことをさらっと言い当ててしまっているからです。他ならぬ虹野自身が、アイドルとして生存に失敗するかもしれない張本人だった。その虹野が学校で十分に培われた discipline と、自分の生まれ育ったルーツ(洋菓子屋)との両方に助けられて、いまこのように練り上げられたもの(=人間・アイドル)として存在している(お菓子づくりで用いられる cream は定冠詞がつくと「最上の部分、精華、神髄」などの意味を持つ。そして『スタージェット!』のステージデザインはクリームたっぷりのチョコレートクッキーである)という……。まさかここまで多くのことをバレンタインデーのお祭り的エピソードの中でまとめあげてしまうとは。
 全エピソードに凝集性がある『スターズ!』のなかでも、AS!:ep43は特濃すぎて食当たりを起こしかねないほどです(実際、私はこの回をみたあと1時間ほど呻きっぱなしで身動きができませんでした。というかAS!:ep40以降の回はすべてそうなのですが)。それ以外にもいくつもの恐ろしい描写が含まれている回なので、それに関しては別項【→RESPECT7】
を参照のこと。

*5-3
 これらの描写を受けてやれ「内向的」だとか「外部が描けていない」だとか言い出す類の人々は、おそらく生まれた瞬間から自分の名前が書けたつもりでいるのでしょう。生まれた瞬間から話せたし歩けたし自転車にも乗れたくらいに外部からの訓育を受けずに独力で立派に育った方々なのでしょう(*3-2で「(自分は)フィクションの中で全能な主体だと、つまり想像的に神であると思っている人々」と書いたのはつまりそういう意味です)。そういう類の「自分がいかにして培われてあるか」━━もっと言えば「自分がどのように製造されたか」を━━直視できない態度がどのような惨禍を呼びうるかについて、ぜひ考えてみてください。ただ、『アイカツスターズ!』は前シリーズの「目に視える神の死を必要とし、人-神から受け継がれた統治を人間が行う」という王権神授的な「物語」とはまったく別の水準の「人間の製造」に向き合っている作品である、と書いておけばここでは十分でしょう。

*5-4
とか書いていたら、エルザ(半角スペース)フォルテの歌唱担当に「りさ(相沢梨紗・前シリーズでマスカレードのヒメAKA光石織姫を担当していた人)」が抜擢されたのでぶったまげました。




◎RESPECT6 何度でも生まれ変わる楽曲たち(The song NEVER remains the same)

 驚くべきことに、『アイカツスターズ!』DCD第5弾(アニメ本編でS4選に相当する時期)には新規追加の曲が無いのです。『アイカツ!』ではスターライトクイーンカップに向けてここぞというタイミングで『Moonlight destiny』が投入されていましたが、『スターズ!』ではS4選をアゲていくための新曲が無かった。じゃあ、S4選は大した盛り上がりもなく予定調和的なマッチに終わったのか? もちろんそんなわけありません。AS!:ep40以降の流れは、四ツ星のアイドルたちがパフォーマンスしてきた既存の楽曲たちが次々と新しい意味を獲得していく、目眩がするほど徹底された演出がなされています。見ていきましょう。


・Carry on my wayward sis(『TSU-BO-MI』)

 いちおう前置きを。AS!:ep34は『TSU-BO-MI』の初出回であり香澄真昼の「成長」が描かれる回ですが、この回はひじょうに白人酋長的・あるいはホワイトウォッシング的な内容になっています。ホワイトウォッシング(原作で有色人種と設定されているキャラクターを白人が演じること)に関する話題は近年公開の映画でも喧しいのでこちら * * などをご参照ください。

 AS!:ep34の内容は、色々おしゃれしてみたら詰め込みすぎてわけわかんなくなっちゃった女の子3人組が香澄真昼に助言を乞い、それを受けて「おしゃれガールレッスン」を施すものなのですが、これがどうもなんですね。というのは、黒いメイク(俗にいうガングロ)をした3人に対して真昼はかなり強[あなが]ちなお手入れをするので、「黒いメイクはだめなの? 色白じゃなきゃ美しくないの?」という疑問が浮かびやすくなっているのです。加えて、真昼は女の子たちの俗っぽい話し方を一面的に矯正してもいるので、「正しい日本語」みたいなブルシットを強要しているようにも見えがちです(実際はそうでないとしても)。かといって、作品の一点のみをあげつらうことほど愚かなことはありません。われわれは点と点とによって結ばれる線が伸びてゆくほうを見てゆきましょう。

 この回では、ガングロ(ダークスキン)と美白(ライトスキン)という日本人に特有のルック志向が両方扱われているので、もしかしたら美容の歴史に関して深い知見をお持ちの方なら何らかの興味深さを引き出せるかもしれませんが、私にはそれについて書く資格はありません。ここでは、AS!:ep34時点での香澄真昼にまつわるひとつの「危うさ」を認識していただければ十分です。
 というのは、この回の真昼による「おしゃれガールレッスン」は学校の講義ではなくファッション雑誌の編集長から持ちかけられたものであり、女の子3人組に対する真昼のお手入れの内容に関して(美組指導教員の)玉五郎先生は一切関わっていないということです。ということは、AS!:ep34での真昼の行動に関して玉五郎先生から「それは違う」と駄目出しが入る余地は残されていた。結果として真昼は女の子3人組から感謝されますが、この「成功」は二層に分かれていたことになります。 A:香澄真昼は学校で学んだ美意識を活かして女の子に手入れを施した B:しかしそれは教員不在で行われたことであり、その手入れが正しかったのかどうかはわからない(真昼は安易なホワイトウォッシングを行っていたのかもしれない) という、この「成功」から「学生として優秀ではあるが強ちな面を持っている」香澄真昼の危うさが逆に浮き彫りになってしまうのがAS!:ep34です(現に、あれほど書物・読書について繊細な描写がなされていた『スターズ!』*の中で、この回だけ唯一「ウォーキングの道具として本を使う」描写が出てきます。美組のレッスンではウォーキングで頭に乗せるものはペットボトルで統一されていたというのに。もし玉五郎先生がその場にいたとしたら厳重注意が入っていたのかもしれない。A!:ep5と違って本を床の上に落とす絵までは描写されていないので、ギリギリセーフだとは言えるのですが)。これはもちろん「(学校における)人間の製造には失敗することがありうる」ことを真正面から描いている*『アイカツスターズ!』の本質とも釣り合っていることです。
 さて、この「危うさ」を放置したままS4選に進ませるような柿原優子ではありません。危うさが噴出したAS!:ep34(『TSU-BO-MI』初出回)のあと、AS!:ep41で真昼は夜空の『TSU-BO-MI』パフォーマンスによって、姉との格の違いを思い知る(届かない姉の高みへと “手を伸ば” す絵は、セリフやあからさまな歌詞引用に頼らない楽曲の活かし方として優れています)。優等生ながらも危うさを抱えていた香澄真昼は、ここでとても静かな「勝てなさ」を噛みしめるわけです(“遠いなあ、お姉ちゃん”)
 そこで、強ちな「美」意識に囲われていた香澄真昼は、ひとりで工夫できる「美」とは別のものを花咲かせるため、異種なるものとの交雑をおこなうに至ります。


・Swapper’s Delight(『みつばちのキス』)

 AS!:ep44は香澄真昼と桜庭ローラ、四ツ星1年生のなかでも屈指の実力者のふたり(学年全体を対象とするAS!:ep18のオーディションでは1位と2位)がユニットを組む回。この組の違うふたりが(劇場版では果たされなかった)ユニット活動へと踏み切るわけですから、きっと視聴者は「ああ、ということはこのふたりで『TSU-BO-MI』をやるのか。ゲーム版のCGでは片方が片方の手をとるシーンもあるし、これを真昼とローラでやるのか。たまらないなあ……」という思いでいっぱいでしょう(私もそうでした)。しかしAS!:ep44はその期待を鮮やかに裏切ります。2人が選んだ楽曲は『みつばちのキス』、ローラとゆめの共演曲として印象深いあの曲をやるというのです。
 しかしこの意外性だけではまだ驚くに足りません。AS!:ep44の恐ろしさは、『みつばちのキス(初出はAS!:ep12)』を『TSU-BO-MI』と交雑させ、思いもしなかった新しい意味を(文字通り)開花させたことにあります。一連の台詞を引用しましょう。

 あこ「クロッカスですわ。ちらりと見えたので、もしかしてと思って」
ローラ「こんなところに自然に咲いてるんだ」
 真昼「かわいいつぼみ」
 あこ「花言葉は“青春の歓び”。わたくし、大好きなんですの」
 ゆめ「いい花言葉だねっ」
 あこ「春はもうすぐですわ。このつぼみが開けばね」
 ゆめ「春……そうだ、『みつばちのキス』は? ふたりが歌う曲! すっごくかわいくて、うきうきする曲だよ」
 あこ「そういえば、みつばちは冬を乗り越えてちょうど今頃から活動し始めるって、聞いたことがありますわ」



 冬の花のつぼみから春の訪れを告げるみつばちへ、と自然にカーブを描く話の運びが実に良いのですが、これでもまだ驚くには足りません。押さえておかなければならないのは、クロッカスのつぼみ(『TSU-BO-MI』=美組の香澄真昼)とみつばち(『みつばちのキス』=歌組の桜庭ローラ)という異種なる両者が交わる点が「植物と昆虫」のモチーフを介してここに設定されるということです。虫媒花ちゅうやつです。虫を誘って花粉をつけることで別の花の蕊に花粉を運んでもらうあれ。理科の授業で習いましたよね。
(クロッカスが実際に虫媒花なのかどうかは知りません。花言葉の選定や冬の時期に蕾を結んでいる花ということである程度限定もされたでしょうし、そのこと自体はどうでもいいのです)

 虫媒は、もちろん昆虫と植物とが直接生殖するわけではありません。しかし異種なるふたつのものが結託することで互いに互いの利益を図り、最終的には新しい命を繁殖させる。つまりお互いに本命のパートナー(真昼:ローラ=夜空:ゆめ)を持っている異種どうし(真昼:ローラ=植物:昆虫)が、一度互いのパートナーを離れることによって新しいものを生む、この異種交雑のなんとエロいことか! 元のパートナーとは別のものと交わるわけなので当然スワッピング的な意味を帯びてくるわけですが、それをたんに百合っぽく描いたり露骨に色恋にしたりといった安易な手法を『スターズ!』は取ってはくれません。逆に、前述のさりげない台詞とモチーフの忍ばせ方によって「異種なるものどうしが交わり新しいものを生む」メカニズムのエロさ(これぞ正しい意味で「性的」だと言うことができます)を描ききっている。それも初期(春)に発表された楽曲をクライマックス前(冬)に持ってくることによって……まさか『みつばちのキス』が楽曲として上がってきた段階でここまで計画されていたのでしょうか? そうとは思えません。シリーズ構成の強さと脚本家の創意による賜物でしょう。しかし、ふたつの異なる楽曲を並べることで劇中のキャラクターどうしの関係性をここまで豊かに補強してしまえる手際、こんなものを見せられては呆然とするしかありません。

 そして何より感動的なのは、AS!:ep34時点では一面的な「華美」にとらわれがちだった香澄真昼が、みつばちとの交雑によって単独ではない別の美を開かせるにいたるまでの流れです。色々な種があっていっぱい混ざったほうが面白いじゃん? という異種交雑の歓びを学んだクレオール香澄真昼(姉である夜空の『未来トランジット』が流謫の「異邦人」の姿を歌っていたこと*を思い出しましょう)なら、女の子3人組に対して別のアドバイスができたのかもしれません。もちろん香澄真昼は(早乙女あこが自分修正主義に与しなかったのと同じに)自分が過去に女の子3人組に施したことを修正したりはしませんが、『スターズ!』2年目からはあの危うさとは違った多様な「美」を見出す存在になってくれるのかもしれません。

 他にも挙げていくときりがありません。劇場版でゆめ・ローラの絆として響いた『POPCORN DREAMING♪』がAS!:ep21では2人を残酷に引き裂く舞台として使われたり、 “未来の途中” を歌った『未来トランジット』が小春の一時離脱(AS!:ep30)や香澄姉妹の闘魂伝承(AS!:ep47)の舞台として使われたり、すべての楽曲に多層的な意味づけがなされています。あがってきた楽曲たちを一切無駄遣いしないどころか劇中のエモを合流させることで聴くたびに違った感動を呼び起こすことができる、この見事さはアイドルアニメと言わず「映像と音楽」を交えた媒体の作品のなかでも出色と言えます。……が、




◎(DIS)RESPECT7 More than meets the Ai(絵コンテ・演出の多層性)

 以上をもって「いやあ、『スターズ!』一年目は非の打ち所がひとつもない、ものすごい作品だったなあ!」と締めることができたらよかったのですが、残念ながら『スターズ!』には消し去り難い瑕疵がひとつあります。木村隆一による絵コンテ・演出(OP映像も本編も)が、目を疑うほどのひどさなのです。本稿では最後にディスリスペクトとして木村隆一による絵コンテ・演出のまずさを書き連ねようと思ったのですが、数行書いただけで胸を悪くしてしまったのでやめます。逆に、木村隆一以外による絵コンテ・演出がどれほどの緻密さ・豊かさを孕んでいたか、についてのリスペクトを捧げることで代わりとします。


・Heart of the sunset(燃える夕焼け:AS!:ep29, 35)

 この2話の演出を担当したのは、シャフト出身(現在フリー)の演出家:米田光宏。この名前を銘記してください。名は体を表すとか安易なことを言いたくはありませんが、氏の担当回は「光(光量、光景、後景)」がエピソードにもたらす効果への間違いない理解に貫かれています。ヒカル・ひめ・ゆめ3者をめぐる演出の見事さは【→RESPECT5】の項で確認しましたが、ここでは桜庭ローラと虹野ゆめをめぐる演出についてみてゆきましょう。

 AS!:ep29は、無意識のうちに力(AKA爆弾)に依存するゆめ、その暴虐的な力を前に大敗を喫するローラ、の勝負が描かれる回です。もちろんこの時点での2人はどちらも「力(AKA爆弾)」については知らない。どれだけ努力してもなぜか勝つことができないローラは心が折れかけますが、響アンナ先生に “もう勝てないなんて思うのはナンセンスだ” との訓話を受ける。「(ゆめに勝つかどうかではない)別の勝負のしかた」があることに初めてローラが向き合うシーン。背景に広がる花畑(ガーベラとかでしょうか。花の種類自体はどうでもいいことです。ただ「青空の下で・太陽に向かって咲いている」ことを確認しておきましょう)がローラの心情を鮮やかに表現していて、忘れがたい絵です。

