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あらゆる天使は恐ろしい(アイカツスターズ!『荒野の奇跡』を読む)


 かならず『アイカツスターズ!』2ndシーズン挿入歌ミニアルバム『Fantastic Ocean』を購入してから本稿をお読みください。ここにリンクを貼ることはしません。「こいつアフィリエイトで稼ぐつもりだな」と思われたらイヤだからです。



『荒野の奇跡』
作詞:tzk 作曲・編曲:南田健吾 (onetrap)
歌:ななせ from AIKATSU☆STARS!

【目次】

◎前提:『荒野の奇跡』は白銀リリィではない
◎『荒野の奇跡』構成表[チャプター]
◎4つのモチーフ「天使」・「讃歌」・「下降」・「生命の有限性[mortality]」
◎「天使」如何
◎「天使」「有機体[mortal]」そして「物」
◎破線になる話者(1番Aメロ・Bメロ・サビ)
◎下降、飛翔のためでなく




◎前提:『荒野の奇跡』は白銀リリィではない

『Poppin’ Bubbles』『Summer Tears Diary』の作曲者であるミトさんが、とある対談でとても重要な指摘をしています。「『アイカツ(スターズ)!』の楽曲はキャラクターを演じる声優が歌わない」「声優と歌唱担当とがそれぞれ別個に存在している」ことについての言及です。それを引き取って対談相手(さやわか)は以下のように続けています。

 自作自演で曲を作ったその人が心情の載った曲を歌うという、シンガーソングライター的なものを尊ぶ価値観からするとありえないことなんですよね。アニメと歌っている人が切り離されているのであれば、それは声優とも切り離されている。それをやった結果、いまミトさんがおっしゃったように二層の、それぞれ分裂した場所にファン層ができて構わないということになったわけですよね。
「キャラクターの歌声と音楽の場所」ユリイカ2016 9月臨時増刊号 105P


 ここで言及されている通り、『アイカツ(スターズ)!』の楽曲はいわゆる「キャラソン」とは別の意味合いを帯びています。まず劇中のキャラクターがパフォーマンスするための楽曲である、が、それを歌う声は本編でキャラクターを演じている声優とは別の人である。さらに作詞者はそれぞれの楽曲で異なり統一されていないので、たとえば「演技も歌唱も声優が担当」「すべて1人の作詞者(畑亜貴)で統一」という方針の『ラブライブ!』シリーズとは真逆の特性です。
 であるからこそ、『アイカツ(スターズ)!』シリーズの楽曲は奇妙に多層な声を持つことになります。もっと言えば、「この曲はこの人のものだ」とひとつの人称に固定しようとすると必ずそこから遁れてゆくような非人称性を結果として持っている、と言えるでしょう。この特性については以前『Dreaming bird』について行ったセッションの中でも少し触れましたが、ここでも結果的に白銀リリィという単一の人称ではなく『彼女』という誰でもない者のほうへ導かれていったことを思い出せば、『アイカツ(スターズ)!』の楽曲(の詞)を単一の人称に回収しようとするのが如何に不毛なことか実感されます。

 そもそも歌うこと・詞を書くことは自分自身の心情を吐き出すこととイコールではありません。「内面」の「叫び」とかいうものが良い歌になることはありません(それだと単なる「自分語り」になってしまいます)。『アイカツ(スターズ)!』の楽曲はそのような人称的なものから遁れてゆく特性を持っていることは先に述べました。よって、『荒野の奇跡』を読むにおいて「命を削って歌っている白銀リリィ」とかいうわかりやすく感動的な姿にすがるのも避けるべきでしょう*1。むしろ「歌手」とはもはや自分自身とは言えない別の精神を引き受ける仕事を続けている人のことなので、それを無視して「これは白銀リリィによる白銀リリィのための歌なんだ」と思い込んでしまうことは、かえって彼女自身への礼を失することになります。

 なので、「『荒野の奇跡』を読む」と題されたこの原稿は、『荒野の奇跡』を担っている白銀リリィ・作編曲者である南田健吾・作詞者であるtzk・その歌唱担当である松岡ななせ・たちの創意の結果として生まれた作品を読む私・という数えられない数の誰かたちが持ってきた札をひとつの卓の上に集めていく、そういう作業の記録になると思います。それ以外の方法でこの楽曲を読むことは不可能だと思われるからです。
 前置きが長くなっています。早速始めましょう。


【凡例】
・『荒野の奇跡』の歌詞はどこで改行するか、どこにスペースを入れるかひとつで意味が大幅に変わる特性を持っているため、文中での引用も歌詞カードの表記に準拠する。歌詞カード中の改行箇所は全角スラッシュ「/」で表記する。
・特定の作品名は『』、歌詞カード・文献からの引用は “” 、また本稿で一般的なものとは意味をずらして使用している語句は「」でくくって表記する。
・fc2ブログにはルビ機能がないため、語句にルビを付す場合はその直後に [] で表記する。




◎『荒野の奇跡』構成表[チャプター]

(ここからはお手元に『Fantastic Ocean』の歌詞カードを用意した上でお読みください。CDをまだ買ってない? 買ってください。)

[0:00]イントロ(コロス1)
[0:16]1番Aメロ
[0:33]コロス2
[0:42]1番Bメロ
[0:56]1番サビ
[1:41]コロス3
[1:50]2番Aメロ
[2:07]コロス4
[2:15]2番Bメロ
[2:31]2番サビ
[3:00]Cメロ
[3:47]最後サビ
[4:31]アウトロ(コロス1)


 Aメロ・Bメロ・サビという構成はオーソドックスですが、たびたび挿入される5拍子の朗唱パートが耳を引きます。ここでは当該パートを仮に「コロス」と呼称します。『エレクトラ』とかのギリシア悲劇に出てくる、主要登場人物にかわって背景を解説したり囃し立たりする声の連なりのことです*2
『荒野の奇跡』が収録されているCD『Fantasitic Ocean』のクレジット欄には「Chorus: 松原さらり(onetrap), 國土佳音(onetrap)」という2名の女性コーラスがクレジットされているので、おそらくこの2名がコロス部の朗唱を担当しているのでしょう。メインボーカルは白銀リリィの歌唱担当たる松岡ななせですが、それとはまた別の声が入っているわけです。よって、Aメロ・Bメロ・サビ(メインボーカル)とその間に挿入されているコロス(コーラス2名)は、歌詞のうえではそれぞれ別の話者による詞だと考える必要があるかもしれない、ということです。


◎4つのモチーフ「天使」・「讃歌」・「下降」・「生命の有限性[mortality]」

 さて、歌詞全文を読んでみましょう。一読すると、全編を通していくつか共通のモチーフが歌われていることに気づきます。

⑴「天使」
“その昔 勇気を胸に 荒野へ舞い降りた天使は/白い羽根を大地に蒔いて 花に変えた”(1番Aメロ)
 まず「天使」ですね。冒頭から登場します。この「天使」がどの意味でのどういう「天使」をさすのか、については後々言及します。

⑵「讃歌」
“いつか花ひらく生命のため ただ希望を 歌ってみたい”(1番サビ)
 この曲自体が何かへの讃歌のようでもありますが、この詞中の話者がいったい何者で何者に対して讃歌を捧げているのか、については後々言及します。

⑶「下降」
“花たちに生命吹き込むように雨よ降れ”(2番Bメロ)
 じつはこれが一番重要なモチーフです。2番に登場する「雨」をめぐる描写もそうですが、サビ冒頭の “抗えぬ力に寄り添いながら” の一節も重要です。

⑷「生命の有限性[mortality]」
“誰もがいつの日か土へと還る”(2番サビ)
 これは本当ならひとつの単語で書きたかったのですが、「無常」と書くと意味が正しく伝わらないおそれがあるので敢えて「生命の有限性[mortality]」と表記しました。これについて注釈しておきましょう。
「無常」「諸行無常」の語には、本来「ああ、人はみんな死んでしまう、人生は儚いなあ」などの詠嘆が入り込む余地はありません。「この世の現象すべてには終わりがある」と端的な事実だけを述べているのであって、「儚いなあ」と詠嘆するタイプの日本的な無常観というのは、はっきり言ってろくでもないものです。先ほど私が “「命を削って歌っている白銀リリィ」とかいうわかりやすく感動的な姿にすがるのも避けるべき” と書いた理由の一端もここにあります。この「無常[mortality]」はそもそも情緒的なものではない。
 では mortality とは何か。簡単です。もやし。スーパーで30円とかで売ってるもやしのパックを、冷蔵庫に入れずに台所に数日間放置したら、痛んでべちょべちょになって料理には使えなくなりますよね。それのことです。有機体の定義としての「死すべきもの[mortal]」ということです。この定義は『荒野の奇跡』の詞では「人間」のみならず「鳥」「花」にも適用されていて、それら有機体は「死すべきもの[mortal]」と定義されるものとして平等に扱われていると読むことができます(後述)。


◎「天使」如何

 さて、これらのモチーフの中でまず ⑴天使 に注目しましょう。「天使」といっても一般名詞的なものからアブラハム宗教的なものまで色々あります。この辺をごっちゃにしたまま読むと混乱をきたすので、まず『荒野の奇跡』での「天使」がなにものか、について考えておきます。

 あれはたしかTwitterだったと思いますが、「『荒野の奇跡』の天使とは楽園を追われた存在のことである」という大意の読みを見たのですが、私は「そうかなあ」と思います。たぶん創世記のことを言っているのだと思いますが、そこでは天使(ケルビム)はむしろ追放されるのではなく追放する側ですよね(“こうして、神ヤハウェは人を追放し、生命の木にいたる道を守るため、エデンの園の東にケルビムと揺れ動く剣の炎を置いた” *3。 あるいはルシファーの堕天のことを言ってるのかもしれませんが、白銀リリィが担っている星は冥王星なので、ルシファー=金星と重ねて見るのは無理がある気がします(エルザ フォルテとその曲『Forever Dream』が金星的、という話ならとてもしっくりきます。エルザは智慧と傲慢と誘惑の人なので、ひじょうにルシファー=金星的人物と言えます)
 詞を読むと、『荒野の奇跡』の天使は 1:荒野へ舞い降り、白い羽根を大地に蒔いて花に変えた 2:嵐を呼び、雨を降らせる などいくつかの営為を担っていることがわかりますが、これらを行う天使の姿はもちろん先述の創世記の記述と異なります。よって、アブラハム宗教的な天使を『荒野の奇跡』の「天使」と同一視するのは有効な読みではないと思われます。

 では、どうするべきか。ここではリルケの連作詩『ドゥイノ・エレギー』を参照します。どうして急にリルケが出てくるのか、恣意的な参照ではないかと思われるかもしれませんが、この詩を持ってきたのには明確な理由があります。先述した4つのモチーフ「天使」・「讃歌」・「下降」・「生命の有限性[mortality]」は、『ドゥイノ・エレギー』にも共通して登場するからです。まずはこの詩と『荒野の奇跡』の両方とを読み比べながら、われわれの読解における「天使」「有機体[mortal]」そして「物」の関係を見ていきましょう。


◎「天使」「有機体[mortal]」そして「物」

 誰が、私が叫んだとしてもその声を、天使たちの諸天から聞くだろうか。かりに天使の一人が私をその胸にいきなり抱き取ったとしたら、私はその超えた存在の力を受けて息絶えることになるだろう。美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称讃するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。
『ドゥイノ・エレギー』第1歌 古井由吉訳



“あらゆる天使は恐ろしい”。『ドゥイノ・エレギー』で最も有名と思われるこの一節ですが、この詩の「天使」は絵画作品にあるような美しいだけのものでは、あるいはチョコボールのクチバシについているような可愛らしいものではないとされている。なぜ “恐ろしい” のか。それは有機体[mortal]たる人間が天使に抱かれたとしたら息絶えてしまうような、格の違う美を持っているから。第1歌によれば、この世に現れ出ている “美しきもの” を有機体[mortal]が称讃できるのは、天使(の美)がまだ有機体[mortal]を “滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみ” ない限りにおいてのことだ、と歌われています。

 第1歌では他にも「鳥」「春」「音信」など重要なモチーフが登場していますが、われわれは「天使」の読解に集中しましょう。第2歌ではいよいよ「讃歌」のモチーフが登場します。
“あらゆる天使は恐ろしい。それであるのにわたしは、哀しいかな、御身たちを、人の命を奪いかねぬ霊鳥たちよ、その恐ろしさを知りながら、誉め歌った” 。この “わたし” も有機体[mortal]には違いありません。一体どうすれば、生命に限りのある人間が天使たちを褒め称えることができるのか。一気に飛んで第9歌、そこでは「称讃」の手段として「物」が歌われています。長いですが一挙に引用します。一文字も読み落さないでください。

 天使に向かってこの世界を称讃しろ。言葉によっては語れぬ世界をではない。壮大なものを感じ取ったとしても、天使にたいしては誇れるものではない。万有にあっては、より繊細に感受する天使に較べれば、お前は新参者でしかない。単純なものを天使に示せ。世代から世代へわたって形造られ、われわれの所産として、手もとに眼の内に生きるものを。物のことを天使に語れ。天使はむしろ驚嘆して立ち停ることだろう。お前がいつかローマの縄綯[なわな]いのもとに、ナイルの壺造りのもとに足を停めたように。天使に示せ、ひとつの物がいかに幸いになりうるか、汚濁をのがれてわれわれのものになりうるかを。悲嘆してやまぬ苦悩すらいかに澄んで形態[かたち]に服することに意を決し、物として仕える、あるいは物の内へ歿することか。その時、彼方から伴う楽の音も陶然として引いて行く。この亡びることからして生きる物たちのことをつぶさに知り、これを称[たた]えることだ。無常の者として物たちは救いをわれわれに憑[たの]むのだ、無常も無常のわれわれに。目には見えぬ心の内で物たちを完全に変化させようではないか。これはわれわれの務め、われわれの内で、ああ、はてしのない務めだ。われわれが結局、何者であろうと。
『ドゥイノ・エレギー』第9歌 古井由吉訳



「天使」は有機体[mortal]には堪えきれないほどの美を持っているはずの存在でした。その「天使」を立ち停らせるためには「物」のことを語らなければならないという。どういうことなのでしょうか。「天使」と比べて有限な存在である有機体[mortal]がつくりだした「物」(“ローマの縄”・“ナイルの壺”)に「天使」が “驚嘆して立ち停る” とは。

 整理しましょう。 mortal は美において「天使」に劣っている。その mortal のつくりだした「物」も同様に劣っているのかもしれない。しかしここにこそ転倒があるのではないでしょうか。有機体[mortal]がそもそも「天(使)」の創造[create]した被造物[creature]にすぎなくて*4、ただ劣っているだけの存在だとしたら、一体どうして「天(使)」と同じ創造[create]する力を持つことができたのでしょうか。有機体[mortal]が作り出した「物」が同様に有限な亡びやすいものだとしても、そうして生まれた「物」を示すことは「天(使)」が有機体[mortal]を創造[create]したのと同じ力を他でもない被造物[creature]が持っていた、そのことを証明する結果になります。となれば「天使」は “驚嘆して立ち停る” ことしかできなくなるでしょう。脈絡はついています。そして他ならぬ白銀リリィは、虹野ゆめは、いや『アイカツスターズ!』に登場するすべてのアイドルたちは創造行為に取り組んでいたのでした。自分でデザインしたドレスに「星のツバサ」を降ろすために。*
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『ドゥイノ・エレギー』第9歌における「天使」「有機体[mortal]」「物」の関係性


◎破線になる話者(1番Aメロ・Bメロ・サビ)

 このあたりでよろしいでしょう。『荒野の奇跡』1番の歌詞を読みます。
 1番Aメロは “その昔” という歌い出しで始まります。口伝の決まり文句ですね。ここでの話者を仮に「語り部」と呼ぶことにしましょう。 “勇気を胸に 荒野へ舞い降りた天使は” と三人称で話していることから、すくなくとも「語り部」は「天使」ではないことがわかります。『ドゥイノ・エレギー』と同じ、有限であるがゆえに「天使」のことを褒め歌う人間、でしょうか。

 Bメロを飛ばしてサビの歌詞を読みます。ここでの話者は “傷ついた翼をふるわせながら/それでも羽ばたいてわたしは生きる” と歌っていることから「天使」であることがわかります(そもそも翼がついていない人間が “ふるわせ” たり “羽ばたい” たりできるわけがありません)。Aメロの話者は「語り部」でサビは「天使」。そこまでは明確になっているでしょう。

 しかし、Bメロ。ここが問題となります。なぜならこの箇所は主語を欠いた文で書かれているからです。 “寂しくて涙ポロリ こぼれ落ちた瞬間[とき]/月も花もその羽根さえも青く染まった” 。この描写の主語は何者でしょうか。最も混乱させるのが “その羽根” という文言です。「わたしの羽根 (my wings)」なら「天使」、「彼女の羽根 (her wings)」なら「語り部」が話者だと確定できるのですが、 “その羽根 (its wings)” という中性の所有格で書かれている(“寂しくて涙ポロリ” というオノマトペを交えた主観的な描写が入った後に “その羽根” という突き放した描写が入ることでよりいっそう主格を撹乱する)ので、Bメロの詞は
 甲:荒野に舞い降りた「天使」が独白している
 乙:「天使」のことを伝え聞いている「語り部」が語っている

 のどちらでも解釈可能なものとして書かれています。Aメロ「語り部」・サビ「天使」と明確な話者に挟まれたBメロでは、なぜか主語が確定しがたいものになっている。
 まとめます。『荒野の奇跡』の詞は、1番Aメロ・Bメロ・サビの時点ですでに話者を確定不能にする構造を持っている。「語り部」が語っている・「天使」が独白している という実線としての人称を破線に変えてしまう部分(Bメロ)を構造的に含んでいる、と言うことができます。

(括弧:この「人称の融解」についてはさらに入り組んだ読みが可能であるどころか、誰かへと呼びかける「詩(詞)」についての重要な問題系を含んでいるように思われます。が、ここで詳述すると本筋を外れるので註*5に譲ります。)

 ここまでこの詞を読んで、「パートごとに話者がバラバラだし、誰が何を語っているのかもあやふやだ」「だからこの歌詞はよく書かれていない」と判断してしまうのは、読むにしても書くにしても言葉の鍛錬を一切積まないまま生きてきた馬鹿な国語教師くらいのものでしょう。『荒野の奇跡』はそのように書かれた歌です。そのようにして書かれた歌なので、そのようにして読むしかありません。われわれはわれわれ自身の読解に集中しましょう。


◎下降、飛翔のためでなく

 コロス3を挟んで2番Aメロに入ると、『荒野の奇跡』の人称はますます破線になってゆきます。とくに2番サビ、 “誰もがいつの日か土へと還る/ならば今ここで奇跡を起こそう” と歌われる箇所では、有機体[mortal]であるはずの存在が “奇跡” を起こすのだと宣言されていて、もはや「語り部」と「天使」の区別さえ存在するのかどうか。しかしこの “奇跡” が「物」を示すこと=創造行為[create]を示しているのだとしたら脈絡はついています。『ドゥイノ・エレギー』において有機体[mortal]が「天(使)」を驚嘆させるための唯一の手段が創造行為[create]だったことは先ほど確認しました。

 しかし、詞の中では「天使」の領分にしか属さない営為があると歌われています。「雨」。コロス4では “やがて来る雲たちが 太陽を隠すとき 青いその羽根は散り/雨粒になるという” と、Cメロでは “どうしてでしょう 天使が何度雨を降らせても/大地はまた 渇いてく 鳥も花も君も” と歌われています。天に属する「天使」が地を這いつくばる有機体[mortal]に向けて雨を降らせる……という構図で考えたくなりますが、しかしわれわれは既にこの詞が「語り部」と「天使」との区別を破線にするように書かれていることを確認しました。だとすればその構図もおそらく有効ではない。別の見立てが必要となるでしょう。


・物-語(As above so below)*6

fod.jpg

 だしぬけですが、『Fantastic Ocean』のCD盤面デザインを見てみましょう。陰陽のようにも見えますが、もちろん空と海をモチーフにしたデザインです。
 ここで仮に、空を「A(bove)」・海を「B(elow)」と見立ててみましょう。地上に海が存在するのはもちろん重力があるからです。そうして溜まった水=海のはるか上には空がひらけている。太陽光で海から蒸発した水分が空に雨雲をつくり、空から地上へ雨を降らせる……と考えても、やはりここでは「A(bove)」と「B(elow)」との間で双方向性の営みがあることが示されている。上だったものが下になり、下だったものが上になり……延々と繰り返す営み。『荒野の奇跡』Cメロ後半の詞を引用します、 “天と地は知っている 太陽と月然り 愛しさは愛[かな]しさよ/終わらない物語” 。

 結論に近づいています。一挙に言いましょう、『荒野の奇跡』では「天使」と有機体[mortal]の区別が、 「A(bove)」と「B(elow)」の区別が結果として不可能になる、そういう営みが歌われていると。「天使」から有機体[mortal]へ向けて与えられるもの、それが「雨」です。降らせるためにはとうぜん重力が必要です。しかし何度「雨」を降らせても “大地はまた 渇いてく 鳥も花も君も” 。ここで “鳥も花も君も” と歌われているからには、「天使」にとっては人間も鳥も花も被造物[creature]=有機体[mortal]として平等に扱われていることになります。ではその “亡びることからして生きる物たち(ドゥイノ・エレギー第9歌)” が「天(使)」に対して「雨」の返済を行うには、「天使」を称讃する歌をうたうしかなくなる。 “誰もがいつの日か土へと還る/ならば今ここで奇跡を起こそう深く 緑が燃え/鳥は舞い踊り花は謳う 伝説のそう天使を讃え”。 『荒野の奇跡』の “奇跡” とは、「天(使)」に属さない地上の被造物[creature]=有機体[mortal]が歌によって返済を行うこと。その「天(使)」と被造物[creature]=有機体[mortal]との関係の端緒として贈り与えられたものが「(“抗えぬ力” =重力による)雨」だった、ということになります。

 よって、『荒野の奇跡』の詞の “物語” とは、辞書的な意味とは別のものとして理解しなければなりません。通俗的な意味での「ストーリー」「神話」「物語原型」などではなく、物の-語り、創造する被造物=有機体[mortal]の語り。 “物のことを天使に語れ” 。「天使」→有機体[mortal]→物 という一方向の関係が結果として逆転する返済の営み、その手段が「讃歌」だったということになります。


・幸福なものは下降する

 さて、われわれはリルケの視た「天使」の姿をたよりにここまで読解してきました。では、『ドゥイノ・エレギー』最終歌の最終部を引用しましょう。

 しかし彼らは、無限の境に入った死者たちはわれわれに、ただひとつの事の比喩を呼び覚まして往った。見るがよい、死者たちはおそらく、指差して見せたのだ、榛[はしばみ]の枯枝から垂れ下がる花穂を。あるいは雨のことを言っていたのだ、早春の黒い土壌に降る雨のことを。

 そしてわれわれは、上昇する幸福を思うわれわれは、おそらく心を揺り動かされ、そのあまり戸惑うばかりになるだろう━━幸福なものは下降する、と悟った時には。
『ドゥイノ・エレギー』第10歌 古井由吉訳



 幸福なものは下降する*7。ご存知の通り、『アイカツスターズ!』は飛翔ではなく下降を重んじたシリーズ作品です。第20話、如月ツバサは自らが一流の女優であることを証明するために崖からマットの上へ飛び降りました。それは落ちぶれた共演俳優を救済し、同時にかつての自分の憧れを返済するためでもありました。第62話、桜庭ローラは自らが如月ツバサのブランドを継ぐに値する人間であることを証明するためにバンジージャンプに踏み切りました。『アイカツスターズ!』では、もはや重力に抗うこと(=飛翔)は目指されていない。『アイカツ!』のように素手で崖を登ったり、星宮いちごのように「エンジェリー」な「超人」的な存在を必要とする作品ではないということです。『アイカツ!』は immortal ・『アイカツスターズ!』は mortal な世界であり、『アイカツスターズ!』は死に抗して生存を続けるための「賭け」を続けている作品として一貫している、ことについては以前書きました。だからこそ「飛翔」ではなく「下降」が重んじられるようになったわけです。それは第26話での白銀リリィ・二階堂ゆずのシーンを見ても明白です。体調不良で倒れる白銀リリィ、よりも先に倒れて下敷きになった二階堂ゆず。「倒れないようにするため」ではなく「より安全に倒れるようにするため」。ただ落下しないように、落下したとしても絶命だけはしないように。四ツ星学園はそういう mortal な存在がそこでしか歌えない歌を残してゆく、生存のための訓育の場所でした。そして白銀リリィに担われた『荒野の奇跡』に導かれて、われわれはここまで読解を進めてきました。“上昇する幸福を思うわれわれは” 、“抗えぬ力に寄り添いながら” 、 “下降” することの “幸福” を歌っている詩・詞を前にして戸惑うばかりです。しかし “いつの日か土へと還る” “亡びることからして生きる物たち” =有機体[mortal]でしかなし得ない、「A(bove)」と「B(elow)」の区別自体を無効とするダンスのほうへ少しでも近づけたのだとしたら、この比類ない名曲に礼を失することなく付き添うことができた、のかもしれません。







*1
 私はこの「命を削って〜」とかいう物言いをまったく好みません。それはそもそも歌っている人間に命が削れていない者はいないということもそうですが、『荒野の奇跡』および『アイカツスターズ!』はそういう劇的な姿にだらしなく感動して終わりにできるような安易な作品ではないからです。そうではなく、白銀リリィのようにステージの上で怪物的な存在が、ひとたびステージを降りればわれわれと同じように(さっきまで歌っていたその口で)ものを飲んだり食べたりしているという、その事実に驚くべきなのです。それに関してはこちら*で詳述しました。

*2
 コロスの構造がポピュラーミュージックに登場するのはさほど珍しいことではありません。 クイーンの『Good Old-Fashioned Lover Boy』は “Ooh love ooh loverboy” “Hey boy where do you get it from? Hey boy where did you go?” という冷やかしの声が入ります。あるいは『Bring The Noise』でチャックDを煽りまくるフレイヴァー・フレイヴは理想の音楽的コロスと言えるのではないでしょうか。「コロス」と「合いの手」がどう同じでどう違うのか、ということに関しては用語を厳密にすべきとは思いますが、しかし私はコロスの構造を最も上手く音楽的に生かしているのはブラックミュージック、とくにヒップホップではないかと思います。ここから複声によるコロス型楽曲とスリック・リックやエミネムのようないわゆる単声ストーリーテリング型との違いを考えることもできると思いますが割愛します。さらに言えば『Dreaming bird』はコード譜を読むと明らかにブラックミュージック(とくにブルース)の要素が色濃く残されており、『荒野の奇跡』にはコロスも採用されているということで、じつは白銀リリィが担う楽曲はとてもアジア・アフリカ・ギリシア的=非白人的要素を持っている、ブラックアテナミュージックの先鞭ではないかという件もあります。註で大風呂敷を広げすぎている気がしますが、これらは本稿で述べたことと直接関係があることです。

*3
 創世記 3:24

*4
 ここで唐突に有機体[mortal]が「天(使)」が創造したものとして定義されたことが訝しまれるかもしれませんが、これは『荒野の奇跡』の天使の営為(「雨」)を先取りしているためです。単純に、水分がなければ有機体[mortal]は絶命するしかありません。われわれは有機体=死すべき者[mortal]について話をしています。よって、ここで本稿内での「創造」は「生を定礎する」ことの意味を帯びてきているのでしょう。『ドゥイノ・エレギー』第9歌で “目には見えぬ心の内で物たちを完全に変化させ” ることが “われわれの務め” と歌われていたことを思い出しましょう。ここで「天使→有機体[mortal]→物」をめぐる一連の「生を定礎する」流れを見いだすことは可能です。「天使」は雨を降らせることで有機体[mortal]の生を定礎する。有機体[mortal]は “世代から世代へわたって形造られ、われわれの所産として、手もとに眼の内に生きるもの” をつくることで「物」の生を定礎する。しかし有機体[mortal] が「天使」を驚嘆させるためにはそもそも被造物[creature]である有機体[mortal]がつくった被造物[creature]である「物」を示すことが必要であり……という、単に一方向ではない、或る双方向性の営みがあると言い当てるための理路がここで進行しています。これについては「・物-語(As above so below)」の項で詳述されます。

*5 話者の融解に関する註
*1番Bメロ以外にも、話者が融解している箇所は存在します。最後サビの一節を読んでみましょう。
“いつかめぐり会うあなたを夢見る天使 わたしは歌う”
 この箇所は、どこで文意を区切るかによって話者が「天使」・「語り部」のどちらにも変わってしまいます。

⑴「いつかめぐり会うあなたを夢見る天使 /  わたしは歌う」
 と区切れば、「いつかめぐり会うあなた(わたし以外の誰か:二人称)を夢見る天使(三人称)、わたし(一人称)は歌う」、一文の中に人称がみっつ存在していることになります。もし「天使」の後に(よ)がついていたとしたら、「いつかめぐり会う『あなた』を夢見ている天使よ、わたしは歌う」となります。「天使よ、わたしがその『あなた』なのだ」とばかりに声を上げているわけです。しかし、詞では単に「天使」と体言止めになっているので、同時に他の解釈も可能になっている。

⑵「いつかめぐり会うあなたを夢見る / 天使 /  わたしは歌う」
 さらに区切ることもできます。「いつかめぐり会うあなたを夢見る」の直前の詞は「それでも羽ばたいてわたしは生きる」なので、「わたしは生きる」・「あなたを夢見る」で対句になっていると解釈するのも自然です。とすると、「(わたしは)いつかめぐり会うあなた(=天使)を夢見る、天使よ、わたしは歌う」となり、やはり「わたし」から「天使」への呼びかけだと解することができます。しかし、

⑶「いつかめぐり会うあなたを夢見る天使  わたしは歌う」
 一切区切らないとしてもこの詞は読めてしまうのです。つまり「いつかめぐり会うあなたを夢見る天使=わたしは歌う」。「わたし」から「天使」への呼びかけではなく、「(いつかめぐり会うあなたを夢見るあまりに)天使であるこのわたしが歌う」。先述した通り、直前に “傷ついた翼をふるわせながら/それでも羽ばたいてわたしは生きる” と「話者=天使」らしき描写が入っているので、このように解釈することも成り立ってしまう。

