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2016年映画ベスト10(と感想)

今年観た映画のやつです

:ベスト10:
 1位が7本あります。

1.LOGAN予告編
1.Xミッション
1.ズートピア
1.ドラえもん 新・のび太の日本誕生
1.シング・ストリート
1.劇場版アイカツスターズ!
1.君の名は。
8.デッドプール
9.X-MEN アポカリプス
10.この世界の片隅に



1.LOGAN予告編


 いきなり変化球であれなんですが、この108秒の映像は今年観たいくつもの優れた映画たちに匹敵するくらいのものがありまして。老いた主人公というより世界そのものが老いていて、それこそ晩年のジョニー・キャッシュの身体のようにいくつもの皺が刻まれた老いの映像になっていて、そんなものをまさかマーベル映画で観ることになろうとは……
「楽曲の力で良く見えてるだけだろ」って言われるかもしれんですがね、逆なんですよ! あんなに完璧なMVをもつジョニー・キャッシュ版Hurtを予告編に使う時点でもう途方もなく高いハードルなんですよ。でもこの予告編はそれをかるく飛び越えてるばかりかあのカバーの文脈(老いたジョニーがジャンルも年代も違うトレントの曲を歌い、それによってトレントのキャリアをも再生させる)と絶妙に合致することによって老ローガンとX-23との関係性のせつなさが浮かび上がる(『アポカリプス』の最後がああ繋がるのかよお……)という、これ、「既存の音楽を使用した映像」史のなかでも事件なのでは。


1.Xミッション


 何度思い出しても「やさしい映画だったなあ……」と。この映画、誰かが誰かを恫喝したり否定したり隷下に置こうとしたりっていう乱暴さがまったく無いんですよ。教官もパパスもボーディたちも迷えるユタの生路(ライン)を見つけるために計らっていて、人間の生き方はひとつではない(The only law that matters is gravity)ことを尋常を外れた人々の生き様を通して教えてくれる、こんなにやさしい映画はみたことがないなあ……

 不当に低い評価が与えられてしまっている映画ではあります。去年は『ファンタスティック・フォー(2015年)』に明らかに不当な低評価が与えられていて(映画を観てさえいない人間が前評判だけで貶していた例まであったのだ。この件に関して私は映画秘宝を絶対に許すつもりはない)、正直なところ「『ファンタスティック・フォー』がいかに優れた映画かを論理的に説明するより、この映画を不当に貶めている人々を全員殺害したほうが早いのではないか」という精神状態にまで追い詰められてしまったのですが(もちろん実行には移しませんでしたよ映画観れなくなるから)、『Xミッション』の不評に関してはそれほど重く考えてはいません。こんなにやさしく側に隣ってくれる映画なのだから、ユタのように路に迷ったとき初めて「そういうことだったのか」と気づくこともあるでしょう。いずれにしろ、尋常の生き方を外れた人々が「See you soon」とやさしく微笑んでくれるこの映画を、私は生涯忘れることができそうにないのです。


1.ズートピア


 “たとえば「差別はいけません」という言葉がダサくカッコわるく見えるのなら、それを新しい美しさで、新しい世界への愛と喜びに満ちて表現できるのかということだよ”。佐々木中さんの言葉の引用ですが、まさにディズニーはそういう新しい表現の技法を磨き抜いているんだな……と格の違いを痛感させられた映画でした。
 ズートピアにおいてまず「マイノリティ」として登場するジュディ、彼女が「差別に満ちた世界を変えていくよ!」という方向なら超イージーなはずなんですが、まず彼女がPC的処遇でとりあえず受け入れられる(ウサギ初の警察官、という門出も市長の点数稼ぎのためでしかない)のがまずエグいし、その後ニックとのバディ関係を経たあとでジュディ自身が会見で思いがけず肉食獣を差別する発言をしてしまう、そのことによって「主人公の行い=正しい」の図式を崩してさらに「マイノリティ」「マジョリティ」の概念さえも問い直しにかかる……もう、一体どんだけ容赦ないのか。
 この映画ではほぼすべてのものが批判されてゆきます。警察、ハスラー、監獄、エスタブリッシュメント、ギャング、都会、田舎、すべてのものが批判にさらされているし、「これひとつあればじゅうぶんだ」というふうには行っていない。ズートピア世界のほぼすべてに(当然ながら主人公とその行いまで)徹底的に批判を加え、言うなれば自分で自分の手を傷つけて、それでも「世界はもっと良くなるはずだ」という希望を最後にひらく(「だが、どうでもいい」という署長のセリフが最初に言われたのと全く違う意味になっている、この上手さ……!!!!)、なんなんだろう。怖いですよもう。モノを考えることのできる大人の仕事って、こういうことなんだ。

 で、これほどの作品を前にして「PCべったりで説教くさい」とか言ってなにか批判した気になっている連中のレベルの低さたるや……実におめでたいですよ、そいつはこの映画の批判の射程が自分自身にまで及んでいることに気づくことさえできないんだから。ズートピアのキャラクターたちの過ちの中に自分自身の立ち居振る舞いを見ることができないんだから。日本版キャッチコピーは「輝け☆ワタシ!」となっていますが、違うでしょ、「変わりな、アンタも」って映画ですよこれは。

「ごちゃごちゃ理屈をこねやがって、映画に政治を持ち込むな」とおっしゃる? 残念ですが、他ならぬウォルト・ディズニー氏こそが最も極端に「映画に政治を持ち込」んでいた人なのですよ。戦争協力者であり、極右の共和党員であり、ゴリッゴリの反共であり、赤狩りの名目で弱いものいじめに励んでいたウォルト・ディズニーの名を冠したスタジオから、このような作品が出てきた。あの人たちは自分の国や会社の歴史に恥辱を感じることができているわけです。差別と暴力と不寛容の季節を経て、アメリカはここまで変わって来た。たとえ来期の大統領がどんなマザーファッカーであろうとも、あの人たちが芸術の迎え火を絶やすことはないのです。


1.ドラえもん 新・のび太の日本誕生


 忘れずにおきましょう、『ズートピア』の北米公開と1日違いで(2016年3月5日)この国では『新・のび太の日本誕生』が公開されていたことを。

 パンフレットの冒頭に “歴史は、さらに未来へ続きます。これからの人類の歴史を、戦争などのない明るく楽しいものにしたいですね” という藤子・F・不二雄氏の言葉が引用されていることに、端的にこの映画のイズムがあらわれていると思いますね。なんてことない当たり前のセリフ(「日本人の先祖って中国から引っ越してきたんだ!」)でさらっと国家神道の欺瞞を撃ち、日本列島に住まう人々の混血性を肯定し、耕作や建築や料理といった生活の技藝(アート)に平和を見出す、なんたる安吾イズム(後述)に貫かれた映画なのか。そして「歴史修正主義者はかならず裁かれる」ことが宣告される場面がクライマックスにくるという……ほんと、これよく検閲されずに通ったなあ!

 ここまで風通しのいい、一切のおためごかしを許さない映画がテレビ局製作で実現されたことには、いくら驚いても足りないと思います。しかもベテラン監督ならまだしも映画初監督の八鍬新之助さん(1981年生まれとかですよ)がここまでのモノを通せたこと、これを希望と呼ばずして何でしょうか。

 さらに、原典のイマイチな部分(タイムパトロールの件)が、ちょっとした工夫で西部劇の騎兵隊展開的に盛り上がる演出になっていたりして、そこもほんと上手いんですよこの映画。セリフひとつカットひとつに膨大な意味が込められていて、その都度停止して「これがさあ! これがさあ!」と延々話したくなるほどに。映画ってこれだよなあ。こういうことだよなあ。
 正直なところ、私は水田わさびアレルギーのため最近のドラ映画はみていなかったんですが、そんなもんはこの映画の冒頭でもう吹っ飛んでしまいました。次の『南極カチコチ大冒険』もポスターデザインや予告編の抑制されたデザインから既にやばさが伝わってくるのでめちゃ期待しています。ドラ映画すごいなあ。あとはドラえもんズをリブートしてくれたら完璧なんですが。


1.シング・ストリート


 あまりにも素晴らしすぎる音楽映画にしてお兄ちゃん映画、で終わりにしてもいいんですが、『フランク』もそうでしたが決して単純な音楽万歳青春映画に堕してないのが誠実すぎる。そして『桐島、部活やめるってよ』の屋上シーンもそうでしたが、「このどうしようもない学校空間の中でせめてイマジネーションの力は抵抗の手段となりうる……のか?」というところまで真摯にティーンエイジャーの苦闘と創作の営みを突き詰めていて、だから『Drive It Like You Stole It』のシーンはどうあってもボロボロに泣かされてしまいますね……誰だってやったことあるでしょうあれ!? 自分の大好きな曲とか(あるいは自分で作った曲とか)聴きながら架空のミュージックビデオを空想するだけで世界がちょっとだけ救えるようになったとか、身に覚えがあるでしょうが、と胸ぐらを掴んでくるような力がありますよ。

 監督は「自分が学生の頃やりたかったけどできなかったことを映画の中でやった」みたいに言ってましたが、それってホドロフスキー翁が『リアリティのダンス』でやってたことに近いなとも。家族の過去を自分で描きなおすことで救うっていう。最後の脱出の船に「JIM」って名前が入ってますが、それが監督の(既に亡くなった)兄の名前だっていう、もう、どんだけできた話だよ……お兄ちゃん大好きだよ……おれもう絶対フィル・コリンズとか聴かないよ。


1.劇場版アイカツスターズ!