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 さてAS!:ep35(この回で米田光宏は絵コンテ・演出の両方を担当)。ゆめとローラとの対話シーン。ゆめはひめから初めて力(AKA爆弾)のことを知らされ、驚異的なパフォーマンスができたのはその力の効果にすぎなかったことを知ります。ゆめはローラに向かって “これまでの勝負はなかったことにして、はじめからやり直したい” と涙ながらに*6-1 申し出ます。AS!:ep33で自分の闘い方を見出したローラは “ゆめがどうやって勝ったとか、気にしてない” と闊達に返し、ここで初めて2人は対等の博徒としてやり直すことができたのでした。

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 夕焼けの町並みをバックに、ライバルとして対峙するふたりのカット。画面の立ち位置はローラが上手[かみて]、ゆめが下手[しもて]です(一応。演者視点ではなく客席=視聴者の視点からの上下[かみしも]を言っています)。ゆめは涙をぬぐい、ローラのほうへ向き直る……その直後にカットが変わるのですが、ここでカメラの位置が(ふたりの立ち位置を中心として)180°回り込む。夕焼けの海をバックに、ローラが下手[しもて]、ゆめが上手[かみて]の立ち位置に切り替わるのです。

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 もうお気付きだと思いますが、AS!:ep29でローラが「別の勝負のしかた」に向き合った花畑のシーンと全く同じカット割りになっている(ご丁寧に後ろの柵の配置まで同じです)。そこにすかさずローラのセリフ “待ってるよ、ゆめ。弱気なライバルなんてつまらない” 。ふたりの新たなライバル関係を示すために、AS!:ep29のカット割りを引用することで「ふたりが見てきた景色の違い」を絵ひとつで説得してしまう(カメラ位置が180°動いていることにより、背景が 町並み→夕焼けの海 と鮮やかに切り替わっていることにも注目。青空の下で咲く花[AS!:ep29]・夕焼けの海[AS!:ep35]と共通の太陽モチーフを使うことで、ゆめ・ローラふたりの時間と経験の変遷を語らせることに成功している)、この手際たるや。

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 カットの切り替えひとつでここまで(時間を、経験を、キャラクターどうしの関係性を)雄弁に語ることができる。映像の力はここにあります。米田光宏はその力を知り尽くしている人だということがわかる。セリフとは全く別の文脈によって、ここまで作劇というものが豊かになる。ゆめとローラの立ち位置が切り替わるあの瞬間、直接心臓を鷲掴みされたような叫び声を上げてしまった方も多いと思います(私もそうでした)。その映像のマジックは綿密な意味の編み上げによってこそ実現可能だったと言えるでしょう。

*6-1
 それにしても虹野はよく泣きます。AS!:ep1の保健室のシーンから既にそうでしたが(あの場面も夕焼けでした)、『アイカツスターズ!』は前シリーズでは基本的に控えられていた「泣き」の絵が重要な場面で用いられます。 “嬉し涙以外はなるべく流さないようにオーダーを出しました” “軽い気持ちで視聴者には観ていただきたい”*6-1-1 と木村隆一が言っていたように、前シリーズでは「消火装置」も内蔵されていたので「泣き」の絵は少なくなって当然でした。しかし『スターズ!』では生存のための賭けが繰り広げられているので、「泣き」の絵が増えてくるのも当然のことです(『ダラス・バイヤーズクラブ』のマコノヒーの「死ぬことも生きることもできないっ」とぐしゃぐしゃの泣き顔を見せるあのシーンを思い出してもいいでしょう。既に別註で書いたようにEazy-Eでも)。
*6-1-1アニメージュ2月号増刊 劇場版アイカツ!特別増刊号 69P



・Touching from a distance, further all the time(七倉虹野トランスミッション:AS!:ep8, 30, 43)

 2話間にまたがる流れを線としてつなぐ演出なら王道です。しかし『スターズ!』は3つのエピソードの描写を配線して爆発的なエモを生む、そんな離れ業さえやっている。AS!:ep43(絵コンテ:こだま兼嗣、演出:藤井康晶)。別註で部分的に書きましたが* この回はまるでチョコレートケーキのように多層的にエモがデコられています。入刀して、その層の折重なりをひとつひとつ見ていきましょう。
 まず、AS!:ep30を確認しましょう。七倉小春が親の都合で四ツ星学園を離れる重要な回ですが、正直なところ、木村隆一によるこの回の絵コンテは褒められるところがほぼありません。とくに街道での見送りのシーン、(日中は体調不良がちなはずの)白銀リリィが夕陽に身を晒して両手を掲げて大口を開けている、あの目を覆いたくなるほどに間抜けな絵面に関しては、一体どうしてこんな絵を入れようと思ったのか尋問したいところです。しかし、AS!:ep43はAS!:ep30の絵コンテを再活用するどころか、それによって虹野ゆめ・七倉小春ふたりの関係性を、時と場所を越えて交信させることにまで成功しています。

 別註* を参照してほしいのですが、AS!:ep43はゆめの「学校で獲得してきたこと(discipline)」と「学校に入る以前の自分のルーツ(洋菓子屋)」との両方を味方につける回です。歌番組の収録に向かうため、車に乗り込む虹野。キャラクターの頭部が画面上手[かみて]にあり、見送りの人々の影が後窓から見える……『スターズ!』を通して見てきた視聴者は「げっ」とこの時点で気付きますね。そう、AS!:ep30で七倉小春が両親の車に乗せられて学園を去るシーンと全く同じカットです。

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 七倉小春のお別れステージで力(AKA爆弾)に頼ってしまったために、親友を見送ることさえできなかったこと。虹野にとっては最も大きな傷として残っている経験ですが、よりによってそのシーンのカット割りが引用されることで、力(AKA爆弾)に頼らずに生きている現在の虹野の姿が強調される。AS!:ep30当該カットの七倉小春は車が出るにつれて泣き出してしまいましたが、AS!:ep43当該カットの虹野ゆめはステージに向けて眦を決する。この引用は「泣く:泣かない」の対のエモ表現としても成り立っています。

 しかしそれだけではありません。歌番組の収録中、ゆめは階段でつまずいてしまう。その瞬間、「転んだと見せかけて、その勢いでポーズをキメる」機転をきかせるのです。そうです、AS!:ep8で七倉小春がウォーキングレッスン中に編み出したあの技とまったく同じです。いま時と場所を隔てて在る2人が、過去の経験によって突如として交信する瞬間。ゆめの中にある小春の存在を、こんなコミカルな描写で見せてしまうとは。もちろん前述の通り、視聴者はあの車内のカットにより小春・ゆめの苦い経験を思い出しているわけです。その前フリからこの描写を叩き込まれた瞬間のエモさは尋常なものではありません。

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 もちろん、これらのシーンに「小春ちゃんとの思い出がわたしの中に生きているんだ!」みたいなわざとらしいセリフはひとつも出てきません(どころか「小春」の名前すら出てきません。回想もありません。虹野七倉が直接に言葉を交わすシーンはAS!:ep49まで持ち越されなければならない構成なので、AS!:ep43ではこうやって言外のうちに2人を通いあわせる演出が要請されたわけです)。シーンとシーンとの連なり、エピソードとエピソードとの呼応を使ってここまでのことが描けてしまう。もちろんシリーズ構成:柿原優子が普請した骨組みの強さもあるのですが、ここまで「セリフ以外」の意味性の豊かさを信じて「見かけ以上のもの」を編み出している見事さはどれほど強調しても足りません。


・Pictures came out and broke my heart


 さて、この回のステージで披露される楽曲『スタージェット!』の物凄さについても書こうと思ったのですが、それはおそらく単独の記事が必要とされる内容なので省略します。作曲も編曲も歌詞もダンスもその本編での用いられ方も、何もかもが恐ろしい曲です。しかし……惜しまれるのは、木村隆一によってこの楽曲に付けられたOP映像がほんとにひどいということなのですが……いやそれを言えば、前OP『1, 2, Sing for You!』の映像は『スタージェット!』の比ではない完膚無きひどさなのですが……ああ、一周回って帰ってきましたね。この項では木村隆一以外の仕事による『スターズ!』の絵コンテ・演出がいかに豊かなものかを見てきましたが、これをもって木村隆一による腑抜けた絵コンテ・演出へのディスとします。
<以下、攻撃的なニュアンスが読み取られるのは本意ではないので、すべて戸田奈津子口調に翻訳して書きます>
このマザー・ファッカー! あんな絵コンテで良いと思ってるので? 楽曲をつくる側からすりゃ、ありゃ冒涜以外の何物でもないかもだ。南田健吾って名を? 『1, 2, Sing for You!』『スタージェット!』両方の編曲をやってる、名うての編曲家だ。『アイカツ!』で微妙だった「ロック」なるものをいちから立て直してる貢献者なんだぜ*。本編で『Hey! little girl』すらマトモに使えてなかったおまえが、よりによってあの2曲に泥を塗ったので? ありえない! 地獄で会おうぜベイビー!
<なっちOFF>木村隆一ね、ちょっといくらなんでも音楽と映像の力が可能にすることをナメすぎですよ。音楽と同期した映像であるかぎり、楽曲が活きるかどうかは映像をつける側の手腕に委ねられるしかないのだから、今後また優れた楽曲に腑抜けたコンテ付けるようなことがあったらあきませんよ!!!!!お願いしますよ!!!!!!!CHEER UP!!!!!!!!KIMURA!!!!!!!!!!!!!


・As (s)he flies on the wings of a dream(『星のツバサシリーズ』:キハーノ、ギリアム、白銀リリィ)

 『アイカツスターズ!』2年目は『星のツバサシリーズ』と副題されています。プレミアムレアドレスを超えるパーフェクトなドレス、ツバサを戴いたドレスが加わるというのです。
 以前、前シリーズにおいて翼モチーフのアクセサリーが消滅していった過程*についてすこし書きましたが、『スターズ!』はこれと逆の(地上で生きていた人間が翼を授かる)軌道に進むようです。既に白銀リリィのドレスが発表されているのですが、ちょっともうやばい。見てください、翼です。 “折れた翼見つめても元にはもう戻らない” と歌っていた人の背中に翼が。しかしどう見ても鳥類のそれというよりは、『未来世紀ブラジル』の主人公が空想の世界で思い描いていたような、作り物っぽいデザインになっている……白銀リリィが自身のブランドを生み出した過程がアロンソ・キハーノの発狂と全く同じプロセスになっていることは以前書きました*。そして『未来世紀ブラジル』のテリー・ギリアムが執拗に『ドン・キホーテ』の映画化に取り組んでは大失敗し続けている人であることもご存知だと思います。ということは、リリィの「ロゼッタソーンコーデ」は正真正銘の、「空想の力を武器にして戦う」キハーノ=ギリアム的な騎士の甲冑ということになる。しかもその背にあるのは作り物の翼であるという……
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 完全にイカロスじゃないですか。『アイカツ!』の場合は(本稿で散々書いたように)最初から one visible god と人-神が設定されていたわけですから翼で翔ぶことにも違和感はありませんでしたが、『アイカツスターズ!』での「星のツバサ」なるものはイカロス的な「不可能と知りつつそれ(太陽へ向かって翔ぶこと)を行う」者の証となるのだと思います。本来重力に逆らって飛ぶことはできない人間が、その空想と知恵と傲慢のゆえに墜落する話、になるのかもしれません。「パーフェクトアイドル」として設定されているエルザ(半角スペース)フォルテでさえ墜落するのかもしれない。イカロスたちのサーガたる『星のツバサシリーズ』(公式のキャッチコピーは “太陽まで届け☆私のアイカツ!” です。やりにくる気満々です)、ぜひともリアルタイムで追い続けていきたいところです。

Take off and fly away and go ahead.
ー未来トランジット / AIKATSU☆STARS!



Touch the sun. On your way, like a eagle, Fly.
ーFlight of Icarus / Iron Maiden







 本当なら各エピソードごとに項を立てて50話全体のアンサンブルを見ていきたいところなのですが、そろそろインクが少なくなってきたのでやめます。思いついたところをズアッと書かせていただきましたが、『アイカツスターズ!』のえげつなさ途方もなさを書くにはこの程度の文章では足りません。先の見えない賭けを描いている『アイカツスターズ!』に関して、この程度の文量で後出しジャンケン的なものを書くこと自体が無理のある話でした。短文失礼致しました。
 よろしければ姉妹稿ともお戯れください。

「そんなんじゃねーし」の宮殿(『アイカツスターズ!』の恋バナの恋バナ)

>>姉妹稿



 こんにちは。恋バナは好きですか? 恋バナは素晴らしいものです。他者と他者との関係性を讃えるために言葉を使うことで、われわれは惨めな自分語りや告白や愚痴から軽々と身を隔てることができます。
本稿は『アイカツスターズ!』という無双の作品における、人間どうしの妙なる関係性を讃えるための歌です(「分析」や「考察」などでは断じてありません)。姉妹稿では可能な限り情緒を抑えましたが、本稿ではエモを惜しまずに書かれているので、その点ご留意ください。


◎「そんなんじゃねーし」の宮殿(かなた→あこ→すばる→ゆめ)

 姉妹稿では「ランデブー」という語を使いましたが、これは想いあう二者の視点が通い合っている状態(カップリング表記で言えば「×」)を指します。『アイカツスターズ!』は人物同士の関係性の綾がすごいことになっているので「×」の関係性をいくらでも見いだすこともできますが、それとは別の「フロウ(→)」、誰かを眼差している誰かへの眼差しの連鎖による関係性をも見出すことが可能です。ここではとくに「かなた→あこ→すばる→ゆめ」のフロウを追ってみましょう。

かなた→あこ
 AS!:ep32はもう絵のうえでの関係性の見せ方がえらいことになっているのですが、このエピソードの最後の会話に注目しましょう。“すばるが好きなくせに、なに隠れてんだ?” かなたくんのセリフにカチンときたあこちゃんが「シャーッ」と飛びかかるのですが、この「シャーッ」から “あなた、なにしにきたんですの?” のセリフの間がおよそ1秒。飛びかかった後即座に着地して対話を続けているのです。早乙女あこというキャラの特性上、主に威嚇や攻撃として使われるこの「シャーッ」が、ここでは挨拶程度の意味合いになっている。あらっ、なにかしら。まるで「突っかかってきたから突っつきかえす」ような軽口の叩き合いが、かなた→あこの間では暗黙のものとしてあるかのようです。

あこ→すばる(→ゆめ)
“フェスに出たのってやっぱ、すばるに近づきたいから?”
“それだけじゃありませんわ”
 の対話の後にあこが眼差すのは、談笑している結城すばると虹野ゆめの方向。あこちゃんはすばるくん大好きっ子なのでこれはわかるのですが、
“おれの分析によると、あの子を元気づけるためにユニットを組んだ。当たり?”
 の新たなくすぐりが入ったとたん、あこは “そんなこと、あるわけないでしょう!?” の反応とともに二度目の「シャーッ」に出る。しかしこの二度目は一度目と違って着地すらままならず転倒してしまう。つまりガチで動揺しているのです。「すばるのことが好きであることをくすぐられた時」は平常心なのに、「自分の行動が虹野のためであることを言い当てられた時」に初めて動揺した早乙女あこ。あらーっ。なんなんでしょう。ちょっと、なにかありますねえ。