 このように、「わたし(一人称)」「あなた(二人称)」「天使(三人称)」それぞれの人称がまったく確定性を持っていない、もっと言えばそれぞれの人称が交換可能なものとして書かれているのが『荒野の奇跡』なのです。「あなた」は「わたし」なのかもしれないし、「あなた」は「天使」なのかもしれないし、「わたし」は「あなたを夢見る天使」なのかもしれない。
 気をつけてください、「自分と他者の区別がついていない」状態は精神病の症状に極めて近いということに(極めて近いと言ったのであって全く同じだと言ったのではありません)。おそらく『荒野の奇跡』の話者が陥っているのはそういう精神状態なのでしょうし、それを読むわれわれもその影響から無縁ではいられません。しかしそのように書かれている詞である以上、そのように読むしかありません。

 また、この註で述べたような「私(Ich)」から「君(Du)」へ投げかけられる詩と精神病・暴力との関連性を論じた小説作品に『晰子の君の諸問題(著:佐々木中)』があります。

*6
“As above so below” は Tool の名曲『Lateralus』に引用されていたりホラー映画のタイトルになっていたりしますが、出典はなんかヘルメスどうたらとかいう錬金術モノのやつらしいです(原文に当たってないので知りません)。日本語訳らしきものをここで読むことができますが、正直に言うとこの文書には「奇跡(奇蹟)」「太陽」「月」「大地」「風」など『荒野の奇跡』の主要モチーフが多く登場するので、作詞家 tzk が参照したのであろう文献としては『ドゥイノ・エレギー』より先にこっちを提示するべきなのかもしれません。しかしそうしませんでした。なぜなら私は “太陽がその父であり 月がその母である” とかいう安易なシンボリズムが大嫌いだからです。

 また、『アイカツスターズ!』第59話には、この「A(bove)」・「B(elow)」の関係そのもののような場面が登場します。
 自分のブランドに星のツバサを降ろすためのアイデアが浮かばない虹野ゆめ。台詞を引用します、 “まるで、深い海の底、デザインが魚みたいに泳いでて。一生懸命釣り上げようとしてるのに、全然無理って感じ” 。そこで親友である七倉小春が気分転換のために魚釣りを提案する。釣った魚を料理して食べたのち、七倉は(飛んだ帽子をキャッチしようとして)海に転落し、足首に怪我を負ってしまいます。結果として虹野は七倉のお見舞いの途中でデザインを着想する。 “海の底” にあるものが釣り上げられないと言っていた虹野が、実際に海へと転落してしまった親友のおかげで結果的に創造へと引き揚げられる。この一連のシーンで「下降」と「上昇」(海へと転落するシーンの対比として、虹野・七倉が病院の屋上で会話するシーンがある)、そして「mortality(可傷性・可死性)」などの要素が出揃っていること、これら全ての要素が直接「創造」へとつながっていることは絶対に見逃すべきではないと思います。が、これらの描写について理路づけるためにはすくなくとも『スターズ!』2年目の放送が終わるまで待たなければ拙速になると思うので、ここでは詳述しません。

 また、『アイカツスターズ!』1年目は「贈与」と「返済」の営みを執拗に描いた作品でした。しかもその方法が「歌」と「食べ物」なのです。これについて詳述するには稿を改めなければならないので、ここでは以前書いた拙稿を引用しておくにとどめます*



*7
 本稿で引用した『ドゥイノ・エレギー』の翻訳者である古井由吉さん本人が「下降」および「上昇」について言及している文があります。引用しましょう。

 人間を個人の観点から見ると、たしかに年を取るということは下降です。であるけれど、個人がひとりでものを書いているわけではないんですよ。無数の人間のもやもやを相手にしているわけだから。この無数のもやもやは、年を取らないんですよ。

 下降と上昇はどこか似ているところがある。ある下降のポイントがきわめて上昇に似ている。大病をしたことがあるんですが、だんだん症状が進んでいくでしょう。全身に衰えが出ます。でもその時の感情はたとえば思春期の感情によく似ているんです。上昇と下降というのはひとりの人間のなかに絶えず同時にあるんじゃないかな。僕の小説の舞台はその交差点ですね。*7-1


 加えて、その古井由吉さんの翻訳による『ドゥイノ・エレギー』第9歌から引用します。

 このとおり、わたしは生きている。何処から来る命か。幼年期も未来も細くはならない。数知れぬ人生が心の内に湧き出る。


 この “幼年期も未来も細くはならない” “心のうちに涌き出る” “数知れぬ人生” が古井氏の言う “年を取らない” “無数の人間のもやもや” と同じものなのか、および “ひとりの人間のなかに絶えず同時にある” “上昇と下降” が本稿で述べた「A(bove)」と「B(elow)」のダンスと同じものであるかどうかは、読者の皆さんの判断に委ねます。

*7-1「四〇年の試行と思考」『この熾烈なる無力を』河出書房新社刊 219P

Sicken O'Barbarian(“ILLISH” リリース記念 13,000字インタビュー)

「HATANIGHT 2016」をご存知だろうか?  TOJIN BATTLE ROYAL のハタナイ総裁が主宰した入場無料のイベントで、2016年11月5日に開催された。総裁はもちろん BUDDHA MAFIA のライブアクトも含んだ大変豪華なもので、私も足を運んで大いに楽しんだ、が、本題はそのイベントからおよそ半年後のことだ。

 私はいつも通りに中洲の居酒屋(じゃんぼ焼鳥)でひとりで飲んでいたのだが、その日、同じようにカウンターで飲んでいた肉体労働者風の男に目がいった。その首にかけられたタオルに「HATANIGHT 2016」の文字。あのイベントで配布されたタオルだったのだ。つまり彼も私と同じようにあの空間にいた人間だということになる。

 らしくもなく、私は見知らぬ男に話しかけた。HATANIGHT のタオルを巻いたその男は強面のわりに屈託がなく、我々はすぐに TOJIN や BUDDHA の話題で盛り上がった。ヒップホップコンシャスの高い人間と酒席を伴にする歓びに浸っていた私だが、1時間ほど話し込んだ頃、男は少しはにかみながら切り出した。「俺もやろうと思うんだよ、ヒップホップ」。聞けば、今まさにトラックを作りリリックを書いている最中なのだという。ちょっとライムしてくれよという私の短絡的な誘いは退けられたが、彼はスマートフォンのアプリに記録された断片的なリリックを見せてくれた。

 その無機質な液晶画面の上には、私が今までに聴いたどのリリシストのパンチラインとも違う異ノーマルな言葉たちが踊っていた。私が日常的に使っている日本語と同じとは到底思えない、異様に歪んだ詩の数々が刻まれていた。その男が執拗な鍛錬を経てヒップホップに打って出んとしていることは明らかだった。「もし作品ができたらすぐに連絡してくれ」。私は無理やり連絡先を掴ませ、作品が完成した暁には「広報担当」として広くアピールする役目を押し売りした。彼は苦笑しながらそれを容れた。

 6月、果たして作品は届けられた。 “ILLISH” と題された3曲・15分の作品を携えた彼は、MCネーム Sicken を名乗っていた。この記事は2017年6月9日、つまり “ILLISH” が江湖に問われる前日に行われたインタビューを文字起こししたものである。SAYSING_BYOUING と名付けられたヒップホップ企てが響かせる不穏な鳴動に、是非とも耳を貸すべきだ。

SAYSING_BYOUING “ILLISH” 特設サイト
BOOTH

━━Interview & Text by 甘粕試金
PRONTO 福岡新天町店にて



◎“ILLISH” に至るまで
◎01 巴塔耶 (BataILLe)
◎02 臀部開拓史 (Gloryassholestoopid)
◎03 息づかいの礼拝式 (Liturgie vom Hauch)
◎男であることの恥ずかしさによって分娩された混血人種




◎“ILLISH” に至るまで

━━あなたの名前をご存知ない方も多いと思われるので、自己紹介をお願いします。

 Here comes the Pandemic Plague Prankster, 逆立ちして666, 俺が Hard Ill Verse 陽性の MC Sicken だ。

━━まず、あなたは SAYSING_BYOUING 以前に音楽活動らしいことは何もしていませんよね。なぜ今回 “ILLISH” をドロップすることになったのでしょうか。

 自然な成り行きでそうなった、としか言いようがないな。言っとくべきなのは、俺はあくまで一介の労働者だってことだ。ただ、働いてる間あまりにもヒマなんで、頭の中で架空のPファンクキャラクターを構想して遊んでいた。“Give It Up Or Turn It Or Loose” 風のトラックを頭の中で鳴らして、適当に英語詞をつけた。ちなみに『巴塔耶』に入ってる “The broken language shall be mother tongue” ってラインはこの時期にできたものだ。
 それをずっと繰り返すうちに、「どうやら、ビートにお前の言葉を乗せるのはナシじゃないらしいぞ」ってムードになり始めた。要するに風が立ったわけだ。その頃にはもう自分のリリックを書き始めていたし、ブレヒトの詩を音楽的にカバーするアイデアもあった。それらがヒップホップという一つの方向にまとまったのはごく自然なことだった。それが3月ごろ。Maschine Mikro を買ったのが4月末━━あんたが話しかけてきたのもこの時期━━で、他の機材をマイメンから借りて録り始めたのが5月、そして6月に快便した。

━━リリックとトラックメイキングについて伺います。まず、リリックを紙に書く人とデジタルで書く人とに分かれると思うのですが……

 俺は Evernote を使っている。PCとスマートフォンで共有したいし、端末を失くしたときの保険にもなるしな。まずリリックをひと思いに書き出し、そこからリズムやビートを意識しつつ添削する。この段階でおおよそのBPM、ストレートでやるかスウィングでやるか、スウィングだとしたらどの程度ハネさせるか、が決まるな。トラックとしてどの曲のどの箇所をサンプルするかもおおよそ定まるから、あとは練習する。で、だいたいフロウが掴めたらリリックを譜面上に書き出してみる。言うなれば「リリック譜」か。
saysing1.jpg
 リリック譜(Sicken手書き)

━━「リリック譜」ですか、初めて聞きました。通常のリリック帳とリリック譜と、どのように使い分けるのですか。

 ざっくばらんに言えば、リリック譜は練習中に譜割を忘れないためのものだ。文字だけで保存してると、書いた次の日に読み返して「どうしてこの文字数がこのビートに収まると思ったんだ?」と頭をかかえる確率が高くなる。だから即座に現時点でのフィーリングを呼び返すためにリリック譜が必要だ。通常のリリック帳のほうはレコーディング時に参照することが多い。譜面より余白が多いから、録るときに心がける注釈を前もって書き込んでおく。

━━作詞はトラックメイキングと併行して行われるのでしょうか。作詞するためにビートを一切聴かないラッパーもいますが。

 作詞するのにビートを聴かないラッパー、Mummy-Dとかのことだろ? それは頭の中で明確に音を鳴らせるセンスの持ち主だからこそできることだ。俺はまだその域にはいない。だからクリックをしこたま聴いて、まともにグルーヴしているか、フロウになっているかを精査する。トラックのおおよその全体像が定まるのはこのときだ。あとは思いつく限りのビート、ライム、フロウのパターンを試す。つまり俺にとって作詞とトラックメイキングは同時進行だと言えるだろうな。外部のトラックメイカーに世話になる場合なんかはまた変わるんだろうが。

━━SAYSING_BYOUING の持つ音楽的レファレンスは?

 日本語でラップをする以上は BUDDHA BRAND の3人の影響から逃れるのは不可能だし、THA BLUE HERB、TOJIN BATTLE ROYAL、stillichimiya、そういった非首都圏のリリシストたちにも大いに鼓舞されている。ヒップホップに関するアティテュードで言えば俺はズールー・ネイションに多くを負っているし、これからエレクトロ・ファンクのトラックも増やしていきたいと思っている。そして何よりP-Funk Mythology……これなしでは始められないな。ちなみに、『臀部開拓史』の冒頭に入っているスキットの声はサー・ノウズ・ディヴォイドブファンクへのオマージュのつもりだ。



◎01 巴塔耶 (BataILLe)

━━ここからは個々の楽曲について伺います。まず “ILLISH” 劈頭の『巴塔耶 (BataILLe)』ですが、これはタイトルにあるようにジョルジュ・バタイユにまつわる楽曲ということですか?

「にまつわる」曲ではあるが、「についての」曲ではないな。たとえばエレファントカシマシの『歴史』とか、あるいはバンドのほうのレキシとか、「昔これこれこういう人がいたからそれについて勉強しましょう」みたいな曲ではないということだ。ではなぜバタイユなのかというと……そうだな、これは、「20世紀において不可能と知りつつ16-17世紀スペイン神秘主義に回帰せんとしたジョルジュ・バタイユのように生きることは21世紀において可能か」ということを自分自身に問うための、そういう曲だ。

━━ずいぶん佶屈とした問いですね。バタイユを使うなら、もっと親しみやすいキーワードを忍ばせることもできたのでは? エロチシズムとか……

(右手を振って遮りながら)君はバタイユの良い読者ではないようだな。ああいうのは彼の著作の中でも最も人好きのする、最も親しみやすい、最も無害なパートにすぎない。どうも世の中には、安手のポルノでも代用可能なものをバタイユの中に見出してそれで良いとか悪いとか言っている人間が多すぎるようだ。俺はそういうのは彼に対して失礼だと思う。もっと苦難を伴う、しかしもっとエロティックな試みがあるんだ。神と床を伴にするために言葉を使うこと、奇妙な無神論を含んだ恋文を書くこと、『巴塔耶』はその音楽的実践だと言っていい。それについては、そうだな……『夜戦と永遠』第1部第4章を読んでくれ。

━━リリックには十字架のヨハネとアビラのテレジアの名前が出てきますが。

 そう、それと直接関係があることだ。16-17世紀スペイン神秘主義とは、言葉と詩の実践による政治的抵抗運動だった。この世紀においても「彼女」らのように言葉を孕むことができるか、にまつわるリリックがこれだ。自慢じゃないが、俺も言葉に抱かれて詩を受胎する体験を何度か持ったことがある。しかし間違っちゃならないのは、書かない神秘家など存在しないということだ。自分の体験を特権視したところでどうにもならない。既存の「宗教」なるものとして認識されているものとは別の関わりを持つために、すなわち神と新たな関係を結んで言葉(Verbe)を産む、その実践が問われているんだ。それについては……鶴岡賀雄さんの『十字架のヨハネ研究』を読んでくれ。

━━あなたにとっては、神聖なものを嘉[よみ]するためでも冒涜するためでもなく、ただ自分と神聖なものとの別の関係を見つけるために言葉が必要だということですか。 “新でも旧でもねえ 第三の契約” というラインが出てきますが……

 そう、まさにそういうことだ。神を信じてるとか信じてないとかそういうことは全く問題じゃないんだ。俺にとって「無神論」者は単に無教養な人間以上に軽蔑の対象だ。単に既存の「宗教」的なものでしかない神をあげつらってそれで何か言った気になっている人間が多すぎる。そうじゃない、書くこと、歌うこと、言葉の実践によって神と「別の関係」を結ぶこと━━そこにこそハードコアな、不穏な、真に無神論的と呼ばれるべき創造行為があるということだ。ブランショが『無神学大全』について「この書をその字の平穏さにおいて読んではならない」と注した理由はそのへんにある、と俺は踏んでる。

━━トラックについて伺います。まずサンプリングされているフレーズについて、可能な範囲でお聞かせ願いたいのですが。

 まずこの曲は可視性、暗闇、暗中模索で書くことがテーマにあるから、iTunesライブラリを “blind” で検索してみた。出てきた曲たちを一つずつ聴いていったら、ゴブリンの “Blind Concert” って曲が俺を惹きつけた。『サスペリア』のサントラに入ってる曲だ。頭の中にあったビートのBPMにも近かったし、ベースがいかしてたし、この出会いにはマジックがあると思い、まずこの曲でトラックを作ることにした。まんまトースティングでやるアイデアもあったんだが低音が足りないんで、ローパスでベースだけ抜いてドラムを入れることにした。ただ聴けばわかる通り、このベースラインは頭拍が休符になっているため、奇数拍にキックを入れて偶数拍にスネアを入れるビートがしっくりこなかった。なんでそれを逆にして、スネアを頭にしてベースのフレーズとキックを同期させるパターンにしたら驚くほどしっくりきた。そいつをイントロ8小節にしてみると、自然にフロウが生まれたってわけだ。ちなみにイントロのイントロにはマイケル・ジラの “Blind” が、アウトロにはコーンの “Blind” が入ってる。初めて作ったトラックがこれだが、単調なループでもないしグルーヴに欠けるわけでもないし、なかなか気に入っている。シガー・ロスの語を借りれば “Ágætis byrjun” 、順調なスタートってところだ。


━━いま名前が出た曲たちを並べてみると、通常のヒップホップのトラックメイキングで使われるものとは異色ですね。ブラックミュージックっぽくないというか。

『臀部開拓史』でPファンクをサンプリングすることは決めてたから、『巴塔耶』で使う曲はあえてジャンルを絞らなかった。第一、ヒップホップをやるには必ずブラックミュージックのレコードから引かなきゃいけないなんてのも変な話だろ。クールでありさえすればどこからでも何でも持ってきて継ぎ接ぎしていい、っていうのが俺がヒップホップに魅了された最大の理由だからな。そういう蛮性、野性のリリシズムのようなものを感じてくれたらと思う。




◎02 臀部開拓史 (Gloryassholestoopid)

━━そんな曲の直後に前立腺の曲が、というのもすごいバランスだなと思うのですが……

 そうか? 俺としては脈絡がついてるんだけどな。リリックだけでわかると思うが、これはアンチ男根主義についての曲だ。『俺たちのBL論』という本で春日太一さんが「勃起力がすごく……ない」「(勃って「入れたい」「出したい」という)感覚が、実は人一倍弱い」と話してるんだが、納得できる話でな。前曲との流れで言えば、チンポで享受できる享楽なんてのは、ラカン流に言えば剰余享楽にすぎない。それは糞と同じで、一見過激に見えても何も変えない。だから、バタイユの書いたものを「エログロ」とかの文脈で弄んでそれでなにか意味あるものと思い込むのは大きな誤りだ。未だにうわべだけのグロテスクさとか性的倒錯とかを見せびらかしてハードコアなものを作った気になっている輩はうじゃうじゃいるが、何度でも言うがそれは「合法的な」「退屈な」「かわいらしい」享楽にすぎない。
 で、この曲はそういう無様な享楽に安んじている人間へのイチビリ、あるいはそういう生き方に息苦しさを感じている人間へのチアーとでも言うべきものだろうな。

━━男根主義者に対置されるものとしての前立腺オナニー、ということですか。前のほうでも後ろのほうでも剰余享楽は剰余享楽なのでは……

 もちろんそうだ。俺だってエネマグラでもたらされる享楽が他の性的なものと別なものだとは思っていないさ。しかし俺は、男性の肛門にモノを挿入して性的絶頂を感じさせることは一種のショック療法たりうると思っている。さっきも言ったが、世の男どもは自分のチンポのことだけで頭がいっぱいなのさ。ラカンのいう「第二のファルス的享楽」が「権力でありたい」を断念して「権力を持ちたい」に変換されたものだったことを思い出してみろ。権力欲で頭がいっぱいになった男どもが男根主義と女性蔑視を併発しているのは、故あることなのさ。石原慎太郎、百田尚樹、ああいった人間の醜悪さにはきりがない。
 安吾は「他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ」と言ったが、なんてことはない、自分の菊門にエネマグラを挿れるだけでいいのさ。「前のほうの気持ちよさ以外には何もないと思っていたが実はそんなことはなかった」、そう気付くきっかけにでもなれば上等だ。何にしても、俺はお尻の穴に何も挿れたことのない男など大した人物ではないと思っている。自分の処女性をかわいがるあまりに周りの人間にも潔癖さを押し付けるようになっちまった、そういう例はいくらでも知ってる。そんな人間が増えれば増えるほど世界はつまらなくなる。風営法だってそうだろ。で、この曲はそういう世相に対する即効性の座薬だと言えるだろうな。

━━なるほど……あなたにとっては性的なことでも即ち政治的なことに結びついているのですね。

 当然だ。むしろ性的なことから政治性が切り離された姿がラカンの言う「剰余享楽」だからな。『巴塔耶』に入っている “神とまぐわう熾烈の床” というリリックも、この世界にはそんな合法的な享楽とは別の、世界を孕み出産する享楽がある、それを果たすのは言葉であるということを言ってるんだ。一貫してアンチ男根主義者だ。脈絡がついていることがわかるだろう。



◎03 息づかいの礼拝式 (Liturgie vom Hauch)

━━ブレヒトの詩をカバーするアイデアは前からあった、と仰っていましたが。

 ああ。ラングの『死刑執行人もまた死す』で、ブレヒトの詩が読み上げられる場面があるだろ? あれを初めて見たとき、すごく音楽的な韻だなと思ったんだ。で詩集を読んでみて、真っ先にビッときたのが『息づかいの礼拝式』だった。「森の小鳥ら〜」のルフランで進行する構成だから、これはヴァース&フックで再生可能だと思ったんだ。実際、「森の小鳥ら〜」のルフランはそのまま一字一句変えることなしにライムとして通用することに気づいて、長谷川四郎さんの名翻訳ぶりに感動した。
 ただひとつ問題があった。ルフランは四行詩だからトラックにも乗せやすいんだが、ヴァースにあたる部分は五行で構成されてるからどう落とし込むべきか悩んだ。内容を変えずに四行詩に変換するか、それとも小節数を気にせずに五行詩でやるか。結果としてはどちらでもなくなった。トラック作るのと詩をリリックに変換するのとが同時進行だったから、ただフロウに任せて、しかし詩に込められた憤りの力だけは損なわないように専心した。結果としてはブレヒトに申し訳が立つくらいの構成にはできたと思う。ただラップの技量がまだ全然追いついてないのが残念ではあったが、それはまあ、十年後くらいに録り直せばいい。


━━詩の内容は……世の不正を目の当たりにしながら声を上げようとしない人々の姿が小鳥になぞらえられているわけですよね。『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』にも通じるような。

 ああ。こんなにもクソみたいなことが公然とまかり通ってるのに最後には沈黙しか残らない、って構成だから、そこは小節数の整合とかをあえて無視して、ヴァースのニュアンスがその都度変わって聞こえるようにつとめた。

━━そもそもどうしてブレヒトの詩だったのですか。音楽的な構成だから、というのはわかるのですが。

……(数秒間沈黙)あれは HATANIGHT の帰りのことだ。あんたもあのイベントに来てたんだろ?

━━はい、飲み屋で HATANIGHT のタオルを首に巻いてたのを見たのがあなたに話しかけるきっかけでした。

 あの帰り道、午前5時ごろだ。俺は酒と音楽ですっかりいい気分になって、博多埠頭のあたりまで歩いて行った。そしたら……住む場所のない、要するに路上で暮らしてる人々が5人ほど、埠頭で寝てるのを見たんだ。酔いは一気に醒めた。血の気が引いたよ。もしあの人たちがうっかり寝ぼけて海に落っこちたとしたら、誰が引き上げてやれるんだ? どっかのボケが面白半分であの人たちを海に突き落としたとしたら、誰が助けてやれるんだ? なんだってあの人たちは11月の路上で、こんなとこで寝なきゃいけないハメになってるんだ?
 それ以前にも予兆はあったんだ。一昨年の冬に寒波があって、福岡でも氷点下になって水道管が凍ったりしたろ。俺はあの時期、博多駅のあたりに映画を観に行くために自転車をこいでたんだが、その道中で少なくとも2人の路上生活者を見た。あの人たちは寒波をどう凌いだんだ? あの寒波のあと一体どうなったんだ? 凍え死にせずに済んだとして、体温を回復するだけの飯は? 病院に行くだけの金は?
 なあ、この国の憲法第25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるよな。氷点下の路上で満足な防寒具もなしに放置されることのどこが「健康で文化的な最低限度の生活」なんだ? 政府の権威は上位の法である憲法に拘束される、というのが立憲主義だろ。だったら生存権のもとに路上生活者も生命の安全を保障されるはずだろ。されてねえじゃねぇか。この国に立憲主義なんて最初っから存在しねえじゃねぇか。
 わかってはいたんだ、前から。うっすらと。俺らが義務教育で教えられたことはどうやら嘘っぱちらしいってことは。でももう耐えられなくなったんだよ。あの HATANIGHT の帰り道に見た光景が俺を後頭部から殴ったんだ。「お前はこういう悲惨があるのを知っておきながら、見て見ぬ振りしてヘラヘラ生きてたんだ、ボケが」って。思えば、あれがMCネーム Sicken としてマイクを握る直接のきっかけになったと思う。誰かが「路上で生活することを余儀なくされた人々にも衣食住を保障しろ、憲法ではそうなってる」と声を上げるべきだったんだ。なのに誰もそうしなかった、俺も含めてだ。だから今始めることにした。ブレヒトの詩を借りて、ライムに乗せてやることにしたんだ。今のこの国もブレヒトが生きてた頃のナチ前夜と何も変わらねえぞって、わからせてやるためにだ。

━━現実に生きている世界への異議申し立てが、そもそもあなたのマイクを握る動機としてあったのですね。この曲でドアーズの曲がサンプリングされている理由も、腑に落ちた気が……ドアーズもブレヒトの『Alabama Song』をカバーしていますよね。

 そう。正直に言うと、60年代末アメリカのカウンターカルチャーとしての音楽なんてそれ自体がダサいと思ってた。だが、もう、そんなこと言ってる場合じゃねえことに気づいたんだ。いま60年代のドキュメンタリーなんか見てると、よくもまあこんなクソのような時代に付き合わされたもんだと思うだろう。だが50年経って、あのクソのような時代が一巡してきたのが今なんだ。ということは、この時代に具体的に抵抗することは可能だということだ。SNSの上でだけ雄弁な、フリック入力だけ達者で何も行動を起こさない、歌いもしなければ踊れもしない失声症の小鳥になっちまう前に、この喉を鍛えとくべきだと思った。ブレヒトやモリソンや、その他名も知れねえ大勢の人々がそうしてきたように、暗闇の時代において時代の暗闇を歌う力に俺も与[あずか]りたかったんだ。うまく演れてるかどうかは知らん。他のコンシャスラッパーからすれば未熟も未熟だろう。しかしこの詩を歌にするのは俺にとって絶対に避けて通れないことだった。だからやった。それだけだ。

━━3曲ぶんのインタビューを通して腑に落ちましたが、あなたにとって音楽と詩とパフォーマンスは政治性と切っても切れないものとしてあるのですね。

 その通り。君が「音楽に政治を持ち込むのはどうかと思う」とか不勉強なおぼっちゃんみたいなことを言い出さなくて安心したよ。そもそも音楽から政治性を削除することは不可能だ。これは「口を閉じることはできる、目を閉じることはできる、しかし耳を閉じることはできない」こと、および幻視と比べて幻聴の発症率のほうが圧倒的に高いという精神医学の知見と絡めて理路づけることが可能だが……その話は今日はいいだろう。そんなくだくだしいことを省略して、聴く人の耳に直接何かを喰らわせるような力が俺のライムに宿っていれば、と思う。



◎男であることの恥ずかしさによって分娩された混血人種

 ━━訊き忘れていましたが、タイトル “ILLISH” の意味は?

 英語圏で頭にMcがつく姓はアイルランド系、またはスコットランド系だろう? マックイーン[McQueen]とかマクドウェル[McDowell]とかマクラーレン[McLaren]とか。で、マイクロフォンを握る人間は頭にMC(エムシー)がついてる。となれば、マイクを使う詩人は全員アイリッシュ[ILLISH]だという結論に至った。
 重要なのは、ヒップホップはアフリカ系アメリカ人の生み出した文化だということだ。彼らの先祖はアメリカ大陸に奴隷として連行される過程でアフリカの言語や習俗を剥奪されて、キリスト教を仕込まれる過程で福音歌を与えられた。その係累に連なるいわゆる「ブラックミュージック」の鬼子のような存在がヒップホップ、征服者の言語である英語を使っての言葉の技巧[art]だった。何が言いたいかというと、もはや母国語と外国語という区別が無効になるような言語を見出さなければならないということだ。帰るべき祖国と往訪すべき外国の両方をうろうろしているあいだはまだ「観光客」だ。そんなアティテュードはお金持ちのぼっちゃんにでも任せておけばいい。「祖国」と「外国」、「母国語」と「外国語」の両方を見失い、延々と流れてゆく生成過程にしかありえない人種、真の意味でのマイノリティに「成る」必要があるということだ。パウル・クレー流に言えば、ここにはまだ人民が欠けている。被征服者で、非暴力的で、被差別的であるがゆえに革命的であり続ける人種、 “ILLISH” を到来させるために言葉の鍛錬が必要なんだ。言語を引き裂き、床を設え、外なるものと交配可能な舌を見出さなければならない。今まで一方的に女性の肉体にだけ押し付けられてきた「産むこと」を、言語活動によって担わなければならない。男であることの恥ずかしさによって分娩された混血人種、 “ILLISH” とはそういう人民のことだ。

━━あなたの言語活動の念頭にあるのは、あくまで「マイノリティ」だということですね。映画『ザ・コミットメンツ』には「アイルランド人はヨーロッパの黒人だ」という台詞が出てきますが。

 過度に理想化するわけではないが、実際、欧米圏の文化において革命的なものを産んできたのはアフリカとアイルランドにまつわる人々だ。いわゆる「ブラックミュージック」、とくにブルースとファンクが音楽史に及ぼした革命性についてはここでは省略するが、アイルランド人およびアイルランド系移民が音楽史・文学史・映画史に刻みつけた革命性も見逃すわけにはいかない。ワイルド、イェーツ、ジョイス、ベケット、ジョン・フォード、ジョン・ライドン、モリッシー、フィル・ライノット、ロリー・ギャラガー、ダン・オバノン、(画家のほうの)フランシス・ベーコン、(映画監督のほうの)スティーヴ・マックイーン、ブレンダン・オブライエン、ケイト・ブッシュ……そうだ、俺にとってアフリカとアイルランドの蜜月を考えるにおいて最重要なのは、トゥパックはケイト・ブッシュのファンだったという事実だ。あれほどまでに天使的で、しかし激しく、そして美しい音楽と詩を書くことをやめなかったトゥパックとケイト・ブッシュが直接ではなくも通じ合っていた一点、俺はそこにあったはずの何かに魅惑されている。それに与るために俺もこうしてマイクを握っているわけだよ……到底及ばないというのは、もちろんわかってはいるが。

━━なんだか、急に謙虚になりましたね。

 その人々のことを考えるだけで我が身の小ささを思い、謙虚にならずにはいられない、そんな人々がいる。俺にとってはケイト・ブッシュとトゥパックと、そして Dev Large がその人々だ。俺はもっとそれの、さらに、その……ファック、舌が回らなくなってきた。おい、このインタビューもだいぶ長くなってきてるだろ。次の質問で最後にしてくれないか。

━━え? あの、このインタビューは一問一答で締めくくろうと思っていたのですが。

 じゃあ、それをやって終わりだ。

━━わかりました。では、「イエス・ノー」「ある・ない」で答えてください。
  Q1. 今後のリリース予定は?