 愛の映画です。他に付け加えるべき言葉があるでしょうか。
 毎秒ごとにこのシーンがやばいこのカットがやばいを延々挙げていくこともできるのですが、もう単純にね、人間どうしがお互いを必要としてる関係がこんなにもまばゆいのかと、一切の衒いなく豪速球でこんな愛のかたまりを叩きつけられたので、もう……
 あの姉妹おばあちゃんの存在も重要ですね。若いころアイドルだった二人が一緒に歳を重ねてゆくこと(=ゆめとローラのこれからの人生)をあのおばあちゃんたちの存在一つで肯定してしまっている。『アイカツ!』128話の偉大さは、サニーとジョニーという大人二人がそれぞれの年月を経過して黒沢凛というアイドルの「親」になることで「人間にとって歳をとることは呪いではない」ことを見せ切ったことにあるのですが、『アイカツスターズ!』はそれと同じことを20話足らずのエピソードと劇場版だけでやってしまった……恐ろしい、柿原優子恐ろしいよ。

 しかしそれだけではない。『スターズ!』では「歳をとること」を肯定するだけでは十分でないのです。なぜなら虹野ゆめは「歌っている時に不思議な力が働いて、そのせいで声を喪ってしまうかもしれない」という別の呪いを抱えているわけですから、果たしてあのおばあちゃんたちの年齢まで生き続けられるかどうかわからない。彼女にとってはまさに今(アイドルにとっては花盛りの時期ということになるであろう年代)を生き抜かなくてはならない。しかもその生存のために賭けられているのが歌だという……『アイカツスターズ!』ってそういう作品です。白銀リリィだってそうです。身体の内側になぜかとんでもないもの(不思議な力だったり病だったり)を抱えてしまった人たちが、それでもそこでしか歌えない歌を残してゆく、ひじょうにフレディ・マーキュリー的なショーマストゴーオン精神に貫かれている。だから私はそういう作品にリアルタイムで出会ってしまったことに対して畏怖と歓び以外の感情を覚えることができないのです。
 そして一番恐ろしいのが、この素晴らしい映画でさえ『スターズ!』にとっては通過点でしかなかったということ(劇場版であれほどまでに美しく見せたゆめ・ローラの関係性を裏返しにかかる第21話の容赦なさ……)。26話以降は毎エピソードが暴力的と言っていいほどの凄まじさで、前シリーズとは違って最初から全体の構造をしっかり作った上で勝負にかかっている『スターズ!』の強度に毎週切り刻まれております。柿原優子……

 同時上映の短編については何も言うことは無いです。
 26話以降の絵コンテ・演出における、木村隆一の見下げ果てた仕事ぶりについても言うことは無いです。いや有りすぎてむしろもう無いです。端的にいなくなってほしいなあと思うだけです。


1.君の名は。


 中心を持たない、蝶番を外れた、発狂した時間を映画で見せたこと。この映画の偉大さはこれに尽きます。『去年マリエンバートで』みたいなつまんねえ映画よりも徹底的に時間を狂わせて、それに伴って性別も狂って、女でも男でもない別の何かに成ってゆくことにまつわる映画でした。つまり恋です。男女両性によらない関係性(“二”葉の死とともに家庭が壊れるところから“三”葉の「別の性」への移りゆきが始まっていたことを思い出しましょう。この映画をみてなんかリア充だからイヤだとか相変わらずのセカイ系だとかつまんないことを言ってる人達がいるんですが、果たして何の映画を観てきたんでしょうか。生まれついた性別を放棄するってとこからスタートしてる映画ですよこれ。)、もはやどちらがどちらかを言うことができなくなる次元への移りゆきを、他でもない「書くこと」「書き残されたことを読むこと」の応酬によって織り上げてゆくという、極めて論理的だけどそのロジックが狂っているという映画。それを正面切ってアニメ映画でやってしまった……「偉大」という言葉しか出てきませんよもう。すごすぎる。

 しかしこんな狂った映画をまさか新海誠のアニメで食らわされることになろうとは。役者さんたちの演技にも惜しみない拍手を(とくに勅使河原役の声優さん巧すぎじゃないですか)。あと『小さな恋のメロディ』なんかもそうですが、「男の子が自分で作った爆弾を爆発させる映画は名作」の法則が証明されたのも嬉しいですね。「田舎はほんとにクソ」というのを真正面から言ってくれたのも嬉しい。新海誠さんの地元がどれだけクソ田舎だったのかは知りませんが、こいつぁ田舎を一方的に理想化することしかできない細田守なんかにはできない芸当だよなあ。

8.デッドプール


「愛の映画」という意味で『劇場版アイカツスターズ!』と同じくらい好きなんですが(あ、そういえばウェイドも突然の病に見舞われてそれでも戦っていた人だ……白銀リリィなのかもしれない)、ウェイド・ウィルソンという男の義賊っぷりというか、アウトローやりつつ女の子たちの問題を解決していくイズムは心の底からかっこいいなあと思う。惚れざるをえない。それでも「ヒーロー」と呼ばれる事を頑なに拒否するのは特殊部隊時代に見せられた地獄のせいなのではとか、それでも正気を保って愛する人を見つけて生き続ける姿がほんとうにいじらしいとか、ああもうなんて奥深いキャラクターなんだろうウェイド・ウィルソン。大好き。

 今年観た映画のなかでも一番吹き替えがよかったです。とくに相方の荒くれ酒場のマスター(名前忘れた)の声優さんが素晴らしくて、字幕版とは全く別の箇所で爆笑が起きていた。あれはマジックだったんじゃないでしょうか。
 アクションもキメ絵がしっかり効いていて最高だし(敵の得物空中キャッチからの投擲からの浴びせ蹴り、の流れカッコよすぎ)、低予算感もしっかりギャグに流せていて良いし、「ワム!」がマジでマジでマジで最高すぎだし(とか書いてたらジョージ・マイケルが亡くなってしまった、彼の魂に祝福あれ)、こういう映画がしっかりと大ヒットを記録してくれるっていうのはほんとに嬉しいなあ。


9.X-MEN アポカリプス


「X」!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 感じてみろ!!!!「X」!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!叫んでみろ!!!!!!!!!「X」!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!すべて脱ぎ捨てろ(all is revealed)!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 あの「X」のシーンはもうねえ……去年の『クリード』のクライマックスと同じくらいの嗚咽を映画館内で漏らしてしまいましたね……

「X」に至るまでの段取りも丁寧なんですよ。OPタイトルでまずソ連やナチスなどのシンボルを「もう信じられない共同性」として提示し(言うまでもなくエリック・レーンシャーの生国であるポーランドはソ連とナチスの両方から消えない傷を刻まれた国である)、エリックの彷徨の果てに「もしかしたら信じられるかもしれない共同性」のシンボルとして「X」が立ち現れるという、しかもその瞬間に三部作におけるプロフェッサーとマグニートーとミスティークの分かたれた道が再び交差するという、もう、どんだけ燃えさせる気なのか!!!!「燃えるラストバトル」というジャンルがあるなら、今までにみたあらゆる映画の中でも最高に燃える展開の連続で泣かされっぱなしでしたね……あの親子の関係性もさあ……あの兄弟もさあ……ほんとうにさあ……でブルーレイの特典映像にあの兄弟たちのシーンがやたら充実してたんだけどなにあれ……全部入れとけよ3時間くらいになっても観るから……

 あと80年代ということもあり、キャラクターたちの「ふつうに消費生活を謳歌してる人たち」感が出ててよかったなあ。ショッピングモールで買い物したり映画観たり音楽聴いたりしてる人たちが世界滅亡を企むやつらをボコるという、その気持ちよさがあった。あとオスカー・アイザックの顔力(かおぢから)が良いですねえ。この映画で初めて気づいたけど目と鼻と歯の感じがホドロフスキー翁に似てる。『エイジ・オブ・ウルトロン』と『フューチャー&パスト』の欠点を挙げるとしたら「敵ボスの顔力が弱い」ってことだったんですが(だってウルトロンとセンチネルだし)、『アポカリプス』はその反省が活かせていたように思えたなあ。『シビルウォー』の良い顔合戦もそうだったし。

「(前二作にあった)マイノリティの闘争という要素が薄い」って意見も見ますがそんなことはない。この映画は大きく言ってキング牧師およびハーヴェイ・ミルク以降の、「過去に活動していた先達がアイコンとなり、若い世代を勇気付ける」流れがしっかり汲まれていて、その意味でミスティークはとても良い位置で活躍できていたと思います。ラストバトルの途中で「まさかここで憧れの人に出会えるなんて❤️」というストームの表情が入るのも最高。