すばる→ゆめ
 このエピソードはすばるとゆめの対話で終わります。「(みんなから)もらった元気はこれから返せばいい」という大意のすばるの励ましは、最終的にAS!:ep43で見事に結果することになります。AS!:ep43での虹野ゆめの「返済」の描写がいかにやばいかを書きたいのですが長くなるので割愛します。重要なのは、この一連のフロウの終点に位置する虹野ゆめの愛され感がハンパじゃないことです。AS!:ep37のラストを思い出してみましょう。ゆめとすばるの初対面シーン(すばるが物理的にゆめの尻に敷かれる)の再現が入りますが、そこで赤面して「ゆでたこ」と笑われるのはすばるのほうである。“……なんだ、これ?” “いや、そんなはずはねえ” と懊悩する姿はもう完全に優位関係が逆転していますね。今までからかって心配して励ます側だったすばるが、自分が一方的に送っていた視線に見つめ返されたかのようである。虹野ゆめのほうはいつものように(「力」に悩まされていた頃よりずっと朗らかに)笑ってるだけなのに……という、虹野ゆめのスーパー攻め様感、もっと言えばナチュラルボーン誘い攻め強者感が遺憾なく発揮されるのがこのフロウのヤバさです。言ってしまえば(AS!:ep36までの、「力」に悩まされていた)虹野ゆめは周囲からの気遣いを集める「受け」の立場だったわけですが、それを打開した次のエピソードからもうすばるくんへの誘い攻めが始まっている(おそらく無意識に)。この人たらし。劉邦並みです。「仕方ねーなーこいつは」と集まってきた人々を片っぱしからたらしこんで、いつの間にか「この人にはおれがいなきゃ駄目!」にしてしまう資質の持ち主、ナチュラルボーン誘い攻め様こと虹野ゆめ(ゆめが劉邦ならすばるは王陵とかでしょうか。言うまでもなく項羽はローラです。ひとつだけ違うのはローラは項羽と比べて黒星が多いことですが)。というか、誘い攻め(=人たらし将器)こそ主人公に備わっているべき最良の資質と言えないでしょうか。前述した「かなた→あこ→すばる→ゆめ」の一連のフロウは、「力」から解放されて後の虹野ゆめの主人公としての開花ぶりを印象づけるものでもあります。それがAS!:ep36の次エピソードからもう始まっているという……
 
 さて、冒頭に立ち返りましょう。「かなた→あこ→すばる→ゆめ」のフロウは「そんなんじゃねーし」で成り立っていると言うことができます。あこちゃんはすばるくんのことが好きなだけなのか? “そんなんじゃありませんわ” 。すばるくんのゆめちゃんに対する感情は恋のようなものなのか? “いや、そんなはずはねえ” 。誰かが誰かに投げかける眼差しが連鎖することで、ただ単に「利他的」とは割り切れない、玉虫色のエモが表出する。「×」のランデブーのみに固定されない多様な関係性の綾が「そんなんじゃねーし」の宮殿で通い合っています。もちろんあこちゃんはすばるくんのことが好きでしょう。すばるくんも年相応の恋愛感情があってゆめちゃんに気を配ったのかもしれないでしょう。しかしそれらのエモはすべて確定されることを拒んでいるかのようです。「これは恋愛関係だ」「いや、ただ利他的な感情のあらわれなんだ」とひとつに固定しようと試みるのは簡単です。しかし『スターズ!』劇場版が友情でも恋愛でもない「別の交わり」を描いていたことからもわかるように(あの劇場版も真昼→ローラ→ゆめのフロウで成り立っていた)、固定しようとするたびに「そんなんじゃねーし」と遁れていく玉虫色のエモで編まれる関係性があったからこそ『スターズ!』は素晴らしい。その確定不能性にあずかってあれこれ想像を膨らませることで、我々はいくらでも悶絶しながら床を転げ回ることができるわけです。これは姉妹稿で書いた「特権的視点(=視聴者)の優位の排除」とも関わることです。『スターズ!』の人々の関係性の綾を単色に確定することが不可能なのは、「そんなんじゃねーし」が無限に複雑に組み合わせって巨大なエモの宮殿を打ち立てているから、と言うことができるでしょう。




◎2人のドリーマー(白銀リリィ・虹野ゆめ)

 AS!:ep26ではAS!:ep1と同様に保健室でのシーンがあります。相変わらず壁に貼られた「インフルエンザ対策」のポスターが mortal な世界であることを強調していますが、このシーンはAS!:ep35の暗がり通路シーンと双璧の名場面だと思います。みていきましょう。

 虹野ゆめと白銀リリィ。同じ歌組所属ですが、一年生と二年(幹部)生、キュート属性とクール属性ということでとくに共通点もなさそうな二人です。が、この二人を繋ぐ対話は静かに、そして唐突に始まります。晩夏になってもまだ体調が万全でない白銀、レッスン中にうっかり怪我をしてしまった虹野、のブレイカブルlikeサミュエルLジャクソンなふたりだけが保健室にいる。白銀は虹野に包帯を巻いてあげ、虹野は白銀に対して “(不調を抱えたままの活動は)つらくないんですか” と問いかける。それに対する白銀の返答を全文引用しましょう。
 

“そんな気持ちになりそうな時は、想像し、自分に言い聞かせるのです……ここは極寒の地。長い冬に閉ざされ、どこにも行けず、何もできない。いくら叫んでも、声は吹雪にかき消されてしまう。でも、今は耐え忍ぶ時。雪解けは必ずやってくる。明けない夜がないように、いつか必ず冬は終わり、春がくる。その時まで、私は歌い続ける。いかなる困難がこの身に降りかかろうとも、誰も、私の夢を奪うことはできないのだから”



 あまりにも白銀リリィらしいとしか言いようのない、雄弁な言葉です。病苦を凌ぐためにずっと自分自身に言い聞かせてきたのであろう、安易な共感を示すのが憚られるような情熱と執念が込められた言葉です。
 さて熱に浮かされたように“想像”の力を並べ立てたあと、リリィは不安げに虹野のほうを向いて言います。

“……すこし、分かりづらいでしょうか”
 この躊躇の言葉が漏れるのももっともなことです。病弱で学校を休みがちだった白銀にとって、自分の “想像” の力に共感を示してくれるのは(幼なじみである二階堂ゆず以外には)誰もいなかったのでしょうから。しかし虹野は、

“いいえ、すごくわかります”
 と闊達に微笑んで返すのです。 “すごくわかる” ? なぜでしょうか。虹野と白銀はまったく違うタイプの人間なのでは。話を合わせて安易な共感を売っているだけなのでは。違います。ここから虹野の “想像” の返歌が始まります。

“わたしもよく想像するんです。ひめ先輩みたいなS4になりたいって。CDは即日完売、街にはわたしの歌声が響き渡って、泣いてる子も怒ってる人も、みんな笑っちゃう。そして世界は平和になるのだ、なーんて。でも、けっこう本気でそうなったらいいなって思ってます”


 ここで一つの線が結ばれます。学校を休みがちな文学者と、夢見がちな爆弾持ちの少女は、どちらも “想像” の力で現実に抗っていた二人だったのだと。もちろん白銀と虹野の “想像” の水準はまったく違います。前者は精神的肉体的苦艱をしのぐために “想像” の力を使う人で、後者は自分に都合のいい “想像” を本気で信じている人です。なので白銀も全幅に共感の情を示すことはしません(“楽しい想像ですね。でも、想像するだけでは何も変わりません”)。が、まったく無関係にみえた二人が「現実に抗うために “想像” の力を使っていた」ことを打ち明けるシーンで一本の線で結ばれる。異質な存在どうしが初めて共感の入り口に立つ瞬間のときめき、これはもう尋常なものではありません(“すごくわかります” のセリフを受けた瞬間の上田麗奈さんの “えっ” の呼吸やタメの非凡さはどれほど強調しても足りません)。

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 現実に抗うために “想像” の力を使う人。それはもちろんドン・キホーテの姿そのものです。「なんで『スターズ!』について書くたびにドン・キホーテの話になるのかなこの人は」と思われてるかもしれませんが、だって実際にそうなんだからしょうがない。AS!:ep26に続くAS!:ep27では、白銀リリィの口から直接セルバンテスの名が口にされさえするのですから、AS!:ep26-27の流れで「ああ、本気でやるつもりなんだなこの作品は……」と畏怖の念を覚えた方も多いと思います。
 一冊の本との出会いをきっかけに自分自身を書き換えていった白銀、爆弾を抱えながらも想像の力を投げ捨てずに生き延びた虹野、そんな騎士たちが残していった歌たちが “現実” と “想像” の区別自体を蒸発させてゆく、このリアリティのダンス。とうぜんそこには呪いや狂気も含まれるわけですが、これはドン・キホーテたちの闘いなのだから何の不思議があるでしょう。2016年度のS4選ではどちらのドリーマーも「夢を見るんじゃなくて夢になった人(=白鳥ひめ)」の圧倒的強さの前に鎧袖一触にされましたが、かといって彼女たちが “想像” の力を使うことをやめるはずがありません。 “きれいな物だけ見るんじゃなくて全部抱きしめて” きた人々の闘いは、二年目『星のツバサ』シリーズにおいてますます加速してゆくことでしょう。




◎諸星ヒカルの心労を推し量る

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 姉妹稿では “ヒカルは実姉の真相を(白鳥ひめにさえ黙っていたように)誰にも明らかにすることなく暮らすこともできた” と書きました。よって、ヒカルには明るみに出されていない過去の経歴(姉妹稿で “盆暗闇” と呼び名した箇所)が残されているわけです。
 本項は、その盆暗闇を照らす、のではなく、「もしかしたらこうだったのではないか?」とあれこれ想像を巡らすだけの試行です。もちろんそんなことをしたところで真実にはたどり着けないので、いきおいシャドーボクシング的な、誰を相手にしているのかも不明なパンチを打ち続けるだけの記録となります。しかし私はほとんど諸星ヒカルに恋をしているので、そんな虚しい行為をすら楽しむことができるのです。

・そもそもなぜ「雪乃」だったのか
 四ツ星の初期S4であった雪乃ホタル、つまりヒカルの実姉ですが、なぜわざわざ姓を変えなくてはならなかったのでしょうか。『スターズ!』の世界には芸名で活動していると思しい子(ハルカ☆ルカ)もいるのでべつに芸名自体がおかしいわけではないのですが、いくつか説を立てて考えてみようと思います。

1:芸能人として活動するにはもっと華美な姓が好ましかったから
 これはないですね。「諸星」だってじゅうぶん華美な字面ですし、なら諸星和己さん(光GENJI・本名)はどうなんだという話にもなります。「雪乃」のほうが多少儚げなニュアンスは出るのかもしれませんが、いずれにしても文字上の華美さで変えたというのは無理がありそうです。

2:当時、ホタル・ヒカルは親権上のなんらかの事情があって姓が別だった
 両親が離婚調停中だったとか、そもそもどちらかがどちらかの親の連れ子だったとか、そういう。ありそうな話ではあります。そういう背景があったのなら、ホタルが自身の明らかな不調を押して活動していた事情もわかりますし、アイドルとしての姉を喪ったときのヒカルの絶望もわかろうというものです。現在はヒカルが姉を養っているので「諸星」姓に戻したのだろうとか、整合性も多少はありそうです。

3:アイドル活動について両親の理解が得られず、姓を変えての活動を強いられていた
 これ私の推しです。「推しです」とか言っちゃいましたが、実際一番ありえそうなことではないでしょうか。劇中でホタル・ヒカルの両親の姿は一切描かれてはいませんが、幼少期のヒカルの容姿はラオモト・チバに酷似しているので、諸星姉弟の両親もなんらかの非合法な企業のCEOとかだった可能性もあります。なので、

3ー1:幼時から既に決められていた自分の運命(政略結婚とか)に抗うために四ツ星でアイドルとして活動していた
 線も成り立つのじゃないでしょうか。これなら「諸星」姓を隠していたのも筋が通っていますし、ヒカルが現在においてもなお四ツ星学園に関わり続けている理由(姉がせめてものあいだ自由でいることができた空間への思い入れ)も説明できそうです。ただ、両親の意に沿わない学校に進んでおいて学費はどう賄っていたんだという話にはなります(四ツ星ってどう考えても私立ですよね)。

3ー2:むしろ両親が(広告塔的な存在として利用するために)積極的にアイドルにしたがっていたが、それに反抗するために本名とは関係のない姓を名乗った
 逆の線も成り立つんじゃないでしょうか。娘を大人気アイドルに育て上げて自社の広告塔にしようみたいな、いかにもバビロンっぽいやつ。ありそうですね。そこで自分は両親の家業とは何も関係のない一人のアイドルなんだ、と反抗を叩きつけるために「雪乃」を名乗っていたと。いずれにしても「諸星」のバックグラウンドに対する峻拒があると考えられるわけですね。

 と書いていて再確認しましたが、諸星ヒカルが現在(姉の死からおよそ20年後?)においても四ツ星学園に学園長というかたちで関わり続けているのは、やはり「姉がせめてものあいだ自由でいることができた空間」が四ツ星学園だから、ということになるんでしょうね。その姉に決定的なことが起こってしまった、それを起こしてしまった力の正体さえつかめない、だからもう二度と同じことを繰り返さないために目を光らせているが実際は何をどうすればいいのかさえわからない……という「賭け」については姉妹稿で散々書いたので省略します。

 ここで諸星ヒカルの心労を推し量ってみましょう。長くつぼんだ彼岸花が咲き空が代わりに涙流した日から、彼はアイドルの生が mortal であるという事実に苛まれ続けてきた。だからこそ姉の生命が尽きた地=四ツ星の学園長に就任し、同じことを二度と繰り返すまいと生存のための discipline に賭けていたのでしょう。そんな彼が(姉と同じ保菌者である)白鳥ひめに対してどれほど屈曲した想いを抱いていることか(劇場版で “虹野にはもっとやることがある” とひめに訴える、あのすがるような眼差したるや……!)。その1年後にはひめとは別の意味で病者である白銀リリィが入ってくるわけです。Dreaming bird that refused to sing である彼女はしばらくの休学を余儀なくされ、翌年には二人目の保菌者である虹野ゆめまで入ってくる。そして秋季からは白銀リリィも帰還してひめ・リリィ・ゆめ三者が同じ卓に集う(AS!:ep26,27)。 Here we all are born into a struggle to come so far but end up returning to dust な状況で、ヒカルは一体どういう精神状態でこの時期を過ごしていたのでしょうか。AS!:ep26でヒカルは出張という名目で学園を留守にしていますが、心労のあまり体調を崩していたのではないかと心配になります。なので、AS!:ep25で来場客に対してやたらと明るく振る舞っていたヒカルとか、AS!:ep28で着ぐるみを着て座っていたヒカルとかを思い出すともう泣けて泣けてしょうがないわけです。嗚呼、ただ生きていることしかできない父親よ。姉の死を誰かに容易く打ち明けることもできない弟よ。それだけに、ヒカルが同じ保菌者であるひめに姉の死の真相を打ち明け、ついに虹野の生存のための賭けに打って出るAS!:ep35への流れは圧巻です。なんとかして歌組のアイドルたちを破滅から遠ざけ、AS!:ep43で “私はこの学園の生徒たちの成長を願いこそすれ、貶めようなどと思ったことは一度もない” と打ち明けるに至るヒカル、その不器用な振る舞いの愛おしさよ。