 A1. もちろんある。
 とりあえず年内にもうひとつ3曲入りのが出る。未済の作品に対していろいろ言うと鬼が笑うので言いたくないが、トラックとリリックのネタはたくさんあるんで色々試すつもりだ。アントナン・アルトーに捧げる曲とか、9拍子の曲とか。

━━9拍子の曲ですか? ヒップホップで?

 いけないのか? ツェッペリンの『クランジ』だって9拍子のファンクだろ? あ……しまった。

━━次のトラックのネタはツェッペリンですか。正式にクリアランスして出すにはお金と時間がかかりそうですね。

 作りたいものだけ作ってるんだから仕方がない。

━━Q2. ライブ活動等の予定は?

 A2. 今のとこ無い。
 単純に曲が書き溜まってないからな。次の出して次の次の出したくらいにはスキルも上達してるだろうし、その時に考えればいい。

━━Q3. レーベルに所属して作品を出したい、という気は?

 A3. あるが、それは「クリアランスの処理を請け負ってくれる立場の人が欲しい」程度のことなんで、現実的には考えていない。そうだな……これ、文字起こしして記事にするんだろ?

━━はい。

 じゃあ、「骨のあるレーベルは連絡しろ」と書いといてくれ。

━━わかりました。聞く耳を持っているレーベルの人はこちら[integralverse@gmail.com]までどうぞ。SAYSING_BYOUING のファーストシット “ILLISH” はこちらでダウンロードできます。

 ホンモノニセモノ決めるオマエらの耳が見物。

━━Q4. バトルに興味は? フリースタイルダンジョンとか……
 A4. まったく無い。
 俺にとって、ヒップホップは言語圏を超えた混血のムーヴメントを引き起こすための企てだから、何よりもまず作品を残すことが全てだ。テレビに出てスキルをひけらかして云々、といった焦りに掻き立てられたアティテュードとは最もかけ離れたところにある。言っちゃ悪いが、今ああいうテレビ番組を見てヒップホップのことを「わかっちゃった」気になっちゃった子たちのことを本当に不憫に思うし、そういう子たちの音楽に対するうららかな無教養ぶりは俺の眉をひそめさせる。俺が作っているものは「日本語圏ヒップホップ」であって流行りの「日本語ラップ」ではない。それは夕張メロンとメロンパンのように別モノだ。もちろんメロンパンが悪いとは言わない。しかし俺の歌詞はお子様向けの甘い菓子ではないというだけだ。俺の仕事は庭を耕すこと……未だ見ぬどでかいイルな果実を実らせることだ。

━━Q5. フューチャリングに関する意欲は?

 A5. ある。
 が、SAYSING_BYOUING の作品で他のMCをフューチャーする気は今のとこない。いま俺の頭の中にあるのは、『STILLING, STILL DREAMING』のような名刺代わりのアルバムをドロップすることだ。まずてめえのやり口を見つけてからでなければフューチャリングしても上滑りするだけだ。だからいま共演相手を探してはいないが、まあ “ILLISH” を聴いて「こいつはドープだ」と思ったやつの呼び声ならいつでも聞くつもりだ。融通してやるよ俺の舌を。

━━では最後に、これを読んでいるヘッズにメッセージをお願いします。

 出たな、お決まりのやつ……(咳払い)
 S’up, folks? Full of shit な heat island で tyrant の寝首掻かんとしてる cunt に hand 差し伸べるぜ。まずは俺らのファーストシット “ILLISH” を聴いてくれ。くだくだしい説明はしない。俺は「歌に全て込めた」like シスター羽生田。俺らの捉えるトライブはただ一つ、混血言語の図書館、全ての言語にリスペクト込め新たな言葉編む仕事場だ like アッバース朝。俺は未だ来たらぬ辞書のため、未知の使い途見つけるべく働く。work it out, eight days a week, 8 miles away, ei yo, keep staring at our ass. Peace.

━━ありがとうございました。




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 HATANIGHT2016来場記念タオル(甘粕私物)

ツバサ・2年目・風雲急(『アイカツスターズ!』第51→第53話)

:前置き:
『アイカツスターズ!』第51話は公式HPで常時無料配信されています。が、このシリーズを全くご覧になったことのない方はBlu-rayボックスを買うバンダイチャンネルに課金するなどして1-50話を通ったうえで第51話を観ることを強くおすすめします。なぜなら1年目を通ったか否かで第51話のもたらす衝撃に天と地の開きが出てくるからです。もちろん単品でも凄まじくよくできたエピソードですが、 "The Best of Both Worlds" を単品で観ただけでスタートレックTNGのすごさが全部伝わるわけではありませんよね。『アイカツスターズ!』もスタートレックTNGと同様に緻密に作られたシリーズ作品なので、ぜひ横着せずに第1話から観てみてください。




【目次】
◎Face it with a grin(第51話:笑みで織り成されるエモ)
◎君の閉塞的な脳味噌に(第53話:乾いた不毛[aridity]とその旅程)
◎Boneborne文房(その「文藝」の射程)
◎「ゴシック」考





◎Face it with a grin(第51話:笑みで織り成されるエモ)

「2シーズン目の最初のエピソード」の始め方にも色々あります。前シーズンには無かった新要素が追加されるのでしょうし、それを前面に押し出すのでも徐々にゆっくり移行するのでもいいのでしょう。前シリーズ『アイカツ!』の第51話がそうしたように「1年飛んだ間に色々ありました」というアクロバットを使ってもいいわけです。
 さて、『アイカツスターズ!』2年目最初のエピソード(第51話)はどのようにして始まったか。何をエンジンに据えて新シーズンを発進させたか。「発情」です。

・発情開始

 始まり方はごくごく平穏なものです。今年度の歌組S4に就任した虹野ゆめ。下級生やファンたちから声援を受け、子どもたちからの羨望の眼差しを受けながら四ツ星学園を案内する序盤パートは、丁寧なチュートリアルとして機能しています。が、第51話の凄まじさは、冒頭で提示した「前年度まで共有されていた前提」を後半で次々と破壊していく、その容赦の無さにあります。

 2年目開始前からその存在が煽られていた客船型アイドル学校『ヴィーナスアーク(以下VA)』。その総大将であるエルザ フォルテが白鳥ひめを引き抜くために接近し、早乙女をミューズに選んだはずのブランド『FuwaFuwa Dream』がいつのまにかVAの花園きららに占領され、四ツ星関係者は急速にVAの脅威に席巻されてゆきます。

 虹野ゆめ、桜庭ローラ、早乙女あこ、香澄真昼の4人がVA船内に侵入するシーンがあるのですが、これがまた強烈です。まず、四ツ星学園内ではあれほどS4として持て囃されていた虹野たちが、VA船内では一般の生徒にさえ見向きもされないのです。S4は四ツ星学園内で毎年ブレイクダウンする階級制にすぎないので、S4であるだけで学外で無条件の敬意が払われるわけではないのは当然なのですが、この落差たるや。

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(上):四ツ星学園内で下級生から羨望の眼差しを受けるS4
(下):VA内で一般生徒から見向きもされないS4

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 そのうえ、血気にはやった早乙女あこはガードマンに取り押さえられてしまい(誇りであるはずのS4制服の襟首を掴まれる姿の滑稽さ……)、VAのスタッフから船内への不法侵入を紳士的に(しかし厳しく)咎められて追放されてしまうという、散々な結果に終わります。とぼとぼ歩いて港を後にする現S4の姿を引きで写す突き放しかたも含めて、この一連のシーンの流れで「彼女たちが1年かけて獲得したS4の座は、獲得すればそれで本領安堵といった類のものではない」こと、今まさに外部に脅威(VA)を抱えていることさが十分に伝わるわけです。


 直後のひめ勧誘シーンから絵面がガラッと変わるのが第51話です。緊張感に満ちた交渉の場面での逆光という『ゴッドファーザー』みたいな絵がきたかと思えば、二者が相対する背後で雷がドーンという三国志の「君と余とだ」*1まんまの絵がきたりもするのです。序盤の丁寧なチュートリアルの絵面と並べると、同じ作品とは到底思えません。24分間で起こる出来事のフェイズが切り替わるたび、多様なキメ絵の数々が入れ替わり立ち替わるのが第51話です。

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すべて第51話の24分間で使用されているカット


 新たな脅威を迎え、文字通り暗雲が立ち込める四ツ星学園。そこにエルザのパフォーマンスを見るために駆けつけた白鳥ひめの姿が。ひめは気圧の影響で雨天時に体調を大きく崩してしまう人です。前年度の四ツ星で頂点の実力者であった彼女が不安げに雨雲を見上げる絵は、まさにこれから事態が風雲急を告げることを無言のうちに語ります。

 さて、第51話最大の見せ場となるのがエルザによる『Forever Dream』のパフォーマンスシーン。このステージは「今まで曲名すら発表されていない、どころかDCDゲームでプレイ可能な状態ですらない楽曲がアニメ本編で先行公開される」という異例の措置によるものです*2。「たぶんED曲の『Bon Bon Voyage!』でくるんだろう」と悠長に構えていたところを奇襲された視聴者は、アニメ本編の観客と同様に呆然とエルザの姿を見つめることしかできなくなります。

 ステージ後の沈黙を破る拍手の音。それは白鳥ひめによるスタンディングオベーションでした。その顔には笑みが。「あなた、さっきまで具合悪そうにしてなかった?」とんでもない。彼女をして立ち上がらせるほどの力がエルザのパフォーマンスにはあったということです。
 直後、次々に四ツ星学生たちのリアクションが始まります。四ツ星の人間からしてみれば「今まで身内でポーカーしてたらいきなり余所者がやってきてロイヤルストレートフラッシュを出した」みたいな状態なわけですから、動揺しないわけがありません。ひめと同様に笑みを浮かべている者(二階堂)、ドレスの完成度に撃たれている者(白銀)、その実力に絶句している者(香澄、桜庭)、様々ですが、皆一様に色めき立っています。「すごいものを見せられてしまった」という衝撃を刻みつけたエルザのパフォーマンスは、事件性としてはセックス・ピストルズのマンチェスターライブ(1976年)に近いものでしょう。その会場に居合わせた42人の観客全員が「発情」した結果マンチェスターの音楽が変わったように、四ツ星でのエルザのパフォーマンスは『アイカツスターズ!』2年目を突き動かす直接の動機として据えられている。つまりエルザは四ツ星学園全体を発情させることに成功したのです。


 ステージ後、虹野と白鳥の対面シーン。背景は夕焼け。先ほどまで天を覆っていたはずの雨雲が消え去っているとともに、明らかに白鳥ひめの様子がおかしくなっているのがわかります。 “今までのアイカツだけではきっと、彼女のステージを超えられない” 。セリフだけ抜き出すとただ重々しいだけですが、白鳥の表情を見てみましょう。両目を爛々と輝かせて口を綻ばせる白鳥ひめ。1年目では一度も見せなかったタイプの笑みをここで剥くのです。

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画像上(第35話):ひとまず虹野の力を御することに成功し、安堵の微笑をうかべる白鳥
画像下(第51話):エルザの実力に発情し、闘争の笑みを剥く白鳥

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 『アイカツスターズ!』では一度使われた楽曲にも多様な意味が加えられて*いましたが、それは人物においても同様です。ここでは前年度で一番揺るぎない人格者だった白鳥ひめの新たな側面を剥いて見せている。こんな笑い方をする人だったとは
 ちょっと考えてみていただきたいのですが、ものすごい敵が外部からやってきたとすれば、「大変じゃあ、わしらはもうおしまいじゃあ」と深刻ぶって演出することも可能だったはずです(というか、新しいスターウォーズの予告編*がそういうのでしたよね)。が、『アイカツスターズ!』はそんな安易には流れません。第51話後半の凄まじさは、深刻ぶった演出などによらない、「笑み」によって多層的な意味を語らせることに成功してしまったことにあります。


 ギンギンになってしまった白鳥が退場した後、エルザが虹野に接触します。 “私といらっしゃい。あなたをパーフェクトにしてあげるわ” 。メフィストばりの誘惑ですが、虹野は “行けません” とエルザに背を向けます。その背中を見やるエルザ。その顔に満面の笑み。

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 なんて良い顔なんだ。最高です。遅かれ早かれ私のものになるのだから今は泳がせておいてやろう、と言わんばかりの笑みではないですか。
 しかしここで、1年目を通して観てきた視聴者はひとつのことに思い至ります。エルザは白鳥の実力を見込み、虹野もろともVAに迎え入れるために勧誘しましたが、エルザは四ツ星学園外の人間であるため、白鳥と虹野が「不思議な力」を払拭すべく経過したあの苦しみを知らないのです。『アイカツスターズ!』において人間同士の関係性は双方向性のカップリング(×)よりもむしろ一方向性のフロウ(→)によって編まれていることは以前書きました*。このシーンは「エルザ→虹野→白鳥」のフロウで成り立っていますが、ここで四ツ星のアイドルたちを一方向的に睨んでいるエルザは、いつか(「不思議な力」をめぐる白鳥と虹野の苦悩を知らないことによって)四ツ星側から睨み返される日が来るのかもしれない、そんな危うさまでもが仕込まれている。ただ一方的に押されるだけでは終わらない四ツ星の未来が演出面に埋伏しているのがこのシーンです。

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 その証拠に、虹野はもはや泣きません。「不思議な力」に頼りっぱなしの泣き虫だった一年前の姿はそこにはありません。エルザの誘惑を振り切って逃げた虹野ですが、遠景のカメラからは彼女がどのような表情を浮かべているのか定かでない。歯を食いしばって苦悩しているように見えないこともありません。

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 そこで、虹野の表情のアップ。第51話の最後のカットがこれです。その顔には満面の笑み。外部からとんでもない実力者が現れ、今までのアイカツがほとんど覆されてしまったにも関わらず、彼女は笑った。もちろんこれは第1話ラストの夕焼けのシーンと対になっています。「不思議な力」に頼った反動で倒れ、わけもわからず保健室で目覚め、目の前に憧れの白鳥ひめが現れたショックで泣いてしまっていた虹野が、その一年後には新たな脅威を前にして笑っている。この状況で笑みを浮かべることができる人間になるために1-50話の1年間が必要だったことを無言のうちに説得されるのがこのラストシーンです。1エピソードも無駄にしない1年目の構成も見事なものでしたが、それを叩き台にして新たな闘争が走り出すエモを演出することができた、これは言うまでもなくシリーズ作品の中でしか成し得ないものです。

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 しかしまあ、白鳥もエルザも虹野もなんと良い顔で笑っているのでしょう。世の中には眉間にしわを寄せてしかめっ面で「重厚なテーマ」とやらを語っていれば頭が良く見えるという可哀想な思い込みに取り憑かれた作り手たちがいますが(クリストファー・ノーランがその代表格です)、『アイカツスターズ!』のように「笑み」ひとつにここまで多層的な意味を持たせることができる作品は稀有としか言いようがありません。それを実現させるために如何に執拗な言葉の仕事(意味付け)が必要とされるかは、書くまでもないことでしょう。



*1 そもそも船が襲ってきて会議や交渉を繰り返して決戦に至る話なので『星のツバサシリーズ』はかなり赤壁みがあるのですが、VA組のキャラクター性はエルザ=孟徳 レイ=荀彧 きらら=賈詡 小春=徐庶にそのまま置き換え可能です。エルザは「有能な人間欲しがりがち」「手段と目的をごっちゃにしがち」「積極的に敵を作りがち」と既にいくつかの点で強い孟徳みを見せてくれているのもたまらなく魅力的です。
 また、前シリーズ『アイカツ!』が日本史的(視える神がいて万世一系がある)だったのに対し、『スターズ!』は明確に中国史的(神は視えなくて非持続と抗争と断絶がある)構造を持っていてそこが強みなのですが、ここでは詳述しません。

*2 この異例の措置を取ることができたことも第51話の偉大さの一つです。というのは、前シリーズ『アイカツ!』はアニメ本編とDCDゲームのどちらが「主」で「従」なのか不鮮明なまま終わってしまいました。以前、どちらかに主従を決めた場合の利点欠点を考えたりしました*2-1が、『アイカツスターズ!』は「今まで曲名すら発表されていない、どころかDCDゲームでプレイ可能な状態ですらない楽曲がアニメ本編で先行公開される」という措置をとることで「アニメ本編が主、DCDゲームが従」であることを宣言したのです。そもそも1-50話の間であれほど重厚なドラマを見せることができた『スターズ!』がゲームとの整合性のために本編を犠牲にするはずがない(そんな短絡をシリーズ構成柿原優子が犯すわけがない)ことはほとんど自明ですが、まさか次弾(星のツバサ2弾:2017年6月稼働予定)で解禁予定の楽曲とドレスを本編のドラマ性拡張のために使ってしまうとは。前シリーズでの「毎弾ごとのキャラの増加とPRのインフレ」「続々追加される楽曲と本編での使われ方との齟齬」などの問題がどれほど周到に避けられていることか。

*2-1 ところで、この記事で「話数のカウントもリセットされて、タイトルも刷新されたリブートの新シリーズが開始された場合、そういう(一つの作品としての完成度を目指す)アイカツ!が始まるのかもしれない」と書いていますが、この通りのことが『アイカツスターズ!』で完璧以上の精度で達成されていることに驚きます。もちろん「きっと制作スタッフはこのブログを読んでいたんだ」とかふざけたことを言うつもりはありません。『スターズ!』のスタッフが如何に前シリーズの問題点の数々に自覚的で、現在具体的に対処できているかのあらわれだと言えるでしょう。





◎君の閉塞的な脳味噌に(第53話:乾いた不毛[aridity]とその旅程)

 さて、エルザの圧倒的なパフォーマンスに文字通り色めき立った四ツ星ですが、白銀リリィも情動を突き動かされた者の一人です。昨年度末のS4選では「S4になってから」という理由で封印していたPRドレス製作を解禁し、自分のブランドに星のツバサを下ろすために行動を起こします。冒頭から『未来世紀ブラジル』まんまの飛翔イメージが入りますが、白銀リリィがドン・キホーテ的人物であることについては1年目で周到に描かれ尽くされたことなので、何も驚くことではありません。

 以前*『アイカツスターズ!』における書物描写の綿密性について書きましたが、第53話でも図書室が重要な役割を果たします。当然ですね。白銀リリィにとっては読み・書(描)くことと自分自身を書き換える(デザインする)こととがイコールになっているのですから。自身のドレスデザインの決定打を決めあぐねていた白銀リリィと、同じく自身のデザインに迷走を重ねていた虹野ゆめとが偶然に出会いを果たすのが図書館です。
 このシーンは、自分がなにを書(描)きたいのかもわからないまま悶々と資料を渉猟した経験のある者にとっては静かにしかし痛切に突き刺さるシーンであるでしょう。虹野と出くわした白銀は “奇遇ですね” と驚いたのち、なんとも柔らかな笑みを浮かべます。第26話の保健室シーン*を思い出せば分かるとおり、虹野は白銀にとって(幼馴染の二階堂ゆず以外で)自分の話を理解してくれる唯一の人物なのですから、「この人になら話せる」と言わんばかりの、覆っていたガードが崩れるかのような微笑みを浮かべてしまうのも無理のないことです。

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“多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない”*1。白銀にとってまさに第53話は「乾いた不毛[aridity]」の時期にあったと言えます。談話室にて、白銀は虹野を前にして滔々と自分の仕事の版図を述べたてます。

“ドレスはいつも流行に左右されます。だから、一時放ったまばゆいまでの光も、いつかは色あせてしまう。私のブランドでは、時を経てもなお、輝き続けるドレスを作りたいと思っていました”
“先日、それを目の当たりにしたのです。エルザ フォルテのスタープレミアムレアコーデ、あの星のツバサは、永遠に輝き続けるものです” 。



 ここで、虹野が白銀の話をすべて理解し尽くして聞いているわけではないことに注目しましょう。虹野も白銀と同じく創作の迷いの中にいる人ですが、この二人は作風も人格も思考法もまったく違うので、ツーカーで話が通じるわけではない。しかし、誰でも身に覚えがあるのではないでしょうか、自分がなにを産みたいのかも定かでない、自家中毒のような想像妊娠のような時期に偶然に友人と出会い、近くの店に入って自分の迂路について延々と話し、否定も肯定もなしにただ苦笑まじりに話を聞いてもらった、そんな経験があるのではないでしょうか。もう一度引用します、“多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない” 。加えて引用します、 “自分が考えていることを述べるのに脈絡はいらない。自分の時間と身体で考えてきたことは、話す相手にとっては突然の飛躍、文脈の寸断でしかありえない。そういう飛躍を許さない人間に思考はない。突拍子もないことを言い出す友人と、突拍子もないことを聞いてくれる友人はいるか?”* この二つの引用で共通して述べられていることこそが『アイカツスターズ!』第53話の偉大さであり、そのことについては結論部で明らかになると思うので、覚えておいてください。

 さて、対話を経て白銀の “新たな夢、目標” を叶えるための手伝いをしたいと申し出る虹野ですが、ここでもう一人の「友人」が現れます。白銀にとっては幼馴染・親友であり、虹野にとっては昨年度で最も苦しんでいた時期にリハビリを手伝ってくれた恩人である二階堂ゆず。白銀・虹野どちらにとっても「助け」になってくれた人ですね。その二階堂が日課として白銀とのトレーニングに取り組むシーンがあります。ようやく腕立て伏せが二回できるようになったばかりの、「虹野がまだ知らない白銀の姿」を自慢げに見せつけるという、何ともくるおしいシーンです*2。白銀リリィにとって「甘え」の対象たりうる友人と過ごす時間の穏やかさ、が描かれたかと思えば、直後に “ちょっと見ていただけますか” “まだ完成には至っていません” と自分のワークインプログレスを見てもらうシーンに移りもする。日常のなんてことなさと創造する人間の産みの苦しみとが同居して進行するのが第53話です。さて、「乾いた不毛[aridity]」からの脱出をめざすこのエピソードはどこへと向かうのか。

“こんなときは甘い飲み物だぞ” 。外出です。かといって書店とか美術館とか映画館とか、直接にデザインの着想を得られそうな場所に行くわけではありません。いつも友人と過ごすような過ごし方をいつも通りに過ごすだけなのです。まったく劇的ではありません。飽くまで穏やかに時間を過ぎ行かせることなのです。
 もちろん、着想の訪れを渇望する白銀は “ゆず、ありがたいのですが、今はそんな気持ちに……” と躊躇します、が、次の瞬間に彼女は鳥の声を聴く。見上げれば窓に鳥籠。小鳥の声とともに流れる時間の静けさに微笑む白銀ですが、次の瞬間に「ハッ」と表情が変わる。着想が訪った瞬間です。
“ゆず、「書を捨てよ、町へ出よう」! ある劇作家の言葉です、その通りでした! ありがとう、さっそくデザインを……” と上ずった声で訪いの喜びをまくしたてる白銀ですが、 “ほい。慌てない慌てない、シェイクを飲んでからでも遅くないぞ” と穏やかな友人の声がそれを制する。この「乾いた不毛[aridity]」からの脱出の瞬間でさえ、全く劇的でない日常の穏やかさに回収してしまう。逆に言えば「創造する人にとって、飛躍を可能にする着想が訪れる瞬間と日常の穏やかさは矛盾しない」と言い切った、「これはそういうものだ」と言い切ったことで『アイカツスターズ!』第53話の偉大さは明らかなのです。もちろん、創造性の訪いを記録した映画やドキュメンタリー作品は数多くありますし、私もその手の傑作を多く知っています*3。しかし『アイカツスターズ!』第53話は、「毎週放送のシリーズ作品の中の1エピソードとして見せることで、創作する人々の迷いの道の長さを十分に偲ばせることができる」「実録映像ドキュメンタリーではなくフィクション作品であるため、実写ではそうそう収められないような『訪い』の瞬間を記録することができる」などのいくつもの点と噛み合い、たった24分間のエピソードで計り知れないエモを獲得しています……と、こういう賛辞の述べ方さえも適切ではないのかもしれません。繰り返しますが、異様な飛躍の瞬間と日常の穏やかさを矛盾しないものとして、まったく劇的でない、「穏やかじゃない」じゃないものとして描いたのが第53話の偉大さなのですから。

 もしかしたら、「いや、その着想がどういうものだったかがぜんぜん描かれてないじゃん、わかるように全部説明しろ」として当該シーンが不十分であるとする向きもあるのでしょうか。しかしあなたは誰かに代わって夢を見ることはできません。エリオットが『荒地』の1行目を書いた瞬間に頭の中で何が起こっていたか、コルトレーンが『ジャイアント・ステップス』の転調部を次々と書いている最中に脳味噌がどういう状態になっていたか、について何も知ることはできません。誰かの頭の中を覗き込むなど不可能だからです*4。しかし、友人と過ごす穏やかな時間の中に着想を得て、結果として決定打のデザイン(棘と薔薇で飾った鳥籠型のワイヤーパニエ)を書(描)き込んだ白銀が尋常ならざるパフォーマンスを見せる、荒野のように乾いた脳味噌に微量の閃光が差した瞬間にすべて変わる、そんな奇跡を共に待ちわびる穏やかな関係がある、それも日常の中に。特権的な劇的さとはなにも関係がないところに創造性が胚胎していると言い当てたこと、第53話の無比の偉大さはそこにあります。

 白銀リリィのひとつの達成を見届けた虹野は言います、 “わたし、リリィ先輩のドレスづくりのお手伝いをして、ひとつわかったことがあるんです。あれこれ迷うこと、それ自体を楽しまなきゃなって” 。この言を受けた瞬間の白銀の表情と声がまた絶妙です。 “そう……そうですね。本当に” 。自分で思いもしなかったことを友人に言い当てられた、自分自身の盲目をさえも喜ぶように笑うのです。あの「乾いた不毛[aridity]」の時間を一緒に過ごしていたときにはお互いに気づかなかった、そういうものをいつのまにか持ち帰っていた、この歓び。「自分で思いもしなかった」「お互いに気づかなかった」ことが重要なのです。もし創造行為と呼ばれるものが、自分の頭の中にあるものをそのまま外に出すだけの作業だとしたら、それは銀行口座から預金を引き出す作業と同じです。そんなものは創造行為の名に値しません。自分で思いもしなかったことを持ち帰ること、その旅を供にしてくれる友人がいること、その時間が日常の穏やかさと地続きであること、をここまで明晰に描き切った作品を私は他に知りません。「クリエイティヴ」だの「プロフェッショナル」だのと仰々しい気取りとは何の関係もない、理論と鍛錬と自戒の果てに創造性が受胎する、その瞬間を記録することに成功してしまったのが『アイカツスターズ!』第53話なのです。



*1 中井久夫著「創造と癒し序説」ー創作の生理学に向けて『アリアドネの糸』みすず書房刊 297P
 および、それを下敷きにしていると思われる佐々木中さんの講義ノートも参照のこと


*2 この描写をつかまえて、「腕立てを二回しかできないような病弱な人が、チェーンソーを使ったり(第37話)ロケットランチャーを撃ったり(第51話)できるのはおかしいじゃないか」と言ってなにか「設定」の「矛盾」を指摘した気になっている人間を数件ほど確認しました。まあ、優れた作品を前にしてその程度のことしか言えないのかと憐れむしかない人々はどの時代にも一定数存在しますし、本稿ではそういう可哀想な人々の「批判」などは一切無視しています、が、この件に関しては無視するわけにはいきません。

 簡略にいきます。「腕立てを二回しかできないような病弱な人が重い機械を扱えるわけがない」。この手の物言いを平気でしてしまえる者は要するに、「身体的ハンディキャップを負った人間が、重い道具を扱うような、大変なことができるわけがない」と言いたいわけですね。しかし、例えば、足が動かなくなった人が車椅子を使って驚くべきダンスをしてしまえること*は誰でも知っているでしょう。片腕を切断したドラマーが機材の工夫で何の問題もなく演奏できること*、指に障害を負ったギタリストが流麗な演奏をすること*、それどころか両腕が動かなくても両足でギターを演奏してしまえる人さえいること*、などは音楽やダンスを愛する人なら誰でも知っていることではないですか。渡邉尚の言う “特定の物と契約することで、その能力を引き出す” とはまさにそういうことです。「病や欠損を負ったから不完全」なんじゃない、そこから外部の物質と関係を結んで驚くべきことを成し遂げることはいくらでも可能です。それを言うに事欠いて「身体的ハンディキャップを負った人間が、重い道具を扱うような、大変なことができるわけがない」と言い募る「健常者」は、病や欠損を負ったところから創造を始めている人々の行為をすべて無かったことにしたいと言っているのに等しい。自分で言ったことの意味を分かっているのでしょうか。わかっている? よろしい。では、言葉の責任を取っていただきましょう。もしあなたが、本当に自分の言ったことの意味を分かっているなら、人間の身体は生まれついた五体満足の状態が完全であり、それ以外の創造性は宿らないと考えているのと同じことになります。すべての器官には決められた使い方しかないし、一度損なえばもうどうしようもない、と考えているのと同じことになります。では、今すぐ生命活動を停止してください。生まれついた五体満足の身体が完全でそれ以外は何もない、何も変わりようがないし付け加えようがないと言うのなら、どうしてその身体で生き続ける必要があるのですか。生命活動を停止してください。自分の言葉の責任を取るとはそういうことです。生きるのをやめてください。今すぐ。どうぞ。ほら、どうせできっこないんでしょう。ならば今すぐそのナメた言葉の使い方を改めることです。五体満足のくせに頭も手も足も口も耳もろくに使ってないからそのザマなんです。「健常者」で「五体満足」で「マジョリティ」であることがどんなに誇らしいのか知りませんが、病や欠損を負うことと創造不可能性を結びつける思考は根本的に差別的で醜い自惚れに基づいたものであり、また事実と反するものです。自分がどんなに惨めな「肉体」の「思考」にしがみつかれているか、そのちっぽけな脳味噌で一度考えてみたらよろしい。