10.この世界の片隅に


『新・日本誕生』と同じく安吾イズムに貫かれた映画。この映画の制作背景への言及などは省略します。もちろん完成と劇場公開にこぎつけたことだけでも偉大な映画です。
 ただやっぱり、惨禍においても生存のための技藝を求め続けることをここまで執拗に描いて見せた、華々しさとは無縁の非・物語の強靭さに打ちのめされました。徹底的な考証に基づいた戦時下の生活、そこで行われていた営みが今の我々とも少しも違わないことを見せに見せ、その営みの執拗な持続の線を2016年現在まで引いてくる、この射程の長さ強さ折れなさ。そして玉音放送を茶番として描いたあとに「こんな茶番のためにあの子の命や私の手は失われたのか」という怒りが爆発する、あの流れの凄まじさたるや。

 そして最も安吾を感じるのは、この映画では生活力(料理、裁縫などの広義の「藝術」)は武力(軍備や国防など)より強いものとして描かれていること。あの「戦時下の食事より進駐軍の残飯のほうがよっぽどうまかった」というコミカルなシーンは凄まじすぎると思う。「残飯の中にさえおいしい文化がある国と戦争なんかして勝てるわけがない」という生活力>武力のイズムが徹底されている上に、さらにそこから「あの人たちも私たちと同じようにおいしい食べ物を愛する文化を持っていたのに、どうして戦争なんかしていたんだろう」という素朴な問いをすら提出するという、この鋭さ。「私たちは生活を続けていかなければならなかったのに、どうして戦争なんか始めたんだ?」この問いが差し向けられてしかるべき人間は、まだ生き残っていると思いますね。生活の豊かさは武力なんかよりも強いんだ、こっちは生き続けなきゃいけないんだから戦争なんかしてるヒマはないんだ、おいしいもの食べて描きたいもの描いて、他所から移ってきた人々も受け入れて面白おかしく暮らしてやるぞ、この野郎。という安吾イズムの映画がこの年のこの国で叩きつけられた事実は、何をどうしたって無かったことにはできないのです。


 以上がベスト10ですが、以下に今年の映画みて思ったいくつかの傾向を書いときます。


1:アニメ映画に息づく安吾イズム(『新・日本誕生』『この世界の片隅に』)

 今年の頭に出版された安吾論『戦争と一人の作家』については別記事で書きましたが*、この安吾論とびっくりするくらい符合するイズムのアニメ映画が二本も発表されたのでほんとに驚きました。
「生活の豊かさは軍備より強い」「この列島に住まう人々の混血性の肯定」を指しておおざっぱに安吾イズムと呼んでいますが、言うまでもなくこの年にそういった作品を発表することは具体的な政治的抵抗たりうる、ということです。
 ……『ズートピア』の項でも書いたように「映画に政治絡めて語ってんじゃねーようさんくせえ」と思われてるかもしれませんが、まず作品からの政治性の消去が可能だとする考えはカメから甲羅を引き剥がす行為と同断であり、そういった思考はまず「作品」への端的な虐待としてあらわれるだろう、とだけ言っておきます。「単に美的な(政治性にかかわらない)ものだから良い」とする美学的な思考は、他ならぬその「作品」の政治性自体によって逆襲されるだろう、とも。


2:ちゃんとビビれ

 今年は日本制作の(とくにアニメ)映画がえらいことになっていたのですが、そういった作品を前にして「なぜこの映画がヒットしたのか」を後出しじゃんけんで「説明」しようとしたりとか、あるいは「いやこれはそんなに大したものじゃないんだセカイ系なんだ感動ポルノなんだ」と自分の背丈にあわせて作品を矮小化したりとか、まあそういうケツの穴の小さい、失礼、臀部の開口部が狭小な方々がたくさんいらっしゃいましたが……まあね、仕方ないところもあります。ただ、『君の名は。』を観て「作中の語りが置かれた時間の存在の位相がよくわからない」と言ってなにか批判した気になっている「批評家」なんかを目にしますと、「ここがわからない」とゴネるだけで名乗れる「批評家」とは大した身分でござんすねえ、と苦笑千回したくもなりますよ。

 要するに「ちゃんとビビれ」ってことです。「これは結局こういうものに過ぎないから」と矮小化したうえでなにか言った気になるのはもうやめとけ、ということです。作品に取り組んでる人々はそんな惨めな言葉の使い方はしていない。とんでもない事件としか思えない作品を目撃したなら、徹底的にビビってビビり尽くして、それでも偉大な精神を讃えるために自分の言葉を使うしかなくなる。そういう瞬間まで付き合う気がなくて「批評」とか言ってんじゃねえよ、アホか、讃歌(hosanna)が足りてねえんだお前らの言葉には、と嘲笑し尽くしたくなる事例をたっくさん見てしまったのでとても怒っています(友よ、怒りとともに笑いうることを学びたまえ、植野直花がそうしたように)。なぜこうまでトサカにくるかというと、作品を産むこととそれを受け取ること自体をナメてる奴らがあまりにも多すぎるからなんですけども。
 さっき書いた「作品と政治性は切り離せない」件とも通じますが、まずそんな狭っ苦しい見方で稀なる作品を矮小化して一言二言投じて終わりって、それ、つまんなくないの? 自分が惨めにならないの? 1,800円も払って何やってんの? と思いますね。必要なのはちゃんとビビる用意だけです。尊敬(respect)は見ること(spec)に語源を持つんですから、作品に向き合うことと尊敬の念を示すことは同じことです(不徹底への disrespect を示すことでさえも。友よ、真のディスとはリスペクトと同様に徹底した読みが要求されることをご存知だろう)。目が見えるのに見えてない人間、字が読めるのに読めてない人間があまりにも多すぎますよ。ちゃんとやりましょう。


3:ベトナム帰還兵モノ

 というジャンルがあると思うんです。『ロッキー』一作目のこと? と思われたかもしれませんが、むしろ『ローリング・サンダー』や『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』のほうです。

 特徴をまとめると、

◎過去のできごとによって消えない傷を残された人々が出てくる
◎精神的・肉体的に、壊れてしまった・壊してしまったこと、自分がしてしまった・されてしまったことをめぐる
◎捏造されがちな過去とその語り直しによって進行する
◎贖罪(不)可能性と救済が賭けられている作品


 ということになるんですが。こうして特徴を書き出してみると、『聲の形』は王道のベトナム帰還兵モノだったなあと。あの学校空間はちょっとした差異をあげつらって人間を虐待し、それによって生まれる「虐待した者」の差異によって今度は虐待される側に立たされるという、非人間的なダメージを生産し続ける場所でした。小・中学校でしてしまったことされてしまったことが直接回帰して傷だらけになるのが『聲の形』でしたが、この「小・中学校」を「ベトナム」に、「高校」を「療養所」に置き換えるとそのまま『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』になることがおわかりいただけると思います。そこには「捏造された過去」のサイコドラマと贖いが賭けられていたことも。
 ベトナム帰還兵モノの特徴として、「誰も正しい方途を知っているわけではない」というのがあるんですが(『トゥインクル〜』収容者たちの狂気に対する適切な治療法を誰も知っていなかったように)、『聲の形』の学校空間も、生徒たちはもちろん親権者や教師たちでさえ学校という非人間的空間での正しい振舞い方を知っているわけではなかった。だからこそ川井は都合よく捏造された過去に縋ったりするし、植野はその欺瞞を冷徹に切り捨てたりするわけです。過去の行いとその贖いに向き合うたびに増えてゆく傷、傷、傷、傷。『トゥインクル〜』の終盤以降の展開を思い出していただければわかるように、「贖えなさ」は傷として刻印されてゆきます。
(そういえば『Xミッション』もベトナム帰還兵モノです。というか、あの映画は『トゥインクル〜』のリメイクかと思うくらい筋書きが似ています。ユタは過去の行いのせいで親友の死という消えない傷を負っていますし、ボーディの最期が単なる別離ではなくユタの救済という意味が加えられている点も『ハート・ブルー』にはなかった要素です。『シビルウォー』ももちろんベトナム帰還兵モノで、「自分がしてしまった・されてしまった」過去をめぐる贖いの話でした。じつは『アイカツスターズ!』の本編もベトナム帰還兵モノとしてひじょうに精度が高いのです。「声を喪ってしまうかもしれない」という謎の呪いへの正しい対処法を誰も知っていない、だからこそ諸星も白鳥も虹野も生存のために賭けるしかない、そしてその賭けには過去に姉を救えなかった諸星自身の贖罪が賭けられている……ちなみに私は以前ベトナム帰還兵モノのマナーに則って如月ツバサ×芦田有莉の二次創作を書いてみたことが、云々)

 ここまで書いておわかり頂けたと思うんですが、私はベトナム帰還兵モノに出てくる人々の「正しくなさ」を尊びます。なぜならその人たちは誰も正しい方途を知っているわけではないから。それでも自分の過去を贖わなければならないのだとしたら、それは不可能性をめぐる賭け、あるいは自らを犠牲に捧げることに(『トゥインクル〜』のラストシーンがまさにそうだったように)ならざるを得ない。そういう正しくない人々の贖罪の賭け、の容態を見せられると、人間だよな、人間ってこうだよな、という思いにさせられる。「ベトナム帰還兵モノ」という歴史的事実を冠したネーミングなので逆説的ですが、これってフィクションのなかでしか試みられないことだと思うんですね。『トゥインクル〜』の収容者たちが自身の狂気に向き合うためにサイコドラマが必要とされたように、演じ演じられるものとしてのフィクション、それを見ることによるショック療法、です。