 とりあえず1年目では数多くの苦艱を遠ざけることに成功したヒカルですが、ヴィーナスアークAKAボーグが殴り込みをかけてきたとあっては、その心労は頭髪が全て禿げ落ちるレベルかもしれませんlikeピカード。もちろん彼はクルーたちを護るために全力を尽くすでしょう、たとえ自らの命を危険に曝してでも。果たして諸星ヒカルに安息の日々は訪れるのでしょうか。姉の死からアイドルたちの mortality に沿い続けることを請け負ったこの男は、ついに自分の命が尽きるその時まで仕事を続けるつもりなのかもしれません。きっと我々が「ちょっと休みなさいよ」と言っても聞く耳を持たないのでしょう。その頑なさに栄えあれ。誤れる弟よ、君に安息の時が訪れないのならばせめて、終わりのないララバイで眠れ。




◎Family of The Black Sheep(族長エルザ様)

“エルザは、これまでのどのライバルよりも強烈な存在として、ゆめたちの前に立ちはだかります。まさに「倒すべき敵」という感じです”
アニメディア2017年4月号109P 柿原優子インタビュー



「倒すべき敵」。ついにきましたね。『アイカツ(スターズ)!』で明確に「敵」と設定されたのはこれが初ではないのでしょうか。そうでなくては。前シリーズ二年目終盤の展開をどうこう言うつもりはありませんが、ヴィーナスアークの場合は「出会って数話経ったらもう隣のクラスくらいの感覚で仲良くなっていた」パターンには行かないというのがもう明言されているわけです。



 ところで、エルザ フォルテ様のデザインがもう本当に素晴らしすぎます。立ち居振る舞いから既に高貴な人だというのはわかるのですが、長く豊かな髪が二色に分かれているのでターバンか帽子を着用しているようにも見えるのがよすぎる。こういう高貴で強みのある人物を前にして「族長」と呼び慕いたくなる気持ちを抑えるのは難しいでしょう。そういえば今年『ワンダーウーマン』が公開されますが、「族長感」は2017年キャラクターデザインの一つのトレンドとして記憶されることになるのかもしれません。
 それとは別の意味での「族長」ですが、私は『アイカツスターズ!』のユダヤ性を重んじます。神は視えないし、箱舟だし、しかも族長(エルザ)が羊(花園きらら)を率いているし……という、前シリーズがあまりにもキリストの方向に行きすぎた揺り戻しなのか『スターズ!』はユダヤ的なほうに寄っている、というのは重要です。

 ヴィーナスアークは族長エルザが世界中の羊たちを集めた船なのかもしれませんが、羊は羊でもブラックシープのほうなのでは? と考えることもできます。花園きららはニュージーランド出身のモンゴロイドのようですが、そんな彼女がエルザに惹かれてヴィーナスアークに乗る、この自らすすんで故国を捨ててる感(『未来トランジット』がそうであったような「二重の異邦人」)。そこには同じ日本人名の騎咲レイもいれば世界各国のアイドルたちもいて……というような、この移民的・混血的・バベル的な共同体(=ブラックシープ群)がヴィーナスアークだったらいいなあ。だっていろんな人種がごっちゃになったトライブとか最高に決まってるじゃないですか(もちろん平和的に暮らせてるならの話ですが)。単に実力だけ見込まれてかき集められただけの集団ならバビロンですが、世界中で行き場のない「のけもののけもの」たちが参集した船がヴィーナスアークであってほしいし、そんなブラックシープたちが集う旗印がエルザ フォルテ様であってほしい、と、今から夢が膨らむばかりです。

 四ツ星 VS ヴィーナスアーク、あるいはエンタープライズ VS ボーグ、周 VS 殷(エルザ・きらら・レイ三人のバランスが妲己・胡喜媚・王貴人なのもまたツボなところです)、あるいはポエニ戦争でも赤壁でもシビルウォーでもいいのですが、そういう敵対関係が『星のツバサ』シリーズのメインに据えられることは間違いないでしょう。もちろん戦闘手段は歌や劇やダンスや衣装です。藝術というピースフルフォースを使って斬り結ばれるサーガがいったいどういったものになるか、どれほど期待しても足りないというものでしょう。

 よろしければ姉妹稿ともお戯れください。

2016年映画ベスト10(と感想)

今年観た映画のやつです

:ベスト10:
 1位が7本あります。

1.LOGAN予告編
1.Xミッション
1.ズートピア
1.ドラえもん 新・のび太の日本誕生
1.シング・ストリート
1.劇場版アイカツスターズ!
1.君の名は。
8.デッドプール
9.X-MEN アポカリプス
10.この世界の片隅に



1.LOGAN予告編


 いきなり変化球であれなんですが、この108秒の映像は今年観たいくつもの優れた映画たちに匹敵するくらいのものがありまして。老いた主人公というより世界そのものが老いていて、それこそ晩年のジョニー・キャッシュの身体のようにいくつもの皺が刻まれた老いの映像になっていて、そんなものをまさかマーベル映画で観ることになろうとは……
「楽曲の力で良く見えてるだけだろ」って言われるかもしれんですがね、逆なんですよ! あんなに完璧なMVをもつジョニー・キャッシュ版Hurtを予告編に使う時点でもう途方もなく高いハードルなんですよ。でもこの予告編はそれをかるく飛び越えてるばかりかあのカバーの文脈(老いたジョニーがジャンルも年代も違うトレントの曲を歌い、それによってトレントのキャリアをも再生させる)と絶妙に合致することによって老ローガンとX-23との関係性のせつなさが浮かび上がる(『アポカリプス』の最後がああ繋がるのかよお……)という、これ、「既存の音楽を使用した映像」史のなかでも事件なのでは。


1.Xミッション


 何度思い出しても「やさしい映画だったなあ……」と。この映画、誰かが誰かを恫喝したり否定したり隷下に置こうとしたりっていう乱暴さがまったく無いんですよ。教官もパパスもボーディたちも迷えるユタの生路(ライン)を見つけるために計らっていて、人間の生き方はひとつではない(The only law that matters is gravity)ことを尋常を外れた人々の生き様を通して教えてくれる、こんなにやさしい映画はみたことがないなあ……

 不当に低い評価が与えられてしまっている映画ではあります。去年は『ファンタスティック・フォー(2015年)』に明らかに不当な低評価が与えられていて(映画を観てさえいない人間が前評判だけで貶していた例まであったのだ。この件に関して私は映画秘宝を絶対に許すつもりはない)、正直なところ「『ファンタスティック・フォー』がいかに優れた映画かを論理的に説明するより、この映画を不当に貶めている人々を全員殺害したほうが早いのではないか」という精神状態にまで追い詰められてしまったのですが(もちろん実行には移しませんでしたよ映画観れなくなるから)、『Xミッション』の不評に関してはそれほど重く考えてはいません。こんなにやさしく側に隣ってくれる映画なのだから、ユタのように路に迷ったとき初めて「そういうことだったのか」と気づくこともあるでしょう。いずれにしろ、尋常の生き方を外れた人々が「See you soon」とやさしく微笑んでくれるこの映画を、私は生涯忘れることができそうにないのです。


1.ズートピア


 “たとえば「差別はいけません」という言葉がダサくカッコわるく見えるのなら、それを新しい美しさで、新しい世界への愛と喜びに満ちて表現できるのかということだよ”。佐々木中さんの言葉の引用ですが、まさにディズニーはそういう新しい表現の技法を磨き抜いているんだな……と格の違いを痛感させられた映画でした。
 ズートピアにおいてまず「マイノリティ」として登場するジュディ、彼女が「差別に満ちた世界を変えていくよ!」という方向なら超イージーなはずなんですが、まず彼女がPC的処遇でとりあえず受け入れられる(ウサギ初の警察官、という門出も市長の点数稼ぎのためでしかない)のがまずエグいし、その後ニックとのバディ関係を経たあとでジュディ自身が会見で思いがけず肉食獣を差別する発言をしてしまう、そのことによって「主人公の行い=正しい」の図式を崩してさらに「マイノリティ」「マジョリティ」の概念さえも問い直しにかかる……もう、一体どんだけ容赦ないのか。
 この映画ではほぼすべてのものが批判されてゆきます。警察、ハスラー、監獄、エスタブリッシュメント、ギャング、都会、田舎、すべてのものが批判にさらされているし、「これひとつあればじゅうぶんだ」というふうには行っていない。ズートピア世界のほぼすべてに(当然ながら主人公とその行いまで)徹底的に批判を加え、言うなれば自分で自分の手を傷つけて、それでも「世界はもっと良くなるはずだ」という希望を最後にひらく(「だが、どうでもいい」という署長のセリフが最初に言われたのと全く違う意味になっている、この上手さ……!!!!)、なんなんだろう。怖いですよもう。モノを考えることのできる大人の仕事って、こういうことなんだ。

 で、これほどの作品を前にして「PCべったりで説教くさい」とか言ってなにか批判した気になっている連中のレベルの低さたるや……実におめでたいですよ、そいつはこの映画の批判の射程が自分自身にまで及んでいることに気づくことさえできないんだから。ズートピアのキャラクターたちの過ちの中に自分自身の立ち居振る舞いを見ることができないんだから。日本版キャッチコピーは「輝け☆ワタシ!」となっていますが、違うでしょ、「変わりな、アンタも」って映画ですよこれは。

「ごちゃごちゃ理屈をこねやがって、映画に政治を持ち込むな」とおっしゃる? 残念ですが、他ならぬウォルト・ディズニー氏こそが最も極端に「映画に政治を持ち込」んでいた人なのですよ。戦争協力者であり、極右の共和党員であり、ゴリッゴリの反共であり、赤狩りの名目で弱いものいじめに励んでいたウォルト・ディズニーの名を冠したスタジオから、このような作品が出てきた。あの人たちは自分の国や会社の歴史に恥辱を感じることができているわけです。差別と暴力と不寛容の季節を経て、アメリカはここまで変わって来た。たとえ来期の大統領がどんなマザーファッカーであろうとも、あの人たちが芸術の迎え火を絶やすことはないのです。


1.ドラえもん 新・のび太の日本誕生


 忘れずにおきましょう、『ズートピア』の北米公開と1日違いで(2016年3月5日)この国では『新・のび太の日本誕生』が公開されていたことを。

 パンフレットの冒頭に “歴史は、さらに未来へ続きます。これからの人類の歴史を、戦争などのない明るく楽しいものにしたいですね” という藤子・F・不二雄氏の言葉が引用されていることに、端的にこの映画のイズムがあらわれていると思いますね。なんてことない当たり前のセリフ(「日本人の先祖って中国から引っ越してきたんだ!」)でさらっと国家神道の欺瞞を撃ち、日本列島に住まう人々の混血性を肯定し、耕作や建築や料理といった生活の技藝(アート)に平和を見出す、なんたる安吾イズム(後述)に貫かれた映画なのか。そして「歴史修正主義者はかならず裁かれる」ことが宣告される場面がクライマックスにくるという……ほんと、これよく検閲されずに通ったなあ!

 ここまで風通しのいい、一切のおためごかしを許さない映画がテレビ局製作で実現されたことには、いくら驚いても足りないと思います。しかもベテラン監督ならまだしも映画初監督の八鍬新之助さん(1981年生まれとかですよ)がここまでのモノを通せたこと、これを希望と呼ばずして何でしょうか。

 さらに、原典のイマイチな部分(タイムパトロールの件)が、ちょっとした工夫で西部劇の騎兵隊展開的に盛り上がる演出になっていたりして、そこもほんと上手いんですよこの映画。セリフひとつカットひとつに膨大な意味が込められていて、その都度停止して「これがさあ! これがさあ!」と延々話したくなるほどに。映画ってこれだよなあ。こういうことだよなあ。
 正直なところ、私は水田わさびアレルギーのため最近のドラ映画はみていなかったんですが、そんなもんはこの映画の冒頭でもう吹っ飛んでしまいました。次の『南極カチコチ大冒険』もポスターデザインや予告編の抑制されたデザインから既にやばさが伝わってくるのでめちゃ期待しています。ドラ映画すごいなあ。あとはドラえもんズをリブートしてくれたら完璧なんですが。


1.シング・ストリート


 あまりにも素晴らしすぎる音楽映画にしてお兄ちゃん映画、で終わりにしてもいいんですが、『フランク』もそうでしたが決して単純な音楽万歳青春映画に堕してないのが誠実すぎる。そして『桐島、部活やめるってよ』の屋上シーンもそうでしたが、「このどうしようもない学校空間の中でせめてイマジネーションの力は抵抗の手段となりうる……のか?」というところまで真摯にティーンエイジャーの苦闘と創作の営みを突き詰めていて、だから『Drive It Like You Stole It』のシーンはどうあってもボロボロに泣かされてしまいますね……誰だってやったことあるでしょうあれ!? 自分の大好きな曲とか(あるいは自分で作った曲とか)聴きながら架空のミュージックビデオを空想するだけで世界がちょっとだけ救えるようになったとか、身に覚えがあるでしょうが、と胸ぐらを掴んでくるような力がありますよ。

 監督は「自分が学生の頃やりたかったけどできなかったことを映画の中でやった」みたいに言ってましたが、それってホドロフスキー翁が『リアリティのダンス』でやってたことに近いなとも。家族の過去を自分で描きなおすことで救うっていう。最後の脱出の船に「JIM」って名前が入ってますが、それが監督の(既に亡くなった)兄の名前だっていう、もう、どんだけできた話だよ……お兄ちゃん大好きだよ……おれもう絶対フィル・コリンズとか聴かないよ。


1.劇場版アイカツスターズ!