*3 たとえば三宅唱監督の『THE COCKPIT』という映画があるので是非観てみてください。たった60分弱の映像の中に創造の歓びが織り込まれた素晴らしい映画で、自分にとって「創作ドキュメンタリー作品」のナンバーワンでした。が、『アイカツスターズ!』第53話の途方もない24分間を見せられてしまったあとでは、それも再考の余地が出てきています。

*4 これはもちろん、劇中の登場人物に見えているものと視聴者に見えているものとの間に断絶を置くことで豊かな作劇を生み出している*『アイカツスターズ!』の本質と噛み合うものです。





◎Boneborne文房(その「文藝」の射程)


 前項で「(創作中の)誰かの頭の中を覗き込むなど不可能」と書きましたが、しかし『アイカツスターズ!』は綿密な言葉と意味の連なりで編まれた作品なので、なぜ白銀リリィが「鳥籠からの鳥の声」からあの決定打のデザイン(棘と薔薇で飾った鳥籠型のワイヤーパニエ)を引き出すことができたのか、について理路づけることは可能です。

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 まず、白銀リリィによる『ロゼッタソーンコーデ』のワークインプログレスを確認しましょう。このスケッチの時点でも見事なものですが、デザイン自体は前シリーズブランド『ロリゴシック』の名作『ゴスマジックコーデ』の類型から出ないもの、だとは言えそうです。

 さて、完成形がこれです。ドレス着用モーションの直後、ワイヤーパニエが文字通り目に突き刺さるように飛び込んでくるカットは非常に衝撃的です。

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 この時点でいくつかの「なぜ」を引き出すことができます。

1:なぜ、白銀リリィは「鳥籠からの鳥の声」からワイヤーパニエのデザインを着想したのか
2:なぜそのパニエがワイヤー状の、クリノリンを剥き出しにしたデザインでなくてはならなかったのか



 1:からいきましょう。白銀本人が “青い薔薇のモチーフは、私のお気に入りです。今までも使ってきました” と言っていますが、同様に鳥(籠)のモチーフも彼女に親しいものです。鳥(籠)は『Dreaming bird』の歌詞に何度も登場しますし、そのモチーフ自体は何も真新しいものではなかったはず。ではなぜあの「鳥籠からの鳥の声」が彼女に「新しいアクセント」をもたらしたのか。

 ひとつ回り道をしましょう。「書を捨てよ、町へ出よう」。白銀リリィ本人が引用する寺山修司の言葉ですが、加えて丸屋九兵衛さんの言葉を引用しましょう。 “「書を捨てよ町へ出よう」は、ベリー・ゴーディ社長がスモーキー・ロビンソンに言った「スタジオを出て、ラジオを聴け」の本バージョン……とわたしは思っている。つまり「下地のある人間だからこそ」であって、中身のないヤツが街に出ても単なる通行人なのだ”* 。まったくもってその通りです。読み・書(描)くことの鍛錬を積んで書物に親しんでいた白銀リリィだからこそあの飛躍が可能だったのであって、その鍛錬すら欠いた人間がうろうろしていてもただの通行人で終わりだったでしょう。では、書物に親しんだ人間だからこそ受胎可能だった「鳥籠からの鳥の声」、その着想の飛躍とは何か。

 考古学的事実を確認します。ドイツ南西部シェルクリンゲンで、約3万5000年前の後期旧石器時代に造られたとされるフルートが出土しています*。これまで発掘された楽器の中では世界最古だそうです。その材質はなにか。ハゲワシの翼の骨です。ということは、まだ楽譜すら、文字ですら発明されていない時代に音楽を下支えしていたのは、その楽器の材料は、動物骨だったことになる。

 ここに驚くべきことは何もありません。21世紀の我々は紙に印刷されたり液晶画面に表示されたりする文字を読むことに慣れていますが、当然ながら紙が発明される前の文字記録の媒体は粘土板や動物骨でした。あなたはこの文章をiPadとかSurfaceとかのタブレットで読んでいるかもしれませんが、その “tablet” の由来がそもそも粘土板や石版です。文字は紙以前に多様な媒体に刻印されてきた。我々の直接の先輩である中国文明の「甲骨(文字)」ももちろんその媒体の一つです。しかしシュメールで発掘された粘土板がせいぜい5000年前だそうですから、約3万5000年前のものだという鳥の骨のフルートと比べれば、文字の歴史はとても若い。同じ動物骨に刻まれたものでも、音楽やダンスは文字以上に多様な歴史・様式を孕んでいることになります。

 白銀リリィは、まさにこのことに気づいたのではないでしょうか。誰よりも「書物」に親しみ鍛錬を積み、それでも着想が訪れなかった (“色々資料を繙いたり、素材探しをしてみても、それ[新しいアクセント]が何だかを未だ見出せないのです”)。そんな彼女を導いたのは鳥、生きて歌を唄う鳥、死して骨をとどめてもなお音楽の担い手となる鳥、その声を聴くことで初めて着想が訪った。つまり5000年の文字の歴史から飛躍して約3万5000年前に鳴り響いていた音楽に思いを届かせるにいたった。その飛躍を可能にする最後のひと押しが「鳥籠からの鳥の声」だった、ということになります。

2:
 もうひとつ傍証があります。セリフを引用しましょう、

“ドレスはいつも流行に左右されます。だから、一時放ったまばゆいまでの光も、いつかは色あせてしまう。私のブランドでは、時を経てもなお、輝き続けるドレスを作りたいと思っていました”
“先日、それを目の当たりにしたのです。エルザ フォルテのスタープレミアムレアコーデ、あの星のツバサは、永遠に輝き続けるものです”



『ロゼッタソーンコーデ』を造った直接の動機は、彼女がエルザの中に見た「永遠性」にあったことを見落としてはなりません。『ロゼッタソーンコーデ』を完成させるために必要とされていたのは、この「永遠性」を意味するデザインだったのでしょう。その結果として、クリノリンを剥き出しにしたワイヤーパニエが加えられたと。

 クリノリン=骨組みです。骨です。骨とはなにか。有機体が死してもなお後世に形をとどめるものです。それに手を加えて人類は楽器を造ったり文字を刻んだりしてきた、のは前述したとおりです。『Dreaming bird』の歌い手が「鳥籠を怖がっていた小鳥」に直接重ね合わされていた、のもご存知の通りです。が、第53話で披露される『荒野の奇跡』の歌い手は、籠の中の鳥を解放して飛び立たせるポジションになっています。もはや「歌う人=小鳥」の絶唱ですらなく、籠の中のものを解放しさえすればあとはどうなってもいいという、自分自身を使い切って消尽しようとする姿だけが歌われている。第53話でのステージでは、白銀リリィが蒼い焔に囲繞されるという、DCD版の映像には無かった演出さえもが付け加えられています。

 となれば、結論はこうなります。「自分が死に、焼かれてもなお後世に形をとどめるもの=骨」こそが白銀リリィの見出した「永遠性」だったと。これはロマン主義的な胡散臭い「永遠性」を意味しません。だって、実際に残っているではないですか。約3万5000年前に誰かが造った楽器が、鳥獣骨のフルートが今も現存していることで、われわれは文字が発明される遥か前の音楽やダンスに想いを馳せることができてしまう。これは単なる考古学的事実であり、情緒が介在する余地はありません。しかし驚くべきは、書物に親しみ鍛錬を積んだ人(=白銀リリィ)がたどり着いた境地が「約3万5000年前の音楽とダンス」だったということです。文字だけではそこには到達不可能だった。もっと古い藝能、歌とダンスの力が必要だったし、白銀リリィはその鍛錬を積むことも欠かさなかった。読み書くことと歌い踊ることを区別しない<文学者>白銀リリィ*。彼女でしか到達し得ない「文藝」があり、その具現こそが『ロゼッタソーンコーデ』だったということになります。

『ロゼッタソーンコーデ』。口に出して言ってみればわかるように、この衣装は「ロゼッタストーン」にひっかけた名前を持っている。ロゼッタストーンとは何だったか。紀元前エジプトのヒエログリフが刻まれた石碑でしたね。発見されたきっかけは18世紀末のナポレオン遠征でした。滅亡後に発見され、読み解かれる「文字」。その名にひっかけた『ロゼッタソーンコーデ』を<文学者>白銀リリィが着て舞い踊る……もうおわかりのとおり、ここでは特定の時空をまたいで働きかける「何か」が展開されています。それはもちろん長大な歴史を持つ歌でありダンスであり、かろうじて約5000年の歴史を持つ文字でもある。それらすべてをひっくるめた「文藝」の営み、その永遠性を祝福するために必要だったのが「クリノリンを剥き出しにしたデザイン=骨」だったということです。

 しかし、忘れてはならないのは、石碑や甲骨と違って白銀リリィは有機体だということです。つまり生命に限界があり、焼かれてしまうものです(紙=書物と同じように)。彼女自身病弱であるために、自分自身が有限であること、有機体にしがみつかれていることを誰よりもよく知っているはず。そんな存在が、物質に手を加え新しい使い道を見出すことで途方もない力を生み出してしまう。ジャグラー渡邉尚が “特定の物と契約することで、その能力を引き出す”* と語っているのはまさにそのことです。物質や道具や機械と新しい契約を結んで力を引き出す、その能力は有機体しか持ち得ない。そこにしか「創造性」と呼ばれうるものはないということです。言うまでもないことですが、白銀リリィの導き出した「文藝」をめぐるこの理路は第53話の内容とも完全に合致しています。

 もちろん『アイカツスターズ!』はわざとらしい説明を断固として拒絶する作品なので、こんなくだくだしい長文で説明はしません。しかし、白銀リリィによるデザイン一つで「文藝」をここまで拡張して見せてしまえる、この周到な意味性は一体どういうことなのでしょうか。こんな作品が毎週、年少の子どもたちをメインターゲットに届けられているのです。理路を尽くした結果に到達する飛躍の数々が、ほとんど無償で分け与えられている。この「火の分け前」の「贈与」は、自らを焼いてもなお歌・ダンス・文字が遺ると信じる白銀リリィの勇気なしには成し得なかったことなのです*1



*1 「世界には文字以前の、多様な『記法』がある」「ヒト属最初の言語は歌だった」というのは円城塔さんが小説『松ノ枝の記』で、「原稿は燃えない」「すべてを焼くことはできない」というのは佐々木中さんが小説『しあわせだったころしたように』でそれぞれ書いていることで、本項の「文藝」の定義も両名の著作に強い示唆を受けています。


 また、クリノリンの意味性に関してはTwitter上で葡萄用図氏、メグリム・ハルヨ氏と直接交わされたわけではないいくつかのおしゃべりから強い示唆を受けており、服飾の知識がほぼ皆無の著者ひとりでは本項の結論に到達することは不可能だったと思われるので、ここに記して感謝します。





◎「ゴシック」考

「ゴシック(Gothic)」。前シリーズ『アイカツ!』の衣装ブランドである『Loli Gothic』と、『アイカツスターズ!』におけるリリィの所有ブランドである『Gothic Victoria』の両方についている語ですが、この語を厳密に考えていくと、藤堂ユリカと白銀リリィ、それぞれが別の意味での「ゴシック」性を持っていることを見ることができます。

 まずは辞書を引かないことには始まりません。

Gothic adj.
1:ゴート人[語]の
2:《建築・美術》ゴシック様式の
3:ゲルマンの


 などの17世紀初出の語意が並びますが、

4:野蛮な、無教養の

 という項目が目を引きます。イングランドの文芸評論家ジョン・ドライデンの著作から用例が示されています。引用しましょう。

“All that has nothing of the Ancient gust, is call'd a barbarous or Gothique manner”



「古の息吹とは関係を持たぬ作品ども、それらは野蛮な、あるいは『ゴシック』様式とでも呼ばれるべきであろう」と訳せるでしょうか。1695年の文献だそうです。この文中では「古の息吹 (Ancient gust)」を持つ作品に劣る概念として『ゴシック(Gothique)』が置かれているようですが、ではこの「古の息吹」とはなんでしょう。ギリシャとローマです。当該用例文をちょっと遡ればローマ帝国がギリシャから引き継いだ美術作品への言及があります。「ギリシャ・ローマの正当な美と比べれば、(ゲルマンの・ゴート人の)趣味など野蛮よ」ということになるでしょうか。わかりやすいですねえ。だって「野蛮(barbarous)」の語源がそもそもギリシャの βάρβαροι で「わけのわからない言葉を話す者・異国民」じゃないですか。それを英国人の立場から「ギリシャ・ローマの影響下にない美術とか全部野蛮だぜ」と書いて気持ちよくなってるんでしょうか。イスラームとユダヤを無視して直接的にヨーロッパ文化のルーツをギリシャに求めている白人ほど悲惨なアホもないと思うのですが、それは置いておきます。

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5:中世期風の

という意味での「ゴシック」は1710-1782年ごろに共有されたようです。白銀リリィも第53話で『中世のファッション:図説』を参照していましたね。この頃に現在服飾や絵画や音楽に対して使われるような「ゴシック」の通俗的な意味が形成されたと言っていいのでしょう。もともとは建築用語だったのに、余計な人が余計な意味をどんどん加えたせいで通俗性を獲得してしまった、というので「ポストモダン」とかと近いのかもしれません。

 さて、ここで「ゴシック」に当てられた「野蛮な、無教養の」意に再度注目しましょう。 βάρβαροι の語源からもわかるように、これはそもそも「言葉」にかかわる名称だということです。ギリシャ語も話せない奴ら、と(たぶんペルシャあたりの)人々に対して憎悪恐怖半々の意味で使われていたのであろう「野蛮人」。まあ、確かに聞いたこともない外国語でいきなり一方的に話しかけられたらびっくりするし怖いですよね。しかし本項では「正当なる母国語・野蛮なる外国語」のような図式にはしません。そんなものには興味がありません。重要なのは、母国語の中においても外国語を話す人がいるということです。どういうことか。

 さあ、今回もドン・キホーテに出てきてもらいましょう。彼の雄弁さについては今まで散々書いたので省略しますが、作中でドン・キホーテの言葉を浴びた人たちのリアクションとして「当惑」があります。この騎士のコスプレしたおっさんめっちゃ雄弁なんだけど何言ってるのか全然わかんない、というタイプの反応です。ドン・キホーテは騎士道物語の読みすぎで発狂してしまい、自分を遍歴の騎士だと思い込んでしまったのですから、話し方が市井の(正気の)人々と異なるのは当然のことです。

 白銀リリィの書物への向き合い方が完全にドン・キホーテであることについては以前書きました*が、彼女の「話し方」はどのようなものだったか。第26話冒頭ではまず寒気のヴァイヴで1年生を圧倒し、初対面の虹野ゆめに宣戦布告する場面があります。台詞を引用しましょう、

“散りゆく花のように、人と人との争いは悲しい。しかし、それが定めならば、背を向けることはしません。降りかかる火の粉はこの手で払うのみです”



 雄弁です。雄弁で強烈ですね。初対面のローラとゆめが “すごい個性的だとは思っていたけど” “想像以上に強烈だね” と圧倒されているのも無理からぬことです。
 また、1年生との間で会話を成立させるために二階堂の「翻訳」が介在していたことも重要です。 “負けないぞー、ってことだよね! リリエンヌもS4になるのが夢だからさ” ときわめて簡潔に翻訳してくれたおかげで、白銀はかろうじて言葉の意味を通じさせる事ができたのでした。二階堂の翻訳がなければ、ドン・キホーテ同様に「何だこの人は」と当惑されるばかりで会話すら成立しなかったかもしれません。

 そんな「根本的に話が通じない人(=ゴシックでバルバロスな人)」が、初めて正気の人(=虹野)との対話を成立させる瞬間が保健室のシーンにおさめられている、ことは以前*書きました。白銀と虹野との間には「想像の力で現実に立ち向かう」共通点があったためです。白銀リリィには芦田有莉・桂ミキなどの友人もいますが、(第53話に明らかなように)自身の創作活動に関する話題を共有できるのは二階堂と虹野の二人のみでした。それはもちろん白銀の創作(読み・書く・描くこと)がとりもなおさず言葉と直結していたためであり、彼女自身のゴシックでバルバロスな言葉を理解してくれる人でなければその悩み・迷い・苦しみを共有することさえも不可能だったからです。

 藤堂ユリカもドン・キホーテ的人物ではあります。愛読していた吸血鬼漫画の影響で吸血鬼アイドルとして立身したのですから。しかし彼女は第20話(初登場の次の回)でもう既に星宮霧矢紫吹有栖川四人からの理解を得ており、自身のスキャンダルを吹き飛ばすための試練をくぐり抜けていたのでした。
 では、藤堂の言葉はどうなっていたか。吸血鬼の末裔という設定を忠実に演じきるプロフェッショナルを見せ、同時に吸血鬼漫画を愛する少女である素の顔を仲間たちに見られ、それによって「プロの顔と素の顔を使い分けるアイドル」としての存在が示されたのでした。白銀リリィが学内に友人を持ちながら、それでも深奥の部分(創作)の話題を共有できる人間は二階堂と虹野(=自分の言葉を理解してくれる人)に限られていたのと比べると、その差異が見えてくると思います。藤堂にとって「吸血鬼アイドルとしての言葉」はファンの前でプロフェッショナルとともに演じきるべき言葉であり、「素の自分の言葉」は学友などファン以外の仲間たちと話すときの言葉でした。つまりアイドル活動を続けながらも、「ファンか・そうでないか」によって外部の人間に対してスイッチのオンオフができたわけです(第108話でのテントのシーン*がとくに印象的ですね)

 が、白銀リリィは事情が違いますね。彼女は話し方を選ぶことなどできない。もちろん外部の人間とコミュニケーションが成立しないという意味ではありません(第33話で温泉宿の人々と楽しげに談笑することができていた姿を思い出しましょう。つまり外部への窓を閉ざすような頑なな人ではないわけです)。しかし「演じるべき姿(吸血鬼)」と「素の自分の姿(少女)」との両方を実線を隔てて併せ持っていた藤堂ユリカと違い、白銀リリィは読書を通して自分と自分のなりたいものとの間を隔てる壁を蒸発させてしまった*。だから「演じ分け」なんてできるわけがありません。アロンソ・キハーノがドン・キホーテになってしまったように “完全に正気を失ってしま” い、βάρβαροι(何を言っているのかわからない人)になってしまった。その結果として強固な知性と雄弁さを獲得しましたが、その言葉を理解してくれる人は限られてしまっている。

 まとめましょう。「野蛮な、無教養な」という意味をも持つ「ゴシック」。それは「わけのわからない言葉 (βάρβαροι)」とも関連するものでした。藤堂ユリカは吸血鬼としての自分の言葉・素の自分の言葉を使い分け、立派な「ゴシック」のプロフェッショナルとして立身することに成功しました。つまりファンと友人との両方に、別のやり方で支持・理解を得ることに成功しました。
 しかし白銀リリィには言葉の「使い分け」など不可能であり、文字通りのゴシック=バルバロスになってしまった。その言葉は雄弁でありながら当惑をも招くものであり、多くの理解者を得られるとは限らない。逆に言えば、第53話で「自分の言葉を理解してくれる少数の友人たちとの憩い」を描く事ができたのは、白銀リリィがあくまで「言葉」の人だったからこそ可能だった、のかもしれません。

 かように、同じ「ゴシック」の語でも両者には質的な意味の違いが存在します。その差異を生じさせたのは「言葉」の使い方、「言葉」への向き合い方だった。どちらが良いとか悪いとかどちらが幸せとか不幸とかいう単純な話ではもちろんありません。しかしこの差異に、『アイカツ!』と『アイカツスターズ!』との間の「言葉」をめぐるなにかの差異、をも見る事ができるでしょう。


・<ゴシック>と「ゴス」

 さて「ゴシック」の語意、および藤堂ユリカ・白銀リリィ両者の差異について見てきましたが、ここで「ゴス(Goth)」についても見ていきましょう。音楽・映画・ファッションのジャンルとして用いられる意味での「ゴス」です。高橋ヨシキ氏の文章を引用します。

 今ある「ゴス」という略称は、1982年か83年に、ザ・カルトのイアン・アストベリーが、セックス・ギャング・チルドレンのアンディ・セックス・ギャングを指して使ったのが最初とされています(※)。それが徐々に知られるようになったのはイギリスの音楽新聞「NME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)」が「ゴス」「ゴシック」をたびたび紙面で扱ったからです。そうして段々と、単なる音楽の趣味としてではない、ライフスタイルとしての「ゴシック(ゴス)」は浸透していきました(ポジパンとかニューロマは音楽のジャンル、あるいはそのファンを指す言葉なので、「ゴス」とはちょっと名称の役割が違うわけです)。

(※注:『VAGUE』というジンを作っていたトム・ヴァーグが1983年の10月にサザン・デス・カルト、のちのザ・カルトのファンを指して使ったのが最初という説もあります。どっちにしろザ・カルトがらみで初めて使われた言葉ということになっているのが面白いです)
Crazy Culture Guide Vol.22



 さらに氏は、「ゴス」の語を使うにおいて「1:憧れの対象、あるいはロールモデルとしての〈ゴシック〉」「2:必然としてゴスくなってしまった人たち」のふたつの意味を区別する必要がある、と言います。その「(2:の意味での)ゴス精神の映像化」として氏が挙げるのは、もちろん『バットマン・リターンズ (1992年)』のキャットウーマン誕生シーンです。



 たしかにセリーナ・カイルは「必然としてゴスくなってしまった人」です。彼女にとって他に取るべき手段があったでしょうか。差別的な職場で見くびられながら理不尽に命を奪われ、心の臓まで黒に染まってしまったのだから、レザーの衣装を着て復讐に身を窶すしかなかったのです。
(ちなみに、このキャットウーマンの男性版に相当するのが『クロウ:飛翔伝説 (1994年)』の “Burn” のシーンです。地の底まで落とされた人間のドス黒い情念が迸っていて、その悲しさ無残さカッコよさに何度見ても号泣してしまいます。もちろんキャットウーマンのシーンもそうです)

 さて、では「1:憧れの対象、あるいはロールモデル」としての〈ゴシック〉とはどのような人物でしょうか。高橋ヨシキ氏は具体的な例を挙げていないので想像になってしまうのですが、おそらく ALI PROJECT の宝野アリカさんなどがそうではないでしょうか。というのは、高橋ヨシキ氏が「(2:の意味での)ゴスと貧乏との切っても切れない関係」について触れているからです。なぜゴスがあんな黒い服ばかり着るのかといったら、もちろん暗黒を外面的に表現したいというファッショナブルな意味もあるでしょうが、たんに「汚れが目立たないから」「替えの服があんまりないから」という実際的な理由もあるでしょう。他にどうしようもないから黒い服ばかり着るしかない、というのは「必然としてゴスくなってしまった人」の条件に見合うものです。 “Health Goth”* というインターネットミーム発祥の新しいゴスファッションは、「高価な中世風のゴシック服なんて買えないから黒のスポーツウェアでニンジャっぽくしとこう」という志向なのかもしれません(理不尽に命を奪われ復讐鬼として復活するキャットウーマンおよびクロウのバックグラウンドは、そのままフジキド・ケンジのそれと通じます。また、セリーナ・カイルがキャットウーマンになるための衣装づくりがすべてハンドメイドだったことも思い出しましょう。レディメイドにしろオーダーメイドにしろ誰かに作ってもらったものを着飾るような余裕は彼女には無いので、自分のクローゼットにある服を切り裂いて縫い合わせて身に纏うしか手段はなかったわけです)

 もうお気づきとは思いますが、「1:憧れの対象、あるいはロールモデル」としての<ゴシック>になるためには金がかかるのです。ALI PROJECT のジャケット写真やステージ衣装を見ているとたいへん豪華で美しいですが、あれを市井の人間が所有するとなれば経済的・環境的に多くの制限を受けそう(そもそも高温多湿の国であの衣装を管理・維持する事自体が大変そう)です。それらのリスクをすべてクリアするために『Loli Gothic』は古城スタジオを所有していたのでしょう。そのブランドに選ばれた藤堂ユリカは「1:憧れの対象、あるいはロールモデル」の<ゴシック>であると言えそうです。以前書きましたが*、彼女はファンである持田ちまきの問いに対してとても規範的な回答を示し、ゴシックアイドルロールモデルとしての役目を十全に果たせていたのでした(ただし、彼女に吸血鬼への変身願望をもたらしたはずの書物の存在は消え去っていましたが)

 白銀リリィはもちろん「2:必然としてゴスくなってしまった人」です。運命の本を読んでしまった彼女に、他にどういう選択肢があったでしょうか。読んでしまったことを無かったことにはできません。言葉の人である彼女は、ドン・キホーテ同様に本の中の姿に導かれるままに自分自身の姿を書き換えた。そのこともそうですが、「ゴスと貧乏との切っても切れない関係」を加味すると、「白銀リリィが『Gothic Victoria』を立ち上げる直接のきっかけは学園の財政難だった」ことも汲まなければなりません(第39話)。アイカツアイランドの興行で赤字を出してしまった諸星学園長(おお、誤れる父親*よ)が、新しいスポンサーを探す役目を白銀リリィに任せた結果、彼女自身のブランド立ち上げの予算をも勝ち取ることに成功したのでした。ここで『アイカツ!』と『スターズ!』では「ブランド」の定義も変わっていることに気づくでしょう。両シリーズの「デザイナー」の意味性の違いついては以前委曲を尽くしたので省略しますが、『スターズ!』ではミューズ(白銀リリィ:デザイン描画およびその衣装を着てのパフォーマンスを担当)とオーナー(ピロシェンコ氏:主にドレス発表のための運営を担当)のふたつのポジションがあり、その唇歯輔車で「ブランド」が成り立っています。一番近いのはニジンスキーとディアギレフの関係性でしょうか。アーティストとパトロン、と言ったほうがわかりやすいかもしれません。さらには白銀リリィは自身のブランドを持つ前から書きためていた膨大な衣装のバリエーションがあり、その中から精選したものをブランドの名で出しているわけですから、著者と出版社の関係にも近いかもしれません。重要なのは、「シーズンごとに次々とPR, Rドレスが追加されていた『アイカツ!』に対して、『アイカツスターズ!』のスタープレミアムレアドレスはミューズが苦心惨憺したデザインで打って出なければならない」ことです。2年目からはエルザの登場により『星のツバサ』の獲得がストーリーの核となるので、「ブランド」はその星を降ろすための装置(幕屋)としての役割も担うことになります。そのためには invisible な存在である「アイカツシステム」に選ばれねばならず、そのためにミューズは自身のドレスで賭けなければなりません(前年でS4の座をめぐっていた「賭け」が、今年では星を降ろすための「賭け」に変わっているわけです)。そのために第53話のリリィは「賭け」に向き合ったわけですが、生半可なドレスを出しては「アイカツシステム」は許さないでしょうし、他の誰よりも彼女自身が許さないでしょう。そのために「乾いた不毛[aridity]」の時期を耐え抜き、最良の着想の訪いを待つ必要があったわけです。ということはその間、二階堂からの連絡を受けるまでピロシェンコ氏は白銀リリィに対してスタープレミアムレアドレスのデザインを催促したり、それどころかスタープレミアムレアドレスの製作を白銀リリィに依頼することすらしていなかったことになります(『ロゼッタソーンコーデ』製作の直接的な動機は白銀リリィの個人的な情動=エルザに見た「永遠性」にありましたし、二階堂がピロシェンコ氏に連絡するまでは発表の場すら予定されていなかったことを思い出しましょう)。つまり「作品が受胎するまで仕事を続けてくれたらいい、どれだけ時間がかかっても構わない」、つまり「作品の完成を待ってすらいない」のが「オーナー」のスタンスであり、虹野のブランド『Berry Parfait』の「オーナー」がそうだったように十分な水準に達していないデザインは発表を取り下げるという編集者めいた役割も担っていたのでした。
 ますます著者と出版社の関係性に似てきましたね。もちろん週刊連載の展開に頭を捻る漫画家とか原稿を催促する編集者とかそういう図式のことを言っているのではないですよ。 “「待たれざる状態」とは仕事をするための必要条件にほかならないわけですからね”*1 。『アイカツスターズ!』は読み・書くことについて極限まで誠実に考え抜かれており、言葉と創造とが直接結びついているので、受胎した作品で星のツバサを降ろそうとする「賭け」が一冊の本を江湖に問うまでの「乾いた不毛[aridity]」の時期と重なりあうのも自然なことです。


 さて、「ゴシック」の語意と「言葉の人」白銀リリィを見ていくうちに本稿の論旨も一周した感があります。βάρβαροι(何を言っているのかわからない人)、必然としてゴスくなってしまった人、それは「自分にはそれ以外どうしようもない」という情動に突き動かされて生きている人です。白銀リリィ、ドン・キホーテ。彼女ら彼らの言葉がすべての人々に理解できるわけがありません。市場原理に受け入れられうるものでもないのでしょう。ヘルダーリンもシラーに見捨てられて発狂してしまいましたし、クライストはゲーテにディスられて自殺してしまいました。が、そんな苦しみの中で想像を続けていた人々の姿を無かったことにはできません。“歌やあこがれをめぐる描写から呪いや狂気を検閲しなかった”*『アイカツスターズ!』を前にして「これはいかにもどうかと思う」などと口早な誹謗の言葉を放って踵を返すか、それともその真摯さに導かれるままに付き合うか、どちらの態度をとるかはその人の「言葉」に対するなにかが直接暴露されうるものである、と私は思います。



*1『記号と事件』河出文庫刊 219P



札切る後裔(『アイカツスターズ!』の1年間に捧げる7つのリスペクト)