 だから『聲の形』(や『シビルウォー』)の特定のキャラクターの行動を正しくない間違ってるとムキになって指弾してる人を見るとね、ちょっと、何様のつもりなんだろうと思ってしまうんですね。ここでは「自分がしてしまった・されてしまった」ことをそれでも贖おうとする不可能性が賭けられているんだ、それはフィクションでしかできないことなんだ、それを見せられてムキになってるお前はあれか自分ならあの状況で絶対に正しい振舞いができたとでも言うつもりか、とかね、思ってしまうんですね。
「正しくなさ」「向き合えなさ」「贖えなさ」にそれでもケリをつけようとする人間たちの容態、それが『トゥインクル・トゥインクル・キラーカーン』であり『聲の形』であり『シビルウォー』であり『アイカツスターズ!』本編だと思うのです。そういう作品たちは痛みとともに生存を続ける(あるいは自分の行いによって誰かを辛うじて救う)しかない、ということを見せてくれる。だから私は「ベトナム帰還兵モノ」ジャンルの粗描をここに残しておこうと思ったのです。近頃は何にでも正しい正しくないを押し付けてくる holier-than-thou な人間ばかりなので、こういう正しくなさの痛みを教えてくれるフィクションに向き合うことは常に何ものかでありえます。


以下、特記事項のあるやつだけ書いていきます。


11.クリーピー
 長らく「90年代末-00年代初頭の負の遺産」「こんな人間を有り難がらなければならないほど日本映画は貧しいのだろうか」という存在としてしか黒沢清を認識してこなかったんですが、これは大傑作ですよ!!!『CURE』で催眠術やメスメリズムをなんか意味あるものとして提示するというキッツいセンスをお持ちだった黒沢清が、「犯罪心理学なんかクソの役にも立たねえ」「俗っぽい欲望だけで人を殺す類の人間は存在するしそれもお前の近所にいる」ていう『悪魔のいけにえ』イズム(テキサス性=恐怖をもたらす隣人性、と言ってもいい)に貫かれた映画を作るとは、やればできるやんか!!!
「警察は正義の味方なんかじゃないし、むしろ他人の惨劇の蜜を吸うハイエナ」っていう方向に振り切れていたのも最高だし、一見キレてる香川照之よりも西島秀俊のほうが明らかに狂ってるのが浮き彫りになるシーンの数々も(「部屋で大人しくしといてください」のシーンとか本当……)素晴らしい。黒沢清はずっと『クリーピー』シリーズだけ撮っててほしいなあ。

12.溺れるナイフ
「おう、殺せって言うとるわ」みたいなセリフをちゃんと演じられる役者がいま日本にどれだけいるのかって話よ……菅田将暉さんは『ここのみにて光輝く』『何者』でもほんとに素晴らしかったんですがこの映画で完全にやられました。かっこいい……

13.ブレイク・ビーターズ
 ダンスと政治性をめぐる描き方が完璧。路上で好き放題やってたダンサーをお上の意向で飼いならそうとしても結局ダメで、お上に背いて踊り続けること自体が政治的抵抗になるっていう。そしてどんなにお上が芸術を利用しようとしたって避けようもなくそこには抵抗する人々の姿が映りこんでしまうのである、という映画でもあったので『RACE(栄光のランナー)』とも通じる映画だったなあと。
 たぶん今年のベストエンディング賞を選ぶとすればこの映画でしょう。何より好きなのは、かつてストリートで踊っていたであろう(そしてこれからも踊り続けているであろう)無名のダンサーたちにリスペクトを捧げて終わること。最近20世紀の偉大なミュージシャンたちのドキュメンタリーや伝記映画が増えてきましたが、この映画は名誉や栄達とは無縁の人々の姿をせめてフィクションの中でとらえようという謙譲の姿勢があって、そこがもう大好きです。こんなに良い映画がごく限られた公開の仕方しかされなかったっておかしいよ。ぜひソフト借りてでも観てください。

14.キャプテンアメリカ シビル・ウォー
『ウィンターソルジャー』は言うほど好きじゃないんですが(あれを政治劇として評価しようとする一部の声がうるさすぎて「けっ、アメコミ映画にロバート・レッドフォードが出てくれたことがそんなに嬉しいかよ」と思ってしまったため)、今回はルッソ兄弟のRPG脳が遺憾なく発揮されていて(「ふふふ流石だなキャプテン、ところで冥土の土産に教えてやろう」的な序盤の流れ最高)、それがMCU内のこの作品の役割とも合致していて素晴らしかった。
 なんといっても飛行場でのバトルですよね。映画の中でスマブラを見たいという欲望をここまで叶えてくれたことに拍手喝采でしょう。『LEGOムービー』もそうでしたけど、スマブラ的表現をここまでの高精度でやられてしまってることに日本のゲーム映画関連の人たちはもっと焦ったほうがいいんじゃないでしょうか。『るろうに剣心 伝説の最期編』のクライマックスとかはかなり上質なスマブラでしたけど、ああいうのをもっとやったほうがいい。
 そして陛下。陛下すき❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎❤︎もーーースーツのムッチリ感とか爪撃とか回転蹴りとかもう何もかも最高、さらにスピンオフの監督は『クリード』のライアン・クーグラー……もうどうしよう。まぢむり。
「いい加減MCUも行き詰まってきたよね」とか言ってなにか限界を指摘した気になってる人たちもいますが、『ドクター・ストレンジ』の予告編だけでマーベル映画に携わる人たちがマンガ映画のエンベロープを押し広げるためにどれほど頭を使ってるか、ということを思い知らされますね。きっと我々があらかじめ予期してるみみっちい限界なんかとは程遠いところまで行ってくれるんだと思います。良いものを作るために頭と身体を使っている人々に特大の敬意を。

15.ゴーストバスターズ
 もーーーー大好き。「大好き」以外の言葉が見当たらないんですが、大好きなシーンがあまりにも多すぎて大好きしか言いようがない。大好き。
 とくにあの、クライマックスで危機が去ったあとにクリヘムが売店で買ったパンを食ってるっていうのが最高に好き。日常と超常現象が分断されることなく自然に存在してるあのノリがあまりにも好き……幸せすぎる。
 あと今年のベストエンドロール賞はこの映画ですね。あいつも悪いやつなりに楽しくやりたかったんだよなあ、そうだよなあ、という優しさがたまらんし、さらに3D映画のギミックも最後の最後まで活かせていてそこもよかった(ずっと思ってたんですけど、3Dを前提に作っておきながらエンドロールが真っ暗な映画ってなんなんですかね?)。楽しいものを楽しく作れる人たちって素晴らしいよなあ、こういう映画を一年に一本見られるだけでもう幸せだよなあ、そんな映画でした。

16.聲の形
『ゆきゆきて神軍』meets ベトナム帰還兵モノ、という映画でした。とにかく植野直花ですよ。『ゆきゆきて神軍』奥崎氏並の、欺瞞を許さぬ捨て鉢っぷりにやられました。「石田、ダサくなったわあ」と嗤う語尾のすべてに怒りが込められている、自分の贖えなさ(共犯性)を重く受け止めているからこそ軽々に小学生時代の罪を贖おうとする石田が許せない、しかし彼女が最も石田に対してフェアに接しているし思いやってもいる、この「正しくなさ」でしか担えない人間の有り様にやられましたよ。
 正しくない人間たちがそれでも自分の立場でしか言えないことを少しずつ出し合っていく、もちろん痛みも伴うけどそれと一緒に生きていかなきゃいけないっていう、実に真っ当なことを言っている映画です。とくに川井ですね。彼女が最後まで欺瞞的存在として一貫していたのが良かった。自殺するよりは欺瞞と一緒に生きていくほうがよっぽどマシだよ、ほんとそうなんだよ。

「学校」というものを、人間をして人間に虐待を加えさせる非人間的な空間として描いたのも誠実だった(『言の葉の庭』もそうでしたが)。とくに小学生時代の石田たちはそこでの生存が賭けられていたわけです。(身体的ハンディキャップという目立ちやすい差異を持っているために)真っ先に虐待される側だった硝子は誰よりそのことに敏感だった。しかしハンディキャップの苦悩がこの映画の主要素かというとそうではなく、インコンプリートであることを受け入れること、むしろ自分はコンプリートな(周囲と差異のない、誤らない)人間だという意識こそが差異を積極的にあげつらわせて虐待を生産するんだ、というところまで言えていたのが本当にすごいと思う。学校という非人間的空間を撃つための矢玉が明確。
 だから贖えなさに向き合って自殺未遂にまで至った石田と硝子はインコンプリートとして身を寄せ合っていくしかなくなるし(「生きるのを手伝ってほしい」のセリフの明晰さよ。もしこの映画が「健常者も身体障害者と助け合っていきましょう」というPC映画だったら「手伝わせてほしい」になるはず。もはやここではハンディキャップがあるかどうかは問題でなく、自分がインコンプリートであることを受け入れられるかどうかが賭けられている)、最終的にはあの子たち全員がそれぞれ痛みを負うことによって「正しくない」存在として生き続けるしかない、ところで終わっていた。誠実だし、安易な「癒し」に逃げない映画です(真柴くんだけ傷が浅いように見えますが、彼は漫画版のエピソードが省略されているので一応)。