 愛の映画です。他に付け加えるべき言葉があるでしょうか。
 毎秒ごとにこのシーンがやばいこのカットがやばいを延々挙げていくこともできるのですが、もう単純にね、人間どうしがお互いを必要としてる関係がこんなにもまばゆいのかと、一切の衒いなく豪速球でこんな愛のかたまりを叩きつけられたので、もう……
 あの姉妹おばあちゃんの存在も重要ですね。若いころアイドルだった二人が一緒に歳を重ねてゆくこと(=ゆめとローラのこれからの人生)をあのおばあちゃんたちの存在一つで肯定してしまっている。『アイカツ!』128話の偉大さは、サニーとジョニーという大人二人がそれぞれの年月を経過して黒沢凛というアイドルの「親」になることで「人間にとって歳をとることは呪いではない」ことを見せ切ったことにあるのですが、『アイカツスターズ!』はそれと同じことを20話足らずのエピソードと劇場版だけでやってしまった……恐ろしい、柿原優子恐ろしいよ。

 しかしそれだけではない。『スターズ!』では「歳をとること」を肯定するだけでは十分でないのです。なぜなら虹野ゆめは「歌っている時に不思議な力が働いて、そのせいで声を喪ってしまうかもしれない」という別の呪いを抱えているわけですから、果たしてあのおばあちゃんたちの年齢まで生き続けられるかどうかわからない。彼女にとってはまさに今(アイドルにとっては花盛りの時期ということになるであろう年代)を生き抜かなくてはならない。しかもその生存のために賭けられているのが歌だという……『アイカツスターズ!』ってそういう作品です。白銀リリィだってそうです。身体の内側になぜかとんでもないもの(不思議な力だったり病だったり)を抱えてしまった人たちが、それでもそこでしか歌えない歌を残してゆく、ひじょうにフレディ・マーキュリー的なショーマストゴーオン精神に貫かれている。だから私はそういう作品にリアルタイムで出会ってしまったことに対して畏怖と歓び以外の感情を覚えることができないのです。
 そして一番恐ろしいのが、この素晴らしい映画でさえ『スターズ!』にとっては通過点でしかなかったということ(劇場版であれほどまでに美しく見せたゆめ・ローラの関係性を裏返しにかかる第21話の容赦なさ……)。26話以降は毎エピソードが暴力的と言っていいほどの凄まじさで、前シリーズとは違って最初から全体の構造をしっかり作った上で勝負にかかっている『スターズ!』の強度に毎週切り刻まれております。柿原優子……

 同時上映の短編については何も言うことは無いです。
 26話以降の絵コンテ・演出における、木村隆一の見下げ果てた仕事ぶりについても言うことは無いです。いや有りすぎてむしろもう無いです。端的にいなくなってほしいなあと思うだけです。


1.君の名は。


 中心を持たない、蝶番を外れた、発狂した時間を映画で見せたこと。この映画の偉大さはこれに尽きます。『去年マリエンバートで』みたいなつまんねえ映画よりも徹底的に時間を狂わせて、それに伴って性別も狂って、女でも男でもない別の何かに成ってゆくことにまつわる映画でした。つまり恋です。男女両性によらない関係性(“二”葉の死とともに家庭が壊れるところから“三”葉の「別の性」への移りゆきが始まっていたことを思い出しましょう。この映画をみてなんかリア充だからイヤだとか相変わらずのセカイ系だとかつまんないことを言ってる人達がいるんですが、果たして何の映画を観てきたんでしょうか。生まれついた性別を放棄するってとこからスタートしてる映画ですよこれ。)、もはやどちらがどちらかを言うことができなくなる次元への移りゆきを、他でもない「書くこと」「書き残されたことを読むこと」の応酬によって織り上げてゆくという、極めて論理的だけどそのロジックが狂っているという映画。それを正面切ってアニメ映画でやってしまった……「偉大」という言葉しか出てきませんよもう。すごすぎる。

 しかしこんな狂った映画をまさか新海誠のアニメで食らわされることになろうとは。役者さんたちの演技にも惜しみない拍手を(とくに勅使河原役の声優さん巧すぎじゃないですか)。あと『小さな恋のメロディ』なんかもそうですが、「男の子が自分で作った爆弾を爆発させる映画は名作」の法則が証明されたのも嬉しいですね。「田舎はほんとにクソ」というのを真正面から言ってくれたのも嬉しい。新海誠さんの地元がどれだけクソ田舎だったのかは知りませんが、こいつぁ田舎を一方的に理想化することしかできない細田守なんかにはできない芸当だよなあ。

8.デッドプール


「愛の映画」という意味で『劇場版アイカツスターズ!』と同じくらい好きなんですが(あ、そういえばウェイドも突然の病に見舞われてそれでも戦っていた人だ……白銀リリィなのかもしれない)、ウェイド・ウィルソンという男の義賊っぷりというか、アウトローやりつつ女の子たちの問題を解決していくイズムは心の底からかっこいいなあと思う。惚れざるをえない。それでも「ヒーロー」と呼ばれる事を頑なに拒否するのは特殊部隊時代に見せられた地獄のせいなのではとか、それでも正気を保って愛する人を見つけて生き続ける姿がほんとうにいじらしいとか、ああもうなんて奥深いキャラクターなんだろうウェイド・ウィルソン。大好き。

 今年観た映画のなかでも一番吹き替えがよかったです。とくに相方の荒くれ酒場のマスター(名前忘れた)の声優さんが素晴らしくて、字幕版とは全く別の箇所で爆笑が起きていた。あれはマジックだったんじゃないでしょうか。
 アクションもキメ絵がしっかり効いていて最高だし(敵の得物空中キャッチからの投擲からの浴びせ蹴り、の流れカッコよすぎ)、低予算感もしっかりギャグに流せていて良いし、「ワム!」がマジでマジでマジで最高すぎだし(とか書いてたらジョージ・マイケルが亡くなってしまった、彼の魂に祝福あれ)、こういう映画がしっかりと大ヒットを記録してくれるっていうのはほんとに嬉しいなあ。


9.X-MEN アポカリプス


「X」!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 感じてみろ!!!!「X」!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!叫んでみろ!!!!!!!!!「X」!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!すべて脱ぎ捨てろ(all is revealed)!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 あの「X」のシーンはもうねえ……去年の『クリード』のクライマックスと同じくらいの嗚咽を映画館内で漏らしてしまいましたね……

「X」に至るまでの段取りも丁寧なんですよ。OPタイトルでまずソ連やナチスなどのシンボルを「もう信じられない共同性」として提示し(言うまでもなくエリック・レーンシャーの生国であるポーランドはソ連とナチスの両方から消えない傷を刻まれた国である)、エリックの彷徨の果てに「もしかしたら信じられるかもしれない共同性」のシンボルとして「X」が立ち現れるという、しかもその瞬間に三部作におけるプロフェッサーとマグニートーとミスティークの分かたれた道が再び交差するという、もう、どんだけ燃えさせる気なのか!!!!「燃えるラストバトル」というジャンルがあるなら、今までにみたあらゆる映画の中でも最高に燃える展開の連続で泣かされっぱなしでしたね……あの親子の関係性もさあ……あの兄弟もさあ……ほんとうにさあ……でブルーレイの特典映像にあの兄弟たちのシーンがやたら充実してたんだけどなにあれ……全部入れとけよ3時間くらいになっても観るから……

 あと80年代ということもあり、キャラクターたちの「ふつうに消費生活を謳歌してる人たち」感が出ててよかったなあ。ショッピングモールで買い物したり映画観たり音楽聴いたりしてる人たちが世界滅亡を企むやつらをボコるという、その気持ちよさがあった。あとオスカー・アイザックの顔力(かおぢから)が良いですねえ。この映画で初めて気づいたけど目と鼻と歯の感じがホドロフスキー翁に似てる。『エイジ・オブ・ウルトロン』と『フューチャー&パスト』の欠点を挙げるとしたら「敵ボスの顔力が弱い」ってことだったんですが(だってウルトロンとセンチネルだし)、『アポカリプス』はその反省が活かせていたように思えたなあ。『シビルウォー』の良い顔合戦もそうだったし。

「(前二作にあった)マイノリティの闘争という要素が薄い」って意見も見ますがそんなことはない。この映画は大きく言ってキング牧師およびハーヴェイ・ミルク以降の、「過去に活動していた先達がアイコンとなり、若い世代を勇気付ける」流れがしっかり汲まれていて、その意味でミスティークはとても良い位置で活躍できていたと思います。ラストバトルの途中で「まさかここで憧れの人に出会えるなんて❤️」というストームの表情が入るのも最高。


10.この世界の片隅に


『新・日本誕生』と同じく安吾イズムに貫かれた映画。この映画の制作背景への言及などは省略します。もちろん完成と劇場公開にこぎつけたことだけでも偉大な映画です。
 ただやっぱり、惨禍においても生存のための技藝を求め続けることをここまで執拗に描いて見せた、華々しさとは無縁の非・物語の強靭さに打ちのめされました。徹底的な考証に基づいた戦時下の生活、そこで行われていた営みが今の我々とも少しも違わないことを見せに見せ、その営みの執拗な持続の線を2016年現在まで引いてくる、この射程の長さ強さ折れなさ。そして玉音放送を茶番として描いたあとに「こんな茶番のためにあの子の命や私の手は失われたのか」という怒りが爆発する、あの流れの凄まじさたるや。

 そして最も安吾を感じるのは、この映画では生活力(料理、裁縫などの広義の「藝術」)は武力(軍備や国防など)より強いものとして描かれていること。あの「戦時下の食事より進駐軍の残飯のほうがよっぽどうまかった」というコミカルなシーンは凄まじすぎると思う。「残飯の中にさえおいしい文化がある国と戦争なんかして勝てるわけがない」という生活力>武力のイズムが徹底されている上に、さらにそこから「あの人たちも私たちと同じようにおいしい食べ物を愛する文化を持っていたのに、どうして戦争なんかしていたんだろう」という素朴な問いをすら提出するという、この鋭さ。「私たちは生活を続けていかなければならなかったのに、どうして戦争なんか始めたんだ?」この問いが差し向けられてしかるべき人間は、まだ生き残っていると思いますね。生活の豊かさは武力なんかよりも強いんだ、こっちは生き続けなきゃいけないんだから戦争なんかしてるヒマはないんだ、おいしいもの食べて描きたいもの描いて、他所から移ってきた人々も受け入れて面白おかしく暮らしてやるぞ、この野郎。という安吾イズムの映画がこの年のこの国で叩きつけられた事実は、何をどうしたって無かったことにはできないのです。


 以上がベスト10ですが、以下に今年の映画みて思ったいくつかの傾向を書いときます。


1:アニメ映画に息づく安吾イズム(『新・日本誕生』『この世界の片隅に』)

 今年の頭に出版された安吾論『戦争と一人の作家』については別記事で書きましたが*、この安吾論とびっくりするくらい符合するイズムのアニメ映画が二本も発表されたのでほんとに驚きました。
「生活の豊かさは軍備より強い」「この列島に住まう人々の混血性の肯定」を指しておおざっぱに安吾イズムと呼んでいますが、言うまでもなくこの年にそういった作品を発表することは具体的な政治的抵抗たりうる、ということです。
 ……『ズートピア』の項でも書いたように「映画に政治絡めて語ってんじゃねーようさんくせえ」と思われてるかもしれませんが、まず作品からの政治性の消去が可能だとする考えはカメから甲羅を引き剥がす行為と同断であり、そういった思考はまず「作品」への端的な虐待としてあらわれるだろう、とだけ言っておきます。「単に美的な(政治性にかかわらない)ものだから良い」とする美学的な思考は、他ならぬその「作品」の政治性自体によって逆襲されるだろう、とも。


2:ちゃんとビビれ

 今年は日本制作の(とくにアニメ)映画がえらいことになっていたのですが、そういった作品を前にして「なぜこの映画がヒットしたのか」を後出しじゃんけんで「説明」しようとしたりとか、あるいは「いやこれはそんなに大したものじゃないんだセカイ系なんだ感動ポルノなんだ」と自分の背丈にあわせて作品を矮小化したりとか、まあそういうケツの穴の小さい、失礼、臀部の開口部が狭小な方々がたくさんいらっしゃいましたが……まあね、仕方ないところもあります。ただ、『君の名は。』を観て「作中の語りが置かれた時間の存在の位相がよくわからない」と言ってなにか批判した気になっている「批評家」なんかを目にしますと、「ここがわからない」とゴネるだけで名乗れる「批評家」とは大した身分でござんすねえ、と苦笑千回したくもなりますよ。

 要するに「ちゃんとビビれ」ってことです。「これは結局こういうものに過ぎないから」と矮小化したうえでなにか言った気になるのはもうやめとけ、ということです。作品に取り組んでる人々はそんな惨めな言葉の使い方はしていない。とんでもない事件としか思えない作品を目撃したなら、徹底的にビビってビビり尽くして、それでも偉大な精神を讃えるために自分の言葉を使うしかなくなる。そういう瞬間まで付き合う気がなくて「批評」とか言ってんじゃねえよ、アホか、讃歌(hosanna)が足りてねえんだお前らの言葉には、と嘲笑し尽くしたくなる事例をたっくさん見てしまったのでとても怒っています(友よ、怒りとともに笑いうることを学びたまえ、植野直花がそうしたように)。なぜこうまでトサカにくるかというと、作品を産むこととそれを受け取ること自体をナメてる奴らがあまりにも多すぎるからなんですけども。
 さっき書いた「作品と政治性は切り離せない」件とも通じますが、まずそんな狭っ苦しい見方で稀なる作品を矮小化して一言二言投じて終わりって、それ、つまんなくないの? 自分が惨めにならないの? 1,800円も払って何やってんの? と思いますね。必要なのはちゃんとビビる用意だけです。尊敬(respect)は見ること(spec)に語源を持つんですから、作品に向き合うことと尊敬の念を示すことは同じことです(不徹底への disrespect を示すことでさえも。友よ、真のディスとはリスペクトと同様に徹底した読みが要求されることをご存知だろう)。目が見えるのに見えてない人間、字が読めるのに読めてない人間があまりにも多すぎますよ。ちゃんとやりましょう。


3:ベトナム帰還兵モノ

 というジャンルがあると思うんです。『ロッキー』一作目のこと? と思われたかもしれませんが、むしろ『ローリング・サンダー』や『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』のほうです。

 特徴をまとめると、

◎過去のできごとによって消えない傷を残された人々が出てくる
◎精神的・肉体的に、壊れてしまった・壊してしまったこと、自分がしてしまった・されてしまったことをめぐる
◎捏造されがちな過去とその語り直しによって進行する
◎贖罪(不)可能性と救済が賭けられている作品