>>姉妹稿

 始まる前からやばいやばいと騒いでいた『アイカツスターズ!』ですが、1年目の放送を終えて、脚本でもキャラクターでも音楽でもあらゆる面において期待の3億倍くらい凄まじいものを見せられた、という事実に打ちのめされます。絶対にえげつないものになるとは思っていましたが、ここまでとは。
 本稿は、『アイカツスターズ!』の1年間を見せつけられたことに捧げる7つのリスペクトです(「考察」や「分析」などでは断じてありません)。音楽に関しては既にいくつか * * * 書いたので、本稿ではアニメ本編を創ってきた人々の尋常ならざる創意についてふれていくことになるでしょう。本編未見の方にとっては何が何だかな記述も多く含まれますので、まずはBlu-rayボックスを買うバンダイチャンネルに課金するなどして今すぐ全話見てください。たったの50話しかありません。スタートレックTNGの178話とかに比べれば一瞬です。
 各項は独立した内容であるとともに横断的に絡み合っているので、まずは気になった項のRESPECTから先に読んでみてください。


【目次】

◎RESPECT1 匠の手つきで火薬庫を造る(シリーズ構成:柿原優子の手際)
◎RESPECT2 S4選・導火線の走り(タイムリミットの設定とその成果:AS!ep37-50)
◎RESPECT3 特権的視点の優位の排除(博徒と観衆)
◎RESPECT4 いばらのショーマストゴーオン(勝負の成立可能性・札切る後裔)
◎RESPECT5 誤れる父親の姿(諸星ヒカル:勝ち目の見えない盆暗男)
◎RESPECT6 何度でも生まれ変わる楽曲たち(The song NEVER remains the same)
◎(DIS)RESPECT7 More than meets the Ai(絵コンテ・演出の多層性)


【凡例】
・人名は敬称略。作品名は『』で、歌詞、セリフ、文献等からの引用句は “” でくくる
・煩雑を避けるため、前シリーズ『アイカツ!』の放送話数は「A!:epn」で表記し(例:アイカツ!第128話→A!:ep128)、『アイカツスターズ!』の話数は「AS!:epn」で表記する(例:アイカツスターズ!第30話から第36話→AS!:ep30-36)
・fc2ブログにはルビ機能がないため、特定の語にルビを振る場合はその語の後に[ ]で表記する(例:強敵[とも])
・註、関連項(稿)、参照記事などについては適宜リンク先を指定する






◎RESPECT1 匠の手つきで火薬庫を造る(シリーズ構成:柿原優子の手際)

『アイカツスターズ!』のシリーズ構成を担当したのは脚本家:柿原優子。この名を銘記しましょう。前シリーズではあかりジェネレーション(A!:ep102以降)7話ぶんの脚本を担当しておられた方ですが、(個人的には)前シリーズでは手放しで絶賛できる回はありませんでした。特にA!:ep144、『オズの魔法使』ネタのドレスを氷上スミレが手にする回だというのに、『オズ』モチーフおよびデザイナー夢小路魔夜の存在などが等閑にされすぎでは……? と困惑したこともありましたが、

・「アイドルに代わって衣装をデザインする者=デザイナー」という存在の比重の小ささ:またはその代謝【→RESPECT4】
・それによって浮かび上がる博徒としてのアイドルたち:並びに勝負の成立可能性→【→RESPECT3】 , 【→RESPECT5】
・一話完結性ではなく、シリーズを貫通するキャラクターたちの関係性に重点を置いた作劇【本項】

 という、A!:ep144で部分的に明らかだった脚本家:柿原優子の持ち味が全面的に炸裂したのが『アイカツスターズ!』だったと言うことができます。順を追って見ていきましょう。


・『アイカツ!』火気厳禁の世界

 “ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり、代わりに、「皆で一緒に笑いながら身近な幸せを改めて感じ、明日を信じる力、未来への夢を持てる作品」が必要だろうということになった” 。前シリーズの構成担当である加藤陽一はそう証言しています。結果、『アイカツ!』はとても素晴らしい作品として記憶されることになりました。その大きな要因は、 “ネガティブな出来事” が起こりそうになるとすぐさま鎮静される、言うなれば「消火装置」が内蔵されているかのような作劇法を取っていたことにあります。みてみましょう。

・消火実績

A!:ep37
 紫吹蘭は美月のユニット「トライスター」の一員として選ばれたが、ステージで十分な力を発揮できない
→美月は蘭の苦悩を見抜き、トライスターを脱退して星宮・霧矢のユニットに合流するよう促す(その日のライブは蘭を除く2名で済ませる)


A!:ep47
 過密スケジュールの無理がたたり、神崎美月の疲労が蓄積する
→美月のあこがれであるマスカレードの復活ステージを見たことで回復し、美月自身も最高のステージを見せる


A!:ep96-97
 大空あかりは特訓を重ねてもスペシャルアピールを習得できず、自分にアイドルの資質はないと諦めかける
→先輩である星宮はかつて霧矢から受け取った手紙を思い出し、助言を授け、結果として大空は初めてのスペシャルアピールを達成する



 これでもほんの一部です。『アイカツ!』において、個人と外界との摩擦によって起こる苦悩や葛藤などは積極的に消火されるのが常でした。2年目以降では「このキャラクターがここまでのことをやれる理由は過去の経験にあった」という(以前「「事後報告」」として書いた)構造も内蔵されていて、それらの装置が『アイカツ!』のキャラクターたちの「成長」の描写を円滑にしていたと言うことができます。

 その「終着点」である劇場版短編『ねらわれた魔法のアイカツ!カード』を見てみると、大勢のキャラクターが出演しているにもかかわらず、それぞれがキメ台詞や得意技を披露しながら楽しく共存している世界が展開されています。星宮いちごによってバトンを授かった大空あかり、によって安全に管理経営された、みんな平等に出番が与えられる、誰も傷つかない、素晴らしいユートピアは、『ねらわれた魔法のアイカツ!カード』において完成を見ました。

 さて、そのようにして前シリーズは「解決」しましたが、『アイカツスターズ!』シリーズ構成たる柿原優子はどのような方途に打って出たか。


・『アイカツスターズ!』ここに火薬庫を普請する(AS!:ep1-36)

「消火装置」を内蔵していた前シリーズになぞらえると、『アイカツスターズ!』の四ツ星学園は「火薬庫」のような世界だということができます。表を見てみましょう。
 歌組の所蔵火薬一覧
 AS!:ep1においてすでに虹野ゆめの謎めいた力(also known as 爆弾)の存在が示され、それとともに「なぜ驚異的なパフォーマンスができたかの謎」の装置(EE)が駆動するわけですが、じつは虹野ゆめの入学以前から四ツ星学園には爆薬が積み込まれていた━━どころか一度爆発事故を起こしていた━━ことが明らかになります。言うまでもなく、学園長である諸星ヒカルの姉に訪れた象徴的な死(アイドル生命の終焉)*1-1のことです。

 確認しましょう。諸星ヒカルの少年時代に、なんらかの力(AKA爆弾)によって姉である雪乃(諸星)ホタルのアイドル生命が断たれてしまう。その力(AKA爆弾)の正体は作中でも具体的な説明が与えられず、ヒカルは憔悴していく姉をただ見ていることしかできなかった(ここでなぜ現在ヒカルが四ツ星の学園長に就任するに至ったか、について色々想像を巡らせることもできますが、やはり作中でも具体的な説明は与えられません。この諸星姉弟をめぐる運命に「具体的な説明が与えられない」ことについては後に触れます)

 さらに2016年度のS4である白鳥ひめが、虹野ゆめと同様の力(AKA爆弾)を抱えていたことが明らかになる(AS!:ep30)。しかし白鳥ひめは諸星ヒカルの指導によりなんとか現在まで生き続けており、ひめ本人も雪乃(諸星)ホタルの真相を知らされたのはAS!:ep33の時点だった。なぜ事ここに至ってヒカルは過去の爆発事故のことを知らせたのか。もちろん、同じ爆弾持ちの虹野ゆめの症状が亢進している(力への依存度が上がっている)からです。かつて姉(ホタル)が在籍していた歌組のなかに、よりにもよって同じ爆弾持ちの生徒が2人もいる。ひめの症状は今のところ鎮静化しているけども、その力(AKA爆弾)に頼りっきりの虹野は、いつホタルのように爆発するかわからない。ただでさえ(夏季まで病者として高原で療養していた)白銀リリィが帰還し、虹野や桜庭とも交流を深め影響を与えあい、年度末のS4選が熾烈を極める予感が強まっているというのに……
 と、AS!:ep1から始まる「なぜ虹野ゆめは驚異的なパフォーマンスができたか」の謎装置は「火薬庫」こと四ツ星学園に次々と爆薬を搬入する役割を果たし、その緊張[テンション]はAS!:ep30-36にかけてピークを迎え、周囲の人物を巻き込みながら、虹野ゆめの生存が賭けられるエピソード群に突入する。いよいよ普請奉行たる柿原優子の手腕が発揮されてゆくわけです。


・保菌者[carrier]たちの闘い

「爆弾持ち」という書き方をしましたが、これを保菌者[carrier]と置き換えてもいいでしょう。「力」に取り憑かれた者(ホタル・ひめ・ゆめ)は一様に病に憑かれたかのように憔悴しています。 “同じ運命に選ばれた” とひめはゆめに言っていますが、この言葉尻をつかまえて「結局『スターズ!』は選ばれた人間(にしか与えられない才能)の話なのか!」と憤慨するのはさすがに無理があります。むしろ、『スターズ!』において「選ばれた」ことは「呪われた」ことをしか意味しない。 “わたしを選んでくれたの ありがとう” どころの話ではなく、何の説明も与えられない、謎の爆弾めいたものをなぜか握らされてしまった、そこから始まる生存のための struggle が『アイカツスターズ!』です。『アイカツ!』では “受け取ったバトン次は わたしから渡せるように” でしたが、「そのバトンがダイナマイトだったとしたら?」なのが『アイカツスターズ!』です。「そんな、いかにも一面的な」と眉をひそめたでしょうか。しかし『スターズ!』(AS!:ep1-36)は歌と生存とが賭けられている作品として首尾一貫しています。歌うことに憧れ、憑かれた人々は、往々にして半ば狂気に見える(昨年公開の『ブルーに生まれついて』がまさに、自分の体内にいつのまにか巣食った毒を抱えながら歌い続ける作品だったように)。歌やあこがれをめぐる描写から呪いや狂気を検閲しなかった、まずここにこそ前シリーズとの決定的な差異があります(が、「破滅」は注意深く切り捨てられています。歌手やミュージシャンの破滅的な人生とかとかいうものはごく凡庸で退屈なモチーフにすぎない。『スターズ!』は死や破滅に抗して生存を続けることにフォーカスを絞ることでその短絡を注意深く避けており、むしろ「破滅」とは別のブレイクダウンの過程を設定したところにシリーズ構成:柿原優子の手腕があります【→RESPECT2】また、音楽と暴力を抱き合わせて「刺激」を描くような━━たとえば三流教師の虐待のもとに血を流しながらドラムを叩くことでなにか「刺激的」な「音楽への執着」みたいなものを観客に叩きつけた気になっている粗雑で幼稚な音楽映画のような━━手法も注意深く切り捨てられています。「学校での訓育」と「虐待」は絶対に同じものではない、というイズムさえ一貫しているのが『スターズ!』です【→RESPECT5】)。むしろ、前シリーズで SHINING LINE* の名で呼ばれていた「あこがれ」のプロセスは、その過程で何かの信管を抜くための措置だったのではないか、という問いも有効ではあるでしょう*1-2


・生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける

 さて、ここに来て『アイカツ!』『アイカツスターズ!』両作品の差異が明確になってきたと思います。一息で言えば、「『アイカツスターズ!』は人が死ぬ世界の作品である」。もっと言えば、「人は mortal だが神は immortal で invisible な世界の作品である」
 順を追っていきましょう。

 諸星ヒカルは言います。白鳥ひめに憑いた力(AKA爆弾)は “ステージの神様に与えられた試練” だと(AS!:ep35)。しかしこの「神」は姿を現しません。つまり目に視えません。である以上、なぜこんな力を与えられたか、具体的な説明が与えられない。神なるものは無限であるがために認識できず、有限である人間は、なぜ自分の身に苦しみが降りかかるのかも理解できない。ヨブ記です。 “あなたの両の目は肉〔の目〕なのか、 / 人が見るように見るだけなのか”*1-3と神なるものに陳情しても、その謎を与り知ることができない。だから理不尽に肉体を呪われたところから始めるしかない、当事者たちの闘い*1-4。それはおそらく80年代にレーガン政権下で続いていたパラダイス・ガラージの闘いでもあり、そこでも歌が賭けられていた*1-5。以前『劇場版アイカツスターズ!』に関して “身体の内側になぜかとんでもないものを抱えてしまった人たちが、それでもそこでしか歌えない歌を残してゆく、ひじょうにフレディ・マーキュリー的なショーマストゴーオン精神に貫かれている”* と書きましたが、もちろん80年代のAIDS禍を意識してのものです。そこには歌があった。自分の肉体を蝕むモノの正体もわからないまま、それでも生存を続けようとする者たちの歌が(保菌者を意味する carrier が「続ける」をも意味する carry の名詞系だったことを思い出しましょう、あの絶唱の結句が “I have to find the will to carry on” だったことも)

 もう一度言いましょう、「『アイカツスターズ!』は人が死ぬ世界の作品である」。それはAS!:ep1のラストで既に示されていました。保健室の壁に「インフルエンザ対策」のポスター。ご存知の通り、『アイカツ!』においてはアイドルに病的な・身体的な危機が迫る描写は注意深く切り捨てられていました。
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(長い括弧なので段落を切ります: 氷上スミレの喉のダメージが強調されるA!:ep117が例外的ではありますが、その不調もエピソードの最後には完治していました。A!:ep130で黒沢凛が足を負傷するのもさほど重要ではありません。あの回の要諦は『チュチュ・バレリーナ』の “さぁ脚を休めて” という歌詞をそのままスミレと凛の関係に適用することにあり━━「鉄の女サッチャー」と聞いてモビルスーツを連想するがごとき「慣用的表現を文字通りに描写する」傾向は、A!:ep8で「地下アイドル」を「実際に地下のスタジオで活動しているアイドル」として見せたことからもわかるように、『アイカツ!』に特有のチャーミングさでもあります。だからこそ「壁を乗り越える」ことを描写するために「素手で崖を登る(A!:ep9)」ような飛躍が可能だったわけです━━、やはり凛の負傷もエピソードの最後には問題でなくなっていたのでした。もちろん瀬名翼が体調を崩すA!:ep167は勘定に入りません。瀬名翼はアイドルと同じくらいかっこよくてチャーミングな男性で私も大好きですが、彼は衣装を着てステージに立つわけではありません。A!:ep13の星宮いちごの肥満はクローネンバーグっぽい危機描写━━精神的危機が身体に直接反映される描写。『THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!』の矢吹可奈も同様━━だとは言えますが、あれも神崎美月のアドバイスで最終的には解決されていました。あの回が神崎美月の食事シーンを含む唯一の回であることは特筆に値しますがここでは関係ないので註に譲ります*1-6。『アイカツ!』1年目はまだ気持ちがレイムだった頃の星宮が業界での振る舞い方を覚えてゆくエピソードで固められているので、この時期のエピソードを「プロフェッショナル論」「仕事論」として見ることは容易になっています。しかし『アイカツ!』初期において星宮のレイムぶりが矯正されてゆく流れは、星宮をモノホンプレイヤーに育て上げるためというよりはむしろ、星宮がレイムなままでは神崎がいつまで経ってもトップアイドルの座から追放されないから、もっと言えば目に視える神[神崎美月]の死を人-神[星宮いちご]が執行するという「物語」が成立しないから。ここに『アイカツ!』の構造そのものに要請される倒錯があった、と言うことはできるでしょう。『アイカツ!』のスターライトクイーンと『アイカツスターズ!』のS4が全く別の意味合いを持っていることなどについては【→RESPECT4】

『アイカツ!』のアイドルたちは「消火装置」によって身体的・精神的な危機から遠ざけられていました。しかし『スターズ!』では病が人間を苛む世界=人が死ぬ世界であることがAS!:ep1で宣言される。保健室のシーンで一緒にいる白鳥ひめ・虹野ゆめの2名がすでに「保菌者」であること、四ツ星学園ではすでに雪乃(諸星)ホタルがアイドルとして象徴的に死亡していたこと等、AS!:ep36にいたるまでの主要素がAS!:ep1ラストの時点ですでに出揃っている。人は mortal だが神は immortal で invisible な世界で、理不尽な呪いの中でどんな手段に訴えたらいいのかも知らない、それでも生存を続けようとする人々の賭場=四ツ星学園を周到に設計したこと。柿原優子が打って出た勝負はここにあります。

 なぜ『アイカツスターズ!』では素手で崖を登らないのでしょうか。落ちたら死ぬからです。人が死ぬ世界である以上、前シリーズのように素手で崖を登るなどの “超人”(A!:ep102で霧矢が星宮を指して言うセリフ)めいた行動は許されない。代わりに必要とされたのは discipline, 生存のための規律と訓育だった。そこからしか始められない人間の製造【→RESPECT5】を描いた作品として、『アイカツスターズ!』は驚くべき一貫性を持っています。


*1-1「象徴的な死」の意味補足
 もちろん諸星ホタルは肉体的に死亡したわけではありません。彼女は現在(学生時代からおよそ20年後?)市井の人間としてかわらず生き続けており、AS!:ep36では悩めるゆめのために朗らかにアドバイスする姿もあります。が、前述のとおりアイドルとしての生命はすでに喪われており(いつも飲んでいるはずのローズティーさえ冷まさずには飲めないほどの猫舌=舌を焼かれた人である というえげつない暗喩をさりげなく入れてくるのも『スターズ!』の恐ろしいところです)、かつての歌組S4たる雪乃ホタルの姿はもうありません。
 これは加齢とかではなく、あの力が爆発した時点でアイドルたる雪乃ホタルは死亡し、現在では市井の人間たる諸星ホタルが生きている、この断絶を強調するための描写だと考えるべきでしょう。雪乃ホタルはもういない、彼女がかつて生存していたことを目に視せてくれるのは、ただ写真におさめられた姿のみである。しかし一体彼女に何が起こり、どのようにして死んでしまったのだろうか……という想い(プンクトゥムがどうとか言うつもりはありません)は、そのまま虹野自身の「このまま力に頼り続けたら、一体どうなってしまうのだろうか」という先行き不明な未来ともかかわるものです。

 今はもういないアイドルの姿、それは前シリーズにおいてはレジェンドアイドル:マスカレード(現スターライト学園長の光石織姫[ヒメ]・後に星宮いちごの母親となる星宮りんご[ミヤ])に相当するでしょう。その描写と比べると、両作品を分かつ差異はさらに明瞭となります。
 雪乃ホタル(アイドル)と諸星ホタル(市井の人)と━━死者と生者、と言ってもいいですが━━を分かつ分断線は不可逆なものですが、マスカレードの2人は現在でもマスクを着けさえすればアイドルユニットとして復活できた(A!:ep47)し、その歌声は過労で倒れた神崎美月を全快させるほどの力を持っていたのでした。渡されたバトンが救いをもたらす、(シーズン2で名付けられるところの)輝きの SHINING LINE* 。それは素晴らしい。しかし『スターズ!』ではもはや「あこがれ」は救いを意味しない、なぜかダイナマイトを握らされてしまった状態から始まる生存のための闘いが賭けられていることは本項で書きました。どちらが良いとか悪いとかいう話ではありません。ここにこそ「人間は immortal・神は mortal で visible 」な『アイカツ!』と、「人間は mortal・神は immortal で invisible」な『スターズ!』との本質的な差異を見ることができるでしょう。


*1-2
 このことについて、以前「デザイナーなるものの存在の有無」から前シリーズと『スターズ!』との質的な違いを検討したことがあります。

*1-3
 ヨブ記10:4(旧約聖書翻訳委員会訳)

*1-4 当事者性についての註
『アイカツスターズ!』で繰り広げられていることを見るにおいて「当事者性」はとても重要です。以前私は、『アイカツスターズ!』の学校観についての記事で

“「いや、そこまで考えて作られているでしょうか」「そんな入り組んだことを描いて、こどもたちが理解できるでしょうか」と言うのは端的に誤りです。なぜなら、『アイカツスターズ!』のメインターゲット層である彼女ら彼らは、このノートで書いてきたすべてのものごとの当事者なのですから。今まさに学校のなかにいて、読み方を、書き方を、数え方を、走り方を、座り方を、「仕込まれ」て「調教され」ている最中なのですから”


 と書きました。逆に言えば、私たち(就学年齢を終えて成人した人間)はもう当事者ではない、学校空間での訓育を経て彫り出されたあとの人間であるということで、これはのちの特権的視点=視聴者【→RESPECT3】
とも関わってきます。また、(それを受けるまでの経路は様々であれ)いま自分が読み書き演算ができるのは何らかの訓育の結果であるということ(自分がどのように製造されたか、ということ)を見ることができない態度が何を意味するか、については別註でもふれています* し、「自分がどのように製造されたか」を誠実に見据えた結果が早乙女あこの賭けだったことも付け加えておきます【→RESPECT2】
 また、『スターズ!』の呪い(爆弾)がヨブ記やAIDSに結びつけられたことに眉をひそめたでしょうか。そこにこそ「(非・)当事者性」がまつわっています。ヨブの友人たちが好き勝手なことを言い散らすことができたのはあの呪いの非・当事者であったからからで、何の因果でこんな目に遭わなければならないのか苦悶しているヨブとはそもそも対話が成り立たない。もし(今のところ)非・当事者である私たちが『アイカツスターズ!』のヨブたち(ホタル、ヒカル、ひめ、ゆめ)の苦悩に寄り添うことができるとしたら、「お前はああいうことをしたからこうなったのだ、そうに決まっている」式の因果応報思考を捨て、「どうしてこうなったのか」のわからなさに向き合うことでしか為され得ないでしょう。さながら80年代初頭のAIDS禍でこの症状の「わからなさ」に向き合っていた人々のように(さすがに未だにAIDSをゲイやニードルワーカーに特有の病気と思っている者はいないと信じています。ちなみに、AS!:ep30でひめがゆめに「力」の話をする場面は、『ストレイト・アウタ・コンプトン』でEazy-EがHIV陽性の検査結果を告げられる場面のカットに酷似しています。この回の絵コンテを描いた木村隆一が『ストレイト〜』をみていたかどうかはどうでもいいことです。多分みていないと思います)。

*1-5
 これをへんに情緒的なこととして解釈しないでください。彼らが互助組織(GMHC)運営資金を調達するためにヒット曲が必要とされていた、という実際的な事情のことを言っています(『パラダイス・ガラージの時代』下巻に詳しい)。

*1-6
 以前*、神崎美月について “彼女が食事を摂っている場面は全く描かれない” と書きましたがこれは間違いです。A!:ep13では肥満した星宮に助言する流れで焼き芋を口にする描写があります。これを差し引いても神崎にまつわる食事描写の少なさは際立ったものですが、トップアイドルの座を追われる以前の彼女を踏まえると、A!:ep122の劇中劇で「食べ物を食わされる」ことによって神崎が退治されていたのは色々な意味で象徴的だったと言えるでしょう。「あなたはもう one visible god ではない、他のアイドルたちと同じ one of them なのだから、地上の糧を食べ、超越的な存在でいることをあきらめなくてはならない。あなたは星宮によってトップアイドルの座を追われたし、その「バトン」は既に大空に渡されたのだから」。

“Learning that we're only immortal -- For a limited time”
Dreamline / Rush


という、「あらかじめ目に視える神(神崎)として設定された者がいて、人のような神のような存在(星宮)がその座を襲名し、そこから選ばれた人間(大空)が統治が引き継ぐ」プロジェクトによって『アイカツ!』は回されていました。別項【→RESPECT4】
で私が「王権神授的」と書いているのはこのことですが、さらに「新約聖書的」と加えることもできるでしょう。偶像崇拝が禁じられていたのにもかかわらず、偶像と図像の深い隣接関係から豊富な図像を生み出すことになった「キリスト=新約聖書的」と*1-6-1。書くまでもないことですが、本稿では「人は mortal だが神は immortal で invisible な」『アイカツスターズ!』の世界を「ユダヤ=旧約聖書的」なものとして見なしており、この両作品の世界観には明確な断絶線があります。(……と書いていたら、『アイカツスターズ!』2年目でほんとに箱舟*が出てきたのでぶったまげました。)

 食事描写以外にも、神崎美月がシーズン1(A!:ep1-50)で唯一「親族」の描写が無いアイドルであることにもふれておきましょう。もちろん神崎以外の全アイドルに親の描写があるわけではありません。有栖川おとめはA!:ep13で海外旅行に行っていたことから間接的に親の存在が示され(両親が幼稚園を経営していることが示されるのはA!:ep83)、一ノ瀬かえでは直接姿は描かれないながらも父親[パパ]の存在に度々言及しています。が、神崎美月だけは「親族」の存在が一切示されない。これはそもそも美月と光石織姫が擬似親子的な関係性であったこともありますが、自分を出産した者たちがいない=この地上に係累を持たない存在[one visible god]としての彼女の立ち位置に一定の根拠を与えるものでしょう。

*1-6-1ここでは「アイドル」なるものをなんか「宗教一般」的なものと見なしているわけではないことに注意してください。やれ “前田敦子はキリストを超えた” だの “僕にとって観音様もアイカツも同様にありがたい” だのと軽率な人たちが軽率なことを言っているのを聞いて皆さんもうんざりしていると思いますし、私もうんざりしています。「偶像=アイドル」という単一路から(とくにアブラハム宗教の)「教祖(こんな言葉は何をも意味してはいないし書くだけで胸糞が悪くなるのですが)」と現代のアイドルとを接続しようとする論法が有効なわけありませんし、「宗教一般」なるものが存在してその「教祖」たちも自分のしていることが「宗教的」な活動だと思っていたなどという考えはすべて誤りですし、ついでに言っておけば「人類の物語には普遍的な原型がある」のを前提として作品をその類型にあてはめて良いとか悪いとか言ってしまうのもすべて罠です(作る側にしても見る側にしても)。神話だの神と悪魔との戦いだの大上段なモチーフを軽率に取り入れて大爆死した『マン・オブ・スティール』『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』の脚本を反面教師にすべきでしょう。あと、なぜ本稿で『アイカツ!』の「物語」について書かれるときその語が鉤括弧に入れられているのか、についても考えていただけると助かります。





◎RESPECT2 S4選・導火線の走り(タイムリミットの設定とその成果:AS!ep37-50)

 さて、AS!:ep30をピークにここまで大量の爆薬を搬入した『アイカツスターズ!』ですが、虹野ゆめの力(AKA爆弾)の件はAS!:ep36でとりあえず落着します。もし『続・猿の惑星』のようにほんとに全部爆発させて終わっていたとしたら別の賛辞が与えられていたと思いますが、AS!:ep37以降の『スターズ!』は来年度へ向かうフェイズに切り替わります。AS!:ep35で今までのゆめとローラの戦歴にリセットがかけられていたことからもわかるように、力(AKA爆弾)には頼らない別の卓での戦い、すなわちS4選が始まるわけです。

 ここで注目すべきは、AS!:ep37以降は別の爆弾、それも爆発が運命付けられた爆弾の工夫によって成り立っていること。つまり「時限」です。S4のメンバーは年度ごとに入れ替わらなければならないので、それを頂点に戴いている四ツ星学園も否応なく変化の時を迎える。この「1年毎の新陳代謝」の効果は大きく、彼女たちの闘いを「(学園の中での)階級闘争」に限定することを避け、むしろS4は3年制の学校空間のなかで機能するにすぎないものである(卒業生には卒業後の未来がある)として相対化することに成功しています(A!:ep46,47におけるツバサ、夜空のセリフに明確)。もちろん学園に在籍している時間をフルに活用した作劇が必要とされるわけですが、そこを疎かにする柿原優子ではありません。AS!:ep37以降のS4選までのエピソードには、「もう残された時間が少ない」ことを強調するセリフが執拗に入れられています。

“S4選まで、まだ時間はあるわ。それまでに、自分に何ができるか、あらためて考えてみて” (AS!:ep38)
“まずは学園のトップ、S4になる。そしてその暁には、プレミアムレアドレスを着る。それが私の新たな夢なのです” (AS!:ep39)
“卒業に向けて、S4の先輩方も本気を出してきたって感じだね” (AS!:ep40)
“冬フェスが終わったら、いよいよS4選ね” (AS!:ep41)
“先輩たちもみんな、S4選に向けて全力でアイカツ中” (AS!:ep42)



 実は「S4選」は前作の「スターライトクイーンカップ」とは全く別の意味合いを持っているのですが【→RESPECT4】。ここではS4とは一年ごとに解体を運命付けられている法人格のようなものだと理解していただければ十分です。「いうまでもなく、すべての生とは一つの崩壊の過程である」と白銀リリィなら引用するでしょう。AS!:ep50の「色々あったけど最高のチームだったし、もう一緒に仕事できないのは寂しいなあ」感に『イミテーション・ゲーム』のラストシーンを重ねてみるのもいいでしょう。
 同時に、現S4たちの有終の舞台でもあり、同時に来年度S4(つまり今年の2年生以下の学生たち)が選抜される場でもあるのが「S4選」です。ここではAS!:ep37以降の1年生、とくに早乙女あこの導火線の走りを追ってゆきましょう。


・誰かのファンであること(早乙女あこの捨て札)

 早乙女あこ。劇組の1年生として登場し(AS!:ep6)、他の1年生と大差をつけてオーディションに優勝できるほどの実力者である彼女ですが(AS!:ep29)、本編ではおもに(男子部の結城すばるへの片想いから)コミカルな描写が多くなされていました。AS!:ep32では虹野ゆめのリハビリをサポートするなど利他的なポジションにも立てていた彼女ですが、S4選絡みのエピソードでは1年生のなかでも最も劇的な展開を迎えます。

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(AS!:ep29 大差をつけて勝利する早乙女。わざとらしい強者描写が控えられているので見逃されがちですが、実力者としての布石もしっかり敷かれています)