 この映画が不快だの感動ポルノだの吠えている人たちがいましたが、まあ、そういう人たちがこれから積極的に虐待に加担しないことを願いますよ。自分が清廉潔白だと疑わない、常に正しい判断ができるのだというコンプリートな意識こそが虐待を生産するのだと、他でもないこの映画が言っているのですから。

17.太陽
18.アイアムアヒーロー
19.何者

20.カラテ・キル
 真面目な映画を真面目に作ることの大切さを思い知らされました。21世紀にマンソンファミリーが存在するならスナッフフィルム業者だろうという切り口が新鮮だし、対銃弾の特訓シーンはいとおしくて最高だし、あのサムライとの決闘シーンは燃えるなあ……このプロダクション「マメゾウピクチャーズ」の作品はこれからもチェックしていこうと思います。

21.オデッセイ
 生き延びるには何かを作らなければならない、そしてその創造はウンコから始まるのかもしれない、ってことを描いてくれた映画なので、もう素晴らしすぎる。最後の「リドスコからきみたちへのメッセージ」みたいなくだりも最高。そしてボウイ。ディスコ。“I Will Survive”。カンディード精神。

22.ハドソン川の奇跡
23.サウルの息子

24.キングオブプリズム
 こんなサイケデリックゲイムービー(広義)が21世紀の日本で出てきてくれたことがうれしすぎますよ! 『ロッキー・ホラー・ショー』の末裔ということで「おうえん上映」にも参加したかったのですが、実は最初に通常上映で観たあとあまりにも理性をやられすぎて発狂寸前にまで追い詰められてしまい(どれくらいかというと九九ができなくなったくらい*)、こんなものを何回も観てしまったらおれは狂死してしまうという防衛本能が先に立って1回しか観ることができませんでした申し訳ない。でもこんなに出てくる男の子みんなとエッチしたいって気持ちにさせてくれる映画ってすごいですよ。

25.RACE(栄光のランナー)
「これ史実なのかよ!(喜)」と「これ史実なのかよお……(惨)」が交互に襲ってくるような映画で。あの状態でもロングのように抵抗し続けた人がいただけでも救いと言えるのかどうか、しかしリーフェンシュタールの存在が示しているように「惨禍の当事者であっても表現は抵抗の手段たり得るのか」という問いを提出してくる映画でしたね……あとコーチの存在ひとつでめっちゃブロマンス要素が供給されてたのは、陰惨さだけでない風通しを感じさせてよかった。

26.ペレ
『ストレイト・アウタ・コンプトン』もそうでしたが、アフリカ系の家庭では母親がいちばん強いんだっていうのを自然に見せられると、それだけでぐっときてしまいますね。本編はまるでカンフー映画のようでよかったです。

27.ローグ・ワン
 ドニー・イェンとジャン・ウェンが完全にドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係だったので、それだけでもうたまらんですね。ドン・キホーテ的キャラクターでは「発狂している」「戦うと強い」「弁が立つ」の三要素がまず必要とされるんだけど、今回のドニーさんは「弁が立つ」の要素もちゃんと備わっているのが良かったです(ここをおろそかにしているキャラが多い……)そしてドニー・イェンの最後の見せ場、ただ「歩く」だけのアクションがあそこまで劇的に見えてしまう手際もほんとに見事だと思いました。
 ローグ・ワンおよび同盟軍の戦法が完全にベトナムで、アメリカとしての帝国軍が彼らに一杯(どころか何杯も)食わされる展開も感慨深かった。そういう意味で「非白人映画」になれていたと思うし、そういう映画がディズニーに配給されて観ることができるのも嬉しいなあ。

28.インサイダーズ/内部者たち
29.ルーム
30.マジカル・ガール
31.ブリッジ・オブ・スパイ
32.ブルーに生まれついて

33.バットマンVSスーパーマン
「DCでようやく映画と呼べそうなものが出てきた!!!」って感じですよ! ザックやるじゃんか! 鉄マンの擁護不能なクソっぷりから比べると奇跡のような進歩ですよ。あのクリプトナイトを携えての宣戦布告シーンとか、力技でジャイアントスイングに持って行く流れとか、「いいぞ!」と前のめりにならざるを得ない場面がいくつかあった、これだけでもうすげえ。他のシーンは全部忘れたけど、バートンシュマッカーバットマン以降は完全に虚無のような作品ばかりが続いてきたのを思うとこれはシルバーライニングでしょう。
『スーサイド・スクワッド』は観てません。観るつもりもありません。俺のボヘミアン・ラプソディが汚されたら困るので。というか、あの予告編の段階で「うわ、これ絶対マズいでしょ」と思ったのですが、あの予告編が好評で本編の編集までやり直したらしいじゃないですか。正気? 「既存の音楽を使用した映像」についてずいぶん皆軽々しく考えてるんだなあと、痛感させられた事件ではありました。

34.ドープ

35.ヒッティング・ジ・エイペックス
 いちばん好きなピンク・フロイドの曲のいちばん好きな歌詞がものすごい文脈で引用されてきたので、その瞬間に滂沱の涙が出てしまいましたね……

36.ミスター・ダイナマイト
37.LOVE
38.オアシス:スーパーソニック
39.スティーブ・ジョブズ
40.クリムゾン・ピーク
41.イット・フォローズ
42.ルドルフとイッパイアッテナ

43.ボーダーライン
 終わり方とかすげえよかったんですけど、ドゥニ・ヴィルヌーヴは「カナディアンとしての安全圏から一方的にアメリカの闇を暴く」スタイルをいいかげんやめたほうがいいんじゃないでしょうか。お前の国に対してなんか言うことないの? と思っちゃうんですよね。ドランは『Mommy』でそこんとこ乗り越えたんだぜ。柿の種とブレードランナーがどうなってるかは知らないけど、ちょっと自分の勝てるジャンケンしかしてない感じが鼻に付くのでね。

44.スター・トレックBEYOND

45.ダゲレオタイプの女
 大丈夫、大丈夫。忘れるから。『クリーピー』はよかったから。日仏合作って時点で色々と無理があったんだから、大丈夫。気にしないから。『クリーピー2』作ってくれさえすればいいから。『悪魔のいけにえ2』と同じように名作になるから。
 ……しかし、タハール・ラヒムの顔が『CURE』や『カリスマ』の頃の役所広司と全く同じタイプのダメな顔にされていたので、ほんとに顔を良く撮れない監督なんだと思いましたね……どれだけホラー映画論をこねくり回したって、役者の顔を良く写せていない映画は無価値です。

46.ヒメアノ〜ル
「貧」の映画。搾取しあう人間どうしの貧さだし、こういう映画をなにか意味あるものとして提示してしまえる作り手自身の貧しさでもある。
 しかしまあ、理由のない災害のような暴力が面白いものなんだろうか。無軌道な殺人に詩情や悲哀を抱き合わせる手口はどこまでも安易で、きわめて幼稚。『悪魔のいけにえ』千回みなおして出直せ。彼らには流儀があるし、通行人への暴力の安売りなんかしない。自分のかけがえのない土地に踏み込まれたところで初めて牙を剥くし、そこには詩情だの悲哀だのなんかに接続される余地はない(和解も)。彼らは「他者」だからだ。他者性や流儀なき暴力の安売りが映画になり得ると思ったら大間違いだ。

47.ヘイトフル・エイト
 今まで少なからず持っていたタランティーノへの好意がゼロになるどころか一気にマイナスに振れてしまった。『インターステラー』のような愚かさ、とでも言うべきか。一見開かれたことをやってるフリして救いがたい自閉を抱えているうえに、不注意に観ればそれなりのジャンル映画として見えてしまいそうなところも悪質。言いたかないけど、西部劇ジャンルをなぞりつつさらに新しい要素を実験して奏功している例で言えば『新・日本誕生』のほうがよっぽど西部劇してたよ。

48.ちはやふる 上の句

49.SHARING
「醜い」としか言いようがない。「預言者」でありたいという欲望、スピやオカルトをダシに震災を扱おうという周回遅れのセンス、徹底的に非政治的なものとしか芸術や宗教のモチーフを使うことのできない無様、なにもかもがくだらない。映画にも震災にもそういうふうにしか向き合えないのならもう全部やめちまえ。

50.シン・ゴジラ

 いろんな人がこの映画についていろんなことをくっちゃべっていて、本当に恥ずかしいことに自分もいろいろ余計なことをくっちゃべってしまったのですが、この映画に対して向けられるべき言葉として有効と思われるものは上記の一行だけでした。ただこれだけのことを言うことができずにいろいろ余計なことをくっちゃべってしまったことを十字架にして背負っていこうと思います。