 ということになるんですが。こうして特徴を書き出してみると、『聲の形』は王道のベトナム帰還兵モノだったなあと。あの学校空間はちょっとした差異をあげつらって人間を虐待し、それによって生まれる「虐待した者」の差異によって今度は虐待される側に立たされるという、非人間的なダメージを生産し続ける場所でした。小・中学校でしてしまったことされてしまったことが直接回帰して傷だらけになるのが『聲の形』でしたが、この「小・中学校」を「ベトナム」に、「高校」を「療養所」に置き換えるとそのまま『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』になることがおわかりいただけると思います。そこには「捏造された過去」のサイコドラマと贖いが賭けられていたことも。
 ベトナム帰還兵モノの特徴として、「誰も正しい方途を知っているわけではない」というのがあるんですが(『トゥインクル〜』収容者たちの狂気に対する適切な治療法を誰も知っていなかったように)、『聲の形』の学校空間も、生徒たちはもちろん親権者や教師たちでさえ学校という非人間的空間での正しい振舞い方を知っているわけではなかった。だからこそ川井は都合よく捏造された過去に縋ったりするし、植野はその欺瞞を冷徹に切り捨てたりするわけです。過去の行いとその贖いに向き合うたびに増えてゆく傷、傷、傷、傷。『トゥインクル〜』の終盤以降の展開を思い出していただければわかるように、「贖えなさ」は傷として刻印されてゆきます。
(そういえば『Xミッション』もベトナム帰還兵モノです。というか、あの映画は『トゥインクル〜』のリメイクかと思うくらい筋書きが似ています。ユタは過去の行いのせいで親友の死という消えない傷を負っていますし、ボーディの最期が単なる別離ではなくユタの救済という意味が加えられている点も『ハート・ブルー』にはなかった要素です。『シビルウォー』ももちろんベトナム帰還兵モノで、「自分がしてしまった・されてしまった」過去をめぐる贖いの話でした。じつは『アイカツスターズ!』の本編もベトナム帰還兵モノとしてひじょうに精度が高いのです。「声を喪ってしまうかもしれない」という謎の呪いへの正しい対処法を誰も知っていない、だからこそ諸星も白鳥も虹野も生存のために賭けるしかない、そしてその賭けには過去に姉を救えなかった諸星自身の贖罪が賭けられている……ちなみに私は以前ベトナム帰還兵モノのマナーに則って如月ツバサ×芦田有莉の二次創作を書いてみたことが、云々)

 ここまで書いておわかり頂けたと思うんですが、私はベトナム帰還兵モノに出てくる人々の「正しくなさ」を尊びます。なぜならその人たちは誰も正しい方途を知っているわけではないから。それでも自分の過去を贖わなければならないのだとしたら、それは不可能性をめぐる賭け、あるいは自らを犠牲に捧げることに(『トゥインクル〜』のラストシーンがまさにそうだったように)ならざるを得ない。そういう正しくない人々の贖罪の賭け、の容態を見せられると、人間だよな、人間ってこうだよな、という思いにさせられる。「ベトナム帰還兵モノ」という歴史的事実を冠したネーミングなので逆説的ですが、これってフィクションのなかでしか試みられないことだと思うんですね。『トゥインクル〜』の収容者たちが自身の狂気に向き合うためにサイコドラマが必要とされたように、演じ演じられるものとしてのフィクション、それを見ることによるショック療法、です。

 だから『聲の形』(や『シビルウォー』)の特定のキャラクターの行動を正しくない間違ってるとムキになって指弾してる人を見るとね、ちょっと、何様のつもりなんだろうと思ってしまうんですね。ここでは「自分がしてしまった・されてしまった」ことをそれでも贖おうとする不可能性が賭けられているんだ、それはフィクションでしかできないことなんだ、それを見せられてムキになってるお前はあれか自分ならあの状況で絶対に正しい振舞いができたとでも言うつもりか、とかね、思ってしまうんですね。
「正しくなさ」「向き合えなさ」「贖えなさ」にそれでもケリをつけようとする人間たちの容態、それが『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』であり『聲の形』であり『シビルウォー』であり『アイカツスターズ!』本編だと思うのです。そういう作品たちは痛みとともに生存を続ける(あるいは自分の行いによって誰かを辛うじて救う)しかない、ということを見せてくれる。だから私は「ベトナム帰還兵モノ」ジャンルの粗描をここに残しておこうと思ったのです。近頃は何にでも正しい正しくないを押し付けてくる holier-than-thou な人間ばかりなので、こういう正しくなさの痛みを教えてくれるフィクションに向き合うことは常に何ものかでありえます。


以下、特記事項のあるやつだけ書いていきます。


11.クリーピー
 長らく「90年代末-00年代初頭の負の遺産」「こんな人間を有り難がらなければならないほど日本映画は貧しいのだろうか」という存在としてしか黒沢清を認識してこなかったんですが、これは大傑作ですよ!!!『CURE』で催眠術やメスメリズムをなんか意味あるものとして提示するというキッツいセンスをお持ちだった黒沢清が、「犯罪心理学なんかクソの役にも立たねえ」「俗っぽい欲望だけで人を殺す類の人間は存在するしそれもお前の近所にいる」ていう『悪魔のいけにえ』イズム(テキサス性=恐怖をもたらす隣人性、と言ってもいい)に貫かれた映画を作るとは、やればできるやんか!!!
「警察は正義の味方なんかじゃないし、むしろ他人の惨劇の蜜を吸うハイエナ」っていう方向に振り切れていたのも最高だし、一見キレてる香川照之よりも西島秀俊のほうが明らかに狂ってるのが浮き彫りになるシーンの数々も(「部屋で大人しくしといてください」のシーンとか本当……)素晴らしい。黒沢清はずっと『クリーピー』シリーズだけ撮っててほしいなあ。

12.溺れるナイフ
「おう、殺せって言うとるわ」みたいなセリフをちゃんと演じられる役者がいま日本にどれだけいるのかって話よ……菅田将暉さんは『ここのみにて光輝く』『何者』でもほんとに素晴らしかったんですがこの映画で完全にやられました。かっこいい……

13.ブレイク・ビーターズ
 ダンスと政治性をめぐる描き方が完璧。路上で好き放題やってたダンサーをお上の意向で飼いならそうとしても結局ダメで、お上に背いて踊り続けること自体が政治的抵抗になるっていう。そしてどんなにお上が芸術を利用しようとしたって避けようもなくそこには抵抗する人々の姿が映りこんでしまうのである、という映画でもあったので『RACE(栄光のランナー)』とも通じる映画だったなあと。
 たぶん今年のベストエンディング賞を選ぶとすればこの映画でしょう。何より好きなのは、かつてストリートで踊っていたであろう(そしてこれからも踊り続けているであろう)無名のダンサーたちにリスペクトを捧げて終わること。最近20世紀の偉大なミュージシャンたちのドキュメンタリーや伝記映画が増えてきましたが、この映画は名誉や栄達とは無縁の人々の姿をせめてフィクションの中でとらえようという謙譲の姿勢があって、そこがもう大好きです。こんなに良い映画がごく限られた公開の仕方しかされなかったっておかしいよ。ぜひソフト借りてでも観てください。

14.キャプテンアメリカ シビル・ウォー
『ウィンターソルジャー』は言うほど好きじゃないんですが(あれを政治劇として評価しようとする一部の声がうるさすぎて「けっ、アメコミ映画にロバート・レッドフォードが出てくれたことがそんなに嬉しいかよ」と思ってしまったため)、今回はルッソ兄弟のRPG脳が遺憾なく発揮されていて(「ふふふ流石だなキャプテン、ところで冥土の土産に教えてやろう」的な序盤の流れ最高)、それがMCU内のこの作品の役割とも合致していて素晴らしかった。
 なんといっても飛行場でのバトルですよね。映画の中でスマブラを見たいという欲望をここまで叶えてくれたことに拍手喝采でしょう。『LEGOムービー』もそうでしたけど、スマブラ的表現をここまでの高精度でやられてしまってることに日本のゲーム映画関連の人たちはもっと焦ったほうがいいんじゃないでしょうか。『るろうに剣心 伝説の最期編』のクライマックスとかはかなり上質なスマブラでしたけど、ああいうのをもっとやったほうがいい。
 そして陛下。陛下すき❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎もーーースーツのムッチリ感とか爪撃とか回転蹴りとかもう何もかも最高、さらにスピンオフの監督は『クリード』のライアン・クーグラー……もうどうしよう。まぢむり。
「いい加減MCUも行き詰まってきたよね」とか言ってなにか限界を指摘した気になってる人たちもいますが、『ドクター・ストレンジ』の予告編だけでマーベル映画に携わる人たちがマンガ映画のエンベロープを押し広げるためにどれほど頭を使ってるか、ということを思い知らされますね。きっと我々があらかじめ予期してるみみっちい限界なんかとは程遠いところまで行ってくれるんだと思います。良いものを作るために頭と身体を使っている人々に特大の敬意を。

15.ゴーストバスターズ
 もーーーー大好き。「大好き」以外の言葉が見当たらないんですが、大好きなシーンがあまりにも多すぎて大好きしか言いようがない。大好き。
 とくにあの、クライマックスで危機が去ったあとにクリヘムが売店で買ったパンを食ってるっていうのが最高に好き。日常と超常現象が分断されることなく自然に存在してるあのノリがあまりにも好き……幸せすぎる。
 あと今年のベストエンドロール賞はこの映画ですね。あいつも悪いやつなりに楽しくやりたかったんだよなあ、そうだよなあ、という優しさがたまらんし、さらに3D映画のギミックも最後の最後まで活かせていてそこもよかった(ずっと思ってたんですけど、3Dを前提に作っておきながらエンドロールが真っ暗な映画ってなんなんですかね?)。楽しいものを楽しく作れる人たちって素晴らしいよなあ、こういう映画を一年に一本見られるだけでもう幸せだよなあ、そんな映画でした。

16.聲の形
『ゆきゆきて神軍』meets ベトナム帰還兵モノ、という映画でした。とにかく植野直花ですよ。『ゆきゆきて神軍』奥崎氏並の、欺瞞を許さぬ捨て鉢っぷりにやられました。「石田、ダサくなったわあ」と嗤う語尾のすべてに怒りが込められている、自分の贖えなさ(共犯性)を重く受け止めているからこそ軽々に小学生時代の罪を贖おうとする石田が許せない、しかし彼女が最も石田に対してフェアに接しているし思いやってもいる、この「正しくなさ」でしか担えない人間の有り様にやられましたよ。
 正しくない人間たちがそれでも自分の立場でしか言えないことを少しずつ出し合っていく、もちろん痛みも伴うけどそれと一緒に生きていかなきゃいけないっていう、実に真っ当なことを言っている映画です。とくに川井ですね。彼女が最後まで欺瞞的存在として一貫していたのが良かった。自殺するよりは欺瞞と一緒に生きていくほうがよっぽどマシだよ、ほんとそうなんだよ。

「学校」というものを、人間をして人間に虐待を加えさせる非人間的な空間として描いたのも誠実だった(『言の葉の庭』もそうでしたが)。とくに小学生時代の石田たちはそこでの生存が賭けられていたわけです。(身体的ハンディキャップという目立ちやすい差異を持っているために)真っ先に虐待される側だった硝子は誰よりそのことに敏感だった。しかしハンディキャップの苦悩がこの映画の主要素かというとそうではなく、インコンプリートであることを受け入れること、むしろ自分はコンプリートな(周囲と差異のない、誤らない)人間だという意識こそが差異を積極的にあげつらわせて虐待を生産するんだ、というところまで言えていたのが本当にすごいと思う。学校という非人間的空間を撃つための矢玉が明確。
 だから贖えなさに向き合って自殺未遂にまで至った石田と硝子はインコンプリートとして身を寄せ合っていくしかなくなるし(「生きるのを手伝ってほしい」のセリフの明晰さよ。もしこの映画が「健常者も身体障害者と助け合っていきましょう」というPC映画だったら「手伝わせてほしい」になるはず。もはやここではハンディキャップがあるかどうかは問題でなく、自分がインコンプリートであることを受け入れられるかどうかが賭けられている)、最終的にはあの子たち全員がそれぞれ痛みを負うことによって「正しくない」存在として生き続けるしかない、ところで終わっていた。誠実だし、安易な「癒し」に逃げない映画です(真柴くんだけ傷が浅いように見えますが、彼は漫画版のエピソードが省略されているので一応)。

 この映画が不快だの感動ポルノだの吠えている人たちがいましたが、まあ、そういう人たちがこれから積極的に虐待に加担しないことを願いますよ。自分が清廉潔白だと疑わない、常に正しい判断ができるのだというコンプリートな意識こそが虐待を生産するのだと、他でもないこの映画が言っているのですから。

17.太陽
18.アイアムアヒーロー
19.何者

20.カラテ・キル
 真面目な映画を真面目に作ることの大切さを思い知らされました。21世紀にマンソンファミリーが存在するならスナッフフィルム業者だろうという切り口が新鮮だし、対銃弾の特訓シーンはいとおしくて最高だし、あのサムライとの決闘シーンは燃えるなあ……このプロダクション「マメゾウピクチャーズ」の作品はこれからもチェックしていこうと思います。

21.オデッセイ
 生き延びるには何かを作らなければならない、そしてその創造はウンコから始まるのかもしれない、ってことを描いてくれた映画なので、もう素晴らしすぎる。最後の「リドスコからきみたちへのメッセージ」みたいなくだりも最高。そしてボウイ。ディスコ。“I Will Survive”。カンディード精神。

22.ハドソン川の奇跡
23.サウルの息子

24.キングオブプリズム
 こんなサイケデリックゲイムービー(広義)が21世紀の日本で出てきてくれたことがうれしすぎますよ! 『ロッキー・ホラー・ショー』の末裔ということで「おうえん上映」にも参加したかったのですが、実は最初に通常上映で観たあとあまりにも理性をやられすぎて発狂寸前にまで追い詰められてしまい(どれくらいかというと九九ができなくなったくらい*)、こんなものを何回も観てしまったらおれは狂死してしまうという防衛本能が先に立って1回しか観ることができませんでした申し訳ない。でもこんなに出てくる男の子みんなとエッチしたいって気持ちにさせてくれる映画ってすごいですよ。

25.RACE(栄光のランナー)
「これ史実なのかよ!(喜)」と「これ史実なのかよお……(惨)」が交互に襲ってくるような映画で。あの状態でもロングのように抵抗し続けた人がいただけでも救いと言えるのかどうか、しかしリーフェンシュタールの存在が示しているように「惨禍の当事者であっても表現は抵抗の手段たり得るのか」という問いを提出してくる映画でしたね……あとコーチの存在ひとつでめっちゃブロマンス要素が供給されてたのは、陰惨さだけでない風通しを感じさせてよかった。

26.ペレ
『ストレイト・アウタ・コンプトン』もそうでしたが、アフリカ系の家庭では母親がいちばん強いんだっていうのを自然に見せられると、それだけでぐっときてしまいますね。本編はまるでカンフー映画のようでよかったです。

27.ローグ・ワン
 ドニー・イェンとジャン・ウェンが完全にドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係だったので、それだけでもうたまらんですね。ドン・キホーテ的キャラクターでは「発狂している」「戦うと強い」「弁が立つ」の三要素がまず必要とされるんだけど、今回のドニーさんは「弁が立つ」の要素もちゃんと備わっているのが良かったです(ここをおろそかにしているキャラが多い……)そしてドニー・イェンの最後の見せ場、ただ「歩く」だけのアクションがあそこまで劇的に見えてしまう手際もほんとに見事だと思いました。
 ローグ・ワンおよび同盟軍の戦法が完全にベトナムで、アメリカとしての帝国軍が彼らに一杯(どころか何杯も)食わされる展開も感慨深かった。そういう意味で「非白人映画」になれていたと思うし、そういう映画がディズニーに配給されて観ることができるのも嬉しいなあ。