「特別なグリッター」。S4選での勝負ドレスを作るための素材です。入手条件は「大きなステージを成功させること」。たとえば虹野ゆめがここぞというタイミングでの歌番組出演を成功させたことで、また真昼・ローラが学校内のイベントを成功させたことで入手できていることから、必ずしも巨大ドームとかの大規模公演が要求されるわけではないようです。メインキャクター以外の学生たちもグリッターを入手できたと談笑していることから、各クラスで飛び抜けた実力者だけが入手できるというわけでもないようです。

 AS!:ep44時点ではまだ「特別なグリッター」を入手していない早乙女あこですが、視聴者は当然あこも入手に成功したうえでS4選に臨むと予想するでしょう。なぜならあこには公式のカードゲームで特別なグリッターによる「カラフルキャットコーデ」が用意されているのですから。しかし、


・Either/Or (Go on and lose the gamble)

 結果として彼女は「特別なグリッター」を手にすることはありませんでした。「大きなステージ」に向かうことはありませんでした。その代わりに彼女が選んだのは、映画の出演で獲得した新たなファン(キッズ)の熱意に応え、デパート屋上の小規模なステージでパフォーマンスすることでした。

 なぜその選択をしたか、理由は明確です。AS!:ep45で「学校でのステージを成功させ、S4選での勝ちを磐石にするか」・「S4選での有利を捨ててでも、ファンの熱意に直接応えるか」の二択を突きつけられたあこですが、彼女は後者を選んだ。なぜなら彼女は劇組の実力者である以前に、結城すばるのファンだったから。台詞を引用しましょう、

“そう、わたくしがこの学園に入学したのは、すべてはすばるきゅん、あなたに逢いたかったから” (AS!:ep17)


「誰かのファンである自分」。劇組の実力者として割り当てられた立ち位置よりも優先されるべき自分の姿があったということです。「自分はこのようにして(誰かのファンとして)造られた」という事実。早乙女あこにとって、その事実から逃げることはS4選での不利以上に許すべからざるものだったのです。自分自身のファン━━デパートでのライブを楽しみにしてくれる━━の姿を前にしてはじめて、早乙女あこは「誰かのファンである自分」に仁義を通す決意をした。なぜなら再三確認したように、早乙女あこは結城すばるの、誰かのファンとして造られた人間だったからです。
(『アイカツスターズ!』は前シリーズとは別の水準での「人間の製造」に真正面から向き合っている作品です。S4選をめぐるあこの描写は、「自分自身がいかにして造られたか」を見据えることから逃げない、もっと言えば自分修正主義に与しない態度として一貫しています。)

 その結果として、あこはグリッターを手にすることはありませんでした。 “わたくしは何が何でも夢を叶えてみせますわ” と出演映画の台詞を繰り返し口にするシーンがありますが、尋常の作品ならここでピロロン♪とかいって、「規定の条件は満たしていないけど、よくがんばりました」とばかりにグリッターが与えられていたでしょう(再度確認しますが、公式のカードゲームではあこの勝負ドレスが用意されているのですから)。しかしその思いは報いられません。なぜなら、もう確認しましたね。諸星ヒカルの言う「ステージの神」なるものは知覚不可能で、 mortal な人間が陳情してそれで報いてもらえるような存在ではないからです。 “わたくしは何が何でも夢を叶えてみせますわ” の言葉が(グリッターとして)報いられなくても、自分の手札から有利なカードを捨ててでも、それでも早乙女あこは「誰かのファンである自分」の来歴に仁義を通した。それを修正してしまうことは、彼女にとって何よりも耐え難いことだったからです。

 ……本稿では可能な限り非情緒に徹しようと努めていますが、私はこの早乙女あこの姿に撃たれずにはいられません。なんという真摯さ、なんという気高さでしょうか。そしてなんと堂々たる賭けっぷりでしょうか。一番有利な手札を捨ててまで、「自分はこのようにして造られた」の役にベットするとは。それでも彼女は後悔しているふうはありません。なぜなら結城すばる(「誰かのファン」である自分を造ってくれた張本人)から「アイドルとして合格」という言葉を受け取ったから(この言葉が直接あこに伝えられたわけではないことも重要です。すばるは吉良かなたが話題に出した「とあるチャンスを蹴ったアイドル」が早乙女あこであることを知らず、ラジオ番組の中で誰ともなく賞賛の言葉を贈ったにすぎないのです。長くなるので割愛しますが、前シリーズと違って『スターズ!』で「直接目掛けられたわけではない言葉」━━届かなさ、聞こえなさを含む━━が多く放たれているのは重要なことです)。

 結果として、早乙女あこは現S4たる如月ツバサに敗北します。それでも順位がツバサに次ぐ第2位だったので来年度S4の座は確定されたわけですが、彼女は勝負のあとにこらえきれず落涙する。ツバサに敗北したから悲しいのか? それとも有利な札を捨てたことを後悔したのか? もちろんどちらでもありません。「誰かのファンである自分」に仁義を通したことに後悔はない。しかしそれだけでは勝てなかった、という端的な事実に向き合えたからこその涙でしょう。来年度からの彼女は、1年生の頃よりいっそう(学校の高位ヒエラルキーとしての、劇組S4としての)自分を確かにすることが課題となるのかもしれません。しかしいま涙を流すことができる彼女と、あの場で「自分がいかにして造られたか」に向き合うことなく学校のヒエラルキーに諾々と迎合しながらS4になった場合の彼女とでは、強さ(真摯さ、気高さ)に天地の離れがあったはずです。早乙女あこがS4選の宅に並べた札たちには、そこまで多層的なエモが織り込まれている。勝ち・負けの判定が冷厳と下される一方で、その札を切った人間(博徒)の指先の慄えまでもが響[どよ]もしてくるかのような闘いの場。それが「S4選」であることを、早乙女あこの導火線の燃え尽きが印象付けるのです。*2-1


*2-1
 よって、『アイカツスターズ!』が「学校内での出世や成り上がりに偏っている」とか、「最初から実力者が勝つのが目に見えている」とかいう雑な批判はすべて無効となります。勝てた・うれしい、負けた・かなしいといった二分法自体が機能しない、ひとりの人間がいま賭けの卓につくまでの来歴(つまり「自分がいかにして造られたか」)を直視することでしか描けないことがあるということです。それは前述した早乙女あこの姿からも瞭然です。S4選という場が来年度のトップの選抜のみならず「(現S4に敗北することで)自分は現状この程度」であることを認識させる場としても機能していること、並びにその勝負模様が前シリーズの「スターライトクイーンカップ」とどのように違うか、について書くのは贅言となるでしょう。

(香澄真昼の導火線の燃え尽きについては【→RESPECT6】





◎RESPECT3 特権的視点の優位の排除(博徒と観衆)

“俺にはわかる。アイドルとしての夢が破れても、いい裏方になれるよ”

 虹野ゆめがTV局スタッフ(山口さん)から言われたセリフなのですが、おそらく多くの人が「ちょっとそれどうなの」と思ったでしょう(私もそうでした)。しかしこの「ちょっとそれどうなの」を感じるに至った線を遡っていくと、『アイカツスターズ!』全体の進行とその視聴者とをめぐる特異な構造が、思いがけず浮かび上がります。

 まず、このセリフが言われた時点がAS!:ep4であることを確認しましょう。この時点での虹野ゆめは、入学すぐのステージでなぜか驚異的なパフォーマンスを見せ(AS!:ep1)、先の驚異的なパフォーマンスと比べて実力が追いついていないことを見抜かれながらも光るものがあることをローラに認められ(AS!:ep2)、組分けオーディションで歌組に合格するに至った(AS!:ep3)のでした。なぜ驚異的なパフォーマンスができたかの謎(EE)は解明されないながらも、アイドルとして少しずつ歩を進めている虹野ゆめに(視聴者が)移入し始める段階、それがAS!:ep4時点だと言っていいでしょう。そこで “アイドルとしての夢が破れても、いい裏方になれるよ” と(よりによって彼女を裏方スタッフとして使役していたTV局側の人間に)言われてしまうことで「(この子はアイドルとして頑張ってるのに)ちょっとそれどうなの」と感じるに至ったと。

 しかし、ここで一歩退いてみましょう。「退くって、誰が何から?」もちろん視聴者である我々が『アイカツスターズ!』に移入している視点から、です。
“アイドルとしての夢が破れても、いい裏方になれるよ” と言った側(TV局の山口さん)は、入学してすぐの虹野ゆめが驚異的なパフォーマンスを見せたことなど知るべくもない、学園の外にいる(=虹野ゆめの「謎」の文脈を共有しているはずがない)側の人間である。以前書いた記事に寄せれば「謎装置の中に囲われていない人」と言うことができるでしょう。なのだから当然、裏方として労働力を提供している他の人々(TV局スタッフはもちろん、四ツ星の生徒たちも含む)と同程度のリスペクトしか払われないのは当然ということになります。AS!:ep4の時点において、市井の人(山口さん)から虹野ゆめに対するアイドルとしてのジャッジは、端的にフェアなものになっている。

 ここで明らかになるのは、『アイカツスターズ!』においては「この子たちはこれだけ頑張っているのだ、だから周囲の人々から報われてしかるべきではないか」という特権的視点の優位が排除されていることです。特権的視点、とはもちろん視聴者のことです。前シリーズ『アイカツ!』においては、むしろ特権的視点=視聴者とのランデブー*3-1を積極的に図ることで「成長」を描写してきました。以前*書いたとおり、そこには「これだけ努力をした→それをデザイナーさんが認めてくれた→そのおかげでプレミアムドレスを着られた→だから良いステージができた」という定式が成立しえたからです。この「特権的視点=観客に見てもらうものをキャラクターの成長と結びつける」定式は、『アイカツ!』において最後まで円滑に用いられていました。*3-2

 しかし、『アイカツスターズ!』ではその定式が原理的に成立しない状態での戦いが展開されている。であるからには、虹野ゆめをはじめとするアイドルたちは、自分に対する評価が白紙のままである市井の人々を相手に支持を集めながら、自分の闘い方を確かにしていくしかなくなる。それは桜庭ローラの行路(AS!:ep7,21,29,33)においても一貫しています。迷える彼女にせめてもの路を示すきっかけになっていたのは、(そもそも『スターズ!』の世界には存在していない)プレミアムレアカードを与えるデザイナーではなく、市井の人々や指導教員たちでした。虹野ゆめも地道な活動を続けつつ、AS!:ep10で初めて単独のステージを成功させたのでした(たった10回ぶんのエピソードしか貯金がないにもかかわらず、ゆめが一緒に仕事をしたりファンになってくれたりした人々をブレーメン式に巻き込んでステージの成功に結実させる流れの、まるで針を通すような丁寧さと確かさは特筆に値します)。ゆめのステージを観に来た人々のなかには例のセリフを言い放った山口さんの姿もあります。AS!:ep4の時点では無名の「デカリボン」としてしか認識されていなかった虹野ゆめが、AS!:ep10でようやくアイドルとして認められるに至る……わけなのですが、


・Just trying to get inside (I stand on the outside, looking in…)


 ここでさらにひとつツイストを加えているのが『アイカツスターズ!』の恐ろしいところです。AS!:ep10でのゆめのパフォーマンスではサビの直前にカットイン(彼女に取り憑いている謎の力が発現する描写)が入ります。AS!:ep10のステージを目にした人々は喝采をおくるわけですが、この時点ではゆめ本人もその観客も、謎の力(AKA爆弾)の存在は知るべくもない。AS!:ep10までの虹野ゆめの頑張り自体は確かなものである一方、良いパフォーマンスができた一因には謎の力(AKA爆弾)も介在している。つまりAS!:ep10での虹野ゆめの「成功」は二層化されていることになります。謎の力(AKA爆弾)の存在が劇中の人物に察知されるのはAS!:ep18になってから(それも結城すばるだけが虹野ゆめの驚異的なパフォーマンスに違和感を覚えている、といった程度)で、AS!:ep21-29でのゆめは力に頼ることでローラとの戦いに暴虐的な勝利を収め、そしてついにAS!:ep30で自分自身をも破壊しかねない謎の力の脅威(AKA爆弾)に直面したのでした。
 繰り返しますが、上記の経緯を観察できるのは特権的視点の保持者(=視聴者)にのみ可能なことです。「なぜ虹野ゆめは驚異的なパフォーマンスができるのだろうか」「おや、同じように違和感を覚えているキャラクターもいるようだ……」と鳥瞰的にみはるかすことはできますが、その視点の特権性を共有しているキャラクターは『アイカツスターズ!』において存在しない。謎の力(AKA爆弾)について最も危機感を抱いている諸星学園長ですら、実姉を象徴的に殺したあの脅威をどのようにして退ければいいかわかっていない。つまり、誰も勝ち方を知らない。ステージで札を切るアイドルたちも、それを見届ける教員たちも、誰も正しく有効なひとつの道を知っているわけではない。特権的視点の優位を保っている者などどこにもいない。だから『アイカツスターズ!』における人々の生き様は「賭場」としてたとえられるしかないのです。

 よって、『アイカツスターズ!』の視聴者は、特権的視点を許されている自分自身と、博徒たる彼女ら彼らとの断絶をまたぐことになります。アイドルの成長を自分の代わりに(プレミアムドレスを与えることで)担保してくれるデザイナーも存在せず、こちらとランデブーを図ってくれる成長の定式さえ存在しないのだから、視聴者は特権的視点を一方的に許されたまま、彼女ら彼らの賭けの結果を見届けるしかなくなる。ここにこそ前シリーズと『アイカツスターズ!』との最大の差異があります。この断絶に耐えられるかどうかは、『アイカツスターズ!』を支持できるかどうかの質的な問題とも関わるものでしょう。


*3-1「ランデブー」に関する註
「製作者と視聴者との視点が癒着する(相互の結託により欲望を生産する点)」として敢えてこの語を採用しています。「あらかじめ近接関係にある両者が相互の欲望とともに落ち合う地点」の意味を含んだ語を選ぶ必要があったからです。他の候補としては(スタートレックにおいて「別種の宇宙船がその機体を接続する」の意で「ランデブー」と並んで使われる)「ドッキング」の語がありましたが、1:実体的なボディの結合の意だけが誇張されがち 2:「ドッキング」の語感だと否応なく「ドギースタイル」が連想され、両者の視線が向き合わない体位での結合までもが含意されがち(「ランデブー」が重要なのは相互の視点が向き合った時点での通い合いが成立するニュアンスだったので、こちらは適切とは言い難い)などの理由から却下されました。

*3-2「感情移入」に関する註
 良きにつけ悪しきにつけ、「感情移入」が可能であるか否かをまるで絶対的条件のように評価する人々は一定数存在します。とくに映画の感想とかで。この「感情移入」の四文字を無批判に使うことでいったいどれほどのことが無視されどれほどのことが美化されうるのか、についてはここでは書きません。しかし確認しておかねばならないのは、この「感情移入」の評価は、劇中の登場人物と自分自身(視聴者)との視点を、同一・または同質の次元に置かなければ成立し得ないものであるということ。視聴者の「支持できる」「支持できない」の価値判断と劇中の登場人物たちの振る舞いとの癒着点━━これこそが本稿で「特権的視点の優位」として呼び成してきた現象です。なぜ視聴者の視点が「特権的」か? それは劇中の「物語」を試飲[tasting]し検査[testing]する席に視聴者が座(らされちま)っているから━━もっと言えばその席に杯を供する側の者(製作者)こそが積極的にランデブーを取り持とうとする状況があるから。「感情移入できる物語」の評価と「特権的視点」との癒着は、このランデブー にこそ始まります。確定不可能な要素はどこにもない、「物語」の過去現在未来すべてが鳥瞰可能になる、くまなく光に照らされた、歴史小説的な視点。それはすべての人物のすべての帰結を説明付ける光の体制だと言うことができるでしょう。

『アイカツスターズ!』はその(tasterでありtesterである)特権的視点を視聴者に許す一方で、劇中人物たちの(誰も正しい勝ち方を知らない)「賭け」の有様を見せることで、「感情移入できる物語」の評価と「特権的視点」との癒着を拒絶した。その特性が一挙に噴出したのが白銀リリィの帰還の瞬間にあったことは以前書きました*。諸星ヒカルの盆暮闇については【→RESPECT5】
歴史の闇に埋もれていることもできた存在があえて光の体制に身を晒すことから始まる闘い、それを見せることによって逆説的に光の体制に晒されていない部分を偲ばせる、鳥瞰視点を脱臼させるための、この戦略。
 それはおそらく、なんでも見える・聞こえる・届けられる・予測できることを自明として、自分自身が「物語」へと「感情移入」できて然るべき「特権的」な主体であると(極端な言い方をすればフィクションの中で全能な主体だと、つまり想像的に神であると)思っている人々にとっては耐え難いものでしょう。しかし『アイカツスターズ!』は読めなさ・見えなさ・届けられなさを(描き続けている、と書くとそれは目に見えているではないかという撞着を招くので━━むしろこの撞着、読めるはず見えるはず聞こえるはずがないのにそれが知覚可能なものとして目の前に届けられてしまっている、この出来事にこそ非・特権性のすべてがある、と書きたいのですがそれはここ*で書いたことなので繰り返しません━━、ここはやくざだとしても)やりつづけている(というのが適当でしょう)。確定不可能性、すなわち博打。本論でも書いたことですが、この「おぼつかなさ(勝てなさ、聞こえなさ、届かなさ)」を選んで札を切っている人々の姿と、特権的視点を許されている自分自身との断絶をまたぐことに耐えられるか。もっと言えば、「特権的視点」に拠る「感情移入」を絶対の評価軸として立てることを拒絶できるか。『アイカツスターズ!』を支持できるかどうかは、その質的問題にかかっていると私は思います。





◎RESPECT4 いばらのショーマストゴーオン(勝負の成立可能性・札切る後裔)

『アイカツ!』においても勝負なるものは成立していた、ように思えます。しかしどうでしょう、私は『アイカツ!』において(2人以上のアイドルによる)勝負が一応成立していたのは、A!:ep10までだったと考えます。有栖川おとめの初登場回であり いちご VS おとめの対決オーディションが行われる回ですが、勝たなかった側であるおとめには即座に敗者復活席というケアが与えられ、さらに “おとめちゃんのファンになっちゃった” と星宮が言うことで「勝てない」側のストレスは解消されていました。この時期から既に「消火装置」の運用は順調だったというわけです。
 しかし、『アイカツ!』内での勝負の不成立性を云々しても仕方ありません。先述した通り、『アイカツ!』における「勝負」なるものは、目に視える神[神崎美月]の死を人-神[星宮いちご]が執行するという「物語」を成立させるために要請されていたのですから、それ以外のキャラクターどうしの「勝負」をどうこう言うことには意味がない。だからA!:ep152ユニットライブの結果を見て「どうしてトライスターが下級生ユニットのルミナスより下位なんだ!」と目くじらを立てることほど不毛なことはなかったというわけです。

 それよりも、『アイカツスターズ!』がなぜ前作とは違う「勝負」に打って出ることが可能だったかを追うために、両作品のスタート時期を確認しましょう。
 まず、『アイカツ!』の放送開始は2012年10月8日、『アイカツスターズ!』の放送開始は2016年4月7日。季節上の違いがあります。A!:ep1で星宮と霧矢が受けたのは編入試験で、そこから半年後のA!:ep26ではもう中学2年生になっていた。対して、AS!:ep1は学校年度の頭なので、ゆめやローラの入学時のタイムラインから話を進めることができた。という、単純に放送開始時期しばりの違いが両作品にはあります(『スターズ!』の楽曲を収録した四枚のCDが四季のタイトルを持っているのもそういうことです)。
 よって、『スターズ!』が学校年度終了ごとにメンバーが解散し、ふたたび2年生以下の学生によって再編成される法人格=S4を頂点に戴く構造を採っていたのも、わかりやすくなるでしょう。
 対して、前シリーズ『アイカツ!』でのスターライトクイーンカップは(50話で1シーズン=1年間という構成上)秋季(2013年9月26日放送のA!:ep50)に行われねばならず、あかりジェネレーションで北大路さくらがその座を襲名するA!:ep124では「今年からクイーンカップは春に行われることになった」というアクロバットを加える必要があったのでした(北大路がクイーンになり、大空が来年のクイーンの座を目指し、星宮たちはひとまずメインキャラクターの座を降りるのがA!:ep125時点。オフタイム回を挟んだA!:ep127からは冒頭のタイトルカットから星宮の姿が無くなり、大空単独のものに変わります。シーズン区分の都合上、公式ではA!:ep102以降が「あかりジェネレーション」と呼称されていますが、大空から星宮の補助輪が外れたA!:ep127以降を「あかりジェネレーション」と呼ぶのも有効でしょう。事実、A!:ep127-178で放送終了するまでの期間はちょうど学校年度1年ぶんであり、その翌週からスムーズに『アイカツスターズ!』へと引き継がれたのでした)

 前シリーズでは神崎美月[one visible god]の没落を実現させるためにいちはやく星宮をモノホンプレイヤーにする必要があり(A!:ep1 “早く私のところまで登ってきて” )、それは『劇場版アイカツ!』(2014年12月13日公開)にて2年以上をかけて達成され、人間[大空あかり]の世界が定礎されたわけですが、私はこの一連の「物語」を「王権神授的」と形容したいと思います。ロック云々するつもりはありませんが、『アイカツ!』は人間以前に神の系譜があり、そこから授かった統治を人間が執り行っていくというロジック*4-1で進められており、その中継区間が『劇場版アイカツ!』からA!:ep125までの一連のエピソードだった。そして人-神(=星宮いちご)から「バトン」を受け取った人間(=大空あかり)は、その「物語」の必然的帰結としてスターライトクイーンの座を襲名する運命にあった。これは「『アイカツ!』における勝負の成立不可能性」とも釣り合っています。 “ネガティブな出来事も起こりえるレトロなスポ根路線は消えてなくなり” 、勝ち負けの判定によるストレスも消失した。では「スターライトクイーンカップ」とは、原則的に勝ちも負けも生じ得ない状況を設えたうえで大空あかりの戴冠をスムーズに実現させるための場、以外の何かを意味していただろうか? と問うこともできます。そのように誂えられた「勝負」の場で競われる「クイーン」の座は、(神崎→星宮→からなる「物語」を担がされた大空以外に)目指す意味のあるものだったのだろうか? とも。その問いに答えを出すには、氷上スミレの━━「勝つことも負けることさえもできない」状況で大博打『いばらの女王』の札を切り、神崎とは全く別の意味で「没落」してみせた彼女の━━姿を思い出すだけで十分でしょう。『アイカツスターズ!』には、スターライトクイーンカップにおける氷上スミレ━━博徒として札を切る者━━の後裔たちの戦いが引き継がれたのです。

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図1(上):アピール成功時[A!:ep166]の『いばらの女王』冒頭カット
図2(下):アピール失敗時[A!:ep176]の『いばらの女王』冒頭カット
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 結果から遡れば、『いばらの女王』のステージは冒頭のカットで既に勝ち負けが決定していたことになる。画面全体を地図に見立てれば、図1ではスミレ→女神像の位置関係は真北にあり、アピールは成功する。図2ではスミレ→女神像の位置関係は真南にあり、アピールは失敗する(“go south” は米俗語で「低下、落下する・消失する」などを意味する)。“逆位置の意味ならば挫折になるとしても” “ここへきて 地図をたしかめ ドレスに着がえ出かけましょう” の歌詞どおり、札を切った(ステージに立った)瞬間に勝ち負けの判定を余儀なく突きつけられる大博打、『いばらの女王』とはそれである。

“We go out in the world and take our chances
Fate is just the weight of circumstances
That's the way that lady luck dances
Roll the bones”

“If there's some immortal power to control the dice?”
ーRoll The Bones / Rush



 柿原優子は、前シリーズと違って入学時からエピソードを進められるという特性を見逃さなかった。前シリーズのように運命付けられた「物語」を成立させる手続きを導入するのではなく、1年ごとにブレイクダウンする「S4」という法人格(それはあらかじめ没落が運命づけられている one visible god では金輪際ない)を設定し、その座をめぐる札の切り合いを「S4選」として持ってきた。必ず勝てる札を選んでしまう虹野ゆめは生存のために「力」と手を切り、その宿敵たる桜庭ローラは勝てなさに向き合いながら何度でも賭場に戻り、病者たるリリィ・キハーノは一冊の本との出会いにより穏やかに発狂し自分の札を揃えるに至ったのでした。ここでは勝つこともできる、負けることもできる。S4しかプレミアムドレスを所持することが許されない世界で、彼女らは自分の札を選んで作っていかなければならない。そして「デザイナー」は存在しないから、その札を切った勝敗の結果もすべて自分の一つ身で引き受けなければならない(S4選での勝利ではなく「誰かのファン」である自分に仁義を通すことを選び、その選択による負けをも引き受けていった早乙女あこの姿も忘れるわけにはいきません)。それら一度一度の卓の上に並べられた札たちによって織り成される、この勝負の成立可能性(=賭けの結果予測不可能性)。かつて氷上スミレの堂々たる没落以外には前シリーズには光らなかった閃きこそが、『アイカツスターズ!』では賭けられていた(し、これからも賭けられ続ける)のでしょう。


*4-1
 とくにA!:ep146に象徴的でしょう。『アイカツ!』の放送が終わり劇場短編『ねらわれた魔法のアイカツ!カード』が公開された今だからこそ言えることですが、A!:ep146は治水者としての星宮いちごを強烈に印象づけるものです。『アイカツ!』がA!:ep146から劇場版短編にかけて逢着したものの正体や、神崎星宮大空に担わされた王権神授的統治の「物語」について筆者が思うことについては、ここでは書きません。ただ、世界を治水し封建化するオジマンディアス的物語を担わされた者たち(神崎星宮大空)ではなく、ロールシャッハたち(スターライトクイーンカップにおける氷上スミレ、劇場版短編における堂島ニーナ)の抵抗の姿に導かれてこの項は書かれた、と書いておけば十分でしょう。





◎RESPECT5 誤れる父親の姿(諸星ヒカル:勝ち目の見えない盆暗男)


「賭け」を続けていたのは生徒たちだけではありません。四ツ星学園の長たる諸星ヒカルも、正しい勝ち方を知らない「賭け」に向き合っていたことを思い出しましょう。

 前シリーズでの「学園長」光石織姫は、以前*少し書きましたが「無謬なる母親」とも呼ぶべき存在でした。全エピソードを通して彼女の判断に譴責すべき誤りなどはひとつもなく、ミスターSとかいう生徒に害を及ぼす存在はいつの間にかハエのように追い払われていたのでした(ああいう端役に置鮎龍太郎さんをキャスティングしてしまえるのが『アイカツ!』の豪華というか、贅沢なところです)
「無謬なる母親」は光石織姫のみならず、ドリームアカデミーのティアラ学園長も同様です。織姫に憧れた彼女がコンサートの現場で働きつつ創った学園はスターライトと同格の興盛を見せ、さらにはシーズン2クライマックスでは超巨大ステージ建設のために単独で出資してもいたのでした(A!:ep93)。にもかかわらず財政的に破綻したなどの描写は無い。これを諸星ヒカルがイベント運営の赤字に頭を抱えていた(AS!:ep39)のと比較すると、その差は歴然でしょう。

 そう、諸星ヒカルは「誤れる父親」です。
 彼は姉の象徴的死によって、「アイドル」なるものが mortal であることを突きつけられてしまった。であるからには、諸星ホタルの没地であり現在諸星ヒカルが学園長を務めている四ツ星学園は、とうぜん「生存のための discipline (規律、訓育)」をおこなう場所ということになる。この方針において四ツ星学園および諸星ヒカルは首尾一貫しています。 “わが四ツ星学園にふさわしくないと判断すれば、いつでも虹野ゆめを辞めさせる” (AS!:ep2) 。なぜなら、かつての姉のような死に至るくらいなら、力が萌芽する前にゆるやかに脱落させたほうが危険が少ないからです。 “わが四ツ星学園にふさわしくない” とはもちろん discipline を経ることなく力(AKA爆弾)に頼ってしまった場合のことです(その discipline を経過して生き延びた張本人である白鳥ひめが同室しているわけですが、しかし彼女自身はまだホタルの死の真相さえ知らされていない……ヒカル・ひめ・ゆめの3者は、この時点ではまだあまりにも多くのことを明るみに出さず隠したままの状態にあります。後述)

 さらに、AS!:ep10のラストの台詞を確認しましょう。 “あの力を超えることができなければ、君(虹野ゆめ)のアイドル生命は……” この三点リーダの部分に入るのは「終わる」で間違いないと思いますが、この時点での「終わる」がいかなる事由によって「終わ」りうるのかは二路に分かれています。 A:諸星学園長の判断で学園を追放されて「終わる」のか、それとも B:それ以外の原因によって生命を奪われて「終わる」のか。AS!:ep2から強調されてきた「虹野ゆめのアイドル生命の終わり」の原因は、ここではどちらにも解釈可能な状態で残されている。もちろんこの時点での視聴者は「生徒からアイドルの夢を奪おうとしている男」として諸星ヒカルを認識しているわけですから、Aとして解釈することもあるでしょう(私はそうでした)。この A:虹野のアイドル生命を(学園長たる自分の判断で退学させることで)奪うのか、 B:虹野のアイドル生命を(このまま力に没入していくのを見過ごすことで)奪うのか、の岐路に立たされた状態。それがAS!:ep10時点での諸星ヒカルです。もちろん彼はどちらの路も選びません。学園長たる彼はまず、『劇場版アイカツスターズ!』で(discipline が十分でないうちからS4の座に近づけば近づくほど爆弾に頼りやすくなるに決まっているので)架空の企画書をでっちあげてまで(ゆめ・ローラの優勝による)S4との共演のチャンスを回避せんとしますが、結果として目論見はうまくいかず、白鳥ひめからは “ゆめちゃんの夢を潰すのだけはやめてください” と静かにディスられる始末でした(再三確認しますが、この時点での白鳥ひめはホタルの死について何も知らされていないし、ヒカルが虹野の生存のため━━台詞を引用すれば “S4との共演より、虹野にはもっとやることがある” ため━━に discipline に取り組まねばならない事情など知るべくもない)。さらにはアイカツアイランドの興行のために赤字まで出してしまうという……この誤りぶりたるや。


・ミスターミステイク(そしてまた LIFE GOES ON)