 という感じです。毎年言ってますがまさかこんなにいい映画ばかり観ることができるとは。来年ももっとすごくなるでしょう。
 全世界的に色々と最悪の方向に向かっているとは思いますが、知ったことじゃありません。投ずるべきもの投じて、捨てるべきもの捨てて、この地上にはまだゲラゲラ笑いながら暮らせる場所があることを証明していきましょう。良いお年を。

「無関心性」の罠を撃ち、生存の「技藝」の沃野をひらく(佐々木中著『戦争と一人の作家:坂口安吾論』)

注:引用元の文の傍点箇所はすべて引用時に太字に置き換えた。
  また、佐々木中氏が「芸術」ではなく「藝術」の文字を使用する理由が述べられるのは『切りとれ、あの祈る手を(2010年)』の時点であり、『夜戦と永遠(2008年)』ではまだ「芸術」の表記が使用されている。また、安吾も「芸術」の表記を使用しているため、本稿では佐々木中の「芸術」と佐々木中の「藝術」と坂口安吾の「芸術」のみっつが混在しているが、引用元の文章を最大限尊重するため敢えて表記を統一することはせず、そのままにした。





 佐々木中氏の理路において、『判断力批判』批判は一貫して行われている。

 藝術は無関心性ではない。藝術は利益(関心、interest)に関わらないものではない。藝術が「美的でしかないもの」として、ある檻の中でのみ生存を許されるようになったのはたかだかこの二百年であり、ごく地理的歴史的に限定された事態にすぎない。美術館や博物館に閉じこめられて美だけに奉仕する、生きること自体に関しては二次的な装飾物であり贅沢品でしかない高踏的なものとしてのみ理解される「藝術」は、当然だがすでに問題ではない。ゆえに、「藝術」を否定することにも意味はなくなるーーそれは使い古された手、もはや何の才気も努力も必要としない自堕落なやり口にすぎない。実際、批判的であるにせよ美を単なる制度に還元する考え方は、美を美に対する特定の態度に帰するカント美学の考え方と同形式であり、実は同根である。

『仝――selected lectures 2009-2014』佐々木中著 河出文庫刊 112-113P


 基本的な確認をする。いわゆる「藝術」が出現したのは、一八世紀半ばである。fine art あるいは beaux-arts 〔正確に言えば、beaux-arts というフランス語は十七世紀くらい迄は狭義の藝術概念以外の意味も含んでいた。〕すなわち「美術」 とも訳され、それと同義とされる藝術は、近代の産物である。これは、有用性や利害関係と切断され、「藝術のための藝術」という言い方で明瞭に示されるような、今のわれわれに親しい藝術概念である。それは、地理的歴史的に限定された事態にすぎず、ごく短い歴史しか持たない。ゆえに、「藝術」を否定することにも、もはや意味はない。繰り返すが、美や藝術を単なる制度性に還元して批判する見方は、美を美に対する特定の態度に還元するカント美学の考え方と同形式であるにすぎない。藝術批判は、もはや意味をなさない。

『仝――selected lectures 2009-2014』佐々木中著 河出文庫刊 250P


 この「思考停止」は、要するに現実に「関心=利害」を持たない、カント的な無関心性を導入する手続きにすぎない。美を美として見るためにはそれへの「現実的」な「利害関係」を括弧に入れなくてはならないという例の操作を、安吾はここで行っているだけだ。近代美学では当然の前提とされている例の操作を。人間はどのような場合でもこのような操作を行い、現実を括弧に入れて美をそこに見出すことができる。まさに「退屈」で「陳腐」な操作だ。

『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中著 河出書房新社刊 198P


 これだけでもほんの一部にすぎない。美=無関心性とするカント美学への峻拒は『道徳の系譜学』第三論文におけるニーチェの徹底的な『判断力批判』批判を汲んでいると見ることもできるが、氏の第一作目にあたる『夜戦と永遠』において、藝術と無関心性はすでに「政治的」問題として提出されていた。一九八八年、サルマン・ラシュディ著『悪魔の詩』の出版にことを発したイスラームの反応(シーア派の最高指導者ホメイニからラシュディに下されたファトワー、および『悪魔の詩』日本語翻訳者の五十嵐一氏の何者かによる殺害、などを含む)への言及である。

 気をつけよう、少なくとも八八年のこの時点では、これはイスラーム内部の問題である。たとえばピエール・クロソウスキーの『バフォメット』も、このようなムハンマドを嘲弄するような部分を含む。しかし彼は異教徒であって、イスラームの掟に従う者ではないのだから関係がない。彼らムスリムたちが憤激したのは、同胞であるはずのラシュディが、自らたちを嘲弄してきたヨーロッパ人と同じ語彙、同じ文句を使って自らの社会の枢要をなすフィクションを破壊しようとしたからなのだ。
 これに対して、西欧ジャーナリズムおよび知識人からの反応は、「表現の自由」という理念に準拠するものであった。「表現」は自由でなくてはならず、信仰も自由でなくてはならない。よりにもよってフィクションである小説をその内容によって政治的に、法で裁くなどというのは「法外」なことである。「だって、たかがフィクションではないか」。これが西欧の、そしてわれわれ自身の素朴な観念である。こんなこともわからないイスラームは、だから野蛮なのだ。といわんばかりの論調。それが次々に述べられていくことになる。

『定本 夜戦と永遠』佐々木中著 河出文庫刊 上巻413-414P



 ここでムスリムの精神分析家フェティ・ベンスラマの著書『物騒なフィクション―起源の分有をめぐって』が紹介され、ベンスラマによるウンベルト・エーコおよびミラン・クンデラへの批判*1ーー苛烈にして正当なーーが引用されたのち、氏は続ける。

 なぜ小説が、「フィクション」が「自由」なのか。それが道徳や法や政治と関係がなく、その内容が政治的に問われないのか。このことは自明のことではない。フィクションこそが、そのイメージとダンスと言葉と歌とを総動員して練り上げられる「モンタージュ」こそが、政治的なもの、社会的なもの、なによりも宗教的なもの、そして主体の形成の「装置」そのものだった。世俗化という「策略」、神の死という「フィクション」を戦略的な条件として捏造することによって、ヨーロッパは自らの国家を「戦略兵器」に変え、グローバリゼーションすなわち世界の西洋化、もっと言えば「キリスト教化」を行ってきたということはすでに見た。そこでテクストは刈り込まれ、塞き止められ、去勢された。そこでヨーロッパは、法学と神学の分離に始まる近代的な理念の設立にあたって、<政治的なもの>と<美的なもの>を切り離したのだ。実は国旗や国歌、宣伝やプロパガンダなどという形でそれを「後ろ手で」操っているにもかかわらず、自分はそのようなイメージの権力の野蛮さとは縁がないと思い込んできたのだ。

『定本 夜戦と永遠』佐々木中著 河出文庫刊 上巻 416P



『悪魔の詩』事件はたんに「芸術の問題」なのではない。演劇・小説・詩などのテクストから政治的機能を削除する美学的見地、それは「ごく地理的歴史的に限定された事態にすぎず」、政治的テクストの客観的・合理主義的な還元というヨーロッパのバージョンの管轄下にあるものにすぎない。その美学的見地に立った「知識人」たちはイスラーム(当然ながら彼らはそのような理念など共有する必要がない)と遭遇し、あらかじめ政治性が消去された自らの「表現の自由」を見ることになった。よってエーコやその他有象無象の「表現の自由」擁護は、他ならぬ彼ら自身の盲目がイスラームとの遭遇により明らかにされたということでしかない。

「ヨーロッパのバージョン」と繰り返したが、この盲目は日本語圏で読み書きする我々とも無縁ではない。佐々木中氏がヨーロッパの知識人たちの「表現の自由」への自閉を言い当てる際に「西欧の、そしてわれわれ自身の素朴な観念(強調引用者)」と書いていたことを読み落とすまい。われわれはいつの間にか、<政治的なもの>と<美的なもの>とを切断する思考に慣れきっている。げんに今夏、「音楽に政治を持ち込むな」という噴飯モノの意見に対してどこぞのおぼっちゃんが(よりにもよってドゥルーズ=ガタリの戦争機械概念を持ち出して)「音楽は基本的に反体制」という卒倒モノの反論をするという、茶番と呼ぶも愚かな一幕が演じられたばかりだ。*2 やや脱線するが、音楽から政治性を削除することは不可能である。それは切り離せるものではない。ジョン・ケージの理路によれば、肉体的に存在する限り音楽は死に絶えることがない。ゆえに政治的であることをやめたいのなら生命活動を停止しなければならない。ごく簡略に書いたが、これは筆者が現在準備中の非美学的ダンス論において検討予定の理路であり、ここでは詳述しない。話を戻す。


 2016年2月に刊行された佐々木中氏の最新刊『戦争と一人の作家:坂口安吾論』では、『堕落論』『続堕落論』における安吾自身の美学的=非政治的態度への自閉が浮き彫りにされてゆく。「天皇制」に「独創的な」「政治的作品(カラクリ)」を認め、「健全な道義」から「堕落」せよと言い、「堕落は制度の母胎」なのだと述べる安吾は、なぜかその結果として政治性を削除してしまう。