28.インサイダーズ/内部者たち
29.ルーム
30.マジカル・ガール
31.ブリッジ・オブ・スパイ
32.ブルーに生まれついて

33.バットマンVSスーパーマン
「DCでようやく映画と呼べそうなものが出てきた!!!」って感じですよ! ザックやるじゃんか! 鉄マンの擁護不能なクソっぷりから比べると奇跡のような進歩ですよ。あのクリプトナイトを携えての宣戦布告シーンとか、力技でジャイアントスイングに持って行く流れとか、「いいぞ!」と前のめりにならざるを得ない場面がいくつかあった、これだけでもうすげえ。他のシーンは全部忘れたけど、バートンシュマッカーバットマン以降は完全に虚無のような作品ばかりが続いてきたのを思うとこれはシルバーライニングでしょう。
『スーサイド・スクワッド』は観てません。観るつもりもありません。俺のボヘミアン・ラプソディが汚されたら困るので。というか、あの予告編の段階で「うわ、これ絶対マズいでしょ」と思ったのですが、あの予告編が好評で本編の編集までやり直したらしいじゃないですか。正気? 「既存の音楽を使用した映像」についてずいぶん皆軽々しく考えてるんだなあと、痛感させられた事件ではありました。

34.ドープ

35.ヒッティング・ジ・エイペックス
 いちばん好きなピンク・フロイドの曲のいちばん好きな歌詞がものすごい文脈で引用されてきたので、その瞬間に滂沱の涙が出てしまいましたね……

36.ミスター・ダイナマイト
37.LOVE
38.オアシス:スーパーソニック
39.スティーブ・ジョブズ
40.クリムゾン・ピーク
41.イット・フォローズ
42.ルドルフとイッパイアッテナ

43.ボーダーライン
 終わり方とかすげえよかったんですけど、ドゥニ・ヴィルヌーヴは「カナディアンとしての安全圏から一方的にアメリカの闇を暴く」スタイルをいいかげんやめたほうがいいんじゃないでしょうか。お前の国に対してなんか言うことないの? と思っちゃうんですよね。ドランは『Mommy』でそこんとこ乗り越えたんだぜ。柿の種とブレードランナーがどうなってるかは知らないけど、ちょっと自分の勝てるジャンケンしかしてない感じが鼻に付くのでね。

44.スター・トレックBEYOND

45.ダゲレオタイプの女
 大丈夫、大丈夫。忘れるから。『クリーピー』はよかったから。日仏合作って時点で色々と無理があったんだから、大丈夫。気にしないから。『クリーピー2』作ってくれさえすればいいから。『悪魔のいけにえ2』と同じように名作になるから。
 ……しかし、タハール・ラヒムの顔が『CURE』や『カリスマ』の頃の役所広司と全く同じタイプのダメな顔にされていたので、ほんとに顔を良く撮れない監督なんだと思いましたね……どれだけホラー映画論をこねくり回したって、役者の顔を良く写せていない映画は無価値です。

46.ヒメアノ〜ル
「貧」の映画。搾取しあう人間どうしの貧さだし、こういう映画をなにか意味あるものとして提示してしまえる作り手自身の貧しさでもある。
 しかしまあ、理由のない災害のような暴力が面白いものなんだろうか。無軌道な殺人に詩情や悲哀を抱き合わせる手口はどこまでも安易で、きわめて幼稚。『悪魔のいけにえ』千回みなおして出直せ。彼らには流儀があるし、通行人への暴力の安売りなんかしない。自分のかけがえのない土地に踏み込まれたところで初めて牙を剥くし、そこには詩情だの悲哀だのなんかに接続される余地はない(和解も)。彼らは「他者」だからだ。他者性や流儀なき暴力の安売りが映画になり得ると思ったら大間違いだ。

47.ヘイトフル・エイト
 今まで少なからず持っていたタランティーノへの好意がゼロになるどころか一気にマイナスに振れてしまった。『インターステラー』のような愚かさ、とでも言うべきか。一見開かれたことをやってるフリして救いがたい自閉を抱えているうえに、不注意に観ればそれなりのジャンル映画として見えてしまいそうなところも悪質。言いたかないけど、西部劇ジャンルをなぞりつつさらに新しい要素を実験して奏功している例で言えば『新・日本誕生』のほうがよっぽど西部劇してたよ。

48.ちはやふる 上の句

49.SHARING
「醜い」としか言いようがない。「預言者」でありたいという欲望、スピやオカルトをダシに震災を扱おうという周回遅れのセンス、徹底的に非政治的なものとしか芸術や宗教のモチーフを使うことのできない無様、なにもかもがくだらない。映画にも震災にもそういうふうにしか向き合えないのならもう全部やめちまえ。

50.シン・ゴジラ

 いろんな人がこの映画についていろんなことをくっちゃべっていて、本当に恥ずかしいことに自分もいろいろ余計なことをくっちゃべってしまったのですが、この映画に対して向けられるべき言葉として有効と思われるものは上記の一行だけでした。ただこれだけのことを言うことができずにいろいろ余計なことをくっちゃべってしまったことを十字架にして背負っていこうと思います。



 という感じです。毎年言ってますがまさかこんなにいい映画ばかり観ることができるとは。来年ももっとすごくなるでしょう。
 全世界的に色々と最悪の方向に向かっているとは思いますが、知ったことじゃありません。投ずるべきもの投じて、捨てるべきもの捨てて、この地上にはまだゲラゲラ笑いながら暮らせる場所があることを証明していきましょう。良いお年を。

「無関心性」の罠を撃ち、生存の「技藝」の沃野をひらく(佐々木中著『戦争と一人の作家:坂口安吾論』)

注:引用元の文の傍点箇所はすべて引用時に太字に置き換えた。
  また、佐々木中氏が「芸術」ではなく「藝術」の文字を使用する理由が述べられるのは『切りとれ、あの祈る手を(2010年)』の時点であり、『夜戦と永遠(2008年)』ではまだ「芸術」の表記が使用されている。また、安吾も「芸術」の表記を使用しているため、本稿では佐々木中の「芸術」と佐々木中の「藝術」と坂口安吾の「芸術」のみっつが混在しているが、引用元の文章を最大限尊重するため敢えて表記を統一することはせず、そのままにした。





 佐々木中氏の理路において、『判断力批判』批判は一貫して行われている。

 藝術は無関心性ではない。藝術は利益(関心、interest)に関わらないものではない。藝術が「美的でしかないもの」として、ある檻の中でのみ生存を許されるようになったのはたかだかこの二百年であり、ごく地理的歴史的に限定された事態にすぎない。美術館や博物館に閉じこめられて美だけに奉仕する、生きること自体に関しては二次的な装飾物であり贅沢品でしかない高踏的なものとしてのみ理解される「藝術」は、当然だがすでに問題ではない。ゆえに、「藝術」を否定することにも意味はなくなるーーそれは使い古された手、もはや何の才気も努力も必要としない自堕落なやり口にすぎない。実際、批判的であるにせよ美を単なる制度に還元する考え方は、美を美に対する特定の態度に帰するカント美学の考え方と同形式であり、実は同根である。

『仝――selected lectures 2009-2014』佐々木中著 河出文庫刊 112-113P


 基本的な確認をする。いわゆる「藝術」が出現したのは、一八世紀半ばである。fine art あるいは beaux-arts 〔正確に言えば、beaux-arts というフランス語は十七世紀くらい迄は狭義の藝術概念以外の意味も含んでいた。〕すなわち「美術」 とも訳され、それと同義とされる藝術は、近代の産物である。これは、有用性や利害関係と切断され、「藝術のための藝術」という言い方で明瞭に示されるような、今のわれわれに親しい藝術概念である。それは、地理的歴史的に限定された事態にすぎず、ごく短い歴史しか持たない。ゆえに、「藝術」を否定することにも、もはや意味はない。繰り返すが、美や藝術を単なる制度性に還元して批判する見方は、美を美に対する特定の態度に還元するカント美学の考え方と同形式であるにすぎない。藝術批判は、もはや意味をなさない。

『仝――selected lectures 2009-2014』佐々木中著 河出文庫刊 250P


 この「思考停止」は、要するに現実に「関心=利害」を持たない、カント的な無関心性を導入する手続きにすぎない。美を美として見るためにはそれへの「現実的」な「利害関係」を括弧に入れなくてはならないという例の操作を、安吾はここで行っているだけだ。近代美学では当然の前提とされている例の操作を。人間はどのような場合でもこのような操作を行い、現実を括弧に入れて美をそこに見出すことができる。まさに「退屈」で「陳腐」な操作だ。

『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中著 河出書房新社刊 198P


 これだけでもほんの一部にすぎない。美=無関心性とするカント美学への峻拒は『道徳の系譜学』第三論文におけるニーチェの徹底的な『判断力批判』批判を汲んでいると見ることもできるが、氏の第一作目にあたる『夜戦と永遠』において、藝術と無関心性はすでに「政治的」問題として提出されていた。一九八八年、サルマン・ラシュディ著『悪魔の詩』の出版にことを発したイスラームの反応(シーア派の最高指導者ホメイニからラシュディに下されたファトワー、および『悪魔の詩』日本語翻訳者の五十嵐一氏の何者かによる殺害、などを含む)への言及である。

 気をつけよう、少なくとも八八年のこの時点では、これはイスラーム内部の問題である。たとえばピエール・クロソウスキーの『バフォメット』も、このようなムハンマドを嘲弄するような部分を含む。しかし彼は異教徒であって、イスラームの掟に従う者ではないのだから関係がない。彼らムスリムたちが憤激したのは、同胞であるはずのラシュディが、自らたちを嘲弄してきたヨーロッパ人と同じ語彙、同じ文句を使って自らの社会の枢要をなすフィクションを破壊しようとしたからなのだ。
 これに対して、西欧ジャーナリズムおよび知識人からの反応は、「表現の自由」という理念に準拠するものであった。「表現」は自由でなくてはならず、信仰も自由でなくてはならない。よりにもよってフィクションである小説をその内容によって政治的に、法で裁くなどというのは「法外」なことである。「だって、たかがフィクションではないか」。これが西欧の、そしてわれわれ自身の素朴な観念である。こんなこともわからないイスラームは、だから野蛮なのだ。といわんばかりの論調。それが次々に述べられていくことになる。

『定本 夜戦と永遠』佐々木中著 河出文庫刊 上巻413-414P



 ここでムスリムの精神分析家フェティ・ベンスラマの著書『物騒なフィクション―起源の分有をめぐって』が紹介され、ベンスラマによるウンベルト・エーコおよびミラン・クンデラへの批判*1ーー苛烈にして正当なーーが引用されたのち、氏は続ける。

 なぜ小説が、「フィクション」が「自由」なのか。それが道徳や法や政治と関係がなく、その内容が政治的に問われないのか。このことは自明のことではない。フィクションこそが、そのイメージとダンスと言葉と歌とを総動員して練り上げられる「モンタージュ」こそが、政治的なもの、社会的なもの、なによりも宗教的なもの、そして主体の形成の「装置」そのものだった。世俗化という「策略」、神の死という「フィクション」を戦略的な条件として捏造することによって、ヨーロッパは自らの国家を「戦略兵器」に変え、グローバリゼーションすなわち世界の西洋化、もっと言えば「キリスト教化」を行ってきたということはすでに見た。そこでテクストは刈り込まれ、塞き止められ、去勢された。そこでヨーロッパは、法学と神学の分離に始まる近代的な理念の設立にあたって、<政治的なもの>と<美的なもの>を切り離したのだ。実は国旗や国歌、宣伝やプロパガンダなどという形でそれを「後ろ手で」操っているにもかかわらず、自分はそのようなイメージの権力の野蛮さとは縁がないと思い込んできたのだ。

『定本 夜戦と永遠』佐々木中著 河出文庫刊 上巻 416P



『悪魔の詩』事件はたんに「芸術の問題」なのではない。演劇・小説・詩などのテクストから政治的機能を削除する美学的見地、それは「ごく地理的歴史的に限定された事態にすぎず」、政治的テクストの客観的・合理主義的な還元というヨーロッパのバージョンの管轄下にあるものにすぎない。その美学的見地に立った「知識人」たちはイスラーム(当然ながら彼らはそのような理念など共有する必要がない)と遭遇し、あらかじめ政治性が消去された自らの「表現の自由」を見ることになった。よってエーコやその他有象無象の「表現の自由」擁護は、他ならぬ彼ら自身の盲目がイスラームとの遭遇により明らかにされたということでしかない。

「ヨーロッパのバージョン」と繰り返したが、この盲目は日本語圏で読み書きする我々とも無縁ではない。佐々木中氏がヨーロッパの知識人たちの「表現の自由」への自閉を言い当てる際に「西欧の、そしてわれわれ自身の素朴な観念(強調引用者)」と書いていたことを読み落とすまい。われわれはいつの間にか、<政治的なもの>と<美的なもの>とを切断する思考に慣れきっている。げんに今夏、「音楽に政治を持ち込むな」という噴飯モノの意見に対してどこぞのおぼっちゃんが(よりにもよってドゥルーズ=ガタリの戦争機械概念を持ち出して)「音楽は基本的に反体制」という卒倒モノの反論をするという、茶番と呼ぶも愚かな一幕が演じられたばかりだ。*2 やや脱線するが、音楽から政治性を削除することは不可能である。それは切り離せるものではない。ジョン・ケージの理路によれば、肉体的に存在する限り音楽は死に絶えることがない。ゆえに政治的であることをやめたいのなら生命活動を停止しなければならない。ごく簡略に書いたが、これは筆者が現在準備中の非美学的ダンス論において検討予定の理路であり、ここでは詳述しない。話を戻す。


 2016年2月に刊行された佐々木中氏の最新刊『戦争と一人の作家:坂口安吾論』では、『堕落論』『続堕落論』における安吾自身の美学的=非政治的態度への自閉が浮き彫りにされてゆく。「天皇制」に「独創的な」「政治的作品(カラクリ)」を認め、「健全な道義」から「堕落」せよと言い、「堕落は制度の母胎」なのだと述べる安吾は、なぜかその結果として政治性を削除してしまう。

 つまり、安吾にとって、安吾の「堕落」以前の「天皇制」「武士道」は「政治」的な「案出」「独創」「カラクリ」であるが、この「堕落」以後の「自分自身の武士道、自分自身の天皇」は「政治」的「独創」であっては困るのだ。旧い「独創」は「制度」であり「政治」だが、新しい「独創」は「制度」であってもいいが「政治」であっては困る。厳密に読めば、どうしてもそういうことになる。