 虹野の症状が “これ以上はもう、見過ごせん” ところまで亢進してしまうのがAS!:ep21です。逆に言えば、過去の白鳥ひめの爆弾はこの “見過ごせん” 状態になるまえに鎮静に成功したケースだと考えることができるでしょう(白鳥は「ひめトレ」と呼ばれるエクストリーム空気椅子に笑顔で耐えることができますが、もちろんギチギチの discipline を経たからこそ可能な事です)。ということは、症状が “見過ごせん” フェイズに突入してしまって以降は、ヒカルはどう手を尽くせばいいのか知らない(かつて姉が衰弱するのを見ていることしかできなかったように)

 実際、AS!:ep21-30の諸星ヒカルは、具体的な手は何も講じていない。虹野が他の生徒たちと学園祭の設営に取り組んでいる横で、自分はといえば来場客に対して陽気に振舞うくらいしか(AS!:ep25)、あるいは着ぐるみ姿で座っているくらいしかできない(AS!:ep28)、より直裁に言えば生きていることしかできない。虹野も自分と同じように生きていける世界であることを、束の間でも証し立てるために生活し続けるしかない、この父親の危うさ、滑稽さ(切なさ、と加えることは不可能でしょう。この「父親」の位置が抱える「わからなさ、できなさ、先行き不透明さ」は情緒が介在できるタイプのものではありません)。誤れる父親、喪の弟、秋の族長、勝ち目の見えない盆暗男(「盆暗」はサイコロを転がす盆が暗くて賽の目がよく見えない=賭けに勝てないに由来する)。それが諸星ヒカルです。
(長い括弧なので段落を切ります: むしろ、ヒカルは実際的な指導は歌組教員である響アンナ先生に任せっきりだった、と書いたほうが適切でしょう。アンナ先生の指導も徹底して四ツ星流の discipline で、AS!:ep21では重荷を使ったハードトレーニングこそ課すものの、星宮━━ “超人” ━━的な飛躍を許したことは一度もありませんでした。当該エピソードで「崖を登る」絵がイメージ映像としてしか用いられない点は、『スターズ!』と前シリーズとの差異を示すものとして象徴的です。ちなみに諸星ヒカルは、AS!:ep18のアイカツアイランドに虹野が出演するかどうかの得票オーディションには介入していない・AS!:ep21のCDデビューオーディションの結果はあくまでプロデューサーの指田氏のジャッジに一任しているなど、「虹野の頑張りに関するジャッジは自分以外の者に委ねる」イズムで一貫しています)。

 そして(AS!:ep30以降の)諸星ヒカルは、白鳥・虹野と違って爆弾を抱えていない生徒たちによるステージに安堵し(AS!:ep31)、リハビリ中の虹野が二階堂ゆず・早乙女あこに助けられてのステージを見届け(AS!:ep32)、ここにきて初めて白鳥ひめに実姉の真相を知らせるに至り(AS!:ep33)、ついにAS!:ep35で(ひめと共同で)虹野の爆弾を鎮めるための賭けに踏み切ったのでした。

 AS!:ep35の暗がりの通路での会話シーンは、『アイカツスターズ!』1年目の全エピソード中でも屈指の名シーンです。控室でヒカルは “どうやって乗り超えればいいのかは、虹野が見つけるしかない” と自分の無力を追認するかのような台詞を吐きますが、それでも「学園長」としての自分の威厳は崩せずにいる。その直後、白鳥と2人きりの会話シーンに移ります。

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“急なことで、すまない”
“ステージに立つ者どうし、わかりあえることもあるだろう。私には手の届かない世界にも、君なら一緒に行ける。虹野のことはよろしく頼む”



 と虹野がいないところで初めて「学園長」ではない「誤れる父親」の姿をあらわにする。その隣には白鳥ひめ━━実姉のような死にまでは至らなかった保菌者━━の姿がある。「誤れる父親」でしかない自分はアイドルである虹野を(「学園長」としての disguise なしには)導くことができず、虹野と同じアイドルであり保菌者である白鳥ひめに鎮静の荒療治を託すしかない。まさに「賭け」です。かつての姉のように、虹野にとって決定的な終末が(ステージ上で)訪れないとは限らない。おそらく軽率すぎる。決して褒められたことじゃない。しかし『アイカツスターズ!』は「誰も正しく有効なひとつの道を知っているわけではない、特権的視点の優位を保っている者などどこにもいない」作品であることは別項で書きました【→RESPECT3】。ここにこそ反転があります。特権的視点を持っている視聴者は劇中で起こっていることすべてを鳥瞰することはできますが、諸星ヒカルの危うい賭けの全容を識ることはできない。なぜならヒカルの━━実姉の象徴的死から始まる歌と呪いの━━因縁の全容は暗闇の中に隠されていて、虹野の症状につれて徐々に明るみに出されざるを得なかったものでしかないからです。虹野のような爆弾持ちが現れない限りは、ヒカルは実姉の真相を(白鳥ひめにさえ黙っていたように)誰にも明らかにすることなく暮らすこともできた。しかし事ここに及んでは、自らの過去を部分的に光に晒してでも(白鳥とともに)賭けに打って出るしかなかった。AS!:ep35で歌われる楽曲『So Beautiful Story』が「光学装置」たる図書館をモチーフにしていることは以前書きました*。しかしこの「誤れる父親」の過去とは。なぜヒカルが学園長として就任するに至ったか、そもそも「力」の正体とはいかなるものなのか(有限者たるヒカル=ヨブは目に見えないそれを「ステージの神様」と呼ぶしかない)、具体的な説明は一切加えられないままです。特権的視点を持つ視聴者は、この盆暗闇の中にある、与り知ることのできない黒塗りの部分を「誤れる父親」の存在によってはじめて知る。「すべてを知る、すべてを見る」ことができると思っていた視点の特権性が脱臼される地点は、諸星ヒカルが「賭け」に打って出る地点だった*5-1。別項【→RESPECT3】で「視聴者は特権的視点を一方的に許されたまま、彼女ら彼らの賭けの結果を見届けるしかなくなる。ここにこそ前シリーズと『アイカツスターズ!』との最大の差異があ」ると書いたのはこのことです。AS!:ep1-35にわたる……いやそれどころではない、幼少の諸星ヒカルが mortal な姉を救うことができなかった時点から現在までの、すべてのヨブたち(ホタル、ヒカル、ひめ、ゆめ)が生存のために拵えた札たちがひとつの盆暗闇に結集する、その瞬間をとらえているからこそAS!:ep35は凄まじいのです。

 まとめましょう、「誤れる父親」を長とする四ツ星学園は、生存のための discipline を行う場所です。もちろんその過程に痛みが伴わないとは限らない。しかし学校での「規律・訓育」と「虐待」は絶対に同じではありません。このイズムは『スターズ!』で素晴らしく一貫しています。AS!:ep43のヒカルのセリフを引用しましょう、 “私はこの学園の生徒たちの成長を願いこそすれ、貶めようなどと思ったことは一度もない”*5-2 。このセリフに尽きると思います。アイドルなる存在が mortal であることを誰よりもよく識っている盆暗男が、どれだけ危うくとも生徒たちの生存を多少なりとも可能にするため、人間の製造に賭けること。そのことを花鳥風月=歌劇舞美4クラスの「藝能」を通して描いてみせた。ここにこそ、無謬ではない「誤れる父親」を長に持つ学校での、途方もなく誠実な「人間の製造の賭け=藝能」の関係があると、私は思います*5-3。そして、


・Mothership Connection (TREKking of the STARs)

『スターズ!』2年目からは豪華客船型学校「ヴィーナスアーク」が登場します。その長たるエルザ(半角スペース)フォルテのデザインが本当に素晴らしいのですが、その髪のフォルムだけを見ると神崎美月を連想しがちかもしれません。しかし私はむしろエルザ フォルテに「無謬なる母親」の姿━━前シリーズの学園長たち━━を重ねたいように思います*5-4。なんせ「パーフェクトアイドル」ですし、 “エルザ フォルテ率いるヴィーナスアーク” と書かれているからにはとうぜん彼女が学園の長(船長? 艦長?)なのでしょうし、そんな人が虹野ゆめの身柄を求めてコンタクトを図ってきたとあっては、四ツ星の「誤れる父親」も事を構えざるを得ないでしょう。かたやパーフェクトアイドルかたや盆暗男。この族長ふたりの歴然たる差を前にして、ヒカルは生徒を護りきることができるのでしょうか。そもそもヴィーナスアークはエンタープライズのように外交的な船なのでしょうか、それともボーグのように問答無用で同化吸収を迫ってくる非人間的共同体なのでしょうか。四ツ星とヴィーナスアークとの接近遭遇によってどのような修羅場が演じられるのか、『アイカツスターズ!』2年目からも目が離せません。


*5-1 脱臼
『スターズ!』(のすくなくとも1年目)は、この「(彼女ら彼らには)視聴者には与り知ることのできない時間が流れていた」ことを思わせるイズムで一貫しています。諸星姉弟以外のエピソードでは、AS!:ep48で芦田・白銀・二階堂の3人が学校内での階級差を捨て「同級生」として気の置けない会話を始めるシーンを挙げておけば十分でしょう。当然ながら視聴者(=特権的視点)は1年前の彼女たちがどういう関係を取り持ったのか、についてなにも知ることができません。「特権性が脱臼される」とはそういう意味です。ここで回想シーンを入れて芦田・白銀・二階堂の3人の関係性を説明してしまうことは簡単だったでしょう。しかし前シリーズとは異なる光学を備えた『スターズ!』はその手には出なかった。
 逆に、前シリーズでは「試練や葛藤めいたものは既に通過していて、その経験があるおかげで現在のアイドルがいる」のを回想シーンで示す手法が多く使われていました(以前「事後報告」として呼び名したもの)。これによって視聴者は「ああ、現在の彼女たちはこういう経緯があってこんなに立派なのだなあ」と安心することが可能だったわけです。両作品の差異のなかでもとくに際立っているのがこの点です。どっちが良いとか悪いとかいう話ではありません。しかし「事後報告」、あるいは*3-1で「ランデブー」と呼んだもの、*3-2で「光の体制」と呼んだものが特権的視点の優位との癒着を招いてしまった事実は、否みがたいものだと思います。


*5-2 The Cream, The Chosen & The Condense (AS!:ep43の凝集性に関する註)
 ちなみにAS!:ep43は、今まで力(AKA爆弾)のようなものに一方的に「選ばれ」てしまっていた虹野が、チョコをもらいたいアイドルランキングNo.1に「選ばれ」て “みんなが私を選んでくれたんだもん、サイコーだよ!” と喜ぶシーンから始まります。そこには「実家が洋菓子屋だから」という彼女のバックグラウンドに基づく理由付けがあるわけですが、ここで初めて「学校で獲得してきたこと(discipline)」と「学校に入る以前の自分のルーツ(洋菓子屋)」との両方が彼女に味方する。そうして「選ばれ」たステージで『スタージェット!』(『アイカツ(スターズ)!』の全曲を含めても最も締め上げられた振り付けの曲)を歌い踊り、その結果として特別なグリッター(S4選のための切り札を作る材料)を獲得する……この、今までの生活の中で摘み上げてきたものたちがひとつの練り上げられたもの(=チョコレート)として結果する流れは、「食べ物」や「料理」を「人間の製造」と結びつけたタイプの作劇のなかでも最高峰のものだと私は思います。その最大の理由は、他のクラスメイトたちが(洋菓子屋の娘である虹野とは違ってお菓子づくりに慣れていないために)チョコづくりを失敗する、という描写を挟むことで「練り上げられたもの(人間、お菓子)の製造の過程では、失敗することがありうる」ことをさらっと言い当ててしまっているからです。他ならぬ虹野自身が、アイドルとして生存に失敗するかもしれない張本人だった。その虹野が学校で十分に培われた discipline と、自分の生まれ育ったルーツ(洋菓子屋)との両方に助けられて、いまこのように練り上げられたもの(=人間・アイドル)として存在している(お菓子づくりで用いられる cream は定冠詞がつくと「最上の部分、精華、神髄」などの意味を持つ。そして『スタージェット!』のステージデザインはクリームたっぷりのチョコレートクッキーである)という……。まさかここまで多くのことをバレンタインデーのお祭り的エピソードの中でまとめあげてしまうとは。
 全エピソードに凝集性がある『スターズ!』のなかでも、AS!:ep43は特濃すぎて食当たりを起こしかねないほどです(実際、私はこの回をみたあと1時間ほど呻きっぱなしで身動きができませんでした。というかAS!:ep40以降の回はすべてそうなのですが)。それ以外にもいくつもの恐ろしい描写が含まれている回なので、それに関しては別項【→RESPECT7】
を参照のこと。

*5-3
 これらの描写を受けてやれ「内向的」だとか「外部が描けていない」だとか言い出す類の人々は、おそらく生まれた瞬間から自分の名前が書けたつもりでいるのでしょう。生まれた瞬間から話せたし歩けたし自転車にも乗れたくらいに外部からの訓育を受けずに独力で立派に育った方々なのでしょう(*3-2で「(自分は)フィクションの中で全能な主体だと、つまり想像的に神であると思っている人々」と書いたのはつまりそういう意味です)。そういう類の「自分がいかにして培われてあるか」━━もっと言えば「自分がどのように製造されたか」を━━直視できない態度がどのような惨禍を呼びうるかについて、ぜひ考えてみてください。ただ、『アイカツスターズ!』は前シリーズの「目に視える神の死を必要とし、人-神から受け継がれた統治を人間が行う」という王権神授的な「物語」とはまったく別の水準の「人間の製造」に向き合っている作品である、と書いておけばここでは十分でしょう。

*5-4
とか書いていたら、エルザ(半角スペース)フォルテの歌唱担当に「りさ(相沢梨紗・前シリーズでマスカレードのヒメAKA光石織姫を担当していた人)」が抜擢されたのでぶったまげました。




◎RESPECT6 何度でも生まれ変わる楽曲たち(The song NEVER remains the same)

 驚くべきことに、『アイカツスターズ!』DCD第5弾(アニメ本編でS4選に相当する時期)には新規追加の曲が無いのです。『アイカツ!』ではスターライトクイーンカップに向けてここぞというタイミングで『Moonlight destiny』が投入されていましたが、『スターズ!』ではS4選をアゲていくための新曲が無かった。じゃあ、S4選は大した盛り上がりもなく予定調和的なマッチに終わったのか? もちろんそんなわけありません。AS!:ep40以降の流れは、四ツ星のアイドルたちがパフォーマンスしてきた既存の楽曲たちが次々と新しい意味を獲得していく、目眩がするほど徹底された演出がなされています。見ていきましょう。


・Carry on my wayward sis(『TSU-BO-MI』)

 いちおう前置きを。AS!:ep34は『TSU-BO-MI』の初出回であり香澄真昼の「成長」が描かれる回ですが、この回はひじょうに白人酋長的・あるいはホワイトウォッシング的な内容になっています。ホワイトウォッシング(原作で有色人種と設定されているキャラクターを白人が演じること)に関する話題は近年公開の映画でも喧しいのでこちら * * などをご参照ください。

 AS!:ep34の内容は、色々おしゃれしてみたら詰め込みすぎてわけわかんなくなっちゃった女の子3人組が香澄真昼に助言を乞い、それを受けて「おしゃれガールレッスン」を施すものなのですが、これがどうもなんですね。というのは、黒いメイク(俗にいうガングロ)をした3人に対して真昼はかなり強[あなが]ちなお手入れをするので、「黒いメイクはだめなの? 色白じゃなきゃ美しくないの?」という疑問が浮かびやすくなっているのです。加えて、真昼は女の子たちの俗っぽい話し方を一面的に矯正してもいるので、「正しい日本語」みたいなブルシットを強要しているようにも見えがちです(実際はそうでないとしても)。かといって、作品の一点のみをあげつらうことほど愚かなことはありません。われわれは点と点とによって結ばれる線が伸びてゆくほうを見てゆきましょう。

 この回では、ガングロ(ダークスキン)と美白(ライトスキン)という日本人に特有のルック志向が両方扱われているので、もしかしたら美容の歴史に関して深い知見をお持ちの方なら何らかの興味深さを引き出せるかもしれませんが、私にはそれについて書く資格はありません。ここでは、AS!:ep34時点での香澄真昼にまつわるひとつの「危うさ」を認識していただければ十分です。
 というのは、この回の真昼による「おしゃれガールレッスン」は学校の講義ではなくファッション雑誌の編集長から持ちかけられたものであり、女の子3人組に対する真昼のお手入れの内容に関して(美組指導教員の)玉五郎先生は一切関わっていないということです。ということは、AS!:ep34での真昼の行動に関して玉五郎先生から「それは違う」と駄目出しが入る余地は残されていた。結果として真昼は女の子3人組から感謝されますが、この「成功」は二層に分かれていたことになります。 A:香澄真昼は学校で学んだ美意識を活かして女の子に手入れを施した B:しかしそれは教員不在で行われたことであり、その手入れが正しかったのかどうかはわからない(真昼は安易なホワイトウォッシングを行っていたのかもしれない) という、この「成功」から「学生として優秀ではあるが強ちな面を持っている」香澄真昼の危うさが逆に浮き彫りになってしまうのがAS!:ep34です(現に、あれほど書物・読書について繊細な描写がなされていた『スターズ!』*の中で、この回だけ唯一「ウォーキングの道具として本を使う」描写が出てきます。美組のレッスンではウォーキングで頭に乗せるものはペットボトルで統一されていたというのに。もし玉五郎先生がその場にいたとしたら厳重注意が入っていたのかもしれない。A!:ep5と違って本を床の上に落とす絵までは描写されていないので、ギリギリセーフだとは言えるのですが)。これはもちろん「(学校における)人間の製造には失敗することがありうる」ことを真正面から描いている*『アイカツスターズ!』の本質とも釣り合っていることです。
 さて、この「危うさ」を放置したままS4選に進ませるような柿原優子ではありません。危うさが噴出したAS!:ep34(『TSU-BO-MI』初出回)のあと、AS!:ep41で真昼は夜空の『TSU-BO-MI』パフォーマンスによって、姉との格の違いを思い知る(届かない姉の高みへと “手を伸ば” す絵は、セリフやあからさまな歌詞引用に頼らない楽曲の活かし方として優れています)。優等生ながらも危うさを抱えていた香澄真昼は、ここでとても静かな「勝てなさ」を噛みしめるわけです(“遠いなあ、お姉ちゃん”)
 そこで、強ちな「美」意識に囲われていた香澄真昼は、ひとりで工夫できる「美」とは別のものを花咲かせるため、異種なるものとの交雑をおこなうに至ります。


・Swapper’s Delight(『みつばちのキス』)

 AS!:ep44は香澄真昼と桜庭ローラ、四ツ星1年生のなかでも屈指の実力者のふたり(学年全体を対象とするAS!:ep18のオーディションでは1位と2位)がユニットを組む回。この組の違うふたりが(劇場版では果たされなかった)ユニット活動へと踏み切るわけですから、きっと視聴者は「ああ、ということはこのふたりで『TSU-BO-MI』をやるのか。ゲーム版のCGでは片方が片方の手をとるシーンもあるし、これを真昼とローラでやるのか。たまらないなあ……」という思いでいっぱいでしょう(私もそうでした)。しかしAS!:ep44はその期待を鮮やかに裏切ります。2人が選んだ楽曲は『みつばちのキス』、ローラとゆめの共演曲として印象深いあの曲をやるというのです。
 しかしこの意外性だけではまだ驚くに足りません。AS!:ep44の恐ろしさは、『みつばちのキス(初出はAS!:ep12)』を『TSU-BO-MI』と交雑させ、思いもしなかった新しい意味を(文字通り)開花させたことにあります。一連の台詞を引用しましょう。

 あこ「クロッカスですわ。ちらりと見えたので、もしかしてと思って」
ローラ「こんなところに自然に咲いてるんだ」
 真昼「かわいいつぼみ」
 あこ「花言葉は“青春の歓び”。わたくし、大好きなんですの」
 ゆめ「いい花言葉だねっ」
 あこ「春はもうすぐですわ。このつぼみが開けばね」
 ゆめ「春……そうだ、『みつばちのキス』は? ふたりが歌う曲! すっごくかわいくて、うきうきする曲だよ」
 あこ「そういえば、みつばちは冬を乗り越えてちょうど今頃から活動し始めるって、聞いたことがありますわ」



 冬の花のつぼみから春の訪れを告げるみつばちへ、と自然にカーブを描く話の運びが実に良いのですが、これでもまだ驚くには足りません。押さえておかなければならないのは、クロッカスのつぼみ(『TSU-BO-MI』=美組の香澄真昼)とみつばち(『みつばちのキス』=歌組の桜庭ローラ)という異種なる両者が交わる点が「植物と昆虫」のモチーフを介してここに設定されるということです。虫媒花ちゅうやつです。虫を誘って花粉をつけることで別の花の蕊に花粉を運んでもらうあれ。理科の授業で習いましたよね。
(クロッカスが実際に虫媒花なのかどうかは知りません。花言葉の選定や冬の時期に蕾を結んでいる花ということである程度限定もされたでしょうし、そのこと自体はどうでもいいのです)

 虫媒は、もちろん昆虫と植物とが直接生殖するわけではありません。しかし異種なるふたつのものが結託することで互いに互いの利益を図り、最終的には新しい命を繁殖させる。つまりお互いに本命のパートナー(真昼:ローラ=夜空:ゆめ)を持っている異種どうし(真昼:ローラ=植物:昆虫)が、一度互いのパートナーを離れることによって新しいものを生む、この異種交雑のなんとエロいことか! 元のパートナーとは別のものと交わるわけなので当然スワッピング的な意味を帯びてくるわけですが、それをたんに百合っぽく描いたり露骨に色恋にしたりといった安易な手法を『スターズ!』は取ってはくれません。逆に、前述のさりげない台詞とモチーフの忍ばせ方によって「異種なるものどうしが交わり新しいものを生む」メカニズムのエロさ(これぞ正しい意味で「性的」だと言うことができます)を描ききっている。それも初期(春)に発表された楽曲をクライマックス前(冬)に持ってくることによって……まさか『みつばちのキス』が楽曲として上がってきた段階でここまで計画されていたのでしょうか? そうとは思えません。シリーズ構成の強さと脚本家の創意による賜物でしょう。しかし、ふたつの異なる楽曲を並べることで劇中のキャラクターどうしの関係性をここまで豊かに補強してしまえる手際、こんなものを見せられては呆然とするしかありません。

 そして何より感動的なのは、AS!:ep34時点では一面的な「華美」にとらわれがちだった香澄真昼が、みつばちとの交雑によって単独ではない別の美を開かせるにいたるまでの流れです。色々な種があっていっぱい混ざったほうが面白いじゃん? という異種交雑の歓びを学んだクレオール香澄真昼(姉である夜空の『未来トランジット』が流謫の「異邦人」の姿を歌っていたこと*を思い出しましょう)なら、女の子3人組に対して別のアドバイスができたのかもしれません。もちろん香澄真昼は(早乙女あこが自分修正主義に与しなかったのと同じに)自分が過去に女の子3人組に施したことを修正したりはしませんが、『スターズ!』2年目からはあの危うさとは違った多様な「美」を見出す存在になってくれるのかもしれません。

 他にも挙げていくときりがありません。劇場版でゆめ・ローラの絆として響いた『POPCORN DREAMING♪』がAS!:ep21では2人を残酷に引き裂く舞台として使われたり、 “未来の途中” を歌った『未来トランジット』が小春の一時離脱(AS!:ep30)や香澄姉妹の闘魂伝承(AS!:ep47)の舞台として使われたり、すべての楽曲に多層的な意味づけがなされています。あがってきた楽曲たちを一切無駄遣いしないどころか劇中のエモを合流させることで聴くたびに違った感動を呼び起こすことができる、この見事さはアイドルアニメと言わず「映像と音楽」を交えた媒体の作品のなかでも出色と言えます。……が、




◎(DIS)RESPECT7 More than meets the Ai(絵コンテ・演出の多層性)

 以上をもって「いやあ、『スターズ!』一年目は非の打ち所がひとつもない、ものすごい作品だったなあ!」と締めることができたらよかったのですが、残念ながら『スターズ!』には消し去り難い瑕疵がひとつあります。木村隆一による絵コンテ・演出(OP映像も本編も)が、目を疑うほどのひどさなのです。本稿では最後にディスリスペクトとして木村隆一による絵コンテ・演出のまずさを書き連ねようと思ったのですが、数行書いただけで胸を悪くしてしまったのでやめます。逆に、木村隆一以外による絵コンテ・演出がどれほどの緻密さ・豊かさを孕んでいたか、についてのリスペクトを捧げることで代わりとします。


・Heart of the sunset(燃える夕焼け:AS!:ep29, 35)

 この2話の演出を担当したのは、シャフト出身(現在フリー)の演出家:米田光宏。この名前を銘記してください。名は体を表すとか安易なことを言いたくはありませんが、氏の担当回は「光(光量、光景、後景)」がエピソードにもたらす効果への間違いない理解に貫かれています。ヒカル・ひめ・ゆめ3者をめぐる演出の見事さは【→RESPECT5】の項で確認しましたが、ここでは桜庭ローラと虹野ゆめをめぐる演出についてみてゆきましょう。

 AS!:ep29は、無意識のうちに力(AKA爆弾)に依存するゆめ、その暴虐的な力を前に大敗を喫するローラ、の勝負が描かれる回です。もちろんこの時点での2人はどちらも「力(AKA爆弾)」については知らない。どれだけ努力してもなぜか勝つことができないローラは心が折れかけますが、響アンナ先生に “もう勝てないなんて思うのはナンセンスだ” との訓話を受ける。「(ゆめに勝つかどうかではない)別の勝負のしかた」があることに初めてローラが向き合うシーン。背景に広がる花畑(ガーベラとかでしょうか。花の種類自体はどうでもいいことです。ただ「青空の下で・太陽に向かって咲いている」ことを確認しておきましょう)がローラの心情を鮮やかに表現していて、忘れがたい絵です。

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 さてAS!:ep35(この回で米田光宏は絵コンテ・演出の両方を担当)。ゆめとローラとの対話シーン。ゆめはひめから初めて力(AKA爆弾)のことを知らされ、驚異的なパフォーマンスができたのはその力の効果にすぎなかったことを知ります。ゆめはローラに向かって “これまでの勝負はなかったことにして、はじめからやり直したい” と涙ながらに*6-1 申し出ます。AS!:ep33で自分の闘い方を見出したローラは “ゆめがどうやって勝ったとか、気にしてない” と闊達に返し、ここで初めて2人は対等の博徒としてやり直すことができたのでした。

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 夕焼けの町並みをバックに、ライバルとして対峙するふたりのカット。画面の立ち位置はローラが上手[かみて]、ゆめが下手[しもて]です(一応。演者視点ではなく客席=視聴者の視点からの上下[かみしも]を言っています)。ゆめは涙をぬぐい、ローラのほうへ向き直る……その直後にカットが変わるのですが、ここでカメラの位置が(ふたりの立ち位置を中心として)180°回り込む。夕焼けの海をバックに、ローラが下手[しもて]、ゆめが上手[かみて]の立ち位置に切り替わるのです。

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 もうお気付きだと思いますが、AS!:ep29でローラが「別の勝負のしかた」に向き合った花畑のシーンと全く同じカット割りになっている(ご丁寧に後ろの柵の配置まで同じです)。そこにすかさずローラのセリフ “待ってるよ、ゆめ。弱気なライバルなんてつまらない” 。ふたりの新たなライバル関係を示すために、AS!:ep29のカット割りを引用することで「ふたりが見てきた景色の違い」を絵ひとつで説得してしまう(カメラ位置が180°動いていることにより、背景が 町並み→夕焼けの海 と鮮やかに切り替わっていることにも注目。青空の下で咲く花[AS!:ep29]・夕焼けの海[AS!:ep35]と共通の太陽モチーフを使うことで、ゆめ・ローラふたりの時間と経験の変遷を語らせることに成功している)、この手際たるや。

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 カットの切り替えひとつでここまで(時間を、経験を、キャラクターどうしの関係性を)雄弁に語ることができる。映像の力はここにあります。米田光宏はその力を知り尽くしている人だということがわかる。セリフとは全く別の文脈によって、ここまで作劇というものが豊かになる。ゆめとローラの立ち位置が切り替わるあの瞬間、直接心臓を鷲掴みされたような叫び声を上げてしまった方も多いと思います(私もそうでした)。その映像のマジックは綿密な意味の編み上げによってこそ実現可能だったと言えるでしょう。

*6-1
 それにしても虹野はよく泣きます。AS!:ep1の保健室のシーンから既にそうでしたが(あの場面も夕焼けでした)、『アイカツスターズ!』は前シリーズでは基本的に控えられていた「泣き」の絵が重要な場面で用いられます。 “嬉し涙以外はなるべく流さないようにオーダーを出しました” “軽い気持ちで視聴者には観ていただきたい”*6-1-1 と木村隆一が言っていたように、前シリーズでは「消火装置」も内蔵されていたので「泣き」の絵は少なくなって当然でした。しかし『スターズ!』では生存のための賭けが繰り広げられているので、「泣き」の絵が増えてくるのも当然のことです(『ダラス・バイヤーズクラブ』のマコノヒーの「死ぬことも生きることもできないっ」とぐしゃぐしゃの泣き顔を見せるあのシーンを思い出してもいいでしょう。既に別註で書いたようにEazy-Eでも)。
*6-1-1アニメージュ2月号増刊 劇場版アイカツ!特別増刊号 69P



・Touching from a distance, further all the time(七倉虹野トランスミッション:AS!:ep8, 30, 43)

 2話間にまたがる流れを線としてつなぐ演出なら王道です。しかし『スターズ!』は3つのエピソードの描写を配線して爆発的なエモを生む、そんな離れ業さえやっている。AS!:ep43(絵コンテ:こだま兼嗣、演出:藤井康晶)。別註で部分的に書きましたが* この回はまるでチョコレートケーキのように多層的にエモがデコられています。入刀して、その層の折重なりをひとつひとつ見ていきましょう。
 まず、AS!:ep30を確認しましょう。七倉小春が親の都合で四ツ星学園を離れる重要な回ですが、正直なところ、木村隆一によるこの回の絵コンテは褒められるところがほぼありません。とくに街道での見送りのシーン、(日中は体調不良がちなはずの)白銀リリィが夕陽に身を晒して両手を掲げて大口を開けている、あの目を覆いたくなるほどに間抜けな絵面に関しては、一体どうしてこんな絵を入れようと思ったのか尋問したいところです。しかし、AS!:ep43はAS!:ep30の絵コンテを再活用するどころか、それによって虹野ゆめ・七倉小春ふたりの関係性を、時と場所を越えて交信させることにまで成功しています。