 つまり、安吾にとって、安吾の「堕落」以前の「天皇制」「武士道」は「政治」的な「案出」「独創」「カラクリ」であるが、この「堕落」以後の「自分自身の武士道、自分自身の天皇」は「政治」的「独創」であっては困るのだ。旧い「独創」は「制度」であり「政治」だが、新しい「独創」は「制度」であってもいいが「政治」であっては困る。厳密に読めば、どうしてもそういうことになる。

『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中著 河出書房新社刊 160P



 作家:坂口安吾が戦前戦中戦後において奇妙なまでに陥り続けた非政治的=美学的態度への問い糺し。『戦争と一人の作家』の理路はこのひとつに貫かれていると言って過言でない。もちろん晒し上げや痙攣的な批判といった過誤は注意深く避けられているが、特攻という強要された現実を見ずに「美に惑溺」し「殉国の情熱」を見ようとする安吾の態度を「不可能であらうし間違ってゐる」と一刀両断にする冷徹ささえ息づいているのだ(131P)。「安吾的思考」と「安吾的語彙」を徹底することで坂口安吾自身を批判するという、かつてフーコーが「ニヒリズム」のニーチェ的用法を徹底することでニーチェ自身(とハイデガーの拡大解釈)を批判したあの瞬間のような、怖気を感じずにはいられないほど徹底された原典への読みに裏打ちされた論旨が進行する。

 政治を論ずるかに見えて最終的には「政治」を消去する作家、坂口安吾。その果てに彼は「戦争」に「美」を見ることになった。安吾の美学的倒錯は『続戦争と一人の女』において一挙に指摘される。

 安吾は「不具の女」に、その性的享楽の代替物としての戦争を与える。戦争はそこで美しいものとなり、享楽さるべきものとなる。みずからを殺し、いつかは「強姦」するかもしれない戦争を。そこでは虐殺も暴力も特攻隊も肯定される。女自身が「バクダン」なのだから。どころか、女の「食慾をそゝる、可愛いゝ、水々しい小さな身体」自体が「戦争」なのであり、存分に男は「オモチャ」にして「しやぶつて、からみついて」いることも出来る。女は「一時的に亢奮し、感動」し、そしてそれについて知的な理解をもたない。男は女の非合理性に圧倒されつつ、しかし知性は野村にあり、女は無知である。「女は……正体をさとらなかつた」「女だけが知らないだけだ」。だが、言おう。安吾だけが知らないのだ。無知なのは安吾だ。この女の矛盾と暴力性と不具性が、安吾自身のものであることを。安吾が投影しているにすぎないことを。
 戦争を愛し、空襲を愛し、強姦されることを望み、不具であり、無知であり、非合理であり、凶暴であり、肉体そのものであり、ーーそして「白痴」の女がそうだったように白痴であり芋虫であり、「桜の森の満開の下」の女がそうだったように暴虐であり鬼であり、「夜長姫と耳男」の夜長姫がそうだったように残虐であり高貴でもある、こうした矛盾をすべて「女」に投影し拝跪するーーあるいは玩弄する、同じことだーーという所作は、むしろ近代文学では凡庸な手口にすぎない。安吾の倒錯的な「美としての戦争」は、遂にここに帰着する

『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中著 河出書房新社刊 185-186P



 そして、戦争を「気楽なそして壮観な見世物」として享楽する安吾の「思考停止」こそが、現実に関心=利害を持たない、カント的な無関心性を導入する手続きにすぎない(198P)と指摘され、「常に傍観者、又、弥次馬の一生であった」と述べる安吾の態度こそが彼をして(小説において)ファルスを書くことを失敗させていたと論は進む。
「傍観者」で「弥次馬」である安吾の態度こそが「美学的無関心」を、「優越」を保証するのだから、安吾はつねに誰が誰を突き放すかが曖昧なままだった。「ファルスは、定義上、その作者をも、いやその作者をこそまず「突き放し」「笑う」ものではなくてはならない。だから、彼の作品には「坂口安吾」が登場しなくてはならない(201-202P)」と一息に安吾の不徹底が宣告される箇所などは、そのあまりの容赦のなさに眩暈を覚えるほどだ。

 では、安吾はついにファルスを書き得なかったのか。そうではない、安吾のファルスの最高傑作は別にあると氏は言う。そしてそれは小説ではない。死の二年数ヶ月前、一九五二年十月に発表されたエッセイ『もう軍備はいらない』である。

もう軍備はいらない - 坂口安吾(青空文庫)

 自分が国防のない国へ攻めこんだあげくに負けて無腰にされながら、今や国防と軍隊の必要を説き、どこかに攻めこんでくる兇悪犯人が居るような云い方はヨタモンのチンピラどもの言いぐさに似てるな。ブタ箱から出てきた足でさッそくドスをのむ奴の云いぐさだ。


 しかるにそこの貧乏オヤジは泥棒きたるべしとダンビラを買いこみ朝な夕なネタバをあわせ、そのために十八人の子供のオマンマは益半減し、豊富なのは天井のクモの巣だけ、そのクモの巣をすかして屋根の諸方の孔から東西南北の空が見えるという小屋の中でダンビラだけ光ってやがる。


 高い工業技術とか優秀な製品というものは、その技能を身につけた人間を盗まぬ限りは盗むわけにはゆかない。そしてそれが特定の少数の人に属するものではなく国民全部に行きたわっている場合には盗みようがない。
 美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう。すくなくとも、その国が自ら戦争さえしなければ、それがこわされる筈はあるまい。
 このような生活自体の高さや豊かさというものは、それを守るために戦争することも必要ではなくなる性質のものだ。有りあまる金だの土地だのは持たないし、むしろ有りあまる物を持たずにモウケをそッくり生活を豊かにするためにつぎこんでいる国からは、国民の生活以外に盗むものがない。そしてその国民が自ら戦争さえしなければ、その生活は盗まれることがなかろう。
 けれどもこんな国へもガムシャラに盗みを働きにくるキ印がいないとは限らないが、キ印を相手に戦争してよけいなケガを求めるのはバカバカしいから、さっさと手をあげて降参して相手にならずにいれば、それでも手当り次第ぶっこわすようなことはさすがにキ印でもできないし、さて腕力でおどしつけて家来にしたつもりでいたものの、生活万般にわたって家来の方がはるかに高くて豊かなことが分ってくるにしたがってさすがのキ印もだんだん気が弱くなり、結構ダンビラふりかざしてあばれこんできたキ印の方が居候のような手下のようなヒケメを持つようになってしまう。昔からキ印やバカは腕ッ節が強くてイノチ知らずだからケンカや戦争には勝つ率が多くて文化の発達した国の方が降参する例が少くなかったけれども、結局ダンビラふりまわして睨めまわしているうちにキ印やバカの方がだんだん居候になり、手下になって、やがて腑ぬけになってダンビラを忘れた頃を見すまされて逆に追ンだされたり完全な家来にしてもらって隅の方に居ついたりしてしまう。
 もっともキ印がダンビラふりまわして威勢よく乗りこんできた当座はいくら利巧者が相手にならなくとも、相当の被害はまぬがれない。女の子が暴行されたり、男の子が頭のハチを割られ片腕をヘシ折られキンタマを蹴りつぶされるようなことが相当ヒンピンと起ることはキ印相手のことでどうにも仕方がないが、それにしてもキ印相手にまともに戦争して殺されぶッこわされるのに比べれば被害は何万億分の一の軽さだか知れやしない。その国の文化水準や豊かな生活がシッカリした土台や支柱で支えられていさえすれば、結局キ印が居候になり家来になって隅ッこへひッこむことに相場がきまっているのである。
 腕力と文明を混同するのがマチガイのもとである。原子バクダンだって鬼がふりまわすカナ棒の程度のもので、本当の文明文化はそれとはまるで違う。めいめいの豊かな生活だけが本当の文明文化というものである。
 国防のためには原子バクダンだって本当はいらない筈のものだ。攻めこんでくるキ印がみんな自然に居候になって隅ッこへひっこむような文明文化の生活を確立するに限るのである。五反百姓の子沢山という日本がこのままマトモに働いて金持になれないというのは妄想である。有り余るお金や耕しきれない広大な土地は財産じゃない、それを羨む必要はないのである。そして国民全体が優秀な技術家になることや、国そのものが優秀な工場になることは不可能ではなかろう。



 国防の手段を外交ではなく「生活」の豊かさに求め、「美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう」と述べる安吾。ここで安吾は美学的態度を脱している。なぜなら、この「生活の芸術」は、徹頭徹尾戦争という現実への対抗として、戦争によっては決して破壊できないものとして構想されているのだから。


 おそらく、『戦争と一人の作家:坂口安吾論』は、戦前戦中戦後において美学的領野に自閉することで特権的に無関心であろうとした、一人の男の不可能の記録である。「常に傍観者、又、弥次馬の一生で」あろうとした坂口安吾は、自らの小説にその態度を持つことの不可能性を露わにし続けた。無理がある話だったのだ。戦前戦中戦後どの時にかかわらず、ただひとり「傍観者」「弥次馬」で在れる者などいるはずがない。安吾が保持せんとした「美学的無関心」の「優越」は、彼自身の小説の執筆によって破産を露わにした。