『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中著 河出書房新社刊 160P



 作家:坂口安吾が戦前戦中戦後において奇妙なまでに陥り続けた非政治的=美学的態度への問い糺し。『戦争と一人の作家』の理路はこのひとつに貫かれていると言って過言でない。もちろん晒し上げや痙攣的な批判といった過誤は注意深く避けられているが、特攻という強要された現実を見ずに「美に惑溺」し「殉国の情熱」を見ようとする安吾の態度を「不可能であらうし間違ってゐる」と一刀両断にする冷徹ささえ息づいているのだ(131P)。「安吾的思考」と「安吾的語彙」を徹底することで坂口安吾自身を批判するという、かつてフーコーが「ニヒリズム」のニーチェ的用法を徹底することでニーチェ自身(とハイデガーの拡大解釈)を批判したあの瞬間のような、怖気を感じずにはいられないほど徹底された原典への読みに裏打ちされた論旨が進行する。

 政治を論ずるかに見えて最終的には「政治」を消去する作家、坂口安吾。その果てに彼は「戦争」に「美」を見ることになった。安吾の美学的倒錯は『続戦争と一人の女』において一挙に指摘される。

 安吾は「不具の女」に、その性的享楽の代替物としての戦争を与える。戦争はそこで美しいものとなり、享楽さるべきものとなる。みずからを殺し、いつかは「強姦」するかもしれない戦争を。そこでは虐殺も暴力も特攻隊も肯定される。女自身が「バクダン」なのだから。どころか、女の「食慾をそゝる、可愛いゝ、水々しい小さな身体」自体が「戦争」なのであり、存分に男は「オモチャ」にして「しやぶつて、からみついて」いることも出来る。女は「一時的に亢奮し、感動」し、そしてそれについて知的な理解をもたない。男は女の非合理性に圧倒されつつ、しかし知性は野村にあり、女は無知である。「女は……正体をさとらなかつた」「女だけが知らないだけだ」。だが、言おう。安吾だけが知らないのだ。無知なのは安吾だ。この女の矛盾と暴力性と不具性が、安吾自身のものであることを。安吾が投影しているにすぎないことを。
 戦争を愛し、空襲を愛し、強姦されることを望み、不具であり、無知であり、非合理であり、凶暴であり、肉体そのものであり、ーーそして「白痴」の女がそうだったように白痴であり芋虫であり、「桜の森の満開の下」の女がそうだったように暴虐であり鬼であり、「夜長姫と耳男」の夜長姫がそうだったように残虐であり高貴でもある、こうした矛盾をすべて「女」に投影し拝跪するーーあるいは玩弄する、同じことだーーという所作は、むしろ近代文学では凡庸な手口にすぎない。安吾の倒錯的な「美としての戦争」は、遂にここに帰着する

『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中著 河出書房新社刊 185-186P



 そして、戦争を「気楽なそして壮観な見世物」として享楽する安吾の「思考停止」こそが、現実に関心=利害を持たない、カント的な無関心性を導入する手続きにすぎない(198P)と指摘され、「常に傍観者、又、弥次馬の一生であった」と述べる安吾の態度こそが彼をして(小説において)ファルスを書くことを失敗させていたと論は進む。
「傍観者」で「弥次馬」である安吾の態度こそが「美学的無関心」を、「優越」を保証するのだから、安吾はつねに誰が誰を突き放すかが曖昧なままだった。「ファルスは、定義上、その作者をも、いやその作者をこそまず「突き放し」「笑う」ものではなくてはならない。だから、彼の作品には「坂口安吾」が登場しなくてはならない(201-202P)」と一息に安吾の不徹底が宣告される箇所などは、そのあまりの容赦のなさに眩暈を覚えるほどだ。

 では、安吾はついにファルスを書き得なかったのか。そうではない、安吾のファルスの最高傑作は別にあると氏は言う。そしてそれは小説ではない。死の二年数ヶ月前、一九五二年十月に発表されたエッセイ『もう軍備はいらない』である。

もう軍備はいらない - 坂口安吾(青空文庫)

 自分が国防のない国へ攻めこんだあげくに負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかに攻めこんでくる兇悪犯人が居るような云い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。ブタ箱から出てきた足でさッそくドスをのむ奴の云いぐさだ。


 しかるにそこの貧乏オヤジは泥棒きたるべしとダンビラを買いこみ朝な夕なネタバをあわせ、そのために十八人の子供のオマンマは益半減し、豊富なのは天井のクモの巣だけ、そのクモの巣をすかして屋根の諸方の孔から東西南北の空が見えるという小屋の中でダンビラだけ光ってやがる。


 高い工業技術とか優秀な製品というものは、その技能を身につけた人間を盗まぬ限りは盗むわけにはゆかない。そしてそれが特定の少数の人に属するものではなく国民全部に行きたわっている場合には盗みようがない。
 美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう。すくなくとも、その国が自ら戦争さえしなければ、それがこわされる筈はあるまい。
 このような生活自体の高さや豊かさというものは、それを守るために戦争することも必要ではなくなる性質のものだ。有りあまる金だの土地だのは持たないし、むしろ有りあまる物を持たずにモウケをそッくり生活を豊かにするためにつぎこんでいる国からは、国民の生活以外に盗むものがない。そしてその国民が自ら戦争さえしなければ、その生活は盗まれることがなかろう。
 けれどもこんな国へもガムシャラに盗みを働きにくるキ印がいないとは限らないが、キ印を相手に戦争してよけいなケガを求めるのはバカバカしいから、さっさと手をあげて降参して相手にならずにいれば、それでも手当り次第ぶっこわすようなことはさすがにキ印でもできないし、さて腕力でおどしつけて家来にしたつもりでいたものの、生活万般にわたって家来の方がはるかに高くて豊かなことが分ってくるにしたがってさすがのキ印もだんだん気が弱くなり、結構ダンビラふりかざしてあばれこんできたキ印の方が居候のような手下のようなヒケメを持つようになってしまう。昔からキ印やバカは腕ッ節が強くてイノチ知らずだからケンカや戦争には勝つ率が多くて文化の発達した国の方が降参する例が少くなかったけれども、結局ダンビラふりまわして睨めまわしているうちにキ印やバカの方がだんだん居候になり、手下になって、やがて腑ぬけになってダンビラを忘れた頃を見すまされて逆に追ンだされたり完全な家来にしてもらって隅の方に居ついたりしてしまう。
 もっともキ印がダンビラふりまわして威勢よく乗りこんできた当座はいくら利巧者が相手にならなくとも、相当の被害はまぬがれない。女の子が暴行されたり、男の子が頭のハチを割られ片腕をヘシ折られキンタマを蹴りつぶされるようなことが相当ヒンピンと起ることはキ印相手のことでどうにも仕方がないが、それにしてもキ印相手にまともに戦争して殺されぶッこわされるのに比べれば被害は何万億分の一の軽さだか知れやしない。その国の文化水準や豊かな生活がシッカリした土台や支柱で支えられていさえすれば、結局キ印が居候になり家来になって隅ッこへひッこむことに相場がきまっているのである。
 腕力と文明を混同するのがマチガイのもとである。原子バクダンだって鬼がふりまわすカナ棒の程度のもので、本当の文明文化はそれとはまるで違う。めいめいの豊かな生活だけが本当の文明文化というものである。
 国防のためには原子バクダンだって本当はいらない筈のものだ。攻めこんでくるキ印がみんな自然に居候になって隅ッこへひっこむような文明文化の生活を確立するに限るのである。五反百姓の子沢山という日本がこのままマトモに働いて金持になれないというのは妄想である。有り余るお金や耕しきれない広大な土地は財産じゃない、それを羨む必要はないのである。そして国民全体が優秀な技術家になることや、国そのものが優秀な工場になることは不可能ではなかろう。



 国防の手段を外交ではなく「生活」の豊かさに求め、「美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう」と述べる安吾。ここで安吾は美学的態度を脱している。なぜなら、この「生活の芸術」は、徹頭徹尾戦争という現実への対抗として、戦争によっては決して破壊できないものとして構想されているのだから。


 おそらく、『戦争と一人の作家:坂口安吾論』は、戦前戦中戦後において美学的領野に自閉することで特権的に無関心であろうとした、一人の男の不可能の記録である。「常に傍観者、又、弥次馬の一生で」あろうとした坂口安吾は、自らの小説にその態度を持つことの不可能性を露わにし続けた。無理がある話だったのだ。戦前戦中戦後どの時にかかわらず、ただひとり「傍観者」「弥次馬」で在れる者などいるはずがない。安吾が保持せんとした「美学的無関心」の「優越」は、彼自身の小説の執筆によって破産を露わにした。

 あまりにも多くのことを、この論旨から引き出すことができるだろう。冒頭に述べた「表現の自由」という「西欧の、そしてわれわれ自身の素朴な観念」は安吾の言う「生活の芸術」から政治性を削除された姿ではないのか、<政治的なもの>と<美的なもの>との切断を前提として「藝術」を無力化しているのは我々の自作自演ではないのか、いつまで「ヨーロッパのバージョン」の猿真似に付き合わなくてはならないのか、等。


 いずれにせよ、我々は「美学的無関心」の「優越」の保持が不可能であることに逢着した作家の姿に立ち会った。安吾自身の蹉跌に、他ならぬ我々自身の姿を重ねて見るべきだろう。来たるべき民主制を求める人々を嘲笑し、デモや抗議活動を「やりすぎだ」と冷笑し、選挙活動で大敗した側を「結局無駄だったじゃないか」と罵倒する我々の姿が、安吾の言う「傍観者」「弥次馬」の姿に似ていはしないか、何度でも自問してみるべきだろう。そのような「傍観者」の「弥次馬」の、後出しの「優越」などありはしなかったと、あの坂口安吾自身の蹉跌が教えているというのに。弁証法によって「歴史の終わり」に立ったヘーゲルでさえ発狂の危機に見舞われ、「(ヘーゲルは)自分がどれほどまでに正しいのかわからなかった」とする冷徹な言葉がバタイユによって投げられているというのに。事の終わりに際して勝ち馬に乗ろうとする我々自身の怯えきった挙措に「自分がどれほどまでに正しいのかわからなかった」という言葉が差し向けられてはいないか、そう自問し続けることは常に何ものかでありうる。ことにヘーゲルを批判的に継承したマルクス主義がスターリニズムとマオイズムによって失敗し、ヘーゲルに代わる別の政治哲学の案出が求められているこの世紀においては。


 冒頭の引用に戻ろう。「藝術は無関心性ではない。藝術は利益(関心、interest)に関わらないものではない。藝術が「美的でしかないもの」として、ある檻の中でのみ生存を許されるようになったのはたかだかこの二百年であり、ごく地理的歴史的に限定された事態にすぎない」。ここで「げいじゅつなんていかにもナイーブな」と相変わらず美学的領野に自閉するなら、それは「藝術」の語源を辞書で引くことすらしない盲目を自白すること以外の何かではない。引用しよう、「藝術(art, Kunst)は、ラテン語ではアルス(ars)といい、これはそもそもギリシャ語のテクネー(τεχνη)の翻訳語である。煎じ詰めて言えば、これは自然(nature, Natur, Natura, φύση)の内部で、時にはそれに抗して生き延びることを可能にする、「技藝」、あるいはより踏み込めば「工夫」とも訳すべき語である」。生存のための技藝、それこそが今問われている、賭けられているものである。当然ながらそれは政治的制度の新たな案出も含まれる(制度の創造から政治性を削除しようとして不可能に直面し、ついに「生活自体の高さや豊かさ」に国防の手段を見出すことになった安吾の姿をすでに見たではないか)。
 藝術作品をたんに「美的でしかないもの」として考える思考はすでに問題になっていない。作品と政治性を分断可能であるとする思考もすでに問題になっていない。「変革可能な生の様式」としての技藝を説き、二〇一三年に『はだしのゲン』を「生き延びるための藝術を信じている」作品として賛辞を尽くし、そして現在京都精華大学にて教鞭を取っている、佐々木中の去就は完全に一貫している。


 我々は今年、『ズートピア』があらゆる形式でアメリカに潜在する差別意識を痛撃し、『新・のび太の日本誕生』がこの列島に住まう人々の混血性を肯定し、そして『この世界の片隅に』が惨禍においても生存の藝術を求め続けるのを見た。これらの作品を前にして相変わらず「作品に政治性を持ち込むな」と喚き続けるのなら、もういい。そのような「高踏的なものとしてのみ理解される「藝術」は、当然だがすでに問題ではない」とする引用から本稿は始められているのだから。しかし、「作品」からの政治性の削除を可能だと思い込み、「コンテンツ」論だの「フィクション」論だのをこねくりまわして内輪のおしゃべりに終始することが「知識人」の振る舞いだと信じて疑わない挙措は、他ならぬその「作品」自体によって逆襲されるだろう、とだけ言っておく。本稿は生き延びるための技藝を求め続ける、ピエール・ルジャンドルの冷厳な言葉を引用して終わることにしよう。

「いま、思考というよりも管理経営として現れている<科学>」、この「<全体的科学>の幻想に抗して、われわれは<芸術>の向かい火を絶やすことはない」

『定本 夜戦と永遠』佐々木中著 河出文庫刊 上巻463P








*1……  ベンスラマの批判まで全文引用すると稿が煩雑になるので省略したが、これについてはpdfで閲覧可能な『イメージ・テクスト・エンブレム』に詳しい。

*2……  ほかならぬドゥルーズ=ガタリ自身が「いわゆる全面戦争とは国家による企てというよりも、むしろ国家を手中に収め、絶対戦争の流れを国家に貫通させる戦争機械が企てるもの」*2-1として「もはや戦争以外に目的をもたない戦争機械(=ナチス)」を規定し、「イタリアのファシズムがヴェルディを利用したとしても、それはナチズムがワーグナーを利用したのに比べるとはるかにつつましやかなものだ」「この問題はまさに音楽の問題なのであり、技術的な意味で音楽の問題なのである。音楽の問題だからこそ、なおさら政治がかかわってくるのだ」*2-2と述べている。ここで今更ナチスほどに藝術(音楽、ダンス、映画、服飾……)の政治利用に長けていた国家はなかった、などと確認するまでもあるまい。彼ら自身が書いているように、藝術の技術的・政治的利用こそが戦争以外に目的をもたない戦争機械の惨禍を招いたのだから、これらの問題系はドゥルーズ=ガタリはもちろんジョン・ケージ、そしてピエール・ルジャンドルのダンス論『La Passion d'être un autre』の理路から何度でも考え直されなくてはならない。それを言うに事欠いて「音楽は基本に反体制」「知的・芸術的であることは反体制」「それ知らないと20世紀大衆文化もわかりません」と一面的に「反体制」に矮小化されたなにかを言い募るばかりか、先述の問題系を一切顧みることもなしにTwitter上で「教えねばならんなあ」などと脂下がるとは、夜郎自大な不勉強のなせる技としか言いようがない。より直裁に言えば、藝術や音楽の力を安く見積もって知ったかぶりをしたいのならドゥルーズ=ガタリなど読む必要はない。

*2-1 『千のプラトー』ドゥルーズ=ガタリ著 宇野邦一ほか訳 河出文庫刊 中巻 143P
*2-2 『千のプラトー』ドゥルーズ=ガタリ著 宇野邦一ほか訳 河出文庫刊 中巻 381P