 別註* を参照してほしいのですが、AS!:ep43はゆめの「学校で獲得してきたこと(discipline)」と「学校に入る以前の自分のルーツ(洋菓子屋)」との両方を味方につける回です。歌番組の収録に向かうため、車に乗り込む虹野。キャラクターの頭部が画面上手[かみて]にあり、見送りの人々の影が後窓から見える……『スターズ!』を通して見てきた視聴者は「げっ」とこの時点で気付きますね。そう、AS!:ep30で七倉小春が両親の車に乗せられて学園を去るシーンと全く同じカットです。

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 七倉小春のお別れステージで力(AKA爆弾)に頼ってしまったために、親友を見送ることさえできなかったこと。虹野にとっては最も大きな傷として残っている経験ですが、よりによってそのシーンのカット割りが引用されることで、力(AKA爆弾)に頼らずに生きている現在の虹野の姿が強調される。AS!:ep30当該カットの七倉小春は車が出るにつれて泣き出してしまいましたが、AS!:ep43当該カットの虹野ゆめはステージに向けて眦を決する。この引用は「泣く:泣かない」の対のエモ表現としても成り立っています。

 しかしそれだけではありません。歌番組の収録中、ゆめは階段でつまずいてしまう。その瞬間、「転んだと見せかけて、その勢いでポーズをキメる」機転をきかせるのです。そうです、AS!:ep8で七倉小春がウォーキングレッスン中に編み出したあの技とまったく同じです。いま時と場所を隔てて在る2人が、過去の経験によって突如として交信する瞬間。ゆめの中にある小春の存在を、こんなコミカルな描写で見せてしまうとは。もちろん前述の通り、視聴者はあの車内のカットにより小春・ゆめの苦い経験を思い出しているわけです。その前フリからこの描写を叩き込まれた瞬間のエモさは尋常なものではありません。

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 もちろん、これらのシーンに「小春ちゃんとの思い出がわたしの中に生きているんだ!」みたいなわざとらしいセリフはひとつも出てきません(どころか「小春」の名前すら出てきません。回想もありません。虹野七倉が直接に言葉を交わすシーンはAS!:ep49まで持ち越されなければならない構成なので、AS!:ep43ではこうやって言外のうちに2人を通いあわせる演出が要請されたわけです)。シーンとシーンとの連なり、エピソードとエピソードとの呼応を使ってここまでのことが描けてしまう。もちろんシリーズ構成:柿原優子が普請した骨組みの強さもあるのですが、ここまで「セリフ以外」の意味性の豊かさを信じて「見かけ以上のもの」を編み出している見事さはどれほど強調しても足りません。


・Pictures came out and broke my heart


 さて、この回のステージで披露される楽曲『スタージェット!』の物凄さについても書こうと思ったのですが、それはおそらく単独の記事が必要とされる内容なので省略します。作曲も編曲も歌詞もダンスもその本編での用いられ方も、何もかもが恐ろしい曲です。しかし……惜しまれるのは、木村隆一によってこの楽曲に付けられたOP映像がほんとにひどいということなのですが……いやそれを言えば、前OP『1, 2, Sing for You!』の映像は『スタージェット!』の比ではない完膚無きひどさなのですが……ああ、一周回って帰ってきましたね。この項では木村隆一以外の仕事による『スターズ!』の絵コンテ・演出がいかに豊かなものかを見てきましたが、これをもって木村隆一による腑抜けた絵コンテ・演出へのディスとします。
<以下、攻撃的なニュアンスが読み取られるのは本意ではないので、すべて戸田奈津子口調に翻訳して書きます>
このマザー・ファッカー! あんな絵コンテで良いと思ってるので? 楽曲をつくる側からすりゃ、ありゃ冒涜以外の何物でもないかもだ。南田健吾って名を? 『1, 2, Sing for You!』『スタージェット!』両方の編曲をやってる、名うての編曲家だ。『アイカツ!』で微妙だった「ロック」なるものをいちから立て直してる貢献者なんだぜ*。本編で『Hey! little girl』すらマトモに使えてなかったおまえが、よりによってあの2曲に泥を塗ったので? ありえない! 地獄で会おうぜベイビー!
<なっちOFF>木村隆一ね、ちょっといくらなんでも音楽と映像の力が可能にすることをナメすぎですよ。音楽と同期した映像であるかぎり、楽曲が活きるかどうかは映像をつける側の手腕に委ねられるしかないのだから、今後また優れた楽曲に腑抜けたコンテ付けるようなことがあったらあきませんよ!!!!!お願いしますよ!!!!!!!CHEER UP!!!!!!!!KIMURA!!!!!!!!!!!!!


・As (s)he flies on the wings of a dream(『星のツバサシリーズ』:キハーノ、ギリアム、白銀リリィ)

 『アイカツスターズ!』2年目は『星のツバサシリーズ』と副題されています。プレミアムレアドレスを超えるパーフェクトなドレス、ツバサを戴いたドレスが加わるというのです。
 以前、前シリーズにおいて翼モチーフのアクセサリーが消滅していった過程*についてすこし書きましたが、『スターズ!』はこれと逆の(地上で生きていた人間が翼を授かる)軌道に進むようです。既に白銀リリィのドレスが発表されているのですが、ちょっともうやばい。見てください、翼です。 “折れた翼見つめても元にはもう戻らない” と歌っていた人の背中に翼が。しかしどう見ても鳥類のそれというよりは、『未来世紀ブラジル』の主人公が空想の世界で思い描いていたような、作り物っぽいデザインになっている……白銀リリィが自身のブランドを生み出した過程がアロンソ・キハーノの発狂と全く同じプロセスになっていることは以前書きました*。そして『未来世紀ブラジル』のテリー・ギリアムが執拗に『ドン・キホーテ』の映画化に取り組んでは大失敗し続けている人であることもご存知だと思います。ということは、リリィの「ロゼッタソーンコーデ」は正真正銘の、「空想の力を武器にして戦う」キハーノ=ギリアム的な騎士の甲冑ということになる。しかもその背にあるのは作り物の翼であるという……
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 完全にイカロスじゃないですか。『アイカツ!』の場合は(本稿で散々書いたように)最初から one visible god と人-神が設定されていたわけですから翼で翔ぶことにも違和感はありませんでしたが、『アイカツスターズ!』での「星のツバサ」なるものはイカロス的な「不可能と知りつつそれ(太陽へ向かって翔ぶこと)を行う」者の証となるのだと思います。本来重力に逆らって飛ぶことはできない人間が、その空想と知恵と傲慢のゆえに墜落する話、になるのかもしれません。「パーフェクトアイドル」として設定されているエルザ(半角スペース)フォルテでさえ墜落するのかもしれない。イカロスたちのサーガたる『星のツバサシリーズ』(公式のキャッチコピーは “太陽まで届け☆私のアイカツ!” です。やりにくる気満々です)、ぜひともリアルタイムで追い続けていきたいところです。

Take off and fly away and go ahead.
ー未来トランジット / AIKATSU☆STARS!



Touch the sun. On your way, like a eagle, Fly.
ーFlight of Icarus / Iron Maiden







 本当なら各エピソードごとに項を立てて50話全体のアンサンブルを見ていきたいところなのですが、そろそろインクが少なくなってきたのでやめます。思いついたところをズアッと書かせていただきましたが、『アイカツスターズ!』のえげつなさ途方もなさを書くにはこの程度の文章では足りません。先の見えない賭けを描いている『アイカツスターズ!』に関して、この程度の文量で後出しジャンケン的なものを書くこと自体が無理のある話でした。短文失礼致しました。
 よろしければ姉妹稿ともお戯れください。

「そんなんじゃねーし」の宮殿(『アイカツスターズ!』の恋バナの恋バナ)

>>姉妹稿



 こんにちは。恋バナは好きですか? 恋バナは素晴らしいものです。他者と他者との関係性を讃えるために言葉を使うことで、われわれは惨めな自分語りや告白や愚痴から軽々と身を隔てることができます。
本稿は『アイカツスターズ!』という無双の作品における、人間どうしの妙なる関係性を讃えるための歌です(「分析」や「考察」などでは断じてありません)。姉妹稿では可能な限り情緒を抑えましたが、本稿ではエモを惜しまずに書かれているので、その点ご留意ください。


◎「そんなんじゃねーし」の宮殿(かなた→あこ→すばる→ゆめ)

 姉妹稿では「ランデブー」という語を使いましたが、これは想いあう二者の視点が通い合っている状態(カップリング表記で言えば「×」)を指します。『アイカツスターズ!』は人物同士の関係性の綾がすごいことになっているので「×」の関係性をいくらでも見いだすこともできますが、それとは別の「フロウ(→)」、誰かを眼差している誰かへの眼差しの連鎖による関係性をも見出すことが可能です。ここではとくに「かなた→あこ→すばる→ゆめ」のフロウを追ってみましょう。

かなた→あこ
 AS!:ep32はもう絵のうえでの関係性の見せ方がえらいことになっているのですが、このエピソードの最後の会話に注目しましょう。“すばるが好きなくせに、なに隠れてんだ?” かなたくんのセリフにカチンときたあこちゃんが「シャーッ」と飛びかかるのですが、この「シャーッ」から “あなた、なにしにきたんですの?” のセリフの間がおよそ1秒。飛びかかった後即座に着地して対話を続けているのです。早乙女あこというキャラの特性上、主に威嚇や攻撃として使われるこの「シャーッ」が、ここでは挨拶程度の意味合いになっている。あらっ、なにかしら。まるで「突っかかってきたから突っつきかえす」ような軽口の叩き合いが、かなた→あこの間では暗黙のものとしてあるかのようです。

あこ→すばる(→ゆめ)
“フェスに出たのってやっぱ、すばるに近づきたいから?”
“それだけじゃありませんわ”
 の対話の後にあこが眼差すのは、談笑している結城すばると虹野ゆめの方向。あこちゃんはすばるくん大好きっ子なのでこれはわかるのですが、
“おれの分析によると、あの子を元気づけるためにユニットを組んだ。当たり?”
 の新たなくすぐりが入ったとたん、あこは “そんなこと、あるわけないでしょう!?” の反応とともに二度目の「シャーッ」に出る。しかしこの二度目は一度目と違って着地すらままならず転倒してしまう。つまりガチで動揺しているのです。「すばるのことが好きであることをくすぐられた時」は平常心なのに、「自分の行動が虹野のためであることを言い当てられた時」に初めて動揺した早乙女あこ。あらーっ。なんなんでしょう。ちょっと、なにかありますねえ。

すばる→ゆめ
 このエピソードはすばるとゆめの対話で終わります。「(みんなから)もらった元気はこれから返せばいい」という大意のすばるの励ましは、最終的にAS!:ep43で見事に結果することになります。AS!:ep43での虹野ゆめの「返済」の描写がいかにやばいかを書きたいのですが長くなるので割愛します。重要なのは、この一連のフロウの終点に位置する虹野ゆめの愛され感がハンパじゃないことです。AS!:ep37のラストを思い出してみましょう。ゆめとすばるの初対面シーン(すばるが物理的にゆめの尻に敷かれる)の再現が入りますが、そこで赤面して「ゆでたこ」と笑われるのはすばるのほうである。“……なんだ、これ?” “いや、そんなはずはねえ” と懊悩する姿はもう完全に優位関係が逆転していますね。今までからかって心配して励ます側だったすばるが、自分が一方的に送っていた視線に見つめ返されたかのようである。虹野ゆめのほうはいつものように(「力」に悩まされていた頃よりずっと朗らかに)笑ってるだけなのに……という、虹野ゆめのスーパー攻め様感、もっと言えばナチュラルボーン誘い攻め強者感が遺憾なく発揮されるのがこのフロウのヤバさです。言ってしまえば(AS!:ep36までの、「力」に悩まされていた)虹野ゆめは周囲からの気遣いを集める「受け」の立場だったわけですが、それを打開した次のエピソードからもうすばるくんへの誘い攻めが始まっている(おそらく無意識に)。この人たらし。劉邦並みです。「仕方ねーなーこいつは」と集まってきた人々を片っぱしからたらしこんで、いつの間にか「この人にはおれがいなきゃ駄目!」にしてしまう資質の持ち主、ナチュラルボーン誘い攻め様こと虹野ゆめ(ゆめが劉邦ならすばるは王陵とかでしょうか。言うまでもなく項羽はローラです。ひとつだけ違うのはローラは項羽と比べて黒星が多いことですが)。というか、誘い攻め(=人たらし将器)こそ主人公に備わっているべき最良の資質と言えないでしょうか。前述した「かなた→あこ→すばる→ゆめ」の一連のフロウは、「力」から解放されて後の虹野ゆめの主人公としての開花ぶりを印象づけるものでもあります。それがAS!:ep36の次エピソードからもう始まっているという……
 
 さて、冒頭に立ち返りましょう。「かなた→あこ→すばる→ゆめ」のフロウは「そんなんじゃねーし」で成り立っていると言うことができます。あこちゃんはすばるくんのことが好きなだけなのか? “そんなんじゃありませんわ” 。すばるくんのゆめちゃんに対する感情は恋のようなものなのか? “いや、そんなはずはねえ” 。誰かが誰かに投げかける眼差しが連鎖することで、ただ単に「利他的」とは割り切れない、玉虫色のエモが表出する。「×」のランデブーのみに固定されない多様な関係性の綾が「そんなんじゃねーし」の宮殿で通い合っています。もちろんあこちゃんはすばるくんのことが好きでしょう。すばるくんも年相応の恋愛感情があってゆめちゃんに気を配ったのかもしれないでしょう。しかしそれらのエモはすべて確定されることを拒んでいるかのようです。「これは恋愛関係だ」「いや、ただ利他的な感情のあらわれなんだ」とひとつに固定しようと試みるのは簡単です。しかし『スターズ!』劇場版が友情でも恋愛でもない「別の交わり」を描いていたことからもわかるように(あの劇場版も真昼→ローラ→ゆめのフロウで成り立っていた)、固定しようとするたびに「そんなんじゃねーし」と遁れていく玉虫色のエモで編まれる関係性があったからこそ『スターズ!』は素晴らしい。その確定不能性にあずかってあれこれ想像を膨らませることで、我々はいくらでも悶絶しながら床を転げ回ることができるわけです。これは姉妹稿で書いた「特権的視点(=視聴者)の優位の排除」とも関わることです。『スターズ!』の人々の関係性の綾を単色に確定することが不可能なのは、「そんなんじゃねーし」が無限に複雑に組み合わせって巨大なエモの宮殿を打ち立てているから、と言うことができるでしょう。




◎2人のドリーマー(白銀リリィ・虹野ゆめ)

 AS!:ep26ではAS!:ep1と同様に保健室でのシーンがあります。相変わらず壁に貼られた「インフルエンザ対策」のポスターが mortal な世界であることを強調していますが、このシーンはAS!:ep35の暗がり通路シーンと双璧の名場面だと思います。みていきましょう。

 虹野ゆめと白銀リリィ。同じ歌組所属ですが、一年生と二年(幹部)生、キュート属性とクール属性ということでとくに共通点もなさそうな二人です。が、この二人を繋ぐ対話は静かに、そして唐突に始まります。晩夏になってもまだ体調が万全でない白銀、レッスン中にうっかり怪我をしてしまった虹野、のブレイカブルlikeサミュエルLジャクソンなふたりだけが保健室にいる。白銀は虹野に包帯を巻いてあげ、虹野は白銀に対して “(不調を抱えたままの活動は)つらくないんですか” と問いかける。それに対する白銀の返答を全文引用しましょう。
 

“そんな気持ちになりそうな時は、想像し、自分に言い聞かせるのです……ここは極寒の地。長い冬に閉ざされ、どこにも行けず、何もできない。いくら叫んでも、声は吹雪にかき消されてしまう。でも、今は耐え忍ぶ時。雪解けは必ずやってくる。明けない夜がないように、いつか必ず冬は終わり、春がくる。その時まで、私は歌い続ける。いかなる困難がこの身に降りかかろうとも、誰も、私の夢を奪うことはできないのだから”



 あまりにも白銀リリィらしいとしか言いようのない、雄弁な言葉です。病苦を凌ぐためにずっと自分自身に言い聞かせてきたのであろう、安易な共感を示すのが憚られるような情熱と執念が込められた言葉です。
 さて熱に浮かされたように“想像”の力を並べ立てたあと、リリィは不安げに虹野のほうを向いて言います。

“……すこし、分かりづらいでしょうか”
 この躊躇の言葉が漏れるのももっともなことです。病弱で学校を休みがちだった白銀にとって、自分の “想像” の力に共感を示してくれるのは(幼なじみである二階堂ゆず以外には)誰もいなかったのでしょうから。しかし虹野は、

“いいえ、すごくわかります”
 と闊達に微笑んで返すのです。 “すごくわかる” ? なぜでしょうか。虹野と白銀はまったく違うタイプの人間なのでは。話を合わせて安易な共感を売っているだけなのでは。違います。ここから虹野の “想像” の返歌が始まります。

“わたしもよく想像するんです。ひめ先輩みたいなS4になりたいって。CDは即日完売、街にはわたしの歌声が響き渡って、泣いてる子も怒ってる人も、みんな笑っちゃう。そして世界は平和になるのだ、なーんて。でも、けっこう本気でそうなったらいいなって思ってます”


 ここで一つの線が結ばれます。学校を休みがちな文学者と、夢見がちな爆弾持ちの少女は、どちらも “想像” の力で現実に抗っていた二人だったのだと。もちろん白銀と虹野の “想像” の水準はまったく違います。前者は精神的肉体的苦艱をしのぐために “想像” の力を使う人で、後者は自分に都合のいい “想像” を本気で信じている人です。なので白銀も全幅に共感の情を示すことはしません(“楽しい想像ですね。でも、想像するだけでは何も変わりません”)。が、まったく無関係にみえた二人が「現実に抗うために “想像” の力を使っていた」ことを打ち明けるシーンで一本の線で結ばれる。異質な存在どうしが初めて共感の入り口に立つ瞬間のときめき、これはもう尋常なものではありません(“すごくわかります” のセリフを受けた瞬間の上田麗奈さんの “えっ” の呼吸やタメの非凡さはどれほど強調しても足りません)。

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 現実に抗うために “想像” の力を使う人。それはもちろんドン・キホーテの姿そのものです。「なんで『スターズ!』について書くたびにドン・キホーテの話になるのかなこの人は」と思われてるかもしれませんが、だって実際にそうなんだからしょうがない。AS!:ep26に続くAS!:ep27では、白銀リリィの口から直接セルバンテスの名が口にされさえするのですから、AS!:ep26-27の流れで「ああ、本気でやるつもりなんだなこの作品は……」と畏怖の念を覚えた方も多いと思います。
 一冊の本との出会いをきっかけに自分自身を書き換えていった白銀、爆弾を抱えながらも想像の力を投げ捨てずに生き延びた虹野、そんな騎士たちが残していった歌たちが “現実” と “想像” の区別自体を蒸発させてゆく、このリアリティのダンス。とうぜんそこには呪いや狂気も含まれるわけですが、これはドン・キホーテたちの闘いなのだから何の不思議があるでしょう。2016年度のS4選ではどちらのドリーマーも「夢を見るんじゃなくて夢になった人(=白鳥ひめ)」の圧倒的強さの前に鎧袖一触にされましたが、かといって彼女たちが “想像” の力を使うことをやめるはずがありません。 “きれいな物だけ見るんじゃなくて全部抱きしめて” きた人々の闘いは、二年目『星のツバサ』シリーズにおいてますます加速してゆくことでしょう。




◎諸星ヒカルの心労を推し量る

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 姉妹稿では “ヒカルは実姉の真相を(白鳥ひめにさえ黙っていたように)誰にも明らかにすることなく暮らすこともできた” と書きました。よって、ヒカルには明るみに出されていない過去の経歴(姉妹稿で “盆暗闇” と呼び名した箇所)が残されているわけです。
 本項は、その盆暗闇を照らす、のではなく、「もしかしたらこうだったのではないか?」とあれこれ想像を巡らすだけの試行です。もちろんそんなことをしたところで真実にはたどり着けないので、いきおいシャドーボクシング的な、誰を相手にしているのかも不明なパンチを打ち続けるだけの記録となります。しかし私はほとんど諸星ヒカルに恋をしているので、そんな虚しい行為をすら楽しむことができるのです。

・そもそもなぜ「雪乃」だったのか
 四ツ星の初期S4であった雪乃ホタル、つまりヒカルの実姉ですが、なぜわざわざ姓を変えなくてはならなかったのでしょうか。『スターズ!』の世界には芸名で活動していると思しい子(ハルカ☆ルカ)もいるのでべつに芸名自体がおかしいわけではないのですが、いくつか説を立てて考えてみようと思います。

1:芸能人として活動するにはもっと華美な姓が好ましかったから
 これはないですね。「諸星」だってじゅうぶん華美な字面ですし、なら諸星和己さん(光GENJI・本名)はどうなんだという話にもなります。「雪乃」のほうが多少儚げなニュアンスは出るのかもしれませんが、いずれにしても文字上の華美さで変えたというのは無理がありそうです。

2:当時、ホタル・ヒカルは親権上のなんらかの事情があって姓が別だった
 両親が離婚調停中だったとか、そもそもどちらかがどちらかの親の連れ子だったとか、そういう。ありそうな話ではあります。そういう背景があったのなら、ホタルが自身の明らかな不調を押して活動していた事情もわかりますし、アイドルとしての姉を喪ったときのヒカルの絶望もわかろうというものです。現在はヒカルが姉を養っているので「諸星」姓に戻したのだろうとか、整合性も多少はありそうです。

3:アイドル活動について両親の理解が得られず、姓を変えての活動を強いられていた
 これ私の推しです。「推しです」とか言っちゃいましたが、実際一番ありえそうなことではないでしょうか。劇中でホタル・ヒカルの両親の姿は一切描かれてはいませんが、幼少期のヒカルの容姿はラオモト・チバに酷似しているので、諸星姉弟の両親もなんらかの非合法な企業のCEOとかだった可能性もあります。なので、

3ー1:幼時から既に決められていた自分の運命(政略結婚とか)に抗うために四ツ星でアイドルとして活動していた
 線も成り立つのじゃないでしょうか。これなら「諸星」姓を隠していたのも筋が通っていますし、ヒカルが現在においてもなお四ツ星学園に関わり続けている理由(姉がせめてものあいだ自由でいることができた空間への思い入れ)も説明できそうです。ただ、両親の意に沿わない学校に進んでおいて学費はどう賄っていたんだという話にはなります(四ツ星ってどう考えても私立ですよね)。

3ー2:むしろ両親が(広告塔的な存在として利用するために)積極的にアイドルにしたがっていたが、それに反抗するために本名とは関係のない姓を名乗った
 逆の線も成り立つんじゃないでしょうか。娘を大人気アイドルに育て上げて自社の広告塔にしようみたいな、いかにもバビロンっぽいやつ。ありそうですね。そこで自分は両親の家業とは何も関係のない一人のアイドルなんだ、と反抗を叩きつけるために「雪乃」を名乗っていたと。いずれにしても「諸星」のバックグラウンドに対する峻拒があると考えられるわけですね。

 と書いていて再確認しましたが、諸星ヒカルが現在(姉の死からおよそ20年後?)においても四ツ星学園に学園長というかたちで関わり続けているのは、やはり「姉がせめてものあいだ自由でいることができた空間」が四ツ星学園だから、ということになるんでしょうね。その姉に決定的なことが起こってしまった、それを起こしてしまった力の正体さえつかめない、だからもう二度と同じことを繰り返さないために目を光らせているが実際は何をどうすればいいのかさえわからない……という「賭け」については姉妹稿で散々書いたので省略します。

 ここで諸星ヒカルの心労を推し量ってみましょう。長くつぼんだ彼岸花が咲き空が代わりに涙流した日から、彼はアイドルの生が mortal であるという事実に苛まれ続けてきた。だからこそ姉の生命が尽きた地=四ツ星の学園長に就任し、同じことを二度と繰り返すまいと生存のための discipline に賭けていたのでしょう。そんな彼が(姉と同じ保菌者である)白鳥ひめに対してどれほど屈曲した想いを抱いていることか(劇場版で “虹野にはもっとやることがある” とひめに訴える、あのすがるような眼差したるや……!)。その1年後にはひめとは別の意味で病者である白銀リリィが入ってくるわけです。Dreaming bird that refused to sing である彼女はしばらくの休学を余儀なくされ、翌年には二人目の保菌者である虹野ゆめまで入ってくる。そして秋季からは白銀リリィも帰還してひめ・リリィ・ゆめ三者が同じ卓に集う(AS!:ep26,27)。 Here we all are born into a struggle to come so far but end up returning to dust な状況で、ヒカルは一体どういう精神状態でこの時期を過ごしていたのでしょうか。AS!:ep26でヒカルは出張という名目で学園を留守にしていますが、心労のあまり体調を崩していたのではないかと心配になります。なので、AS!:ep25で来場客に対してやたらと明るく振る舞っていたヒカルとか、AS!:ep28で着ぐるみを着て座っていたヒカルとかを思い出すともう泣けて泣けてしょうがないわけです。嗚呼、ただ生きていることしかできない父親よ。姉の死を誰かに容易く打ち明けることもできない弟よ。それだけに、ヒカルが同じ保菌者であるひめに姉の死の真相を打ち明け、ついに虹野の生存のための賭けに打って出るAS!:ep35への流れは圧巻です。なんとかして歌組のアイドルたちを破滅から遠ざけ、AS!:ep43で “私はこの学園の生徒たちの成長を願いこそすれ、貶めようなどと思ったことは一度もない” と打ち明けるに至るヒカル、その不器用な振る舞いの愛おしさよ。

 とりあえず1年目では数多くの苦艱を遠ざけることに成功したヒカルですが、ヴィーナスアークAKAボーグが殴り込みをかけてきたとあっては、その心労は頭髪が全て禿げ落ちるレベルかもしれませんlikeピカード。もちろん彼はクルーたちを護るために全力を尽くすでしょう、たとえ自らの命を危険に曝してでも。果たして諸星ヒカルに安息の日々は訪れるのでしょうか。姉の死からアイドルたちの mortality に沿い続けることを請け負ったこの男は、ついに自分の命が尽きるその時まで仕事を続けるつもりなのかもしれません。きっと我々が「ちょっと休みなさいよ」と言っても聞く耳を持たないのでしょう。その頑なさに栄えあれ。誤れる弟よ、君に安息の時が訪れないのならばせめて、終わりのないララバイで眠れ。




◎Family of The Black Sheep(族長エルザ様)

“エルザは、これまでのどのライバルよりも強烈な存在として、ゆめたちの前に立ちはだかります。まさに「倒すべき敵」という感じです”
アニメディア2017年4月号109P 柿原優子インタビュー



「倒すべき敵」。ついにきましたね。『アイカツ(スターズ)!』で明確に「敵」と設定されたのはこれが初ではないのでしょうか。そうでなくては。前シリーズ二年目終盤の展開をどうこう言うつもりはありませんが、ヴィーナスアークの場合は「出会って数話経ったらもう隣のクラスくらいの感覚で仲良くなっていた」パターンには行かないというのがもう明言されているわけです。



 ところで、エルザ フォルテ様のデザインがもう本当に素晴らしすぎます。立ち居振る舞いから既に高貴な人だというのはわかるのですが、長く豊かな髪が二色に分かれているのでターバンか帽子を着用しているようにも見えるのがよすぎる。こういう高貴で強みのある人物を前にして「族長」と呼び慕いたくなる気持ちを抑えるのは難しいでしょう。そういえば今年『ワンダーウーマン』が公開されますが、「族長感」は2017年キャラクターデザインの一つのトレンドとして記憶されることになるのかもしれません。
 それとは別の意味での「族長」ですが、私は『アイカツスターズ!』のユダヤ性を重んじます。神は視えないし、箱舟だし、しかも族長(エルザ)が羊(花園きらら)を率いているし……という、前シリーズがあまりにもキリストの方向に行きすぎた揺り戻しなのか『スターズ!』はユダヤ的なほうに寄っている、というのは重要です。

 ヴィーナスアークは族長エルザが世界中の羊たちを集めた船なのかもしれませんが、羊は羊でもブラックシープのほうなのでは? と考えることもできます。花園きららはニュージーランド出身のモンゴロイドのようですが、そんな彼女がエルザに惹かれてヴィーナスアークに乗る、この自らすすんで故国を捨ててる感(『未来トランジット』がそうであったような「二重の異邦人」)。そこには同じ日本人名の騎咲レイもいれば世界各国のアイドルたちもいて……というような、この移民的・混血的・バベル的な共同体(=ブラックシープ群)がヴィーナスアークだったらいいなあ。だっていろんな人種がごっちゃになったトライブとか最高に決まってるじゃないですか(もちろん平和的に暮らせてるならの話ですが)。単に実力だけ見込まれてかき集められただけの集団ならバビロンですが、世界中で行き場のない「のけもののけもの」たちが参集した船がヴィーナスアークであってほしいし、そんなブラックシープたちが集う旗印がエルザ フォルテ様であってほしい、と、今から夢が膨らむばかりです。

 四ツ星 VS ヴィーナスアーク、あるいはエンタープライズ VS ボーグ、周 VS 殷(エルザ・きらら・レイ三人のバランスが妲己・胡喜媚・王貴人なのもまたツボなところです)、あるいはポエニ戦争でも赤壁でもシビルウォーでもいいのですが、そういう敵対関係が『星のツバサ』シリーズのメインに据えられることは間違いないでしょう。もちろん戦闘手段は歌や劇やダンスや衣装です。藝術というピースフルフォースを使って斬り結ばれるサーガがいったいどういったものになるか、どれほど期待しても足りないというものでしょう。

 よろしければ姉妹稿ともお戯れください。
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