 あまりにも多くのことを、この論旨から引き出すことができるだろう。冒頭に述べた「表現の自由」という「西欧の、そしてわれわれ自身の素朴な観念」は安吾の言う「生活の芸術」から政治性を削除された姿ではないのか、<政治的なもの>と<美的なもの>との切断を前提として「藝術」を無力化しているのは我々の自作自演ではないのか、いつまで「ヨーロッパのバージョン」の猿真似に付き合わなくてはならないのか、等。


 いずれにせよ、我々は「美学的無関心」の「優越」の保持が不可能であることに逢着した作家の姿に立ち会った。安吾自身の蹉跌に、他ならぬ我々自身の姿を重ねて見るべきだろう。来たるべき民主制を求める人々を嘲笑し、デモや抗議活動を「やりすぎだ」と冷笑し、選挙活動で大敗した側を「結局無駄だったじゃないか」と罵倒する我々の姿が、安吾の言う「傍観者」「弥次馬」の姿に似ていはしないか、何度でも自問してみるべきだろう。そのような「傍観者」の「弥次馬」の、後出しの「優越」などありはしなかったと、あの坂口安吾自身の蹉跌が教えているというのに。弁証法によって「歴史の終わり」に立ったヘーゲルでさえ発狂の危機に見舞われ、「(ヘーゲルは)自分がどれほどまでに正しいのかわからなかった」とする冷徹な言葉がバタイユによって投げられているというのに。事の終わりに際して勝ち馬に乗ろうとする我々自身の怯えきった挙措に「自分がどれほどまでに正しいのかわからなかった」という言葉が差し向けられてはいないか、そう自問し続けることは常に何ものかでありうる。ことにヘーゲルを批判的に継承したマルクス主義がスターリニズムとマオイズムによって失敗し、ヘーゲルに代わる別の政治哲学の案出が求められているこの世紀においては。


 冒頭の引用に戻ろう。「藝術は無関心性ではない。藝術は利益(関心、interest)に関わらないものではない。藝術が「美的でしかないもの」として、ある檻の中でのみ生存を許されるようになったのはたかだかこの二百年であり、ごく地理的歴史的に限定された事態にすぎない」。ここで「げいじゅつなんていかにもナイーブな」と相変わらず美学的領野に自閉するなら、それは「藝術」の語源を辞書で引くことすらしない盲目を自白すること以外の何かではない。引用しよう、「藝術(art, Kunst)は、ラテン語ではアルス(ars)といい、これはそもそもギリシャ語のテクネー(τεχνη)の翻訳語である。煎じ詰めて言えば、これは自然(nature, Natur, Natura, φύση)の内部で、時にはそれに抗して生き延びることを可能にする、「技藝」、あるいはより踏み込めば「工夫」とも訳すべき語である」。生存のための技藝、それこそが今問われている、賭けられているものである。当然ながらそれは政治的制度の新たな案出も含まれる(制度の創造から政治性を削除しようとして不可能に直面し、ついに「生活自体の高さや豊かさ」に国防の手段を見出すことになった安吾の姿をすでに見たではないか)。
 藝術作品をたんに「美的でしかないもの」として考える思考はすでに問題になっていない。作品と政治性を分断可能であるとする思考もすでに問題になっていない。「変革可能な生の様式」としての技藝を説き、二〇一三年に『はだしのゲン』を「生き延びるための藝術を信じている」作品として賛辞を尽くし、そして現在京都精華大学にて教鞭を取っている、佐々木中の去就は完全に一貫している。


 我々は今年、『ズートピア』があらゆる形式でアメリカに潜在する差別意識を痛撃し、『新・のび太の日本誕生』がこの列島に住まう人々の混血性を肯定し、そして『この世界の片隅に』が惨禍においても生存の藝術を求め続けるのを見た。これらの作品を前にして相変わらず「作品に政治性を持ち込むな」と喚き続けるのなら、もういい。そのような「高踏的なものとしてのみ理解される「藝術」は、当然だがすでに問題ではない」とする引用から本稿は始められているのだから。しかし、「作品」からの政治性の削除を可能だと思い込み、「コンテンツ」論だの「フィクション」論だのをこねくりまわして内輪のおしゃべりに終始することが「知識人」の振る舞いだと信じて疑わない挙措は、他ならぬその「作品」自体によって逆襲されるだろう、とだけ言っておく。本稿は生き延びるための技藝を求め続ける、ピエール・ルジャンドルの冷厳な言葉を引用して終わることにしよう。

「いま、思考というよりも管理経営として現れている<科学>」、この「<全体的科学>の幻想に抗して、われわれは<芸術>の向かい火を絶やすことはない」

『定本 夜戦と永遠』佐々木中著 河出文庫刊 上巻463P








*1……  ベンスラマの批判まで全文引用すると稿が煩雑になるので省略したが、これについてはpdfで閲覧可能な『イメージ・テクスト・エンブレム』に詳しい。

*2……  ほかならぬドゥルーズ=ガタリ自身が「いわゆる全面戦争とは国家による企てというよりも、むしろ国家を手中に収め、絶対戦争の流れを国家に貫通させる戦争機械が企てるもの」*2-1として「もはや戦争以外に目的をもたない戦争機械(=ナチス)」を規定し、「イタリアのファシズムがヴェルディを利用したとしても、それはナチズムがワーグナーを利用したのに比べるとはるかにつつましやかなものだ」「この問題はまさに音楽の問題なのであり、技術的な意味で音楽の問題なのである。音楽の問題だからこそ、なおさら政治がかかわってくるのだ」*2-2と述べている。ここで今更ナチスほどに藝術(音楽、ダンス、映画、服飾……)の政治利用に長けていた国家はなかった、などと確認するまでもあるまい。彼ら自身が書いているように、藝術の技術的・政治的利用こそが戦争以外に目的をもたない戦争機械の惨禍を招いたのだから、これらの問題系はドゥルーズ=ガタリはもちろんジョン・ケージ、そしてピエール・ルジャンドルのダンス論『La Passion d'être un autre』の理路から何度でも考え直されなくてはならない。それを言うに事欠いて「音楽は基本に反体制」「知的・芸術的であることは反体制」「それ知らないと20世紀大衆文化もわかりません」と一面的に「反体制」に矮小化されたなにかを言い募るばかりか、先述の問題系を一切顧みることもなしにTwitter上で「教えねばならんなあ」などと脂下がるとは、夜郎自大な不勉強のなせる技としか言いようがない。より直裁に言えば、藝術や音楽の力を安く見積もって知ったかぶりをしたいのならドゥルーズ=ガタリなど読む必要はない。

*2-1 『千のプラトー』ドゥルーズ=ガタリ著 宇野邦一ほか訳 河出文庫刊 中巻 143P
*2-2 『千のプラトー』ドゥルーズ=ガタリ著 宇野邦一ほか訳 河出文庫刊 中巻 381P



届けられてしまったからには:アイカツスターズ!『Dreaming bird』讃


:あらすじ:
 西暦2016年11月22日(火)、1枚のCDが人類のもとに届けられた。『Dreaming bird』の全容を収録した『アキコレ』は、瞬く間に世界人類の耳と脳を痛撃した。
「屹度、この偉大な曲を讃えるためには何万人もの人々が何万語もの言葉を費やしてもなお足りぬ。」そう確信した甘粕は、フューチャリングとしてワタヴェのしたたり氏を迎え、23日(水・祝)、『Dreaming bird』に導かれるままにSkypeにてセッションを開始した。
 以下の4つのノートは、『Dreaming bird』を、「彼女」を讃えるための6時間半にわたるマラソンセッションの記録である。


Pt.1 その歌詞と編曲
Evernote ・ pdf
・歌詞(全休止・途絶・消尽)
・歌唱ディレクションの徹底(vocal contractor)

Pt.2 南田健吾讃
Evernote ・ pdf
・『アイカツ!』における「ロック」なるもの
・編曲家:南田健吾の方途
・ギタリスト出身の作編曲家

Pt.3 書物は人を発狂させる
Evernote ・ pdf
・本をめぐる描写、その対比
・<文学者>白銀リリィ
・セルバンテス、シェイクスピア、白銀リリィ
・『アイカツスターズ!』の博徒たち
・藤堂=持田・二階堂=白銀

Pt.4 誰でもない者の薔薇
Evernote ・ pdf
・『アイカツスターズ!』の光学
・「Now I’m here」「Now I’m there」
・「きっと誰かがのちに楽譜(スコア)に起こすさ」
・届けられてしまったからには

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 どういう小説か、というのは「自注」に全部書いてあるのでここで書くことはないのですが、去年の夏に短編でリハビリをして、今年の夏にとりあえず100枚以上のものは書けて、ようやく処女作と呼べそうなものが編めたかなくらいのことは思っています。

 あなたと言葉のバイブスが合い、本を届けられることを想っています。一番大事なのは、バイブスが合うことですので。

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